もはや「シェアハウス」ではないものに向けて――「駆け込み寺」から「家族」へ

この文章は僕の運営しているオープンシェアハウス・サクラ荘の季刊誌「季刊サクラ荘」第二号に寄稿した文章です

 

 ホリィ・センです。この文章ではこれまで日本で行われてきたシェアハウス的実践の歴史を軽く振り返り、過去の教訓に学ぶことで、僕がサクラ荘によって目指す新しいシェアハウスの展望について述べます。それは人々の根本的な家族観を変え、「自由」や「責任」といったものの意味を問うものになるはずだ、という話です。かなり雑な話なので、まずは大ざっぱに読んでくれると幸いです。

 

シェアハウスムーヴメントの歴史?

 偉そうに語れるほど知識があるわけではないが、「シェアハウスムーヴメント」的なものはどうやら2000年代から盛んになっている。例えば1999年に「ルームシェアジャパン」というサイトがオープンし、サイト運営をしていた秋祐樹は2002年に『ルームシェアする生活』を出版している。また、一時滞在し、外国人との交流などもできる「ゲストハウス」もそのあたりから盛り上がっていった。更に、スウェーデンなどが発祥の多世帯・多世代居住の「コレクティブハウス」が、日本では福祉施設を起点として「コレクティブハウスかんかん森」として2003年に始まり、今も続いている。

 

シェアハウスのコミュニティ的展開

 そしてここからが重要なのだが、おそらく2000年代後半頃より、シェアハウスをコミュニティ的に開く方向性のものが増えた。いくつか話題になっているものを挙げると、2008年、異なるジャンルのクリエーターのコミュニケーションスペースとして始まった「渋家」(シブハウス)(創始者:齋藤桂太)。同年、趣味趣向の合うギークプログラマーなどでシェアハウスするという「ギークハウス」(創始者:pha)。「現代の駆け込み寺シェアハウス」として2013年に始まった「リバ邸」(創始者家入一真)。また、住居や個人事務所などのプライベートな空間を限定的に開放する「住み開き」が2009年頃にアサダワタルによって提唱され、2012年にはそれをまとめた書籍が出版されている。以上に述べた中で「渋家」は渋谷だが、それ以外のものは全国的に展開されているようだ。

 

 我々サクラ荘の周りでも、重要な場所はいくつかある。特に影響を受けた京都のスペースとして、アカデミックスペースとして2011年に始まった学森舎、何でもできる「オルタナティヴスペース」として2010年に始まったFactory Kyotoの二つを挙げよう。個人的には、学生自治の運動の流れで2012・13年頃に始まり、今も池袋にある「りべるたん」からも学んだことは多い。

 

 いずれにせよ重要なのは、2008年の渋家あたりをかわきりに、シェアハウスが外へとコミュニティ的に展開している点である。結果、コミュニティとして外に開かれたシェアハウスには大学生か、余暇の時間が比較的あるタイプの社会人が主に集まるようになった。

 

 そこではおそらく「高校・大学を出てそのまま会社員になっていく」という「当たり前のライフコース」に疑問を持った人たちが集まっている。家入も言うように「駆け込み寺」としての側面が強いのだろう(アサダの「住み開き」はそのような「若者」の活動に限った話ではないように思うが)。

 

「駆け込み寺」の問題点Ⅰ:思春期・モラトリアムの延長

 しかし、そこには問題がある。確かに、それぞれのスペースに集まる人間のタイプは多様であるとは思う。しかし、いささか攻撃的な言い方になってしまうが、駆け込み寺ではどうしても「思春期」や「モラトリアム」の延長になってしまうという問題点がある。それでは「スペースを続ける」ことが難しく、「普通に就職した大人」から見れば「大人になれよ」と言いたくもなるだろう。たしかアサダが「スペースを10年続けるだけでも大したもの」という旨のことを言っていたのを聞いたことがある。

 

 実際、就職しないままそのようなスペースを続けるのは難しく、就職したらしたで企業によって場所がバラバラになってしまう。家に居る時間も短くなるだろう(その点、ギークハウスのプログラマーなどはシェアハウスと相性がいい労働形態なのかも?)。

 

 また、おそらく社会的信用を得るのが難しい。事実としてこれまでのシェアハウスは、騒音でご近所に怒られ、賃貸契約を切られてなくなっていったというパターンが多い。騒音は確かに問題だが、ご近所の人からしても「大人になれないダメな若者」として映っているのではないか。日本ではそもそもシェア向きの間取りの家が少ないのだが、シェアハウスを始めるような人たちに社会的信用がないのか、「シェア可能」の物件も少ない。

 

「駆け込み寺」の問題点Ⅱ:逸脱者の集まり

 「駆け込み寺」の問題としてもう一つ言えるのは、社会に適応できなかった逸脱者が集まりやすいということだ。もちろん、逸脱者同士だからこそ連帯できるというメリットはある。僕自身の問題関心に引き付けて言えば、家族や学校に居場所がなかった人たちや、いわゆる「メンヘラ」の逃げ場としてシェアハウスが機能している側面はある。僕自身、その機能に期待してシェアハウスを始めたところは大きい。

 

 しかし、社会に適応できなかった人はどうしても人付き合いや組織や集団の運営が苦手な傾向が強い。結果として、人間関係やメンタルヘルスに気を取られて組織が存続できないことになりかねない。僕自身の関心(サークルクラッシュ)から言えば、そういった人たちは男女の問題もこじらせやすいように思う。

 

シェアハウスは「駆け込み寺」のままでいいのか否か

 「駆け込み寺」としてのシェアハウス、確かにそのようなセーフティネットがたくさん存在することは重要である。しかし、上に挙げた二つの問題点が絡み合い、どうしても存続することが難しくなってしまう。

 おそらく存続するための方向性は二つある。一つは問題Ⅰの思春期・モラトリアムの延長をそのまま仕事にしてしまうというものだ(ギークハウスは仕事によってお金が回っているだろうし、例えば「SEKAI NO OWARI」なんかはシェアハウスをしているらしいが、メジャーデビューできるぐらいならばシェアハウスを続けられるのだろう)。

 

 もう一つの方向性は問題Ⅱの「逸脱者の集まり」の方を仕事にしてしまうというものだ。どういうことかというと、逸脱者を雑多に集めるのではなく、「ケア対象」として特定の対象に絞り、福祉施設にしてしまうということだ。だいぶかけ離れた例になるが、高齢者のグループホームや、児童養護施設などはそのような成り立ち方をしているように思う。シェアハウスではないが、(身体・精神)障害者などの場合は「デイケア」という通い型のリハビリ施設がそれにあたるだろうか。こういった福祉施設は国や地方自治体からお金が出ることで回っているだろうし、立派な仕事と言える。

 

 しかし、これら二つの方向性になった途端に「駆け込み寺」の良さがなくなってしまうように思う。おそらく想定されるのは、メジャーなアーティスト集団や福祉施設になると、曖昧に逸脱してしまった人間が来にくくなってしまうだろうという事態だ。

 

 つまり、シェアハウスコミュニティに誰でも来ることができる、そんな「気軽さ」が失われてしまうのが問題だと僕は考えている。「駆け込み寺」の問題点をうまいこと武器に変えたはいいが、産湯と共に赤子まで流してしまっているのだ。すなわち、シェアハウスが存続しにくい草の根的活動である、それゆえに家庭や学校で居場所がない逸脱者も親近感をおぼえ、フラッと気軽に駆け込めるというジレンマがあるのではないだろうか。それが「仕事」になってしまうと、どうもよそよそしいものに感じられてしまう。言い換えれば、個々人が抱える私的な問題を公的な場所によってカバーするのには限界があるということだ。では、「公的」なものになると失われてしまう「気軽さ」や「親近感」を保ちながらも、コミュニティを存続させていくにはどうすればいいのだろうか?

