【要約】
①ネットスラングで「メンヘラ」って言葉あるけど、②最近カジュアルに使われすぎで、③いろんな意味合いで使われてるし、④商品とか出てきて消費の対象にもなってるし、⑤着たり脱いだりできるファッションみたいに扱われてるし、⑥オワコンになりそうだよね でも、「メンヘラ」って本来「精神疾患」のことだし、着たり脱いだりできるもんじゃないよね。その人の「今ここ」の重大な問題として現れてくるよね。だから、オワコンにしちゃいけないよね。「メンヘラ」って言葉を使ってもっと何かできるんじゃない?
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「メンヘラ」という言葉が使われて久しいが、昨今、「メンヘラ」という大きな物語(?)が危機となる象徴的な事件が少しあったように思う。
一つは江崎びす子の作品『メンヘラチャン』とのコラボレーション商品「リスカバングル」だ。
このリスカバングルに対しては大きく4つの批判がありうる。以下に挙げる。
リスカバングルに対する批判4分類
①やむを得ずリストカットをしてしまっている人をバカにしているという点でリストカット当事者に失礼である
②リスカバングルのせいで「メンヘラ」がファッションになってしまう
③リスカバングルというファッションで済ませるのはヌルくて恥ずかしい(リスカバングルをつけるぐらいなら実際にリストカットをしろ)
④単純に気持ち悪い
①はいわゆる「不謹慎」で、「メンヘラのような弱者を差別するのは不謹慎だ」という話だろう。
②③は主にメンヘラ当事者から出てくる批判だ。
②では、自分が「メンヘラ」であるにもかかわらず、メンヘラがファッション化してしまうと困るだろう。それは、自分が実際に苦しんでいるにもかかわらず、ファッションのごとく扱われてしまうからだ。
③はいわゆる「誰が一番真のメンヘラか」競争だ(これの問題点は
「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG
で述べた)。
④は説明不要だろうが、一つ補足しておくと、先ほどのtogetterには書いてあるのだが、リスカバングルをデザインした人の意向で傷が生々しいものになったそうだ。メンヘラチャンのポップなデザインと生々しい傷のデザインはどうもミスマッチに感じられる。
さて、togetterにもあったが、③のような反応をする人を問題視する人もいる。要するに「リストカットしていることを誇ってしまっている」、「リストカットをしてしまっていることを悪いことだと思っていない(リストカットを止めようとは思っていない)」といった反批判がありうるということだ。
しかし、今回はそれは本筋ではないのでおいといて、僕が今回問題にしたいのはむしろ②メンヘラのファッション化である。
メンヘラのファッション化
そもそもリスカバングルの前から江崎びす子の『メンヘラチャン』にはそういうものを感じていた。『メンヘラチャン』はリストカットによって魔法少女に変身するという設定で、明らかに精神疾患などの重大な問題には立ち入っていないし、おそらく深く考えてもいない。
江崎びす子先生の「メンヘラチャン」は"メンヘラ"という言葉が原義である精神疾患の意味を離れていった(カジュアル化、ファッション化、ネットスラング化、シミュラークル化などした)先にある一つの極北という感じする。
— ホリィ・セン (@holysen) 2015年4月1日
ここではカジュアル化、ファッション化、ネットスラング化、シミュラークル化と書いているが、これにバズワード化も加える。それぞれに意味が異なるので、一つずつ書いていく。
まず、ネットスラング化は初期の段階だろう。メンタルヘルスer(精神疾患を持った人)がメンヘラ(ー)と略されることによって定着した。
そして、これにカジュアル化が追随する。「精神疾患」と言うと重い感じがするが、「メンヘラ」と言うとなんとなく軽いものに感じる。
気軽に使われるという意味で、いろんな状態に対して「メンヘラ」という言葉が使われるようになっていく、すなわちバズワード化していく。
また、高度情報化資本主義社会において、メンヘラのオリジナル(つまりは精神疾患)は意味を失い、n次創作としてのコピーがどんどん氾濫し、消費されていくようになる(シミュラークル化)。
更にまた、ファッション化する。メンヘラが消費の対象である「流行」になると同時に、ファッションとは「着脱可能」であることを含意している。ここが今回の記事で重要な論点である。
着脱可能な流行としてのメンヘラ / 着脱不可能な実存としてのメンヘラ
「メンヘラ」は本来は精神疾患の意味なので、簡単に着けたり外したりできるものではなかった、ある個人に特有の性質だったはずである。しかし、「メンヘラ」という言葉が「今日はメンヘラだ」などといった用法のように一時的な状態を指すものとして扱われる昨今、メンヘラは「着脱可能」なものとして扱われることも増えてきている。「ファッションメンヘラ」という言葉がまさにそれだ。
しかし一方で、「自分からメンヘラになろうとする人はそもそもメンヘラだ」という話もある。実際に、メンヘラになろうとするための行為が、精神に悪影響を与え、実際に(精神疾患という意味での)メンヘラになってしまうことはありうる話である。
すなわち、メンヘラは一方では着脱可能なファッションになってきているが、本来は特定の個人にそなわった、着脱不可能なものである。違う言い方をすれば、メンヘラは本来、身体に埋め込まれた、強く実存に関わる問題/物語である。
にもかかわらず、ファッション化している。そこでは、「メンヘラ」という言葉が持っているはずの固有の価値は失われ、ただただいい加減に消費の対象としてコピーが氾濫していく。そして、ファッション(流行)という言葉には「一時的」という含意がある。すなわち、最後にはオワコン化が待っている(注:オワコンとは「終わったコンテンツ」のこと)。
もちろん、「メンヘラ」という言葉を使うことの弊害もいくらでもある(これも
「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG
で述べた)
しかし、「メンヘラ」が強く実存に関わる問題なだけに、このまま一時的流行の言葉として廃れていってしまうのは実に惜しいと個人的には思っている。
そこには、「メンヘラ」という言葉の一般化によって医療へのアクセスがしやすくなること、「メンヘラ」という言葉に価値を付与するエンパワメント、「メンヘラ」という言葉で人同士が繋がる連帯の可能性(最近では「メンヘラ展」が顕著な例だ)、そして医学的病名としての精神疾患では捉えきれない「あいまいな生きづらさ」を可視化できる力など、プラスの側面があるように思われる。