ハッピーサイエンスユニバーシティ(幸福の科学大学)のオープンキャンパスに行ってきたレポ

 夏休みですね。高校生の長期休暇に合わせて、大学はオープンキャンパスの季節です。実は僕はオープンキャンパスというものにはほとんど行ったことがなくて、なぜか関東の大学のオープンキャンパスにオフ会がてら行ったことがあるだけです。今回も同じような感じでやはり関東の大学のオープンキャンパスに行ってきました。

 そう、一部では話題の幸福の科学大学です(略称HSUなので以下HSUと表記します)。

www.news24.jp

「科学的合理性が立証できていない『霊言』を教育の根底に据えることは、学校教育法の『学術の中心』としての大学の目的を達成できるものとは認められない」などとして、開設は認められないとの判定を下した。また、審議会の委員に対し、認可の強要を意図すると思われるような不適切な行為があったと下村文科相に報告した。

 

とのこと。ということで、HSUは文科省には大学として認可されていなくて、学位はもらえないんですね。HSU側としてははそのためこう述べています↓

 

f:id:holysen:20160810114515j:plainHSUは、宗教法人幸福の科学が運営する高等宗教研究機関です。学修内容は、他の大学に勝るとも劣らないのですが、文部科学省認可の大学ではないため、学位(学士)の授与はありません。ご理解の上、ご応募ください。

 

高等宗教研究機関とのことです。なるほどー。

 HSUが大学として認可されていないのは残念な話ですが、サークルクラッシュ同好会は会誌第一号にも幸福の科学の方から寄稿いただいてお世話になっています(ホームページにpdfがあがっているので無料で読めます↓

http://circlecrash.jimdo.com/app/download/7125584389/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%90%8C%E5%A5%BD%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E8%AA%8C%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8F%B7.pdf?t=1384968642

)。

 

その恩返しというわけではないですが、今回はサークルクラッシュ同好会関東の企画として、何人かでオープンキャンパスに行ってきましたので、レポートします。

 

朝、千葉県へ

 HSUは千葉県の九十九里浜の近くにあります。夜行バスで朝、池袋に着いたのですが、そこからもだいぶ遠い。そこで青春18きっぷを購入してJR最寄の上総一ノ宮駅まで行きました。

 駅からはHSUのシャトルバスで10分ほど。既に親子連れっぽい人たちや高校生っぽい人たちがちらほら見えました。

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エロゲの背景とかに出てきそうなきれいな景色。よく見るとひまわりが咲いている。

 

 キャンパスはすごく建物が綺麗で、晴れていたのもあり、すばらしい景色が広がっています。

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でかくてきれいだなあ。

 

 

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ピラミッド型の礼拝堂がある。

 

 

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牧歌的な風景。

 

 

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建物の4階の窓から見た景色。九十九里浜が見える。案内してくれた方曰く、UFOがよく見えるらしく、UFOにも人気のスポットとのこと。

 

 さて、オープンキャンパスということで食堂で資料をいただきました。「どこの支部ですか」と聞かれましたところから考えるに、基本的には信者の方々が来るイベントのようですね。

 それで、どこから回ろうという話を一緒に来たサークラ同好会の人たちとしていました。一応自分達が人文系というのもあって、人間幸福学部に興味を持ちました。ということで、そこの学生の研究発表をまず見に行こうという話に。

 

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日程表と地図。これぞまさにオープンキャンパスだ。

 

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綺麗な食堂だ(プライバシー保護のため画像は加工しています)。

 

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部活・サークルやバイト募集などの掲示板も。

 

 大学ができて2年目なので、発表は1年生の人たちと2年生の人たちがしていました。偉人(マザー・テレサ吉田松陰など)の研究、音楽の癒しについての宗教的観点からの分析、天理教幸福の科学の比較、アドラー心理学幸福の科学教学の比較などパワーポイントを用いて発表していました。必ず大川隆法総裁先生の著書や霊言が引用され、発表に活かされるのが独特でした。

 一通り研究発表を聞いたので、食堂でご飯を食べることに。オープンキャンパスということで、カツカレーが500円で売っていました。普通においしかったです。

 

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 ご飯を食べた後、食堂についていたヤマザキショップHSU店に寄りました。雑誌や新書もちゃんと並んでいて、なかなか良かったです。ノートのデザインが綺麗なのでつい買いました。あと、記念にポロシャツも買いました。

 

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良いデザインのノート。

 

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もちろん総裁の著作もいっぱい並んでます。

 

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「過去世はベンジャミン・フランクリン!!」っていうポップ、斬新だ。

 

 次に「九鬼プリンシパルご挨拶」へ。内容的には普段の講義(経営者の理念的なやつ)の紹介でした。

 キャンパスツアーで図書館などいろんなところを巡りました。図書館は偉人の本、っていう感じのが多かったです。やはり総裁先生の本も並んでいました。映像を見るスペースなども充実していました。

 

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ピラミッド型の礼拝堂の真下にある正方形。パワースポットっぽい。

 

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研究室の並び方は普通の大学と同じ感じがします。講義資料なども公開されていましたのでいろいろといただきました。

 

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顔写真が載りまくってたので画像加工しましたが、TOEICの点数が高い人たちがいっぱいいて、英語教育の厚さを感じます。

 

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ラーニングコモンズには普通の机椅子以外にもファミレスを参考にしたテーブル席が。ファミレスみたいに飲み物飲んでる学生もいるようで。ウチの大学にもほしいなあ。

 

 キャンパスツアーに感謝しつつ、更にいろんなところを回りました。僕は人文系なのであまりよく分かりませんが、理系強そうでした。全体的には宇宙に興味が強い感じのようで。

 土地があるのもあって、作物もいっぱい作っていらっしゃるようでした。作っていらっしゃるトマトなどをいただきました。おいしかったです。

 

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室内でも作物を作っていました。糸を出してる本物の蚕を初めて見たのでちょっと感動しました。

 

 未来創造学部では美術や演技、映像作りなどもやっているようで、充実していました。演技の模擬授業を受けてみましたが、面白かったです。演技とか表現みたいなのは他の大学でもやればいいのにと思います(やってるところもあるだろうけど)。

 

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美術室には学生の石膏デッサンの絵もいっぱい置いてありました。

 

キャンパスの外の方もいろいろとありましたので、最後にそのあたりも紹介します。

 

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ポケスポットになってそう。

 

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地図によるとさっきのオブジェは「地球ユートピア実現記念碑」という名前のようだ。

 

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学生寮も充実しているようで。学生のトークによると田舎なので、コンビニとかまでも遠いとのこと。原付とか車とかあると良いそうな。でも、田舎な分勉強に集中できるらしい。確かに。

 

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めっちゃWifi飛んでた

 

 以上、HSUのオープンキャンパスのレポートです。HSUの皆様、ありがとうございました。

 

追記:

一緒に行った下駄くんもレポ―ト書いたようです。詳細だなあ↓

hiyorigeta.hatenablog.com

上手な悪口の言い方

 このツイートがリツイートで流れてきて、面白いツイートだなと思ったんですけど、一方で疑問がありました。このツイートの視点は「あなた」なわけですが、そもそも「悪口を言った人」の視点はどうなってるのかなあと。

 そこで、「あなたの悪口を言う」パターン(A)と、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をしてくる人がいるパターン(B)とを図示してみます。矢印は悪口の方向を表しています。

 

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Aは直接悪口を言うのに対して、Bは(結果的に)間接的に悪口を言っている構図になります。ツイートに戻って考えるならば、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をする人、図で言えば△の人の、赤い矢印が悪いということになります(簡単のため、Bの悪口は○→△→□の二段階で伝わるというモデルにしていますが、○→△→∇→□などのように、段階が増えることももちろんあります)。

 

 さて、この図を元にいろんな議論ができます。もちろん、ツイートのように「Aの○よりもBの△の方がタチが悪い」みたいな話もできるでしょう。そこで、僕は「いかに上手く悪口を言うか」というテーマで書いていきます。なぜなら、このテーマに沿って書くことで、図のような状況を適切に理解できるからです。

 

そもそも悪口の効用とは

 悪口を言った結果、起こることは大きく四つあるでしょう。それは「人が傷つくこと」と「評判が落ちること」と「共感を生むこと」と「ストレスが解消されること」です。それぞれについて考えていきましょう。

 


「人が傷つくこと」について

 悪口を直接言われても、悪口が間接的に伝わってきても傷つくのは傷つくでしょう。しかし、明確に相手を傷つけるための悪口などでない限りは、間接的に伝わってくる方が不安や疑心暗鬼を喚起しやすいと思います。なぜなら、伝言ゲームのように悪口が間接的に伝わると、「どのように悪口を言っていたのか」の情報は削ぎ落とされてしまうからです。悪口を言われた本人は、「どのように悪口を言っていたのか」を想像するしかありませんので、不安になります。

 むしろ、「言いたいことがあるなら直接言ってくれ」という言葉が示すように、直接言ってくれた方がすっきりする、という場合もあるでしょう。最初に引用したツイートはこのあたりの事情をよく分かっています。

 

 とはいえ、わざわざ直接悪口を言うのはケンカをしたい人ぐらいです。基本的には避けるべきでしょう。せいぜい「相手の嫌なところを改善してほしいから指摘する」が限度ですし、それも仲が悪くならない程度に柔らかい言い方をすることが必要でしょう。

 間接的な悪口も、伝わってしまう可能性があるのだから「そもそも言うべきではないのでは……」とも考えられるわけですが、悪口にはメリットもあります。それは三つ目や四つ目の論点で説明しますので、いったん保留しておきましょう。直接悪口を言うパターン(A)についてはもう論じることがありませんので、以下間接的に悪口を言うパターン(B)について論じます。

 

「評判が落ちること」について

 評判が落ちるというのは、まず悪口を言った人(○)の評判が落ちるというパターンがあります。このあたりは微妙なのですが、あまり他人の個人情報や弱点は晒さない方が無難でしょうし、あくまで悪口は「自分が被害を受けた」からこそ言うものでしょう。そうでなければ、「この人は自分のことも悪く言うのかもしれない……」と思われてしまって、信用を失いかねません。もちろん、悪口が本人(□)に伝わってしまえば、本人から不信感を抱かれてしまうでしょう。

