『生きてるものはいないのか』をドキドキぼーいずがやってたので感想

 アトリエ劇研で6月10日14時に観た。なんかこれを最後に2年ぐらい休止するらしいので観れてよかった。

 思えば、ドキドキぼーいずを『愛と退屈の国』で初めて観て、その後『じゅんすいなカタチ』を観て、本間くんが演出してる『(おわりたい)漂流』も観に行ったし、僕はいつの間にか本間くんのファンになっていたようだ。今回の『生きてるものはいないのか』はタイトルはよく聞くけど内容を知らなかったので、一度ぐらい観たかったというのもあった。さて、以下感想。

 

・まず、いつもの身体痙攣みたいな演出が分かりやすく脚本にマッチしていて傑作だったと思う。

 

 現実にはありえないような高速テンポでの掛け合いを初っ端から飛ばしていくことで、「言葉の上では成り立っているけどコミュニケーションとしては成り立っていない」ようなディスコミュニケーションを戯画的に示していた。だからこそ、その後にキャラがどんどん死んでいく中で描かれる、「死に際の孤独感」の表現が活きていたように思う。人は死んでいくときは孤独だみたいな話をバタイユがしてた気がする(テキトー)

 

 

・会話におけるありえないほどの高速テンポや、誰にも合わない視線、音響に合わせてリズムを持った死の踊りや身体痙攣などは、見事な本間メソッドだなあと。それらは

 

①会話における「言葉」の空虚さ

②地下鉄サリンや公害や戦争や災害や放射能などを思わせる圧倒的「現実」の侵入

③普段意識していない(というか抑圧している)死の恐怖

 

を生々しく示しているように思えて、効果的だったなと。

 

 それらに対応づけて言えば、僕らは普段、

 

①言語

②「目に見える」もの

③死を忘れて「生きている」ということ

 

のそれぞれのヴェールに包まれて、「安心」して生きているのだなあ、ということが浮き彫りにされた。

 

 

・そう考えると、舞台セットの白色の幕?は、「こちら側/あちら側」を分けるヴェールを示しているようにも見えた。つまりヴェールは言語/非言語(①)、可視のもの/不可視のもの(②)、生/死(③)などを分けており、それらの断絶は、自己と他者の根源的なディスコミュニケーションやそれにまつわる孤独感にも繋がっているなあと感じた。例えば、親密な人の突然の死を前にして、幕の後ろに逃げていくシーンにはリアリティがあった。

 

 

・義理の兄役の人、妹と仲良くしたいみたいな部分を表現する役でありながら、時折見せる焦点の合っていない自閉的な視線が恐ろしくて良かった。

 

 

・本間くんの身体痙攣演出みたいなのすごい好きだし、ネガティブな表現をするための使い方だけじゃなくてポジティブな表現のための使い方も見たいかも。

 分かりやすいのだと例えば、「複数の身体が共振することによって生まれるつながり」みたいな表現とか。もっといいのあるだろうけど。

西沢大良「近代都市の根拠――新型スラムと二一世紀の都市の課題」(『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』p26-52)の個人的レジュメ

個人的なレジュメなので網羅的ではないし、僕個人による言い換えも多いですので注意。

 

「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係

「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係

 

 

19世紀、オランダに対抗したいイギリスでの、綿産業:軽工業の発達→貧困(ブラック労働)、スラム化、伝染病、公害
→どうしようもない状態からの起死回生としての近代都市の発生(上下水道の整備、住居地域と工場地域の区別、住居地域と業務地域の区別といったもの)
19世紀末、軽工業は先端技術ではなくなり、工業先進国は重工業で争うように(90年代あたりからは情報産業へ)。
同時に、港湾部へ産業も移転。都市部ではスラム化がとまったように見えるのだが……

 

ハワード「田園都市」はその時期の構想のため、上記の貧困、スラム化、伝染病、公害問題は近代都市計画によって解消されたのか産業移転によって解消されたのか分からない(実際は産業移転によって、だと思われる)。
つまり、ハワードは重工業期の都市を前提としたために、産業移転後の(たいしたことない)スラム状態を前提としている。

結果、現代のスラムとして二パターンある。
旧型スラム:中南米や南アジアにおいて近代都市計画が進むものの、教育水準の低い農奴は庶民はそこで仕事できず、債務が膨れ上がる。結果、農地や鉱山や水源を売ることになり、スラムが発生する。
新型スラム:近代化後、郊外ベッドタウンやニュータウンがスラム化する。


「集落」は、農地や漁場や鉱山といった「特殊な土地」の生産力に依存して長期的に生存するという戦略を持っている。これを近代都市計画にいいとこ取りにように組み込んでしまったのが失敗。ハワードの「田園都市」はその点で間違っている(近代都市には「特殊な土地」がなく、単なる宅地でしかない。30~50年は生き延びれるけどその後スラム化する)。言い換えれば、近代都市はやはり軽工業に頼っていて、その問題への根本的解決はない。

 

社会主義ケインズ主義も結局新自由主義(市場万能主義)に勝てずに回収されていってしまった。いずれも官僚組織が肥大化してしまい、福祉政策が行き詰ったから。

その対抗として、①北欧モデル:市場の警戒のみならず、国家も警戒。市場では競争してもらうが、倒産したら救済はしない。代わりに人間に補助金出して、市場に復活するまで支援する。
貯蓄しないとか、失業を恐れないといったヤバい世界観でもある。
宇沢弘文の「社会的共通資本」論。新自由主義フリードマンを批判し、Ⅰ自然界、Ⅱ法律や制度、Ⅲ上下水道などのインフラを社会的共通資本と定義し、それらを毀損してはならないとする理論。
アマルティア・センのケイパビリティアプローチ→具体的には、グラミン銀行の貧民に低金利で貸す方法。貸すときに親戚全員とか友だち全員で借りにこさせて、社会関係資本を担保にする戦略。返せなかったら人とのつながりを失ってしまうので、返せる。

 

西沢大良の処方箋:
都市・国家・資本を分けて考える。国家は資本に従属しちゃってるし、短命なので60・70年ぐらいしか残らない。資本も短命、倒産するし強くなってもインフレとかの影響受ける。それに対し都市は頑強。従来の理解では、国家が都市を整備し(公共事業)、資本が都市を整備する(民間事業の再開発)。だが、長期的に見ればこの依存関係は逆。都市計画は国家・資本が機能している間に、機能しなくなったときの生存環境を整えておく必要がある。本当は都市の方が長期的には生き残る。

背伸びとしゃがみのススメ

 世間には学生向け○○だとか、13歳からの○○だとか、10代のための○○だとか若い人に対して上から目線でアドバイスしてやろうという本がいっぱいある。

 本に限った話ではなく、おおよそ「教育」をしてやろうという人にはよく見られる態度だと思う(教育者をディスってるわけではない。むしろ専門的な教育者じゃないけど教育をしてやろうという態度の人を指している気がする)。

 

 実は、僕もそうだ。

 

 メサコン根性(自分の価値を感じたいがゆえに人を助けることに執着してしまう根性)が肥大化して「教育をしてやろう」という態度をどうしても持ってしまうところがある。その結果、例えば「教育者のための○○」とか「臨床家のための○○」とかみたいな本を読む、みたいな経験がたまにある。

 こう言うと、自分は欺瞞に満ちた人間だなと思うのだけど、一方で「○○でない人間が○○向けの本を読む」という経験は案外役に立っているという実感がある。

 

ディベートを「審判」の視点から見た話

 本じゃないのだけど自分がそれを強く実感した一例を挙げる。僕は高校生のときに「ディベート」を競技としてやっていた。全国大会である「ディベート甲子園」にも出場したことがある。そして今は中高生のディベート試合の審判をたまに(年に4回ぐらい)やっている。

