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ブルーエゴナク『ラッパー Rapper』感想

 今日はアトリエ劇研へ演劇を観に行った。ブルーエゴナクの『ラッパー Rapper』という作品。久々に面白い作品を観たので感想を書く。「考えさせられる」作品という感じではなかったので、箇条書きで。

 

●役者がみんな上手かった。特に主役の野村明里さんは、第一幕/第二幕の落差にシビれた。第一幕で仏頂面だったのはそういうキャラなのか、それとも地なのか、気になっていた。他の役者(特にしらとりまなさん)はすごい表情の演技がちゃんとしてたので、浮いてるなあと。

 しかし、第二幕になって納得。お婆ちゃんを表す貼りついたスマイルは、まるで阿修羅の顔のようだった。観客は笑ってたけど、僕は鳥肌が立った。

 うめっち(楳山蓮)もすごい第一幕のシリアスなラップとは打って変わり、第二幕では軽快な動き。最後のシーンも迫力があった。

 佐々木峻一さんは前の努力クラブの公演(『ピエロありがとうピエロ』)を観たときに不気味な演技をする人だなと思っていたけど、なるほどそういう人なようだ。今回はすごく役に合っていたと思う。自然ではない動きがヒップホップのダンスをうまいこと戯画化していた。

 

●音響・照明がきっちりキマっててすごい。演劇の音響照明って、どうしても「あ、音響だ/照明だ」ってなって現実に引き戻されるところがあるんだけど、『ラッパー Rapper』では音響であること、照明であることをあまり意識しなかったし、自然に入ってきた。

 

●舞台セットはシンプルなんだけど、マイクのコードの処理をうまいこと使ってて、これは演劇らしい動きだなあ。

 

●第二幕が65年後という設定は思いきった。はじめは笑ってしまったものの、すごくちゃんと成立していた。認知症とかになると先に衰えていく機能と、後になっても残る機能があるというのはよく言われることだと思うが、その意味で言えばラップにおける「バイブス」は、老いてもなお残るものなんだなあと。戦争のような描写が仄めかされていたが、それに対する希望がラップによって見出された。クロノ・トリガーってゲームのA.D.2300年(文明が壊滅した後の未来世界)を思い出した。

 成立していたからこそ正直見入ったし、突然老人が死ぬみたいな描写はむしろちょっと白けてしまった。個人的には要らなかったかなあと思う。アリなんかもしれんけど。

 

●ラップ抜きにしてもシンプルに面白い作品だと思ったが、もちろんラップもカッコ良かった。ラップに対するメタ的な視点も導入しつつ、日常の世界からラップの世界へと滑らかに接続していたのは手堅い。

 それにしても、ラップで言葉を聞くと入ってきかたが全然違う(月並みな感想)。最近、演劇を観ていると「言葉に詰まる」を見たいな、と思ってしまうので、ラップのように流れでスルスル入ってくる言葉を聞くと、それとの対比で「言葉に詰まる」がより映えるなあとか思った。

ただの日記

昨日の夜、演劇の稽古が終わって京都駅に向かうバスに乗る。
22時ぐらいに着く、と母親にメールを入れる。
最寄り駅に着いて実家へ。
ご飯を食べてなかったので、冷凍食品をいただく。
母親が自分の部屋に布団を用意しておいてくれた。従来自分が使っていたベッドは実家で同居し始めたお婆ちゃんが使っているそうだ。
夜、いつも夜更かししすぎなこともあって寝れない。部屋に何もないのが落ち着かない。

 

今日の朝。何度かのn度寝を繰り返して起きる。11時からびわこホールで『わかったさんのクッキー』(岡田利規脚本・演出なので観たかった)を次男と観ることになっている。10時前ぐらいになったのでのっそりと起きる。
お婆ちゃんと言葉を交わす。もう5年ぐらい会っていない気がするが、覚えているのだろうか。冷蔵庫ののむヨーグルトを飲む。賞味期限が2ヶ月切れたフルーツグラノーラがあり、腐らすのはもったいないと思って牛乳をかけて食べる。食べきった、よし。
未だに実家に住んでいる長男が階段を下りてくる。「びわこホールってどうやって行けばいいんだっけ、石場駅だっけ」と聞く。そのとおりだった。

 

コンビニに寄り、wifi乞食。京阪電車に乗り、びわこホールへ。京阪電車は萌え推しだ。ユーフォニアムが推されている。毎日聞いていたはずの駅名も、久々に聞くと懐かしい。忘れるはずがないと思っていたのにすっかり忘れていた。

 

びわこホールは初めて入ったかもしれない。ガラン、としていた。最近演劇とかを観ると寝るクセがあるので満を持してコーヒーを飲む。関西限定。甘い。
『わかったさんのクッキー』は子ども向けだろうなとは思っていたが、思っていた以上に子どもが多かった。ほとんど親子連ればかりだった。受付もそういうタイプの受付だった。次男が現れる。数ヶ月ぶりだ。
会場の中も物販やらいろいろ。なかなかに頑張っている。あらゆるおもちゃや素材のようなものが縦横無尽に置かれていた。後から見ると床が変な模様をしていた。配置はけっこう精密に計算されていたようだ。劇の途中でキャッチャーがつけるプロテクターを着ていたのが妙に印象的だった。ZETTという野球少年だった自分にはなじみのあるメーカーだった。

 

 

数ヶ月前にチェルフィッチュを一度観ただけなので、偉そうなことは言えないけども、夢のシーンの演出はまさにそれらしかった。ボールの中をぐるぐるぐるぐるかき混ぜる中で、円形の舞台の役者たちも回転し、言葉も「ぐるぐるぐるぐる……」と反復されていた。岡田利規の本を読んでみたいなあと最近思ってるけど読んでない。
舞台上に残ったおもちゃ?を最後、子どもが遊んでいいように、子どもを舞台上に上げていた。思えば最初から、観客の子どもたちとコミュニケーションを取っていた。観客に子どもが多い舞台においては、観客を無視せずにその場でコミュニケーションを取るという方法が有効なようだ。

 

びわこホールを出て、兄がびわこホテルに案内してくれた。カレーのイベントがやっていた。三種類のカレーを食べた。おいしい。大津市マスコットキャラクターである「大津光ルくん」がいたのでありもしない愛郷心が湧いてきた。ということで一緒に写真を撮る。