 次に、悪口を言われた人(□)の評判が落ちるというパターンがあります。これを意図的にやるならば、まさに「情報操作」と言えるレベルでしょう。何らかの理由で相手(□)を蹴落としたいか、「□は良くない奴だから仲良くしない方がいい」といった注意喚起としてこれはありうる話です。しかし、「情報操作」をしていることが本人(□)にバレてしまうと復讐されるかもしれませんし、よろしくないでしょう。

 いずれにせよ、悪口が伝わらないように、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)は遠い方がいいでしょう。

 

「共感を生むこと」について

 「スケープゴート」という言葉がありますが、誰かを敵にすることによって味方との仲が良くなることがあります。悪口によって「俺もあいつのこと嫌い!」や「私もあの人苦手なんだよね……」といった「負の共感」を生むことがあります。それを「本音」のように「実は……なんだよね」という感じで言えば、特に効果は大きいかもしれません。しかし、共感によって仲が良くなるのは良いことかもしれませんが、一方で、スケープゴートにされてしまった人は排除されてしまう可能性があるのでそれはそれで問題です。

 そこで、「共感を生むこと」が目的の場合は、悪口の対象は遠い人間関係の方がいい(□は△から遠い方がいい)でしょう。あるいは、具体的な人についてではなく、一般的な人や、人以外の何かへの悪口を言えばいいのかもしれません。

 

「ストレスが解消されること」について

 ストレスを感じるような相手に対して、直接改善を求めるのも一つの手段でしょうが、どうしても直接言えない場合はあるものです。

 そこで、直接本人には言わないBのパターンを取るわけです。これは悪口というよりも「愚痴」という方がしっくりくるでしょう。愚痴のメリットはけっこう大きいと僕は感じます。人間、悩みや不安や怒りなどのストレスは抱えるものです。そこで、ちゃんと聞いてくれる人間がいればだいぶストレスは緩和されます。別のストレス解消手段がちゃんと機能していればいいのですが、溜め込むのはあまりよくないでしょう。

 ただ、しつこいようですが、ここでもやはり悪口が本人に伝わるとまずいです。単なる愚痴のつもりでも、言われた当の本人からすれば「悪口」でしょうから。

 

まとめ

 まず、直接悪口を言う場合(A)は「自分が嫌だと感じること」についてやんわりと改善を求めるのがいいでしょう。

 間接的に悪口を言う場合(B)は、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)が遠い方がいいでしょう。伝わると困りますから。あるいは、△がちゃんと秘密を守ってくれる相手ならばいいのかもしれません。

 ということで大したことない結論ですが、悪口を言うためには、悪口を言う相手の人間関係とは独立した人間関係の友人を持つか、秘密を守ってくれる友人を持つかが大事でしょう。

 

 しかし、最後に手の平を返すようですが、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)とが遠い場合はそもそも△が□のことを知らない場合も多いでしょうし、共感があまり得られないかもしれませんし、ひいてはストレス解消効果が薄くなるでしょう。だからこそ人は、悪口が本人に伝わってしまうのにもかかわらず、悪口を言う対象(□)から近い人(△)に悪口を吐き出したくなるのです。言い方を変えれば「悪口」はリスクとリターンの大きさが比例しているのです。

 

 余談ですが、こうして考えると、小中学校のクラスなどで「悪い噂」を流すというイジメがいかに破壊力を持っているかが分かりますね。

 

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幸福という観点から、「その場にいない人間の悪口を言っていいかどうか」という問いを途中で立ててます

『屍鬼』上映会 個人的まとめ

 サクラ荘で『屍鬼』のアニメ上映会がありました。僕は2クール目だけ参加したんですけど、6年前に観たことあってWikipediaで復習したら思い出しました。
屍鬼』は僕の好きな声優である悠木碧さんが出てるアニメというのもあるんですけど、普通にすごく面白いアニメだったという記憶があります。おそらく今まで観てきたアニメの中でもベスト10に入るぐらいだろうと。

 

 んで、6年ぶりに観てみると「やっぱりいいアニメだな」と思ったのもあるんですけど、「こういうアニメだったのか」という新鮮な発見もありました。やっぱ作品って一回観たぐらいでは評価しきれないもんですね。
 評価が変わった背景には、僕が大学生になってから人文社会科学系の勉強をしたというのがあると思います。詳しくは以下に述べます。

 

6年前の感想

 6年前に僕が評価していた点は、沙子というなんとも切ない人外キャラクターを演じる悠木碧ちゃんが素晴らしいというのもあるんですけど、それはともかくとして。
 大きく評価していた点は4点だと思います。その4点は微妙に重なり合うんですけど、パニックホラーっぽさと、シュールな笑いと、群像劇っぽさと、主張のぶつかり合いです。

 

 1点目にパニックホラーっぽさ。この作品はそもそも人間と「屍鬼」との戦いを描く作品でもあるのですが、終盤に向かうにつれてモラル・ハザードが起こってきます。「屍鬼」も元は人間なのにもかかわらず、人間側は躊躇なく「屍鬼」を殺せるようになっていきます。それどころか人間側は「屍鬼」に加担する"人間"すらも殺せるようになります。作品のキャラクターである尾崎が「それはただの殺人だ」と言っているんですけど、まさにただの殺人を犯しちゃうわけです。
極限状態だからこそ起こるモラル・ハザード(災害時に万引きやレイプが横行するみたいな)でもあるんだけど、村社会の全体主義っぽさも活きています。躊躇していた人間が平然と人を殺せるようになっていく様の描き方が見事です。

 

 2点目にシュールな笑い。そもそもホラーとシュールな笑いは相性がいいのかもしれません。キャラクターがTPOに合致しないファッション、言動を平然とやってのけていくので、どうも笑いが込み上げてきます。あとキャラクターの顔がいちいち面白いです。実のところすごく笑える作品です。

 

 3点目が群像劇っぽさ。この作品には明確な主人公がいないように思います。キャラクターが出てくるたびに字幕で名前と立場が表示され、おのおののキャラクターがおのおのの思いを抱えて勝手に動きます。彼らはストーリーを展開させるための装置ではなく、リアリティを持った人間なのだなあという感じを受けます。「勝手に動く」という点は1点目のパニックホラーっぽさにうまいこと接続しているなあとも感じます。

 

 4点目は3点目と近いですが、主張のぶつかり合いです。人間側と屍鬼側それぞれにキャラクターがいることによって、様々な主張がぶつかり合います。人間側や屍鬼側も一枚岩ではありませんので、いろんな葛藤も起こります。それが「戦い」として解決されていくのはディベート好きの僕としてはたまりません。それぞれのキャラクターがある種の記号として戯画的に描かれているのはさきほどの「リアリティを持った人間」とは矛盾するのかもしれませんが、「ストーリー展開のための装置」ではなくて、「作品全体のバランスを取るための装置」としてキャラクターは機能しているのだと思います(だからこそ、キャラクターはTPOと合わない動きをするので2点目のシュールな笑いが生じてくるんですけれども)。

 

 とまあ、6年前から抱いていた感想を出したとしても十分に面白いなと思える作品なわけですが、6年経って僕にもいろいろなものさしが追加されたわけで、今回の上映会で感じたものを新たにまとめなおしてみます。

 

屍鬼とかいう「現代思想」に忠実な作品

 一言で言えば、屍鬼優等生なのだと思います。『屍鬼』の中には、実存主義マルクス主義における社会運動論のような「主体主義」のテーマと同時に、現代思想の「反主体主義」的なテーマが含まれています(なんのこっちゃ)。また先ほどの全体主義の話や、田舎/都会という二項対立に顕著な「近代化」のようなテーマも含まれています。

 まあつまりは、読みようによっちゃあ、モロに「現代思想」っぽい作品だということです。こう解釈しちゃうのは僕が現代思想かぶれの人間だからというのもあるでしょうけど、あながち間違ってない気がします。間違っていないという説明をするために、まず『屍鬼』に見られる複数の二項対立のモチーフを書きだすところから始めます。

 

二項対立について

人間/屍鬼(われわれ/他者)
理性/本能
生/死
田舎/都会

 

 ザッとこんなもんでしょう。まず「人間/屍鬼」という二項対立。これはそのまま「われわれ/他者」と言い換えられると思います。どういうことか。設定上「屍鬼」という吸血鬼たちは元々人間です。でも、屍鬼は人間を食らう存在だから、人間からは排除されます。一言で言えば「他者」なわけです。

 これは世界史的にもよく見られる話です。ナチスによるユダヤ人の虐殺(同じ人間なのに)。「狂人」はみんなと一緒に生活していたのに、「医療の対象」として精神病院に閉じ込めたこと。西洋中心主義から見た「未開」の地域(西洋が「発展」していてそれ以外が「未開」というのはどういうことか!)、などなど。自分と差異のある存在を「他者」として排除してきた歴史があるわけです。しかし、その「他者」は実は「われわれ」と同根であり、連続性がある。そういう批判ができるわけです。

 

 というわけで、作品内では人間でありながら「屍鬼」に味方する者や、「屍鬼」になりながら人間を殺さないよう我慢する者(ここでは「飢え」という本能に負けず、理性を振り絞り、人間であろうとしている)、「屍鬼」と化しても実の親だからと、自分の血を分け与えることで殺さずに生かそうとする者などが出てくるわけです。元々から屍鬼だった者もまた、人間を殺すことの罪について真剣に考えるシーンがあります。それどころか、夏野のように「人間の味方をするわけでも屍鬼の味方をするわけでもない」と主張する第三項さえも出てきます。

 

 「生/死」という二項対立にも触れましょう。自然の摂理からすると死んだ者は生き返りません。しかし、作品の設定上、死んだ者は生き返って「屍鬼」になっています。そこで、「屍鬼」を死人として殺してやるのが正しいのか、「屍鬼」も生きている者だとして共存するのが正しいのかといった微妙な問いが生まれてくるわけです。