 

核家族・一人暮らしに続くもう一つの選択肢

 唐突に聞こえるかもしれないが、そんな「気軽さ」を推し進めていくと「誰でも来ることができる」よりも「誰でも始めることができる」ことがより重要になるのではないかと僕は思う。というのも、今のところ日本において「シェアハウス」は駆け込み寺か、あるいは周縁的なものでしかない。圧倒的大多数を占める居住形態は核家族と一人暮らしなのである。

 

 しかし、地域の繋がりが衰退していることも合わせて考えれば、核家族と一人暮らしは個人主義化の産物である。離婚率の上昇などもあり、どうしても孤立し、居場所を得られない子どもが増えている。そんな子どもが社会に適応できないまま「若者」になったときに、「駆け込み寺」としてのシェアハウスにやってくるのではないか。実際、そういう人は周りにいる。

 

 それなら最初からその子どもはシェアハウスにいればよかったのではないだろうか。いくつかの家族研究を読んだ雑感だが、子どもが居場所を得ることを阻害するリスク要因としては、夫婦仲が悪い、夫婦間・親子間の暴力、支配的である、恐怖を覚える、愛情が得られない、放置される、親の無理解、といったものがある。また、一人親の場合は、複数の役割を一人の親が担わなければならないがゆえに、様々な問題が生じるようだ。しかし、密室的な環境でなければ暴力や支配は起こりにくいだろう。複数人の養育者がいれば、役割分担もできるだろう。

 

 話が遠いところにまで飛躍してしまったが、そんなわけで僕はシェアハウス、すなわち「他人と一緒に暮らす」ということが当たり前の社会を目指すべきだと考える。シェアハウスのメリットは季刊誌のこれまでの文章でも述べてきた通りであるが、それを多くの人が享受すべきだと考えるし、シェアハウスは実は子育てにも向いているんじゃないかということだ。

 

 そしてそこまでいくとそれはもはや「シェアハウス」とは呼べないのではないか。複数の世帯が同居する「コレクティブハウジング」のような形態も既に行われているが、例えば、夫婦関係に加えて一人だけ居候がいるような状態なども想像できる。それらを包括するにふさわしい名前を、僕は「家族」以外には知らない。「家族」にこだわることは保守的だという声もあるだろうが、子を産み育てるような親密な関係について果たして新たな言葉を作る必要があるのだろうか。「シェアハウス」に未来はあるのだろうか。今後の趨勢を注意深く見守っていきたいところである。

 

目の前の人を助けるために

 ところで、以上は先ほどの問いの答えになっている。すなわち、「気軽さ」や「親近感」を保ちながらも、コミュニティを存続させていくためには、誰でもコミュニティを始められるようになればいいのだ。

 どういうことかというと、まず、いくら居場所がなくて苦しんでいる人がいたからといって、誰でも助けられるわけではない。キャパシティの問題もあるわけで、おそらくほとんどの人にとって助けられるのはせいぜい身近な数人だけである。助けるべき人間が増えすぎると、それこそキャパシティオーバーでコミュニティが存続できなくなってしまう。だから身近な1人2人を助ければいいのだ。コミュニティを始めることによって。

 そう、「他人と一緒に暮らす」ということが当たり前になった社会においては、「一緒に住む」という手段によって目の前の人を助けることが容易になるのだ。つまり、目の前にいる「親近感」のある友人のための駆け込み寺を誰もが作ることができるようになる。これには「結婚」ほどの制約はないし、結婚と同じく金銭面でも精神面でもサポートできる。しかも関係を二人で閉じる必要がない。三人いても四人いてもいいのだ。

 

 ところで、これはメジャーデビューしたバンドのシェアハウスや福祉施設のように、「仕事」として「公的」になってしまったものには気軽に入れないという話をした。実はコミュニティにはもう一つ気軽に入れなくなる理由がある。それは「内輪感」だ。あるコミュニティに「内輪感」を感じた外の人は、疎外感をおぼえてしまう。しかし、誤解を恐れず言えば、それはそれでいいのだ。内輪にいる人は楽しいのだから。「他人と一緒に暮らす」ことが当たり前になり、誰もが駆け込み寺を作れるようになれば、誰もが何かしらの内輪に入ることができる。そうやって棲み分けていればキモチワルい内輪感があってもいい。

 

 そして楽観的な言い方になるが、内輪ならばそれぞれが自分のためにコミュニティを存続していくのだから、それが自分のためになり続ける限りで存続するだろう。存続しなくなったならそれが自分にとって必要なくなったということであり、自分の選択と関係ないところで強制的に居場所が失われるということは少なくなるだろう。言い換えれば「自治」が行われるということだ。

 

 もちろん、「誰もが何かしらの内輪に入る」など、以上に述べたことは理想論であり、現実には不可能だろう。しかし、少なくともその社会に近づくことはできる。

 

「親」として責任を負うこと、自由の意味

 これまでの内容をまとめよう。僕の主張を具体的に言えば、現代のシェアハウスが主に「駆け込み寺」としてしか機能していないのに対して、僕らはシェアハウスを増やすことによって「他人と一緒に暮らす」「他人と一緒に子育てをする」という価値観を日本に根付かせたいということだった。そしてその副産物として「駆け込み寺」一つ一つの負担が減り、身近な内輪だけの小さなものが乱立する。だからこそそれぞれに自治性が付与され、そのような棲み分けによって「駆け込み寺」は隅々まで行き渡っていく。

 

 そして、最後にこれから主張することは抽象的な話だ。それは、「自由」という名の責任逃れに流されることなく、周りの人に助けられながらも目の前の人を助けることで責任を分け合う、そんな社会を目指したいという内容だ。

 

 さて、僕らは何をもって自由でいられるのだろうか。僕はシェアハウスを始めてから、当人の自由を尊重することと、当人の意思決定の過程に介入することとの間で揺れることが多くなった。リベラリズムパターナリズムのせめぎ合いだ。僕はそもそも絶対的に信じられる思想なんてなかなかないと思っているし、人それぞれの考え方を尊重することの方がむしろ大事だと思っている、リベラル寄りの人間だ。その根本は今も変わってはいないし、そのおかげで人に好かれるところもけっこうある。

 

 しかし、僕が「シェアハウスを増やす運動」をするにあたってはそんなヌルいことは言っていられない。シェアハウス、「他人と一緒に暮らす」ということを日本社会の構造に根付かせる、そういう気持ちで僕はやっている。それは大げさに言えばノブレスオブリージュ(高貴なる者に伴う義務)であり、啓蒙活動だと思っている。

 

 そしてそれは象徴的にも実質的にも僕が「親」になることだ。他人と一緒に暮らしつつの子育てをやろうと言っているのだから、まず僕自身が親となって実践せねばなるまい。そして、これからの世代も真似できるロールモデルを作るのだ。では、敢えて問おう。こんなにも傲慢な僕のやり方は、人々の自由を無視した、押しつけがましいものだろうか? そうかもしれない。しかし、僕はシェアハウスで暮らす中で、無責任な「自由」には限界があると感じるようになった。むしろ一定の拘束や制約が原初にあって、そこで初めて生まれる自由こそが真の自由なのではないか。その拘束・制約を大胆に言い換えれば「責任」になると僕は思う。なるほど、この社会に生きるためには責任が伴う。それは権利と義務が表裏一体だという倫理的な話だ。一方で、一定の責任を負うことは心理的にも「自由」の感覚をもたらすように思う。

 

 そこで、僕はまず僕自身の「自由」のために社会に対しても自分の子どもに対しても、「親」として責任を取る立場になろう。そして、今の社会を生きている人たちも、これから生まれてくる子どもたちもまた「親」になってほしい。それはすなわち助けつつ助けられる、そんな相互扶助システムの中の主体としての責任を負ってほしいということだ。

 

