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メンヘラ展2について考えたこと

メンヘラ展2に行ってきたので僕なりに考えたことを書く。
僕なりに考えたことの結論から言うと、至極当たり前のことなんだけど、「メンヘラって一口に言ってもいろんなメンヘラがいるよね」ということ。

まあとりあえず、出展者の一人であるwall-handさんの記録ページを参照。雰囲気やら作品やらが分かると思うので↓
http://blog.goo.ne.jp/chlor_hibiye/e/51a0a8762e1fa2f6fd52ee2df2f0b7a3

 

※僕の性格上、細かい前提の議論から始めることをお許しください。メンヘラ展2自体の感想については最後の方に書いてます。

「メンヘラ展」というもののコンセプトについて

そもそも去年の「メンヘラ展」のときから「メンヘラ」というバズワードで括って、「メンヘラ展」なるものを開催していること自体に疑問があったので、その疑問から書いていく。

メンヘラ展1のコンセプト文↓
https://61749a6c3fa896154961fda45f8420a09ea03e3b.googledrive.com/host/0B5xrKP8tWBoMaDFuRU94QkhyMU0/menu/concept.html

抜粋しながら分析していく。


①メンヘラという言葉のキャッチーさ

"漠然とした募集には誰も見向きもしないし、まずは参加資格を限定しなければ立候補しにくいと思い、どんなグループなら人が集まるのか、インパクトや話題性があるのかを考えた結果、「メンヘラ」を打ち出しました。"

"何の地位もない無名の私が「精神障がい者でグループ展をしませんか。」と言ったところで誰も手を挙げないと思います。"

そもそも「メンヘラ」って言葉を使わないと、一般公募のグループ展自体が成り立たないよね、という話。これはごもっとも。
問題は「メンヘラ」という言葉に何を見出してるかということ。そして、「メンヘラ展」が何を目的としているグループ展なのかということで次。

 

②ネットとリアルをつなぐ?

"何故、「メンヘラ」というネットスラングを使ったのかと言うと、ネットユーザーにとっては身近な言葉であり、 「ネットとリアルを繋ぐ」という作業に最適だと思ったからです。"

メンヘラというネットスラングを使うことで、ネットとリアルが繋がる。確かにそういう側面もあるかもしれない。
ただ、ここに関しては単純に疑問があって、「ネットとリアルを繋ぐ」というのは耳あたりの良い言葉遣いなだけで、これはたぶん本質ではないと思う。メンヘラ展1を見に行ったわけではないけど、そういうところは最終的には大きく意識してなかったように思う。次から書く内容がおそらく本質である。

 

アートセラピーでもメンヘラに安住するわけでもない

"私達の目的は、アートセラピーでも、メンヘラに安住することでもありません。 承認欲求を満たすためだけのものでもありません。"

アートセラピーでもメンヘラに安住することでもない」というのは実は結構強い限定だと思う。メンヘラがアートによって表現をすることの理由はこの二つに還元されることがかなり多いので。
「承認欲求を満たすためだけのものでもない」は、承認欲求はおそらくメンヘラを扱う分には大きな要素なので、「満たすためでもある」ってことなんだろうなあと。

 

④内発的なものをアートに昇華する

"自傷やODや過食嘔吐といった問題行動は、一人の世界です。生産性がありません。 メンヘラ特有の、モヤモヤやぐちゃぐちゃドロドロをアートに昇華し、そのむき出しの叫びをぶち撒ける。 それは、非常に意義があることだと考えています。"

ここで、メンヘラ当事者の内発的なものをアートにしようというコンセプトが伝わってくる。
実際に、メンヘラ展の参加資格に「精神疾患を患っていて、表現をしていること」というものを挙げていた。
これによって「メンヘラ展」は「メンヘラに関する展示」ではなく、「メンヘラがやる展示」であるという、当事者性を重視したものであるということが分かる。

 

