童貞非処女になった話

※この記事は2013年3月7日に書かれた記事です。現在は童貞非処女ではありません。

 

私は昔から根暗な童貞である。
高校時代、同類の友人がいた。
 
お互いに大学生となり、自分は関西に残り、彼は関東に行った。
それからも、Skypeを通じてたまに話していた。
そんなある日の昼ごろ、彼はSkypeで話しかけてきた。
 
 
掘られそうだ
 
 
と。
いわく、ネットゲームで知り合った友人を下宿に泊めたところ、バイセクシャルだったらしい。
夜になると豹変。寝込みを襲ってきたらしい。
 
自分は驚きはしたが、どうせ他人事だと思い、「何事も経験だし、やってみたらいいんじゃないの?」と返した。
そして次の日の昼のチャット。
 
 
【速報】掘られた
 
 
おう。
そうか、掘られたのか。
驚きながらも、詳細を聞いていった。いわく、尻の穴に挿入されて痛かったとのこと。
リアルに「アッー」と言っちゃったそうだ。
フェラもごっくんもしたと言っている。正直言ってちょっと信じられなかった。
 
そしていわく、なんと今もSkypeをしながらヒザに乗ってきたりして、相手の方はずっと勃起しているそうだ。
いったい、どういうことなんだ?
ちょっと前まで自分と同じ根暗だと思っていた友人。自分と同類、仲間だと思っていた童貞。
 
そのとき、自分は「負けた」と思った。
同類だと思っていた友人が突如として次のステージに進んだのだ。
それも、脱童貞といったようなありふれた話ではない。彼は非処女だ。なんと言っても童貞非処女になったのだ。
 
自分と同じだと思っていたものが、実は先に進んでいたときに感じるもの。
それは劣等感だ。
 
そこで、私は友人の相手のことを聞いた。もしよければ紹介してくれないかと。
「なんか、お前には紹介したくない」と一度言われ、すぐにまたあの感覚が襲ってくる。
彼が勝者だからなのか? 恋愛で言うところの独占欲というやつなのか?
 
 
どうにか紹介してもらうに至った自分は顔写真を交換した。
それがまたなんともかわいいのだ。失礼な話だがそこらの女性よりかわいいと思った。
二次元で「ボクっ娘」や「男の娘」等の属性を好んで消費してきた自分からすればなおさらだ。
 
中学時代の同級生にバイセクシャルがいたのだが、思えば彼も中性的だった。
よく分からないが、ホルモンバランスとかが影響しているのかもしれない。
これはいける。いやむしろヤらせてください。
 
彼の一人称は「うち」だった。学校でも友人は女子ばかりらしい。
相手の方も自分とセックスしてくれると言ってくれて、俄然やる気が湧いてきた。
 
それから長い期間が空いた。実際にヤったのは学年も1個上がった後の夏休みだった。
というのも、相手の住んでいる場所は実は遠い。友人の下宿に泊まっていたというのも、たまたま都会に来たというだけの話だった。気軽に来れる位置にはないのだ。
その間も、自分は「男とヤれる」と言いふらしていて、周りからも「いい加減ヤれよ」と言われていた。
そして実際、私はサークルの先輩から『ひとりでできるもん ~オトコのコのためのアナニー入門~』を借りて、ローションで尻穴を開発していた。
友人が挿入されたときに痛かったというのだから準備が必要だと思ったのだ。お風呂で指を入れて試行錯誤している内に力の抜き方が分かった。指2本なら普通に入るようになった。
 
 
彼は京都に行きたいと言っていた。青春18きっぷを勧めるなどして、着々と準備を進めていった。
そしてその日がきた。青春18きっぷを使っていた彼は夜遅くになってから来たのであるが、友人も帰省していたため、最終的には3人で自分の実家に集まった。
彼に会ったとき、内心少し落胆した。写真の写り方を見るに、わざとかわいく見えるように撮ってるなとは思っていたが、実際に会ってみれば、男の見た目だった。
 
しかしまあ、来てもらったからにはヤるしかない。実家にいて1時頃だった。ワンチャンこのまま3Pまであるかと思っていたが、友人は「空気読んで帰るわ」と言った。
空気を読んでいるかどうかは分からなかったが、内心踏みきれないでいたのは事実だ。
3時頃になって眠くなってきた。彼が遠くから来たというのもあったので、一緒にシャワーを浴びることにした。
彼は少し恥ずかしがっているようだったが、自分は家の風呂でシャワーを浴びるだけという感覚なので気軽にすませた。
そして、自分の部屋にはベッドが1つあるだけだったので、ともかく同じベッドに入った。
 
*****
 
彼が言う。「寝るの? 寝るの?」
自分も少し気恥ずかしかったので、照れ隠しに何も言わずに彼の身体に触れた。
彼もそれに反応して触り返してくる。電気の消えた部屋の中で、自分は勃起していた。
 
自分が赤子だったころの母親を除けば、愛撫されるということは初めての感覚だった。
予想以上に感じた。自分は乳首が特に感じるのでそこを触られたり舐められたりしたとき、「声が漏れる」という感覚を初めて味わった。
隣の部屋では両親が寝ているのだが、バレたらどうするんだとは思ったが、漏れるものは仕方なかった。
いつしか、下の方にも手は伸びていった。私は強い刺激に思わず身をこわばらせた。
 
男の方が男性器のどこが気持ち良いか分かるとは聞いていたがなるほど、彼のフェラチオは上手いように思った。
自分はイかなかったが、かねてからのフェラチオを自分もすることにした。
男の見た目とは言え、中性的な印象を受けていた彼も、こっちの方は自分よりも男らしかった。
 
舐めてばかりでも始まらないと思い、早々にくわえ込んだ。ついでに手が空いていたので玉を触った。
しばらく続けていると彼は自分を止めた。至りそうだったのだ。自分は「いや、最後までいこう」と言った。
そして、自分の口の中にそれは出た。自分の部屋でやっている以上、床や布団は極力汚したくなかったというのが本音だ。
精飲は自分ので少しやったことがあったが、他人のでもできた。少しえずいた感じだったが、彼のお茶をもらうと、案外なんということはなかった。
 
 
そして最後は、挿入だ。童貞だとか処女だとか、そういう概念はこの挿入が象徴的に扱われてるからこそ強く意識されてしまうのだと思う。
コンドームなどはなかった。童貞がそんなもの持ってるわけがない。いや、準備しようと思えばできたのだろうが、友人もつけなかったと言っていた。コンドームをつけてしまえばやはり、一生敗北の苦渋を舐め続けることになるのではないかと思った。
もちろん、リスキーだとは思っていた。複数の男とヤっていたらしい彼にはエイズ検査を受けてくれないかと一度お願いしたが、断られた。せっかくのチャンスなのだから機嫌を損ねるわけにもいかなかったのだ。
 
準備していたぺペローションを指に塗り、自分の尻を慣らした。よし、今日も指2本は入る。しかし、彼のは入るだろうか。
彼はそれなりに熟練しているようで、自分が上、彼が下の、騎乗位と言うのだろうか。性知識に疎い自分は正確には知らないが、彼いわくその体勢が一番入れやすいのだという。
そのまま沈んでいった。案外すんなりと入った。友人と違ってほとんど痛いとは感じなかった。そして彼が上下に動く。つられて自分も上下に動く。
直腸に異物が当たる感じがした。前立腺を開発しているわけではないので、気持ち良いとは感じなかったが、面白い感覚だった。上下移動している内に抜けてしまった。
 
――ノリノリで書いている印象を受けるかもしれないが、このときには正直少しうんざりしていた。電気を消して触り合っている当初は興奮して勃起していたものだが、触り合っている内にこいつやっぱり男じゃないか、という感情が芽生えてきたのだ。自分のソレはすっかり萎えていた。
だから、抜けてしまったときも、「まあいいか」と思った。次は自分も挿入してみるかと思った。しかし萎えているのだ。
普段使っているオカズのことなどを考えて、なんとか勃たせたものの、いざ入れようという段階になってやっぱり萎えた。2回ほどやったがやはり萎えてしまう。
こうして自分はノンケだと確信したのであった。好奇心から男と触り合うことはできても、強く男だと意識した途端に性的興奮は冷めてしまうのだ。
 
*****
 
一緒にシャワーを浴びてすぐに寝た。
次の日、京都に行きたいと言っていた彼と、友人と共に3人で京都には行ったものの、特に京都らしいところに行くことはなかった。
しまいには、ゲーセンとかに行く始末。一度ヤってしまって、自分としては彼のことは――Skype上ではあんなに大事に扱っていた彼のことは――どうでもよくなってしまったのだ。
今では自分から彼に話しかけることはない。彼が話しかけてきたらテキトーに対応するという程度だ。
 
余談だが、金策に困っている自分は治験を始めようとしている。その健康診断で、HIV抗体は陰性だと出たのであった。

「センスのある奴」を殺したい

要約:漫トロピーってサークルで漫画を勧め合っているんだけど、「センス」が問われる。自分の「好き」な作品がみんなが「良い」と思う作品と一致しない。
自分の好きな作品はオタクでもサブカルでもない中途半端なものだ。
一般化して言うと、センスと近い問題に「教養」や「常識」といった問題がある。「教養」はだいたい知識なので、後からでもなんとかなる。「常識」は知識と感覚の間の「身体知」みたいなところあるけど、いちおう常識が大事な理由が明確なのでまだ身に付けやすい。でも「センス」を身に付けるのはめっちゃ難しい。だって「Aは良くてBは悪い」っていう美的な判断をする必然性がないんだもの。「たまたまそうなっている」だけなんだもの。
だから「センス」は社会的構築物。そしてセンスがない人を不当に差別するのはクソ。社会的構築物とは言え、ルールはルールだから、それを変えるためにはひとまず従っていかなきゃならんので、誰か僕がセンスを得るために助けてください。

 

京大漫トロピーと「ランキング」

 僕は大学にもう6年間もいるのですが、京大漫トロピーという「漫画を読むサークル」に所属しています。いわゆる「漫研」と違うのは、描くのではなく読むのが専門だというところです。読むのに特化しているだけあって「評論」要素が強く、毎年漫画を評論する会誌を発行しています。
 その会誌の中で、毎年「漫画ランキング」を作っています。その年に「動きがあった」漫画のランキング1位から30位までを作り、全員分集計して総合ランキングを作ります。まあ「動きがあった」と言ってもその年に始まった漫画を入れるパターンが一番多いように思います。
 その「ランキング」を作ることに顕著なのですが、漫トロピーの活動はある種の「啓蒙」にあります。「ワンピース」や「進撃の巨人」のような誰もが知っている漫画ではなく、「あまり世間には知られていないけども実は素晴らしい漫画や漫画家」を発掘する、そんなコンセプトが含まれています。
 誤解を恐れずに大胆に言い換えると、それは「漫画通だけが知っているセンスの良い漫画」をオススメするということでもあります。漫トロピーの中では実際、ランキングに限らず漫画を読む「センス」を競い合うような文化があります。例えばある作品を評論するときにしばしば「読めてる/読めてない」という話をすることがあります。皮相な読み方をしている人に「ちゃんと読めてる???」と煽ることもあります。

 

良い漫画/悪い漫画?