 「自己責任論」という名の責任のなすりつけ合いが横行する現代において、駆け込み寺に駆け込むことで、一時的に重すぎる責任を免除されることには一定の価値がある。しかしその上で、他人から押し付けられたものではない、自分で負うべき責任を負うことによって、真の自由を得てほしいのだ。

10日間の瞑想合宿に行ってきました

10日間のヴィパッサナー瞑想合宿に行ってきました。
ヴィパッサナーというのは「客観的に観察する」ぐらいの意味です。
何を客観的に観察するかっていうと自分の呼吸と身体の感覚です。

 

具体的な瞑想法は適切な指導者しか教えちゃいけないっぽいので割愛しますが、意外にもすごく実践的で具体的な指導でした。

 

ちなみに、そもそも何のために呼吸と身体感覚を観察するのかをざっくり説明すると、

  1. 人間はあらゆる物事に「渇望」や「嫌悪」(あるいはどちらでもないもの)といった反応をしてしまう(この反応を「サンカーラ」と呼んでいました)。反応をし続けてしまう限りサンカーラは絶えず増え続けてしまうのだと。
  2. そしてサンカーラは身体に2つの形で現れる。1つは呼吸の変化という分かりやすい形で。もう1つは生化学的な、極めて微妙な反応として。
  3. しかし、万物は無常。そのような感覚は現れるものの必ず消えていく(そのことは「アニッチャ」と呼んでいました)。
  4. このアニッチャを理解した上で、あらゆる感覚に対して反応せず(渇望や嫌悪を抱くような評価をせずに)「平静に観察する」ことができるようになれば、サンカーラも増えなくなる
  5. ということで、呼吸と身体感覚を平静に観察する訓練をすることによって、渇望や嫌悪に振り回されないようにしよう。また、サンカーラを増えなくして、最終的には解脱を目指そう

という流れです。めっちゃ仏教ですね。とはいえ特定の宗教を信じる必要はありませんし、仏教徒以外の人も広く受け入れられています。結局のところ、瞑想法という実践をひたすら広めている場所なわけですから、洗脳のようなものはありません。

 

最初はしんどかった

1日あたり10時間程度の瞑想の時間があり、空き時間も本を読んだり携帯を見たりしてはいけない。人と喋ってすらいけないという強い制約の下で行われます。瞑想中「1時間体勢を変えてはいけない」という時間もあり本当に「修行」という感じでした。

 

一日目や二日目は正直「帰りたい……」ってなりました。しかし、終わってみればとても良い経験でした。強い制約の下でしか得られないものもありますし、何より瞑想中に平静さを保つためには余計な情報は入れない方がいいわけです(実際、それだけ情報が制限されていてもなお、瞑想中はよくいろんなことが頭に浮かんできて平静さが乱されました。心とはおしゃべりなものです)。

 

瞑想してどうなるか 

10日間あるので、日々瞑想の内容はステップアップしていきます。そして僕自身、どんどん瞑想ができるようになっていきました。「うまくできるようになる」のを渇望するのは良くないのですが、自分がレベルアップしていく感覚は楽しいものでした。
そして、瞑想を続けていると感覚も鋭くなっていきます。五感が鋭くもなるのですが、特に自分の身体の状態に気づけるようになります。例えば僕は姿勢がとても悪いのですが、自分の身体を深く見つめることでどこがどう悪いのか分かりました(肩甲骨が前に出すぎている、など)。そろそろ整体にでも行こうかなと思いました。

 

10日間が終わると日常に帰るわけですが、日々の瞑想は日課にしようと思いました。また、瞑想だけじゃなくて日々自分の感覚に気付いているということが究極的には重要です。
例えば、怒りや不安の感情・思考がふと生じたとしても、自分の呼吸や身体を見つめることでそれらはゆっくりと確実におさまっていくでしょう。そういう感情や思考が生じる前に、普段から自分の感覚(歩いているときの足の裏の感覚や、食べているときの味覚などなど)を意識することでこれは鍛え続けられます。
これは思考や感情から逃避するのではなくて、それらが生じていても「評価をしない、ただ観察する」というものです。瞑想によって得られるものはいろいろありますが、僕としてはそれを続けていきたいところです。

 

元々はマインドフルネスという精神医療で注目されている治療法の元としてヴィパッサナー瞑想に行ったキッカケの一つでした。ヴィパッサナー瞑想を通してマインドフルネスへの理解も深まりましたし、今後更に深く掘り下げていきたいところです。


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ヴィパッサナー瞑想: 日本

サークルクラッシュ同好会の会長をやめます

 ホリィ・センです。突然ですがそろそろサークルクラッシュ同好会の会長を辞めて、誰かに引き継ぎたいです。
 2012年4月からこの団体を始めてずっと会長を名乗ってきましたが、もう年齢的にはアラサーです。最近18,19歳の人とまともに会話できなくなったのを感じています。
 僕はサークラ同好会を作り、この5年半会長をやってきて十分に利益をむさぼりました。会長をやっていたおかげで人間(特に女性)と話す機会が格段に増えましたし、あんなにコンプレックスだったコミュニケーションや恋愛もできるようになりました。組織のトップに立つみたいなことも肌感覚で分かるようになりました。
 だから、僕がずっとそれをやってるのは勿体ないと感じます。下の世代に「会長をやることのメリット」を享受してもらいたいと思います↓

 

会長になるとこんなメリットがあるよ:

  • 立場上、新しく入ってくる人と仲良くなれる
  • 立場を活かしていろいろできる
  • 人を率いるスキルが身につく
  • たぶん自信もつく
  • 履歴書に書ける(書けない)

等々。

 

 僕個人の話だけでなく、団体としてもそうあるべきだと思います。サークルクラッシュ同好会の活動のためのシステムはだいたい整いましたし、だからこそ関東支部も活動できています。だから引き継いでも大丈夫でしょう。
 むしろいつまでも僕が会長をやっていると、せっかくの「サークルクラッシュ同好会」も、ホリィ・センの職人芸と化してしまいます。僕はこの概念を誰にでも使えるものにしたい。本当は関西と関東だけじゃなくて、日本中にあってもいいぐらいの普遍性があるものだと思っています。

 

ちなみに、僕が会長を辞めるといっても、一気に全部の仕事をやらなくなるわけじゃなくて、後を継ぐ人のサポートはしばらくやります。例会にも普通に行きます。役職的には「摂政」とか「名誉会長」とかになるでしょう。勘違いなきよう。

 

以下は会員向けなので、参考程度に見ていただければ。初めてこの記事を読んで興味持った人はご連絡ください。京都と東京で活動やってますので。

 

サークルクラッシュ同好会のだいたいの歴史

高校時代目立った行動するのが好きだった(一年中半袖で過ごすとか、バレンタインデーに学年全部の机にチロルチョコ置くとか、毎年クリスマスに水浴びて動画撮るとか、生徒会長やるとか)

大学入ってからも目立つことをやりたかったが特にアイディアもなかったので2年間くすぶる(主に漫画読みサークル漫トロピーに入り浸ったり声優の悠木碧の追っかけをしたりしてた)

3回生になった2012年4月、サークルクラッシュ同好会を立ち上げる。1,2回生のときのサークル経験を活かして、まずはTwitterアカウントを作り、会誌を作るところを目標に始める。4月に現れた1回生に「ホームページを作ってほしい」と言ったら作ってくれたので、それを原型にいろいろネタをする

サークルクラッシュの研究については手探りだったので、「サークルクラッシュ」等のワードで検索したり、特殊なコミュニティに出入りしたりしてみる(かねどーさんのオフ会、シェアハウス、幸福の科学など)

京大11月祭(通称NF)で会誌Vol.1を出す。Factory Kyotoの松山孝法さん、学森舎の植田元気さん、幸福の科学学生支部の馬場さん、サークルの先輩だったひでシスさんに寄稿してもらい、なんとか形に

