「変な男にばかり好かれる女」を知るための10のポイント

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 変な男にばかり好かれる女性が話題なようです。

 リンク先の漫画に描かれている「変な男」には「浮気をするクズ男」(僕はよくバンドマン系クズと呼んでいます)と「キモいオタク」(とりわけ「空気が読めず」に特攻してくるタイプ)が描かれています(ひどいけど以下「クズ」、「オタク」と略記します)。*1

 クズとオタク、一見全く正反対です。しかし、この両者に引っかかる女性は根本的に似通っている場合が多いです。それは一言で言えば、自己肯定感が低くて自己主張が苦手なタイプの女性です。

 そういう人はなぜ変な男に好かれる(引っかかる)のでしょうか? 男女論界隈で流行ったキーワードやら専門用語やらを振り回しながら解説していきます。

 

 

フィルタリング篇

 まず、恋愛関係に発展(好きになったり好かれたり)する人間のフィルタリングができていないことが問題です。

 

1.クズ/オタクコミュニティに入ってしまう

 自分に自信を持っている人は自分を大事にするものです。それゆえ、クズの多いコミュニティ(偏見だけど、出会い系とか水とか風とか)は避けるでしょう。

 また、自信があれば(オタクの多い)カーストの低いコミュニティには行くことを恥ずかしいとすら思うでしょう。そこまで思わずとも、コミュニケーションが取りづらくて集団に対して居づらさを感じれば出ていくでしょう。

 しかし、自己肯定感の低い人はそういった場所に居ついてしまい、次の段階に進みます。

 

2.クズ/オタクとコミュニケーションを取ってしまう

 自分に自信のない人は嫌われることを恐れがちです。そのため、八方美人になってしまいます。だからクズやオタクに対しても他の人と同じようにコミュニケーションを取ってしまうのです。

 クズやオタクは往々にして一気に距離を詰めてきたり、まともに一人の人間として扱ってこなかったりします。そこで、ある程度の自己肯定感があればヤバさを感じて、できるだけ避けたり壁を作ったりするようになるものなのですが。

 結果、クズ・オタクに好かれてしまいます。峰なゆか・犬山紙子著『邪道モテ』の言葉を借りて大ざっぱに言えば雑魚モテ(雑魚、すなわち恋愛対象ではない人にモテてしまうこと)をしてしまいます。

 とはいえ、雑魚モテをしてもそれを簡単に突っぱねることができれば問題はありません。それが泥沼化していくのが次の段階です。


泥沼篇

 ここからは「恋愛」が始まります。変な男に「好かれる」だけならまだしも、恋愛関係が始まってしまい泥沼化してしまうのです。なぜクズやオタクのアプローチを拒否できないのでしょう?

 

3.寂しいから飛びついてしまう

 クズやオタクは往々にして一気に距離を詰めてくると言いました。そこで慎重になれればいいのですが、自己肯定感が低い人は承認を得たくて(「恋愛」がしたくて)、分かりやすい愛に安易に飛びついてしまいます。

 別の言い方をすれば彼女は「寂しい」ということです。「寂しさ」と「恋愛感情」とを分けることは難しいものです。二村ヒトシさんの言葉を借りれば「心の穴」です。穴を埋めてくれる「愛」にすがってしまうのです。

 

4.自己主張ができないから断れない

 自信のない人は嫌われるのが恐いと言いました。あるいは漫画にもあったような「どうせ自分なんて」という気持ちもあるでしょう。いずれにせよ、クズやオタクを受け入れてしまいます。

 更に言えば、まともな扱いをされなかったり、罵倒されたり、すぐさま性的な要求をしてきたりなどといったモラハラ*2デートDV(家庭内に限らない親密な関係における暴力)に対しても、自己主張できず受け入れてしまうでしょう。すると次の段階に進みます。


5.「尽くすタイプ」でありたい

 いくら自己肯定感が低い人でも、モラハラを受けているような状況は苦痛です。「苦痛から逃れたい」という認知を「修正」し、苦痛を正当化するようになります(認知的不協和の解消)。健康な人であれば、認知の方を変えずに状況の方を変えるのでしょうが。

 結果、苦痛を正当化するために自分自身を言わば「尽くすタイプ」と規定するようになります。こうなってしまう人は往々にしてマゾヒストですし、共依存*3状態に陥っているでしょう。

 ブログ「妖怪男ウォッチ」のぱぷりこさんは「自己愛モテ女子」が女王陛下→下僕→癒しの聖母の3段階進化を遂げるという興味深い図式を提出していますが、今回の例は下僕→癒しの聖母の進化が起こっていると言えるでしょう。

 「聖母」というメタファーは秀逸です。モラハラをするようなクズによくあるのは「自分は今まで傷ついてきた」と主張するものです。それこそ親との関係が上手くいかなかったことなどを理由に責任転嫁する傾向があります。

 それに対して聖母は「彼だって傷ついてる。私がなんとかしてあげなくちゃ」と、傷つく自分を正当化してしまうわけです。メサイアコンプレック(他者を救うことによって自分の価値を感じたいというコンプレックス)です。*4

 ただ、恋愛関係には別れがつきものですから、たいていこのような悲惨な状況もどこかで終わりがきます。

 しかし、元々の問題は変な男に"ばかり"好かれる女性というものでした。つまり、そのパターンは連鎖・慢性化し、"いつも"ダメ男を掴んでしまうということです(倉田真由美さんの言う「だめんずうぉ~か~」)。「男を見る目がない」「男運が悪い」などとも言われるこのパターンはどこから生じているのでしょうか?


そもそもの価値観篇

 "いつも"変な男に好かれる(引っかかる)というこのパターンは「恋愛観」などの根本的な価値観から生じています(もちろん、上記のような泥沼恋愛を続けることで、根本的な価値観まで変わってしまうこともあるでしょう)。以下で説明しましょう。

 

6.なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

 これは二村ヒトシさんの本のタイトルです。大ざっぱに言えば、家庭環境等の問題で「自己受容」ができず、「私なんか」を愛する人ではなく、私ではない新しい世界に連れて行ってくれる人に憧れ、好きになってしまうという問題についての本です。

 このように「いつも変な男に引っかかる」問題を二村ヒトシさんだったら「自己受容」や「心の穴」といったキーワードで説明するかと思います。
しかしここでは私なりにもっと納得がいくと自負している説明をします。

 

7.生まれて、すみません。

 と太宰治は書きました。この言葉が象徴するように、自己肯定感の低い人は根源的に「負債」(罪悪感)を抱えているのだと思います。だから、ギブ&テイクで言えば、ギブをし続けなきゃいけない存在なのです。だから、「愛してくれる人」なんて困るわけで、「愛してくれない人」に尽くす方がしっくりくるわけです。

 例を挙げれば、ホストに尽くす女性。「ヒモを飼いたい」という女性。奢られることを拒否する女性。バンドマンに振り回される女性(彼女らは基本的に「被害者」という立場でいられるので、「責任」を負わなくてよいという点で楽になれるのです)。