 

 

兄と一緒にアーカスというところのゲーセンに行く。ROUND1が入っていて、スポッチャなどが導入されていた。なかなかに栄えている。ゲーセンは変わりばえしなかったが、UFOキャッチャーはいろいろある。100円1クレで、500円を入れてもクレジットが増えない方式だということを兄は笑っていた。そういうことに笑う感覚をこの兄弟は共有している。強いて言うならスヌーピーがほしかったけど、明らかに取れなさそうだったのでやめた。
あまりガチ勢向けのゲームをやりたくもないので、QMAをやった(ガチ勢向けかも)。600円で12クレジット。「ひなビタ」検定(放映されたアニメの検定)はやらなければよかった。基本的に二人とも得意だったのは文系学問、理系学問で、実写ドラマや芸能人がひたすら苦手だった。スポーツもけっこう苦手。テレビを観ないんだなあ。

 

兄と別れて実家へ帰る。母もちょうど朝出かけていたようだがぴったり同時に帰宅した。特にやることもなく、「本でも読むんやったら部屋で読んだら? クーラーあるし」と言われ、部屋で持ってきていた本を読もうとする。あまり気乗りしないので押入れを漁る。挫折していた基礎統計学の本が出てくる。ちょっと覗くと、大数の法則の項が出てきて気になる。久々にその章を最初から読もうと思って、ベイズの定理の項を見ていた。ふむふむ集合を図示すると分かりやすいなあ。布団に寝っころがりながら読んでいたのでいつの間にか寝ていた。晩ご飯だと長男に言われ階段を下りる。

 

母はけっこうな量を作っていた。冷蔵庫にあった残り物の野菜も出していた。自分も普段あまりご飯を食べてないので、ここぞとばかりにいただいておいた。
前日眠れなかったのがつらかったので、サクラ荘に帰ることにした。カステラやらなんやらをもらう。自分の部屋をもう一度漁ると、お目当てのAチャンネル目覚まし時計とヴィクトリカ目覚まし時計(アニメ『GOSICK』のDVD全12巻をアニメイトで購入して特典で手に入れたお宝)が出てきた。これで携帯目覚まし生活とはおさらばだ。悠木碧ちゃんの声で目覚める日々が始まるぞ。
しかし、押入れには悠木碧ちゃんに費やした歴史が詰まっていた。あのとき信じていたもの、そのとき持っていた価値観は何年か経てばこうも簡単に変わるものなのか。ハマっていた過去を「黒歴史」だとは全く思っていないし、ハマったからこそ見えたものはいっぱいあると思う。人間が生きていく上で「ハマる」ということ。もっと一般化して病理的な概念である嗜癖(アディクション)について、自分はもっと研究していかなければならないなあと、京都駅に向かうJRでぼんやりと考えていた。

ハッピーサイエンスユニバーシティ(幸福の科学大学)のオープンキャンパスに行ってきたレポ

 夏休みですね。高校生の長期休暇に合わせて、大学はオープンキャンパスの季節です。実は僕はオープンキャンパスというものにはほとんど行ったことがなくて、なぜか関東の大学のオープンキャンパスにオフ会がてら行ったことがあるだけです。今回も同じような感じでやはり関東の大学のオープンキャンパスに行ってきました。

 そう、一部では話題の幸福の科学大学です(略称HSUなので以下HSUと表記します)。

www.news24.jp

「科学的合理性が立証できていない『霊言』を教育の根底に据えることは、学校教育法の『学術の中心』としての大学の目的を達成できるものとは認められない」などとして、開設は認められないとの判定を下した。また、審議会の委員に対し、認可の強要を意図すると思われるような不適切な行為があったと下村文科相に報告した。

 

とのこと。ということで、HSUは文科省には大学として認可されていなくて、学位はもらえないんですね。HSU側としてははそのためこう述べています↓

 

f:id:holysen:20160810114515j:plainHSUは、宗教法人幸福の科学が運営する高等宗教研究機関です。学修内容は、他の大学に勝るとも劣らないのですが、文部科学省認可の大学ではないため、学位(学士)の授与はありません。ご理解の上、ご応募ください。

 

高等宗教研究機関とのことです。なるほどー。

 HSUが大学として認可されていないのは残念な話ですが、サークルクラッシュ同好会は会誌第一号にも幸福の科学の方から寄稿いただいてお世話になっています(ホームページにpdfがあがっているので無料で読めます↓

http://circlecrash.jimdo.com/app/download/7125584389/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%90%8C%E5%A5%BD%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E8%AA%8C%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8F%B7.pdf?t=1384968642

)。

 

その恩返しというわけではないですが、今回はサークルクラッシュ同好会関東の企画として、何人かでオープンキャンパスに行ってきましたので、レポートします。

 

朝、千葉県へ

 HSUは千葉県の九十九里浜の近くにあります。夜行バスで朝、池袋に着いたのですが、そこからもだいぶ遠い。そこで青春18きっぷを購入してJR最寄の上総一ノ宮駅まで行きました。

 駅からはHSUのシャトルバスで10分ほど。既に親子連れっぽい人たちや高校生っぽい人たちがちらほら見えました。

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エロゲの背景とかに出てきそうなきれいな景色。よく見るとひまわりが咲いている。

 

 キャンパスはすごく建物が綺麗で、晴れていたのもあり、すばらしい景色が広がっています。

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でかくてきれいだなあ。

 

 

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ピラミッド型の礼拝堂がある。

 

 

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牧歌的な風景。

 

 

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建物の4階の窓から見た景色。九十九里浜が見える。案内してくれた方曰く、UFOがよく見えるらしく、UFOにも人気のスポットとのこと。

 

 さて、オープンキャンパスということで食堂で資料をいただきました。「どこの支部ですか」と聞かれましたところから考えるに、基本的には信者の方々が来るイベントのようですね。

 それで、どこから回ろうという話を一緒に来たサークラ同好会の人たちとしていました。一応自分達が人文系というのもあって、人間幸福学部に興味を持ちました。ということで、そこの学生の研究発表をまず見に行こうという話に。

 

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日程表と地図。これぞまさにオープンキャンパスだ。

 