2013年(2年目)。真面目に(ネタ性の高い)ビラを貼って新歓をやる。「サークルクラッシュにご注意ください!」と叫ぶパフォーマンスも実は2012年からやっていたが、2013年からはより本格的に。Twitter等を経由して入会する人も増え、一気に大所帯に

メンヘラ神を名乗る女性からメールがきて、関東支部も発足(すぐクラッシュしたけど)

このあたりからいろんな問題を抱えた人が集まり(むしろ主体的に集め)がちになり、ネタサークルだけでなく、自助グループサークルとしての色彩も出てくる。各人の人間関係や精神的な問題を解決することや、サークル内での交流も重視するように



いろいろあったものの、会誌も豪華になり(椿井ませりさんとまりうむさんにはいつも感謝しています)、サークルとして形になっていく。定期的に新歓、例会、NF、即売会(コミケや文フリ)をやるようになり、いろんな恒例行事が増えていく(合宿やったりとかビンタ屋やったりとか服を買う会やったりとか、突発イベントも増えていった)


会長としてやってきたことと、これからどうするか

●新歓、月二回の例会(場所取りも)、会誌の原稿集め、11月祭(申込と当日)、即売会(申込と当日)等のルーティーン、あと会計
これまでかなりの割合をホリィ・センがやってた気がしますが、さすがにいくつかの役職に分割すべき。会誌編集も既に卒業したませりさんに頼り続けるのはヤバい

 

●例会時の司会とか何か問題が起こったときの事後処理とか、度胸やバランス感覚の要るやつ
新会長、よろしくお願いします

 

●例会で何やるか等の企画
みんなでやりましょう

『生きてるものはいないのか』をドキドキぼーいずがやってたので感想

 アトリエ劇研で6月10日14時に観た。なんかこれを最後に2年ぐらい休止するらしいので観れてよかった。

 思えば、ドキドキぼーいずを『愛と退屈の国』で初めて観て、その後『じゅんすいなカタチ』を観て、本間くんが演出してる『(おわりたい)漂流』も観に行ったし、僕はいつの間にか本間くんのファンになっていたようだ。今回の『生きてるものはいないのか』はタイトルはよく聞くけど内容を知らなかったので、一度ぐらい観たかったというのもあった。さて、以下感想。

 

・まず、いつもの身体痙攣みたいな演出が分かりやすく脚本にマッチしていて傑作だったと思う。

 

 現実にはありえないような高速テンポでの掛け合いを初っ端から飛ばしていくことで、「言葉の上では成り立っているけどコミュニケーションとしては成り立っていない」ようなディスコミュニケーションを戯画的に示していた。だからこそ、その後にキャラがどんどん死んでいく中で描かれる、「死に際の孤独感」の表現が活きていたように思う。人は死んでいくときは孤独だみたいな話をバタイユがしてた気がする(テキトー)

 

 

・会話におけるありえないほどの高速テンポや、誰にも合わない視線、音響に合わせてリズムを持った死の踊りや身体痙攣などは、見事な本間メソッドだなあと。それらは

 

①会話における「言葉」の空虚さ

②地下鉄サリンや公害や戦争や災害や放射能などを思わせる圧倒的「現実」の侵入

③普段意識していない(というか抑圧している)死の恐怖

 

を生々しく示しているように思えて、効果的だったなと。

 

 それらに対応づけて言えば、僕らは普段、

 

①言語

②「目に見える」もの

③死を忘れて「生きている」ということ

 

のそれぞれのヴェールに包まれて、「安心」して生きているのだなあ、ということが浮き彫りにされた。

 

 

・そう考えると、舞台セットの白色の幕?は、「こちら側/あちら側」を分けるヴェールを示しているようにも見えた。つまりヴェールは言語/非言語(①)、可視のもの/不可視のもの(②)、生/死(③)などを分けており、それらの断絶は、自己と他者の根源的なディスコミュニケーションやそれにまつわる孤独感にも繋がっているなあと感じた。例えば、親密な人の突然の死を前にして、幕の後ろに逃げていくシーンにはリアリティがあった。

 

 

・義理の兄役の人、妹と仲良くしたいみたいな部分を表現する役でありながら、時折見せる焦点の合っていない自閉的な視線が恐ろしくて良かった。

 

 

・本間くんの身体痙攣演出みたいなのすごい好きだし、ネガティブな表現をするための使い方だけじゃなくてポジティブな表現のための使い方も見たいかも。

 分かりやすいのだと例えば、「複数の身体が共振することによって生まれるつながり」みたいな表現とか。もっといいのあるだろうけど。

西沢大良「近代都市の根拠――新型スラムと二一世紀の都市の課題」(『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』p26-52)の個人的レジュメ

個人的なレジュメなので網羅的ではないし、僕個人による言い換えも多いですので注意。

 

「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係

「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係

 

 

19世紀、オランダに対抗したいイギリスでの、綿産業:軽工業の発達→貧困(ブラック労働)、スラム化、伝染病、公害
→どうしようもない状態からの起死回生としての近代都市の発生(上下水道の整備、住居地域と工場地域の区別、住居地域と業務地域の区別といったもの)
19世紀末、軽工業は先端技術ではなくなり、工業先進国は重工業で争うように(90年代あたりからは情報産業へ)。
同時に、港湾部へ産業も移転。都市部ではスラム化がとまったように見えるのだが……

 

ハワード「田園都市」はその時期の構想のため、上記の貧困、スラム化、伝染病、公害問題は近代都市計画によって解消されたのか産業移転によって解消されたのか分からない(実際は産業移転によって、だと思われる)。
つまり、ハワードは重工業期の都市を前提としたために、産業移転後の(たいしたことない)スラム状態を前提としている。

結果、現代のスラムとして二パターンある。
旧型スラム:中南米や南アジアにおいて近代都市計画が進むものの、教育水準の低い農奴は庶民はそこで仕事できず、債務が膨れ上がる。結果、農地や鉱山や水源を売ることになり、スラムが発生する。
新型スラム:近代化後、郊外ベッドタウンやニュータウンがスラム化する。


「集落」は、農地や漁場や鉱山といった「特殊な土地」の生産力に依存して長期的に生存するという戦略を持っている。これを近代都市計画にいいとこ取りにように組み込んでしまったのが失敗。ハワードの「田園都市」はその点で間違っている(近代都市には「特殊な土地」がなく、単なる宅地でしかない。30~50年は生き延びれるけどその後スラム化する)。言い換えれば、近代都市はやはり軽工業に頼っていて、その問題への根本的解決はない。

 

社会主義ケインズ主義も結局新自由主義(市場万能主義)に勝てずに回収されていってしまった。いずれも官僚組織が肥大化してしまい、福祉政策が行き詰ったから。

その対抗として、①北欧モデル:市場の警戒のみならず、国家も警戒。市場では競争してもらうが、倒産したら救済はしない。代わりに人間に補助金出して、市場に復活するまで支援する。
貯蓄しないとか、失業を恐れないといったヤバい世界観でもある。
宇沢弘文の「社会的共通資本」論。新自由主義フリードマンを批判し、Ⅰ自然界、Ⅱ法律や制度、Ⅲ上下水道などのインフラを社会的共通資本と定義し、それらを毀損してはならないとする理論。
アマルティア・センのケイパビリティアプローチ→具体的には、グラミン銀行の貧民に低金利で貸す方法。貸すときに親戚全員とか友だち全員で借りにこさせて、社会関係資本を担保にする戦略。返せなかったら人とのつながりを失ってしまうので、返せる。

 

西沢大良の処方箋:
都市・国家・資本を分けて考える。国家は資本に従属しちゃってるし、短命なので60・70年ぐらいしか残らない。資本も短命、倒産するし強くなってもインフレとかの影響受ける。それに対し都市は頑強。従来の理解では、国家が都市を整備し(公共事業)、資本が都市を整備する(民間事業の再開発)。だが、長期的に見ればこの依存関係は逆。都市計画は国家・資本が機能している間に、機能しなくなったときの生存環境を整えておく必要がある。本当は都市の方が長期的には生き残る。