 彼女らは負債を返済することで生きているのだと思います。「自分を罰したい」という感情もこれに近いでしょうから、自傷行為などもこれで一部は説明できるでしょう。

 

8.古いジェンダー

 上の話はたいてい家庭環境の問題で、愛着障害はしばしば「恋愛障害」に繋がってしまいます。しかし、価値観を作りあげるものはそれだけではありません。案外見逃されがちなのはジェンダー観と恋愛観です。

 まずジェンダー観から言えば、「女性は男性の好みに合わせるべきだ」みたいなものですね。いまどき流行らない考え方ですが、先ほどの「尽くすタイプ」とは関連がありそうです。古い意味で「女らしい」人が変な男に引っかかりやすいというのはありそうです。

 

9.カップル単位の恋愛観

 恋愛観というと人それぞれのように思えますが、もっと根本的な「恋愛とはこういうものだ」という社会通念に実は問題があります。伊田広行さんは『デートDVと恋愛』でデートDVの原因として「カップル単位の恋愛観」を挙げています。列挙しすぎで面白いので以下に列挙しときます。

 

  • 恋愛していないことの劣等化
  • 恋愛の自由の剥奪、二者排他性、一夫一婦制的契約観
  • 二者一体感、相互所有
  • 他者性・境界線・プライバシーの否定
  • 守りと依存の正当化
  • 特別扱い、特別要求の正当化
  • 嫉妬と独占の正当化、自由の制限の正当化
  • 干渉の正当化
  • 別れの否定、別れには同意が必要という考え
  • 結婚に至らない恋愛の劣等化
  • 所有・独占の象徴としてのセックス観
  • 恋愛における性役割前提観
  • 閉鎖的カップル観
  • 個人の自立意識の欠如
  • 他の恋愛観への想像力の欠如

 

 以上まとめれば、恋愛における「束縛」のことでしょう(まとめすぎ)。まあ確かにこれ全部やめれば、変な男には引っかからなさそうです。世の(ドラマなどの)恋愛言説は上記のカップル単位の恋愛観を再生産しているというのも事実でしょう。ただ、これ全部なくしたらそもそも恋愛するのが難しくなりそうですが。

 伊田広行さんは「カップル単位」に対して、「シングル単位」を推奨しています。簡単に言ったら、一人ひとり自由な個人として尊重されるべきってことです。

 

10.じゃあどうすればいいのか

 ということで、変な男に引っかからないようにするためには、基本的には自己肯定感高めて自己主張できるようにするのが大事ですね。

 自己肯定感高めるためには、居場所(ホームベース)を持つとか友だち作るとかこの記事みたいな考え方を学ぶとか病院行くとかカウンセリング行くとかなんだろうなあ。「自己主張」に直接アプローチするんならアサーション・トレーニングとかするのがいいのかなと。知らんけど。*5

 マクロなこと言えば、ジェンダー観やら恋愛観やらを言論活動で変えていくなり、自己肯定感が低い子どもが育たないように子育て環境を整えるなりするべきなんだと思う。なんだそりゃ。

*1:どうでもいいけど、クズ/オタクの二分法はトイアンナ著『恋愛障害』のカテゴリーで言えば「(女性を消費する)加害男子」と「(思い込みが暴力化する)妄想男子」の二分法に近いかと(ただし、トイアンナさんの「妄想男子」はどちらかと言えば奥手な男のイメージだと思われる)。

*2:モラハラとは、モラルハラスメントの略。言葉や態度で精神的に傷つけたり、不安にさせて相手を洗脳し支配する(意のままに動かせる状態に置く)こと。

*3:共依存とは、元々はアルコール依存症の夫に対して、アルコール依存を容認してしまう妻の関係のこと。このとき、妻は「夫に尽くす自分」という役割に「依存」しているため、「共依存」と呼ばれる。転じて、お互いが依存しているカップル関係のことも「共依存」と呼ばれがち。

*4:相手がオタクだったとしても、「聖母」というメタファーはおそらく有効だろう。オタクもまた恋愛関係において自己中心的な態度しか取れないし、恋愛を成り立たせようとすれば母親的な接し方をせざるを得なくなってきそうだし。

*5:ちなみに、自己肯定感が高くてもフィルタリングガバガバな人(誰とでも壁を作らずに接する人)とか自己主張しない人とかもいるんで、そういう場合はまた個別的な対処が必要っぽい。自己肯定感高めるよりかはよっぽど楽だろうけど。

大学生ならシェアハウスをやろう~シェアハウスのメリット・デメリット~

この文章は、僕が運営しているオープンシェアハウスサクラ荘のフリーペーパー的なもの、「季刊サクラ荘」創刊号に載せた文章です。

 

はじめに

 「シェアハウスに興味があるけど、実際やるとなると一歩目を踏み出せない」。あるいは、「そもそも一緒に始める友だちもいない」。そういう方はまず、サクラ荘に遊びに来ましょう。だいたいのイメージが掴めるでしょうし、始めるための具体的なアドバイスもできます。同じようにシェアハウスに興味がある仲間にも出会えるかもしれません。

 文章での「シェアハウスの始め方」みたいな話はまた今度にしますが、とりあえずサクラ荘に一度来てみてくださればいろいろお話できます。場所は、百万遍から今出川通りを東に行ったところ、吉田山の入り口に立っている鳥居のあたりです。検索すれば出てきます。そしてツイッター(@sakurasou_kyoto)なり、電話番号(08021233651)なりに連絡くだされば対応します。

 

 さて、今回はシェアハウスを始めることの「メリット」と「デメリットに対する反論」について書きます。私はシェアハウス信者なので、シェアハウスをひたすら褒めます。デメリットもありますが、それに対しても反論します。私の見方には当然バイアスがかかっていますが、それを差し引いても見るべきところはあるかと思いますので、お付き合いいただけると幸いです。

 

シェアハウスのメリット

 シェアハウスに住むべき3点のメリットを以下で説明します。

 

①お金(コスパ

 家賃や光熱費などが分割されるのでコスパいいです。家電も一人で使われるよりみんなで使われる方が嬉しいでしょう。

 

 

②社会性が身に付き、自分のことを自分で判断できる

 そもそも実家を出たみなさんは「一人暮らし」を何のためにしているのでしょうか? 多くを占める回答として、「親からの干渉に嫌気が差している」、「親から離れて一人暮らしをしたい」ということがあるのではないでしょうか。

 しかし、親から離れて一人暮らしをする大学生は本当の意味で親から離れたのでしょうか? 親から仕送りを受けて、子ども部屋の延長が外側にあるだけではないのでしょうか?

