メンヘラじゃない人が「メンヘラ」を語るのはなぜか

【要約】

・見るなちゃんと会った印象:主体的で落ち着いた人

・「メンヘラ」を語るのはメンヘラ以外の人であり、メンヘラ当事者には本質的に「メンヘラ」を語ることができないのではないか

・メンヘラの定義を追う

①語源:精神疾患精神疾患じゃないけどメンヘラと呼ばれる人は?

②ホリィ・セン:感情の波と承認欲求

③べとりん氏:精神医学の観点からアプローチ(境界性パーソナリティ障害→パーソナリティ障害→アダルトチルドレン→メンヘラ)

④日常語として、イメージ重視の定義はできないか?

・メンヘラ=女性性の過剰 と再定義

・メンヘラ自分語りの可能性

・メンヘラはジェンダー論の補助線となるか?

 

この記事は一応

「メンヘラ」がファッション化してしまっている問題について - 落ち着けMONOLOG

の続きです。見るなちゃん(@mi_te_yo)に会ったので、その話から。

 

見るなちゃんの印象について

見るなちゃんは第一印象、育ちの良さそうな可憐な方だった。そして、喫茶店に入って話してみたのだった。

一貫して感じたのは、自分の中で方針を持っていて、主体的に物事を選択している人なのだなということ。それは、これが良くてこれが悪いということを根拠を以ってはっきりと語れるところから感じたのだが、店に入るときや注文の所作などにもそういうところは現れていた(店を選んだのも見るなちゃんだった)。そこには迷いがないのだ。

普段の見るなちゃんの文章を見るに、これまで自分で考えて自分の言葉を紡いできたがゆえの、迷いのなさなのだろうなと。これまでしっかりと地に足つけて迷ってきたからこそ、今はっきりと選択できるのだろうな、そんな足跡が見える人だった。

 

僕は僕自身の話ばかりしてしまって(多分僕が6割ぐらい話していて、見るなちゃんが4割ぐらい話していた)、見るなちゃんの話をあまり引き出せなかったのが残念だったが、僕の話への反応なども見るに、落ち着いていて、俯瞰的な視点を持っている方なのだなと感じた。


ちなみに僕が話したのは、サークルクラッシュ同好会やその他の趣味コミュニティを作ることの意義や、サークルクラッシュ現象の社会的な応用の仕方みたいな話。詳しくはサークルクラッシュ同好会会誌第二号とかに書いてる。

 

メンヘラを語る人間はメンヘラではないということ

見るなちゃんと話していて印象的だったのは、見るなちゃんが、見るなちゃん自身のことを「メンヘラではない」と言っていることだった。見るなちゃんはTwitterのフォロワーが1万人以上いる人で、その中にはきっと軽度重度問わずメンヘラの人がそれなりの数いるんだろうけども、その見るなちゃんが自身をメンヘラではないと言っているのは少し意外なことだ。


というのも、見るなちゃんは「メンヘラ」について幾度となく語っている人であり、前の記事に貼ったリスカバングル事件でも意見を述べている。例えば↓

 

その他、見るなちゃんは「ゆめかわいい」や「病みかわいい」といった文化と「メンヘラ」文化の関連性についてもおそらく独自研究をされていて、明らかに「メンヘラ」については一家言ある人だ。にもかかわらず、メンヘラではないという。

実際、僕自身、一度話した印象でしかないのだけど、見るなちゃんはメンヘラではないと感じた。それは落ち着いている見るなちゃんに対して、メンヘラにありがちな衝動性を感じなかったからだ。


見るなちゃんがメンヘラでないとすれば、そこには「メンヘラ当事者ではない人間がメンヘラを語る」という現象が生じていることになる。そして、かくいうこの僕、ホリィ・センもメンヘラではないという自認があるのだが(例えば、精神科、心療内科の類には行ったことないなど)、そうであるならばやっぱり、メンヘラ当事者じゃないけどメンヘラについて語っていることになる。


サンプル数2でしかないから偏っているのだけれども、ここには構造があるのではないか、と思った。どんな構造か。それは、「メンヘラ」を語るのはメンヘラ以外の人間であり、メンヘラ当事者は本質的に「メンヘラ」を語ることができないという構造だ。


ここが今回の本題である。実際にはメンヘラ当事者であっても「メンヘラ」について語る人はもちろんいる。しかし、そういういるいないの話ではなくてもっと構造的なことについてお話しよう。