背伸びとしゃがみのススメ

 世間には学生向け○○だとか、13歳からの○○だとか、10代のための○○だとか若い人に対して上から目線でアドバイスしてやろうという本がいっぱいある。

 本に限った話ではなく、おおよそ「教育」をしてやろうという人にはよく見られる態度だと思う(教育者をディスってるわけではない。むしろ専門的な教育者じゃないけど教育をしてやろうという態度の人を指している気がする)。

 

 実は、僕もそうだ。

 

 メサコン根性(自分の価値を感じたいがゆえに人を助けることに執着してしまう根性)が肥大化して「教育をしてやろう」という態度をどうしても持ってしまうところがある。その結果、例えば「教育者のための○○」とか「臨床家のための○○」とかみたいな本を読む、みたいな経験がたまにある。

 こう言うと、自分は欺瞞に満ちた人間だなと思うのだけど、一方で「○○でない人間が○○向けの本を読む」という経験は案外役に立っているという実感がある。

 

ディベートを「審判」の視点から見た話

 本じゃないのだけど自分がそれを強く実感した一例を挙げる。僕は高校生のときに「ディベート」を競技としてやっていた。全国大会である「ディベート甲子園」にも出場したことがある。そして今は中高生のディベート試合の審判をたまに(年に4回ぐらい)やっている。

 実は高校生のとき、ディベートの技能向上にかなり役立ったように思うのが「審判講習」だった。競技ディベートのルールを読み込み、審判はどういう視点を持って試合を判定するかということを学んだ(既に審判をやっていたOBOGの先輩方にご教授いただいた)。

 それこそ普段はディベートを選手の視点からしか見ないわけだけど、審判の視点からディベートを眺めてみたというのがこの話のキモだ。俯瞰的な視点に立ってみることによって、今まで見えてこなかったものがすごく見えるようになった。

 

 さて、これだけだと単に「俯瞰(メタ)的な視点を持て」っていうお決まりの文句になってしまいそうだけど、もう一歩進みたい。

 

単に「別の視点」であるということ

 やはりメタ的な視点だから偉い、なんてことはないと思う。むしろ現場で瑞々しい体験をしている(“ベタ”視点の)人の方がモノを知っているということはよくあることだ。

 だから、今の自分の視点とは別の視点で考えてみること、ただこれだけが重要なのではないか。基本的には、視点に優劣はないと言っていいように思う(ただ例えば二つの視点しか持てないとしたら「どの二つを選ぶか」という更なるメタ視点はありそうだ。その際、例えば「より多様性のある選択をした方がいい」みたいな優劣が導入されてしまいそうだけど、そのへんはいったん考えないでおく)。

 

背伸びとしゃがみ

 よりメタ的な視点で眺める、あるいは「大人」の視点で見ようとすることが「背伸び」なのだとしたら、逆によりベタな視点、あるいは「子ども」の視点で見ることは「しゃがむ」ことなのではないだろうか。世の中には、子どもと一緒になって子どものように楽しんで遊べる大人がいるけども、それは一つの素晴らしい能力のように思う。

 

 逆にダメなのは子どもが「子ども向け」のおもちゃで遊んでしまうような、そんな事態ではないだろうか。もちろん、「○○向け」は配慮されて○○に適するように作ってあるだろうから、それには一定の意義や効率性などがあるのだと思う。しかし、それだけでは一つの視点に固定されてしまい、見える範囲は狭くなってしまう。

 だからこそ僕が提案したいのは、敢えて自分の専門ではない「○○向け」へと背伸びをしてみること(ただし専門性がないと全然入っていけないものもあるだろうから、それはネックだ)。あるいは、逆に自分のよく知っているはずのものの「初心者向け」をしゃがんで見てみることである。

 

 要は「視野は広げた方がいい」という前提の上での、その視野の広げ方の提案でした。

シェアハウスとメンヘラ

この文章はオープンシェアハウスサクラ荘が発行しているフリーペーパー的なもの、「季刊サクラ荘」の第一号に寄稿した文章です。サブタイトルをつけるとするなら、「架橋としてのメンヘラ概念とシェアハウスの居場所・自立機能」みたいなところでしょうか。

はじめに

 「メンヘラ」という言葉がある。

 この言葉は「メンタルヘルスer」の略であるが、意味が曖昧で、この言葉を使う人によって意味が異なっていることが多い。

 特にインターネットにおいて、「精神的に不安定な、主に恋愛において人に迷惑をかける女性」ぐらいの意味で蔑称として用いられてきた経緯があるため、この言葉を用いない方がよいかもしれない。

 しかしそれでも敢えて「メンヘラ」という言葉を用いる理由は、この言葉にいくつかの問題が凝縮されているからである。「メンヘラ」という言葉は、

 

 

①「家庭環境に問題があったり、学校でイジメを受けたりして、親密な関係から排除されてきた結果、居場所がない人」を意味する(「愛と居場所」の問題系)
②「何らかの物事や人に対して強く依存しているため、自分自身の基準で物事を判断することが難しい人」を意味する(「自立と依存」の問題系)
③「恋愛や、異性からの性的承認に強く依存する女性」を意味する(「性」の問題系)

 

 

 以上の三つの問題は相互に絡まり合っている。だからこそ、それらを個別的にではなく総合的に論じる必要がある。

 だから敢えて「メンヘラ」という言葉をフックにして問題を提起し、その問題に対して「シェアハウス」が持つ可能性と限界を示すのが今回の目的である。

 

 急いで付け加えなければならないのだが、この文章は、私が個人的に接してきた「メンヘラ」と呼ばれうるような人々についての、いくつもの経験と伝聞を総合した結果、構成されている。

 だからこそ、特定の誰かを指した文章ではない。もし読者のあなたが「これは自分のことを指している」と感じたなら慎重に吟味が必要だ。

 「この部分は自分に当てはまるが、この部分は自分とは関係がない」、「自分とはほとんど関係がない」といった風に、まず自分がどういう状態なのかを確認してほしい。

 その上でもし、問題解決にシェアハウスが役立ちそうであれば、サクラ荘に連絡をくださるとありがたく思う。

 

 

メンヘラと生育環境の問題

 「メンヘラ」と呼ばれうる人は、自身の家庭環境が悪かったことを述べる。具体的には

 

 

  • 両親の仲が悪かったり離婚していたり
  • 親が過干渉で自分の行動を制限してきたり
  • プライバシーを侵害してきたり
  • 放っておかれたり
  • 言葉でけなしてきたり
  • 暴力をふるってきたり

 

 

 といったエピソードである。また、「学校でイジメを受けた」というエピソードもよく聞く。

 高校生までの子どもにとって、基本的に「家庭」と「教室(学校)」は重要な集団ツートップである。これらの集団において馴染めなかった(排除された)場合、後の人生にも尾を引くことが多い。

 結果として高校卒業以後も、精神的に不安定だったり、対人関係がうまくいかなかったり、集団にうまくなじめなかったりということになる。*1

 

 

「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環

 「精神的に不安定」(個人)と「コミュニケーションがうまくいかない」(二者関係)と「集団になじめず、居場所がない」(集団)という三つの問題はそれぞれ連動している。

 

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  この三角形の矢印については例えば、

 

A:誰かと仲が悪いと精神的に不安定になる(二者関係→個人)

B:精神的に不安定だと余裕を持ってコミュニケーションができない(個人→二者関係)

C:誰かとの関係がうまくいってないと集団からも問題視される(二者関係→集団)

D:集団から異質な存在として見られるとその中での誰かとのコミュニケーションもうまくいきづらい(集団→二者関係)

E:集団になじめないと精神的に安定を得るのは難しい(集団→個人)

F:精神的に不安定だと自分は集団に不要な存在だと思ってしまう(個人→集団)

 

