印象論に満ち満ちた声優史

メモみたいな文章です。

 

 キャラクターを演じる声優たちにおいて主流の声や演技のタイプが歴史的に変化してきたように感じる。それは大きく三つに分けられるように思われる。それが以下だ。

 

①芯のある声(~90年代末頃)

②複数の声(90年代末頃~00年代頃)

③自然な声(10年代頃~)

 

 あんま詳しくないけど①の時期はまだそれほどアニメも放映されておらず、映画吹き替えが中心だったと思う。そこでは、芯のある声を武器にした人が主流だったように思う。神谷明「叫び」を得意としていたのもさることながら、一つの声のイメージが明確にある声優は例えば、若本規夫とか大塚芳忠とか中田譲治とか。時代が下ると立木文彦とか大塚明夫とか藤原啓治とか緑川光とかくまいもとことか。

 また、ゴールデンタイムのアニメの声優もまた、一つの声でイメージが定着していたように思われる。ドラえもん大山のぶ代とか、時代が下るとちびまる子ちゃんのTARAKOとかコナンの高山みなみとか(②の時期になってもハム太郎間宮くるみとかおジャ魔女千葉千恵巳とかがいる)。

 

 しかし、②の時期になり、(①の時期とオーバーラップはしているものの)山寺宏一林原めぐみ、時代が下ると櫻井孝宏中村悠一沢城みゆき斎藤千和のようなある程度複数の声や役柄を武器にする声優が増えたように思われる(他にもいっぱい挙げられるけど割愛)。

 その原因の一つとして、深夜アニメの増加もあり、おそらく一つの声ではそれぞれのアニメのキャラクターに明確な差異をつけること(演じ分け)がしにくくなったのがあるのではないか。実際、杉田智和が「ハルヒ」に出て以降はよく出るたびに「キョン」と言われていたように思う。他にも神谷浩史宮野真守など、少し特徴的な声を持つ人はどの役をやっていても同じかのように扱われることがある(そんなことはないと思うが)。

 また、声優雑誌や声優養成所も発達し「素人が声優を目指す」ことも増えていった。そんな中でアマチュアが持つプロの声優のイメージとして「七色の声」が強くなっていったように思われる。

 

 一方、③の時期ではまた新たな傾向が生じてきていると感じた。それこそ08年~14年ぐらいは僕が一番アニメを観ていた時期なので実感をもって語れるのだけど、「自然な声」の声優が増えたように思う。特にそれを感じたのは2011年1~3月に放映された『放浪息子』である。放浪息子では主人公に当時中学生の畠山航輔が起用され、セクシャリティの曖昧な声変わり期の男の子を見事に演じた(それに対し脇役は水樹奈々堀江由衣などの人気声優で固められていた)。

 「自然な声」についてまず女性声優から述べよう。それは一つにはそれは主張をしない透明感のある声であり、はたまた、いくつかのアニメでその声優の違うキャラクターの声を聞いても「誰の声なのか分からない」ような声を持つ声優である。

 透明感という点では②の時期から川澄綾子植田佳奈中原麻衣のような声優がいたが、比較的主張のある役もやっていた。しかし、時代を下ると花澤香菜茅野愛衣早見沙織のような声優が出てきて、これらは更に透明感があるように思われる(ここでは②の時期の声優として能登麻美子も挙げるべきだろうけど、能登の場合は「透明感がありすぎて逆に主張が強い」みたいな事態が起きてるように感じる)。

 そして、「誰の声なのか分からない」ような(すなわちキャラクターの「中の人」を意識させないような)声優としては内山夕美、種田梨沙五十嵐裕美洲崎綾あたりが挙げられるように思う(僕の耳が悪くて判別できないだけかもしれないけど)。2014年頃からアニメをほぼ観なくなったのでここ2、3年の新人が全然フォローできてないのが残念。