 

 これらに加えて、「田舎/都会」という二項対立が重ね合わされるのも面白い。主人公っぽいキャラクターである夏野は「よそ者」として都会からやってきます。また、屍鬼である桐敷家も「よそ者」です。そして、都会に憧れる少女である恵も作品におけるキーパーソンです。都会側が「よそ者」すなわち「他者」として扱われる一方で、田舎の内部にも都会側(他者側)への接近が見られるわけです。
(なお、いちいち指摘するまでもないかもしれませんが、「田舎特有の閉塞感」というテーマだけでも十分に価値のあるテーマだと僕は思います)

 

 このように、『屍鬼』の中には常に重層低音として「われわれ/他者」の二項対立があり、その二項対立は内在的に(「われわれ=人間」や「他者=屍鬼」の側から)批判されていきます。むしろ、屍鬼の社会では業績を挙げた者が幹部になれるという企業のタテ社会のようなものができていて、それはもはや「他者」とは呼びがたい。明るいタッチで描かれる屍鬼の社会は(夜にしか存在できないとはいえ)、むしろ人間=われわれの社会そのものです。


尾崎の「革命」

 この作品の主人公の一人である尾崎は、いち早く「屍鬼」の存在に気づき、「屍鬼」を打倒するために対策を練ります。しかし、味方になってくれると思われた村の人々は尾崎の話を信じようとはしません。その象徴的なセリフが次のものです。

 

 「俺たちは近代合理主義の洗礼を受けている。洗脳と言ってもいい。この世に化け物や魔法は存在しない。それが俺たちの世界に対する認識なんだ。これは伝染病なんだろう? そのうち外の誰かが怪しむはずだ。そうなればすべてが公になり事態は収まるだろう」

 

 これはまさにマルクス主義が言うところの「イデオロギー」(訂正されるべきなんだけど支配的な観念)です。屍鬼に侵食されていると気づけない村の人間は(=資本主義によって搾取されていると気づけない労働者は)「日和見主義」になるわけです。ここに僕は『屍鬼』における「主体主義」的なテーマを読み取るわけです。

 これに対し、尾崎の取る行動もまたマルクス主義的なところがあります。それは「機が熟すのを待つ」ということです。屍鬼に侵食されていることに気づきながらもじっくりと耐え、いざ、屍鬼が油断して公の場所に現れたところを尾崎はひっ捕らえます。油断して尻尾を出した屍鬼を、イデオローグ尾崎はうまいこと大衆煽動の道具に使ったわけです。そして大衆(村民)は決起します。一度動き出すと、大衆は留まるところを知りません。そういう意味ではむしろ尾崎はヒトラー的なのかもしれません。人間の中で内ゲバが起こるのも面白いですね。村社会における屍鬼との戦いが、そのまま「社会運動」の縮図になっているわけです。

 

まとめと不満

 『屍鬼』について僕が評価していることは以上のようなことです。6年間のブランクがあり、現代思想的なものさしがインストールされたことでまた新鮮な見方をすることができました。その見方がはたして良いのかは知りませんけども、現代思想のものさしで見てみるならば『屍鬼』は強度のある作品なんだなあということを感じました。もちろん、単に現代思想的なテーマがただ触れられているというだけではなくて、うまいこと料理されて作品として昇華されているなあ、という印象です。ホラーとしての王道も満たしているし、完成度の高い名作でしょう。

 ただまあ、「目新しさがある」作品というわけではないでしょう。あくまで優等生的な作品なのだなあと感じます。
 そして、僕個人の不満を言うならば、吸血鬼を扱うのであれば、もうちょっとエロくてもよかったなあと。噛まれた人間は屍鬼からの命令に従うという設定があるわけですが、そこからはマゾヒズム的なエロスも感じられます。
 実際、屍鬼に出てくる女性キャラはセックスアピールが強くて、屍鬼側のキャラである千鶴はその筆頭です。時代錯誤的なファッションがむしろかわいらしいところもありますが、「美食家」として尾崎を噛むシーンはやっぱエロいです。もっとやってほしかった。
 あと、人間から屍鬼になってすぐは強烈な「飢え」からどうしても人間を噛んでしまうという設定もあります。この理性と本能との葛藤からはやっぱり、エロさを求めてしまうのですけれども、ダメですかね。

「共通言語」からの逃走――中二病回顧(懐古)録 その零

 3つ前の記事で「教養・常識・美的センスがないことへの劣等感」の話をしました。僕は具体例として漫画を挙げましたが、実際のところそういった文化資本の蓄積は、「少年時代にどういうコンテンツに触れてきたか」に大きく左右されると思います。

 そこで今回は僕の少年時代について語りたいと思います。僕の少年時代を一言で言えば「中二病」という言葉でまとめられると思います。それは、みんなが知っている作品や話題、すなわち「共通言語」をことごとく無視してきたということです。いや、それどころか「共通言語」だからこそ僕は嫌がったのだと思います。

 

 僕はブログとは違うところでこのテーマの自分語りをしたことがあります。2年半前、漫トロピーブログにおけるクリスマスアドベントカレンダーにて、です。具体的な記事は下4つです。

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

 

 これら4つの記事はホリィ・セン少年の中二病時代を語ったものです。2年半前の調子に乗った文体なので恥ずかしいですが、もし興味があれば読んでいただけると幸いです。それぞれRPG恋愛ネット歌手(「歌い手」の前身)精通を取り上げて語っています。

 要約するならば、僕はRPGが好きで、(みんなが任天堂64をやる中)ファミコンスーファミRPGツクールなどを中心に2DのRPGばっかりプレイしてきた。keyやセカイ系が好きなネット出会い厨となり、周りからズレた恋愛観を培ってきた。視覚媒体よりも音声媒体が好きで、ネット歌手やネット声優を追ってきた。ドラゴンボールの中ではヘタレ噛ませ犬キャラヤムチャが好きで、ヤムチャ小説の二次創作スレにハマっていた、ということです。

 

 ここから分かるように僕は相当の「あまのじゃく」でした。多数派(みんな)に好まれる作品をどういうわけか避けてしまい、少数派になろうとばかりしてきました。

 小学生の頃から「男子は青色、女子はピンク色になるのはなんで?」という疑問を持ったり、「みんなと同じことをしたくない」と思ったりしてきたということはどこかで書きましたが、それがもっとも弊害となったのがこの「触れてきたコンテンツ」の部分だと思います。

 しかも、三つ前の記事でも書きましたが、僕はおそらく「サブカル」にすらなれていません。「みんなと同じことをしたくない」をこじらせた結果、「どんな文脈にも回収されたくない」になったのだと思います。

 

 それが今や、「教養・常識・美的センスがないことへの劣等感」、すなわち「みんなが知ってることを知らないコンプレックス」に悩まされているのだから難儀なものです。結論としては「みんなが知ってること」をこれから頑張って学んでいこう、ということにはなりましたが、なかなか気持ちの整理がつきません。そこで、僕は気持ちの整理のために、この「中二病」を回顧(懐古)し、墓標としての自分語りをしようと決めました。

 

 具体的にはこれから7つの連載をやります。

①追ってきたホームページやサイト(特にテキストサイト

②触れてきたブラウザゲーやフリーゲーム(特にRPG

ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ

④触れてきたコンシューマーゲー(特にファミコンスーファミ

⑤触れてきた二次創作(特にヤムチャぷよぷよ、東方)

⑥ネット声優をやってきた記録と「ワナビ」について

⑦思考の軸について(特にフロイト、社会構築主義マルクス

といったところです。まだ増えるかもしれません。暇なときに書きます。ご期待ください(誰も期待してない)

私がなぜオフパコによって童貞喪失したのかについて

※この記事は2013年3月10日に書かれた記事です。童貞喪失の勢いで書かれた記事ということもあり、現在の恋愛観・性交観とは異なりますのでご了承ください。

 

いわゆるオフパコ(インターネットを介して実際に人と出会う"オフ"を通じて、"パコ"る、つまりセックスすること)をした。
自分はノンケだが、これまで童貞非処女だった。(一つ前の日記参照)
つまり、オフパコによって童貞喪失をした。
 
ここでは、自分の個人的なオフパコの経緯や体験を詳しく述べるのではなく、そのメタにある「なぜオフパコによって童貞喪失をしたのか」という問いに回答する形で、自らのこじれてしまった恋愛観・性交観を述べる。
ちなみにオフパコの経緯は要約すれば、「スカイプちゃんねる」等のskype掲示板で知り合った人と仲良くなって会ってセックスした、というだけである。
 
さて、自分の恋愛観・性交観だが、大きく7つの、細かくは13個の命題(④と⑥以外は当為命題の形にしてる)によって説明する。
これらの内、矛盾・対立している命題がいくつもある。しかし自分にとっては、言うならばそれらが「全て同時に成り立つ」ような状態なのである。
順番にそれらの命題を述べ、説明していく。
 
今まで自分を縛ってきた、そして現在になってもなおどうしても囚われてしまう、童貞性に関する命題:
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
(論理的な構造としては、①を命題Aとすると、①´はAかつB、①´´はAかつCと考えると分かりやすいか。つまり、①´が成り立てば①も成り立つ)
 
自分はこれらの幻想に大学入学あたりまで囚われていたように思うし、今でもこれらは、ロマンティックで良いなと思う。いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観である。
いわゆる処女厨はこれらの命題に頷けるのではないだろうか。
 
 
恋愛・性交をロクに経験をしていないにもかかわらず思考だけが進み、現行の社会制度にさえも疑義を呈する命題:
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
(論理的な構造としては、②´ならば②、②ならば②´´と考えると分かりやすいか)
 
歳をとるにつれて①~①´´の命題には現実性がなくなっていく。幻想は崩壊し、その反動で思考が極端に推し進められてしまった。
 
 
恋愛の必要性を述べる命題:
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
 
自分にとって、恋愛は楽しいと思う。きっとそうに違いない。
セックスは肉体的なものではなく、精神が介在するという点で、オナニーよりも優位性があると思う。きっとそうに違いない。
ロクに体験してこなかったために、夢想だけが広がっていく。人によってはすっぱいブドウになるんだろうけど。
 