 実は高校生のとき、ディベートの技能向上にかなり役立ったように思うのが「審判講習」だった。競技ディベートのルールを読み込み、審判はどういう視点を持って試合を判定するかということを学んだ(既に審判をやっていたOBOGの先輩方にご教授いただいた)。

 それこそ普段はディベートを選手の視点からしか見ないわけだけど、審判の視点からディベートを眺めてみたというのがこの話のキモだ。俯瞰的な視点に立ってみることによって、今まで見えてこなかったものがすごく見えるようになった。

 

 さて、これだけだと単に「俯瞰(メタ)的な視点を持て」っていうお決まりの文句になってしまいそうだけど、もう一歩進みたい。

 

単に「別の視点」であるということ

 やはりメタ的な視点だから偉い、なんてことはないと思う。むしろ現場で瑞々しい体験をしている(“ベタ”視点の)人の方がモノを知っているということはよくあることだ。

 だから、今の自分の視点とは別の視点で考えてみること、ただこれだけが重要なのではないか。基本的には、視点に優劣はないと言っていいように思う(ただ例えば二つの視点しか持てないとしたら「どの二つを選ぶか」という更なるメタ視点はありそうだ。その際、例えば「より多様性のある選択をした方がいい」みたいな優劣が導入されてしまいそうだけど、そのへんはいったん考えないでおく)。

 

背伸びとしゃがみ

 よりメタ的な視点で眺める、あるいは「大人」の視点で見ようとすることが「背伸び」なのだとしたら、逆によりベタな視点、あるいは「子ども」の視点で見ることは「しゃがむ」ことなのではないだろうか。世の中には、子どもと一緒になって子どものように楽しんで遊べる大人がいるけども、それは一つの素晴らしい能力のように思う。

 

 逆にダメなのは子どもが「子ども向け」のおもちゃで遊んでしまうような、そんな事態ではないだろうか。もちろん、「○○向け」は配慮されて○○に適するように作ってあるだろうから、それには一定の意義や効率性などがあるのだと思う。しかし、それだけでは一つの視点に固定されてしまい、見える範囲は狭くなってしまう。

 だからこそ僕が提案したいのは、敢えて自分の専門ではない「○○向け」へと背伸びをしてみること(ただし専門性がないと全然入っていけないものもあるだろうから、それはネックだ)。あるいは、逆に自分のよく知っているはずのものの「初心者向け」をしゃがんで見てみることである。

 

 要は「視野は広げた方がいい」という前提の上での、その視野の広げ方の提案でした。

シェアハウスとメンヘラ

この文章はオープンシェアハウスサクラ荘が発行しているフリーペーパー的なもの、「季刊サクラ荘」の第一号に寄稿した文章です。サブタイトルをつけるとするなら、「架橋としてのメンヘラ概念とシェアハウスの居場所・自立機能」みたいなところでしょうか。

はじめに

 「メンヘラ」という言葉がある。

 この言葉は「メンタルヘルスer」の略であるが、意味が曖昧で、この言葉を使う人によって意味が異なっていることが多い。

 特にインターネットにおいて、「精神的に不安定な、主に恋愛において人に迷惑をかける女性」ぐらいの意味で蔑称として用いられてきた経緯があるため、この言葉を用いない方がよいかもしれない。

 しかしそれでも敢えて「メンヘラ」という言葉を用いる理由は、この言葉にいくつかの問題が凝縮されているからである。「メンヘラ」という言葉は、

 

 

①「家庭環境に問題があったり、学校でイジメを受けたりして、親密な関係から排除されてきた結果、居場所がない人」を意味する(「愛と居場所」の問題系)
②「何らかの物事や人に対して強く依存しているため、自分自身の基準で物事を判断することが難しい人」を意味する(「自立と依存」の問題系)
③「恋愛や、異性からの性的承認に強く依存する女性」を意味する(「性」の問題系)

 

 

 以上の三つの問題は相互に絡まり合っている。だからこそ、それらを個別的にではなく総合的に論じる必要がある。

 だから敢えて「メンヘラ」という言葉をフックにして問題を提起し、その問題に対して「シェアハウス」が持つ可能性と限界を示すのが今回の目的である。

 

 急いで付け加えなければならないのだが、この文章は、私が個人的に接してきた「メンヘラ」と呼ばれうるような人々についての、いくつもの経験と伝聞を総合した結果、構成されている。

 だからこそ、特定の誰かを指した文章ではない。もし読者のあなたが「これは自分のことを指している」と感じたなら慎重に吟味が必要だ。

 「この部分は自分に当てはまるが、この部分は自分とは関係がない」、「自分とはほとんど関係がない」といった風に、まず自分がどういう状態なのかを確認してほしい。

 その上でもし、問題解決にシェアハウスが役立ちそうであれば、サクラ荘に連絡をくださるとありがたく思う。

 

 

メンヘラと生育環境の問題

 「メンヘラ」と呼ばれうる人は、自身の家庭環境が悪かったことを述べる。具体的には

 

 

  • 両親の仲が悪かったり離婚していたり
  • 親が過干渉で自分の行動を制限してきたり
  • プライバシーを侵害してきたり
  • 放っておかれたり
  • 言葉でけなしてきたり
  • 暴力をふるってきたり

 

 

 といったエピソードである。また、「学校でイジメを受けた」というエピソードもよく聞く。

 高校生までの子どもにとって、基本的に「家庭」と「教室(学校)」は重要な集団ツートップである。これらの集団において馴染めなかった(排除された)場合、後の人生にも尾を引くことが多い。

 結果として高校卒業以後も、精神的に不安定だったり、対人関係がうまくいかなかったり、集団にうまくなじめなかったりということになる。*1

 

 

「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環

 「精神的に不安定」(個人)と「コミュニケーションがうまくいかない」(二者関係)と「集団になじめず、居場所がない」(集団)という三つの問題はそれぞれ連動している。

 

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  この三角形の矢印については例えば、

 

A:誰かと仲が悪いと精神的に不安定になる(二者関係→個人)

B:精神的に不安定だと余裕を持ってコミュニケーションができない(個人→二者関係)

C:誰かとの関係がうまくいってないと集団からも問題視される(二者関係→集団)

D:集団から異質な存在として見られるとその中での誰かとのコミュニケーションもうまくいきづらい(集団→二者関係)

E:集団になじめないと精神的に安定を得るのは難しい(集団→個人)

F:精神的に不安定だと自分は集団に不要な存在だと思ってしまう(個人→集団)

 

 といった説明ができる。また、これ以外の説明も可能である。例えば、個人の問題は「精神的に不安定」だけでなく「コミュニケーションのスキルが低い」ということもあるだろう。コミュニケーションのスキルが低ければ二者関係や集団でうまくいかず、二者関係や集団がなければコミュニケーションのスキルを磨く機会もなくなるだろう。

 いずれにせよ悪循環に陥ってしまうという問題である。そのため、「メンヘラ」が常態化すると抜け出すことが難しい。

 

 

「悪循環」対「シェアハウス」

 シェアハウスはうまくいかなかった家庭における家族関係や、学校における友人関係からの「避難所」であり、そしてそこから更に発展して、それらの関係を「やり直す」ための「居場所」として機能しうる*2。すると、「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環を断ち切れる可能性がある。しかも、サークルなどと違って「そこにある」集団であり、家族や教室などと違って「自分で選べる」集団であるという「いいとこどり」がシェアハウスによってできる。

 

 しかし、シェアハウスでもなじめなかった場合は、結局のところ悪循環に戻ってしまうことになるという限界はある。あまりにも精神やコミュニケーションに問題がある場合は、医療や福祉による介入も必要になってくるし、シェアハウスに住んだ上で病院に通うなどしてもいいだろう。

 

 

