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僕の好きな「人間くささ」について

僕は人間が好きです。人間が好きな反面、そっちに興味のリソースが割かれすぎているのか、人間と直接関わってこないものには食指が動かないことが多いです。

それこそツイッターの詳細プロフィールにも書いたのですが、人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)に対して興味が湧きません。ついでに言えば、食べ物とか音楽とか嗜好品(酒・タバコ・コーヒー)もどうも興味がないです(それらはけっこう人間と直接関わってくる気もするけど)。

 

そして、僕が「人間が好き」と言う時、「人間くさい」のが好きだと言うこともあります。

例えば、女性少数男性多数のサークルクラッシュを想定して、僕は

「サークルクラッシュの何が面白いって、女性なんて星の数ほどいるのに、わざわざ狭いコミュニティの1人に対して恋愛をしてしまう、その”視野の狭さ”なんですよね。自分の接する女性が母親とその1人の女性ぐらいしかいないから、その女性が”女神”みたいになってしまうわけですよ。しかもそれを同時に複数の男がやる。その女性も大して魅力的でもないのに、チヤホヤされて調子に乗る、みたいな。この集団の異様さ、醜さって、すごく人間くさいからサークルクラッシュが好きなんですよね」

といった具合のことを言います。

でも「人間くさい」ってなんなんでしょうね? 僕自身、「人間くさい」という言葉を使いながら、その言葉が指す意味内容をなかなか具体的には言語化できません。かなり感覚的なものです。

 

しかし、その感覚はこうなんじゃないか、という言語化のヒントを最近得たので書いていきます。

 

人狼における判断

それはある日、人狼というゲームをやっていたときのことです。人狼というゲームは簡単に言えば、ウソをついている人狼を探し、処刑するゲームで処刑されなければ人狼の勝ち、処刑できれば人間側の勝ちというもので、僕は人間側でした。

最終日、僕は人間側で、残り2人のどちらかが狼という状況でした。僕は戦略的に「Aさんが怪しい」ということを主張し続けていました。しかし、実際のところ僕は本当に怪しいと思っていたかは微妙で、「Aさんが怪しい」という主張に対して他の人の反応を見ていました。しかし、それらの反応を見ても決定的な判断材料は得られませんでした。

最終的にAさんではなくBさんを処刑先に選んだところ、Bさんは人間側で、人間側は敗北しました。

人狼においては、それまで考えていたことが最終日になって突然翻ることがままあります(「最終日の魔力」などとも言う)。ヘタをすれば、人狼側がそれまでの主張とは違う(あるいは論理的に矛盾した)ことを言っていても、人間側はそれに気づかないことがあります。

 

それほどまでに人間の判断は脆弱です。僕は人狼というゲームは大好きなのですが、人狼がウソをつくゲームであり、人を騙すゲームであり、会話によって成り立つゲームである、すなわち人間同士のコミュニケーションを重視したゲームであるということは僕が人狼を好きな理由の1つのはずです。

しかし、どうやら僕はそれと同等に、人間の判断の脆弱さが好きなのかもしれません。これを僕は「人間くささ」と言っているような気がします。

別の例を挙げましょう。

 

未来日記』のユッキーのクズさ

僕は2011・2012年にやっていたアニメ『未来日記』(元は漫画)が大好きでした。話自体が好きとか、声優が好きとかそういう側面もあるでしょうが、何より惹かれたのはキャラクターでした。

特に、主人公の天野雪輝ことユッキーと、そのユッキーに異常な好意を示す(いわゆるヤンデレの)由乃が好きでした。

未来日記はいわゆる「デスゲーム」系の作品で、個々のキャラクターが自身の特殊能力を以て、生き残りを賭けて戦います。そんな中では裏切りの場面や、自己保身のために人を見捨てる場面もけっこうあります。主人公のユッキーはその代表格で、視聴者のコメントでは「クズ」扱いされまくってました。

仲間を守るかのようなまともな決心をしたかと思えば、すぐに切り捨てるクズっぷりは見てて爽快です。しかし、かといって完全にクズというわけでもなく、その判断に罪悪感も見てとれます。そして、最後には主人公らしい決断を見せてくれて、まるっきりクズでもなかった、「カッコイイ!」ってなりました。

また、由乃に関しても、ネタバレになるので言えませんが、一筋縄ではない感じで視聴者を裏切ってくれます。

 

そこに僕はやはり「人間くささ」を感じているようです。これはつまり、「一貫性のなさ」に対して魅力を感じています。簡単に揺らいでしまう決心。それこそが人間くささなのだと。

あるいは、クズだと思っていたら決めるところは決めるというところ。プラスからマイナスへの変化は一般的にはネガティヴな感じですが、マイナスからプラスへの変化はいわゆる「ギャップ」に対する魅力とも近いでしょう。あるいはそこに僕は「成長」を見いだしているのかもしれません。これは「一貫性のなさ」と区別がつけにくいので難しいところです。

 

もっと一般化して言えば

人間の判断の脆弱さ、あるいは一貫性のなさ。そのあたりを鍵に僕のこれまで好んできたものを想起してみました。

必ずしも関係があるかは微妙なのですが、僕はキャラクターが成長する作品が好きです。新しい能力を身に付けるバトル漫画やスポーツ漫画、また弱いながらに工夫して強敵を倒すのなんかは昔から大好きです(バトル漫画ではドラゴンボールの「ヤムチャ」とダイの大冒険の「ポップ」の対比が語られることがありますが、両方とも好きなキャラです)。

サークルクラッシュの場合もそうでしょう。硬派なオタクだったはずの人間が、目の前に恋愛の機会が訪れただけでフラッとそっちにいってしまう。そこに悲劇と同時に喜劇を感じているわけです。

そこにあるのは、人間が状況に左右されやすいということ、その「変化」だと一つには思います。

あるいは、これとは違う考え方なのですが、人間が「クズであると同時にクズでない」というような「複雑さ」(複数の異なるものが同居しているという意味でcomplexityと言うべきものでしょう)に対して人間くささを感じているのだとも思います。

 

そんなわけで、僕は一貫性なんてものはあんまり好きじゃありません。むしろ、状況次第で簡単に手の平を返してしまうそんなところに「人間くささ」を感じるし、人間のそういうところが好き/そういうところを持った人間が好き なのだと思います。

 

もっと社会に沿った価値観で付言しておけば、一貫性は「意固地」ということでもあると思います。僕は他人の話を聞かない人間は好きじゃありません。変化しうるということは他人の話をちゃんと聞いて、柔軟に対応できる(それを受け入れるか受け入れないかを判断し、選択できる)ということだと思います。そういう意味でも、僕は一貫性のない人間;人間くさい人間が好きです。