 同様に、ランキングを作るということは何かしら「良い漫画」と「悪い漫画」とを決めるということでもあると思います。なぜなら、はっきりと複数人のランキングを総合することによって順位が決まってしまうわけですから。一人のランキングを見れば「好き/嫌い」で順位が決まっていることもよくありますが、総合してみると単なる好き嫌いを超えた「良い/悪い」になっているようにも感じます。

 僕は漫トロピーで計6回ランキングを作る中で、この「好き/嫌い」と「良い/悪い」との葛藤を常にしてきました。つまり、単純に自分の好きな漫画を30作品並べるだけだったらそれは独り善がりで、そこに公共性がないということです。単に自分が好きな漫画だけではなくて、「他人に勧める価値のある」漫画もあるなと僕は感じています。だからランキングを作る際には、必ずしも上位に1年間で好きだった漫画を入れるわけではありません。「好き」と「良い」(勧める価値がある)とが両立した漫画を入れることもあります(もちろん「好き」だけで入れる漫画もいっぱいありますが)。

 この「好き/嫌い」と「良い/悪い」の二本の軸が混ざり合い、結果的に1位から30位という一本の軸ランキングを作るということがまさに「センスの競い合い」になってしまうのだと僕は感じています(もちろん、これは僕のランキングの作り方であって、他の漫トロ会員がどう考えているかは知りませんが、共感してくれる人もいるかと思います)

 

 「良い/悪い」という表現をしてしまうと、あたかも客観的な「センスが良い/悪い」というものがあるかのようですが、実際には社会的な合意によって(ランキングの場合は多数決で)「センス」なるものが作り出されているに過ぎません。漫トロピーにはランキング作成の前に自分の推したい漫画をうまく他人のランキングに紛れ込ませる、「政治」をする人もいます(ひどい場合はもはや「ゴリ推し」とも言えるでしょう)。これも一つの合意形成のやり方でしょう。

 

 しかし、ランキング作成の過程が客観的なものでないとしたら、「好き」と「良い」との境界線はどこにあるのでしょうか? 実は同じなんじゃないでしょうか。声のデカい人が「好き」なものが「良い」になるような権力が働いているのではないでしょうか。
僕はこの事態を自覚する前から、こんなことを言っていました↓

 

 2012年なので漫トロピー3年目のツイートですね。「政治」によって自分の私的な「好き/嫌い」を公的な「センスが良い/悪い」にしようとしている過程が伺えます。これは漫トロピーの一部にそういう「政治」的な文化があったということなんじゃないかなと思います(あるいは勝手に僕がうがった読み取り方をしているだけかもしれませんが)

 

「好き」と「良い」は一致するか~ホリィ・センの場合

 しかし、実際のところどうでしょうか。僕が「好き」だけじゃなくて「良い」(勧めたい)にも配慮した漫画ですが、例えば、2010年に1位にした『バニラスパイダー』(阿部洋一)や、2013年に4位にした『MAMA』(売野機子)、2015年に2位にした『つまさきおとしと私』(ツナミノユウ)ですが全体では30位前後や50位前後にしかきませんでした。

 一方、2012年に2位にした『人間仮免中』(卯月妙子)、9位にした『変身のニュース』(宮崎夏次系)は全体でも1位2位でした。

 また、2013年に7位にした『宇宙怪人みずきちゃん』(たばよう)や2014年に3位にした『レストー夫人』(三島芳治)、6位にした『満月エンドロール』(野村宗弘)は全体では10位前後でそこそこの順位でした。

 上記の漫画は全部「好き」だけじゃなく「良い」とも思った漫画なのですが、その「良い」が全体と合致しないことも多かったのです。もちろん、そもそも読んでない人が多い漫画はランキング上位にはきませんし、どの漫画が人気か空気を読んでみれば、「これはそんなに上位にはこないだろう」とか「これは上位にくるだろう」という予測は"ある程度は"つきます。しかし、僕にはやはり完全には分かりません。

 

「好き」と「良い」が一致する人々

 そして、そもそもそのような「好き」と「良い」とを区別するような配慮をする以前から、「好き」と「良い」が一致している人もいるように感じます。「好き」を強引に「良い」に変えるような「政治」をしている人もいるとは言いましたが、「政治」をしなくても最初から「好き」と「良い」が合致しているような人もいるのです(例えば、そういう人が上位に挙げた漫画は、全体ランキングでも上位にきたり、漫トロピー外の世間でもその漫画がちゃんと評価されたりする)

 例えば僕は漫画の神様と言われる手塚治虫の漫画が苦手で、とても読めたものではないと思っているのですが(そもそもそんなに読んでないけど)、そういう人は手塚治虫の漫画など、世間で高い評価を受けている漫画を好んで読むことができます(そもそも僕は古い漫画が苦手なんです。萩尾望都とか川原泉とか藤子不二雄とか頑張って読んでみても、ただただしんどいだけです)

 あるいは「サブカル」と言われる漫画を例に挙げてもいいかもしれません。近年流行りのサブカル系漫画家、めっちゃテキトーに挙げると例えば高野文子今日マチ子、西村ツチカ、市川春子田中相ふみふみこ九井諒子、宮崎夏次系、模造クリスタル、panpanyaとかでしょうか。挙げた中には僕が好きな漫画家もいますが、僕からすると全然理解できない漫画を描く人もいます。

 もっとマイルドに流行ってるのだと浅野いにおとかになるでしょうし、もっとディープに流行ってるのだとガロ、アックス系になるのでしょうか。
 いろいろ例を挙げましたが、そういう漫画の「良さ」を理解できるかどうかは世間的にはいわゆる「センス」だという話になります。しかし、「センス」ってなんなんでしょうか?

 

オタクとサブカル

 「センス」ってなんなんだ? という問題提起をしておいて、話はちょっと変わりますが、もはや死語となってしまった「萌え」という言葉があります。しかし、今の漫画・アニメ・ゲーム等のオタク界隈を見渡してみて、世間で「萌える」作品は何かということを考えると、僕の偏見では、ラブライブアイマスガルパン、そしていわゆる「日常系」(きらら系とも言える)なんじゃないかなぁと思います(女性向けだとヘタリアとかタイバニとかFreeとか、より分かりやすい流行がある気がする。今は「おそ松くん」が圧倒的に流行っているようですがそれはさておき)
 で、これらは「流行ってる」わけです。かなりの多数派が好んでいて、お金を落としているわけです。でも実は僕はこれも理解できないんです。ラブライブアイマスガルパン、「日常系」、どれもハマれませんでした。たぶん男性キャラが出てこなくて女性キャラしか出てこない系が無理なんだと思います。
 ところで、先ほど挙げた「サブカル」という言葉は「オタク」との対義語であることもあります。つまり、オタクが志向する「萌え」は即物的で低俗な感じがする一方で、サブカルは何か意味ありげで高尚な感じがします(あくまで感じです)。この対比から、サブカルの人は「センスの良さ」によって俗物的なオタクから差異化することで自意識を保っていると言えるかもしれません。
 しかし、数や売り上げだけで見るとたぶんオタク側の方が優勢です。数が多い方がセンスが良い、というわけでもないのです。

 

理解できないことの劣等感

 「オタク」と「サブカル」とを対比的に語りました。が、しかし僕はどっちもあまり理解できないのです。好きになるとしたら、流行ってなどいない中途半端なものばかりなのです(むしろkeyのエロゲだったりセカイ系作品だったりが好きなので、ゼロ年代的な時代遅れの感覚なのだと思います。ちなみにロボットアニメとかSFとかも弱いです)


 僕はこのような「理解できなさ」に劣等感があります。人とコミュニケーションが取りたいのに、「流行っている」ものが好きになれません。それは、「流行っているから好きになれない」というあまのじゃくではなくて、ただただ本当に「良さが分からない」のです。これが「センスがない」ということなのでしょうか?

ここまで長々と、漫トロピーや漫画内部の話、そして少しだけ一般化してオタクやサブカルの話をしてきました。しかし、それらも相当狭い界隈の話だということは皆さんもお分かりだと思います。この話を一般化します。

 

 

教養コンプレックス

 「センス」の問題について述べる前に近い話として「教養」についての問題について述べます。

 例えば、僕は教養がないのを恥じています。京都大学に入学してからというもの、上記のオタク的な教養だけでなく、文学、学問(特に人文社会科学)、音楽、文化(特に演劇とか)に対する教養がなさすぎて恥じています。しかも昔から読書の習慣がなかったために、そういった教養を今から得るのにも苦労しています。周囲の京大生は大学入学以前からそういった教養に得ている人間が多いのです。

 例えば、僕は新鮮な驚きを得ています。漠然と理学部で入学し数学をやろうとしていたものの、授業を受けてみると精神分析や心理学、哲学やジェンダー論、社会学などに惹かれ、転学部しました。周りの京大生は授業が面白くないと言いますが、僕にとっては大学の授業は新鮮な驚きに溢れた楽しいものです。

 これらは別の言い方をすれば「文化資本」の差と言えるでしょう。育ちの良さとかいうやつです。僕はよく僕以外の家族全員が高卒であることを「自慢げに卑下」しますが、生育環境においてさまざまな文化に触れられなかったことを半分恨んでいます。ただ、残りの半分では生育環境に感謝しています。人間はおそらく、親から押し付けられた文化や、「そこにあるのが当たり前」の文化を深く追究しようとすることが少ないからです。僕は人文社会科学に大学生になってから触れたからこそ、新鮮な驚きを以って好きになり、それを研究しようという強い力があるのだと思います(だから今は社会学を専攻しています)。

 このように、僕の中では「教養」はある程度決着のついた問題です。もちろん教養コンプレックスは常に持ち続けるでしょうが、それがあったからこそ今、社会学を専攻して研究することができているのだと思います。だからこれは良かったのだ、と思っています。

 「教養」は大部分は「知識」の問題です。しかし、ここまで述べてきた「センス」は「感覚」の問題のようにも思えます。「センス」について考える前に、おそらくその中間ぐらいにある「常識」(英語ではコモンセンス)について考えてみます。

 

常識という身体知

 常識が問題になるときを回想してみると、例えば、僕は父親にさんざ「そんなん常識やろ」と、無知やマナーのなってなさをなじられてきました。父親からすれば当たり前に理解できることが僕にはどういうわけか理解できなかったわけです。

 例えば、ある人に店員に対する態度がそっけないことと、水を他人の分まで入れないことを咎められたことがありました。僕は店員は他人なのだから愛想を良くする必要はなかったし、水を入れるペースは個人の自由なのだから本人に任せるのが普通だと思っていましたが、いずれもできれば印象が良くなってコミュニケーションが円滑になることを考えると、やった方がいいことだと思い改めるようになりました。

 この他にも、挨拶ができることなどはいわゆる「常識」に含まれるでしょう。
しかし、その「常識」はどうすれば知ることができるのでしょうか。挨拶はある程度学校が教えてくれるでしょうが、水を他人の分まで入れるなんてことは学校が教えてくれるわけではありません。僕は「コミュニケーションや恋愛を学校は教えてくれない」ということを以前に書きましたが、だからこそ差がつきやすいのだと思います。やはりこれもまた生育環境の問題になります。「マナーをちゃんと教える家庭の子どもはマナーがいい」、そういうレベルの話だということはまず言えます。

 ただ、これだけだと「教養」と同じです。「常識」においてはもう一つポイントがあります。それは「知っている」ことと「できる」ことの間に大きな壁があることがある、ということです。例えば、僕が小中学生のときに、狭い机と椅子の間を同級生の女子が通ったとき「ごめんなさい」と言っていました。それはもはや無意識に言っているように感じました。「身体化」された知識だということです。それに対して僕なんかは、挨拶を自然にできないことがあります。「今は挨拶をする場面だ」という意識を持って初めて挨拶をする、なんてことが珍しくありません。前者の女子が自動的に挨拶をしているのに対して、僕は意識しないとできないことがある、というわけです。

 この女子と僕との間の差異はなぜ生じたのでしょうか? 確かに、一つには家庭環境もあるかもしれません。しかし、僕の実感では「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うことの必要性は親から何度も教わってきました。ここに大きな差はないように思います。
おそらく僕が思うに生得的な差、つまり才能の差もあるんじゃないかということです。挨拶をすべき場面になったら自動的に挨拶ができるような身体知を得るのが上手い人と、それが下手な人。その差なのかなと。

 しかし、このような「常識」もまた、一度知ってしまえばなんとか訓練して身に付けることはできる範囲のものだと思います。実際僕はこの約3年間、主にサークルクラッシュ同好会の活動を通じてコミュニケーションに関する研究や訓練を重ねてきました。そのため、それなりに上手くコミュニケーションができるようになったという自負はあります。

 さて、問題なのは「センス」です。

 

必然性のないセンス

 オタクについて語っているところで、「良さが分からない」という話をしました。これがまず問題になります。一般化すれば、美的センスの問題です。例えば絵を見たり音楽を聴いたりしても、「なんとなく好き」ぐらいはあります。しかし、その法則性が僕にはよく分かりません。しかも、世間には「上手い絵」と「下手な絵」や、「良い音楽」と「悪い音楽」があるというのですから困りました。そりゃあ、子どもが描いた絵と絵の上手い大人が描いた絵だったら明らかに大人が描いた絵の方が綺麗だなというのはなんとなく分かります。しかし、一定以上上手い人同士の絵の違いなんて僕には分かりません。音楽なども同様です。

 その他、僕は人間と直接関わるものやコミュニケーション以外には興味がなかなか持てないという話をしたことがあります↓

holysen.hatenablog.com


 ツイッターのプロフィールに書いていますが、具体的には自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)、旅行、食べ物、酒、タバコ、コーヒー、ペット、ミステリ小説、小説等における風景描写などに興味をなかなか持てません。というのもやはり「良さが分からない」からです。食べ物なんかでも好き嫌いはあるにはあるし、どういう系統が好きでどういう系統が嫌いかも分かるんですが、細かい違いが分かりません。一定以上おいしいと思ったらほぼ同じになってしまいます。