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綺麗な食堂だ(プライバシー保護のため画像は加工しています)。

 

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部活・サークルやバイト募集などの掲示板も。

 

 大学ができて2年目なので、発表は1年生の人たちと2年生の人たちがしていました。偉人(マザー・テレサ吉田松陰など)の研究、音楽の癒しについての宗教的観点からの分析、天理教幸福の科学の比較、アドラー心理学幸福の科学教学の比較などパワーポイントを用いて発表していました。必ず大川隆法総裁先生の著書や霊言が引用され、発表に活かされるのが独特でした。

 一通り研究発表を聞いたので、食堂でご飯を食べることに。オープンキャンパスということで、カツカレーが500円で売っていました。普通においしかったです。

 

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 ご飯を食べた後、食堂についていたヤマザキショップHSU店に寄りました。雑誌や新書もちゃんと並んでいて、なかなか良かったです。ノートのデザインが綺麗なのでつい買いました。あと、記念にポロシャツも買いました。

 

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良いデザインのノート。

 

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もちろん総裁の著作もいっぱい並んでます。

 

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「過去世はベンジャミン・フランクリン!!」っていうポップ、斬新だ。

 

 次に「九鬼プリンシパルご挨拶」へ。内容的には普段の講義(経営者の理念的なやつ)の紹介でした。

 キャンパスツアーで図書館などいろんなところを巡りました。図書館は偉人の本、っていう感じのが多かったです。やはり総裁先生の本も並んでいました。映像を見るスペースなども充実していました。

 

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ピラミッド型の礼拝堂の真下にある正方形。パワースポットっぽい。

 

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研究室の並び方は普通の大学と同じ感じがします。講義資料なども公開されていましたのでいろいろといただきました。

 

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顔写真が載りまくってたので画像加工しましたが、TOEICの点数が高い人たちがいっぱいいて、英語教育の厚さを感じます。

 

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ラーニングコモンズには普通の机椅子以外にもファミレスを参考にしたテーブル席が。ファミレスみたいに飲み物飲んでる学生もいるようで。ウチの大学にもほしいなあ。

 

 キャンパスツアーに感謝しつつ、更にいろんなところを回りました。僕は人文系なのであまりよく分かりませんが、理系強そうでした。全体的には宇宙に興味が強い感じのようで。

 土地があるのもあって、作物もいっぱい作っていらっしゃるようでした。作っていらっしゃるトマトなどをいただきました。おいしかったです。

 

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室内でも作物を作っていました。糸を出してる本物の蚕を初めて見たのでちょっと感動しました。

 

 未来創造学部では美術や演技、映像作りなどもやっているようで、充実していました。演技の模擬授業を受けてみましたが、面白かったです。演技とか表現みたいなのは他の大学でもやればいいのにと思います(やってるところもあるだろうけど)。

 

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美術室には学生の石膏デッサンの絵もいっぱい置いてありました。

 

キャンパスの外の方もいろいろとありましたので、最後にそのあたりも紹介します。

 

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ポケスポットになってそう。

 

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地図によるとさっきのオブジェは「地球ユートピア実現記念碑」という名前のようだ。

 

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学生寮も充実しているようで。学生のトークによると田舎なので、コンビニとかまでも遠いとのこと。原付とか車とかあると良いそうな。でも、田舎な分勉強に集中できるらしい。確かに。

 

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めっちゃWifi飛んでた

 

 以上、HSUのオープンキャンパスのレポートです。HSUの皆様、ありがとうございました。

 

追記:

一緒に行った下駄くんもレポ―ト書いたようです。詳細だなあ↓

hiyorigeta.hatenablog.com

上手な悪口の言い方

 このツイートがリツイートで流れてきて、面白いツイートだなと思ったんですけど、一方で疑問がありました。このツイートの視点は「あなた」なわけですが、そもそも「悪口を言った人」の視点はどうなってるのかなあと。

 そこで、「あなたの悪口を言う」パターン(A)と、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をしてくる人がいるパターン(B)とを図示してみます。矢印は悪口の方向を表しています。

 

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Aは直接悪口を言うのに対して、Bは(結果的に)間接的に悪口を言っている構図になります。ツイートに戻って考えるならば、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をする人、図で言えば△の人の、赤い矢印が悪いということになります(簡単のため、Bの悪口は○→△→□の二段階で伝わるというモデルにしていますが、○→△→∇→□などのように、段階が増えることももちろんあります)。

 

 さて、この図を元にいろんな議論ができます。もちろん、ツイートのように「Aの○よりもBの△の方がタチが悪い」みたいな話もできるでしょう。そこで、僕は「いかに上手く悪口を言うか」というテーマで書いていきます。なぜなら、このテーマに沿って書くことで、図のような状況を適切に理解できるからです。

 

そもそも悪口の効用とは

 悪口を言った結果、起こることは大きく四つあるでしょう。それは「人が傷つくこと」と「評判が落ちること」と「共感を生むこと」と「ストレスが解消されること」です。それぞれについて考えていきましょう。

 


「人が傷つくこと」について

 悪口を直接言われても、悪口が間接的に伝わってきても傷つくのは傷つくでしょう。しかし、明確に相手を傷つけるための悪口などでない限りは、間接的に伝わってくる方が不安や疑心暗鬼を喚起しやすいと思います。なぜなら、伝言ゲームのように悪口が間接的に伝わると、「どのように悪口を言っていたのか」の情報は削ぎ落とされてしまうからです。悪口を言われた本人は、「どのように悪口を言っていたのか」を想像するしかありませんので、不安になります。

 むしろ、「言いたいことがあるなら直接言ってくれ」という言葉が示すように、直接言ってくれた方がすっきりする、という場合もあるでしょう。最初に引用したツイートはこのあたりの事情をよく分かっています。

 

 とはいえ、わざわざ直接悪口を言うのはケンカをしたい人ぐらいです。基本的には避けるべきでしょう。せいぜい「相手の嫌なところを改善してほしいから指摘する」が限度ですし、それも仲が悪くならない程度に柔らかい言い方をすることが必要でしょう。