 といった説明ができる。また、これ以外の説明も可能である。例えば、個人の問題は「精神的に不安定」だけでなく「コミュニケーションのスキルが低い」ということもあるだろう。コミュニケーションのスキルが低ければ二者関係や集団でうまくいかず、二者関係や集団がなければコミュニケーションのスキルを磨く機会もなくなるだろう。

 いずれにせよ悪循環に陥ってしまうという問題である。そのため、「メンヘラ」が常態化すると抜け出すことが難しい。

 

 

「悪循環」対「シェアハウス」

 シェアハウスはうまくいかなかった家庭における家族関係や、学校における友人関係からの「避難所」であり、そしてそこから更に発展して、それらの関係を「やり直す」ための「居場所」として機能しうる*2。すると、「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環を断ち切れる可能性がある。しかも、サークルなどと違って「そこにある」集団であり、家族や教室などと違って「自分で選べる」集団であるという「いいとこどり」がシェアハウスによってできる。

 

 しかし、シェアハウスでもなじめなかった場合は、結局のところ悪循環に戻ってしまうことになるという限界はある。あまりにも精神やコミュニケーションに問題がある場合は、医療や福祉による介入も必要になってくるし、シェアハウスに住んだ上で病院に通うなどしてもいいだろう。

 

 

「メンヘラ」は状態か性格か

 「恋愛をするとメンヘラになる」などといった言葉に見られるように「自分は一時的にメンヘラになることがある」と言う人もいる。この場合、「メンヘラ」という言葉は一時的な「状態」を指しているし、実際、ほとんどの人は何らかの「メンヘラ状態」を体験したことがあるだろう。しかし、それが常態化し、一つの「性格」(あるいは「気質」や「人格」)として固定されてしまっている人こそが問題である。その人においては、しばしば先ほどの「悪循環」を伴っている。

 そして、固定された「性格」としてのメンヘラは、しばしば特定の「病名」と同一視される。

 

 

メンヘラと病名

 そもそも「メンヘラ」は「メンタルヘルスer」の略であり、元々は2000年頃、2ちゃんねるメンタルヘルス板あたりが発祥である。メンヘルだとかメンヘラーだとかいう言葉も使われていた。

 当時からメンタルヘルス板に出入りをしていた人の話によれば、病名としてはうつ病躁うつ病双極性障害)、またそれほど多くはないが統合失調症あたりがメンタルヘルス板の住人の主流だったようだ。

 しかし、2006年頃から「メンヘラ」が「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)*3に結びつき始める。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」は主に恋愛におけるコミュニケーション(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)において定義されるようになっていった。*4

 また、時期がズレるためそれほど目立たないが「メンヘラ」と「アダルト・チルドレン」概念*5との関連性を指摘する人も多い。これは医学的な診断名ではないが、90年代や00年代初頭に流行した概念である。今ではアダルト・チルドレンよりも「毒親」(子どもの成長にとって毒になる親)の概念が流行しているように思われる。

 

 これらの病名や概念については詳細な研究の蓄積があり、「メンヘラ」の一言では済まされない固有の問題がそれぞれにある。だから、これらの病名や概念の当事者は「メンヘラ」という言葉ではなく病名・概念を手がかりに、医学的な治療を受けたり、自助グループに出向いたりすることが先決だろう。

 しかし、それでも敢えて「境界性パーソナリティ障害」という病名や「アダルト・チルドレン」という概念の名前を出した理由は、それらが特殊な事態であるがゆえに、逆に誰にでも見られるような一般的な問題を戯画的に表現している側面があるからである。

 

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虐待あるいは暴力の生じる条件

 メンヘラと家庭環境の問題は最初に述べた。そして、家庭環境に問題があるというのはアダルト・チルドレンの定義でもある。これらは特殊な事態に見えがちだが、一般化している事態でもある。実際、児童相談所による児童虐待対応件数は年々増加の一途を辿り、2015年度には10万件を超えている。

 もちろん、それだけ児童虐待に対する意識が向上しただけであり、児童虐待の実際の件数自体には変化がないという見方も可能である。

 しかし、このような虐待(暴力)の生じる背景に何があるのかを考えてみよう。精神科医・批評家の斎藤環は、「場」における暴力が生じる条件として①密室性②二者関係③序列の3つを挙げた。つまりは、集団が狭いサイズで閉じてしまっていてかつ、対等ではないことが暴力の生じる条件である。

 こう考えると、学校におけるイジメや、ブラック企業の問題がいずれも表面化しているのも、それらに対する社会的な意識が向上したからだけでなく、実際に問題が増加しているからではないかとも考えられる。

 

 

「暴力」対「シェアハウス」

 シェアハウスは複数人の大人が住んでいる場であり、対等な場である。一般家庭と違って家賃を割っているのが良い証拠である。家族で見られる「誰のおかげで飯を食わせてもらってると思ってるんだ」みたいな一方的な権力関係は生じず、「ギブ&テイク」の交換がちゃんと成立する「相互扶助」の関係が成り立ちやすいだろう。

 

 しかし、学校などと同様に、イジメ的な問題が生じることは原理的には避け得ない。二者関係にはならずとも、集団イジメなどもありえないことではない。学校(教室)よりもマシなのは、やはり住む相手を一応は選べるというところだろう。問題が生じそうな相手とはそもそも一緒に住まないという選択肢がある。本当にヤバいときは離脱できるようにしておくことも、シェアハウス運営には必要だろう。

 

 

 

地域衰退と家族縮小による「保険の効かない子育て」

 大雑把に言えば、昔の子育ては子ども一人あたりに関わる大人の人数が多かった。地域の大人や親戚、祖父母や兄・姉が関わっていただろう。だからこそ「保険の効く子育て」だった。たとえ親の人格や行動に問題があったとしても、他の大人がチェック機能を果たすことができたし、今よりも分業することができただろう。

 しかし、地域が衰退し、祖父母が同居していない核家族世帯が増えたため、子どもにとっての大人は親だけである。それもしばしば「母親」だけである(シングルマザーも増加している)。共働き世帯が増えている中、保育所に子どもを預けざるをえず、待機児童が増加しているという問題も話題になっている。

 これではどうしても母親に対して子育てのプレッシャーがかかってしまうだろう。結果として、母親の人格に元々問題がなかったとしても、うまく子育てできない、ひどい場合は虐待してしまうという状況が生じかねない。

 しかも、虐待を受けた子どもが親になると虐待をする確率が高いというデータもある。暴力は学習を通じて連鎖していくのである。

 

 つまり、家庭環境(子育て環境)や虐待や「毒親」の問題はもはや構造的な問題である。例外ではなく、一般化している問題なのである。確かに「アダルト・チルドレン」と呼ばれうるようなレベルのものは特殊なのかもしれないが、「アダルト・チルドレン」的な事態を一方の極として、程度に差はありつつもグラデーションとして広く分布しているのだと思われる。

 

 

「子育て環境」対「シェアハウス」

 「子育て環境」については「悪い環境で育った大人」の問題と、「これから育っていく子ども」の問題とを分けて考える必要がある。

 「悪い環境で育った大人」に関しては、やはりシェアハウスを「居場所」として提供し、家族関係からの「避難所」として、そして家族関係の「やり直し」の場所として機能させることが重要だろう。「悪循環」のところで述べたことである。

 

 「これから育っていく子ども」については現状では対処困難である。しかし、最終的には「子育てシェアハウス」をする必要があると私は感じている。実際、海外ではコレクティブハウジングという形態において、複数の家族が一つの建物に住む(キッチン等は共有)ということが起こっている。日本においては居住する建物の問題や、子育て責任の所在の問題、後に述べる性の問題など、まだまだ様々な問題がある。しかし、複数の大人がいる状態で子育てをするということは「保険の効く子育て」になるはずだ。今後検討する余地のある課題である。*6

 

 