 あといくつか例を挙げます。例えば顔の良し悪しが僕にはあまり分かりません。極端な話、茶髪の女子大生を見るとみんな顔が同じに見えます。例えば「好みのタイプの顔」も明確にはありません。髪が短い人も髪が長い人も好きです。同性でカッコイイと思う人もバラバラですし、芸能人で顔が良いとされている人の顔を見ても、何が良いのかピンときません。僕が「ブス」という言葉が使えない理由はこれもあります(もちろん差別的だからというのが大前提ですが)。

 ここまでの例だと「言葉以外の感覚」が僕には分からないようにも思われますが、実は「文章の上手い下手」も僕にはあまりよく分かりません。分かりにくい文章と分かりやすい文章との違いはある程度分かると思いますが、文学的・詩的センスみたいなものがよくわからんのです。文学作品を好む人の間で「好きな/嫌いな文体」が話題になることがありますが、そもそも僕には違いが分からないことも多いですし、分かったとしても好きとか嫌いとかがよく分からないのです。

 

 このようなセンスがないことによって、劣等感をおぼえることがあるのは一つ問題ですが、何より実際に困ることが多いというのが一番の問題です。

 具体的には衣食住の問題で困ります。衣食住は人間が文化的な生活を送る上で基本的なものです。そのため、まず第一に重要になるのは機能性でしょう。衣においては体温調節や身体の防御の機能、食においては栄養摂取の機能、住においては温度調節、利便性等々。これに関してはよく分かりますし何の問題もありません。問題なのはそこに「美」が介在してくることです。
例えば、服装によってモテたりモテなかったり、キモがられたりするわけです。料理や食べ物によって強くコミュニケーションが促進されたり感覚が共有できたりして、人と人との距離が近づく大きなキッカケになるわけです。住んでいる場所の美しさもまた、服装と同様に人間自身の評価と直結するわけです。

 僕はこの約3年間でコミュニケーションは身に付いた気がしますが、この衣食住の美的判断はからっきしダメです。確かに、サークラお姉さんサークルクラッシュ同好会のご意見番の一人。現在はOG)の助けを借りて服を買ってみたり、実家を出て自炊することでオムライスが作れるようになったり、洗い物や洗濯やゴミ出しみたいな家事が普通にできるようになったといった成長はあります(以前の僕からしたら"圧倒的成長"だと思う)。これからも徐々に身に付いていくところはあるでしょう。しかし、そもそも根本的にセンスが絶望的なのです。服の似合う似合わないとか合わせ方とかがやっぱり分かりません。少ないご飯をでかすぎるお茶碗に盛ったり、朝のシリアルをみそ汁を飲む和食器に入れたりしたら呆れられました。何も僕は奇をてらってこういうことをしているんじゃないんです。本当に良いことと悪いことの区別がつかないんです。ちなみに僕は「ダサい」という言葉をなかなか使わないのですが、その理由は自分の美的判断に自信がないからです。

 

①なぜこのようなセンスが僕にはないのでしょうか?

②このようなセンスはこれから身に付けることができるのでしょうか?

③そしてこのようなセンスのない人はどのように生きていけばよいのでしょうか?

 この三つの問いに以下で答えます。

 

ホリィ・センの服装について(①の解答)

 まず、なぜ僕にセンスがないのかという問題ですが、これもやはり「常識」のときと同じ解答になるでしょう。生育環境と才能です。まず生育環境から語りましょう。恥ずかしながらずっと母親に服を買ってもらって、家事も全部やってもらっていた身としては、そのようなセンスを身に付ける機会がありませんでした。最近になってそういう機会がようやくやってきた、ということです。
 もちろん、買おうと思えば服は買えただろうし、料理もやろうと思えば実家でもやれるという反論はできます。しかし、必要性がない以上やらないですし、服に関しては自意識の問題も介在してきます。幸い「男は仕事、女は家事」のような古いジェンダー規範を内面化しているわけではないのでその影響はないのですが、「オシャレをしようとする自分」にたまらなく耐えられなかったのです。例えば何か服を自分の好みで買ってみて着てみたとして、それを他人に笑われるのを想像すると死にたくなります。要するに自分のセンスに自信がないんです。失敗して笑われるのが怖いんです。
 そうして僕は服装について頑張らない自分を合理化しました。僕は高校生のとき、学校では一年中半袖カッターシャツ、一年中タンクトップ半ズボンというのを通していました。今にして思うとこれは「服装」問題からの逃避だったのです。そういうキャラを作ることによって服装について考えなくて済んでいた、それがとても楽だったのです。言い換えれば「オシャレ」がすっぱいブドウになっていたのです。

 

 そして、才能についてです。最近になってようやく服を買える環境が整い、自意識の問題もだいぶ解決しました。でもやっぱり先ほど述べたようにセンスがありません。これはもちろん、経験が足りないということもあるでしょう。しかし、よくよく考えてみると様々な人が服を着て街中を歩いているわけです。センスのある人が人々を意識的に観察すれば、服装における良い悪いはそのうち分かってくるように思います。ファッション雑誌に載っているスタイルの良い悪いもおそらく分かるはずです。

 そこには才能の問題も絡んでいると僕は思います(センスがない自分を正当化するためにそう思いたいだけかもしれません)。では、生得的な才能のない人はセンスを身に付けることができないのでしょうか? 二つ目の問いです。

 

経験を積むことの可能性(②の解答)

 身に付けることができない、とまでは思いません。「常識」について述べたところで、意識的に訓練することで挨拶もできるようになるという話をしました。これはセンスについても当てはまると思います。しかし問題なのは先ほども述べたように「必然性」がないことです。なぜAはセンスが良くて、Bはセンスが悪いのか、それが分からないのです。「常識」の場合は論理的に理解できることばかりなのでまだしもなんとかなります。しかし、センスの方は論理的に理解することが困難なのです。

 こう言うと、発達障害の問題にも関わってくるように思います。ある発達障害においては、挨拶を身に付けることが難しい人もいるようで、そういう人は「常識」の面で苦労するでしょう。また、顔の区別をつけたり、色の区別をつけたりするのが苦手な人もいるようです。そういう人が美的センスを身に付けることはかなり難しいでしょう。

 とはいえ、僕はおそらく発達障害ではないでしょう(少なくとも重度なものではないでしょう)し、経験を積むことで身に付いたものもあります。例えば、僕は演劇をやったり、その枠組みでアニメを観たりしている中で「演技」の良し悪しは分かるようになった気がします。声の強弱高低緩急や動きのキレ、共演相手の掛け合いが噛み合っているかなど、判断するための軸がちゃんとあります。これは僕が長い間「演技」に触れてきた賜物でしょう。

 だから、身に付くスピードは遅いかもしれませんが、相応の経験を積むことによって身に付きうるのだと思います。そこでポイントとなるのはちゃんと必然性を理解するということです。センスの良い人は「なんとなく」で分かるらしいのですが、僕にはそれが無理です。だから、ちゃんと理由を確かめるようにしています。よくよく突き詰めてみると、「必然性があってそうなっている」ものは世界にはたくさんあります。もちろん理由がなく「たまたまそうなっている」ものもたくさんあると思います。そのときは「そういうものなんだ」と受け入れるしかないので、パターンを覚えることが必要になってくるでしょう。

 

美という社会的構築物

 そもそもなぜ、理由なく「たまたまそうなっている」ものがあるのでしょうか? ここで理解の助けになるのが「本質主義構築主義」という考え方だと思います。例えば顔の良し悪しを語るときに、目の大きさや鼻の高さ、輪郭や肌の色など、様々な観点があります。しかし、目が大きい方がいいのか小さい方がいいのか、鼻は高いほうがいいのか低い方がいいのか、輪郭はゴツゴツした方がいいのか細い方がいいのか、肌は黒い方がいいのか白い方がいいのかなどは国や文化によって異なります。

 つまり、本質的に「美しい」とされているものがあるわけではなくて、ただただ「こういう顔が美しいですよ」という社会的な合意が存在するだけです。それが文化として沈殿し、いつしか「当たり前」になったわけです。だから、同じ国や地域であっても時代が変われば美しい顔が変化することもあります(よく言うのは平安時代に美しいとされた女性の顔は、いわゆる「おかめ」のような顔だという話。現代とは著しく異なる)

 つまりこれらはたまたま社会的に構築されたものなのです。もちろん、本質的な美も少しは存在するのでしょうが(例えば、「黄金比」や「機能美」、進化心理学的な話によって説明されるもの)、大きなウェイトを占めているのは社会的構築物だと思います。

 

センスのない人への差別と責任(③の解答)

 ここまで語った上で三つ目の問いに移りましょう。センスのない人はどのように生きていけばいいのかという話です。まず僕が声を大にして言いたいことは、センスがないことによる不当な差別をすることはいけない、ということです。不当な差別とはなんでしょうか。抽象的に言えば、僕は「責任のない人間に責任を押しつけること」がその代表例だと思っています。例えば、発達障害によって生じる問題については本人に責任がある範囲は少ないでしょう。発達障害に限らず、「できない人間」に対して「それは甘えだ」というような自己責任論、シバキ主義を僕は嫌っています。

 社会学の世界においても、「障害」という日本語は英語ではimpairmentとdisabilityに分かれるという議論があります。障害は障害者に内在的な障害(impairment)であるというよりも、外部の社会の側が何かをできなく(disableに)しているというものです。バリアフリー化がわかりやすい例ですが、社会の工夫次第で、障害は障害ではなくなるわけです。この考え方においては責任は本人にあるのではなく、社会にあるわけです。

 もっと具体的な話をしましょう。人間には得意不得意があります。勉強が得意な人もいれば、絵を描くのが得意な人、スポーツが得意な人、またこれまで述べてきたような「常識」がスムーズに身に付けられる人や、衣食住における美的センスのある人もいます。

 これらはたまたま得意なだけです。しかし、その「得意なもの」のそれぞれは、社会生活と深く関係しているものもあれば、ほとんど関係していないものもあります。思うに「リア充」が「オタク」を差別するようなよくある構造は、別の言い方をすれば「たまたま得意なものが社会適合的だった人」が「たまたま得意なものが社会適合的ではなかった人」を差別しているということだと思います。人間のリソースは限られていますから、何を得意になるかは選ぶしかないように思います。

 しかも子どものうちはしばしば「自分で選べる」のではなく、たまたま親や環境によって決められてしまうものです。そこには、人生を左右する大事な決定が、責任能力のない子どもの内に行われてしまうという問題があるのです。それによってたまたま社会不適合になってしまった人を差別する(責任を押しつける)ことはおかしいと思います。なぜなら、その選択には責任がないからです。

 

できることとできないこと、環境決定論

 ここまで他人に対する差別の問題について語りましたが、「自分がどのように生きていくか」はまた別の次元の問題です。「できないことをできるようになるために自分をシバいて成長できるよう頑張る」のか、「無理にできないことをやろうとはせずに、得意なことだけをやって生きていく」のかは微妙な問題だと思います。
 例えば、恋愛をしない人がいたとして、その人は恋愛をそもそもする気がないのか、それとも「したいのにもかかわらずできない」のかどっちなのかによって大きく問題は変わってくるように思います。そもそもする気がないんであれば、する必要はないと僕は思います。確かに全員が恋愛をせず、結婚をせず、子どもを生まないということになれば人類は滅亡するので問題はあるかもしれませんが、少ない個人の選択としては自由が認められるべきでしょう。

 「したいのにもかかわらずできない」人については「できるようになる」方が本人の幸福にとってはおそらく良い場合が多いでしょう。だから「成長できるように頑張る」という選択肢が良いとは思うのですが、ここで勘違いしない方がいいと思うのは「頑張る」の意味です。恋愛するために何かしら決心をしたところで、本当にその決心の通りに動けるのでしょうか? 恋愛を勉強に置き換えてみたら分かりやすいかもしれません。「勉強したいけどできない」という人が勉強しようという強い意志だけで勉強できるでしょうか? 僕はなかなかできないと思います。これは僕の人間観なのですが、人間はそんなに強いものではありません。自分の好きなこと以外をやるのは苦痛なんです。そこで重要になるのは「意志」ではなく「環境」です。具体的には、物理的な環境だけでなく、周囲の人間関係も含めた環境を構築することが大事だと僕は考えます。このような「環境決定論」的な考え方についてはまた別の記事で述べたいと思います。

 

社会を変えるための社会への順応

 社会構築主義について述べると、「社会に責任があって、自分には責任がない。だから自分は頑張らなくていいんだ」と述べていると勘違いされるのではないかと恐れます。そういうわけではありません。僕らは社会というゲームに既に投げ込まれてしまっています。だからひとまずはそのルールに従うしかありません。しかし、そのルールは変わりうるし、変えられうるということが社会構築主義から得られる学びです。