 
童貞にとっての事実命題:
④童貞はつらい。
 
なんでつらいかと言うと、「他人と比べて」ということだろう。非童貞が知っているものを自分は知らないという不安や焦燥。突き詰めればルサンチマン。つまり、非童貞への憎悪ということになる。
 
 
童貞の自己正当化のための命題:
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
 
「童貞も守れない奴には何も守れない」という言葉や「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」という都市伝説があるが、童貞→非童貞は不可逆的がゆえに、何か呪術的なものを感じる。
なお、自分の場合は「童貞非処女」というちょっと希少なステイタスだったため、なおさら簡単に失ってはいけなかった。
 
 
自らの定義を揺るがす事実命題:
⑥ヤリチンマンは合理的である。
 
ヤリチンマン、つまりセックスしまくってる人は多数と関係を持つことによって、自己利益を最大化している。その意味で合理的である。
これは命題②´によって補強されるのだが、後で説明する。
 
 
リアルに対するネットの優位性を述べる命題:
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
綺麗な命題になってなくて申し訳ないけど、要するにネットはリアルからの逃げ道とか受け皿だけでなく、積極的な意味合いもあるよと言いたい。
 
 
これらを図示すると次のようになる。①と②は包含関係を形成しているのでそれを示した。
上部の点線は時間の経過によって自分の考えが変化したことを表す。青い矢印は論理の補強、赤い矢印は矛盾・対立を表す。
れんあいかん
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
④童貞はつらい。
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
⑥ヤリチンマンは合理的である。
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
まず、青い矢印の論理の補強について順番に説明しておこう。
①´→⑦b
これは、①´にある「他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象」を見つけるためには、リアルだけでは狭いという話である。
そのために、ネットを使えば「自分にとって最も好ましい対象」が見つかる可能性は上がる。むしろ、ネットを使っていない人間は「自分にとって最も好ましい対象」を見つける努力をしていないと言ってもいいだろう。
 
①´´→⑤
①´´が童貞を守る根拠になっている。本当に大切な人のために童貞は残しておくべきだという論理だ。
 
②´→⑥
「人間の魅力はそれぞれ独立に存在している」とはつまり、Aさんもいいけど、Bさんも別の面でいいよね、という話である。
だから、相手を一人に限定しないヤリチンマンは最大利益を追えているだろうということである。
 
③´→③
セックスするためにも恋愛すべきだということ。
 
③→⑦a
スクールカーストよろしく、学校コミュニティから弾き出された連中は恋愛などできないまま学生時代を過ごす。その責任は本人にあるというよりかは、システムにあると思う。
だから、そういった者達(多くはリアルでのコミュニケーションが苦手だろう)が恋愛をするために代替システム、救済措置としてネットの存在は重要である。
 
ここでの⑦aと⑦bがオフパコの積極的な意味合いである。最初の問題提起は一応の決着を見るだろうか。
また、オフパコには愛がないという反論があるかもしれないが、そもそもそれはリアル至上主義の偏見だ。
③´の通り、愛は必要だ。しかし、自分は相手に対して恋愛をしていた。好きだからセックスした。問題はない。
 
 
さて、このように、命題同士が調和している場合もあったのだが、こじれてしまった恋愛観・性交観は、むしろいくつもの矛盾・対立を生み出してしまった。
これらを抱えながら従来の価値観で恋愛・性交をすることは難しい。
そこで、なんとかこれらの矛盾・対立への妥協案・折衷案・ジンテーゼアウフヘーベンを見出していかねばならない。
 
どのように矛盾・対立しているのかの説明と共に、解決策を示していく。
 
 
先に言っておくと、①´ならば① と ②ならば②´が成り立つのだが、これらはほぼ対偶の関係にある。(厳密には少しおかしいが)
だからこそ、①⇔②の対立と、①´⇔②´の対立がある。では個々の中身を検討する。
 
 
①´⇔②´の対立は結局、自分にとっての好みを比べて優劣をつけられるのかつけられないのかということである。
ここでの答えは、まず「優劣がつけられるかどうかは時と場合による」と考えた。時と場合によって、こっちもいいが、あっちもいい、とはなるからだ。
時と場合によるのならば、一人に定めることは愚かしいというのが結論だ。⑥でもヤリチンマンが合理的だと述べたが、自分とコミュニケーションをしていく相手・恋愛する対象と考えると、それぞれ違う良さがあるし、だからこそ何より「飽き」という要素もある。
少なくとも、常に最も好みな人間を対象にしたいのであれば、ずっと同じ人間と付き合う必要はないのだ。それは友人関係と同じことだろう。恋愛関係だからと言って、特別に考える必要はないと考えた。
 
つまり、①´を言い換えると、「その時々、その場合場合によって、最も好ましい対象を選ぶべきである」ということだ。しかし、それは時と場合によっていくらでも変わりうるし、最も好ましいのが複数であるならば、複数を選んでも良いのだ。
②´は「魅力」で考えているが、魅力があっても好ましくないこともあれば、魅力がなくても好ましいことはある。最終的な判断に直接関係するのは魅力ではなく「その時々と場合場合における好み」であるため、「魅力」ではなく「好み」で考えるとうまくいく。
 
 
①⇔②の矛盾は言うまでもないだろう。
解決策としては、まず先ほどの対立で述べたように、「最も好ましい対象」を選び続けるためには②の方を取るべきだということ。(時と場合によって、誰を選んでもよい(複数を選んでよい)ということ。)
では何故①があるのかということになるが、それは道徳的な問題である。
いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観だと最初に述べたが、この「浮気」の方の問題だ。
しかし、何故浮気をしてはいけないのだろうか。
それはおそらく、ロマンティックな美学といった面もあるだろうが、現代では先にそれが慣習化している、すなわち暗黙の制度となっているからというのが大きいだろう。
それは、日本の一夫一妻制の現状を見れば明らかである。答えを先取りするようだが、②´´にもあるように多夫多妻制が制度として正しいと自分は思う。
 
浮気という概念があること自体がそもそも間違っているのであって、誰もそんな一対一契約をしなければいいのだ。
一般化して、全員が②のように複数の恋愛関係を持ったとすれば、浮気などという概念をなくすことも可能ではないか。究極的には浮気をする必要がなくなるのだから。
現在は①が一般化している状態なので、少数の②が出てくると叩かれるのだが、②が一般化してしまえばそこまで問題は生じないように思う。
それならば、「最も好ましい対象」を選び続ける②の方が良いだろう。
 
結論としては、②が一般化した世界ならば②の方が良い。①が一般化している現状、②へのマイナスイメージの払拭を頑張るほかない。
それができないからみんな隠れて二股、浮気をするんだろうけど。解決になってない。
 
 
そして更に、これらの対立へのもう一つの解決策を提示しておこう。それは「最も好ましい対象」を極端に「神格化」することである。つまり、①で定まった「最終的な一人」を神にしてしまうことである。
こうしてしまえば、葛藤していた自分にとって、他の全ての恋愛は俗世のとるに足らぬこと、メイン腹とは違う別腹となってしまう。
永遠に辿り着けない神を想いながら(①や①´を満たす)も、通常生活している分には俗世の恋愛が楽しめる(②や②´を満たす)、というところである。
そじて実際、自分は①~①´´の「最も好ましい対象」を自分の中の神(偶像)に投射してしまうことで精神の安定を得た。別にそんな宗教的な話でもないけど。
 
 
③´に関する②⇔③´、③´⇔⑥の対立の対立は別にそもそも対立ではない。
恋愛関係が複数あっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
ヤリチンマンであっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
 
 
④を中心とした、③´⇔④、④⇔⑤、④⇔⑥の対立は、まとめると、童貞は辛くても禁を犯してはならない、事実から目をそらしてはいけない、堪えなくてはならないということである。
童貞が辛いからと言って愛なきセックス(風俗など)をしてはいけない。
童貞が辛いからと言って簡単に失って(風俗など)はいけない。
童貞は辛いからヤリチンマンを憎むのは仕方ない。しかし、その合理性まで否定してはいけない。
 
 
⑤⇔⑥の対立は、最初のセックスと、それ以降のセックスを分けて考えれば解決できる。
最初のセックスは⑤のように慎重さが必要かもしれない。
しかし、2回目以降は⑥のようにヤリチンマンが合理的である。
 
 
以上で、矛盾・対立の一定の解決が得られただろうか。
しかし、対立が解決しても、それ自体で非常に厳しい命題がいくつもあるので、それらへのフォローを二、三する。
 
①~①´´は実際厳しい。現実的に考えて①´´の対象が処女である必要はないと思った。それは大学生となった今では傲慢である。自分の性交観を縛る権利はあっても、相手の性交観を縛る権利がどこにあろうか、いやない。(反語)
その上で、やはり①~①´´を満たす「最も好ましい対象」を神格化することで一応の解決を見た。
 
②を満たすのは結局のところ、いわゆる「セフレ」ではないだろうか。セフレにも愛はあると思う。友情関係の延長線上にセフレがあってもいいと思う。
付け加えるならば、恋愛関係や夫婦関係が0か1かで規定され「付き合った/別れた」「結婚/離婚」という概念があることによって損をしていると思う。
敢えてその概念を使うにしても、別れても友達、別れてもたまにはセックスするみたいなヤリチンマンの発想はやっぱり合理的だと思う。
 
③´と言ったものの、「愛があるかどうか」は個人の主観である。まず自分は正直言ってかなり多くの人のことが好きである。
しかし、何より一番好きなものは「自分」である。その自分に対して、アプローチしてくれる(構ってくれる)人間はだいたい好きになってしまう。
相手が自分に構ってくれる+自分も相手のことが好き となると主観的には恋愛関係が成立していると考えてしまう。だからセックスができるのだ。
 
 
以上、自己正当化のために長々と書いた。もっともらしいことを言ってもことごとく台無しにしてしまった。全ては言い訳であった。

童貞非処女になった話

※この記事は2013年3月7日に書かれた記事です。現在は童貞非処女ではありません。

 