 間接的な悪口も、伝わってしまう可能性があるのだから「そもそも言うべきではないのでは……」とも考えられるわけですが、悪口にはメリットもあります。それは三つ目や四つ目の論点で説明しますので、いったん保留しておきましょう。直接悪口を言うパターン(A)についてはもう論じることがありませんので、以下間接的に悪口を言うパターン(B)について論じます。

 

「評判が落ちること」について

 評判が落ちるというのは、まず悪口を言った人(○)の評判が落ちるというパターンがあります。このあたりは微妙なのですが、あまり他人の個人情報や弱点は晒さない方が無難でしょうし、あくまで悪口は「自分が被害を受けた」からこそ言うものでしょう。そうでなければ、「この人は自分のことも悪く言うのかもしれない……」と思われてしまって、信用を失いかねません。もちろん、悪口が本人(□)に伝わってしまえば、本人から不信感を抱かれてしまうでしょう。

 次に、悪口を言われた人(□)の評判が落ちるというパターンがあります。これを意図的にやるならば、まさに「情報操作」と言えるレベルでしょう。何らかの理由で相手(□)を蹴落としたいか、「□は良くない奴だから仲良くしない方がいい」といった注意喚起としてこれはありうる話です。しかし、「情報操作」をしていることが本人(□)にバレてしまうと復讐されるかもしれませんし、よろしくないでしょう。

 いずれにせよ、悪口が伝わらないように、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)は遠い方がいいでしょう。

 

「共感を生むこと」について

 「スケープゴート」という言葉がありますが、誰かを敵にすることによって味方との仲が良くなることがあります。悪口によって「俺もあいつのこと嫌い!」や「私もあの人苦手なんだよね……」といった「負の共感」を生むことがあります。それを「本音」のように「実は……なんだよね」という感じで言えば、特に効果は大きいかもしれません。しかし、共感によって仲が良くなるのは良いことかもしれませんが、一方で、スケープゴートにされてしまった人は排除されてしまう可能性があるのでそれはそれで問題です。

 そこで、「共感を生むこと」が目的の場合は、悪口の対象は遠い人間関係の方がいい(□は△から遠い方がいい)でしょう。あるいは、具体的な人についてではなく、一般的な人や、人以外の何かへの悪口を言えばいいのかもしれません。

 

「ストレスが解消されること」について

 ストレスを感じるような相手に対して、直接改善を求めるのも一つの手段でしょうが、どうしても直接言えない場合はあるものです。

 そこで、直接本人には言わないBのパターンを取るわけです。これは悪口というよりも「愚痴」という方がしっくりくるでしょう。愚痴のメリットはけっこう大きいと僕は感じます。人間、悩みや不安や怒りなどのストレスは抱えるものです。そこで、ちゃんと聞いてくれる人間がいればだいぶストレスは緩和されます。別のストレス解消手段がちゃんと機能していればいいのですが、溜め込むのはあまりよくないでしょう。

 ただ、しつこいようですが、ここでもやはり悪口が本人に伝わるとまずいです。単なる愚痴のつもりでも、言われた当の本人からすれば「悪口」でしょうから。

 

まとめ

 まず、直接悪口を言う場合(A)は「自分が嫌だと感じること」についてやんわりと改善を求めるのがいいでしょう。

 間接的に悪口を言う場合(B)は、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)が遠い方がいいでしょう。伝わると困りますから。あるいは、△がちゃんと秘密を守ってくれる相手ならばいいのかもしれません。

 ということで大したことない結論ですが、悪口を言うためには、悪口を言う相手の人間関係とは独立した人間関係の友人を持つか、秘密を守ってくれる友人を持つかが大事でしょう。

 

 しかし、最後に手の平を返すようですが、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)とが遠い場合はそもそも△が□のことを知らない場合も多いでしょうし、共感があまり得られないかもしれませんし、ひいてはストレス解消効果が薄くなるでしょう。だからこそ人は、悪口が本人に伝わってしまうのにもかかわらず、悪口を言う対象(□)から近い人(△)に悪口を吐き出したくなるのです。言い方を変えれば「悪口」はリスクとリターンの大きさが比例しているのです。

 

 余談ですが、こうして考えると、小中学校のクラスなどで「悪い噂」を流すというイジメがいかに破壊力を持っているかが分かりますね。

 

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holysen.hatenablog.com

幸福という観点から、「その場にいない人間の悪口を言っていいかどうか」という問いを途中で立ててます

『屍鬼』上映会 個人的まとめ

 サクラ荘で『屍鬼』のアニメ上映会がありました。僕は2クール目だけ参加したんですけど、6年前に観たことあってWikipediaで復習したら思い出しました。
屍鬼』は僕の好きな声優である悠木碧さんが出てるアニメというのもあるんですけど、普通にすごく面白いアニメだったという記憶があります。おそらく今まで観てきたアニメの中でもベスト10に入るぐらいだろうと。

 

 んで、6年ぶりに観てみると「やっぱりいいアニメだな」と思ったのもあるんですけど、「こういうアニメだったのか」という新鮮な発見もありました。やっぱ作品って一回観たぐらいでは評価しきれないもんですね。
 評価が変わった背景には、僕が大学生になってから人文社会科学系の勉強をしたというのがあると思います。詳しくは以下に述べます。

 

6年前の感想

 6年前に僕が評価していた点は、沙子というなんとも切ない人外キャラクターを演じる悠木碧ちゃんが素晴らしいというのもあるんですけど、それはともかくとして。
 大きく評価していた点は4点だと思います。その4点は微妙に重なり合うんですけど、パニックホラーっぽさと、シュールな笑いと、群像劇っぽさと、主張のぶつかり合いです。

 

 1点目にパニックホラーっぽさ。この作品はそもそも人間と「屍鬼」との戦いを描く作品でもあるのですが、終盤に向かうにつれてモラル・ハザードが起こってきます。「屍鬼」も元は人間なのにもかかわらず、人間側は躊躇なく「屍鬼」を殺せるようになっていきます。それどころか人間側は「屍鬼」に加担する"人間"すらも殺せるようになります。作品のキャラクターである尾崎が「それはただの殺人だ」と言っているんですけど、まさにただの殺人を犯しちゃうわけです。
極限状態だからこそ起こるモラル・ハザード(災害時に万引きやレイプが横行するみたいな)でもあるんだけど、村社会の全体主義っぽさも活きています。躊躇していた人間が平然と人を殺せるようになっていく様の描き方が見事です。