「メンヘラ」は状態か性格か

 「恋愛をするとメンヘラになる」などといった言葉に見られるように「自分は一時的にメンヘラになることがある」と言う人もいる。この場合、「メンヘラ」という言葉は一時的な「状態」を指しているし、実際、ほとんどの人は何らかの「メンヘラ状態」を体験したことがあるだろう。しかし、それが常態化し、一つの「性格」(あるいは「気質」や「人格」)として固定されてしまっている人こそが問題である。その人においては、しばしば先ほどの「悪循環」を伴っている。

 そして、固定された「性格」としてのメンヘラは、しばしば特定の「病名」と同一視される。

 

 

メンヘラと病名

 そもそも「メンヘラ」は「メンタルヘルスer」の略であり、元々は2000年頃、2ちゃんねるメンタルヘルス板あたりが発祥である。メンヘルだとかメンヘラーだとかいう言葉も使われていた。

 当時からメンタルヘルス板に出入りをしていた人の話によれば、病名としてはうつ病躁うつ病双極性障害)、またそれほど多くはないが統合失調症あたりがメンタルヘルス板の住人の主流だったようだ。

 しかし、2006年頃から「メンヘラ」が「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)*3に結びつき始める。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」は主に恋愛におけるコミュニケーション(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)において定義されるようになっていった。*4

 また、時期がズレるためそれほど目立たないが「メンヘラ」と「アダルト・チルドレン」概念*5との関連性を指摘する人も多い。これは医学的な診断名ではないが、90年代や00年代初頭に流行した概念である。今ではアダルト・チルドレンよりも「毒親」(子どもの成長にとって毒になる親)の概念が流行しているように思われる。

 

 これらの病名や概念については詳細な研究の蓄積があり、「メンヘラ」の一言では済まされない固有の問題がそれぞれにある。だから、これらの病名や概念の当事者は「メンヘラ」という言葉ではなく病名・概念を手がかりに、医学的な治療を受けたり、自助グループに出向いたりすることが先決だろう。

 しかし、それでも敢えて「境界性パーソナリティ障害」という病名や「アダルト・チルドレン」という概念の名前を出した理由は、それらが特殊な事態であるがゆえに、逆に誰にでも見られるような一般的な問題を戯画的に表現している側面があるからである。

 

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虐待あるいは暴力の生じる条件

 メンヘラと家庭環境の問題は最初に述べた。そして、家庭環境に問題があるというのはアダルト・チルドレンの定義でもある。これらは特殊な事態に見えがちだが、一般化している事態でもある。実際、児童相談所による児童虐待対応件数は年々増加の一途を辿り、2015年度には10万件を超えている。

 もちろん、それだけ児童虐待に対する意識が向上しただけであり、児童虐待の実際の件数自体には変化がないという見方も可能である。

 しかし、このような虐待(暴力)の生じる背景に何があるのかを考えてみよう。精神科医・批評家の斎藤環は、「場」における暴力が生じる条件として①密室性②二者関係③序列の3つを挙げた。つまりは、集団が狭いサイズで閉じてしまっていてかつ、対等ではないことが暴力の生じる条件である。

 こう考えると、学校におけるイジメや、ブラック企業の問題がいずれも表面化しているのも、それらに対する社会的な意識が向上したからだけでなく、実際に問題が増加しているからではないかとも考えられる。

 

 

「暴力」対「シェアハウス」

 シェアハウスは複数人の大人が住んでいる場であり、対等な場である。一般家庭と違って家賃を割っているのが良い証拠である。家族で見られる「誰のおかげで飯を食わせてもらってると思ってるんだ」みたいな一方的な権力関係は生じず、「ギブ&テイク」の交換がちゃんと成立する「相互扶助」の関係が成り立ちやすいだろう。

 

 しかし、学校などと同様に、イジメ的な問題が生じることは原理的には避け得ない。二者関係にはならずとも、集団イジメなどもありえないことではない。学校(教室)よりもマシなのは、やはり住む相手を一応は選べるというところだろう。問題が生じそうな相手とはそもそも一緒に住まないという選択肢がある。本当にヤバいときは離脱できるようにしておくことも、シェアハウス運営には必要だろう。

 

 

 

地域衰退と家族縮小による「保険の効かない子育て」

 大雑把に言えば、昔の子育ては子ども一人あたりに関わる大人の人数が多かった。地域の大人や親戚、祖父母や兄・姉が関わっていただろう。だからこそ「保険の効く子育て」だった。たとえ親の人格や行動に問題があったとしても、他の大人がチェック機能を果たすことができたし、今よりも分業することができただろう。

 しかし、地域が衰退し、祖父母が同居していない核家族世帯が増えたため、子どもにとっての大人は親だけである。それもしばしば「母親」だけである(シングルマザーも増加している)。共働き世帯が増えている中、保育所に子どもを預けざるをえず、待機児童が増加しているという問題も話題になっている。

 これではどうしても母親に対して子育てのプレッシャーがかかってしまうだろう。結果として、母親の人格に元々問題がなかったとしても、うまく子育てできない、ひどい場合は虐待してしまうという状況が生じかねない。

 しかも、虐待を受けた子どもが親になると虐待をする確率が高いというデータもある。暴力は学習を通じて連鎖していくのである。

 

 つまり、家庭環境(子育て環境)や虐待や「毒親」の問題はもはや構造的な問題である。例外ではなく、一般化している問題なのである。確かに「アダルト・チルドレン」と呼ばれうるようなレベルのものは特殊なのかもしれないが、「アダルト・チルドレン」的な事態を一方の極として、程度に差はありつつもグラデーションとして広く分布しているのだと思われる。

 

 

「子育て環境」対「シェアハウス」

 「子育て環境」については「悪い環境で育った大人」の問題と、「これから育っていく子ども」の問題とを分けて考える必要がある。

 「悪い環境で育った大人」に関しては、やはりシェアハウスを「居場所」として提供し、家族関係からの「避難所」として、そして家族関係の「やり直し」の場所として機能させることが重要だろう。「悪循環」のところで述べたことである。

 

 「これから育っていく子ども」については現状では対処困難である。しかし、最終的には「子育てシェアハウス」をする必要があると私は感じている。実際、海外ではコレクティブハウジングという形態において、複数の家族が一つの建物に住む(キッチン等は共有)ということが起こっている。日本においては居住する建物の問題や、子育て責任の所在の問題、後に述べる性の問題など、まだまだ様々な問題がある。しかし、複数の大人がいる状態で子育てをするということは「保険の効く子育て」になるはずだ。今後検討する余地のある課題である。*6

 

 

依存(アディクション)の一般化とアイデンティティの困難

 ところで、アダルト・チルドレンや「毒親」の概念においては、大人になっても現実の親、あるいは自分の中の親(インナーペアレンツとも呼ばれる)に囚われてしまって、自由になれないということが語られる。

 つまり、自分自身の基準で物事を判断(これは「自律」の定義だ)できず、何らかのものに強く依存してしまう。具体的には人間関係、性行為、アルコール、買い物、ダイエット、過食、薬物、自傷などである。病的なまでに強い依存はアディクション(中毒、嗜癖)とも呼ばれる。

 アダルト・チルドレンにおいてこのような依存(アディクション)が生じる理由は、端的に言えば親によって子ども自身の選択が否定されてきたからである。結果、自分自身"以外"のものを基準にして物事を判断するようになる。*7

 しかし、この依存(アディクション)もまた、アダルト・チルドレンに限らず、現代日本社会において一般的な問題なのである。以下で説明しよう。

 

 昔であれば自己のアイデンティティは生まれや仕事で決まっていた。あるいは、70年代80年代頃、恋愛して結婚して家を持つという「マイホーム主義」も人生の「生きがい」として機能していた。