そのためにはまず、「メンヘラ」とは何なのか、その定義から入るのが一つの方法だろう。「メンヘラ」の一般的な定義や僕の用いてきた定義を辿りつつ、メンヘラ当事者が本質的にはメンヘラについて語ることのできないという構造を明らかにするような再定義を模索したい。


メンヘラの定義について

バズワードを定義することの意義

「メンヘラ」という言葉がバズワード(明確な定義のない、意味の曖昧な言葉)であることは再三述べてきた。定義が明確である方が誤解が生じにくいので、誤解の生じる可能性のあるバズワードなんて使うべきじゃないという人はいるだろうけども、一方でバズワードには良いこともいくつかある。

それは、①その言葉によってイメージしやすくなる対象があり、認識が豊かになる、②そのバズワードをシンボルにして、そのバズワードに含まれる人間をエンパワメントできる(例えば、「メンヘラ」という言葉を目印に人が集まったり、その言葉のカテゴリーによって自己のアイデンティティを確認したり)、といったことだ。逆に悪いこともある。①誤解を招いたり、②差別用語して使われたり、といったことだ。
このあたりの話は

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた。

いずれにせよ、バズワードの定義を一元化することに意味はない。そうではなくて、バズワードを使うことによって認識が豊かになるなどのメリットがあるのだから、その使用目的に応じて操作的に定義するのが良いだろう。

 

語源

まず、語源的なところでいけば、メンヘラとは「メンタルヘルスer」のことであり、「なんらかの精神疾患を抱える人」ということになる。しかし、実際には精神疾患だと診断されていない人、例えば「構ってちゃん」のような存在が「メンヘラ」だと呼ばれることもよくある。精神疾患ではないけどもメンヘラであるだろうという人を指して「ファッションメンヘラ」などという言葉もある(先の記事で述べた)。このあたりは「メンヘラ」という言葉を語源通りに解釈しても零れ落ちてしまうところだ。

このように、語源のとおりに愚直に使うよりも、操作的に定義して使う方が有効である場合があることは理解してもらえただろう。

 

ホリィ・センの定義

僕はかつて「メンヘラリティ・スカイ」という同人誌に寄稿した際に、「メンヘラ」という言葉を次の二つの要素に大きく集約されるのではないかと書いた。

「精神的に不安定であること」(感情の波)
「継続的で独占的な他者承認」(承認欲求)

これは、より代表的な意味合いを抽出して、ゆるやかに定義するのが「一番イメージしやすい」と思って作ったものだ。「感情の波」、「承認欲求」と二言で言えれば、はしょって説明するのも容易だし。

 

べとりん氏の定義

べとりん氏(@piyoketa)は実は「メンヘラの定義に関する考察」という2万字程度の論考を書いていて、ネットなどでは公開されていないのが残念だが、僕とは違って精神医学の側からアプローチしてメンヘラの定義を考察している。

まず、べとりん氏はネット等の記述から「メンヘラ」像の共通点を七つ抽出している。この抽出がそもそも上手いので引用しよう。

1.自傷癖がある
リストカット、首を絞めるなど
2.高い衝動性
突然思いもよらない行動を取る。いきなり誰かを刺す、自殺しようとする、など
3.現実認識が周りとズレている
被害妄想が激しい、なにかにつけ自分が原因だと感じる、など
4.恋人や親しい相手を束縛したがる
見捨てられることへの不安が強い。やたらとメールを送ってくる、など
5.やたらと精神的に辛いことをアピールしてくる
今吐いちゃった、もう死のうかな、といった発言をするなど
6.承認欲求が強い
構ってもらいたがる。ネット上で自分の気持ちや情報を発信するのを好むなど
7.感情の波が激しい
さっきまで機嫌がよいと思っていたら、突然不機嫌になるなど

そして、べとりん氏はこのような特徴を持った女性を便宜上「メンヘラ女ステレオタイプ」と定義している。これはこれで「イメージしやすさ」という意味では優秀な定義だ。しかし、べとりん氏の目的はそこにあるわけではない。

べとりん氏はあくまでメンヘラの定義を掘り下げるのが目的であり、その中で精神医学の観点からメンヘラを位置づけることを試みている。そして、詳しくは省略するが、べとりん氏は「境界性パーソナリティ障害」、「パーソナリティ障害」、「アダルトチルドレン」の三つの概念を検討し、メンヘラ概念の中心を「自我の形成不全」に置いた。