 

 2点目にシュールな笑い。そもそもホラーとシュールな笑いは相性がいいのかもしれません。キャラクターがTPOに合致しないファッション、言動を平然とやってのけていくので、どうも笑いが込み上げてきます。あとキャラクターの顔がいちいち面白いです。実のところすごく笑える作品です。

 

 3点目が群像劇っぽさ。この作品には明確な主人公がいないように思います。キャラクターが出てくるたびに字幕で名前と立場が表示され、おのおののキャラクターがおのおのの思いを抱えて勝手に動きます。彼らはストーリーを展開させるための装置ではなく、リアリティを持った人間なのだなあという感じを受けます。「勝手に動く」という点は1点目のパニックホラーっぽさにうまいこと接続しているなあとも感じます。

 

 4点目は3点目と近いですが、主張のぶつかり合いです。人間側と屍鬼側それぞれにキャラクターがいることによって、様々な主張がぶつかり合います。人間側や屍鬼側も一枚岩ではありませんので、いろんな葛藤も起こります。それが「戦い」として解決されていくのはディベート好きの僕としてはたまりません。それぞれのキャラクターがある種の記号として戯画的に描かれているのはさきほどの「リアリティを持った人間」とは矛盾するのかもしれませんが、「ストーリー展開のための装置」ではなくて、「作品全体のバランスを取るための装置」としてキャラクターは機能しているのだと思います(だからこそ、キャラクターはTPOと合わない動きをするので2点目のシュールな笑いが生じてくるんですけれども)。

 

 とまあ、6年前から抱いていた感想を出したとしても十分に面白いなと思える作品なわけですが、6年経って僕にもいろいろなものさしが追加されたわけで、今回の上映会で感じたものを新たにまとめなおしてみます。

 

屍鬼とかいう「現代思想」に忠実な作品

 一言で言えば、屍鬼優等生なのだと思います。『屍鬼』の中には、実存主義マルクス主義における社会運動論のような「主体主義」のテーマと同時に、現代思想の「反主体主義」的なテーマが含まれています(なんのこっちゃ)。また先ほどの全体主義の話や、田舎/都会という二項対立に顕著な「近代化」のようなテーマも含まれています。

 まあつまりは、読みようによっちゃあ、モロに「現代思想」っぽい作品だということです。こう解釈しちゃうのは僕が現代思想かぶれの人間だからというのもあるでしょうけど、あながち間違ってない気がします。間違っていないという説明をするために、まず『屍鬼』に見られる複数の二項対立のモチーフを書きだすところから始めます。

 

二項対立について

人間/屍鬼(われわれ/他者)
理性/本能
生/死
田舎/都会

 

 ザッとこんなもんでしょう。まず「人間/屍鬼」という二項対立。これはそのまま「われわれ/他者」と言い換えられると思います。どういうことか。設定上「屍鬼」という吸血鬼たちは元々人間です。でも、屍鬼は人間を食らう存在だから、人間からは排除されます。一言で言えば「他者」なわけです。

 これは世界史的にもよく見られる話です。ナチスによるユダヤ人の虐殺(同じ人間なのに)。「狂人」はみんなと一緒に生活していたのに、「医療の対象」として精神病院に閉じ込めたこと。西洋中心主義から見た「未開」の地域(西洋が「発展」していてそれ以外が「未開」というのはどういうことか!)、などなど。自分と差異のある存在を「他者」として排除してきた歴史があるわけです。しかし、その「他者」は実は「われわれ」と同根であり、連続性がある。そういう批判ができるわけです。

 

 というわけで、作品内では人間でありながら「屍鬼」に味方する者や、「屍鬼」になりながら人間を殺さないよう我慢する者(ここでは「飢え」という本能に負けず、理性を振り絞り、人間であろうとしている)、「屍鬼」と化しても実の親だからと、自分の血を分け与えることで殺さずに生かそうとする者などが出てくるわけです。元々から屍鬼だった者もまた、人間を殺すことの罪について真剣に考えるシーンがあります。それどころか、夏野のように「人間の味方をするわけでも屍鬼の味方をするわけでもない」と主張する第三項さえも出てきます。

 

 「生/死」という二項対立にも触れましょう。自然の摂理からすると死んだ者は生き返りません。しかし、作品の設定上、死んだ者は生き返って「屍鬼」になっています。そこで、「屍鬼」を死人として殺してやるのが正しいのか、「屍鬼」も生きている者だとして共存するのが正しいのかといった微妙な問いが生まれてくるわけです。

 

 これらに加えて、「田舎/都会」という二項対立が重ね合わされるのも面白い。主人公っぽいキャラクターである夏野は「よそ者」として都会からやってきます。また、屍鬼である桐敷家も「よそ者」です。そして、都会に憧れる少女である恵も作品におけるキーパーソンです。都会側が「よそ者」すなわち「他者」として扱われる一方で、田舎の内部にも都会側(他者側)への接近が見られるわけです。
(なお、いちいち指摘するまでもないかもしれませんが、「田舎特有の閉塞感」というテーマだけでも十分に価値のあるテーマだと僕は思います)

 

 このように、『屍鬼』の中には常に重層低音として「われわれ/他者」の二項対立があり、その二項対立は内在的に(「われわれ=人間」や「他者=屍鬼」の側から)批判されていきます。むしろ、屍鬼の社会では業績を挙げた者が幹部になれるという企業のタテ社会のようなものができていて、それはもはや「他者」とは呼びがたい。明るいタッチで描かれる屍鬼の社会は(夜にしか存在できないとはいえ)、むしろ人間=われわれの社会そのものです。


尾崎の「革命」

 この作品の主人公の一人である尾崎は、いち早く「屍鬼」の存在に気づき、「屍鬼」を打倒するために対策を練ります。しかし、味方になってくれると思われた村の人々は尾崎の話を信じようとはしません。その象徴的なセリフが次のものです。

 

 「俺たちは近代合理主義の洗礼を受けている。洗脳と言ってもいい。この世に化け物や魔法は存在しない。それが俺たちの世界に対する認識なんだ。これは伝染病なんだろう? そのうち外の誰かが怪しむはずだ。そうなればすべてが公になり事態は収まるだろう」