⑤メンヘラ展の問題点

脱線するが重要なことなので、急いで付け加える。
精神疾患を患っていて、表現をしていること」という参加資格には「メンヘラ≒精神疾患」であるという前提と、「メンヘラの中でも表現ができる人」に限られているという前提が隠れていることが分かるだろうか。

僕自身、この二つの前提が「メンヘラ展」を「メンヘラ展」という名前でやることの大きな問題点だと思っている。以下ABに分けて詳しく述べる。

 

A.「メンヘラ≒精神疾患」という限定の問題点(実は解決済みだけど一応)

「メンヘラ≒精神疾患」という限定は強すぎる限定であり、「メンヘラ」という言葉の本質さえも抜け落ちてしまうレベルの限定だということだ。
メンヘラはネットスラングでありバズワードである。だから、いろんな意味の広がりを見せている。
それは、ただ単に精神疾患を指すだけでなく、
Ⅰ.精神疾患というほどでもないのに「メンヘラ的なもの」を敢えて志向する「ファッションメンヘラ」の存在や、
Ⅱ.精神疾患の当事者ではない人がやる「メンヘラ的な行為」(いわゆる構ってちゃんや、一時的な強い不安、他人に迷惑をかける過剰な行動などなど)
をも指す。むしろ、ネットにおける「メンヘラ」という言葉の使われ方を見ると、こちらに本質があるとすら思えるほどである。
こういった要素がこぼれ落ちてしまう「メンヘラ展」という名付け方は、ミスリードだ。

また、更に言えば、一般的に使われる「メンヘラ」を指す「精神疾患」は、「境界性パーソナリティ障害」を指すことが多いように思う。服薬をする点では他の精神疾患でもよいのだが、いわゆる「メンヘラ」らしさを分かりやすく表現してるのは「境界性パーソナリティ障害」だろう。
それに対して、「精神疾患」の中には「統合失調症」のような、健常者の論理では――おそらく、境界性パーソナリティ障害よりも遥かに――理解しがたい論理で行動する人がいる。
このような人はおおよそ「メンヘラ」的ではない。しかし、アートの世界においては「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」と呼ばれる、主に統合失調症の人によるアートも存在する。
また、それに近いものに、無意識による芸術を志向した「シュルレアリスム」というものもあり、これもある種精神疾患に近い要素を秘めている。
精神疾患」はこういった要素をも指しうる。

要するに、「メンヘラ≒精神疾患」という限定をしてしまうと、本来「メンヘラ」が指すはずのものが抜け落ちてしまったり、本来「メンヘラ」が指さないはずのものが入り込んできてしまったりするということだ。
にもかかわらず「メンヘラ展」という名前を使うこと、ここに「誤解を招く」という問題点や「名が体を表さない」という問題点がある。
①で述べた言葉のキャッチーさや、②のネットとリアルをつなぐなどの要素を考えれば、「メンヘラ展」という名前をつけるメリットはとても大きいので、どうしようもないとは思うのだが、こういったデメリットについては目をつぶってほしくはないし、できるだけ「メンヘラ」という言葉が何を指しているか、「メンヘラ」という言葉の本質は何なのか、そういった点に留意しながらやってほしいというのが僕の考えだ。

(※っていう考えだったんだけど、メンヘラ展2の方の参加資格は「メンヘラであること、表現活動をしていること、渋谷に搬入出に来られること」になっていた。まあ下手に精神疾患って言葉使うより「メンヘラであること」というフワッとした定義にしておく方がいいよね、ということで実はこの問題は既に解決していた(!!)