 しかし、今や家族も仕事も「生きがい」にはなりにくくなった。生きがいを見出しにくくなったということは、自己のアイデンティティ(自分は何者なのか)を見出すのも難しくなったということだ。そんな中でも人々はどうにかして、「自分は何者なのか」という問いに答えようとする。よく言う「自分探し」とはそういうことだ。

 それでもやはり価値観が多様化してしまった昨今では「自分が分からない」、「生きてる意味は何なのか」という問いにどうしても晒されてしまう。そんな問いから手っ取り早く逃げることができる方法が依存(アディクション)だというわけだ。実際、アディクションの対象はアルコールなどを筆頭に「我を失わせる」ものが多い。一時的にであっても快楽に身を浸して、自意識や生きる意味、「私」を、忘れることができるのである。

 

 

依存と自立の問題

 このような「依存」は「自立」の対立概念として描かれがちである。しかし、「自立とは複数の依存先があること」という言葉が精神保健の分野で使われる。実際、何かに依存せずに生きている人間などいないだろう。健康な人間はおそらく、依存先一つあたりのウェイトが小さいために、あまり依存っぽくは見えないのである。

 一方、「メンヘラ」と呼ばれうる人の中には、恋人に対して「恋人」としての役割だけでなく、「親」としての役割や「友人」としての役割など、複数の役割を担わせようとする人がいる。一緒にいようとする時間も極端に長い。こうなると外から見ても「依存」しているということになるだろうし、当人の心理的にも依存していることが感じられるだろう。

 そもそも人間はほとんど誰しも養育者に依存して育っていく。依存は自立の前提にあるのだ*8。また、依存先は交換可能だということが知られている。リスクが高かったり社会的に認められていなかったりする依存先(それこそ「アディクション」と呼ばれるもの)を、「スポーツ」や「趣味」などの健全な依存先に置き換えていくこともまた重要である。

 

 

「依存と自立」対「シェアハウス」

 再三述べているようにシェアハウスは「居場所」である。だからこそ、「自立のための依存」の出発点になりうる可能性はあるだろう。

 ただ、そこで問題になるのは、依存がしばしば権力関係になりやすいということだ。しかし、「暴力」のところで述べたようにシェアハウスは対等な交換関係による「相互扶助」が成り立ちやすい。だから、一方的な依存ではなく「持ちつ持たれつ」になれる可能性が(少なくとも家族よりは)高い。すると、一方的な依存に見られるような、与える側の負担や受け取る側の罪悪感が生じないで済む。

 

 しかし、シェアハウスでも個人主義者たちが「複数人で一人暮らし」しているだけということはありうる。危うい権力関係だって生じうる。いずれにせよ、シェアハウスする以上はそれぞれが自己主張を持った上でお互いの主張も認め合うような、ちゃんとコミュニケーションをし合う関係が望ましいだろう。

 また、シェアハウスはあくまで「住む」だけなので、今のところ直接アイデンティティを担保してくれる機能はないように思われる。むしろ、現代日本ではシェアハウスは「若者のモラトリアム」を象徴してしまっているようにも感じる。恋愛結婚によってできる「家族」と違って物語に欠けるのだ。何か明確なコンセプトを持ったシェアハウスを作るというのも一つの手だが、「シェアハウスはいかにして物語を供給するのか?」は今後の課題だろう。個人的にはやはり「子育て」ではないかと思っているのだが。

 

 

自他の境界の曖昧さと「女」の問題

 「自立」ができていないということを別の角度で言い換えると、「自己の領域」が確立できていないということである。それは同時に、「他者の領域」の確立もできていないことを意味する。これは「自他の境界の曖昧さ」とも言えるが、その極端な形が「境界性パーソナリティ障害」である。

 ここからは私見も入るが、「境界性パーソナリティ障害」においては自他の境界が曖昧だからこそ、(自分にとって)良い/悪いが自他を分けるための基準になってしまう。結果として、次のようなパターンが見られる。

 

 

  • 敵(他者側)/味方(自己側)をはっきりと分ける
  • 恋人に対して理想化(自己と一体化)したり/一気に幻滅したり(「他者」として切り離す)して、相手を「良いところも悪いところもある一人の他者」と見れない
  • 強い優越感/劣等感を往復する(自分が良いもので満たされるか、悪いもので満たされるか)
  • 100点満点の出来以外はダメだとしてしまう完璧主義(よくできた部分とできなかった部分を分けられず、100点満点のみ自己側、それ以外は他者側にしてしまう)

 

 

 これは「境界性パーソナリティ障害」の一部に見られる極端な例であるが、「敵/味方をはっきりと分ける」などは健康な人にもよく見られる。

 精神科医水島広子は、いろいろな女性に特徴的に見られる女性のイヤな部分をカッコつきの「女」と定義しており、「女」の自他の境界の曖昧さを指摘している。

 その説明は以下だ。まず、女性が「細やかな気遣いができるべきである」という社会通念から「何も言わなくても察する能力」が女性に求められるようになる。しかし、はっきりとモノを言わずに察するという態度が一般化すると「自他の境界の曖昧さ」に繋がってしまうということだ。

 結果として、「あなたのことは何でも分かっている」とおせっかいを焼きたがる人や、自分と異なる意見を持っているだけで「攻撃された」と感じてしまう人などが出てくる。これらは、本来他者の領域であるものを自己の領域にしてしまっている。

 詳述は省くが、だいたい同じ論理で、敵/味方をはっきり区別する人や、しきりに陰口を叩く人、しきりに悩みを相談する/される人、話したくもない恋バナを話させる人、他人の秘密をすぐにバラしてしまう人などの例が説明されている。

 

 いずれにせよ、基本的には(他者を攻撃せず、尊重しながら)自己の領域と他者の領域をはっきり区別することが解決策として提示されている。ここでも先ほどの「自立のための依存」とはまた違った意味で「自立」がキーワードとなっているように思われる。

 

 

「自他の境界の曖昧さ」対「シェアハウス」

 シェアハウスは相互扶助が成立し、「与える側」と「受け取る側」の両方の役割を経験できうると述べた。これに加えて、シェアハウスでは絶対的な権力者が生じにくく、同居人はそもそもは他人であるために多様性がある。それぞれの同居人に対して取る立場・役割は様々だろう。これは言わば、野球というゲームにおいてピッチャーという役割を経験するのではなく、複数のポジションを経験していくことで野球というゲーム全体の構造を(あたかも野球ゲームをプレイしている人のように)俯瞰して眺めることができるようになることに等しい。

 そのような俯瞰的な視点を獲得して始めて、押し付けられた役割に流されるのではなく、自分で役割・態度を選択していく、すなわち「自立」した個人になれるだろう。この俯瞰的な視点、すなわち「自分はA側でもありうるし、B側でもありうるし、C側でもありうる……」といった相対的な視点を獲得することで、どんな状況においても他者の領域と自己の領域を明確化することができる、すなわち自他の境界線がはっきりするのではないか。

 

 しかし、シェアハウスであっても役割が固定化してしまうときはあるだろう。もし同じような人間が集まってしまえば、複数のポジションを経験する必要もなくなるし、ダメな部分をお互いに増幅し合うこともあるだろう。

 だから、シェアハウスにおいては適度に(対応できる余裕がある程度に)異質な人間がいた方が良いかもしれない。もちろん、根本的に相性が合わないであろう人と住む必要はないが。そして、適度に異なる他者との価値観の違いに対し、コミュニケーションによって折り合いをつけていく態度がやはり重要になるだろう。*9

 

 

性・恋愛による人間関係の崩壊

 「境界性パーソナリティ障害」の人間が、一つの集団において複数人と性関係・恋愛関係を持ち、結果として人間関係が崩壊するパターンが見られることがある。それは、単に境界性パーソナリティ障害の人間との関係が悪化した人が集団に居づらくなるというパターンもあるし、その人間を巡って争いが起きるというパターンもある。