 また、③の時期では若手男性声優が一気に出てきた。ざっと挙げれば江口拓也松岡禎丞、島﨑信長、花江夏樹赤羽根健治小野友樹逢坂良太内山昂輝石川界人あたりだろうか。男性もここ2、3年はフォローできていない。ただこれらの声優に共通しているのは、ダンディな声ではなくて中性的な青年の声であるというところだろう(ダンディ寄りな声の若手として武内駿輔木村昴羽多野渉なども挙げられるが)。これもどこか「自然な声」とでも言うべき志向性が感じられる。

 

 以上が大きな歴史観であるが、この歴史観自体そもそも単純すぎる(それぞれのタイプがそれぞれの時代に混在してるし)。大目に見て、大きな傾向としてこういう傾向があるという図式だとしても、実は間違ってすらいることも大いにありうる。あくまで印象論なので。この歴史観に当てはまらない反例を知ってる方がいたら教えてくれると幸いです。

 

歴史的変化の背景には何があるのか

 と、歴史観を提示するだけでは面白くない。問題はこの背景に何があるのかだろう。①芯のある声→②複数の声の流れの理由として「深夜アニメが増えた」ことを挙げたが、このように「背景には何があるのか」を見ていこう。

 

声優独特の方法論?

 深夜アニメが増えたことと同時に(直接関係しているのかは分からないが)声優雑誌や声優養成所も発達して「素人が声優を目指す」ことも増えたということを指摘した。アマチュアが持つプロの声優のイメージとして「七色の声」を挙げたが、そのようなファンの視線が声優のメインストリームを生み出している側面もあるかもしれない。

 

 実際「七色の声」というのは声優特有のものだと思われる。元々俳優と声優との区別が曖昧だった①の時代には「芯のある声」が求められただろう。方法論的に言えば「腹から声を出す」ということが求められただろう。声を変えるにしても全身を使ったことだろう。しかし、②の時代では声優が俳優から強く独立した。すると、声優独特の方法論も出てくることになる。声の使い分けという意味で言えば、本来俳優にとってはご法度であろう「声を作る」、はたまた「ノドで声を使い分ける」といった特殊な方法論が現れているように思われる。

 

アニメ映画と地上波

 また、①の時代と②の時代の間で人々が持つ声優観に大きな断絶が生まれたように思う。例えばジブリ宮崎駿は89年の『魔女の宅急便』までは主役の高山みなみを筆頭として職業声優を起用していたけども、『もののけ姫』以降は主役級に職業声優を起用しなくなる。『ハウルの動く城』についての海外メディアからのインタビューによれば、

"All the Japanese female voice actors have voices that are very coquettish and wanting male attention, which was not what we wanted at all."
 と。つまり、日本の女性声優はコケティッシュで男性を惹きつけるんだけど、それを我々は全く望んでいないということを述べている。

www.theguardian.com

 

 宮崎が「コケティッシュ」と呼ぶ声はそれこそ、キャラクターに合わせた「複数の声」ではないだろうか。そしてむしろ、宮崎の望む声とはキャラクターを焦点化しない「自然な声」なのではないだろうか。「自然な声」とは言うまでもなく③の時代で表面化してくるものである。
ジブリ以外でもアニメ映画では職業声優以外の起用が多い。例えば、俳優の神木隆之介ジブリ以外でも『サマーウォーズ』や『君の名は。』で主役を務めている。最近では『この世界の片隅で』の主役を演じたのん(能年玲奈)が記憶に新しい。

 ここには、芸能人が映画の広告塔になるという以上の理由が隠されているように思われる。それは③の時代で地上派においても「自然な声」が求められるようになったことと無関係ではないのではないか。この歴史観をより一般的に理解するための試みとして、フランスの文芸批評家、社会学ロジェ・カイヨワの「聖/俗/遊」図式を用いる。

 

「聖/俗/遊」図式とは

 まず、聖/俗とはフランスの社会学エミール・デュルケームが宗教の分析から見出した図式である。それは俗なるものから分離された聖なる領域を想定することで、功利性を超えた現象や社会における「宗教的なもの」を理解するのに有効な見方である。