とはいえやはり、「メンヘラ」という言葉が何を指しているかということは、依然として「メンヘラ展」のコンセプトにかかわる重要なポイントだろう)

 

B.「メンヘラの中でも表現ができる人」という限定の問題点

ある意味では、「全ての人間は表現をしている」と言ってしまえばそうなのだが、現実問題として「作品」として鑑賞する価値のあるものを作れる人間は限られているだろう。
だから、メンヘラ展1の「表現をしていること」やメンヘラ展2の「表現活動をしていること」という限定は、相応の限定であるということが伺える(実際、メンヘラ展2に行ってみた感想を先取りすると、表現・作品として成立している(それこそお金取れるレベルの)ものばかりだった)。

つまり、「表現をしている」だとか「表現活動をしている」だとかいうのは、「作品として一定以上のレベルを求めますよ」ということを柔らかく言っているということだ。
もちろん、アートのグループ展だったら、参加資格として一定以上のレベルを必要とするのはそりゃ当たり前っちゃあ当たり前だ。
ただ、こと「メンヘラ」を扱う分においては考えなければいけないことが増える。というのは、「メンヘラ」には「社会的弱者」の側面がある場合が多いからだ。
「表現活動ができる」、すなわち「作品として一定以上のレベルのものが出せる」ということは、それだけで強者だとも言える。
世の中には表現活動ができるだけの能力や技術、手段、社会的立場、場所、時間、お金等のない「メンヘラ」や、通院や服薬するだけの時間やお金がなくて言わば「メンヘラを続けることすらもできない」人はおそらくたくさんいることだろう。
結局のところ、「メンヘラ展」は表現活動ができるだけの能力や技術、手段、社会的立場、場所、時間、お金等に恵まれたメンヘラのみによるグループ展であるということだ。これはひょっとすると、そういったものに「恵まれていないメンヘラ」や、「メンヘラを続けることすらももできない人」を社会的に抑圧してしまうことに繋がりかねないという問題点がある。

 

別の例を挙げよう。たとえばゲイ当事者によるゲイパレードがあるとしよう。その中で、「ゲイの中でもこういう人は参加してもいいけど、別の人は参加しちゃダメだよ」みたいな限定があると問題になるだろう。極端な話かもしれないがそれと同じだ。
(もちろん、この例においても、ゲイの中で自分がゲイだとカムアウト(カミングアウト)してない人がゲイパレードに参加できるかどうかは怪しいし、そのパレードに参加できなくなるような地理的、時間的、経済的制約を受けていないことも条件になる。)

 

話を戻す。だから、「メンヘラ展」は表現できない、表現したくでもできないような「恵まれないメンヘラ」や、お金や時間の問題で通院できないなどの「メンヘラを続けることすらできない人」に対する留意が必要だろうということだ。「メンヘラ展」の出展者には、メンヘラの中でも表現活動ができるという、ある意味では「恵まれた」メンヘラであるという、一種のノブレスオブリージュ・責任が発生しうるだろう。

ただ、具体的にその責任からどういう行動を取らなきゃいけないかっていうのは難しい。こういった問題に自覚的であるべきなのではないかということや、あたかも自分が全てのメンヘラを代表しているというような態度を取るべきでないということ、などだろうか。
実際問題としては、全てのメンヘラに配慮することは、たとえしたくてもできないだろうなあ、とは思う。
まあ、たとえば「恵まれないメンヘラ」当事者から嫉妬や羨望から生じる誹謗中傷を受けたとして、こういった問題に自覚的であるか自覚的でないかで、対応の仕方は変わってくるんじゃないかなあとか思う。

個人的な戯言としては、「メンヘラ展」がより多くのメンヘラを包括できるようなシステムを構築してくれると嬉しいなあとか思う。たとえば、メンヘラ個人によるアートだけじゃなくて、メンヘラ集団によるアートをやってみるとか。(集団リスカや集団ODはアートとは言えんだろうけど、その方向性じゃないだろうか。)いや、いろいろ問題だし、難しいだろうけど。

なんかいろいろ言ったけど、別にそれほど問題でもなかったかな……「メンヘラ」を「社会的弱者」であるとして、差別の文脈で捉えてみたらこういう問題点がもしかしたらあるかもね、という程度のごく弱い主張でした。