 それは私が研究してきた「サークルクラッシュ」という現象なのだが、その際に複数人と性関係や恋愛関係を持った女性がしばしば「サークルクラッシャー」と呼ばれてきた(私にとっては不本意だが)。

 

 しかし一般的に言って、(異性愛の場合)男女の混じった親密な集団においては恋愛や性行為が起こりがちであるし、恋愛関係は友人関係よりも関係の持続が困難である。だからこそ、特定の集団においては性行為や恋愛が起こらない工夫が見られる(家族における近親相姦のタブーや、サークルや企業などにおける「恋愛禁止」のルール、男子禁制・女人禁制の集団など)。

 それら性・恋愛による人間関係が崩壊してしまう問題は、「サークルクラッシャー」のように(あるいは「バンド解散」のように)センセーショナルには語られないだけで、潜在的なリスクとして一般的に存在しているのだ。

 

 

「性・恋愛」対「シェアハウス」

 これは一見バカバカしいようだが、現在のところ「家族」に勝つことができない難問である。血縁においては厳格な近親相姦のタブーがあり、日本においてはしばしば子どもができると夫婦がセックスレスになるほどだ。

 それに対して、シェアハウスはあくまで他人同士である。恋愛や性行為が起きたところで「当人同士の自由」と、私事になりかねない。しかし、一方でシェアハウスは公共空間である。複数人と関係を持ってしまう人がいたらたいてい問題になるだろう。たとえ二者関係で済んだとしても、性行為をする場所があるのだろうか。その都度ホテルに行くのだとしたら、コストの面で一人暮らしに劣るだろう。個室を使うのだとしたら、性行為の音を嫌がる同居人もいるだろう。恋愛関係に嫉妬する同居人もいるかもしれない(要するに三角関係の問題)。

 そして、そういった問題で住人が出て行きでもしたら、家賃の支払いが滞ってしまう。これも問題だ。

 

 これらの問題に対策するための一つの方策は、そもそも性行為や恋愛をシェアハウス内部ではしないというものだ。それ以前に、男性専用や女性専用にするという方法もある(それでも外から連れ込んだら一緒なのだが)。

 あるいは逆に性や恋愛に関してオープンな空気を作るという方法もある。性や恋愛に関しては、秘密にしてコミュニケーションを遮断するからこそ問題が起きることも多い。性行為の音に内心嫌がっている同居人がいても、なかなか言い出しにくいからこそストレスが溜まっていくということはある。

 このように、性愛の価値観に対して一定のルールや空気を作るという方法もあるが、建築構造にも問題があるかもしれない。例えば、海外のコレクティブハウジングでは複数の夫婦が同じ建物のそれぞれ違う階に住んでいるという例があるようだが、それならば性行為の音の問題は生じにくいだろう。一軒家であっても、部屋の位置を工夫するという手段はある。

 また、住人が出て行くという問題に関しては、家賃支払いをある程度保証できるように、出て行く3ヶ月前には告知するなどのルールがある方がいいだろう。サクラ荘においても、「次の住人を見つけてから出て行く」ということが推奨されている。

 

 

おわりに

 ここまでの内容をまとめると次の図のようになる。

 

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   このように「メンヘラ」概念を「一般‐特殊」の橋渡しにすることで、「アダルト・チルドレン」や「境界性パーソナリティ障害」といった特殊な概念において戯画的に見られる問題が、実は現代日本の社会構造上一般的に見られる問題であり、実は程度問題なのだということを示した。

 そしてそれらの問題の解決において、シェアハウスが一定の寄与を果たすということを個別個別で述べた。大雑把に言えばそれはシェアハウスの「居場所」と「自立」の機能である。しかし「性」の問題など、いくつかの問題点は残っているため、今後「シェアハウス」概念を鍛え上げていくことが必要である。

 

*1

それは発達心理学的には例えば、イギリスの精神科医ボウルビィの「愛着理論」や、アメリカの発達心理学エリクソンの「ライフサイクル理論」などから説明できるだろう。詳しくはググれ。

 

*2

「やり直す」というと、「家族」や「友人」が絶対に必要と主張していると聞こえるかもしれないが、それらとは違った「シェアハウスの同居人」という固有の関係性を新たに「創造する」と考えてもよい。

 

*3

アメリカにおける精神疾患の診断基準「DSM-5」によると、境界性パーソナリティ障害の診断基準は、

 

 

  1. 現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。
  2. 理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式。
  3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像や自己観。
  4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(浪費、性行為、物質濫用、無謀な運転、むちゃ食いなど)。
  5. 自殺の行為、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し。
  6. 顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は 2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな強い気分変調、いらいら、または不安)。
  7. 慢性的な空虚感。
  8. 不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)。
  9. 一過性のストレス関連性の妄想様観念、または重篤な解離性症状。

 

 

の5つ以上を満たすことが基準である。1、2、5、8あたりは明確に対人関係における問題であるため、「メンヘラ」と結びついたのであろう。

 

*4

このあたりの事情は090氏の記事、「メンヘラ」という言葉の歴史 2ちゃんねるで「メンヘラ」が誕生するまで を参照。

 

*5

アダルト・チルドレンとは、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」人のことを指す。元々は「アルコール依存症の親を持つ子ども」を意味し、現場のソーシャルワーカーによって作られた非医学的な概念である。

日本では、精神科医斎藤学臨床心理士信田さよ子などの著述活動によってアダルト・チルドレン概念が紹介されたことと、スーザン・フォワード『毒になる親』が翻訳出版されてベストセラーになったことが流行の主な原因であると思われる。

 

*6

実際、日本でも「沈没家族」というシングルマザーやその友人たちによる共同保育の実践が行われた例がある。詳しくはだめ連編『だめ連宣言!』とインターネットを参照。

 

*7

この「自分自身以外のもの」には「一時的な感情」(衝動)も含まれると考えた方がいいかもしれない。なぜなら、一時的な感情に基づいた判断はしばしば状態や状況に左右される、非一貫的なものだからだ。こう言うと、「人間はみんな理性的な主体を目指すべきだ」という主張に聞こえるだろうが、実際だいたいの人は目指すべきだと私は考えている。

 

*8

発達心理学における「愛着理論」によれば、養育者が「安全基地」となり、子どもはそこに依存しながら、新たな世界へと自立していく。また、教育学では、自律のために他律的な教育をしなければならないことを「近代教育のパラドックス」という。もっと言えば、「自由な思考のためには『言語』という制約が不可欠である」など、「〈自〉なるもの」は根源的には「〈他〉なるもの」に支えられていることが分かる。

 

*9

言い換えれば、自分の主張を押し付ける(アグレッシブ)でもなく、相手の主張に流される(パッシブ)でもなく、相手の主張を受け入れながら自己主張をする(アサーティブ)な態度が重要である。

「声優史における悠木碧の位置づけ」を書く前のメモ(テキトー

ぶど子の衝撃

 

俗/聖を両立する悠木碧:二重人格キャラ(柳生十兵衛、プラチナなど)、ロリババア的キャラ(紫、ミナ、ヴィクトリカ幼女戦記など)、超越的力を持った少女(立花響、鹿目まどかなど)

 

遊としての悠木碧:ノドまで使った過剰な声の使い分け(低音・高温)、息遣い、笑い声(鹿目まどか)、擬音や感動詞フィラーやアクセントの遊び(リコ、小町、りんごちゃん、立花響など)、小さい声(ころね、いちご、向井鈴など)、アドリブやドラマCDでの遊び(白粉花など)

 

後期近代的自我としての悠木碧:自身の名義の楽曲でもキャラクターを演じる、ファンの視線の内面化、アイドル活動等への棲み分け、SNSをしない、写真で顔を隠すことについて、話数が進むごとに演技を変えたAチャンネルなど