 

 これはまさにマルクス主義が言うところの「イデオロギー」(訂正されるべきなんだけど支配的な観念)です。屍鬼に侵食されていると気づけない村の人間は(=資本主義によって搾取されていると気づけない労働者は)「日和見主義」になるわけです。ここに僕は『屍鬼』における「主体主義」的なテーマを読み取るわけです。

 これに対し、尾崎の取る行動もまたマルクス主義的なところがあります。それは「機が熟すのを待つ」ということです。屍鬼に侵食されていることに気づきながらもじっくりと耐え、いざ、屍鬼が油断して公の場所に現れたところを尾崎はひっ捕らえます。油断して尻尾を出した屍鬼を、イデオローグ尾崎はうまいこと大衆煽動の道具に使ったわけです。そして大衆(村民)は決起します。一度動き出すと、大衆は留まるところを知りません。そういう意味ではむしろ尾崎はヒトラー的なのかもしれません。人間の中で内ゲバが起こるのも面白いですね。村社会における屍鬼との戦いが、そのまま「社会運動」の縮図になっているわけです。

 

まとめと不満

 『屍鬼』について僕が評価していることは以上のようなことです。6年間のブランクがあり、現代思想的なものさしがインストールされたことでまた新鮮な見方をすることができました。その見方がはたして良いのかは知りませんけども、現代思想のものさしで見てみるならば『屍鬼』は強度のある作品なんだなあということを感じました。もちろん、単に現代思想的なテーマがただ触れられているというだけではなくて、うまいこと料理されて作品として昇華されているなあ、という印象です。ホラーとしての王道も満たしているし、完成度の高い名作でしょう。

 ただまあ、「目新しさがある」作品というわけではないでしょう。あくまで優等生的な作品なのだなあと感じます。
 そして、僕個人の不満を言うならば、吸血鬼を扱うのであれば、もうちょっとエロくてもよかったなあと。噛まれた人間は屍鬼からの命令に従うという設定があるわけですが、そこからはマゾヒズム的なエロスも感じられます。
 実際、屍鬼に出てくる女性キャラはセックスアピールが強くて、屍鬼側のキャラである千鶴はその筆頭です。時代錯誤的なファッションがむしろかわいらしいところもありますが、「美食家」として尾崎を噛むシーンはやっぱエロいです。もっとやってほしかった。
 あと、人間から屍鬼になってすぐは強烈な「飢え」からどうしても人間を噛んでしまうという設定もあります。この理性と本能との葛藤からはやっぱり、エロさを求めてしまうのですけれども、ダメですかね。

「共通言語」からの逃走――中二病回顧(懐古)録 その零

 3つ前の記事で「教養・常識・美的センスがないことへの劣等感」の話をしました。僕は具体例として漫画を挙げましたが、実際のところそういった文化資本の蓄積は、「少年時代にどういうコンテンツに触れてきたか」に大きく左右されると思います。

 そこで今回は僕の少年時代について語りたいと思います。僕の少年時代を一言で言えば「中二病」という言葉でまとめられると思います。それは、みんなが知っている作品や話題、すなわち「共通言語」をことごとく無視してきたということです。いや、それどころか「共通言語」だからこそ僕は嫌がったのだと思います。

 

 僕はブログとは違うところでこのテーマの自分語りをしたことがあります。2年半前、漫トロピーブログにおけるクリスマスアドベントカレンダーにて、です。具体的な記事は下4つです。

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

mantropy.hatenablog.com

 

 これら4つの記事はホリィ・セン少年の中二病時代を語ったものです。2年半前の調子に乗った文体なので恥ずかしいですが、もし興味があれば読んでいただけると幸いです。それぞれRPG恋愛ネット歌手(「歌い手」の前身)精通を取り上げて語っています。

 要約するならば、僕はRPGが好きで、(みんなが任天堂64をやる中)ファミコンスーファミRPGツクールなどを中心に2DのRPGばっかりプレイしてきた。keyやセカイ系が好きなネット出会い厨となり、周りからズレた恋愛観を培ってきた。視覚媒体よりも音声媒体が好きで、ネット歌手やネット声優を追ってきた。ドラゴンボールの中ではヘタレ噛ませ犬キャラヤムチャが好きで、ヤムチャ小説の二次創作スレにハマっていた、ということです。

 

 ここから分かるように僕は相当の「あまのじゃく」でした。多数派(みんな)に好まれる作品をどういうわけか避けてしまい、少数派になろうとばかりしてきました。

 小学生の頃から「男子は青色、女子はピンク色になるのはなんで?」という疑問を持ったり、「みんなと同じことをしたくない」と思ったりしてきたということはどこかで書きましたが、それがもっとも弊害となったのがこの「触れてきたコンテンツ」の部分だと思います。

 しかも、三つ前の記事でも書きましたが、僕はおそらく「サブカル」にすらなれていません。「みんなと同じことをしたくない」をこじらせた結果、「どんな文脈にも回収されたくない」になったのだと思います。

 

 それが今や、「教養・常識・美的センスがないことへの劣等感」、すなわち「みんなが知ってることを知らないコンプレックス」に悩まされているのだから難儀なものです。結論としては「みんなが知ってること」をこれから頑張って学んでいこう、ということにはなりましたが、なかなか気持ちの整理がつきません。そこで、僕は気持ちの整理のために、この「中二病」を回顧(懐古)し、墓標としての自分語りをしようと決めました。

 

 具体的にはこれから7つの連載をやります。

①追ってきたホームページやサイト(特にテキストサイト

②触れてきたブラウザゲーやフリーゲーム(特にRPG

ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ

④触れてきたコンシューマーゲー(特にファミコンスーファミ

⑤触れてきた二次創作(特にヤムチャぷよぷよ、東方)

⑥ネット声優をやってきた記録と「ワナビ」について

⑦思考の軸について(特にフロイト、社会構築主義マルクス

といったところです。まだ増えるかもしれません。暇なときに書きます。ご期待ください(誰も期待してない)

私がなぜオフパコによって童貞喪失したのかについて

※この記事は2013年3月10日に書かれた記事です。童貞喪失の勢いで書かれた記事ということもあり、現在の恋愛観・性交観とは異なりますのでご了承ください。

 