 

⑥メンヘラと、アートというコミュニケーションツール

脱線しまくったけど、メンヘラ展のコンセプト文の話に戻ります。

"アートは社会との、鑑賞者との、作品との、自分との、コミュニケーションツールの一つです。 自分のメンタリティを全て曝け出さなければ、表現になりません。 そこに初めてメンヘラがアートをするということに意味が生まれるのではないでしょうか。

メンヘラである私達にしか出来ないことがあるのではないかという可能性を見出し、 この展示グループが発足しました。

アートを通して、メンヘラが世界と繋がる。ネットとリアルが繋がる。メンヘラのリアルを伝える。 メンヘラと意識を共有する。そんな展示にしたいと思っています。"

ネットとリアルの話は②でしたからいいとして、「アートというコミュニケーションツール」によってメンヘラのメンタリティを表現し、伝えることが重要なようだ。それも、健常者に対してメンヘラのリアルを伝えるという側面と、メンヘラ同士がメンヘラとしての意識を共有するという両方の側面があるようだ。
④で「メンヘラ展」は「メンヘラに関する展示」ではなく、「メンヘラがやる展示」であるという、当事者性を重視したものであるということを言ったんだけど、この⑥を見ると、「メンヘラに関する展示」であるという側面もあるんだなあと思った。
だから、出展者は必ずしもメンヘラ当事者でなくてもいいんじゃないの? という疑問は生じる。
もちろん、出展者が当事者だけであるということから、「メンヘラじゃないクセにメンヘラ展で出展するのは欺瞞だ」みたいな非難は避けられるというメリットや、④で述べた「内発的なものをアートに昇華する」という側面を強調できるというメリットはあるんだろうけど。


以上が、メンヘラ展1のコンセプトについて。
行ってないから実際コンセプトがどう実現されてたのかとかはよく知らんけど。

無駄に長く書いた気がするけど、これを先に書いておくことによって後の議論に繋がる部分もあるので、もうちょっと付き合ってください。

 

次に、メンヘラ展2のコンセプト文について。

メンヘラ展2のコンセプト文↓
https://61749a6c3fa896154961fda45f8420a09ea03e3b.googledrive.com/host/0B5xrKP8tWBoMaDFuRU94QkhyMU0/menu/concept_2nd.html

なんかめっちゃ文学的になってる。メンヘラ展1の方はすごくエクスキューズ感あったけど、2では変に限定するのはやめたんだろうなという感じ。
一応、文学的な文章を自分なりに翻訳して考えてみると、アートや芸術という表現が「呼吸」や「はけ口」であるという旨の内容が見える。
これは多少アートセラピー寄りなんじゃないかと思った。アートセラピーには鬱屈したものを吐き出す側面はあると思うので。

また、芸術の、言語を超えた普遍性みたいな話もしている。「メンヘラ」には「他者との分かり合えなさ」みたいなところが付きまとうので、確かに言語を超えた普遍性によって繋がることは重要なんじゃないかと思うのは同意できるところだ。


ということで、メンヘラ展1と2は結構コンセプト的には異なるんだろうなあと思った。
現実的にはたぶん、メンヘラ展1でいろいろ書いたら、いろいろツッコまれて面倒くさかったんだと思うけど。
だからと言って⑤で述べた「メンヘラ展」という名前を背負うことの意味合いや責任から逃れられるわけではないと思うので、その辺にも注意しながら実際メンヘラ展2がどうだったのかということについての感想を述べていく。(ここまで長かったなオイ)

 

メンヘラ展2の中身(雑感)