 京大生で言えば、親が定期的に掃除に来るような一人暮らしの学生もいると聞きます。これでは親から離れたとは言いがたいでしょう。そうではなく、シェアハウスによって他人と一緒に暮らし、自分で一つの集団を形成して、初めて「親から離れた」と言えるのではないでしょうか。

 そして、他人と一緒に暮らすことは社会に適応するための練習にもなります。シェアハウスではいろんな問題が起こります。具体的には、ゴミ出しや掃除、洗い物等の「家事」を誰がどれくらいやるのかという問題。冷蔵庫の物などを勝手に食べられてしまう問題。人間関係の問題などなど。

 しかし、シェアハウスでは一人ひとりがその責任を負います。お互いの意見をすり合わせ、妥協点を見つけていく練習になります。つまり、シェアハウスは「他人の主張を聞き入れながらも自分の主張をする、すなわち自立して責任を負うための学校」だと言えます。

 そういう意味では、シェアハウスの経験を積めば、自分にとって「何が許せて何が許せないのか」がはっきりします。これは具体的には就職後に活きてきます。「三年で辞める若者」が3割以上いる一方で、「ブラック企業」で過労やうつになる人も取りざたされる昨今です。だからこそ、「何が許せて何が許せないのか」が自分で判断できることが重要になってくるでしょう。衝動的に辞めてしまっては後悔するかもしれません。逆にブラック企業が見極められず、「辞めたいけどでも……」と辞めずにズルズル仕事を続けることが精神状態の悪化や病気に繋がりかねません。

 そうならないためにも、大学生の内にシェアハウスに住んでみましょう。

 

 

③さびしくない

 まず、中高生のクラスを思い出してみてください。中高生のクラスでは、年齢が同じというだけで、特に関係のない人たちが一つの教室に押し込まれます。趣味も違えば価値観も違う。それは当然軋轢やイジメも生じるでしょうし、「スクールカースト」みたいな状況も生じるでしょう。しかし、このように強制的に生徒たちを教室に押し込んでくれたおかげで友だちができたという人も多いのではないでしょうか。むしろ大学生になってから「人間関係が希薄になった」、「表面的なコミュニケーションしか取らなくなった」と思うことはありませんか。

 一方、大学生になると人間関係が自由になります。しかし、自由になったその分だけ、自分から誰かとコミュニケーションを取り続ける(例えば、どこかのサークルなどに能動的・継続的に所属する)必要があるのです。そうでないと、深い人間関係を作れません。以上のことを図にすると次のようになります。

 

 

高校まで(教室)

大学以降(サークルなど)

メリット

コミュニケーションせざるを得ないからこそ、深い関係の友だちができる

自由なので付き合いたい人と付き合える、付き合いたくない人と付き合わなくてよい

デメリット

関係ない人の集まりなので趣味や価値観も違い、軋轢やイジメが生じやすい

能動的・継続的にコミュニケーションを取らなければ関係が希薄になってしまう

 

 しかしシェアハウスならば、教室のように「関係ない人の集まり」でもなく、サークルのように「自分から継続的にリソースを割く」でもない。にもかかわらず「深い人間関係」を作りうる。「高校まで」と「大学以降」のそれぞれのメリットが両立できるのが「シェアハウス」なのです。

 「深い人間関係」とは言い換えれば「居場所」です。私たちは「居場所」がなければ「さびしい」のです。そして、「居場所」があってさびしくない、その余裕があって初めて、大学生として「自分のアイデンティティ」や「人生の目標」に”悩むことができる”のです(マズロー欲求段階説みたいな話だ)。

 考えてみれば、一部の大学生が引きこもって大学に行かなくなり、中退してしまうのは「一人暮らし」が原因ではないでしょうか。しかし、目の前に他者がいれば一人で鬱々と考え込んでしまう必要はありません。

 

 

シェアハウスのデメリットとそれに対する反論

 しかしもちろん、シェアハウスにもデメリットはあります。それは大きく言えば以下の2点です。

 

①他人と一緒に住むということ

 シェアハウスに住むということに対して、まず家族から反対があるかもしれません。なぜなら、「よく知らない人と一緒に住めるのか? 危険じゃないのか?」という疑問がどうしてもあるからです。

 しかし、それも家族だってほぼ同じです。傷害事件などのかなり多くの割合は家族間で起こっていますし、「家族の間には愛がある」というのはある種の幻想です。むしろ、家族や親は「自分では選べない」のに対して、シェアハウスのメンバー(そして、恋人や結婚相手)は「自分で選べる」という点を見れば、家族よりも安全な可能性すらあります。というか「居場所」の問題で苦しんでいる人や、精神的に不安定な人の多くは「家族」や「親」にこそ苦しんでいるのではないでしょうか。

 

 「知らない人と一緒に住む」ということに関してもっと現実的な問題は、それぞれのメンバーの家事水準がバラバラだということです。あまり掃除をしなくても平気な人もいれば、綺麗好きな人もいるでしょう。そうなると、どうしても家事が特定の人に集中してしまい、一方でその他の人が家事コストを支払わない「フリーライダー」になってしまいます。

 その他にも、対人関係を含めたいろいろな問題は生じるでしょう。しかし、これは逆にメリットです。なぜならこの問題は、メリットの2点目で述べた「社会性」とコインの裏表の関係にあるからです。シェアハウスに住んで問題が起きるのは当たり前です。というよりも深い人間関係を築けばそもそも問題は起きるものです。大事なのはそれをどう乗り越えるかです。「お互いの意見をすり合わせ、妥協点を見つけていく」という基本的な社会性を身に付けられるのは、社会に出る前である大学生の内こそが最後の機会でしょう。

 私は「成長のため・社会のためには苦労は買ってでもしろ」という、ブラック企業のようなことが言いたいのではありません。成長する(社会性を身に付ける)ためには失敗するのが一番の近道なのだから、「失敗が許される内に失敗しておいた方がいい」ということを言っているのです。だから、「大学生の内にシェアハウスをした方がいい」と言っているのです。

 

 

②プライベートを確保できなくなる

 2点目のデメリットはプライベートが確保できなくなるということです。どうしてもやはり「一人の時間」がほしいという人はいるでしょう。これには二つのレベルがあります。「一日に数分~数時間、一人で考えたり作業したりする時間がほしい」という日常的なレベルと、「ケンカしてしまって気まずいから引きこもりたい」という一時的なレベルです。

 まず日常的なレベルの方で言えば、「一人の時間」がどれだけ必要なのかということになります。第一にそもそもそんな明確に一人の時間は必要でしょうか。よくよく考えればお風呂の中やトイレの中、外で歩いているときや寝るときなど、一人になる瞬間はそれなりにあるように思われます。また、何かについて考えたいときに一人で考えてばかりだとどうしても視野が狭くなりがちです。誰かに話して言語化した方が考えは捗るかもしれません。

 もちろん、作業によっては「一人で集中しなければならない」ことはあるでしょう。例えば、読書や勉強などは複数人でやることもできますが、どちらかと言えば一人でやることです。他の人が違うことをしていると「気が散る」という人も多いでしょう。

 そして、「ケンカしてしまって気まずいから引きこもりたい」というような一時的なレベルにおいては、確かにいったん距離を置くことは重要です。だから私も「常に他人と一緒にいろ」と言っているわけではありません。