そしてべとりん氏は次のように図示した。

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べとりん氏の「メンヘラの定義に関する考察」より

この図の通り、「メンヘラ」としての深度が深いのは「境界性パーソナリティ障害」だが、メンヘラの定義に一番近いのは「アダルトチルドレン」だという。「メンヘラ」という集合と「アダルトチルドレン」という集合の一致度が高いということだろう。

そして、「アダルトチルドレン」は正式な精神医学用語ではない。だから、論者によっても「どこまでをアダルトチルドレンとするか」に幅がある。つまり、「アダルトチルドレン」はバズワードであり、より「メンヘラ」に近いというのも頷ける。

しかし、「アダルトチルドレン」概念は「メンヘラ」よりも遥かに精神医学的な文脈で用いられており、もはや精神医学的な文脈では用いられない「メンヘラ」に精神医学の方向から接近するという試みは一定の成功をしていると僕は考えている。つまり、「境界性パーソナリティ障害」という精神医学用語から入って、パーソナリティ障害→アダルトチルドレン→メンヘラという順番で接近していったということだろう。そしてその中心には「自我の形成不全」があるということだ。

そして、べとりん氏は最終的にメンヘラを「幼少期または青年期の間に本来満たされていなければならない欲求(もしくは経験)が、満たされないまま成長し、今現在もそれを求め続けているけれど、手に入らないまま生きていて、思考や言動から柔軟性を失っている人々」と定義した。

 

定義の目的

べとりん氏は精神医学の方向からアプローチしており、「自我の形成不全」という中心はなるほど、分かりやすいし、べとりん氏のメンヘラ定義はある程度網羅的で的を射ている。

しかし、やはり僕は日常経験や言説、イメージのレベルからアプローチしたい。そして、その定義の目的もやはり日常経験や言説、イメージに還元される。例えば、定義がイメージ重視であればあるほど、イメージを変化させる「実践」の力は強くなりやすい。一方で堅い定義は、正確ではあるが、直観的な理解や、様々な人を巻き込む実践には不向きである。

そこで、イメージ重視の定義をしていこう。僕はべとりん氏の文章から、むしろ「メンヘラ女ステレオタイプ」の方に注目したい。べとりん氏は「メンヘラ女ステレオタイプ」≒「境界性パーソナリティ障害」だとも言っているが、境界性パーソナリティ障害も、意外と理解しにくい。「ボダ」(ボーダーの略)などというバズワードネットスラングになり、差別的な響きさえも帯びてしまっているのが現状だ。精神医学的な診断基準は治療の方向性を定めるのには有用なのだろうが、日常語としては①直観的にイメージしにくい②差別的になりがち、という問題点があるだろう。これはアスペルガー症候群が「アスペ」と呼ばれるようになったのも同様だ(現在ではDSMは更新され、「自閉症スペクトラム」に一元化されたので、「アスペ」という言葉のみが一人歩きしている状態だ)。

そこで、僕は精神医学の方からはアプローチせずに、直観的なイメージしやすさを目的に「メンヘラ」を捉えていく。そこで、先ほどの「メンヘラ女ステレオタイプ」という言葉がヒントになる。

 

メンヘラ=女性性の過剰

べとりん氏は「メンヘラ」という言葉の意味が二つの勢力によって形成されてきたことを述べている。

一方ではそれは「付き合ったら大変なことになる女」に代表されるように、恋愛に伴う問題の責任を押し付けるための存在である。それは「メンヘラの被害に遭った男性」によってなされる定義であり、自分から遠ざけたい「他」なる者として、主に男性によって表現されてきた。

他方ではそれは、周りの凡庸な人間とは違う「特別な人間」である。これは、自らを「メンヘラ」と名指すことによって、特別でありながらも他人に理解されやすいラベルを貼っている。こちらの方は「メンヘラ」当事者たち(女性が多いだろう)によってなされる定義であり、自分が特別な人間だと思いたいということであろう。