先に個人的な雑感述べます。
とりあえず、出展者がいっぱいいて、それぞれが個性溢れる感じだったなあという感想。
個人的に好きだったのはウソブキドリさんの作品。すごく細かい描き込みでありながら、単純な模様とか無意味な模様とかじゃなくて、意味が読み取れる(と少なくとも僕は感じた)作品ばかりだったから好きだった。
個人的にインパクトを感じたのは川久富美さんの作品。いやまあ単純にインパクトあったよね。スケッチブックに描かれていた絵と文章もすごいなあと。(小学生並の感想)

個々の作品を云々するよりも、僕としてはメンヘラ展2が全体としてどういう構造になっていたかみたいなところを考えたい。でも、なおも雑感です。
作品は主に壁に貼られていて、たまに机にあったりとかして、割と無造作に並べられていた。だからどういう順番で見てもよかったし、飛ばしたりしてもいいんだろうけど、とりあえず右から順番に見ていった。
作者とコミュニケーションできるようなメモ帳もけっこう置いてあって、まあ感想的なところは気になるよねと思うんだけど、コンセプトとしてメンヘラと承認欲求は切り離せないから、やっぱそういうのあった方が「っぽい」よね。
配置は無造作だと言ったけど、あおいうにさんが「今回はインスタレーションが多い」みたいなことを確か言ってて、個々の作品がインスタレーションになってるのも確かにあった。
しかし、僕としては無造作な並びの中に、複数の作品が奇妙にコラボレートしてインスタレーションになっているかのような感覚が多少あったことが良かった。錯覚かもしれんけど。
ということで、いっぱい出展者がいるんだったら、正シナジーのありそうな並びにすることって重要なのかもとか。例えば、セルフポートレートのろまんさんが最後から二番目にあって、中盤ぐらいに川久さんの写真があって、自撮りのFluynさんが最初にあったのは、良いバランスなのかなあと。

はい、雑感終わり。
そろそろそれっぽいこと言うか。

メンヘラ展の中身(個々のメンヘラ性と作品の個性が対応)

「メンヘラって一口に言ってもいろんなメンヘラがいるよね」というのが結論だと最初に述べたけどその話をしよう。
要するに「メンヘラの芸術」って言っても、そのメンヘラの内容ごとに作品の種類も分類できるよね、という話。例を挙げながら説明していく。

①そもそもの話なんだけど、メンヘラ展1のコンセプトの話の④で、「内発的なものをアートに昇華する」という要素が満たせているかどうかというところが気になっていた。
ほとんどの人はそうだと思ったんだけど、一部、「自ら敢えて奇を衒った、メンヘラ的なもの」を作ろうとして作った人がいたように感じた。誰がそう、という話ではなくて、多分そういうものを部分的に感じた。
だから内発的なものをアートに昇華してるんじゃなくて、「外部的なメンヘラなるもの」を志向して取り入れてるというタイプの人もいるなあと感じた。でも、これって「メンヘラ」における重要な本質だと思うし、こういう要素が入っているのは全然良いことだと思う。さすがに、狂人しかいないみたいな状態だと「メンヘラ展」という名前はちょっと弱いようにも思うので。
要するに「ファッションメンヘラ」みたいな人の要素があった方が少し安心するし、「メンヘラ展」という名に恥じないと思った、ということ。

 

②それに近いんだけど、「メタメンヘラ」みたいな要素もあった。はなびさんの作品で、耳が聞こえない人の映像作品があった。何かしらの障害を抱えた当事者についての映像を出すというのは、内発的なものをアートに昇華しているのではなくて、外部的な障害当事者をメタ的に見て作品化しているのだなあという感じ。
でも、これをやるんだったら、はなびさんのようなメンヘラ当事者がやる必要はないのではと思った。
個人的には、「メンヘラに興味がある人」とか「メンヘラ好きな人」とかがメンヘラ展に参加して、メンヘラをメタ的に見た作品を出す、みたいな試みをしてもいいんじゃないかと今後は期待してる。