依存(アディクション)の一般化とアイデンティティの困難

 ところで、アダルト・チルドレンや「毒親」の概念においては、大人になっても現実の親、あるいは自分の中の親(インナーペアレンツとも呼ばれる)に囚われてしまって、自由になれないということが語られる。

 つまり、自分自身の基準で物事を判断(これは「自律」の定義だ)できず、何らかのものに強く依存してしまう。具体的には人間関係、性行為、アルコール、買い物、ダイエット、過食、薬物、自傷などである。病的なまでに強い依存はアディクション(中毒、嗜癖)とも呼ばれる。

 アダルト・チルドレンにおいてこのような依存(アディクション)が生じる理由は、端的に言えば親によって子ども自身の選択が否定されてきたからである。結果、自分自身"以外"のものを基準にして物事を判断するようになる。*7

 しかし、この依存(アディクション)もまた、アダルト・チルドレンに限らず、現代日本社会において一般的な問題なのである。以下で説明しよう。

 

 昔であれば自己のアイデンティティは生まれや仕事で決まっていた。あるいは、70年代80年代頃、恋愛して結婚して家を持つという「マイホーム主義」も人生の「生きがい」として機能していた。

 しかし、今や家族も仕事も「生きがい」にはなりにくくなった。生きがいを見出しにくくなったということは、自己のアイデンティティ(自分は何者なのか)を見出すのも難しくなったということだ。そんな中でも人々はどうにかして、「自分は何者なのか」という問いに答えようとする。よく言う「自分探し」とはそういうことだ。

 それでもやはり価値観が多様化してしまった昨今では「自分が分からない」、「生きてる意味は何なのか」という問いにどうしても晒されてしまう。そんな問いから手っ取り早く逃げることができる方法が依存(アディクション)だというわけだ。実際、アディクションの対象はアルコールなどを筆頭に「我を失わせる」ものが多い。一時的にであっても快楽に身を浸して、自意識や生きる意味、「私」を、忘れることができるのである。

 

 

依存と自立の問題

 このような「依存」は「自立」の対立概念として描かれがちである。しかし、「自立とは複数の依存先があること」という言葉が精神保健の分野で使われる。実際、何かに依存せずに生きている人間などいないだろう。健康な人間はおそらく、依存先一つあたりのウェイトが小さいために、あまり依存っぽくは見えないのである。

 一方、「メンヘラ」と呼ばれうる人の中には、恋人に対して「恋人」としての役割だけでなく、「親」としての役割や「友人」としての役割など、複数の役割を担わせようとする人がいる。一緒にいようとする時間も極端に長い。こうなると外から見ても「依存」しているということになるだろうし、当人の心理的にも依存していることが感じられるだろう。

 そもそも人間はほとんど誰しも養育者に依存して育っていく。依存は自立の前提にあるのだ*8。また、依存先は交換可能だということが知られている。リスクが高かったり社会的に認められていなかったりする依存先(それこそ「アディクション」と呼ばれるもの)を、「スポーツ」や「趣味」などの健全な依存先に置き換えていくこともまた重要である。

 

 

「依存と自立」対「シェアハウス」

 再三述べているようにシェアハウスは「居場所」である。だからこそ、「自立のための依存」の出発点になりうる可能性はあるだろう。

 ただ、そこで問題になるのは、依存がしばしば権力関係になりやすいということだ。しかし、「暴力」のところで述べたようにシェアハウスは対等な交換関係による「相互扶助」が成り立ちやすい。だから、一方的な依存ではなく「持ちつ持たれつ」になれる可能性が(少なくとも家族よりは)高い。すると、一方的な依存に見られるような、与える側の負担や受け取る側の罪悪感が生じないで済む。

 

 しかし、シェアハウスでも個人主義者たちが「複数人で一人暮らし」しているだけということはありうる。危うい権力関係だって生じうる。いずれにせよ、シェアハウスする以上はそれぞれが自己主張を持った上でお互いの主張も認め合うような、ちゃんとコミュニケーションをし合う関係が望ましいだろう。

 また、シェアハウスはあくまで「住む」だけなので、今のところ直接アイデンティティを担保してくれる機能はないように思われる。むしろ、現代日本ではシェアハウスは「若者のモラトリアム」を象徴してしまっているようにも感じる。恋愛結婚によってできる「家族」と違って物語に欠けるのだ。何か明確なコンセプトを持ったシェアハウスを作るというのも一つの手だが、「シェアハウスはいかにして物語を供給するのか?」は今後の課題だろう。個人的にはやはり「子育て」ではないかと思っているのだが。

 

 

自他の境界の曖昧さと「女」の問題

 「自立」ができていないということを別の角度で言い換えると、「自己の領域」が確立できていないということである。それは同時に、「他者の領域」の確立もできていないことを意味する。これは「自他の境界の曖昧さ」とも言えるが、その極端な形が「境界性パーソナリティ障害」である。

 ここからは私見も入るが、「境界性パーソナリティ障害」においては自他の境界が曖昧だからこそ、(自分にとって)良い/悪いが自他を分けるための基準になってしまう。結果として、次のようなパターンが見られる。

 

 

  • 敵(他者側)/味方(自己側)をはっきりと分ける
  • 恋人に対して理想化(自己と一体化)したり/一気に幻滅したり(「他者」として切り離す)して、相手を「良いところも悪いところもある一人の他者」と見れない
  • 強い優越感/劣等感を往復する(自分が良いもので満たされるか、悪いもので満たされるか)
  • 100点満点の出来以外はダメだとしてしまう完璧主義(よくできた部分とできなかった部分を分けられず、100点満点のみ自己側、それ以外は他者側にしてしまう)

 

 

 これは「境界性パーソナリティ障害」の一部に見られる極端な例であるが、「敵/味方をはっきりと分ける」などは健康な人にもよく見られる。

 精神科医水島広子は、いろいろな女性に特徴的に見られる女性のイヤな部分をカッコつきの「女」と定義しており、「女」の自他の境界の曖昧さを指摘している。

 その説明は以下だ。まず、女性が「細やかな気遣いができるべきである」という社会通念から「何も言わなくても察する能力」が女性に求められるようになる。しかし、はっきりとモノを言わずに察するという態度が一般化すると「自他の境界の曖昧さ」に繋がってしまうということだ。

 結果として、「あなたのことは何でも分かっている」とおせっかいを焼きたがる人や、自分と異なる意見を持っているだけで「攻撃された」と感じてしまう人などが出てくる。これらは、本来他者の領域であるものを自己の領域にしてしまっている。

 詳述は省くが、だいたい同じ論理で、敵/味方をはっきり区別する人や、しきりに陰口を叩く人、しきりに悩みを相談する/される人、話したくもない恋バナを話させる人、他人の秘密をすぐにバラしてしまう人などの例が説明されている。

 

 いずれにせよ、基本的には(他者を攻撃せず、尊重しながら)自己の領域と他者の領域をはっきり区別することが解決策として提示されている。ここでも先ほどの「自立のための依存」とはまた違った意味で「自立」がキーワードとなっているように思われる。

 

 

「自他の境界の曖昧さ」対「シェアハウス」

 シェアハウスは相互扶助が成立し、「与える側」と「受け取る側」の両方の役割を経験できうると述べた。これに加えて、シェアハウスでは絶対的な権力者が生じにくく、同居人はそもそもは他人であるために多様性がある。それぞれの同居人に対して取る立場・役割は様々だろう。これは言わば、野球というゲームにおいてピッチャーという役割を経験するのではなく、複数のポジションを経験していくことで野球というゲーム全体の構造を(あたかも野球ゲームをプレイしている人のように)俯瞰して眺めることができるようになることに等しい。

 そのような俯瞰的な視点を獲得して始めて、押し付けられた役割に流されるのではなく、自分で役割・態度を選択していく、すなわち「自立」した個人になれるだろう。この俯瞰的な視点、すなわち「自分はA側でもありうるし、B側でもありうるし、C側でもありうる……」といった相対的な視点を獲得することで、どんな状況においても他者の領域と自己の領域を明確化することができる、すなわち自他の境界線がはっきりするのではないか。