 カイヨワは更にこの図式を発展させ、「遊び」(外的な要請や実際的な目的から離れて、ただ楽しみのために、それ自体を目的として自発的に営まれる活動)の重要性を指摘した。三つの領域の特徴をそれぞれ述べよう。

 

A「俗」は功利主義に支配された日常の領域である。労働が俗の代表的な例。
B「聖」は俗から離れて対立する、まじめな宗教的活動の領域である。宗教や理想が聖の代表的な例。
C「遊」は実生活の配慮からも、聖なる義務・拘束からも離れた、楽しみの領域である。遊びが遊の代表的な例。


 「遊」という図式が新たに加わることによって何が分かるかということについて例を挙げるならば、近代日本の消費社会化において「遊」の領域がしだいに自立していったことや、インターネットやケータイなどのメディアにおいてコミュニケーションそのものを楽しむ「つながりの社会性」(北田暁大)といった現象が見られるというのがある。

 また、遊びに見られる「脱所属」や「脱自我」といった傾向は「平等」や「自由」といったものに繋がっている。そのため、格差に満ちた日常生活(俗)や、「聖」の領域に見られる「まじめさ」に対してオルタナティブな世界観を生み出し、社会的な価値観を変容する可能性がある。

 

声優の声における聖/俗/遊

 概念の説明は以上にして、これを声優に関して当てはめてみよう。お気づきの方もいるかもしれないが、歴史観として出した①芯のある声が「聖」に、②複数の声が「遊」に、③自然な声が「俗」に対応していると僕は考えている。詳しく説明しよう。


 ①の時代においてはアニメよりも映画の吹き替えが主流だった(と思う)。そこでは言語の壁を越え、外国人があたかも日本語を喋っているかのように吹き替えなければならない。つまり、演じる声優に超越的な能力が必要である。これを僕は「聖」として捉えた。


 ②の時代においては声優の領域が独立する。そこでは、原作を元としてメディアミックスし、いくつものパロディを生み出される。これを僕は「遊」として捉えた。キャラクターソングやDVDについてくるオーディオコメンタリーやドラマCDなどでは文字通り声優が「遊」んでいることがある。むしろこれは「作品」から「キャラクター」が独立したと捉えることも可能だろう。「萌え」アニメなどではまじめな「物語」の要素が捨象され、キャラクターそのものに対して萌えるという態度が出現している。東浩紀の言う「物語消費からデータベース消費へ」というやつだ。作品構造の変化は声優の声や演技のタイプにも影響を与えていると言えるだろう。

 また、アニメ以外でも声優の出演するラジオなどでは複数の声を使うことが一つの遊びとして成立し、アマチュアの声優ファンも複数の声を出す遊びに興じることがある。

 

 しかし、ここで先ほどのジブリ宮崎駿の言う問題が生じてくる。アニメ映画ではむしろ物語や映像こそが重要、すなわち物語や映像を通してこそ超越性(聖)に至れるのであって、キャラクターそのものが主張をしてもらっては困るのだ。それはむしろ作品への没入を妨げる。

 そこで、声優に必要とされる態度はある意味では「姿を消す」ことである。声優は物語を伝達する手段としての「主人公」にならねばならない。それは③の時代に地上波でも主流となってきた「自然な声」である。

 

結論

 声優は俗の領域、すなわち作品を支える歯車になりつつあるのではないか。フィクションにおける超越性を担保するのは結局のところ「物語」と「映像」なのではないか。それが今回の結論だ。

 もちろん、最初の声優に関する歴史観が間違ってる可能性は大いにあるし、僕が10年代に観ていた作品は結局「物語」や「映像」重視の作品だったということなのかもしれない(現に僕はきらら系4コマを代表とする「日常系」が極めて苦手なので、全然観てない。そこでは、声優の能力が超越性(聖)を担保しているのかもしれない。そうでなくとも、おそらくは声優の「遊び」が物語とは異なる価値を提供しているだろう、おそらく「萌え」的なものとして)。