ついでにはなびさんの作品について言うと、「Trip」の方が「内発的」だなと感じたし、内容も好きだった。何かしらメンヘラに対して心揺さぶるものがあると思うし。あのメンヘラ展の中で「映像作品」、それも20分以上もあるものを流すのはちょっと大変というか、立ち止まってちゃんと鑑賞するのは難しいと思うので、時間をある程度絞った作品に特化するなり、何かしらの工夫が必要なのでは、と思う。

 

ここから下は「内発的なものをアートに昇華」した場合のメンヘラ芸術の話。

③全体として「四肢欠損」のモチーフを使っている人が多かったんだけど、これは「境界性パーソナリティ障害」的だと思う。
境界性パーソナリティ障害」はクライン対象関係論的に言えば、妄想・分裂ポジションから抑うつポジションへの移行がうまくいかなかったまま成長してしまった人の障害だという説がある。説明すると、基本的には生まれて初めての他者である母親を、最初は「母親」という全体像として認識できなくて、たとえば「おっぱい」っていう部分対象としてまずは捉えてしまう。でも長く愛情を注がれているうちに、自分にミルクをくれるのはおっぱいじゃなくて、母親という全体対象なんだということに気づき始めるみたいなプロセスがある。
バラバラの身体像は、そのプロセスがうまくいかずに、他者、ひいては自分を全体対象として捉えられない人間の、内発的な感情だと思う。
境界性パーソナリティ障害」の特徴は他にもいろいろあるんだけど、たとえば自己の身体と外界の境界が曖昧だということも挙げられる(だからリスカをして自己の身体を確かめるのだ、と説明できる)。
四肢欠損に限らずそういうバラバラのまとまらない身体、身体像の曖昧さとかをアートにしている人は、「境界性パーソナリティ障害」的だなあと感じた。

また、それを表現する際に、絵画はかなり適していると感じた。僕は絵画に関しては素人だけど、どうやら、絵画を描くときって、人間の全体像のゲシュタルトもあるんだけど、「腕」を描くんだったら、腕という対象を部分的に描くことになるようだ。
幸温望さんの作品に、ボトルから手足が生えた絵があったんだけど、腕だったら腕、脚だったら脚のデッサン?がちゃんと考えられてる人の作品なんだろうなあと思った。
また、あおいうにさんの作品を見ていると、線が明確でない、淡くて抽象的な描き方が多かった。絵が上手い人って、具体的に写実的に身体を描くこともできるし、抽象的に象徴的に身体を描くこともできるんだろうけど、たぶんあおいうにさんは後者。この線のはっきりしない抽象的な描き方は「境界性パーソナリティ障害」的な内発感情を表現する際に、とても適しているんだろうなあと思った。
(念のために言っておくと、幸温望さんやあおいうにさんが境界性パーソナリティ障害だと言っているのではない)

 

④暗い色合いの作品は、うつ病的だと思う。ちょっと僕もあんま覚えてないので、例を挙げられないけど、とりあえずそういうのあったと思う。

 

アウトサイダー・アートの中には、すごい細かくて正確な描き込みがあったりするんだけど、細かくて正確な描き込みをしているなと感じたのはウソブキドリさんとかFluynさんとか。細かすぎる書き込みってどういうメンヘラ性と対応してるのかはちょっと分からんけど、神経症っぽい感じ?

 

⑥全体的に(日本語の)文字が多いなと感じたので、メンヘラ展2のコンセプトにある、「言語を超えた普遍性」みたいな話を出展者は言うほど意識してないのではと感じた。別にいいけど。さりいさんの書道は、単に日本語として見るんじゃなくて、なんかもっとすごいものだと思うし。(極端な話、外国人が見ても何かしら感じるところあると思う)

 

⑦ちょっとどんどんいい加減になってきたけど、まあいいや最後まで書く。
性同一性障害っぽい人も何人かいたのかな。多分、そういう人の描く作品は、性に対して独特の価値観があって、それも内発的だよね。

挙げだすと他にもいろいろあると思うんだけどまあいいや。

 