 そこで「個室」が重要になってきます。本当に一人になりたいとき、ケンカしてしまって距離を置きたいときというのはあるものです(漫画家がファミレスで作業をするような「外ごもり」も一つの選択肢かもしれません)。

 ただ、だからと言って、最初から引きこもるのはオススメできません。「基本的には一緒に住んでいる人がいるから寂しくない。でも、一人になりたいときは一人になれる」、そういうバランスがシェアハウスにはあります。

 

 

おわりに

 他にもシェアハウスにおける「性」の問題や、日本の家族形態一般との関係など、紙幅の都合上書ききれなかったことはあります。しかし、大学生がシェアハウスに住むべき理由の大きなエッセンスは書きました。一人でも多くの大学生のみなさんがシェアハウスに興味を持ち、よければサクラ荘に来ていただけると幸いです。

 最後に私の野望について。私はまず、サクラ荘の活動によって、京都の学生街でシェアハウスを30軒ぐらい作ろうと思っています。これだけでも時間のかかる活動だと思います。しかし、それだけでは終わりません。シェアハウスという形態を一般化させ、京都だけでなく全国に、大学生だけでなく全世代に広げたい。そして、「シェアハウス」という言葉は過渡期的に戦略として使っている言葉に過ぎません。最終的には「家族」という言葉が血縁を指すわけではなく、「お互いに尊重し合い、一緒にいたいと思える、かけがえのない同居人」のようなものを意味するようになればいいなと思います。

ブルーエゴナク『ラッパー Rapper』感想

 今日はアトリエ劇研へ演劇を観に行った。ブルーエゴナクの『ラッパー Rapper』という作品。久々に面白い作品を観たので感想を書く。「考えさせられる」作品という感じではなかったので、箇条書きで。

 

●役者がみんな上手かった。特に主役の野村明里さんは、第一幕/第二幕の落差にシビれた。第一幕で仏頂面だったのはそういうキャラなのか、それとも地なのか、気になっていた。他の役者(特にしらとりまなさん)はすごい表情の演技がちゃんとしてたので、浮いてるなあと。

 しかし、第二幕になって納得。お婆ちゃんを表す貼りついたスマイルは、まるで阿修羅の顔のようだった。観客は笑ってたけど、僕は鳥肌が立った。

 うめっち(楳山蓮)もすごい第一幕のシリアスなラップとは打って変わり、第二幕では軽快な動き。最後のシーンも迫力があった。

 佐々木峻一さんは前の努力クラブの公演(『ピエロありがとうピエロ』)を観たときに不気味な演技をする人だなと思っていたけど、なるほどそういう人なようだ。今回はすごく役に合っていたと思う。自然ではない動きがヒップホップのダンスをうまいこと戯画化していた。

 

●音響・照明がきっちりキマっててすごい。演劇の音響照明って、どうしても「あ、音響だ/照明だ」ってなって現実に引き戻されるところがあるんだけど、『ラッパー Rapper』では音響であること、照明であることをあまり意識しなかったし、自然に入ってきた。

 

●舞台セットはシンプルなんだけど、マイクのコードの処理をうまいこと使ってて、これは演劇らしい動きだなあ。

 

●第二幕が65年後という設定は思いきった。はじめは笑ってしまったものの、すごくちゃんと成立していた。認知症とかになると先に衰えていく機能と、後になっても残る機能があるというのはよく言われることだと思うが、その意味で言えばラップにおける「バイブス」は、老いてもなお残るものなんだなあと。戦争のような描写が仄めかされていたが、それに対する希望がラップによって見出された。クロノ・トリガーってゲームのA.D.2300年(文明が壊滅した後の未来世界)を思い出した。

 成立していたからこそ正直見入ったし、突然老人が死ぬみたいな描写はむしろちょっと白けてしまった。個人的には要らなかったかなあと思う。アリなんかもしれんけど。

 

●ラップ抜きにしてもシンプルに面白い作品だと思ったが、もちろんラップもカッコ良かった。ラップに対するメタ的な視点も導入しつつ、日常の世界からラップの世界へと滑らかに接続していたのは手堅い。

 それにしても、ラップで言葉を聞くと入ってきかたが全然違う(月並みな感想)。最近、演劇を観ていると「言葉に詰まる」を見たいな、と思ってしまうので、ラップのように流れでスルスル入ってくる言葉を聞くと、それとの対比で「言葉に詰まる」がより映えるなあとか思った。

ただの日記

昨日の夜、演劇の稽古が終わって京都駅に向かうバスに乗る。
22時ぐらいに着く、と母親にメールを入れる。
最寄り駅に着いて実家へ。
ご飯を食べてなかったので、冷凍食品をいただく。
母親が自分の部屋に布団を用意しておいてくれた。従来自分が使っていたベッドは実家で同居し始めたお婆ちゃんが使っているそうだ。
夜、いつも夜更かししすぎなこともあって寝れない。部屋に何もないのが落ち着かない。

 

今日の朝。何度かのn度寝を繰り返して起きる。11時からびわこホールで『わかったさんのクッキー』(岡田利規脚本・演出なので観たかった)を次男と観ることになっている。10時前ぐらいになったのでのっそりと起きる。
お婆ちゃんと言葉を交わす。もう5年ぐらい会っていない気がするが、覚えているのだろうか。冷蔵庫ののむヨーグルトを飲む。賞味期限が2ヶ月切れたフルーツグラノーラがあり、腐らすのはもったいないと思って牛乳をかけて食べる。食べきった、よし。
未だに実家に住んでいる長男が階段を下りてくる。「びわこホールってどうやって行けばいいんだっけ、石場駅だっけ」と聞く。そのとおりだった。

 

コンビニに寄り、wifi乞食。京阪電車に乗り、びわこホールへ。京阪電車は萌え推しだ。ユーフォニアムが推されている。毎日聞いていたはずの駅名も、久々に聞くと懐かしい。忘れるはずがないと思っていたのにすっかり忘れていた。

 

びわこホールは初めて入ったかもしれない。ガラン、としていた。最近演劇とかを観ると寝るクセがあるので満を持してコーヒーを飲む。関西限定。甘い。
『わかったさんのクッキー』は子ども向けだろうなとは思っていたが、思っていた以上に子どもが多かった。ほとんど親子連ればかりだった。受付もそういうタイプの受付だった。次男が現れる。数ヶ月ぶりだ。
会場の中も物販やらいろいろ。なかなかに頑張っている。あらゆるおもちゃや素材のようなものが縦横無尽に置かれていた。後から見ると床が変な模様をしていた。配置はけっこう精密に計算されていたようだ。劇の途中でキャッチャーがつけるプロテクターを着ていたのが妙に印象的だった。ZETTという野球少年だった自分にはなじみのあるメーカーだった。

 

 