 

世代論:「大人にならない」、ゆとり、大人、「子ども先生」

印象論に満ち満ちた声優史

メモみたいな文章です。

 

 キャラクターを演じる声優たちにおいて主流の声や演技のタイプが歴史的に変化してきたように感じる。それは大きく三つに分けられるように思われる。それが以下だ。

 

①芯のある声(~90年代末頃)

②複数の声(90年代末頃~00年代頃)

③自然な声(10年代頃~)

 

 あんま詳しくないけど①の時期はまだそれほどアニメも放映されておらず、映画吹き替えが中心だったと思う。そこでは、芯のある声を武器にした人が主流だったように思う。神谷明「叫び」を得意としていたのもさることながら、一つの声のイメージが明確にある声優は例えば、若本規夫とか大塚芳忠とか中田譲治とか。時代が下ると立木文彦とか大塚明夫とか藤原啓治とか緑川光とかくまいもとことか。

 また、ゴールデンタイムのアニメの声優もまた、一つの声でイメージが定着していたように思われる。ドラえもん大山のぶ代とか、時代が下るとちびまる子ちゃんのTARAKOとかコナンの高山みなみとか(②の時期になってもハム太郎間宮くるみとかおジャ魔女千葉千恵巳とかがいる)。

 

 しかし、②の時期になり、(①の時期とオーバーラップはしているものの)山寺宏一林原めぐみ、時代が下ると櫻井孝宏中村悠一沢城みゆき斎藤千和のようなある程度複数の声や役柄を武器にする声優が増えたように思われる(他にもいっぱい挙げられるけど割愛)。

 その原因の一つとして、深夜アニメの増加もあり、おそらく一つの声ではそれぞれのアニメのキャラクターに明確な差異をつけること(演じ分け)がしにくくなったのがあるのではないか。実際、杉田智和が「ハルヒ」に出て以降はよく出るたびに「キョン」と言われていたように思う。他にも神谷浩史宮野真守など、少し特徴的な声を持つ人はどの役をやっていても同じかのように扱われることがある(そんなことはないと思うが)。

 また、声優雑誌や声優養成所も発達し「素人が声優を目指す」ことも増えていった。そんな中でアマチュアが持つプロの声優のイメージとして「七色の声」が強くなっていったように思われる。

 

 一方、③の時期ではまた新たな傾向が生じてきていると感じた。それこそ08年~14年ぐらいは僕が一番アニメを観ていた時期なので実感をもって語れるのだけど、「自然な声」の声優が増えたように思う。特にそれを感じたのは2011年1~3月に放映された『放浪息子』である。放浪息子では主人公に当時中学生の畠山航輔が起用され、セクシャリティの曖昧な声変わり期の男の子を見事に演じた(それに対し脇役は水樹奈々堀江由衣などの人気声優で固められていた)。

 「自然な声」についてまず女性声優から述べよう。それは一つにはそれは主張をしない透明感のある声であり、はたまた、いくつかのアニメでその声優の違うキャラクターの声を聞いても「誰の声なのか分からない」ような声を持つ声優である。

 透明感という点では②の時期から川澄綾子植田佳奈中原麻衣のような声優がいたが、比較的主張のある役もやっていた。しかし、時代を下ると花澤香菜茅野愛衣早見沙織のような声優が出てきて、これらは更に透明感があるように思われる(ここでは②の時期の声優として能登麻美子も挙げるべきだろうけど、能登の場合は「透明感がありすぎて逆に主張が強い」みたいな事態が起きてるように感じる)。

 そして、「誰の声なのか分からない」ような(すなわちキャラクターの「中の人」を意識させないような)声優としては内山夕美、種田梨沙五十嵐裕美洲崎綾あたりが挙げられるように思う(僕の耳が悪くて判別できないだけかもしれないけど)。2014年頃からアニメをほぼ観なくなったのでここ2、3年の新人が全然フォローできてないのが残念。

 また、③の時期では若手男性声優が一気に出てきた。ざっと挙げれば江口拓也松岡禎丞、島﨑信長、花江夏樹赤羽根健治小野友樹逢坂良太内山昂輝石川界人あたりだろうか。男性もここ2、3年はフォローできていない。ただこれらの声優に共通しているのは、ダンディな声ではなくて中性的な青年の声であるというところだろう(ダンディ寄りな声の若手として武内駿輔木村昴羽多野渉なども挙げられるが)。これもどこか「自然な声」とでも言うべき志向性が感じられる。

 

 以上が大きな歴史観であるが、この歴史観自体そもそも単純すぎる(それぞれのタイプがそれぞれの時代に混在してるし)。大目に見て、大きな傾向としてこういう傾向があるという図式だとしても、実は間違ってすらいることも大いにありうる。あくまで印象論なので。この歴史観に当てはまらない反例を知ってる方がいたら教えてくれると幸いです。

 

歴史的変化の背景には何があるのか

 と、歴史観を提示するだけでは面白くない。問題はこの背景に何があるのかだろう。①芯のある声→②複数の声の流れの理由として「深夜アニメが増えた」ことを挙げたが、このように「背景には何があるのか」を見ていこう。

 

声優独特の方法論?

 深夜アニメが増えたことと同時に(直接関係しているのかは分からないが)声優雑誌や声優養成所も発達して「素人が声優を目指す」ことも増えたということを指摘した。アマチュアが持つプロの声優のイメージとして「七色の声」を挙げたが、そのようなファンの視線が声優のメインストリームを生み出している側面もあるかもしれない。

 

 実際「七色の声」というのは声優特有のものだと思われる。元々俳優と声優との区別が曖昧だった①の時代には「芯のある声」が求められただろう。方法論的に言えば「腹から声を出す」ということが求められただろう。声を変えるにしても全身を使ったことだろう。しかし、②の時代では声優が俳優から強く独立した。すると、声優独特の方法論も出てくることになる。声の使い分けという意味で言えば、本来俳優にとってはご法度であろう「声を作る」、はたまた「ノドで声を使い分ける」といった特殊な方法論が現れているように思われる。

 

アニメ映画と地上波

 また、①の時代と②の時代の間で人々が持つ声優観に大きな断絶が生まれたように思う。例えばジブリ宮崎駿は89年の『魔女の宅急便』までは主役の高山みなみを筆頭として職業声優を起用していたけども、『もののけ姫』以降は主役級に職業声優を起用しなくなる。『ハウルの動く城』についての海外メディアからのインタビューによれば、

"All the Japanese female voice actors have voices that are very coquettish and wanting male attention, which was not what we wanted at all."
 と。つまり、日本の女性声優はコケティッシュで男性を惹きつけるんだけど、それを我々は全く望んでいないということを述べている。

www.theguardian.com

 

 宮崎が「コケティッシュ」と呼ぶ声はそれこそ、キャラクターに合わせた「複数の声」ではないだろうか。そしてむしろ、宮崎の望む声とはキャラクターを焦点化しない「自然な声」なのではないだろうか。「自然な声」とは言うまでもなく③の時代で表面化してくるものである。
ジブリ以外でもアニメ映画では職業声優以外の起用が多い。例えば、俳優の神木隆之介ジブリ以外でも『サマーウォーズ』や『君の名は。』で主役を務めている。最近では『この世界の片隅で』の主役を演じたのん(能年玲奈)が記憶に新しい。

 ここには、芸能人が映画の広告塔になるという以上の理由が隠されているように思われる。それは③の時代で地上派においても「自然な声」が求められるようになったことと無関係ではないのではないか。この歴史観をより一般的に理解するための試みとして、フランスの文芸批評家、社会学ロジェ・カイヨワの「聖/俗/遊」図式を用いる。

 