私は昔から根暗な童貞である。
高校時代、同類の友人がいた。
 
お互いに大学生となり、自分は関西に残り、彼は関東に行った。
それからも、Skypeを通じてたまに話していた。
そんなある日の昼ごろ、彼はSkypeで話しかけてきた。
 
 
掘られそうだ
 
 
と。
いわく、ネットゲームで知り合った友人を下宿に泊めたところ、バイセクシャルだったらしい。
夜になると豹変。寝込みを襲ってきたらしい。
 
自分は驚きはしたが、どうせ他人事だと思い、「何事も経験だし、やってみたらいいんじゃないの?」と返した。
そして次の日の昼のチャット。
 
 
【速報】掘られた
 
 
おう。
そうか、掘られたのか。
驚きながらも、詳細を聞いていった。いわく、尻の穴に挿入されて痛かったとのこと。
リアルに「アッー」と言っちゃったそうだ。
フェラもごっくんもしたと言っている。正直言ってちょっと信じられなかった。
 
そしていわく、なんと今もSkypeをしながらヒザに乗ってきたりして、相手の方はずっと勃起しているそうだ。
いったい、どういうことなんだ?
ちょっと前まで自分と同じ根暗だと思っていた友人。自分と同類、仲間だと思っていた童貞。
 
そのとき、自分は「負けた」と思った。
同類だと思っていた友人が突如として次のステージに進んだのだ。
それも、脱童貞といったようなありふれた話ではない。彼は非処女だ。なんと言っても童貞非処女になったのだ。
 
自分と同じだと思っていたものが、実は先に進んでいたときに感じるもの。
それは劣等感だ。
 
そこで、私は友人の相手のことを聞いた。もしよければ紹介してくれないかと。
「なんか、お前には紹介したくない」と一度言われ、すぐにまたあの感覚が襲ってくる。
彼が勝者だからなのか? 恋愛で言うところの独占欲というやつなのか?
 
 
どうにか紹介してもらうに至った自分は顔写真を交換した。
それがまたなんともかわいいのだ。失礼な話だがそこらの女性よりかわいいと思った。
二次元で「ボクっ娘」や「男の娘」等の属性を好んで消費してきた自分からすればなおさらだ。
 
中学時代の同級生にバイセクシャルがいたのだが、思えば彼も中性的だった。
よく分からないが、ホルモンバランスとかが影響しているのかもしれない。
これはいける。いやむしろヤらせてください。
 
彼の一人称は「うち」だった。学校でも友人は女子ばかりらしい。
相手の方も自分とセックスしてくれると言ってくれて、俄然やる気が湧いてきた。
 
それから長い期間が空いた。実際にヤったのは学年も1個上がった後の夏休みだった。
というのも、相手の住んでいる場所は実は遠い。友人の下宿に泊まっていたというのも、たまたま都会に来たというだけの話だった。気軽に来れる位置にはないのだ。
その間も、自分は「男とヤれる」と言いふらしていて、周りからも「いい加減ヤれよ」と言われていた。
そして実際、私はサークルの先輩から『ひとりでできるもん ~オトコのコのためのアナニー入門~』を借りて、ローションで尻穴を開発していた。
友人が挿入されたときに痛かったというのだから準備が必要だと思ったのだ。お風呂で指を入れて試行錯誤している内に力の抜き方が分かった。指2本なら普通に入るようになった。
 
 
彼は京都に行きたいと言っていた。青春18きっぷを勧めるなどして、着々と準備を進めていった。
そしてその日がきた。青春18きっぷを使っていた彼は夜遅くになってから来たのであるが、友人も帰省していたため、最終的には3人で自分の実家に集まった。
彼に会ったとき、内心少し落胆した。写真の写り方を見るに、わざとかわいく見えるように撮ってるなとは思っていたが、実際に会ってみれば、男の見た目だった。
 
しかしまあ、来てもらったからにはヤるしかない。実家にいて1時頃だった。ワンチャンこのまま3Pまであるかと思っていたが、友人は「空気読んで帰るわ」と言った。
空気を読んでいるかどうかは分からなかったが、内心踏みきれないでいたのは事実だ。
3時頃になって眠くなってきた。彼が遠くから来たというのもあったので、一緒にシャワーを浴びることにした。
彼は少し恥ずかしがっているようだったが、自分は家の風呂でシャワーを浴びるだけという感覚なので気軽にすませた。
そして、自分の部屋にはベッドが1つあるだけだったので、ともかく同じベッドに入った。
 
*****
 
彼が言う。「寝るの? 寝るの?」
自分も少し気恥ずかしかったので、照れ隠しに何も言わずに彼の身体に触れた。
彼もそれに反応して触り返してくる。電気の消えた部屋の中で、自分は勃起していた。
 
自分が赤子だったころの母親を除けば、愛撫されるということは初めての感覚だった。
予想以上に感じた。自分は乳首が特に感じるのでそこを触られたり舐められたりしたとき、「声が漏れる」という感覚を初めて味わった。
隣の部屋では両親が寝ているのだが、バレたらどうするんだとは思ったが、漏れるものは仕方なかった。
いつしか、下の方にも手は伸びていった。私は強い刺激に思わず身をこわばらせた。
 
男の方が男性器のどこが気持ち良いか分かるとは聞いていたがなるほど、彼のフェラチオは上手いように思った。
自分はイかなかったが、かねてからのフェラチオを自分もすることにした。
男の見た目とは言え、中性的な印象を受けていた彼も、こっちの方は自分よりも男らしかった。
 
舐めてばかりでも始まらないと思い、早々にくわえ込んだ。ついでに手が空いていたので玉を触った。
しばらく続けていると彼は自分を止めた。至りそうだったのだ。自分は「いや、最後までいこう」と言った。
そして、自分の口の中にそれは出た。自分の部屋でやっている以上、床や布団は極力汚したくなかったというのが本音だ。
精飲は自分ので少しやったことがあったが、他人のでもできた。少しえずいた感じだったが、彼のお茶をもらうと、案外なんということはなかった。
 
 
そして最後は、挿入だ。童貞だとか処女だとか、そういう概念はこの挿入が象徴的に扱われてるからこそ強く意識されてしまうのだと思う。
コンドームなどはなかった。童貞がそんなもの持ってるわけがない。いや、準備しようと思えばできたのだろうが、友人もつけなかったと言っていた。コンドームをつけてしまえばやはり、一生敗北の苦渋を舐め続けることになるのではないかと思った。
もちろん、リスキーだとは思っていた。複数の男とヤっていたらしい彼にはエイズ検査を受けてくれないかと一度お願いしたが、断られた。せっかくのチャンスなのだから機嫌を損ねるわけにもいかなかったのだ。
 
準備していたぺペローションを指に塗り、自分の尻を慣らした。よし、今日も指2本は入る。しかし、彼のは入るだろうか。
彼はそれなりに熟練しているようで、自分が上、彼が下の、騎乗位と言うのだろうか。性知識に疎い自分は正確には知らないが、彼いわくその体勢が一番入れやすいのだという。
そのまま沈んでいった。案外すんなりと入った。友人と違ってほとんど痛いとは感じなかった。そして彼が上下に動く。つられて自分も上下に動く。
直腸に異物が当たる感じがした。前立腺を開発しているわけではないので、気持ち良いとは感じなかったが、面白い感覚だった。上下移動している内に抜けてしまった。
 
――ノリノリで書いている印象を受けるかもしれないが、このときには正直少しうんざりしていた。電気を消して触り合っている当初は興奮して勃起していたものだが、触り合っている内にこいつやっぱり男じゃないか、という感情が芽生えてきたのだ。自分のソレはすっかり萎えていた。
だから、抜けてしまったときも、「まあいいか」と思った。次は自分も挿入してみるかと思った。しかし萎えているのだ。
普段使っているオカズのことなどを考えて、なんとか勃たせたものの、いざ入れようという段階になってやっぱり萎えた。2回ほどやったがやはり萎えてしまう。
こうして自分はノンケだと確信したのであった。好奇心から男と触り合うことはできても、強く男だと意識した途端に性的興奮は冷めてしまうのだ。
 
*****
 
一緒にシャワーを浴びてすぐに寝た。
次の日、京都に行きたいと言っていた彼と、友人と共に3人で京都には行ったものの、特に京都らしいところに行くことはなかった。
しまいには、ゲーセンとかに行く始末。一度ヤってしまって、自分としては彼のことは――Skype上ではあんなに大事に扱っていた彼のことは――どうでもよくなってしまったのだ。
今では自分から彼に話しかけることはない。彼が話しかけてきたらテキトーに対応するという程度だ。
 
余談だが、金策に困っている自分は治験を始めようとしている。その健康診断で、HIV抗体は陰性だと出たのであった。

「センスのある奴」を殺したい

要約:漫トロピーってサークルで漫画を勧め合っているんだけど、「センス」が問われる。自分の「好き」な作品がみんなが「良い」と思う作品と一致しない。
自分の好きな作品はオタクでもサブカルでもない中途半端なものだ。
一般化して言うと、センスと近い問題に「教養」や「常識」といった問題がある。「教養」はだいたい知識なので、後からでもなんとかなる。「常識」は知識と感覚の間の「身体知」みたいなところあるけど、いちおう常識が大事な理由が明確なのでまだ身に付けやすい。でも「センス」を身に付けるのはめっちゃ難しい。だって「Aは良くてBは悪い」っていう美的な判断をする必然性がないんだもの。「たまたまそうなっている」だけなんだもの。
だから「センス」は社会的構築物。そしてセンスがない人を不当に差別するのはクソ。社会的構築物とは言え、ルールはルールだから、それを変えるためにはひとまず従っていかなきゃならんので、誰か僕がセンスを得るために助けてください。

 

京大漫トロピーと「ランキング」

 僕は大学にもう6年間もいるのですが、京大漫トロピーという「漫画を読むサークル」に所属しています。いわゆる「漫研」と違うのは、描くのではなく読むのが専門だというところです。読むのに特化しているだけあって「評論」要素が強く、毎年漫画を評論する会誌を発行しています。
 その会誌の中で、毎年「漫画ランキング」を作っています。その年に「動きがあった」漫画のランキング1位から30位までを作り、全員分集計して総合ランキングを作ります。まあ「動きがあった」と言ってもその年に始まった漫画を入れるパターンが一番多いように思います。
 その「ランキング」を作ることに顕著なのですが、漫トロピーの活動はある種の「啓蒙」にあります。「ワンピース」や「進撃の巨人」のような誰もが知っている漫画ではなく、「あまり世間には知られていないけども実は素晴らしい漫画や漫画家」を発掘する、そんなコンセプトが含まれています。
 誤解を恐れずに大胆に言い換えると、それは「漫画通だけが知っているセンスの良い漫画」をオススメするということでもあります。漫トロピーの中では実際、ランキングに限らず漫画を読む「センス」を競い合うような文化があります。例えばある作品を評論するときにしばしば「読めてる/読めてない」という話をすることがあります。皮相な読み方をしている人に「ちゃんと読めてる???」と煽ることもあります。

 

良い漫画/悪い漫画?