数ヶ月前にチェルフィッチュを一度観ただけなので、偉そうなことは言えないけども、夢のシーンの演出はまさにそれらしかった。ボールの中をぐるぐるぐるぐるかき混ぜる中で、円形の舞台の役者たちも回転し、言葉も「ぐるぐるぐるぐる……」と反復されていた。岡田利規の本を読んでみたいなあと最近思ってるけど読んでない。
舞台上に残ったおもちゃ?を最後、子どもが遊んでいいように、子どもを舞台上に上げていた。思えば最初から、観客の子どもたちとコミュニケーションを取っていた。観客に子どもが多い舞台においては、観客を無視せずにその場でコミュニケーションを取るという方法が有効なようだ。

 

びわこホールを出て、兄がびわこホテルに案内してくれた。カレーのイベントがやっていた。三種類のカレーを食べた。おいしい。大津市マスコットキャラクターである「大津光ルくん」がいたのでありもしない愛郷心が湧いてきた。ということで一緒に写真を撮る。

 

 

兄と一緒にアーカスというところのゲーセンに行く。ROUND1が入っていて、スポッチャなどが導入されていた。なかなかに栄えている。ゲーセンは変わりばえしなかったが、UFOキャッチャーはいろいろある。100円1クレで、500円を入れてもクレジットが増えない方式だということを兄は笑っていた。そういうことに笑う感覚をこの兄弟は共有している。強いて言うならスヌーピーがほしかったけど、明らかに取れなさそうだったのでやめた。
あまりガチ勢向けのゲームをやりたくもないので、QMAをやった(ガチ勢向けかも)。600円で12クレジット。「ひなビタ」検定(放映されたアニメの検定)はやらなければよかった。基本的に二人とも得意だったのは文系学問、理系学問で、実写ドラマや芸能人がひたすら苦手だった。スポーツもけっこう苦手。テレビを観ないんだなあ。

 

兄と別れて実家へ帰る。母もちょうど朝出かけていたようだがぴったり同時に帰宅した。特にやることもなく、「本でも読むんやったら部屋で読んだら? クーラーあるし」と言われ、部屋で持ってきていた本を読もうとする。あまり気乗りしないので押入れを漁る。挫折していた基礎統計学の本が出てくる。ちょっと覗くと、大数の法則の項が出てきて気になる。久々にその章を最初から読もうと思って、ベイズの定理の項を見ていた。ふむふむ集合を図示すると分かりやすいなあ。布団に寝っころがりながら読んでいたのでいつの間にか寝ていた。晩ご飯だと長男に言われ階段を下りる。

 

母はけっこうな量を作っていた。冷蔵庫にあった残り物の野菜も出していた。自分も普段あまりご飯を食べてないので、ここぞとばかりにいただいておいた。
前日眠れなかったのがつらかったので、サクラ荘に帰ることにした。カステラやらなんやらをもらう。自分の部屋をもう一度漁ると、お目当てのAチャンネル目覚まし時計とヴィクトリカ目覚まし時計(アニメ『GOSICK』のDVD全12巻をアニメイトで購入して特典で手に入れたお宝)が出てきた。これで携帯目覚まし生活とはおさらばだ。悠木碧ちゃんの声で目覚める日々が始まるぞ。
しかし、押入れには悠木碧ちゃんに費やした歴史が詰まっていた。あのとき信じていたもの、そのとき持っていた価値観は何年か経てばこうも簡単に変わるものなのか。ハマっていた過去を「黒歴史」だとは全く思っていないし、ハマったからこそ見えたものはいっぱいあると思う。人間が生きていく上で「ハマる」ということ。もっと一般化して病理的な概念である嗜癖(アディクション)について、自分はもっと研究していかなければならないなあと、京都駅に向かうJRでぼんやりと考えていた。

ハッピーサイエンスユニバーシティ(幸福の科学大学)のオープンキャンパスに行ってきたレポ

 夏休みですね。高校生の長期休暇に合わせて、大学はオープンキャンパスの季節です。実は僕はオープンキャンパスというものにはほとんど行ったことがなくて、なぜか関東の大学のオープンキャンパスにオフ会がてら行ったことがあるだけです。今回も同じような感じでやはり関東の大学のオープンキャンパスに行ってきました。

 そう、一部では話題の幸福の科学大学です(略称HSUなので以下HSUと表記します)。

www.news24.jp

「科学的合理性が立証できていない『霊言』を教育の根底に据えることは、学校教育法の『学術の中心』としての大学の目的を達成できるものとは認められない」などとして、開設は認められないとの判定を下した。また、審議会の委員に対し、認可の強要を意図すると思われるような不適切な行為があったと下村文科相に報告した。

 

とのこと。ということで、HSUは文科省には大学として認可されていなくて、学位はもらえないんですね。HSU側としてははそのためこう述べています↓

 

f:id:holysen:20160810114515j:plainHSUは、宗教法人幸福の科学が運営する高等宗教研究機関です。学修内容は、他の大学に勝るとも劣らないのですが、文部科学省認可の大学ではないため、学位(学士)の授与はありません。ご理解の上、ご応募ください。

 

高等宗教研究機関とのことです。なるほどー。

 HSUが大学として認可されていないのは残念な話ですが、サークルクラッシュ同好会は会誌第一号にも幸福の科学の方から寄稿いただいてお世話になっています(ホームページにpdfがあがっているので無料で読めます↓

http://circlecrash.jimdo.com/app/download/7125584389/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%90%8C%E5%A5%BD%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E8%AA%8C%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8F%B7.pdf?t=1384968642

)。

 

その恩返しというわけではないですが、今回はサークルクラッシュ同好会関東の企画として、何人かでオープンキャンパスに行ってきましたので、レポートします。

 

朝、千葉県へ

 HSUは千葉県の九十九里浜の近くにあります。夜行バスで朝、池袋に着いたのですが、そこからもだいぶ遠い。そこで青春18きっぷを購入してJR最寄の上総一ノ宮駅まで行きました。

 駅からはHSUのシャトルバスで10分ほど。既に親子連れっぽい人たちや高校生っぽい人たちがちらほら見えました。

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エロゲの背景とかに出てきそうなきれいな景色。よく見るとひまわりが咲いている。

 

 キャンパスはすごく建物が綺麗で、晴れていたのもあり、すばらしい景色が広がっています。

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でかくてきれいだなあ。

 

 

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ピラミッド型の礼拝堂がある。

 

 

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牧歌的な風景。

 

 

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建物の4階の窓から見た景色。九十九里浜が見える。案内してくれた方曰く、UFOがよく見えるらしく、UFOにも人気のスポットとのこと。

 

 さて、オープンキャンパスということで食堂で資料をいただきました。「どこの支部ですか」と聞かれましたところから考えるに、基本的には信者の方々が来るイベントのようですね。

 それで、どこから回ろうという話を一緒に来たサークラ同好会の人たちとしていました。一応自分達が人文系というのもあって、人間幸福学部に興味を持ちました。ということで、そこの学生の研究発表をまず見に行こうという話に。

 

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日程表と地図。これぞまさにオープンキャンパスだ。

 

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綺麗な食堂だ(プライバシー保護のため画像は加工しています)。

 

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部活・サークルやバイト募集などの掲示板も。

 