 漫トロピーの2011年ランキングで『バード ~最凶雀士VS天才魔術師~』という漫画が全体ランキング1位になりましたが、これは漫トロピー内でもかなり多くの人が予想していなかった展開でした。「センスのある人」が常に勝利するわけではありません。なぜなら、その「センス」は社会的に構築されたものなのですから、今センスのある人が、10年後にはセンスのない人になりうるわけです。

 だから、僕は自分や自分が好きな人が生きやすくなるように社会を変えたい。変えられると信じています。しかし、社会を変えるためには多くの人から認められなければなりません。ということはやはり既存のルールにおける「センス」が重要になってくるわけです。「センスのない人でも生きられるような社会を作るために、センスを身に付けなければならない」というのは逆説的ですが、どうしようもない事実だと思います。だから僕はセンスを身に付けたいです。

 しかし、先ほども述べたようにこれは僕自身の意志だけではどうにもなりません。環境の力を借ります。周りの人間の力を借ります。他力本願です。どうか僕を服屋に連れていってください。何が良くて何が悪いのかを教えてください。僕がセンスを得るための行動できるように、興味を喚起してください。お願いします。

 

追記

 「差別」って言葉を使ったらこわい人から「どういう意味でその言葉を使っているんだ」みたいなツッコみを受けました。正直、後になって見返すと「差別」って言葉はあんまり適切じゃない気がしてきました。「差別」は「同等の扱いをすべきなのにもかかわらず、異なる扱いをすること」だと定義できると思うんですが、僕の主張は「能力の異なる人間に同等の水準を求めるのは酷だから、能力に応じた異なる扱いをすべきだ」ということなんで、むしろ「区別しろ」って言ってます。だから「差別」って言葉にはあまりそぐわないですね。センスのない人への「攻撃」とか「バッシング」とかに読み替えていただいた方が多分分かりやすいです。

 まあ、言いたかったことは「人が社会に適合できるかどうかは基本的に本人の選択の問題ではないので、社会に適合できないことの責任は薄い。だからそれに対するバッシングはみんなやめようね」ということです。

父親が死んだことについて

二日前に父親が死んだ。兄から電話がきて、兄は嘘をつくような人間じゃないことは分かっていたから、とりあえず父親が死んだという事実を認識した。しかし、現実感のない話だった。とにかくその場で一気にいろんなことを考えた。

 

父親は一言で言えば、神経質でコスパ厨な人だった。マイペースな母親に対していつも文句を言っていて(それこそ食事のときは3回に2回ぐらい文句を言っていたように思う)、僕が何かしら失敗をするたびに口うるさく怒られた。僕は正直父親が恐いとも思っていたし、何か言いたいことがあっても言えなくなっていた。でも、母親は人の話を聞き流す能力の高い人だったから、精神的に不安定になることはなく、すごくバランスの取れた良い夫婦だなと思っていた。
コスパ厨に関して言えば、倹約家で、クーポンや無料券、割引、懸賞などの類が好きで、贅沢もあまりしなかった。パソコンが好きだったから、Windows95の時代からパソコンにはお金を使っていたし、家も建て替えてローンを組んでいたし、車も買っていたし、使うときには使う人ではあったのだが。タバコをよく吸う人で、酒飲みでもあるのだが、酒はそれこそ、昔は焼酎ばっかり飲んでいて、最近は安い赤ワインばかり飲んでいた。
いくつかエピソードを挙げよう。冷暖房の使用にはうるさかったし、僕があるときエアコンの暖房を使っていると、「室外機が凍っていてエネルギー効率が悪くて電気代が高くつくから、これを使え」という旨のことを言って石油ストーブを部屋に持ってきたことがある。そういえば、風呂に入れと言われて、「明日家出る前にシャワーするからいいよ」と言ったら、湯船にある湯の熱がもったいないという文句を言われたこともあった。
最近はテレビをよく録画して1.3倍速で観ていた。通常で観るのはコスパが悪いようだ。キーボードもかな入力だった。それはコスパ厨関係ないか。
極めつきはよく笑い話にしている「エクセル寿司」の話だ。家を出るのがしんどい祖父母と出前で回転寿司を食べることがよくあった。その際に父親はエクセルファイルをパソコンにメール送信してくる。エクセルファイルには横欄に家族の名前、縦欄に寿司ネタの名前があり、それぞれに例えばマグロ1 なっとう1 ……などと数字をつけると、合計何皿かが出るようになっている。そのファイルをまた添付して送り返す。それで父親は集計して注文し、印刷していた。このシステムによって家族みんなが好きなネタを好きな分だけ食べられるという寸法だ。あきんどスシローにおいてはセットの割引は本当に大したことがないので、この方法を取るのが合理的だった。そもそも、僕は三兄弟の末っ子なのだが、食べ物の量で不公平が生じるとケンカになるということが小さい頃は多少あったように思う。今にして思うとそこまでケンカは生じていないように思うが、神経質な父親は食べ物の量が均等になるように注意を払っていて、母親が割り切れない数の食べ物を出すと文句を言っていた。寿司に関して言えば、「エクセル寿司」が完璧なシステムだということだ。

 

そんな父親だったが、僕は父親に対して自分がやっていることを言えなかった。僕は今まで自分がやっていることに後ろめたさがずっとあったのだ。しかし、今や僕は自分の勉強していることや活動に自信を持ち始めているし、そろそろ両親にも話そうかと思っていた。あるいは、何らかの形で有名になることによって、立派な姿を両親に見せたいと思っていた。それが一種の親孝行になるとも思っていた。
しかし父親は死んだ。たとえ立派になってもその姿を見せるべき重要な相手である父親はもういない。僕はそれがたまらなく悲しかったし、なんで死んだのかと泣いた。そのとき近くに人がいたからすぐには泣けなかったけど、一人になったときに泣き叫んだ。
もちろん、物理的な支援がストップするであろうことも苦しい。残された母親や兄、祖父母などはどんな気持ちなのだろう。いろいろ想像するとまた悲しくなった。

 

とにかくその場をやり過ごし、次の日もやり過ごした。いくぶん気丈に振舞っていたが、どうもいろいろ考えてしまって身体が思うように動かなかった。プチ鬱みたいな状態だった。そして、今日の朝に実家に帰った。今日は葬式だった。

 

地元の駅に久々に帰って、けっこう長い間帰ってなかったことに気づく。元々1月3日はそれこそ「エクセル寿司」の予定だったので、帰る気だった。しかし、兄の電話を受けてそれはナシになったのだった。
実家に着くと母親が出迎えてくれた。母親はとてもつらそうだった。僕もすごくつらくなって涙が抑えられなかった。父親の死の原因を尋ねたが、不明だという。1月1日には父親からはメールがきていたのだ。2日の夜に腰が痛いと言って病院に運ばれ、痛み止め・点滴を打たれてもずっと痛みを訴え続けていたそうだ。「水が飲みたい!」と言ったそうだ。しかし、点滴中はもどしてしまうために飲ませることができず、脱脂綿を口に含ませるぐらいしかできなかったそうで、そして吐きそうになったかと思えば呼吸が停止したそうだ。人工呼吸をしても意識は戻らなかったとのことだ。
母親からその話を聞いて、兆候がなかったかどうかを聞いたが、耳鳴りがしていたり下痢があったりといったぐらいだったそうだ。本当に急死だった。初詣で階段をのぼったのが良くなかったのだろうか、もっと優しくしていたかったと母親は言った。母親のその調子がすごくつらかった。僕は実家に置いてある新聞を眺めてみたりしたけど、父親のことを考えるとどうしようもなくて泣くしかなかった。鼻水がすごく出てティッシュで鼻をかみまくった。父親は苦しんで死んだのだと思うと悲しい。僕自身も苦しくなる。せめて苦しまずに死んでほしかった。苦しんでいる父親を眺めていた母親はどんな気持ちだったのだろう。

 

久々に帰った家は父親の痕跡に満ちていた。最近の父親はよく家にいて、パソコンを触ったりテレビを録画で観たりしていた。父親は凝り性な人だったから、家の中で父親にしか分からないことはいっぱいあった。母親が「父親のやっていたことが自分には分からない」と言っていてつらかった。お父さんはなんでこんなに早く死んでしまったんだろう。

 

兄にはこれからのことを聞かれた。僕は家族とはできるだけ腹を割って話す覚悟で帰ってきたから、一応自分が今考えていることを述べた。僕は母や兄がいるところでも泣いてしまったし、まともに兄の顔が見れなかった。相手の気遣いに対して気遣いをしている/されているような、そんな感覚だった。

 

・兄の運転で葬儀場に向かったのだが、何か一つ一つの動作が神経症的に安全志向になっているように思えた。肉親の死はこれ以上見たくないという気持ちなのだろうか。

 

・葬儀場は山の上にあり、まさに俗世間から分離された聖なる空間という感じだった。葬儀自体もそのようだった。明確に日常世界から分離した作業が必要なのだと思ったし、僕は今まで葬儀をバカにしていたが、遺族のためには葬儀は必要なのだと肌で実感した。

 

・葬儀や告別式の儀式的順序はある意味神経症的でありながら、それほど神経質なわけでもないので、うまいこと神経症的な状態を解除する力があるように感じた。なるほど、葬式とはよくできている。

 

・父親の姉である叔母の家族がきていたが、いつものノリでうるさい感じだった。しかしそれが沈痛な雰囲気に対してはありがたかった。いくらか気分が和らいだ。しかし、そんな叔母や祖母も、葬式や告別式の場では感情を隠さずに泣いていた。なるほど、女性の方が感情を素直に出す傾向にあるのだなあと思った。感情を素直に出す人が場にいることはすごくありがたかった。僕も父親の死は本当につらいのだから、泣くことを抑圧したくはなかった。母親や兄は葬式を取りしきる責任感から少し抑圧していたように感じたが、父親の死の直後には既にけっこう泣いたのかもしれない。母や兄も明らかに疲弊していた。

 

・葬式で見た父親の顔は赤みがあり、普通に寝ているのと変わらなかった。死化粧の話を聞いたこともあるが、父親に対しては全然施されていない。ドライアイスだけだということだ。何も違わない。しかし、視覚情報には重みがある。僕は父親の顔や遺影を見て、やっぱり何回も泣いてしまった。

 

兄の父親に対する視点は僕とはけっこう違った。迷信的なこともけっこう言っていた。死んだ父親が今もそこにいるかのような話を叔母や母もしていた。母は父親のことを現在形で語っていたし、父親が生きている感覚で喋っていた。母親の中では父の死はまだ受け入れられていないのかもしれないなどと考えた。
僕は唯物論で考えるから、死んだら人の感覚や認識はなくなると考えてしまう。しかし、それはけっこうキツい考え方だ。葬儀は仏教式だったが、仏教的な世界観において、死者が旅立っていく。そんな風に考えた方が、死を受け入れるのはやりやすい。みんないろんな考え方をしている。

昔、友人が「誰かが死ぬと、死んだ人の周りの人たちが階層化されてしまう」というようなことを言っていた。図で表すとこんな感じだろう。

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人間はコミュニケーションをする上で、共感することがある。一方で、テレパシーのようなものはないのだから、他者の体験を完全にトレースすることはできない、すなわち本質的には分かりあえないということもある。そのような共感可能性という希望と、共感不可能性という絶望との狭間を揺れ動いている。人が死んだとき、共感不可能性という絶望は強調され、人々を断絶させるのだろう。僕には僕なりの父親の喪失体験があり、兄には兄なりの、母には母なりの喪失体験があるのだと思う。僕はこれからももうちょっとだけ腹を割ってその感覚を共有していきたいと思う。しかし一方で、相手の考えに口を出したり否定したりすることはなかなかできない。死者に対する思いというのはそういうものだと思う。

 

この記事を書いている間にもやはり泣いていたが、兄は「生きよう」と言った。また、兄は父の死に強く意味を見出しても、見出さなくても良いのだと言ってくれた。僕もそう思う。僕は「死」や「喪失体験」について深く考えたいという気持ちが強まった一方で、父が死んだからといって自分の人生をねじ曲げるつもりはない。自分を強く持ちたいし、それこそが父への恩返しにもなると信じたい。つまるところ、父の死を経たからこそ、僕は前向きになれるよう努力するのが良いのだと思う。

 

これは、父のことに限らない。前に僕にとって大事な人が死んだことがあったが、その喪失体験は僕の人生に強く影響を与えた。僕の人生・進路は大きく変わったように思う。それを呪いのように感じることも少しはあるが、こう言うととても嫌な言い方になるが、その死に感謝してもいる。あの死のおかげで僕はいろんな方向に進めたし、いろんな仲間に出会えたのは事実だ。


「あの挫折があったからこそ今の自分がある」、そういう物語を紡いでいくしかない。それが僕のこれからです。

 

追記:

そういえば父親は僕のTwitterとかブログとかを見ていたそうです。言ってくれれば良かったのに。こういうとき、多くを語らない男性ジェンダーって損だなあとか思います。

あと父親はすごく勤勉な人でした。資格を取るためにいろいろ勉強していた父の姿を思い出します。それは誇っています。それも込みで、本当に良い父親でした。

「男根のメタファー」とは何か?――フロイト『精神分析入門』第10講の要約から

吹奏楽器が男根のメタファーだという論理から、『響け! ユーフォニアム』というアニメ、ひいては日本のオタクカルチャーを児童ポルノ的であるとして批判するツイートが話題になったらしい。

news.biglobe.ne.jp

 

本人のツイートが本人によってまとめられている↓

togetter.com

 

「男根のメタファー」という言葉のキャッチーさから、未だにネタとして拡散されているようだ。

この「○○は男根のメタファー」と、なんでもかんでも男根のメタファーにしてしまう論理を世に知らしめたのは、精神分析の創始者であるS・フロイトだと一般的にはされている。

しかし、はたして本当にそうだろうか。僕は学部時代精神分析を専攻していて、特にフロイトについては一家言ある。良い機会なので事実確認をしておきたい。

 

「○○は男根のメタファー」の初出は?