「聖/俗/遊」図式とは

 まず、聖/俗とはフランスの社会学エミール・デュルケームが宗教の分析から見出した図式である。それは俗なるものから分離された聖なる領域を想定することで、功利性を超えた現象や社会における「宗教的なもの」を理解するのに有効な見方である。

 カイヨワは更にこの図式を発展させ、「遊び」(外的な要請や実際的な目的から離れて、ただ楽しみのために、それ自体を目的として自発的に営まれる活動)の重要性を指摘した。三つの領域の特徴をそれぞれ述べよう。

 

A「俗」は功利主義に支配された日常の領域である。労働が俗の代表的な例。
B「聖」は俗から離れて対立する、まじめな宗教的活動の領域である。宗教や理想が聖の代表的な例。
C「遊」は実生活の配慮からも、聖なる義務・拘束からも離れた、楽しみの領域である。遊びが遊の代表的な例。


 「遊」という図式が新たに加わることによって何が分かるかということについて例を挙げるならば、近代日本の消費社会化において「遊」の領域がしだいに自立していったことや、インターネットやケータイなどのメディアにおいてコミュニケーションそのものを楽しむ「つながりの社会性」(北田暁大)といった現象が見られるというのがある。

 また、遊びに見られる「脱所属」や「脱自我」といった傾向は「平等」や「自由」といったものに繋がっている。そのため、格差に満ちた日常生活(俗)や、「聖」の領域に見られる「まじめさ」に対してオルタナティブな世界観を生み出し、社会的な価値観を変容する可能性がある。

 

声優の声における聖/俗/遊

 概念の説明は以上にして、これを声優に関して当てはめてみよう。お気づきの方もいるかもしれないが、歴史観として出した①芯のある声が「聖」に、②複数の声が「遊」に、③自然な声が「俗」に対応していると僕は考えている。詳しく説明しよう。


 ①の時代においてはアニメよりも映画の吹き替えが主流だった(と思う)。そこでは言語の壁を越え、外国人があたかも日本語を喋っているかのように吹き替えなければならない。つまり、演じる声優に超越的な能力が必要である。これを僕は「聖」として捉えた。


 ②の時代においては声優の領域が独立する。そこでは、原作を元としてメディアミックスし、いくつものパロディを生み出される。これを僕は「遊」として捉えた。キャラクターソングやDVDについてくるオーディオコメンタリーやドラマCDなどでは文字通り声優が「遊」んでいることがある。むしろこれは「作品」から「キャラクター」が独立したと捉えることも可能だろう。「萌え」アニメなどではまじめな「物語」の要素が捨象され、キャラクターそのものに対して萌えるという態度が出現している。東浩紀の言う「物語消費からデータベース消費へ」というやつだ。作品構造の変化は声優の声や演技のタイプにも影響を与えていると言えるだろう。

 また、アニメ以外でも声優の出演するラジオなどでは複数の声を使うことが一つの遊びとして成立し、アマチュアの声優ファンも複数の声を出す遊びに興じることがある。

 

 しかし、ここで先ほどのジブリ宮崎駿の言う問題が生じてくる。アニメ映画ではむしろ物語や映像こそが重要、すなわち物語や映像を通してこそ超越性(聖)に至れるのであって、キャラクターそのものが主張をしてもらっては困るのだ。それはむしろ作品への没入を妨げる。

 そこで、声優に必要とされる態度はある意味では「姿を消す」ことである。声優は物語を伝達する手段としての「主人公」にならねばならない。それは③の時代に地上波でも主流となってきた「自然な声」である。

 

結論

 声優は俗の領域、すなわち作品を支える歯車になりつつあるのではないか。フィクションにおける超越性を担保するのは結局のところ「物語」と「映像」なのではないか。それが今回の結論だ。

 もちろん、最初の声優に関する歴史観が間違ってる可能性は大いにあるし、僕が10年代に観ていた作品は結局「物語」や「映像」重視の作品だったということなのかもしれない(現に僕はきらら系4コマを代表とする「日常系」が極めて苦手なので、全然観てない。そこでは、声優の能力が超越性(聖)を担保しているのかもしれない。そうでなくとも、おそらくは声優の「遊び」が物語とは異なる価値を提供しているだろう、おそらく「萌え」的なものとして)。

「変な男にばかり好かれる女」を知るための10のポイント

togetter.com


 変な男にばかり好かれる女性が話題なようです。

 リンク先の漫画に描かれている「変な男」には「浮気をするクズ男」(僕はよくバンドマン系クズと呼んでいます)と「キモいオタク」(とりわけ「空気が読めず」に特攻してくるタイプ)が描かれています(ひどいけど以下「クズ」、「オタク」と略記します)。*1

 クズとオタク、一見全く正反対です。しかし、この両者に引っかかる女性は根本的に似通っている場合が多いです。それは一言で言えば、自己肯定感が低くて自己主張が苦手なタイプの女性です。

 そういう人はなぜ変な男に好かれる(引っかかる)のでしょうか? 男女論界隈で流行ったキーワードやら専門用語やらを振り回しながら解説していきます。

 

 

フィルタリング篇

 まず、恋愛関係に発展(好きになったり好かれたり)する人間のフィルタリングができていないことが問題です。

 

1.クズ/オタクコミュニティに入ってしまう

 自分に自信を持っている人は自分を大事にするものです。それゆえ、クズの多いコミュニティ(偏見だけど、出会い系とか水とか風とか)は避けるでしょう。

 また、自信があれば(オタクの多い)カーストの低いコミュニティには行くことを恥ずかしいとすら思うでしょう。そこまで思わずとも、コミュニケーションが取りづらくて集団に対して居づらさを感じれば出ていくでしょう。

 しかし、自己肯定感の低い人はそういった場所に居ついてしまい、次の段階に進みます。

 

2.クズ/オタクとコミュニケーションを取ってしまう

 自分に自信のない人は嫌われることを恐れがちです。そのため、八方美人になってしまいます。だからクズやオタクに対しても他の人と同じようにコミュニケーションを取ってしまうのです。

 クズやオタクは往々にして一気に距離を詰めてきたり、まともに一人の人間として扱ってこなかったりします。そこで、ある程度の自己肯定感があればヤバさを感じて、できるだけ避けたり壁を作ったりするようになるものなのですが。

 結果、クズ・オタクに好かれてしまいます。峰なゆか・犬山紙子著『邪道モテ』の言葉を借りて大ざっぱに言えば雑魚モテ(雑魚、すなわち恋愛対象ではない人にモテてしまうこと)をしてしまいます。

 とはいえ、雑魚モテをしてもそれを簡単に突っぱねることができれば問題はありません。それが泥沼化していくのが次の段階です。


泥沼篇

 ここからは「恋愛」が始まります。変な男に「好かれる」だけならまだしも、恋愛関係が始まってしまい泥沼化してしまうのです。なぜクズやオタクのアプローチを拒否できないのでしょう?