 大学ができて2年目なので、発表は1年生の人たちと2年生の人たちがしていました。偉人(マザー・テレサ吉田松陰など)の研究、音楽の癒しについての宗教的観点からの分析、天理教幸福の科学の比較、アドラー心理学幸福の科学教学の比較などパワーポイントを用いて発表していました。必ず大川隆法総裁先生の著書や霊言が引用され、発表に活かされるのが独特でした。

 一通り研究発表を聞いたので、食堂でご飯を食べることに。オープンキャンパスということで、カツカレーが500円で売っていました。普通においしかったです。

 

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 ご飯を食べた後、食堂についていたヤマザキショップHSU店に寄りました。雑誌や新書もちゃんと並んでいて、なかなか良かったです。ノートのデザインが綺麗なのでつい買いました。あと、記念にポロシャツも買いました。

 

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良いデザインのノート。

 

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もちろん総裁の著作もいっぱい並んでます。

 

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「過去世はベンジャミン・フランクリン!!」っていうポップ、斬新だ。

 

 次に「九鬼プリンシパルご挨拶」へ。内容的には普段の講義(経営者の理念的なやつ)の紹介でした。

 キャンパスツアーで図書館などいろんなところを巡りました。図書館は偉人の本、っていう感じのが多かったです。やはり総裁先生の本も並んでいました。映像を見るスペースなども充実していました。

 

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ピラミッド型の礼拝堂の真下にある正方形。パワースポットっぽい。

 

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研究室の並び方は普通の大学と同じ感じがします。講義資料なども公開されていましたのでいろいろといただきました。

 

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顔写真が載りまくってたので画像加工しましたが、TOEICの点数が高い人たちがいっぱいいて、英語教育の厚さを感じます。

 

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ラーニングコモンズには普通の机椅子以外にもファミレスを参考にしたテーブル席が。ファミレスみたいに飲み物飲んでる学生もいるようで。ウチの大学にもほしいなあ。

 

 キャンパスツアーに感謝しつつ、更にいろんなところを回りました。僕は人文系なのであまりよく分かりませんが、理系強そうでした。全体的には宇宙に興味が強い感じのようで。

 土地があるのもあって、作物もいっぱい作っていらっしゃるようでした。作っていらっしゃるトマトなどをいただきました。おいしかったです。

 

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室内でも作物を作っていました。糸を出してる本物の蚕を初めて見たのでちょっと感動しました。

 

 未来創造学部では美術や演技、映像作りなどもやっているようで、充実していました。演技の模擬授業を受けてみましたが、面白かったです。演技とか表現みたいなのは他の大学でもやればいいのにと思います(やってるところもあるだろうけど)。

 

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美術室には学生の石膏デッサンの絵もいっぱい置いてありました。

 

キャンパスの外の方もいろいろとありましたので、最後にそのあたりも紹介します。

 

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ポケスポットになってそう。

 

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地図によるとさっきのオブジェは「地球ユートピア実現記念碑」という名前のようだ。

 

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学生寮も充実しているようで。学生のトークによると田舎なので、コンビニとかまでも遠いとのこと。原付とか車とかあると良いそうな。でも、田舎な分勉強に集中できるらしい。確かに。

 

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めっちゃWifi飛んでた

 

 以上、HSUのオープンキャンパスのレポートです。HSUの皆様、ありがとうございました。

 

追記:

一緒に行った下駄くんもレポ―ト書いたようです。詳細だなあ↓

hiyorigeta.hatenablog.com

上手な悪口の言い方

 このツイートがリツイートで流れてきて、面白いツイートだなと思ったんですけど、一方で疑問がありました。このツイートの視点は「あなた」なわけですが、そもそも「悪口を言った人」の視点はどうなってるのかなあと。

 そこで、「あなたの悪口を言う」パターン(A)と、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をしてくる人がいるパターン(B)とを図示してみます。矢印は悪口の方向を表しています。

 

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Aは直接悪口を言うのに対して、Bは(結果的に)間接的に悪口を言っている構図になります。ツイートに戻って考えるならば、「あなたの悪口を言っていたよ」報告をする人、図で言えば△の人の、赤い矢印が悪いということになります(簡単のため、Bの悪口は○→△→□の二段階で伝わるというモデルにしていますが、○→△→∇→□などのように、段階が増えることももちろんあります)。

 

 さて、この図を元にいろんな議論ができます。もちろん、ツイートのように「Aの○よりもBの△の方がタチが悪い」みたいな話もできるでしょう。そこで、僕は「いかに上手く悪口を言うか」というテーマで書いていきます。なぜなら、このテーマに沿って書くことで、図のような状況を適切に理解できるからです。

 

そもそも悪口の効用とは

 悪口を言った結果、起こることは大きく四つあるでしょう。それは「人が傷つくこと」と「評判が落ちること」と「共感を生むこと」と「ストレスが解消されること」です。それぞれについて考えていきましょう。

 


「人が傷つくこと」について

 悪口を直接言われても、悪口が間接的に伝わってきても傷つくのは傷つくでしょう。しかし、明確に相手を傷つけるための悪口などでない限りは、間接的に伝わってくる方が不安や疑心暗鬼を喚起しやすいと思います。なぜなら、伝言ゲームのように悪口が間接的に伝わると、「どのように悪口を言っていたのか」の情報は削ぎ落とされてしまうからです。悪口を言われた本人は、「どのように悪口を言っていたのか」を想像するしかありませんので、不安になります。

 むしろ、「言いたいことがあるなら直接言ってくれ」という言葉が示すように、直接言ってくれた方がすっきりする、という場合もあるでしょう。最初に引用したツイートはこのあたりの事情をよく分かっています。

 

 とはいえ、わざわざ直接悪口を言うのはケンカをしたい人ぐらいです。基本的には避けるべきでしょう。せいぜい「相手の嫌なところを改善してほしいから指摘する」が限度ですし、それも仲が悪くならない程度に柔らかい言い方をすることが必要でしょう。

 間接的な悪口も、伝わってしまう可能性があるのだから「そもそも言うべきではないのでは……」とも考えられるわけですが、悪口にはメリットもあります。それは三つ目や四つ目の論点で説明しますので、いったん保留しておきましょう。直接悪口を言うパターン(A)についてはもう論じることがありませんので、以下間接的に悪口を言うパターン(B)について論じます。

 

「評判が落ちること」について

 評判が落ちるというのは、まず悪口を言った人(○)の評判が落ちるというパターンがあります。このあたりは微妙なのですが、あまり他人の個人情報や弱点は晒さない方が無難でしょうし、あくまで悪口は「自分が被害を受けた」からこそ言うものでしょう。そうでなければ、「この人は自分のことも悪く言うのかもしれない……」と思われてしまって、信用を失いかねません。もちろん、悪口が本人(□)に伝わってしまえば、本人から不信感を抱かれてしまうでしょう。

 次に、悪口を言われた人(□)の評判が落ちるというパターンがあります。これを意図的にやるならば、まさに「情報操作」と言えるレベルでしょう。何らかの理由で相手(□)を蹴落としたいか、「□は良くない奴だから仲良くしない方がいい」といった注意喚起としてこれはありうる話です。しかし、「情報操作」をしていることが本人(□)にバレてしまうと復讐されるかもしれませんし、よろしくないでしょう。