いわゆるオフパコ(インターネットを介して実際に人と出会う"オフ"を通じて、"パコ"る、つまりセックスすること)をした。
自分はノンケだが、これまで童貞非処女だった。(一つ前の日記参照)
つまり、オフパコによって童貞喪失をした。
 
ここでは、自分の個人的なオフパコの経緯や体験を詳しく述べるのではなく、そのメタにある「なぜオフパコによって童貞喪失をしたのか」という問いに回答する形で、自らのこじれてしまった恋愛観・性交観を述べる。
ちなみにオフパコの経緯は要約すれば、「スカイプちゃんねる」等のskype掲示板で知り合った人と仲良くなって会ってセックスした、というだけである。
 
さて、自分の恋愛観・性交観だが、大きく7つの、細かくは13個の命題(④と⑥以外は当為命題の形にしてる)によって説明する。
これらの内、矛盾・対立している命題がいくつもある。しかし自分にとっては、言うならばそれらが「全て同時に成り立つ」ような状態なのである。
順番にそれらの命題を述べ、説明していく。
 
今まで自分を縛ってきた、そして現在になってもなおどうしても囚われてしまう、童貞性に関する命題:
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
(論理的な構造としては、①を命題Aとすると、①´はAかつB、①´´はAかつCと考えると分かりやすいか。つまり、①´が成り立てば①も成り立つ)
 
自分はこれらの幻想に大学入学あたりまで囚われていたように思うし、今でもこれらは、ロマンティックで良いなと思う。いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観である。
いわゆる処女厨はこれらの命題に頷けるのではないだろうか。
 
 
恋愛・性交をロクに経験をしていないにもかかわらず思考だけが進み、現行の社会制度にさえも疑義を呈する命題:
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
(論理的な構造としては、②´ならば②、②ならば②´´と考えると分かりやすいか)
 
歳をとるにつれて①~①´´の命題には現実性がなくなっていく。幻想は崩壊し、その反動で思考が極端に推し進められてしまった。
 
 
恋愛の必要性を述べる命題:
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
 
自分にとって、恋愛は楽しいと思う。きっとそうに違いない。
セックスは肉体的なものではなく、精神が介在するという点で、オナニーよりも優位性があると思う。きっとそうに違いない。
ロクに体験してこなかったために、夢想だけが広がっていく。人によってはすっぱいブドウになるんだろうけど。
 
 
童貞にとっての事実命題:
④童貞はつらい。
 
なんでつらいかと言うと、「他人と比べて」ということだろう。非童貞が知っているものを自分は知らないという不安や焦燥。突き詰めればルサンチマン。つまり、非童貞への憎悪ということになる。
 
 
童貞の自己正当化のための命題:
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
 
「童貞も守れない奴には何も守れない」という言葉や「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」という都市伝説があるが、童貞→非童貞は不可逆的がゆえに、何か呪術的なものを感じる。
なお、自分の場合は「童貞非処女」というちょっと希少なステイタスだったため、なおさら簡単に失ってはいけなかった。
 
 
自らの定義を揺るがす事実命題:
⑥ヤリチンマンは合理的である。
 
ヤリチンマン、つまりセックスしまくってる人は多数と関係を持つことによって、自己利益を最大化している。その意味で合理的である。
これは命題②´によって補強されるのだが、後で説明する。
 
 
リアルに対するネットの優位性を述べる命題:
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
綺麗な命題になってなくて申し訳ないけど、要するにネットはリアルからの逃げ道とか受け皿だけでなく、積極的な意味合いもあるよと言いたい。
 
 
これらを図示すると次のようになる。①と②は包含関係を形成しているのでそれを示した。
上部の点線は時間の経過によって自分の考えが変化したことを表す。青い矢印は論理の補強、赤い矢印は矛盾・対立を表す。
れんあいかん
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
④童貞はつらい。
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
⑥ヤリチンマンは合理的である。
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
まず、青い矢印の論理の補強について順番に説明しておこう。
①´→⑦b
これは、①´にある「他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象」を見つけるためには、リアルだけでは狭いという話である。
そのために、ネットを使えば「自分にとって最も好ましい対象」が見つかる可能性は上がる。むしろ、ネットを使っていない人間は「自分にとって最も好ましい対象」を見つける努力をしていないと言ってもいいだろう。
 
①´´→⑤
①´´が童貞を守る根拠になっている。本当に大切な人のために童貞は残しておくべきだという論理だ。
 
②´→⑥
「人間の魅力はそれぞれ独立に存在している」とはつまり、Aさんもいいけど、Bさんも別の面でいいよね、という話である。
だから、相手を一人に限定しないヤリチンマンは最大利益を追えているだろうということである。
 
③´→③
セックスするためにも恋愛すべきだということ。
 
③→⑦a
スクールカーストよろしく、学校コミュニティから弾き出された連中は恋愛などできないまま学生時代を過ごす。その責任は本人にあるというよりかは、システムにあると思う。
だから、そういった者達(多くはリアルでのコミュニケーションが苦手だろう)が恋愛をするために代替システム、救済措置としてネットの存在は重要である。
 
ここでの⑦aと⑦bがオフパコの積極的な意味合いである。最初の問題提起は一応の決着を見るだろうか。
また、オフパコには愛がないという反論があるかもしれないが、そもそもそれはリアル至上主義の偏見だ。
③´の通り、愛は必要だ。しかし、自分は相手に対して恋愛をしていた。好きだからセックスした。問題はない。
 
 
さて、このように、命題同士が調和している場合もあったのだが、こじれてしまった恋愛観・性交観は、むしろいくつもの矛盾・対立を生み出してしまった。
これらを抱えながら従来の価値観で恋愛・性交をすることは難しい。
そこで、なんとかこれらの矛盾・対立への妥協案・折衷案・ジンテーゼアウフヘーベンを見出していかねばならない。
 
どのように矛盾・対立しているのかの説明と共に、解決策を示していく。
 
 
先に言っておくと、①´ならば① と ②ならば②´が成り立つのだが、これらはほぼ対偶の関係にある。(厳密には少しおかしいが)
だからこそ、①⇔②の対立と、①´⇔②´の対立がある。では個々の中身を検討する。
 