 

3.寂しいから飛びついてしまう

 クズやオタクは往々にして一気に距離を詰めてくると言いました。そこで慎重になれればいいのですが、自己肯定感が低い人は承認を得たくて(「恋愛」がしたくて)、分かりやすい愛に安易に飛びついてしまいます。

 別の言い方をすれば彼女は「寂しい」ということです。「寂しさ」と「恋愛感情」とを分けることは難しいものです。二村ヒトシさんの言葉を借りれば「心の穴」です。穴を埋めてくれる「愛」にすがってしまうのです。

 

4.自己主張ができないから断れない

 自信のない人は嫌われるのが恐いと言いました。あるいは漫画にもあったような「どうせ自分なんて」という気持ちもあるでしょう。いずれにせよ、クズやオタクを受け入れてしまいます。

 更に言えば、まともな扱いをされなかったり、罵倒されたり、すぐさま性的な要求をしてきたりなどといったモラハラ*2デートDV(家庭内に限らない親密な関係における暴力)に対しても、自己主張できず受け入れてしまうでしょう。すると次の段階に進みます。


5.「尽くすタイプ」でありたい

 いくら自己肯定感が低い人でも、モラハラを受けているような状況は苦痛です。「苦痛から逃れたい」という認知を「修正」し、苦痛を正当化するようになります(認知的不協和の解消)。健康な人であれば、認知の方を変えずに状況の方を変えるのでしょうが。

 結果、苦痛を正当化するために自分自身を言わば「尽くすタイプ」と規定するようになります。こうなってしまう人は往々にしてマゾヒストですし、共依存*3状態に陥っているでしょう。

 ブログ「妖怪男ウォッチ」のぱぷりこさんは「自己愛モテ女子」が女王陛下→下僕→癒しの聖母の3段階進化を遂げるという興味深い図式を提出していますが、今回の例は下僕→癒しの聖母の進化が起こっていると言えるでしょう。

 「聖母」というメタファーは秀逸です。モラハラをするようなクズによくあるのは「自分は今まで傷ついてきた」と主張するものです。それこそ親との関係が上手くいかなかったことなどを理由に責任転嫁する傾向があります。

 それに対して聖母は「彼だって傷ついてる。私がなんとかしてあげなくちゃ」と、傷つく自分を正当化してしまうわけです。メサイアコンプレック(他者を救うことによって自分の価値を感じたいというコンプレックス)です。*4

 ただ、恋愛関係には別れがつきものですから、たいていこのような悲惨な状況もどこかで終わりがきます。

 しかし、元々の問題は変な男に"ばかり"好かれる女性というものでした。つまり、そのパターンは連鎖・慢性化し、"いつも"ダメ男を掴んでしまうということです(倉田真由美さんの言う「だめんずうぉ~か~」)。「男を見る目がない」「男運が悪い」などとも言われるこのパターンはどこから生じているのでしょうか?


そもそもの価値観篇

 "いつも"変な男に好かれる(引っかかる)というこのパターンは「恋愛観」などの根本的な価値観から生じています(もちろん、上記のような泥沼恋愛を続けることで、根本的な価値観まで変わってしまうこともあるでしょう)。以下で説明しましょう。

 

6.なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

 これは二村ヒトシさんの本のタイトルです。大ざっぱに言えば、家庭環境等の問題で「自己受容」ができず、「私なんか」を愛する人ではなく、私ではない新しい世界に連れて行ってくれる人に憧れ、好きになってしまうという問題についての本です。

 このように「いつも変な男に引っかかる」問題を二村ヒトシさんだったら「自己受容」や「心の穴」といったキーワードで説明するかと思います。
しかしここでは私なりにもっと納得がいくと自負している説明をします。

 

7.生まれて、すみません。

 と太宰治は書きました。この言葉が象徴するように、自己肯定感の低い人は根源的に「負債」(罪悪感)を抱えているのだと思います。だから、ギブ&テイクで言えば、ギブをし続けなきゃいけない存在なのです。だから、「愛してくれる人」なんて困るわけで、「愛してくれない人」に尽くす方がしっくりくるわけです。

 例を挙げれば、ホストに尽くす女性。「ヒモを飼いたい」という女性。奢られることを拒否する女性。バンドマンに振り回される女性(彼女らは基本的に「被害者」という立場でいられるので、「責任」を負わなくてよいという点で楽になれるのです)。

 彼女らは負債を返済することで生きているのだと思います。「自分を罰したい」という感情もこれに近いでしょうから、自傷行為などもこれで一部は説明できるでしょう。

 

8.古いジェンダー

 上の話はたいてい家庭環境の問題で、愛着障害はしばしば「恋愛障害」に繋がってしまいます。しかし、価値観を作りあげるものはそれだけではありません。案外見逃されがちなのはジェンダー観と恋愛観です。

 まずジェンダー観から言えば、「女性は男性の好みに合わせるべきだ」みたいなものですね。いまどき流行らない考え方ですが、先ほどの「尽くすタイプ」とは関連がありそうです。古い意味で「女らしい」人が変な男に引っかかりやすいというのはありそうです。

 

9.カップル単位の恋愛観

 恋愛観というと人それぞれのように思えますが、もっと根本的な「恋愛とはこういうものだ」という社会通念に実は問題があります。伊田広行さんは『デートDVと恋愛』でデートDVの原因として「カップル単位の恋愛観」を挙げています。列挙しすぎで面白いので以下に列挙しときます。

 

  • 恋愛していないことの劣等化
  • 恋愛の自由の剥奪、二者排他性、一夫一婦制的契約観
  • 二者一体感、相互所有
  • 他者性・境界線・プライバシーの否定
  • 守りと依存の正当化
  • 特別扱い、特別要求の正当化
  • 嫉妬と独占の正当化、自由の制限の正当化
  • 干渉の正当化
  • 別れの否定、別れには同意が必要という考え
  • 結婚に至らない恋愛の劣等化
  • 所有・独占の象徴としてのセックス観
  • 恋愛における性役割前提観
  • 閉鎖的カップル観
  • 個人の自立意識の欠如
  • 他の恋愛観への想像力の欠如

 

 以上まとめれば、恋愛における「束縛」のことでしょう(まとめすぎ)。まあ確かにこれ全部やめれば、変な男には引っかからなさそうです。世の(ドラマなどの)恋愛言説は上記のカップル単位の恋愛観を再生産しているというのも事実でしょう。ただ、これ全部なくしたらそもそも恋愛するのが難しくなりそうですが。

 伊田広行さんは「カップル単位」に対して、「シングル単位」を推奨しています。簡単に言ったら、一人ひとり自由な個人として尊重されるべきってことです。

 

10.じゃあどうすればいいのか

 ということで、変な男に引っかからないようにするためには、基本的には自己肯定感高めて自己主張できるようにするのが大事ですね。

 自己肯定感高めるためには、居場所(ホームベース)を持つとか友だち作るとかこの記事みたいな考え方を学ぶとか病院行くとかカウンセリング行くとかなんだろうなあ。「自己主張」に直接アプローチするんならアサーション・トレーニングとかするのがいいのかなと。知らんけど。*5

 マクロなこと言えば、ジェンダー観やら恋愛観やらを言論活動で変えていくなり、自己肯定感が低い子どもが育たないように子育て環境を整えるなりするべきなんだと思う。なんだそりゃ。

*1:どうでもいいけど、クズ/オタクの二分法はトイアンナ著『恋愛障害』のカテゴリーで言えば「(女性を消費する)加害男子」と「(思い込みが暴力化する)妄想男子」の二分法に近いかと(ただし、トイアンナさんの「妄想男子」はどちらかと言えば奥手な男のイメージだと思われる)。

*2:モラハラとは、モラルハラスメントの略。言葉や態度で精神的に傷つけたり、不安にさせて相手を洗脳し支配する(意のままに動かせる状態に置く)こと。

*3:共依存とは、元々はアルコール依存症の夫に対して、アルコール依存を容認してしまう妻の関係のこと。このとき、妻は「夫に尽くす自分」という役割に「依存」しているため、「共依存」と呼ばれる。転じて、お互いが依存しているカップル関係のことも「共依存」と呼ばれがち。

*4:相手がオタクだったとしても、「聖母」というメタファーはおそらく有効だろう。オタクもまた恋愛関係において自己中心的な態度しか取れないし、恋愛を成り立たせようとすれば母親的な接し方をせざるを得なくなってきそうだし。

*5:ちなみに、自己肯定感が高くてもフィルタリングガバガバな人(誰とでも壁を作らずに接する人)とか自己主張しない人とかもいるんで、そういう場合はまた個別的な対処が必要っぽい。自己肯定感高めるよりかはよっぽど楽だろうけど。