 いずれにせよ、悪口が伝わらないように、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)は遠い方がいいでしょう。

 

「共感を生むこと」について

 「スケープゴート」という言葉がありますが、誰かを敵にすることによって味方との仲が良くなることがあります。悪口によって「俺もあいつのこと嫌い!」や「私もあの人苦手なんだよね……」といった「負の共感」を生むことがあります。それを「本音」のように「実は……なんだよね」という感じで言えば、特に効果は大きいかもしれません。しかし、共感によって仲が良くなるのは良いことかもしれませんが、一方で、スケープゴートにされてしまった人は排除されてしまう可能性があるのでそれはそれで問題です。

 そこで、「共感を生むこと」が目的の場合は、悪口の対象は遠い人間関係の方がいい(□は△から遠い方がいい)でしょう。あるいは、具体的な人についてではなく、一般的な人や、人以外の何かへの悪口を言えばいいのかもしれません。

 

「ストレスが解消されること」について

 ストレスを感じるような相手に対して、直接改善を求めるのも一つの手段でしょうが、どうしても直接言えない場合はあるものです。

 そこで、直接本人には言わないBのパターンを取るわけです。これは悪口というよりも「愚痴」という方がしっくりくるでしょう。愚痴のメリットはけっこう大きいと僕は感じます。人間、悩みや不安や怒りなどのストレスは抱えるものです。そこで、ちゃんと聞いてくれる人間がいればだいぶストレスは緩和されます。別のストレス解消手段がちゃんと機能していればいいのですが、溜め込むのはあまりよくないでしょう。

 ただ、しつこいようですが、ここでもやはり悪口が本人に伝わるとまずいです。単なる愚痴のつもりでも、言われた当の本人からすれば「悪口」でしょうから。

 

まとめ

 まず、直接悪口を言う場合(A)は「自分が嫌だと感じること」についてやんわりと改善を求めるのがいいでしょう。

 間接的に悪口を言う場合(B)は、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)が遠い方がいいでしょう。伝わると困りますから。あるいは、△がちゃんと秘密を守ってくれる相手ならばいいのかもしれません。

 ということで大したことない結論ですが、悪口を言うためには、悪口を言う相手の人間関係とは独立した人間関係の友人を持つか、秘密を守ってくれる友人を持つかが大事でしょう。

 

 しかし、最後に手の平を返すようですが、悪口を吐き出す相手(△)と悪口の対象(□)とが遠い場合はそもそも△が□のことを知らない場合も多いでしょうし、共感があまり得られないかもしれませんし、ひいてはストレス解消効果が薄くなるでしょう。だからこそ人は、悪口が本人に伝わってしまうのにもかかわらず、悪口を言う対象(□)から近い人(△)に悪口を吐き出したくなるのです。言い方を変えれば「悪口」はリスクとリターンの大きさが比例しているのです。

 

 余談ですが、こうして考えると、小中学校のクラスなどで「悪い噂」を流すというイジメがいかに破壊力を持っているかが分かりますね。

 

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幸福という観点から、「その場にいない人間の悪口を言っていいかどうか」という問いを途中で立ててます

『屍鬼』上映会 個人的まとめ

 サクラ荘で『屍鬼』のアニメ上映会がありました。僕は2クール目だけ参加したんですけど、6年前に観たことあってWikipediaで復習したら思い出しました。
屍鬼』は僕の好きな声優である悠木碧さんが出てるアニメというのもあるんですけど、普通にすごく面白いアニメだったという記憶があります。おそらく今まで観てきたアニメの中でもベスト10に入るぐらいだろうと。

 

 んで、6年ぶりに観てみると「やっぱりいいアニメだな」と思ったのもあるんですけど、「こういうアニメだったのか」という新鮮な発見もありました。やっぱ作品って一回観たぐらいでは評価しきれないもんですね。
 評価が変わった背景には、僕が大学生になってから人文社会科学系の勉強をしたというのがあると思います。詳しくは以下に述べます。

 

6年前の感想

 6年前に僕が評価していた点は、沙子というなんとも切ない人外キャラクターを演じる悠木碧ちゃんが素晴らしいというのもあるんですけど、それはともかくとして。
 大きく評価していた点は4点だと思います。その4点は微妙に重なり合うんですけど、パニックホラーっぽさと、シュールな笑いと、群像劇っぽさと、主張のぶつかり合いです。

 

 1点目にパニックホラーっぽさ。この作品はそもそも人間と「屍鬼」との戦いを描く作品でもあるのですが、終盤に向かうにつれてモラル・ハザードが起こってきます。「屍鬼」も元は人間なのにもかかわらず、人間側は躊躇なく「屍鬼」を殺せるようになっていきます。それどころか人間側は「屍鬼」に加担する"人間"すらも殺せるようになります。作品のキャラクターである尾崎が「それはただの殺人だ」と言っているんですけど、まさにただの殺人を犯しちゃうわけです。
極限状態だからこそ起こるモラル・ハザード(災害時に万引きやレイプが横行するみたいな)でもあるんだけど、村社会の全体主義っぽさも活きています。躊躇していた人間が平然と人を殺せるようになっていく様の描き方が見事です。

 

 2点目にシュールな笑い。そもそもホラーとシュールな笑いは相性がいいのかもしれません。キャラクターがTPOに合致しないファッション、言動を平然とやってのけていくので、どうも笑いが込み上げてきます。あとキャラクターの顔がいちいち面白いです。実のところすごく笑える作品です。

 

 3点目が群像劇っぽさ。この作品には明確な主人公がいないように思います。キャラクターが出てくるたびに字幕で名前と立場が表示され、おのおののキャラクターがおのおのの思いを抱えて勝手に動きます。彼らはストーリーを展開させるための装置ではなく、リアリティを持った人間なのだなあという感じを受けます。「勝手に動く」という点は1点目のパニックホラーっぽさにうまいこと接続しているなあとも感じます。

 

 4点目は3点目と近いですが、主張のぶつかり合いです。人間側と屍鬼側それぞれにキャラクターがいることによって、様々な主張がぶつかり合います。人間側や屍鬼側も一枚岩ではありませんので、いろんな葛藤も起こります。それが「戦い」として解決されていくのはディベート好きの僕としてはたまりません。それぞれのキャラクターがある種の記号として戯画的に描かれているのはさきほどの「リアリティを持った人間」とは矛盾するのかもしれませんが、「ストーリー展開のための装置」ではなくて、「作品全体のバランスを取るための装置」としてキャラクターは機能しているのだと思います(だからこそ、キャラクターはTPOと合わない動きをするので2点目のシュールな笑いが生じてくるんですけれども)。

 

 とまあ、6年前から抱いていた感想を出したとしても十分に面白いなと思える作品なわけですが、6年経って僕にもいろいろなものさしが追加されたわけで、今回の上映会で感じたものを新たにまとめなおしてみます。