重要なのは、「メンヘラ」という言葉を主に男性が定義し、女性が定義されにいっている傾向が見られるということである。ここには男女の非対称的な構造、すなわち、

男-女

定義する-定義される

能動-受動

といった二項関係が見られる。


すなわち、「メンヘラ」は女性ジェンダーのステレオタイプを過剰に表現したものである、というのが僕の考えだ。それは例えば、過剰に他人に合わせる他者指向であったり、外的な何か(主に人間)に強く依存していたり、自己の内部に自己のアイデンティティを担保するものがない(アレな言い方をすれば、自己の内部に超越的な審級:大文字の他者とか言われるやつ、がない)人々のことである。

ここに「メンヘラ当事者が本質的にはメンヘラについて語ることができない」という構造があると思う。「メンヘラ」は当事者にとって、外から与えられたものであり、そこには能動性がない。女性ジェンダーのステレオタイプの通りになってしまっているということである。そして、その振る舞いは「過剰」であり、女性内部からも「メンヘラ」として排除されることはおかしな話ではないのである。

 

メンヘラ自分語りの可能性

なるほど、確かに「メンヘラ=女性性の過剰」という再定義は標語的で分かりやすいところもあるが、これではあまりにも乱暴である。この定義をしたからには、この定義を使って何ができるかの可能性を考えるべきだろう。

元々、「メンヘラ当事者が本質的にはメンヘラについて語ることができない」という構造を明らかにするためにこの定義をしたのだが、これは本当にそうなのだろうか。南条あやをはじめ、「メンヘラネットアイドル」のような存在が独特の文章を書いている例は枚挙に暇がない。むしろ、メンヘラはインターネット上で「自分語り」をする存在としてイメージされることも多い。

例えば「ブログ」の登場が代表的だが、この「自分語り」の環境は変化を続けている。新しいSNSやメディアが登場すれば、それだけ「自分語り」も新しいものとなっている。ブログ登場以降、公に出版されたものでも、雨宮まみ『女子をこじらせて』、小野美由紀『傷口から人生。』あたりはある種の「メンヘラ自分語り」の延長線上として成功をおさめたものだと僕は分析している(このあたりの事情はサークルクラッシュ同好会会誌3.5号に少し詳しく書いた)。

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

つまり、「自分語り」がある種の作品へと昇華するとき、そこには「語られるメンヘラ」ではなく「語るメンヘラ」が登場するのではないかとも考えられるのである。もしそうならば、メンヘラ当事者が「メンヘラ」を語る可能性は十分にあると言えよう。

一方で、語っている彼女らは既にメンヘラではないのかもしれないし、また、たとえメンヘラであってもその語りは男性原理的なシステムに既に飲み込まれてしまっているものかもしれない(言い換えれば、「女性の自分語り」は男性に消費される、男性の道具でしかないのかもしれない)。このように考えていくと、メンヘラの問題はジェンダー論へと接続する。

 

メンヘラとジェンダー論と他者

ジェンダー論、というよりこれはフェミニズムの問題だと思うのだけれども、フェミニズムの中には、日常に使われる言語のレベルにおいて、男性性を問うものがある。そこでは、「男性の言語」、「女性の言語」なるものがあるかどうかとか、精神/肉体の二元論が男/女の二元論に保存されてるだとか、まあいろいろな議論があるんだけども、僕も体系的には説明できるほど勉強してないし、詳しく立ち入らない。

なんにせよ「メンヘラ」が女性性の過剰として考えられるならば、フェミニズム的な日常の実践において「メンヘラ」がなんらかの補助線になりうるのかなあと考える。有効活用するのであれ、反面教師にするのであれ。

また、メンタルヘルスのような「狂気」が「他者」として扱われてきた歴史についてのフーコーの有名な著作があるけれども、「メンヘラ」がこのように話題になるのには歴史的な必然性があるんじゃないのかなぁとかも考える。いずれにせよ「メンヘラ」は徹底的に「他者」として表象されるのだな、という感じがする。

 

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個人的な話。

「メンヘラ」も面白い社会現象だなぁと感じているので、「サークルクラッシュ」が面白いと感じているのと同様、いろんな観点(それこそ学問的な観点を含めて)で捉えてみたさがある。そうして、メンヘラ現象に普遍性、必然性を見出してみたい。

それらは身近な一現象でしかないし、言わば趣味みたいなもので、学問の対象にするのはたぶん間違った態度なんだろうけど、でも、どうも普遍的・必然的なものも感じるから。まあ、入り口がメンヘラやサークラでも、出口はまったく別の普遍的なところに辿りついていればそれはそれでオッケーだと思うので。