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シェアハウスとメンヘラ

この文章はオープンシェアハウスサクラ荘が発行しているフリーペーパー的なもの、「季刊サクラ荘」の第一号に寄稿した文章です。サブタイトルをつけるとするなら、「架橋としてのメンヘラ概念とシェアハウスの居場所・自立機能」みたいなところでしょうか。

はじめに

 「メンヘラ」という言葉がある。

 この言葉は「メンタルヘルスer」の略であるが、意味が曖昧で、この言葉を使う人によって意味が異なっていることが多い。

 特にインターネットにおいて、「精神的に不安定な、主に恋愛において人に迷惑をかける女性」ぐらいの意味で蔑称として用いられてきた経緯があるため、この言葉を用いない方がよいかもしれない。

 しかしそれでも敢えて「メンヘラ」という言葉を用いる理由は、この言葉にいくつかの問題が凝縮されているからである。「メンヘラ」という言葉は、

 

 

①「家庭環境に問題があったり、学校でイジメを受けたりして、親密な関係から排除されてきた結果、居場所がない人」を意味する(「愛と居場所」の問題系)
②「何らかの物事や人に対して強く依存しているため、自分自身の基準で物事を判断することが難しい人」を意味する(「自立と依存」の問題系)
③「恋愛や、異性からの性的承認に強く依存する女性」を意味する(「性」の問題系)

 

 

 以上の三つの問題は相互に絡まり合っている。だからこそ、それらを個別的にではなく総合的に論じる必要がある。

 だから敢えて「メンヘラ」という言葉をフックにして問題を提起し、その問題に対して「シェアハウス」が持つ可能性と限界を示すのが今回の目的である。

 

 急いで付け加えなければならないのだが、この文章は、私が個人的に接してきた「メンヘラ」と呼ばれうるような人々についての、いくつもの経験と伝聞を総合した結果、構成されている。

 だからこそ、特定の誰かを指した文章ではない。もし読者のあなたが「これは自分のことを指している」と感じたなら慎重に吟味が必要だ。

 「この部分は自分に当てはまるが、この部分は自分とは関係がない」、「自分とはほとんど関係がない」といった風に、まず自分がどういう状態なのかを確認してほしい。

 その上でもし、問題解決にシェアハウスが役立ちそうであれば、サクラ荘に連絡をくださるとありがたく思う。

 

 

メンヘラと生育環境の問題

 「メンヘラ」と呼ばれうる人は、自身の家庭環境が悪かったことを述べる。具体的には

 

 

  • 両親の仲が悪かったり離婚していたり
  • 親が過干渉で自分の行動を制限してきたり
  • プライバシーを侵害してきたり
  • 放っておかれたり
  • 言葉でけなしてきたり
  • 暴力をふるってきたり

 

 

 といったエピソードである。また、「学校でイジメを受けた」というエピソードもよく聞く。

 高校生までの子どもにとって、基本的に「家庭」と「教室(学校)」は重要な集団ツートップである。これらの集団において馴染めなかった(排除された)場合、後の人生にも尾を引くことが多い。

 結果として高校卒業以後も、精神的に不安定だったり、対人関係がうまくいかなかったり、集団にうまくなじめなかったりということになる。*1

 

 

「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環

 「精神的に不安定」(個人)と「コミュニケーションがうまくいかない」(二者関係)と「集団になじめず、居場所がない」(集団)という三つの問題はそれぞれ連動している。

 

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  この三角形の矢印については例えば、

 

A:誰かと仲が悪いと精神的に不安定になる(二者関係→個人)

B:精神的に不安定だと余裕を持ってコミュニケーションができない(個人→二者関係)

C:誰かとの関係がうまくいってないと集団からも問題視される(二者関係→集団)

D:集団から異質な存在として見られるとその中での誰かとのコミュニケーションもうまくいきづらい(集団→二者関係)

E:集団になじめないと精神的に安定を得るのは難しい(集団→個人)

F:精神的に不安定だと自分は集団に不要な存在だと思ってしまう(個人→集団)

 

 といった説明ができる。また、これ以外の説明も可能である。例えば、個人の問題は「精神的に不安定」だけでなく「コミュニケーションのスキルが低い」ということもあるだろう。コミュニケーションのスキルが低ければ二者関係や集団でうまくいかず、二者関係や集団がなければコミュニケーションのスキルを磨く機会もなくなるだろう。

 いずれにせよ悪循環に陥ってしまうという問題である。そのため、「メンヘラ」が常態化すると抜け出すことが難しい。

 

 

「悪循環」対「シェアハウス」

 シェアハウスはうまくいかなかった家庭における家族関係や、学校における友人関係からの「避難所」であり、そしてそこから更に発展して、それらの関係を「やり直す」ための「居場所」として機能しうる*2。すると、「精神⇔コミュニケーション⇔居場所」の悪循環を断ち切れる可能性がある。しかも、サークルなどと違って「そこにある」集団であり、家族や教室などと違って「自分で選べる」集団であるという「いいとこどり」がシェアハウスによってできる。