フロイトは人間の「無意識」について明らかにするために「夢」と「錯誤行為」と「神経症」を研究した。夢についてフロイトは、「夢判断は、人間の心の中にある無意識的なるものを知るための王道である」と『夢判断』(1900年)で述べている。

そして、この『夢判断』がおそらく「○○は男根のメタファー」の初出だ。内容は後に述べるが、目次には「夢における象徴的表現――続・類型夢 (一)男子(性器)の象徴としての帽子 (二)小さなものは性器である――車にひかれるのは性交の象徴である (三)」等々、とある。

ここからそのまま引いてもいいが、具体的な夢の実例も入ってくるので入り組んでいる。文庫版の高橋訳ので70ページぐらいある。しかも実例の検討に入る前に「これよりはるかに詳しい夢象徴の説明を私は『精神分析入門講義』(一九一六年―一九一七年)中に試みておいた」とフロイトは述べている。ということで、おそらくより分かりやすく詳しい形になっているであろう『精神分析入門』の方を当たる。

 

精神分析入門』第10講「夢の象徴」の要約

さて、本題。とりあえず夢の象徴について述べている『精神分析入門』の第10講を要約する。

 

連想と象徴

夢の分析とは、夢を見た人の連想を聞くことによって、夢の顕在的内容ではなく潜在的内容を明らかにすることである。

(夢の潜在的内容は無意識へと抑圧されているため、直接夢には出てこない。潜在的内容は一種の検閲を受けて内容を歪められ、顕在的内容となる。この顕在的内容について人は「夢を見たんです」と言うわけだ。
そのため、夢を解釈・翻訳することによって、夢の潜在的内容、すなわち「真の内容」を明らかにすることが夢分析の仕事になる)

 

しかし、夢を見た人は、夢の個々の要素について連想が浮かばなかったり、いくら強制しても分析家が予想しているものが得られなかったりすることがある。このとき、個人的な連想では明らかにならない、決まった「顕在的内容潜在的内容」の二項関係のパターンがあるのではないかということになる。この決まった関係を「象徴的」関係と呼ぶわけである。

 

「象徴」があれば、夢を見た人に質問をして、どういう連想が浮かぶかを掘り下げなくても夢を解釈できると思うかもしれない。これは「夢占い」をする人の一種の理想なわけだが、そこにフロイトは批判を加えている。以下引用。

このような技巧は、夢占い者を得意がらせ、夢を見た人の度肝を抜くに違いない。夢を見た人にいちいち質問を浴びせかけていくあの厄介な仕事に比べると、今度の仕事は何と気持ちがよいだろう。しかし、諸君は、このために堕落してはならない。芸当をするのが、私たちの目的ではない。すなわち象徴は自由連想の補助で、象徴からひき出された結果は自由連想と併用したときだけ有効になる。

つまり、「象徴」は自由連想による夢分析をした後になって初めて有効になる

これは強調しておくべきことだろう。というのも、このことから、少なくとも個人の無意識に対する分析においては、なんでもかんでも男根のメタファーにしてしまうのは、この「連想」のステップを飛ばしている以上、有効性が薄いということが分かるからだ)

 

象徴によるメタファーの性質

象徴関係の本質はメタファー(比喩)である。しかし、この比喩は何でも構わないわけではない。①ある物やある現象に比喩できるものが全部が全部夢の中に象徴として現れるのではない ②夢はすべてのものを象徴化せずに、夢の潜在観念のある要素だけを象徴化する という二方面からの制約があるという。

奇妙なことに、夢を見た人自身はそのメタファーに気づいていなくて、知らないクセにその象徴を利用している。しかも、何のメタファーになっているかを夢を見た人に提示すると、それを認めないことがある。

 

具体的に使われる象徴

フロイトは夢の中に象徴的に描写されるものはあまり多くないということを述べており、10個ほどしか挙げていない。象徴によって表現される夢の潜在的内容⇒顕在的内容のセットのリストを以下に挙げると、

①身体全体

⇒家。壁が滑らかな家は男性身体の象徴で、突き出ているところやバルコニーがあれば女性身体の象徴。

②両親

⇒皇帝、女王、王、王妃などの偉い人。敬虔な夢になる。

③子ども、兄弟姉妹

小さい動物や毒虫。優しく扱われない。

④分娩

⇒水。水に飛び込むとか、水中からはい上がるとか、水中から人を救うとか、水中から人に助けられるなどといった感じで象徴される。すなわち、母と子宮の中の子どもとの関係を象徴化している。

⑤死

⇒旅立ち、鉄道旅行。暗い、びくつくような暗示がある。

⑥裸体

⇒着物や制服。

⑦性生活、性器、生殖現象、性交の世界

フロイトは大量に列挙している。

狂ってるレベルに列挙されてるので、ブログの末に小さい文字で付録として、全部挙げておく。

 

象徴の源泉

とにかく、性の象徴はものすごく多い。それに関してフロイトはこう述べる。

 以上が夢の象徴を研究する上の材料だが、これだけでは決して十分でない。さらに深くし、拡げなくてはならない。しかし諸君にはこれだけでも十分だし、がっかりされたことと思う。諸君は「まるで性の象徴にかこまれて生活しているようですね。私をとりまいている物、私の着ている着物、手に持っている物、これらはみんな性の象徴にほかならないと言うんですね」と、質問されるだろう。諸君が不思議に思われるのももっともだ。そして諸君の疑問の第一はつぎのことだろう。すなわち「夢を見た人自身ぜんぜん知らないのに、先生は一体どこからそのような象徴の意味をお知りになったのですか」

(もっと根本的な疑問がある気がするが)ともかくフロイトは、それに対しておとぎ話、神話、冗談、しゃれ、民間伝承、風俗、慣習、言語、民謡、詩のことば、俗語を源泉としていると述べる。そして、実際にそれらの例をフロイトはいくつも挙げる。ドイツ語話者じゃない人の例も出して、母語に因らないことも示唆している。

このことから、作品解釈において、「象徴」の解釈をすることには一定の有効性があるとは言えるだろう。しかし、その解釈の妥当性を検討するのは難しいと思う。何をもって妥当とするかにもよるんだけど。

 

結論

フロイトは最後に4つの結論を述べる。

①夢を見る人は、起きているときには知らない象徴をその夢の中に表現する力を持っている。この象徴はすでにあるものであり、人種や言語が異なっても同じである。

②象徴関係は夢に固有のものではない。むしろ、夢に使われる象徴は、大きな象徴の世界の一部分に過ぎない。

③夢ではほとんどの象徴が性的な事物や関係を表すのに用いられている。

④夢の象徴は夢を歪ませる第二の因子である(第一はフロイトが「検閲官」という比喩を使って述べるものである。後期フロイトによればそれは「自我」である)。

 

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さて、以上が要約だ。夢における象徴はほとんどが性的であるということをフロイトは述べているが、その根拠がそこでは必ずしも明確にはされていないことは驚く。

僕もそこまでフロイトをきっちり読み込んでるわけではないので、間違ってるかもしれないけど、フロイト精神分析学の体系において性が重視されるのには一応それなりの根拠がある。精神分析学の知見は、フロイトの医者としての臨床経験から導き出されたものであるというのがその根拠だ。

しかし、その臨床経験に代表性があるのかどうかという問題もあるし、また、解釈は多分にフロイトのバイアスがかかっているということ(それこそフロイト自身の「無意識」が働いているのではということ)はどうしようもない事実だろう。だから、フロイトの体系はフロイトの思弁によって生み出された「哲学」(科学ではない)の体系であると考えることも可能だと思う。

ただ、思弁だとしてもフロイトの議論には説得力があると思う。あらゆる現象を幼児期のエディプスコンプレックス(異性の親と結婚して、同性の親を殺したいという願望)と、その抑圧から捉えていくというスタイルは、強い説明力がある。それによって人間の欲望や精神、性格などはもちろん、倫理や文化、宗教にまで説明が及ぶ。

 

ところで、下の付録をよく見ていただくと書いてあるが、今回問題になった「楽器の演奏」は「自分の性器で満足を得ること」の象徴だとフロイトは述べていた。なるほど、楽器が男根のメタファーだというのも、象徴に限って言えばそのとおりだ。

また、楽器を口でくわえることがより男根の象徴としての条件を満たしていると述べられているが、これは、フロイトの性理論で言えば「口唇期」を思い出させる。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸って満足(快)を得るのだが、この時期にリビドーが固着すると、口唇期的なパーソナリティ(おしゃべり、タバコ好き、また、依存的など。)になるとフロイトは述べる。「リビドーが口唇期に固着する」というのは具体的に言えば、「口唇期に十分にリビドーが満足されなかったり、逆に過剰に満足させられたりすることによって、発達段階において口唇期が重要な位置を占めた」ぐらいの意味で捉えていただければよいだろう。

また、唇が主要な性感帯になる(キスが代表的)のもこれが理由である。口唇期の固着が強い人は、キスの好き嫌いが特徴的になる、などと言えるだろう。

 

もっと言えば、「男根のメタファー」っていうときに、「楽器が男根なわけないだろ」みたいな反応をしている人がいるけども、それは当たり前だ。

フロイトに対する精緻な解釈で知られるフロイトの後継者J・ラカンは、解剖学的な男根(ペニス)と象徴的な男根(ファルス)を明確に分けて解釈した。フロイトが「去勢コンプレックス」という概念を唱えた際に、必ずしもこのペニスとファルスを明確に分けられていなかったのに対して、「ファルス」についてのラカンの理論はフロイトの理論を守りつつ発展させる非常に強力なものだ。

「○○は男根のメタファー」と言ったときに、その男根を「ファルス」として考えれば、主張の妥当性はともかく、論理としては筋が通る。まあ、ラカンの理論はあんまりちゃんと分かってないのもあるし、今回は割愛で。

 

楽器は男根のメタファーか

最後に、これまでの議論を踏まえて今回の件に自分なりに決着をつけておく。今回の件は夢の解釈ではなく作品解釈の話なので、ちょっと勝手が異なる。個別の作品には個別の作者と個別の鑑賞者がいる以上、

①作者が「男根のメタファー」として「楽器」を用いたか。また、それは意識的にか無意識的にかという問題と、

②ある鑑賞者にとって楽器が男根のメタファーとして機能し、児童ポルノとして解釈できるかどうかという問題

がある。

 

①については、厳密には作者の無意識を分析してみないことには分からない。具体的には自由連想法を使わないことには分からない。

ただ、ありうるパターンは三つで、

A:たまたま「男根のメタファー」に見えるように作品が現れてきただけ

B:作者の無意識の働きによって男根のメタファーが使われてしまった

C:作者が象徴について知っていて、意識的に男根のメタファーを用いた

ということになるだろう。 

 

②については、鑑賞者が象徴について知っていて、その象徴による解釈を使う際には割と妥当するだろう。しかし、そのパターンはそこまでないと思われる(なぜなら、そんなアクロバティックな解釈をわざわざ普通の人はしないから)。

 

むしろ、メタファーが無意識に対して働きかける作用の方が重要だろう。鑑賞者が「これは児童ポルノ」だと意識していなくても、無意識下では児童ポルノとして「機能」し、「連想」として性的なものを感じる可能性はある。