 同様に、ランキングを作るということは何かしら「良い漫画」と「悪い漫画」とを決めるということでもあると思います。なぜなら、はっきりと複数人のランキングを総合することによって順位が決まってしまうわけですから。一人のランキングを見れば「好き/嫌い」で順位が決まっていることもよくありますが、総合してみると単なる好き嫌いを超えた「良い/悪い」になっているようにも感じます。

 僕は漫トロピーで計6回ランキングを作る中で、この「好き/嫌い」と「良い/悪い」との葛藤を常にしてきました。つまり、単純に自分の好きな漫画を30作品並べるだけだったらそれは独り善がりで、そこに公共性がないということです。単に自分が好きな漫画だけではなくて、「他人に勧める価値のある」漫画もあるなと僕は感じています。だからランキングを作る際には、必ずしも上位に1年間で好きだった漫画を入れるわけではありません。「好き」と「良い」(勧める価値がある)とが両立した漫画を入れることもあります(もちろん「好き」だけで入れる漫画もいっぱいありますが)。

 この「好き/嫌い」と「良い/悪い」の二本の軸が混ざり合い、結果的に1位から30位という一本の軸ランキングを作るということがまさに「センスの競い合い」になってしまうのだと僕は感じています(もちろん、これは僕のランキングの作り方であって、他の漫トロ会員がどう考えているかは知りませんが、共感してくれる人もいるかと思います)

 

 「良い/悪い」という表現をしてしまうと、あたかも客観的な「センスが良い/悪い」というものがあるかのようですが、実際には社会的な合意によって(ランキングの場合は多数決で)「センス」なるものが作り出されているに過ぎません。漫トロピーにはランキング作成の前に自分の推したい漫画をうまく他人のランキングに紛れ込ませる、「政治」をする人もいます(ひどい場合はもはや「ゴリ推し」とも言えるでしょう)。これも一つの合意形成のやり方でしょう。

 

 しかし、ランキング作成の過程が客観的なものでないとしたら、「好き」と「良い」との境界線はどこにあるのでしょうか? 実は同じなんじゃないでしょうか。声のデカい人が「好き」なものが「良い」になるような権力が働いているのではないでしょうか。
僕はこの事態を自覚する前から、こんなことを言っていました↓

 

 2012年なので漫トロピー3年目のツイートですね。「政治」によって自分の私的な「好き/嫌い」を公的な「センスが良い/悪い」にしようとしている過程が伺えます。これは漫トロピーの一部にそういう「政治」的な文化があったということなんじゃないかなと思います(あるいは勝手に僕がうがった読み取り方をしているだけかもしれませんが)

 

「好き」と「良い」は一致するか~ホリィ・センの場合

 しかし、実際のところどうでしょうか。僕が「好き」だけじゃなくて「良い」(勧めたい)にも配慮した漫画ですが、例えば、2010年に1位にした『バニラスパイダー』(阿部洋一)や、2013年に4位にした『MAMA』(売野機子)、2015年に2位にした『つまさきおとしと私』(ツナミノユウ)ですが全体では30位前後や50位前後にしかきませんでした。

 一方、2012年に2位にした『人間仮免中』(卯月妙子)、9位にした『変身のニュース』(宮崎夏次系)は全体でも1位2位でした。

 また、2013年に7位にした『宇宙怪人みずきちゃん』(たばよう)や2014年に3位にした『レストー夫人』(三島芳治)、6位にした『満月エンドロール』(野村宗弘)は全体では10位前後でそこそこの順位でした。

 上記の漫画は全部「好き」だけじゃなく「良い」とも思った漫画なのですが、その「良い」が全体と合致しないことも多かったのです。もちろん、そもそも読んでない人が多い漫画はランキング上位にはきませんし、どの漫画が人気か空気を読んでみれば、「これはそんなに上位にはこないだろう」とか「これは上位にくるだろう」という予測は"ある程度は"つきます。しかし、僕にはやはり完全には分かりません。

 

「好き」と「良い」が一致する人々

 そして、そもそもそのような「好き」と「良い」とを区別するような配慮をする以前から、「好き」と「良い」が一致している人もいるように感じます。「好き」を強引に「良い」に変えるような「政治」をしている人もいるとは言いましたが、「政治」をしなくても最初から「好き」と「良い」が合致しているような人もいるのです(例えば、そういう人が上位に挙げた漫画は、全体ランキングでも上位にきたり、漫トロピー外の世間でもその漫画がちゃんと評価されたりする)

 例えば僕は漫画の神様と言われる手塚治虫の漫画が苦手で、とても読めたものではないと思っているのですが(そもそもそんなに読んでないけど)、そういう人は手塚治虫の漫画など、世間で高い評価を受けている漫画を好んで読むことができます(そもそも僕は古い漫画が苦手なんです。萩尾望都とか川原泉とか藤子不二雄とか頑張って読んでみても、ただただしんどいだけです)

 あるいは「サブカル」と言われる漫画を例に挙げてもいいかもしれません。近年流行りのサブカル系漫画家、めっちゃテキトーに挙げると例えば高野文子今日マチ子、西村ツチカ、市川春子田中相ふみふみこ九井諒子、宮崎夏次系、模造クリスタル、panpanyaとかでしょうか。挙げた中には僕が好きな漫画家もいますが、僕からすると全然理解できない漫画を描く人もいます。

 もっとマイルドに流行ってるのだと浅野いにおとかになるでしょうし、もっとディープに流行ってるのだとガロ、アックス系になるのでしょうか。
 いろいろ例を挙げましたが、そういう漫画の「良さ」を理解できるかどうかは世間的にはいわゆる「センス」だという話になります。しかし、「センス」ってなんなんでしょうか?

 

オタクとサブカル

 「センス」ってなんなんだ? という問題提起をしておいて、話はちょっと変わりますが、もはや死語となってしまった「萌え」という言葉があります。しかし、今の漫画・アニメ・ゲーム等のオタク界隈を見渡してみて、世間で「萌える」作品は何かということを考えると、僕の偏見では、ラブライブアイマスガルパン、そしていわゆる「日常系」(きらら系とも言える)なんじゃないかなぁと思います(女性向けだとヘタリアとかタイバニとかFreeとか、より分かりやすい流行がある気がする。今は「おそ松くん」が圧倒的に流行っているようですがそれはさておき)
 で、これらは「流行ってる」わけです。かなりの多数派が好んでいて、お金を落としているわけです。でも実は僕はこれも理解できないんです。ラブライブアイマスガルパン、「日常系」、どれもハマれませんでした。たぶん男性キャラが出てこなくて女性キャラしか出てこない系が無理なんだと思います。
 ところで、先ほど挙げた「サブカル」という言葉は「オタク」との対義語であることもあります。つまり、オタクが志向する「萌え」は即物的で低俗な感じがする一方で、サブカルは何か意味ありげで高尚な感じがします(あくまで感じです)。この対比から、サブカルの人は「センスの良さ」によって俗物的なオタクから差異化することで自意識を保っていると言えるかもしれません。
 しかし、数や売り上げだけで見るとたぶんオタク側の方が優勢です。数が多い方がセンスが良い、というわけでもないのです。

 

理解できないことの劣等感

 「オタク」と「サブカル」とを対比的に語りました。が、しかし僕はどっちもあまり理解できないのです。好きになるとしたら、流行ってなどいない中途半端なものばかりなのです(むしろkeyのエロゲだったりセカイ系作品だったりが好きなので、ゼロ年代的な時代遅れの感覚なのだと思います。ちなみにロボットアニメとかSFとかも弱いです)


 僕はこのような「理解できなさ」に劣等感があります。人とコミュニケーションが取りたいのに、「流行っている」ものが好きになれません。それは、「流行っているから好きになれない」というあまのじゃくではなくて、ただただ本当に「良さが分からない」のです。これが「センスがない」ということなのでしょうか?