 

 しかし、シェアハウスでもなじめなかった場合は、結局のところ悪循環に戻ってしまうことになるという限界はある。あまりにも精神やコミュニケーションに問題がある場合は、医療や福祉による介入も必要になってくるし、シェアハウスに住んだ上で病院に通うなどしてもいいだろう。

 

 

「メンヘラ」は状態か性格か

 「恋愛をするとメンヘラになる」などといった言葉に見られるように「自分は一時的にメンヘラになることがある」と言う人もいる。この場合、「メンヘラ」という言葉は一時的な「状態」を指しているし、実際、ほとんどの人は何らかの「メンヘラ状態」を体験したことがあるだろう。しかし、それが常態化し、一つの「性格」(あるいは「気質」や「人格」)として固定されてしまっている人こそが問題である。その人においては、しばしば先ほどの「悪循環」を伴っている。

 そして、固定された「性格」としてのメンヘラは、しばしば特定の「病名」と同一視される。

 

 

メンヘラと病名

 そもそも「メンヘラ」は「メンタルヘルスer」の略であり、元々は2000年頃、2ちゃんねるメンタルヘルス板あたりが発祥である。メンヘルだとかメンヘラーだとかいう言葉も使われていた。

 当時からメンタルヘルス板に出入りをしていた人の話によれば、病名としてはうつ病躁うつ病双極性障害)、またそれほど多くはないが統合失調症あたりがメンタルヘルス板の住人の主流だったようだ。

 しかし、2006年頃から「メンヘラ」が「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)*3に結びつき始める。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」は主に恋愛におけるコミュニケーション(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)において定義されるようになっていった。*4

 また、時期がズレるためそれほど目立たないが「メンヘラ」と「アダルト・チルドレン」概念*5との関連性を指摘する人も多い。これは医学的な診断名ではないが、90年代や00年代初頭に流行した概念である。今ではアダルト・チルドレンよりも「毒親」(子どもの成長にとって毒になる親)の概念が流行しているように思われる。

 

 これらの病名や概念については詳細な研究の蓄積があり、「メンヘラ」の一言では済まされない固有の問題がそれぞれにある。だから、これらの病名や概念の当事者は「メンヘラ」という言葉ではなく病名・概念を手がかりに、医学的な治療を受けたり、自助グループに出向いたりすることが先決だろう。

 しかし、それでも敢えて「境界性パーソナリティ障害」という病名や「アダルト・チルドレン」という概念の名前を出した理由は、それらが特殊な事態であるがゆえに、逆に誰にでも見られるような一般的な問題を戯画的に表現している側面があるからである。

 

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虐待あるいは暴力の生じる条件

 メンヘラと家庭環境の問題は最初に述べた。そして、家庭環境に問題があるというのはアダルト・チルドレンの定義でもある。これらは特殊な事態に見えがちだが、一般化している事態でもある。実際、児童相談所による児童虐待対応件数は年々増加の一途を辿り、2015年度には10万件を超えている。

 もちろん、それだけ児童虐待に対する意識が向上しただけであり、児童虐待の実際の件数自体には変化がないという見方も可能である。

 しかし、このような虐待(暴力)の生じる背景に何があるのかを考えてみよう。精神科医・批評家の斎藤環は、「場」における暴力が生じる条件として①密室性②二者関係③序列の3つを挙げた。つまりは、集団が狭いサイズで閉じてしまっていてかつ、対等ではないことが暴力の生じる条件である。

 こう考えると、学校におけるイジメや、ブラック企業の問題がいずれも表面化しているのも、それらに対する社会的な意識が向上したからだけでなく、実際に問題が増加しているからではないかとも考えられる。

 

 

「暴力」対「シェアハウス」

 シェアハウスは複数人の大人が住んでいる場であり、対等な場である。一般家庭と違って家賃を割っているのが良い証拠である。家族で見られる「誰のおかげで飯を食わせてもらってると思ってるんだ」みたいな一方的な権力関係は生じず、「ギブ&テイク」の交換がちゃんと成立する「相互扶助」の関係が成り立ちやすいだろう。

 

 しかし、学校などと同様に、イジメ的な問題が生じることは原理的には避け得ない。二者関係にはならずとも、集団イジメなどもありえないことではない。学校(教室)よりもマシなのは、やはり住む相手を一応は選べるというところだろう。問題が生じそうな相手とはそもそも一緒に住まないという選択肢がある。本当にヤバいときは離脱できるようにしておくことも、シェアハウス運営には必要だろう。

 

 

 