そして、ラディカルフェミニズムなどが問題にするところの「女性に対する抑圧」の構造や、児童への暴力性が刷り込まれるという可能性もある。

その可能性を見抜いた西洋人が、「これは児童ポルノだ」と扱うのだと件の人は主張しているのだと思われる。

 

 

以下余談。

久美さんの主張を更に掘り下げてみる。

ユーフォニアム」に関しては西洋人は「児童ポルノ」とはみなさないと思う。一方で、問題にすべきなのはむしろ「無意識下への刷り込み」の方なんじゃなかろうかと、別の観点から擁護してみる。というのも、露骨なエロや児童ポルノだったら、規制がかかる上に鑑賞者の方も忌避するだろうから、そこまで発展はしない。

しかし、「ユーフォニアム」のように性的な要素が脱臭されていると、「別にエロ目的ではない」という言い訳(防衛機制の抑圧や否認にあたるだろう)をしながら視聴できる。言い訳によって、性的な要素が、ひいては問題のある暴力性が密輸入され再生産されうるということだ。

また、「たかが子ども文化じゃないか」と済ませられることで、大人の監視の目をすり抜けてオタク文化が隆盛したという久美さんの主張は多少は説得力を感じる。ただ、むしろ僕としてはこれも「子ども向け」なのをいいことに、生々しさのない安全なエロが志向されているという風に考えるのが妥当かなあと思う。「児童ポルノ」が志向されるのもそういうことだと思うし。

つまり、無垢ゆえに拒否もせず、抵抗の力もない児童は安全圏から手を出せるのでポルノの対象として好都合であるということと、フィクションゆえに裏切らず、生々しいエロを想起させない(特に「日常系」などの)萌えアニメの安全性は対応しているかもね、ということ。

まあ、だからと言って、アニメを規制しろという結論には僕はならんけどね。フロイトの知見からも分かるように、性的なものはそこかしこに遍在しているし、禁止することが欲望を生み出すという側面もあるわけだし。

 

 

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 【付録】

☆男性器

・数字の3(神聖な数字)

・長い突き出たもの:ステッキ、傘、棒、木、鉛筆、ペン軸、ハンマー、爪やすり

・身体の内に入ったり、身体を傷つけるもの:ナイフ、短刀、槍、サーベルのような武器。火器、大砲、ピストル、連発式拳銃(陰茎と形が似ている)

・水を出すもの:蛇口、じょうろ、噴水

・長くなることのできるもの:釣りランプ、シャーペン

・重力に対して立つ(勃起)ことができるもの:軽気球、飛行機、「飛行」そのもの

勃起を象徴した飛行の夢は、女性には陰核(小さい陰茎)があるから、女性にも成り立つ(夢は願望充足であるのだが、女性には男性になりたいという願望が意識的にも無意識的にもよくあることを思い出してほしい)

男性器の堂々たる仕掛けは、表現しにくいほど複雑な機械で象徴される

・爬虫類と魚類はよくわからないが男性器の象徴。特に蛇が有名

・帽子や外套

・手とか足とかも含めてもいいかも

 

☆女性器

・中に空洞があるものや中に何かを入れることができるもの:穴、くぼみ、洞窟、ビン、カン、箱、トランク、長持、ポケット、船、カタツムリ、貝、宝石箱、靴、スリッパ

・外陰部よりも子宮に関係していることが多い:たんす、かまど、部屋。部屋は家(身体の象徴)に結びつくが、戸や戸口は膣の象徴である。

・原料:木材、紙

・それらの原料から作られたもの:テーブル、本

・身体の部位のうち、口

・建物のうち、教会、礼拝堂

・女性の陰部の複雑な地形は岩、森、水のある「風景」として描写されることが多い

☆乳房⇒大きな半球:リンゴ、桃、一般に果物。

☆両性の陰毛⇒森、草むら

☆愛人⇒宝石や宝物

☆性の享楽⇒美食

☆自分の性器で満足を得ること⇒いろいろな種類の演奏、ピアノの演奏

☆自慰⇒滑る、木を引き抜く、歯が抜ける、歯を抜く(「抜く」という俗語表現はドイツ語にもある。また、自慰の刑罰としての去勢を意味してもいる)

☆性交

・リズミカルな活動:ダンス、乗馬、登山

・追い詰められるような暴行の経験

・手仕事

・武器(男性器)での脅迫

・のぼるもの:はしご、坂、階段(性交の律動とのぼるときの律動が対応。また、高くのぼるにつれて興奮が増し、呼吸が困難になることも共通している)

☆男性女性の区別のない性器一般

・小さい子ども、小さい息子、小さい娘

・「男性」が女性器の象徴に、「女性」が男性器の象徴に使われることがある

☆男性⇒頭にかぶるもの:帽子(女性を意味することもある)、オーバー(いつも性に関係があるわけではない)、ネクタイ(だらりと垂れていて、女性が身に付けない)

☆女性⇒白いシャツ、リンネル

 風景が外陰部の描写であることはすでに述べたが、は陰茎の象徴であり、はしばしば外陰部の象徴である。果物は子どもを意味しないで、乳房を意味する。野獣は肉欲にもだえる人間とか、さらに悪しき本能や情熱を意味する。は女性器を示し、とくに処女性をあらわしている。諸君は花が実際植物の性器であることを忘れていられないだろう。

 すでにお話したように、部屋は象徴である。この象徴はもっと拡大できる。たとえば窓、部屋の入り口、出口は体孔を意味している。部屋を閉めること部屋を開けることも象徴で、部屋を開ける鍵はたしかに男性の象徴である。

 なんでもアリやんけ。

 

[引用文献]

『夢判断』については新潮文庫の高橋義考訳(1969)を参照しており、筆者が一部改訳している。

精神分析入門』については角川文庫の安田徳太郎・安田一郎訳(1970)を参照しており、筆者が一部改訳している。

ライブで初めて"ノる"ことができた話

家でダラダラ過ごしてたら同居人が

「ライブ行こう」

と言いだした。僕は「ライブ」というものが苦手だった。それは率直に言えば"ノる"ことができないからだ。

今まで、たまたま声優のライブに行ったことが何回かあったが、"ノっている"人たちや「一体感」や「共振」みたいなものが目の前につきつけられて、どうも引いてしまう。第三者的な視点になって、その光景を外から見つめてしまい、没入ができないのだ。

 

「面白いよ」と言われたので渋々行くことに同意し、そして、大阪にあるライブハウスに着いた。いわゆる「ハコ」だけど、どれくらいの大きさが相場なのかは知らないし、大きい方だったのか小さい方だったのかはよく分からない。とにかく、今までに行ったものに比べると小さい場所だった。ワンドリンクつきで2000円。

しかし、そこに向かう途中で運悪くサンダルを踏まれてしまい、サンダルの鼻緒(?)が切れてしまっていた。だから、ライブが始まる前は裸足になってみた。地面の振動がじかに感じられるし、音を聴く姿勢としてはアリかもしれない。

 

そして、ライブが始まった。3つぐらいのバンドが出てくるだけだと聞いていたが、実際には4つだった。パンクバンドのライブと聞いていたが、1つ目に出てきたバンドは明らかにパンクバンドという感じだった。僕もそういうのは詳しく知らないが、漠然とイメージするパンクバンド像にぴったり入ってくるようなパンクバンドだ。

裸の上半身に文字を書いたボーカルがステージ上を縦横無尽に走り回りながら歌う。時にはステージ上から降りたり壁にぶつかったり懸垂をしたりとなんでもアリな感じだ。一応曲名を紙で全部出してくれていて、曲名は分かったが、それもまさにパンクっぽい感じだった。例えば、『人が集まるとロクなことがない』みたいな曲名で、露骨すぎたり直球すぎたり。4つバンドがあったけど、どれも味があって良かった。こういう世界があるのだなあと感じられたのは良いことだと思う。

 

さて、僕は"ノる"ことができないからライブが苦手という話だった。しかし、今回は初めて"ノる"ことができたように思う。

というのも、今まで行ってきたライブと違う部分が今回は3つあった。

①アルコールを多めに摂取していたこと(始まる前に1杯飲み、途中でもう1杯飲んで多少酔っていた)

②音がうるさかったこと(耳の聞こえ方がしばらく変になるぐらい音量がデカかった。歌詞もほぼ聞こえないし)

③ノりすぎている観客がいなかったこと(オタクのライブに行くとオタ芸してる奴らとかいるわけだけど、そういうのとは全然違ってだいたいみんな体や頭を揺らしているだけだ)

 

この3つの条件がうまく作用してくれて僕は"ノる"ことができた。ここからは具体的にどういう手法で"ノる"ことができたかを説明する。これはライブでどうも第三者的になってしまって"ノる"ことができない人や、もっと一般的に「外から物事を見つめてしまって、没入できない」という人にも参考になるように思うし、有益な情報っぽい。

 

どうやって"ノる"ことができたか

"ノる"ことのできていない状態の大きなものとして、「余計な考えがどんどん浮かんでくる」、「自分がハタから見て今どんな状態かに意識がいってしまう」といったものがあるだろう。つまり、「余計な考え」や「自意識」にどう対処すればいいのかという問題だ。

これに対して、まず①酔っていたことがあったので、ある程度「自意識」(自分が他人から見て今どんな状態かが気になる)は吹っ飛んでいた。

更に②音がうるさかったことのおかげで、歌詞が聞こえなかったし、演奏の音だけに集中できた。歌詞は言語情報なので、どうも「感じる」ではなく「考える」の方向に向かいがちだ。それが、聞こえないのは逆に"ノる"分にはありがたかった。

そして③ノりすぎている観客がいなかったことも挙げられる。これは微妙なのだが、「ノりすぎている」人がいたら温度差についていけなくなるし、逆にノっている人が誰もいなかったら、自分だけノるのが恥ずかしいみたいな自意識の問題が生じる。だから、適度にノってる人もいたぐらいで、観客のバランスがちょうど良かったのがありがたかった。

 

このような条件が揃っていたために、かなりノりやすかった。そして、たまたま思いつきで、僕なりの工夫が4つあって、それもぴったりハマった。これらも便利なので、ぜひ読者にも機会があればやってみてほしい。では、工夫の1つ目↓

一、誰か1人に感情移入する

バンドというのはだいたい3人とか4人とかいたりするものだ。それら全体が作り出す音楽に"ノる"というのが僕にはどういうことなのかよく分からない。

しかし、僕は誰か1人にであれば感情移入することができる。今、この人に感情移入しよう!というのを1人定めて、そこに入り込んでいくのだ。

これによって「第三者視点」を払拭することができる。言わば「第一者」になれる。三人称の「彼ら」から一人称の「私」になれるのだ。

具体的な話を更に下で展開していこう。

 

二、動きごと真似る

感情移入って言っても何すりゃいいんだ、ということもあるだろうが、それは端的に言えば「その人になる」ということだ。では感情移入相手として誰を選べばいいかということだが、オススメはドラムだ。普通はボーカルかもしれんけど、僕はドラムをオススメする。なぜか?