何が言いたいかっていうと、「メンヘラ」って言ってもいろんなメンヘラがいる。境界性パーソナリティ障害の人もいれば、うつだったり躁うつだったりの人もいるだろうし、強迫性障害の人もいれば、解離してたりパニック障害だったり、性同一性障害だったり、ひょっとすると統合失調症だったり、薬飲みまくってたり、性的倒錯を持ってたり、自己愛が強かったり、実は疾患ってレベルじゃないけどメンヘラワナビでメンヘラ的な振る舞いをしてみたりとかいろいろあると思う。
で、その個々のメンヘラ性に対応した様々な作品が実際にメンヘラ展にはあった。全てのメンヘラを包括しているかって言ったらそうじゃないと思うけど、鑑賞に堪える多様性があった。ここはすごく評価したい。
「メンヘラ」という括りによって、どこまでをメンヘラとし、どこに境界線を置くかというのは非常に難しいと思うが、このように偏りすぎず、様々な方向性を持ってこれたのはすごいことだと思う。

また、質的に異なるメンヘラが共存していることの重要性もさることながら、言わば程度的にも異なると思った。重度のメンヘラがいれば、軽度のメンヘラもいる。たぶんそこに貴賎はなくて、それらが共存していることが重要なんだと思う。鑑賞する側からしても、重度すぎれば「ドン引き」したり「疎外感」を覚えたりするだろうし、軽度すぎれば「メンヘラと言ってもこの程度か」となるだろう。程度的に異なるメンヘラが共存していることで、そうはならないで済む。それは鑑賞者について考えた上でも重要なことだと思う。

つまり、「メンヘラ」という言葉に内在している多様性を、そのまま多様に表現すること。これは「メンヘラ展」が続くのであれば、ずっと続けていってほしいことだと思う。メンヘラ展の出展者を集める際には現在のように、多様性を意識してほしいと思う。この点、とても評価してる。


メンヘラに安住するかどうかの問題

最後にこの話を。
メンヘラ展1のコンセプトに、「メンヘラに安住するわけではない」とあったけど、2ではコンセプト文からはその要素は感じられなかった。ただ、出展者のtwitterとか見てると、あるいはFluynさんのプロフィールなどを見てると、「安住するわけではない」とはっきり言ってる人もチラホラいた。

実際のところ、メンヘラじゃなくなることによって、「作品の質が落ちる」というのはありうる話だ(ムンクが病気のときは『叫び』とか描いていたけど、治療してからは明るい絵になって、評判が落ちたのは有名な例だ)。
だからと言って、メンヘラであり続けて治療を拒否すれば、社会で生きることは難しい。また、「自分のメンヘラ性の方がすごい」、「いやこの人のメンヘラの方がもっと重度だ」などといったメンヘラ競争みたいなことが起きれば、不要なエスカレートで、より不幸になってしまうかもしれない。ここにはジレンマがある。

だから、「メンヘラに安住すること/しないこと」のどちらが正しいとは言えるわけがないと僕は思ってる。メンヘラ展の個々の作品を見たところ、メンヘラからの脱却を志向している(もっと言えばアートセラピー的な志向を持った)人も、自分のメンヘラ性をむしろ肯定している人も両方いたように僕は感じたし、実際そうだと思う。
メンヘラであるがゆえにメンヘラ展に参加できる、そういうある種のシャーマンのような役割を担う人間はいてもいいと思うし、「メンヘラであることがかえって生きやすい」人だっているはずだと僕は思ってる。

相対主義的でつまらない結論だが、メンヘラであることは簡単に肯定も否定もできないし、「メンヘラ展」の存在意義を簡単に肯定も否定もできない。
ただ、僕個人としては、メンヘラというものの一端を社会に示している、それによりメンヘラに関する建設的な議論を生みうるという点で、素晴らしい活動だと思う。(客観的には芸術的価値もあるだろうね)