 

 しかし、シェアハウスであっても役割が固定化してしまうときはあるだろう。もし同じような人間が集まってしまえば、複数のポジションを経験する必要もなくなるし、ダメな部分をお互いに増幅し合うこともあるだろう。

 だから、シェアハウスにおいては適度に(対応できる余裕がある程度に)異質な人間がいた方が良いかもしれない。もちろん、根本的に相性が合わないであろう人と住む必要はないが。そして、適度に異なる他者との価値観の違いに対し、コミュニケーションによって折り合いをつけていく態度がやはり重要になるだろう。*9

 

 

性・恋愛による人間関係の崩壊

 「境界性パーソナリティ障害」の人間が、一つの集団において複数人と性関係・恋愛関係を持ち、結果として人間関係が崩壊するパターンが見られることがある。それは、単に境界性パーソナリティ障害の人間との関係が悪化した人が集団に居づらくなるというパターンもあるし、その人間を巡って争いが起きるというパターンもある。

 それは私が研究してきた「サークルクラッシュ」という現象なのだが、その際に複数人と性関係や恋愛関係を持った女性がしばしば「サークルクラッシャー」と呼ばれてきた(私にとっては不本意だが)。

 

 しかし一般的に言って、(異性愛の場合)男女の混じった親密な集団においては恋愛や性行為が起こりがちであるし、恋愛関係は友人関係よりも関係の持続が困難である。だからこそ、特定の集団においては性行為や恋愛が起こらない工夫が見られる(家族における近親相姦のタブーや、サークルや企業などにおける「恋愛禁止」のルール、男子禁制・女人禁制の集団など)。

 それら性・恋愛による人間関係が崩壊してしまう問題は、「サークルクラッシャー」のように(あるいは「バンド解散」のように)センセーショナルには語られないだけで、潜在的なリスクとして一般的に存在しているのだ。

 

 

「性・恋愛」対「シェアハウス」

 これは一見バカバカしいようだが、現在のところ「家族」に勝つことができない難問である。血縁においては厳格な近親相姦のタブーがあり、日本においてはしばしば子どもができると夫婦がセックスレスになるほどだ。

 それに対して、シェアハウスはあくまで他人同士である。恋愛や性行為が起きたところで「当人同士の自由」と、私事になりかねない。しかし、一方でシェアハウスは公共空間である。複数人と関係を持ってしまう人がいたらたいてい問題になるだろう。たとえ二者関係で済んだとしても、性行為をする場所があるのだろうか。その都度ホテルに行くのだとしたら、コストの面で一人暮らしに劣るだろう。個室を使うのだとしたら、性行為の音を嫌がる同居人もいるだろう。恋愛関係に嫉妬する同居人もいるかもしれない(要するに三角関係の問題)。

 そして、そういった問題で住人が出て行きでもしたら、家賃の支払いが滞ってしまう。これも問題だ。

 

 これらの問題に対策するための一つの方策は、そもそも性行為や恋愛をシェアハウス内部ではしないというものだ。それ以前に、男性専用や女性専用にするという方法もある(それでも外から連れ込んだら一緒なのだが)。

 あるいは逆に性や恋愛に関してオープンな空気を作るという方法もある。性や恋愛に関しては、秘密にしてコミュニケーションを遮断するからこそ問題が起きることも多い。性行為の音に内心嫌がっている同居人がいても、なかなか言い出しにくいからこそストレスが溜まっていくということはある。

 このように、性愛の価値観に対して一定のルールや空気を作るという方法もあるが、建築構造にも問題があるかもしれない。例えば、海外のコレクティブハウジングでは複数の夫婦が同じ建物のそれぞれ違う階に住んでいるという例があるようだが、それならば性行為の音の問題は生じにくいだろう。一軒家であっても、部屋の位置を工夫するという手段はある。

 また、住人が出て行くという問題に関しては、家賃支払いをある程度保証できるように、出て行く3ヶ月前には告知するなどのルールがある方がいいだろう。サクラ荘においても、「次の住人を見つけてから出て行く」ということが推奨されている。

 

 

おわりに

 ここまでの内容をまとめると次の図のようになる。

 

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   このように「メンヘラ」概念を「一般‐特殊」の橋渡しにすることで、「アダルト・チルドレン」や「境界性パーソナリティ障害」といった特殊な概念において戯画的に見られる問題が、実は現代日本の社会構造上一般的に見られる問題であり、実は程度問題なのだということを示した。

 そしてそれらの問題の解決において、シェアハウスが一定の寄与を果たすということを個別個別で述べた。大雑把に言えばそれはシェアハウスの「居場所」と「自立」の機能である。しかし「性」の問題など、いくつかの問題点は残っているため、今後「シェアハウス」概念を鍛え上げていくことが必要である。

 

*1

それは発達心理学的には例えば、イギリスの精神科医ボウルビィの「愛着理論」や、アメリカの発達心理学エリクソンの「ライフサイクル理論」などから説明できるだろう。詳しくはググれ。

 

*2

「やり直す」というと、「家族」や「友人」が絶対に必要と主張していると聞こえるかもしれないが、それらとは違った「シェアハウスの同居人」という固有の関係性を新たに「創造する」と考えてもよい。

 

*3

アメリカにおける精神疾患の診断基準「DSM-5」によると、境界性パーソナリティ障害の診断基準は、

 

 

  1. 現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。
  2. 理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式。
  3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像や自己観。
  4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(浪費、性行為、物質濫用、無謀な運転、むちゃ食いなど)。
  5. 自殺の行為、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し。
  6. 顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は 2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな強い気分変調、いらいら、または不安)。
  7. 慢性的な空虚感。
  8. 不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)。
  9. 一過性のストレス関連性の妄想様観念、または重篤な解離性症状。

 

 

の5つ以上を満たすことが基準である。1、2、5、8あたりは明確に対人関係における問題であるため、「メンヘラ」と結びついたのであろう。

 

*4

このあたりの事情は090氏の記事、「メンヘラ」という言葉の歴史 2ちゃんねるで「メンヘラ」が誕生するまで を参照。

 

*5

アダルト・チルドレンとは、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」人のことを指す。元々は「アルコール依存症の親を持つ子ども」を意味し、現場のソーシャルワーカーによって作られた非医学的な概念である。

日本では、精神科医斎藤学臨床心理士信田さよ子などの著述活動によってアダルト・チルドレン概念が紹介されたことと、スーザン・フォワード『毒になる親』が翻訳出版されてベストセラーになったことが流行の主な原因であると思われる。

 

*6

実際、日本でも「沈没家族」というシングルマザーやその友人たちによる共同保育の実践が行われた例がある。詳しくはだめ連編『だめ連宣言!』とインターネットを参照。

 

*7

この「自分自身以外のもの」には「一時的な感情」(衝動)も含まれると考えた方がいいかもしれない。なぜなら、一時的な感情に基づいた判断はしばしば状態や状況に左右される、非一貫的なものだからだ。こう言うと、「人間はみんな理性的な主体を目指すべきだ」という主張に聞こえるだろうが、実際だいたいの人は目指すべきだと私は考えている。

 

*8

発達心理学における「愛着理論」によれば、養育者が「安全基地」となり、子どもはそこに依存しながら、新たな世界へと自立していく。また、教育学では、自律のために他律的な教育をしなければならないことを「近代教育のパラドックス」という。もっと言えば、「自由な思考のためには『言語』という制約が不可欠である」など、「〈自〉なるもの」は根源的には「〈他〉なるもの」に支えられていることが分かる。

 

*9

言い換えれば、自分の主張を押し付ける(アグレッシブ)でもなく、相手の主張に流される(パッシブ)でもなく、相手の主張を受け入れながら自己主張をする(アサーティブ)な態度が重要である。