ここまで長々と、漫トロピーや漫画内部の話、そして少しだけ一般化してオタクやサブカルの話をしてきました。しかし、それらも相当狭い界隈の話だということは皆さんもお分かりだと思います。この話を一般化します。

 

 

教養コンプレックス

 「センス」の問題について述べる前に近い話として「教養」についての問題について述べます。

 例えば、僕は教養がないのを恥じています。京都大学に入学してからというもの、上記のオタク的な教養だけでなく、文学、学問(特に人文社会科学)、音楽、文化(特に演劇とか)に対する教養がなさすぎて恥じています。しかも昔から読書の習慣がなかったために、そういった教養を今から得るのにも苦労しています。周囲の京大生は大学入学以前からそういった教養に得ている人間が多いのです。

 例えば、僕は新鮮な驚きを得ています。漠然と理学部で入学し数学をやろうとしていたものの、授業を受けてみると精神分析や心理学、哲学やジェンダー論、社会学などに惹かれ、転学部しました。周りの京大生は授業が面白くないと言いますが、僕にとっては大学の授業は新鮮な驚きに溢れた楽しいものです。

 これらは別の言い方をすれば「文化資本」の差と言えるでしょう。育ちの良さとかいうやつです。僕はよく僕以外の家族全員が高卒であることを「自慢げに卑下」しますが、生育環境においてさまざまな文化に触れられなかったことを半分恨んでいます。ただ、残りの半分では生育環境に感謝しています。人間はおそらく、親から押し付けられた文化や、「そこにあるのが当たり前」の文化を深く追究しようとすることが少ないからです。僕は人文社会科学に大学生になってから触れたからこそ、新鮮な驚きを以って好きになり、それを研究しようという強い力があるのだと思います(だから今は社会学を専攻しています)。

 このように、僕の中では「教養」はある程度決着のついた問題です。もちろん教養コンプレックスは常に持ち続けるでしょうが、それがあったからこそ今、社会学を専攻して研究することができているのだと思います。だからこれは良かったのだ、と思っています。

 「教養」は大部分は「知識」の問題です。しかし、ここまで述べてきた「センス」は「感覚」の問題のようにも思えます。「センス」について考える前に、おそらくその中間ぐらいにある「常識」(英語ではコモンセンス)について考えてみます。

 

常識という身体知

 常識が問題になるときを回想してみると、例えば、僕は父親にさんざ「そんなん常識やろ」と、無知やマナーのなってなさをなじられてきました。父親からすれば当たり前に理解できることが僕にはどういうわけか理解できなかったわけです。

 例えば、ある人に店員に対する態度がそっけないことと、水を他人の分まで入れないことを咎められたことがありました。僕は店員は他人なのだから愛想を良くする必要はなかったし、水を入れるペースは個人の自由なのだから本人に任せるのが普通だと思っていましたが、いずれもできれば印象が良くなってコミュニケーションが円滑になることを考えると、やった方がいいことだと思い改めるようになりました。

 この他にも、挨拶ができることなどはいわゆる「常識」に含まれるでしょう。
しかし、その「常識」はどうすれば知ることができるのでしょうか。挨拶はある程度学校が教えてくれるでしょうが、水を他人の分まで入れるなんてことは学校が教えてくれるわけではありません。僕は「コミュニケーションや恋愛を学校は教えてくれない」ということを以前に書きましたが、だからこそ差がつきやすいのだと思います。やはりこれもまた生育環境の問題になります。「マナーをちゃんと教える家庭の子どもはマナーがいい」、そういうレベルの話だということはまず言えます。

 ただ、これだけだと「教養」と同じです。「常識」においてはもう一つポイントがあります。それは「知っている」ことと「できる」ことの間に大きな壁があることがある、ということです。例えば、僕が小中学生のときに、狭い机と椅子の間を同級生の女子が通ったとき「ごめんなさい」と言っていました。それはもはや無意識に言っているように感じました。「身体化」された知識だということです。それに対して僕なんかは、挨拶を自然にできないことがあります。「今は挨拶をする場面だ」という意識を持って初めて挨拶をする、なんてことが珍しくありません。前者の女子が自動的に挨拶をしているのに対して、僕は意識しないとできないことがある、というわけです。

 この女子と僕との間の差異はなぜ生じたのでしょうか? 確かに、一つには家庭環境もあるかもしれません。しかし、僕の実感では「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うことの必要性は親から何度も教わってきました。ここに大きな差はないように思います。
おそらく僕が思うに生得的な差、つまり才能の差もあるんじゃないかということです。挨拶をすべき場面になったら自動的に挨拶ができるような身体知を得るのが上手い人と、それが下手な人。その差なのかなと。

 しかし、このような「常識」もまた、一度知ってしまえばなんとか訓練して身に付けることはできる範囲のものだと思います。実際僕はこの約3年間、主にサークルクラッシュ同好会の活動を通じてコミュニケーションに関する研究や訓練を重ねてきました。そのため、それなりに上手くコミュニケーションができるようになったという自負はあります。

 さて、問題なのは「センス」です。

 

必然性のないセンス

 オタクについて語っているところで、「良さが分からない」という話をしました。これがまず問題になります。一般化すれば、美的センスの問題です。例えば絵を見たり音楽を聴いたりしても、「なんとなく好き」ぐらいはあります。しかし、その法則性が僕にはよく分かりません。しかも、世間には「上手い絵」と「下手な絵」や、「良い音楽」と「悪い音楽」があるというのですから困りました。そりゃあ、子どもが描いた絵と絵の上手い大人が描いた絵だったら明らかに大人が描いた絵の方が綺麗だなというのはなんとなく分かります。しかし、一定以上上手い人同士の絵の違いなんて僕には分かりません。音楽なども同様です。

 その他、僕は人間と直接関わるものやコミュニケーション以外には興味がなかなか持てないという話をしたことがあります↓

holysen.hatenablog.com


 ツイッターのプロフィールに書いていますが、具体的には自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)、旅行、食べ物、酒、タバコ、コーヒー、ペット、ミステリ小説、小説等における風景描写などに興味をなかなか持てません。というのもやはり「良さが分からない」からです。食べ物なんかでも好き嫌いはあるにはあるし、どういう系統が好きでどういう系統が嫌いかも分かるんですが、細かい違いが分かりません。一定以上おいしいと思ったらほぼ同じになってしまいます。

 あといくつか例を挙げます。例えば顔の良し悪しが僕にはあまり分かりません。極端な話、茶髪の女子大生を見るとみんな顔が同じに見えます。例えば「好みのタイプの顔」も明確にはありません。髪が短い人も髪が長い人も好きです。同性でカッコイイと思う人もバラバラですし、芸能人で顔が良いとされている人の顔を見ても、何が良いのかピンときません。僕が「ブス」という言葉が使えない理由はこれもあります(もちろん差別的だからというのが大前提ですが)。

 ここまでの例だと「言葉以外の感覚」が僕には分からないようにも思われますが、実は「文章の上手い下手」も僕にはあまりよく分かりません。分かりにくい文章と分かりやすい文章との違いはある程度分かると思いますが、文学的・詩的センスみたいなものがよくわからんのです。文学作品を好む人の間で「好きな/嫌いな文体」が話題になることがありますが、そもそも僕には違いが分からないことも多いですし、分かったとしても好きとか嫌いとかがよく分からないのです。

 

 このようなセンスがないことによって、劣等感をおぼえることがあるのは一つ問題ですが、何より実際に困ることが多いというのが一番の問題です。

 具体的には衣食住の問題で困ります。衣食住は人間が文化的な生活を送る上で基本的なものです。そのため、まず第一に重要になるのは機能性でしょう。衣においては体温調節や身体の防御の機能、食においては栄養摂取の機能、住においては温度調節、利便性等々。これに関してはよく分かりますし何の問題もありません。問題なのはそこに「美」が介在してくることです。
例えば、服装によってモテたりモテなかったり、キモがられたりするわけです。料理や食べ物によって強くコミュニケーションが促進されたり感覚が共有できたりして、人と人との距離が近づく大きなキッカケになるわけです。住んでいる場所の美しさもまた、服装と同様に人間自身の評価と直結するわけです。

 僕はこの約3年間でコミュニケーションは身に付いた気がしますが、この衣食住の美的判断はからっきしダメです。確かに、サークラお姉さんサークルクラッシュ同好会のご意見番の一人。現在はOG)の助けを借りて服を買ってみたり、実家を出て自炊することでオムライスが作れるようになったり、洗い物や洗濯やゴミ出しみたいな家事が普通にできるようになったといった成長はあります(以前の僕からしたら"圧倒的成長"だと思う)。これからも徐々に身に付いていくところはあるでしょう。しかし、そもそも根本的にセンスが絶望的なのです。服の似合う似合わないとか合わせ方とかがやっぱり分かりません。少ないご飯をでかすぎるお茶碗に盛ったり、朝のシリアルをみそ汁を飲む和食器に入れたりしたら呆れられました。何も僕は奇をてらってこういうことをしているんじゃないんです。本当に良いことと悪いことの区別がつかないんです。ちなみに僕は「ダサい」という言葉をなかなか使わないのですが、その理由は自分の美的判断に自信がないからです。

 

①なぜこのようなセンスが僕にはないのでしょうか?

②このようなセンスはこれから身に付けることができるのでしょうか?

③そしてこのようなセンスのない人はどのように生きていけばよいのでしょうか?

 この三つの問いに以下で答えます。

 

ホリィ・センの服装について(①の解答)

 まず、なぜ僕にセンスがないのかという問題ですが、これもやはり「常識」のときと同じ解答になるでしょう。生育環境と才能です。まず生育環境から語りましょう。恥ずかしながらずっと母親に服を買ってもらって、家事も全部やってもらっていた身としては、そのようなセンスを身に付ける機会がありませんでした。最近になってそういう機会がようやくやってきた、ということです。
 もちろん、買おうと思えば服は買えただろうし、料理もやろうと思えば実家でもやれるという反論はできます。しかし、必要性がない以上やらないですし、服に関しては自意識の問題も介在してきます。幸い「男は仕事、女は家事」のような古いジェンダー規範を内面化しているわけではないのでその影響はないのですが、「オシャレをしようとする自分」にたまらなく耐えられなかったのです。例えば何か服を自分の好みで買ってみて着てみたとして、それを他人に笑われるのを想像すると死にたくなります。要するに自分のセンスに自信がないんです。失敗して笑われるのが怖いんです。
 そうして僕は服装について頑張らない自分を合理化しました。僕は高校生のとき、学校では一年中半袖カッターシャツ、一年中タンクトップ半ズボンというのを通していました。今にして思うとこれは「服装」問題からの逃避だったのです。そういうキャラを作ることによって服装について考えなくて済んでいた、それがとても楽だったのです。言い換えれば「オシャレ」がすっぱいブドウになっていたのです。

 

 そして、才能についてです。最近になってようやく服を買える環境が整い、自意識の問題もだいぶ解決しました。でもやっぱり先ほど述べたようにセンスがありません。これはもちろん、経験が足りないということもあるでしょう。しかし、よくよく考えてみると様々な人が服を着て街中を歩いているわけです。センスのある人が人々を意識的に観察すれば、服装における良い悪いはそのうち分かってくるように思います。ファッション雑誌に載っているスタイルの良い悪いもおそらく分かるはずです。