それは、ドラムが一番大きく動いているからだ。ドラムは常にスティックで叩いて脚で踏んでいる。それを動きごと真似るのだ。自分も手や脚を動かして、架空のドラムを叩いてみよう。膝の関節なども含めて、全身を動かしてみよう。

すると、動いていることによって集中が高まっていく。まさに"ノる"状態になっていく。"ノっている"状態にある人の身体は常に動いているものなのだ。

そしてこの「真似」はもっと徹底できる。次の工夫。

 

三、声を出す

よくあるライブでは「ハイハイハイハイ」みたいな掛け声が入ることがよくある。僕はそれも苦手だ。リズムに上手く合わせなきゃいけないし、何故か知らないが掛け声のルールが暗黙に決まっている感じがある。

しかし、先ほどの感情移入の方向でいけば、ボーカルに感情移入する場合を考えてみよう。ボーカルは歌っている。その声の出し方も想像してそのままやればいいのだ。そして何より音のうるさいライブハウスだった。声を出していたところで周りに聞こえはしない。僕はボーカルに感情移入するのもあったが、「ウーーーーーーーーーーーー」とか「アーーーーーーーーーーー」みたいな声を出したいときに出していた。身体の動きを徹底するのであれば、声を出すこともアリなのだ。これで更に没入度が高まる。

 

四、浮かんでくる考えに身を委ねる

それでも「余計な考え」はどうしても生まれてくるのだ。ドラムに没入していたとしても、ギターの方が気になったりする。観客の方が気になったりする。動いている自分の動きが変じゃないかと思ったりする。自分の着ている服や自分の髪型が気になったりする。喉が渇いたりする。トイレに行きたくなったりする。演奏している人の見た目、今何を考えているかなんかが気になったりもする。

しかし、それはそれで良いのだ。そういった考えを抑圧して「音楽に集中しなきゃ」となってしまうと余計に考えが浮かんできて、没入できなくなる。

だから、僕は浮かんでくる考えをそのまま受け入れた。ギターが気になったらギターの方に感情移入の対象を変えてみる。観客が気になったら観客の方にも感情移入してみる。自分のメガネがうっとうしくて外したり、視界がボヤけるのがうっとうしくてまたかけたりみたいなことを抑圧せずにやる。ふと熱が冷めたと思ったらそのまま受け入れて後ろに下がって椅子に座る。また自分の中で盛り上がってきたら立ち上がって動く。

僕に限らず、注意が持続せずいろんなものにすぐ気を散らされてしまうタイプの人間はけっこういるだろう。そういう人こそ、この浮かんでくる考えに身を委ねるをやってみてほしい。動きに連続性は必要ない。その場で思ったことをその場でやって、また違うことが浮かんだらそのとおりにやったらいい。

 

***

 

演奏している人たち、観客の人たち、そして自分を見ていて思ったのは、それぞれの人にそれぞれの「自己陶酔」があるということだ。

「一体感」や「共振」なんてものはいらない。人は本質的には分かり合えない。だからこそ、開き直って自分なりの自己陶酔をしてしまえばいいのだ。そうすることで"ノる"ことができた。

少しは「ライブ」が好きになりました。

対メンヘラ会話法~「ちゃんと話聞いてますよ感」の出し方~

0.はじめに

僕は不安定になっている人(おそらくメンヘラ的な人)とSkype通話や対面で会話するのが好きです。特に、会話によって相手の不安定さが解消されたと感じるとたまらなく気持ち良いです。脳内物質ドバドバです。僕はメサイアコンプレックス(救世主コンプレックス。他人を救うことによって、自分が救われたいみたいな人)なので、そういうのが大好きなんですね。

まあそういう快楽目的でもいいんですが、不安な人の不安が解消されるのは社会的に良いことです。たぶん。で、僕の周りに不安定になりがちな人(だいたいメンヘラ的な人)がどんどん増えてきているので、僕だけの手では回らなくなってきました。そこで、僕みたいなタイプの人がもっといっぱい増えて欲しいなぁと思い、僕のやってるコミュニケーションを公開しようと思った次第です。

みなさんもこのコミュニケーション技法を使って、相手は不安を解消、自分は気持ち良くなって、WIN-WINを目指しましょう(ムチャクチャだ)。

 

※メンヘラをバカにする記事ではありません。僕はメンヘラ的な人もそうでない人も一人の人間として尊重します。この記事を読む人にもそうあってほしいです。

あとこの記事は素人がカウンセリングをするのを勧める記事でもありません。精神に不調を感じた方は、ちゃんと心療内科なり精神科なりに行くのを勧めます。

 

1.目標

目標はズバリ、「相手をスッキリさせること」です。基本的にはこちらからは何も言いませんし、間違っても相手を自分の思い通りに支配してはいけません。つまり、アドバイスなどは基本しません。しかし、自分の意見を述べるぐらいは場合によってはアリなので、そのあたりは次に述べます。「何も言わないで会話が成り立つのか!?」と思う人もいるかもしれません。しかし、「相手をスッキリさせること」が目標なので、相手が喋りたいことを喋り終えたらそれで実はミッションクリアです。だから聞いてるだけでいいんです。

「聞いてるだけでいい?、それだったら壁にでも話しとけよ」と言う人もいるかもしれません。案外そうでもありません。人は誰かに話を聞いてもらいたい生き物です。壁に話すのと誰かに話すのでは「スッキリ度」が雲泥の差でしょう。例えば、ツイッターで構ってちゃんツイートや病んだツイートを繰り返している人も大体、話を聞いてほしいけど特定の相手がいないという人でしょう。

ということで話を聞くことが大事です。つまりはカウンセリング的なコミュニケーションが目指すところであり、カウンセリング用語で言うところの「受容と傾聴」ってやつをするわけですね。

 

2.具体的な技法

ここからは具体的な技法に入ります。「やっちゃいけないこと」は3で書くとして、ここではぜひやるべきことを書きます。ちなみに一対一の会話が前提です(念のため)。

 

2.0.思ってもいないことは言わない、思ったことだけを言う

最初に心構えとしてなんですけど、思ってもいないことは言わない、ということは基本的には大事です。お世辞とかはヘタな人はバレちゃいますからね。自然な嘘をつきとおせるという人ならいいかもしれませんけど、あんまりそういう人はいませんから。他のところで本音を言っちゃって、なぜか本人に伝わるみたいなこともよくあることです。長期的に見ると嘘をつくのは得策ではありません。

しかし、思ったこと全部言っていいかと言ったらそれは違います。誰だって悪口は言われたくありません。地雷を踏まれたくはありません。そういうのを避けるのはマナーでしょう。

 

2.1.質問の前の信頼形成

自分から勝手に自分の話を(しばしばマシンガントークで)してくれる不安定な人もいますが、半分ぐらいの人は自分からは話してくれないです。相手から言葉を引き出すためにはうまいこと質問しなきゃいけません。しかし、話題の切り出し、これが一番難しいんですよね。オーソドックスなコミュニケーションだと、誰にでも通じる話題から、徐々にお互いが知っている話題(共通の知人や共通の趣味など)へと入っていくのが良いと思います。

それでもまあいいんですが、今回は対メンヘラなので必殺技だけ教えましょう。それは「○○さん(相手)に興味があるんですけど」と直接言うことです。しかし、心構えでも言ったように、ちゃんと本当に興味があるときだけに言いましょう。嘘くさくなってはいけません。この後に「いろいろ質問していいですか?」と続いてもいいかもしれません。人はだいたい他人に興味持たれたいものなんで言っておいて損はないです。ただ問題はその興味が「下心」だと思われないようにすべきですね。下心だと思われないためには(キモいと思われないためには)スッと言えると理想です。

相手がインターネット上でアカウントを持っている人とか、共通の知人がいる人だったら事前に情報が仕入れられますので、そこから興味を持つことはできますね。そのあたりの情報を言った後に「~~さんから○○さんのことを聞いてて、○○さんに興味あるんです」みたいなことを言う感じですね。

 

2.2.質問&自己開示の返報性

さて、質問に入るわけですが、順番さえ変でなければ割とすぐに踏み込んで大丈夫です。ただ、一番最初が難しいんですよね。僕も趣味を聞いたり、普段何してるか聞いたり、といろいろするんですが、どうも具体的な答えが返ってこないので自分との共通点や自分の知ってる話が見いだせず、話が弾みません。「共通の知人」なんかは話題には便利ですが、それもあまりいないとしましょう。

最初のとっかかり(相手が何を好きかとか)が分からなくて漠然とした質問をしたら、相手も漠然とした答えしか返してこないという問題。相手が漠然とした答えしか返せないのには理由がいくつかあります。一つは何を返せばいいか分からないというパターン。二つ目に話したいことはあるけど、その話題を話していいのか迷っているパターン。三つ目にあまり自分の情報を出したくないパターン。他にもいろいろあるでしょうが、とりあえずこの三つだったら次の解決策が万能です。

それは、「自己開示の返報性」を使うことです。「自己開示の返報性」とは、簡単に言ったら、AさんとBさんとが会話してて、Aさんが自分の話をしたら、Bさんも自分の話をしたくなる現象のことです。そこで、相手が答えに窮していたら、すかさず、「例えば僕だったら、普段家ではインターネットしてますね。ツイッター見てます。あと漫画読んだりとか、本読んだりとか」という感じで僕なら返します。いや別にこれそんなに良い返しだとも思わないんですけど、大事なのは「自己開示」をしていることです。こうすることによって、相手の答え方のモデルを示すことができます。相手はこっちと同じような返し方をしてくるでしょう。また、こっちが自分の話をすれば、安心して相手も自分の話をしてくれるという話です。

また、うまく掘り下げましょう。例えば、僕のこの発言を見ても、漫画や本で何を読むかとか、ツイッターどんな使い方してるかとか(ちょっと変な質問だ)、ツイッター以外だったらインターネットで何するかとかいろいろ聞けるはずです。相手の言ったことを手掛かりに掘り下げていってみましょう。質問をするときは5W1Hが基本ですが、特にホワット(何)とホワイ(どうして)が便利ですね。

ある程度関係が深くなったら家族のことや過去のことを聞いても大丈夫です。相手がメンヘラ的な人ならば深い話を持っていることが多いです。ただ、そういう深いところに踏み込んで質問するときは相手に気遣いましょう。「答えたくなかったら答えなくても大丈夫なんですけど」と前置きするなど。まあだいたい答えてくれるはずです。答えてくれなかったらまだ信頼度が足りないんでしょう。

 

2.3.相槌の打ち方

まったく相槌打たないよりかは相槌打った方がいいんですけど、やりすぎるとわざとらしいです。対面ならば表情だけで相槌を打てるので「うんうん」みたいな音声は少なめでいいです。電話とかならちょっと多めでいいと思いますが。大事なのは相手の喋っている途中で自分の意見を挟まないことです。何か思ったことがあっても、言わずに最後まで聞きましょう。たまにめっちゃ長話する上に話が飛びまくる人がいて、結局何の話をしていたのか分からなくなる人とかもいるんで、あまりに長い人に対してはメモ取りながら聞いてもいいと思います(マジで)。しかし、どれだけ話が長くても途中で口を挟まないで根気良く聞く。これが大事です。

細かい相槌の打ち方で言えば、「うん」だけじゃなくて「あー」とか「そうだよね」とか「えー!(驚き)」とかいろいろ使い分けると聞いてる感が出ます。同じ話が出たら「言ってたね」みたいな相槌もいいでしょう(その話もう聞いたよ!みたいなのは言わなくていい)。共感できるときは「わかる」もいいですね。あんまり「わかる」を使いすぎるとお前本当に分かってんのかよってなるので、諸刃の剣ですが、共感力は大事です。共感していることをアピールするために、話が途切れた後に「~~って話すごい共感できます。僕もですね……」と共感エピソードを出すといいでしょう。

 

オウム返しテクニック

ただ一つだけ途中で言葉を挟んでもいいテクニックがあります。それが言葉の意味を聞くときです。話を聞いていて分からない言葉が出てきたら「○○?」と疑問形で言ってみて、意味を説明してもらいましょう。あるいは、声の聞き取りにくい人もいますので、聞こえなかったら、聞こえなかったと言って聞き返しましょう。これによって意味を説明してもらえる、もう一度言ってもらえるということは重要なのですが、それと同時に「ああ、この人はちゃんと聞いてくれてるんだな」という安心感を相手に与えます。これが重要です。たとえ意味がだいたい分かっていても、分かりにくいところがあったら「○○?」って感じでちょっと挟むのはアリかもしれません。それは意味を確認するためというより、「あなたの話を聞いてますよ感」を出すための戦略です。

 

2.4.身体動作

アイコンタクト

そして、聞いてるときの身体動作ですが、まずアイコンタクトについて。目を合わせすぎると人は緊張します。一方で目をそらしすぎる人のことは信用できません。聞いているときは目を合わせるぐらいでいいのですが、相手の喋りが途切れたときに適度に目をそらして考える動作をするなどして、喋っている相手を休ませてあげましょう。話が途切れているのにアイコンタクトで次を促すと、相手も緊張してしまいます。

 

ミラーリング

相手と同じ身体動作をすると相手は安心すると言われています。しかし、あまりやりすぎてもわざとらしいので、自然な範囲でやるといいと思います。自然な範囲、と書くと難しいのですが、例えば喋っているときにじっとしていられない、変な動きをする人とかたまにいますよね。そういう人だったら聞きながら、ちょっと試しに動きを真似てみる、ぐらいでいいのです。バカにしない程度に。ミラーリングはそこまで使いにくくて効果も実感しにくいので、まあオマケ程度でいいでしょう。

 

2.5.相手の話が途切れた後

やはりオウム返し

相槌を打ちながら聞いていて、相手の話が途切れたときにどうするか。まず、やるべきことはやはりオウム返しです。相手の言っていた言葉をそのまま繰り返します。「○○××△△なんです」と言われたら、「○○××△△なんですねぇ」と返すわけです。ただ、やりすぎると気持ち悪いので、ちょっとだけでいいです。

 