 

屍鬼とかいう「現代思想」に忠実な作品

 一言で言えば、屍鬼優等生なのだと思います。『屍鬼』の中には、実存主義マルクス主義における社会運動論のような「主体主義」のテーマと同時に、現代思想の「反主体主義」的なテーマが含まれています(なんのこっちゃ)。また先ほどの全体主義の話や、田舎/都会という二項対立に顕著な「近代化」のようなテーマも含まれています。

 まあつまりは、読みようによっちゃあ、モロに「現代思想」っぽい作品だということです。こう解釈しちゃうのは僕が現代思想かぶれの人間だからというのもあるでしょうけど、あながち間違ってない気がします。間違っていないという説明をするために、まず『屍鬼』に見られる複数の二項対立のモチーフを書きだすところから始めます。

 

二項対立について

人間/屍鬼(われわれ/他者)
理性/本能
生/死
田舎/都会

 

 ザッとこんなもんでしょう。まず「人間/屍鬼」という二項対立。これはそのまま「われわれ/他者」と言い換えられると思います。どういうことか。設定上「屍鬼」という吸血鬼たちは元々人間です。でも、屍鬼は人間を食らう存在だから、人間からは排除されます。一言で言えば「他者」なわけです。

 これは世界史的にもよく見られる話です。ナチスによるユダヤ人の虐殺(同じ人間なのに)。「狂人」はみんなと一緒に生活していたのに、「医療の対象」として精神病院に閉じ込めたこと。西洋中心主義から見た「未開」の地域(西洋が「発展」していてそれ以外が「未開」というのはどういうことか!)、などなど。自分と差異のある存在を「他者」として排除してきた歴史があるわけです。しかし、その「他者」は実は「われわれ」と同根であり、連続性がある。そういう批判ができるわけです。

 

 というわけで、作品内では人間でありながら「屍鬼」に味方する者や、「屍鬼」になりながら人間を殺さないよう我慢する者(ここでは「飢え」という本能に負けず、理性を振り絞り、人間であろうとしている)、「屍鬼」と化しても実の親だからと、自分の血を分け与えることで殺さずに生かそうとする者などが出てくるわけです。元々から屍鬼だった者もまた、人間を殺すことの罪について真剣に考えるシーンがあります。それどころか、夏野のように「人間の味方をするわけでも屍鬼の味方をするわけでもない」と主張する第三項さえも出てきます。

 

 「生/死」という二項対立にも触れましょう。自然の摂理からすると死んだ者は生き返りません。しかし、作品の設定上、死んだ者は生き返って「屍鬼」になっています。そこで、「屍鬼」を死人として殺してやるのが正しいのか、「屍鬼」も生きている者だとして共存するのが正しいのかといった微妙な問いが生まれてくるわけです。

 

 これらに加えて、「田舎/都会」という二項対立が重ね合わされるのも面白い。主人公っぽいキャラクターである夏野は「よそ者」として都会からやってきます。また、屍鬼である桐敷家も「よそ者」です。そして、都会に憧れる少女である恵も作品におけるキーパーソンです。都会側が「よそ者」すなわち「他者」として扱われる一方で、田舎の内部にも都会側(他者側)への接近が見られるわけです。
(なお、いちいち指摘するまでもないかもしれませんが、「田舎特有の閉塞感」というテーマだけでも十分に価値のあるテーマだと僕は思います)

 

 このように、『屍鬼』の中には常に重層低音として「われわれ/他者」の二項対立があり、その二項対立は内在的に(「われわれ=人間」や「他者=屍鬼」の側から)批判されていきます。むしろ、屍鬼の社会では業績を挙げた者が幹部になれるという企業のタテ社会のようなものができていて、それはもはや「他者」とは呼びがたい。明るいタッチで描かれる屍鬼の社会は(夜にしか存在できないとはいえ)、むしろ人間=われわれの社会そのものです。


尾崎の「革命」

 この作品の主人公の一人である尾崎は、いち早く「屍鬼」の存在に気づき、「屍鬼」を打倒するために対策を練ります。しかし、味方になってくれると思われた村の人々は尾崎の話を信じようとはしません。その象徴的なセリフが次のものです。

 

 「俺たちは近代合理主義の洗礼を受けている。洗脳と言ってもいい。この世に化け物や魔法は存在しない。それが俺たちの世界に対する認識なんだ。これは伝染病なんだろう? そのうち外の誰かが怪しむはずだ。そうなればすべてが公になり事態は収まるだろう」

 

 これはまさにマルクス主義が言うところの「イデオロギー」(訂正されるべきなんだけど支配的な観念)です。屍鬼に侵食されていると気づけない村の人間は(=資本主義によって搾取されていると気づけない労働者は)「日和見主義」になるわけです。ここに僕は『屍鬼』における「主体主義」的なテーマを読み取るわけです。

 これに対し、尾崎の取る行動もまたマルクス主義的なところがあります。それは「機が熟すのを待つ」ということです。屍鬼に侵食されていることに気づきながらもじっくりと耐え、いざ、屍鬼が油断して公の場所に現れたところを尾崎はひっ捕らえます。油断して尻尾を出した屍鬼を、イデオローグ尾崎はうまいこと大衆煽動の道具に使ったわけです。そして大衆(村民)は決起します。一度動き出すと、大衆は留まるところを知りません。そういう意味ではむしろ尾崎はヒトラー的なのかもしれません。人間の中で内ゲバが起こるのも面白いですね。村社会における屍鬼との戦いが、そのまま「社会運動」の縮図になっているわけです。

 

まとめと不満

 『屍鬼』について僕が評価していることは以上のようなことです。6年間のブランクがあり、現代思想的なものさしがインストールされたことでまた新鮮な見方をすることができました。その見方がはたして良いのかは知りませんけども、現代思想のものさしで見てみるならば『屍鬼』は強度のある作品なんだなあということを感じました。もちろん、単に現代思想的なテーマがただ触れられているというだけではなくて、うまいこと料理されて作品として昇華されているなあ、という印象です。ホラーとしての王道も満たしているし、完成度の高い名作でしょう。

 ただまあ、「目新しさがある」作品というわけではないでしょう。あくまで優等生的な作品なのだなあと感じます。
 そして、僕個人の不満を言うならば、吸血鬼を扱うのであれば、もうちょっとエロくてもよかったなあと。噛まれた人間は屍鬼からの命令に従うという設定があるわけですが、そこからはマゾヒズム的なエロスも感じられます。
 実際、屍鬼に出てくる女性キャラはセックスアピールが強くて、屍鬼側のキャラである千鶴はその筆頭です。時代錯誤的なファッションがむしろかわいらしいところもありますが、「美食家」として尾崎を噛むシーンはやっぱエロいです。もっとやってほしかった。
 あと、人間から屍鬼になってすぐは強烈な「飢え」からどうしても人間を噛んでしまうという設定もあります。この理性と本能との葛藤からはやっぱり、エロさを求めてしまうのですけれども、ダメですかね。