 そこには才能の問題も絡んでいると僕は思います(センスがない自分を正当化するためにそう思いたいだけかもしれません)。では、生得的な才能のない人はセンスを身に付けることができないのでしょうか? 二つ目の問いです。

 

経験を積むことの可能性(②の解答)

 身に付けることができない、とまでは思いません。「常識」について述べたところで、意識的に訓練することで挨拶もできるようになるという話をしました。これはセンスについても当てはまると思います。しかし問題なのは先ほども述べたように「必然性」がないことです。なぜAはセンスが良くて、Bはセンスが悪いのか、それが分からないのです。「常識」の場合は論理的に理解できることばかりなのでまだしもなんとかなります。しかし、センスの方は論理的に理解することが困難なのです。

 こう言うと、発達障害の問題にも関わってくるように思います。ある発達障害においては、挨拶を身に付けることが難しい人もいるようで、そういう人は「常識」の面で苦労するでしょう。また、顔の区別をつけたり、色の区別をつけたりするのが苦手な人もいるようです。そういう人が美的センスを身に付けることはかなり難しいでしょう。

 とはいえ、僕はおそらく発達障害ではないでしょう(少なくとも重度なものではないでしょう)し、経験を積むことで身に付いたものもあります。例えば、僕は演劇をやったり、その枠組みでアニメを観たりしている中で「演技」の良し悪しは分かるようになった気がします。声の強弱高低緩急や動きのキレ、共演相手の掛け合いが噛み合っているかなど、判断するための軸がちゃんとあります。これは僕が長い間「演技」に触れてきた賜物でしょう。

 だから、身に付くスピードは遅いかもしれませんが、相応の経験を積むことによって身に付きうるのだと思います。そこでポイントとなるのはちゃんと必然性を理解するということです。センスの良い人は「なんとなく」で分かるらしいのですが、僕にはそれが無理です。だから、ちゃんと理由を確かめるようにしています。よくよく突き詰めてみると、「必然性があってそうなっている」ものは世界にはたくさんあります。もちろん理由がなく「たまたまそうなっている」ものもたくさんあると思います。そのときは「そういうものなんだ」と受け入れるしかないので、パターンを覚えることが必要になってくるでしょう。

 

美という社会的構築物

 そもそもなぜ、理由なく「たまたまそうなっている」ものがあるのでしょうか? ここで理解の助けになるのが「本質主義構築主義」という考え方だと思います。例えば顔の良し悪しを語るときに、目の大きさや鼻の高さ、輪郭や肌の色など、様々な観点があります。しかし、目が大きい方がいいのか小さい方がいいのか、鼻は高いほうがいいのか低い方がいいのか、輪郭はゴツゴツした方がいいのか細い方がいいのか、肌は黒い方がいいのか白い方がいいのかなどは国や文化によって異なります。

 つまり、本質的に「美しい」とされているものがあるわけではなくて、ただただ「こういう顔が美しいですよ」という社会的な合意が存在するだけです。それが文化として沈殿し、いつしか「当たり前」になったわけです。だから、同じ国や地域であっても時代が変われば美しい顔が変化することもあります(よく言うのは平安時代に美しいとされた女性の顔は、いわゆる「おかめ」のような顔だという話。現代とは著しく異なる)

 つまりこれらはたまたま社会的に構築されたものなのです。もちろん、本質的な美も少しは存在するのでしょうが(例えば、「黄金比」や「機能美」、進化心理学的な話によって説明されるもの)、大きなウェイトを占めているのは社会的構築物だと思います。

 

センスのない人への差別と責任(③の解答)

 ここまで語った上で三つ目の問いに移りましょう。センスのない人はどのように生きていけばいいのかという話です。まず僕が声を大にして言いたいことは、センスがないことによる不当な差別をすることはいけない、ということです。不当な差別とはなんでしょうか。抽象的に言えば、僕は「責任のない人間に責任を押しつけること」がその代表例だと思っています。例えば、発達障害によって生じる問題については本人に責任がある範囲は少ないでしょう。発達障害に限らず、「できない人間」に対して「それは甘えだ」というような自己責任論、シバキ主義を僕は嫌っています。

 社会学の世界においても、「障害」という日本語は英語ではimpairmentとdisabilityに分かれるという議論があります。障害は障害者に内在的な障害(impairment)であるというよりも、外部の社会の側が何かをできなく(disableに)しているというものです。バリアフリー化がわかりやすい例ですが、社会の工夫次第で、障害は障害ではなくなるわけです。この考え方においては責任は本人にあるのではなく、社会にあるわけです。

 もっと具体的な話をしましょう。人間には得意不得意があります。勉強が得意な人もいれば、絵を描くのが得意な人、スポーツが得意な人、またこれまで述べてきたような「常識」がスムーズに身に付けられる人や、衣食住における美的センスのある人もいます。

 これらはたまたま得意なだけです。しかし、その「得意なもの」のそれぞれは、社会生活と深く関係しているものもあれば、ほとんど関係していないものもあります。思うに「リア充」が「オタク」を差別するようなよくある構造は、別の言い方をすれば「たまたま得意なものが社会適合的だった人」が「たまたま得意なものが社会適合的ではなかった人」を差別しているということだと思います。人間のリソースは限られていますから、何を得意になるかは選ぶしかないように思います。

 しかも子どものうちはしばしば「自分で選べる」のではなく、たまたま親や環境によって決められてしまうものです。そこには、人生を左右する大事な決定が、責任能力のない子どもの内に行われてしまうという問題があるのです。それによってたまたま社会不適合になってしまった人を差別する(責任を押しつける)ことはおかしいと思います。なぜなら、その選択には責任がないからです。

 

できることとできないこと、環境決定論

 ここまで他人に対する差別の問題について語りましたが、「自分がどのように生きていくか」はまた別の次元の問題です。「できないことをできるようになるために自分をシバいて成長できるよう頑張る」のか、「無理にできないことをやろうとはせずに、得意なことだけをやって生きていく」のかは微妙な問題だと思います。
 例えば、恋愛をしない人がいたとして、その人は恋愛をそもそもする気がないのか、それとも「したいのにもかかわらずできない」のかどっちなのかによって大きく問題は変わってくるように思います。そもそもする気がないんであれば、する必要はないと僕は思います。確かに全員が恋愛をせず、結婚をせず、子どもを生まないということになれば人類は滅亡するので問題はあるかもしれませんが、少ない個人の選択としては自由が認められるべきでしょう。

 「したいのにもかかわらずできない」人については「できるようになる」方が本人の幸福にとってはおそらく良い場合が多いでしょう。だから「成長できるように頑張る」という選択肢が良いとは思うのですが、ここで勘違いしない方がいいと思うのは「頑張る」の意味です。恋愛するために何かしら決心をしたところで、本当にその決心の通りに動けるのでしょうか? 恋愛を勉強に置き換えてみたら分かりやすいかもしれません。「勉強したいけどできない」という人が勉強しようという強い意志だけで勉強できるでしょうか? 僕はなかなかできないと思います。これは僕の人間観なのですが、人間はそんなに強いものではありません。自分の好きなこと以外をやるのは苦痛なんです。そこで重要になるのは「意志」ではなく「環境」です。具体的には、物理的な環境だけでなく、周囲の人間関係も含めた環境を構築することが大事だと僕は考えます。このような「環境決定論」的な考え方についてはまた別の記事で述べたいと思います。

 

社会を変えるための社会への順応

 社会構築主義について述べると、「社会に責任があって、自分には責任がない。だから自分は頑張らなくていいんだ」と述べていると勘違いされるのではないかと恐れます。そういうわけではありません。僕らは社会というゲームに既に投げ込まれてしまっています。だからひとまずはそのルールに従うしかありません。しかし、そのルールは変わりうるし、変えられうるということが社会構築主義から得られる学びです。

 漫トロピーの2011年ランキングで『バード ~最凶雀士VS天才魔術師~』という漫画が全体ランキング1位になりましたが、これは漫トロピー内でもかなり多くの人が予想していなかった展開でした。「センスのある人」が常に勝利するわけではありません。なぜなら、その「センス」は社会的に構築されたものなのですから、今センスのある人が、10年後にはセンスのない人になりうるわけです。

 だから、僕は自分や自分が好きな人が生きやすくなるように社会を変えたい。変えられると信じています。しかし、社会を変えるためには多くの人から認められなければなりません。ということはやはり既存のルールにおける「センス」が重要になってくるわけです。「センスのない人でも生きられるような社会を作るために、センスを身に付けなければならない」というのは逆説的ですが、どうしようもない事実だと思います。だから僕はセンスを身に付けたいです。

 しかし、先ほども述べたようにこれは僕自身の意志だけではどうにもなりません。環境の力を借ります。周りの人間の力を借ります。他力本願です。どうか僕を服屋に連れていってください。何が良くて何が悪いのかを教えてください。僕がセンスを得るための行動できるように、興味を喚起してください。お願いします。

 

追記

 「差別」って言葉を使ったらこわい人から「どういう意味でその言葉を使っているんだ」みたいなツッコみを受けました。正直、後になって見返すと「差別」って言葉はあんまり適切じゃない気がしてきました。「差別」は「同等の扱いをすべきなのにもかかわらず、異なる扱いをすること」だと定義できると思うんですが、僕の主張は「能力の異なる人間に同等の水準を求めるのは酷だから、能力に応じた異なる扱いをすべきだ」ということなんで、むしろ「区別しろ」って言ってます。だから「差別」って言葉にはあまりそぐわないですね。センスのない人への「攻撃」とか「バッシング」とかに読み替えていただいた方が多分分かりやすいです。

 まあ、言いたかったことは「人が社会に適合できるかどうかは基本的に本人の選択の問題ではないので、社会に適合できないことの責任は薄い。だからそれに対するバッシングはみんなやめようね」ということです。