 
①´⇔②´の対立は結局、自分にとっての好みを比べて優劣をつけられるのかつけられないのかということである。
ここでの答えは、まず「優劣がつけられるかどうかは時と場合による」と考えた。時と場合によって、こっちもいいが、あっちもいい、とはなるからだ。
時と場合によるのならば、一人に定めることは愚かしいというのが結論だ。⑥でもヤリチンマンが合理的だと述べたが、自分とコミュニケーションをしていく相手・恋愛する対象と考えると、それぞれ違う良さがあるし、だからこそ何より「飽き」という要素もある。
少なくとも、常に最も好みな人間を対象にしたいのであれば、ずっと同じ人間と付き合う必要はないのだ。それは友人関係と同じことだろう。恋愛関係だからと言って、特別に考える必要はないと考えた。
 
つまり、①´を言い換えると、「その時々、その場合場合によって、最も好ましい対象を選ぶべきである」ということだ。しかし、それは時と場合によっていくらでも変わりうるし、最も好ましいのが複数であるならば、複数を選んでも良いのだ。
②´は「魅力」で考えているが、魅力があっても好ましくないこともあれば、魅力がなくても好ましいことはある。最終的な判断に直接関係するのは魅力ではなく「その時々と場合場合における好み」であるため、「魅力」ではなく「好み」で考えるとうまくいく。
 
 
①⇔②の矛盾は言うまでもないだろう。
解決策としては、まず先ほどの対立で述べたように、「最も好ましい対象」を選び続けるためには②の方を取るべきだということ。(時と場合によって、誰を選んでもよい(複数を選んでよい)ということ。)
では何故①があるのかということになるが、それは道徳的な問題である。
いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観だと最初に述べたが、この「浮気」の方の問題だ。
しかし、何故浮気をしてはいけないのだろうか。
それはおそらく、ロマンティックな美学といった面もあるだろうが、現代では先にそれが慣習化している、すなわち暗黙の制度となっているからというのが大きいだろう。
それは、日本の一夫一妻制の現状を見れば明らかである。答えを先取りするようだが、②´´にもあるように多夫多妻制が制度として正しいと自分は思う。
 
浮気という概念があること自体がそもそも間違っているのであって、誰もそんな一対一契約をしなければいいのだ。
一般化して、全員が②のように複数の恋愛関係を持ったとすれば、浮気などという概念をなくすことも可能ではないか。究極的には浮気をする必要がなくなるのだから。
現在は①が一般化している状態なので、少数の②が出てくると叩かれるのだが、②が一般化してしまえばそこまで問題は生じないように思う。
それならば、「最も好ましい対象」を選び続ける②の方が良いだろう。
 
結論としては、②が一般化した世界ならば②の方が良い。①が一般化している現状、②へのマイナスイメージの払拭を頑張るほかない。
それができないからみんな隠れて二股、浮気をするんだろうけど。解決になってない。
 
 
そして更に、これらの対立へのもう一つの解決策を提示しておこう。それは「最も好ましい対象」を極端に「神格化」することである。つまり、①で定まった「最終的な一人」を神にしてしまうことである。
こうしてしまえば、葛藤していた自分にとって、他の全ての恋愛は俗世のとるに足らぬこと、メイン腹とは違う別腹となってしまう。
永遠に辿り着けない神を想いながら(①や①´を満たす)も、通常生活している分には俗世の恋愛が楽しめる(②や②´を満たす)、というところである。
そじて実際、自分は①~①´´の「最も好ましい対象」を自分の中の神(偶像)に投射してしまうことで精神の安定を得た。別にそんな宗教的な話でもないけど。
 
 
③´に関する②⇔③´、③´⇔⑥の対立の対立は別にそもそも対立ではない。
恋愛関係が複数あっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
ヤリチンマンであっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
 
 
④を中心とした、③´⇔④、④⇔⑤、④⇔⑥の対立は、まとめると、童貞は辛くても禁を犯してはならない、事実から目をそらしてはいけない、堪えなくてはならないということである。
童貞が辛いからと言って愛なきセックス(風俗など)をしてはいけない。
童貞が辛いからと言って簡単に失って(風俗など)はいけない。
童貞は辛いからヤリチンマンを憎むのは仕方ない。しかし、その合理性まで否定してはいけない。
 
 
⑤⇔⑥の対立は、最初のセックスと、それ以降のセックスを分けて考えれば解決できる。
最初のセックスは⑤のように慎重さが必要かもしれない。
しかし、2回目以降は⑥のようにヤリチンマンが合理的である。
 
 
以上で、矛盾・対立の一定の解決が得られただろうか。
しかし、対立が解決しても、それ自体で非常に厳しい命題がいくつもあるので、それらへのフォローを二、三する。
 
①~①´´は実際厳しい。現実的に考えて①´´の対象が処女である必要はないと思った。それは大学生となった今では傲慢である。自分の性交観を縛る権利はあっても、相手の性交観を縛る権利がどこにあろうか、いやない。(反語)
その上で、やはり①~①´´を満たす「最も好ましい対象」を神格化することで一応の解決を見た。
 
②を満たすのは結局のところ、いわゆる「セフレ」ではないだろうか。セフレにも愛はあると思う。友情関係の延長線上にセフレがあってもいいと思う。
付け加えるならば、恋愛関係や夫婦関係が0か1かで規定され「付き合った/別れた」「結婚/離婚」という概念があることによって損をしていると思う。
敢えてその概念を使うにしても、別れても友達、別れてもたまにはセックスするみたいなヤリチンマンの発想はやっぱり合理的だと思う。
 
③´と言ったものの、「愛があるかどうか」は個人の主観である。まず自分は正直言ってかなり多くの人のことが好きである。
しかし、何より一番好きなものは「自分」である。その自分に対して、アプローチしてくれる(構ってくれる)人間はだいたい好きになってしまう。
相手が自分に構ってくれる+自分も相手のことが好き となると主観的には恋愛関係が成立していると考えてしまう。だからセックスができるのだ。
 
 
以上、自己正当化のために長々と書いた。もっともらしいことを言ってもことごとく台無しにしてしまった。全ては言い訳であった。