要約

また、オウム返しだけだとバリエーションが貧困なのでもう一つ。それが「要約」です。相手の話が長かったときなどに特に有効なのですが、相手の話を最初から最後まで過不足なく要約して「○○で××で△△なわけですね。それで、○○と△△がつながるわけですね」みたいな感じ。自分の勝手な解釈は入れてはいけませんが、ちゃんと要約すれば高評価です。「話ちゃんと聞いてますよ感」が一気に出せますし、話にまとまりがない人だったら、話が整理されてありがたく感じるはずです。というわけで、勝手な解釈を入れずに話全体を過不足なく要約するという、高校の現代文とかで使いそうな能力がここで役に立つわけですね。

 

2分間沈黙

そうして、オウム返しなり要約なりをした後に「どう思います!?」みたいに意見を聞かれたら意見を言ってもいいわけですが、あくまでこちら側から相手の話を引き出すことが大事です。そういう意味では相手が話すまで待つ、というのも大事になるときがあります。人は沈黙にはあまり耐えられないもので(電話なんかだと特に)、意図的に黙って待っていれば、相手から話し始めてくれることも多いです。その待つ時間ですが、シチュエーションにもよりますが対面なら2分までなら待っていいという目安があります。2分というと相当長いです。正直2分も待たなくていいと思うんですけど、まあそれぐらいの気持ちでじっくり待ちましょう、ということです。

 

話題変え質問

2分間沈黙も何回もやるとさすがに相手が疲れるでしょうから、こっちが何かしら喋った後に、別の違う話題の質問を振ってみてもいいでしょう。「話変わるんですけど、」とか「全然話違うんですけど、」とか言っておけばそこまで不自然でもありません。そうして相手が話し始めたらまた2.3.に戻ります。答えにくそうだったら自己開示をしてみます。自己開示はあくまで相手の答えを引き出すためにあると考えればいいでしょう。

 

共感エピソード

必ずしも自分の話をしてはいけないわけではありません。相手の話を受けて、共感したということを示すために自分の似たような体験を開示するという戦略があります。これをすると「この人なら分かってくれる」感が出ます。自分の体験じゃなくて他人の体験とかを出してきて「知り合いにもいたなあ」みたいな話をしてもOKです。

 

3.やってはいけないこと

あくまで対メンヘラですが、やってはいけないことを書いていきます。

 

3.1.高圧的な態度

これは相手が誰でもあんまやるべきではないと思いますが、対メンヘラだと特にそうです。恐がらせてはいけません。声のトーンとか言葉のスピードとか落としていきましょう。

 

3.2.下心を見せる

これは主に自分が男性、相手が女性を想定してのときの話です。下ネタOKな人も多いっちゃあ多いのですが、その性欲を相手に直接向けてはいけません。メンヘラ的な人はそういうのにうんざりしているパターンが多いものです。下心は実際にはあっても隠しましょう。

 

3.3.否定する

相手がやることをおかしいと感じても即座に否定するのはよくありません。たとえばリストカットをする人がいたとして「リストカットをするな」と言うと、信頼を失うことが多いです。肯定も否定もせず、相手の気持ちに寄り添うことが大事でしょう。具体的には、基本的に何もしなくていいわけです。場合によっては微妙なところもあるので、どうしても否定すべきだと思ったら、せめて「イエスバット」を使いましょう。相手の言うことをとりあえず「そうだね」と受け入れた上で「ただ、」とやんわり否定しましょう。

あと、メンヘラ的な人に多いのが身体醜形障害なんですが、具体的な返しをしない方がいいです。例えば客観的に見て太っていないのに自分が太っていると思い込んでしまっている人には、「ちょっと太ってるぐらいが健康的だよ」などと具体的な返しをしない方がいいです。悪く解釈されるかもしれないので。「そうかなあ」ぐらいの曖昧な返しがいいでしょう。

 

3.4.支配しようとする

メンヘラ的な人は依存的な人が多いわけですが、自分に依存させて楽しむみたいなことはしてはいけません。また、最初に書いたメサイアコンプレックスの人に多いのが「自分の思い通りにならないと逆ギレする」というやつです。逆ギレするぐらいなら最初からメンヘラ的な人と関わらないでおきましょう。相手は相手、自分は自分なわけで、相手を自分の力で変えようとすることがそもそもおこがましいのです。あくまで目標は「相手をスッキリさせること」です。

 

4.その他テクニック

対メンヘラじゃなくても通じると思うんですが、ホリィ・センが実践してるのを二つ。

 

4.1.ほめ方

ほめるって対人関係において全般的に重要ですね。ほめられた相手は大体悪い気しないし、こっちもコストは払わないんで褒めるのってすごくコスパがいいです。効用上がります。最大多数の最大幸福です。で、ほめ方なんですけど、お世辞はバレたら長期的に見て良くないです。本当に思っていることだけを言えば大丈夫です。その代わり良いと思ったことは恥ずかしがらずにできるだけ言うように努力することが大事です。できるようになってくると結構便利です。

また、具体的にほめるのって大事です。「○○さんはこういうところがこうだから良い」みたいなこと言うと人は嬉しいものです。ただ、あまり社会の価値基準と合ってないところをほめてもバカにしてると取られる可能性があるので、そのあたり客観的な良さとのすり合わせが必要ですが。「かわいい」と言われ慣れてる人に「かわいい」と言ってもあまり効果がないですが、あまり言われ慣れていないであろう長所をうまく見出してほめると効果バツグンです。特にメンヘラ的な人はほめられ慣れてない人も多いんで、困惑するでしょうが、うまくやると一気に信頼を勝ち得るでしょう。

 

4.2.共犯関係

これも自己開示系なんですが、自分の話をする際に社会に適応できない話などをするといいでしょう。要するに共感性を示すことが大事です。メンヘラ的な人は傷ついた経験を持つ人が多いですので、こちらも人の痛みを分かる人間だということをアピールしましょう。ということで傷ついたエピソードを出せばいいわけですね。なお、ホリィ・センは小学生のときに情緒不安定だった話をよく出します。対メンヘラの共通体験はおそらくそこにあると思っているので。対コミュニケーション苦手な人だったら、コミュニケーションがどう苦手だったかのエピソードを出すわけで、誰を相手にするにせよ共感はやっぱり大事ですね。

こうして、自分は決して潔白な存在ではないということを示して、一種の共犯関係になることは一つの戦略です。

 

5.おわりに

ここに載せたテクニックは別に対メンヘラじゃなくても使っちゃってます。もう身体化しちゃってますね。別にこれをそのままやれとは言いませんけど、何かの参考になれば幸いです。僕はだいたいこういう感じで不安定な人(やはりメンヘラ的な人)とSkype通話して傾聴するのが日々の楽しみですし、僕以外にも傾聴が日々の楽しみになる人が増えればいいなあ、と。

「メンヘラ」がファッション化してしまっている問題について

【要約】

ネットスラングで「メンヘラ」って言葉あるけど、②最近カジュアルに使われすぎで、③いろんな意味合いで使われてるし、④商品とか出てきて消費の対象にもなってるし、⑤着たり脱いだりできるファッションみたいに扱われてるし、⑥オワコンになりそうだよね でも、「メンヘラ」って本来「精神疾患」のことだし、着たり脱いだりできるもんじゃないよね。その人の「今ここ」の重大な問題として現れてくるよね。だから、オワコンにしちゃいけないよね。「メンヘラ」って言葉を使ってもっと何かできるんじゃない?

 

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「メンヘラ」という言葉が使われて久しいが、昨今、「メンヘラ」という大きな物語(?)が危機となる象徴的な事件が少しあったように思う。

一つは江崎びす子の作品『メンヘラチャン』とのコラボレーション商品「リスカバングル」だ。

togetter.com

このリスカバングルに対しては大きく4つの批判がありうる。以下に挙げる。

 

リスカバングルに対する批判4分類

①やむを得ずリストカットをしてしまっている人をバカにしているという点でリストカット当事者に失礼である

リスカバングルのせいで「メンヘラ」がファッションになってしまう

リスカバングルというファッションで済ませるのはヌルくて恥ずかしい(リスカバングルをつけるぐらいなら実際にリストカットをしろ)

④単純に気持ち悪い

 

①はいわゆる「不謹慎」で、「メンヘラのような弱者を差別するのは不謹慎だ」という話だろう。

②③は主にメンヘラ当事者から出てくる批判だ。

②では、自分が「メンヘラ」であるにもかかわらず、メンヘラがファッション化してしまうと困るだろう。それは、自分が実際に苦しんでいるにもかかわらず、ファッションのごとく扱われてしまうからだ。

③はいわゆる「誰が一番真のメンヘラか」競争だ(これの問題点は

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)。

④は説明不要だろうが、一つ補足しておくと、先ほどのtogetterには書いてあるのだが、リスカバングルをデザインした人の意向で傷が生々しいものになったそうだ。メンヘラチャンのポップなデザインと生々しい傷のデザインはどうもミスマッチに感じられる。

 

 

さて、togetterにもあったが、③のような反応をする人を問題視する人もいる。要するに「リストカットしていることを誇ってしまっている」、「リストカットをしてしまっていることを悪いことだと思っていない(リストカットを止めようとは思っていない)」といった反批判がありうるということだ。

しかし、今回はそれは本筋ではないのでおいといて、僕が今回問題にしたいのはむしろ②メンヘラのファッション化である。

 

メンヘラのファッション化

そもそもリスカバングルの前から江崎びす子の『メンヘラチャン』にはそういうものを感じていた。『メンヘラチャン』はリストカットによって魔法少女に変身するという設定で、明らかに精神疾患などの重大な問題には立ち入っていないし、おそらく深く考えてもいない。

ここではカジュアル化、ファッション化、ネットスラング化、シミュラークル化と書いているが、これにバズワード化も加える。それぞれに意味が異なるので、一つずつ書いていく。

まず、ネットスラングは初期の段階だろう。メンタルヘルスer(精神疾患を持った人)がメンヘラ(ー)と略されることによって定着した。

そして、これにカジュアル化が追随する。「精神疾患」と言うと重い感じがするが、「メンヘラ」と言うとなんとなく軽いものに感じる。

気軽に使われるという意味で、いろんな状態に対して「メンヘラ」という言葉が使われるようになっていく、すなわちバズワードしていく。

また、高度情報化資本主義社会において、メンヘラのオリジナル(つまりは精神疾患)は意味を失い、n次創作としてのコピーがどんどん氾濫し、消費されていくようになる(シミュラークル)。

更にまた、ファッション化する。メンヘラが消費の対象である「流行」になると同時に、ファッションとは「着脱可能」であることを含意している。ここが今回の記事で重要な論点である。

 

着脱可能な流行としてのメンヘラ / 着脱不可能な実存としてのメンヘラ

「メンヘラ」は本来は精神疾患の意味なので、簡単に着けたり外したりできるものではなかった、ある個人に特有の性質だったはずである。しかし、「メンヘラ」という言葉が「今日はメンヘラだ」などといった用法のように一時的な状態を指すものとして扱われる昨今、メンヘラは「着脱可能」なものとして扱われることも増えてきている。「ファッションメンヘラ」という言葉がまさにそれだ。

しかし一方で、「自分からメンヘラになろうとする人はそもそもメンヘラだ」という話もある。実際に、メンヘラになろうとするための行為が、精神に悪影響を与え、実際に(精神疾患という意味での)メンヘラになってしまうことはありうる話である。

すなわち、メンヘラは一方では着脱可能なファッションになってきているが、本来は特定の個人にそなわった、着脱不可能なものである。違う言い方をすれば、メンヘラは本来、身体に埋め込まれた、強く実存に関わる問題/物語である。

 

にもかかわらず、ファッション化している。そこでは、「メンヘラ」という言葉が持っているはずの固有の価値は失われ、ただただいい加減に消費の対象としてコピーが氾濫していく。そして、ファッション(流行)という言葉には「一時的」という含意がある。すなわち、最後にはオワコン化が待っている(注:オワコンとは「終わったコンテンツ」のこと)。

 

もちろん、「メンヘラ」という言葉を使うことの弊害もいくらでもある(これも

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)

しかし、「メンヘラ」が強く実存に関わる問題なだけに、このまま一時的流行の言葉として廃れていってしまうのは実に惜しいと個人的には思っている。

そこには、「メンヘラ」という言葉の一般化によって医療へのアクセスがしやすくなること、「メンヘラ」という言葉に価値を付与するエンパワメント、「メンヘラ」という言葉で人同士が繋がる連帯の可能性(最近では「メンヘラ展」が顕著な例だ)、そして医学的病名としての精神疾患では捉えきれない「あいまいな生きづらさ」を可視化できる力など、プラスの側面があるように思われる。