地域衰退と家族縮小による「保険の効かない子育て」

 大雑把に言えば、昔の子育ては子ども一人あたりに関わる大人の人数が多かった。地域の大人や親戚、祖父母や兄・姉が関わっていただろう。だからこそ「保険の効く子育て」だった。たとえ親の人格や行動に問題があったとしても、他の大人がチェック機能を果たすことができたし、今よりも分業することができただろう。

 しかし、地域が衰退し、祖父母が同居していない核家族世帯が増えたため、子どもにとっての大人は親だけである。それもしばしば「母親」だけである(シングルマザーも増加している)。共働き世帯が増えている中、保育所に子どもを預けざるをえず、待機児童が増加しているという問題も話題になっている。

 これではどうしても母親に対して子育てのプレッシャーがかかってしまうだろう。結果として、母親の人格に元々問題がなかったとしても、うまく子育てできない、ひどい場合は虐待してしまうという状況が生じかねない。

 しかも、虐待を受けた子どもが親になると虐待をする確率が高いというデータもある。暴力は学習を通じて連鎖していくのである。

 

 つまり、家庭環境(子育て環境)や虐待や「毒親」の問題はもはや構造的な問題である。例外ではなく、一般化している問題なのである。確かに「アダルト・チルドレン」と呼ばれうるようなレベルのものは特殊なのかもしれないが、「アダルト・チルドレン」的な事態を一方の極として、程度に差はありつつもグラデーションとして広く分布しているのだと思われる。

 

 

「子育て環境」対「シェアハウス」

 「子育て環境」については「悪い環境で育った大人」の問題と、「これから育っていく子ども」の問題とを分けて考える必要がある。

 「悪い環境で育った大人」に関しては、やはりシェアハウスを「居場所」として提供し、家族関係からの「避難所」として、そして家族関係の「やり直し」の場所として機能させることが重要だろう。「悪循環」のところで述べたことである。

 

 「これから育っていく子ども」については現状では対処困難である。しかし、最終的には「子育てシェアハウス」をする必要があると私は感じている。実際、海外ではコレクティブハウジングという形態において、複数の家族が一つの建物に住む(キッチン等は共有)ということが起こっている。日本においては居住する建物の問題や、子育て責任の所在の問題、後に述べる性の問題など、まだまだ様々な問題がある。しかし、複数の大人がいる状態で子育てをするということは「保険の効く子育て」になるはずだ。今後検討する余地のある課題である。*6

 

 

依存(アディクション)の一般化とアイデンティティの困難

 ところで、アダルト・チルドレンや「毒親」の概念においては、大人になっても現実の親、あるいは自分の中の親(インナーペアレンツとも呼ばれる)に囚われてしまって、自由になれないということが語られる。

 つまり、自分自身の基準で物事を判断(これは「自律」の定義だ)できず、何らかのものに強く依存してしまう。具体的には人間関係、性行為、アルコール、買い物、ダイエット、過食、薬物、自傷などである。病的なまでに強い依存はアディクション(中毒、嗜癖)とも呼ばれる。

 アダルト・チルドレンにおいてこのような依存(アディクション)が生じる理由は、端的に言えば親によって子ども自身の選択が否定されてきたからである。結果、自分自身"以外"のものを基準にして物事を判断するようになる。*7

 しかし、この依存(アディクション)もまた、アダルト・チルドレンに限らず、現代日本社会において一般的な問題なのである。以下で説明しよう。

 

 昔であれば自己のアイデンティティは生まれや仕事で決まっていた。あるいは、70年代80年代頃、恋愛して結婚して家を持つという「マイホーム主義」も人生の「生きがい」として機能していた。

 しかし、今や家族も仕事も「生きがい」にはなりにくくなった。生きがいを見出しにくくなったということは、自己のアイデンティティ(自分は何者なのか)を見出すのも難しくなったということだ。そんな中でも人々はどうにかして、「自分は何者なのか」という問いに答えようとする。よく言う「自分探し」とはそういうことだ。

 それでもやはり価値観が多様化してしまった昨今では「自分が分からない」、「生きてる意味は何なのか」という問いにどうしても晒されてしまう。そんな問いから手っ取り早く逃げることができる方法が依存(アディクション)だというわけだ。実際、アディクションの対象はアルコールなどを筆頭に「我を失わせる」ものが多い。一時的にであっても快楽に身を浸して、自意識や生きる意味、「私」を、忘れることができるのである。

 

 

依存と自立の問題

 このような「依存」は「自立」の対立概念として描かれがちである。しかし、「自立とは複数の依存先があること」という言葉が精神保健の分野で使われる。実際、何かに依存せずに生きている人間などいないだろう。健康な人間はおそらく、依存先一つあたりのウェイトが小さいために、あまり依存っぽくは見えないのである。

 一方、「メンヘラ」と呼ばれうる人の中には、恋人に対して「恋人」としての役割だけでなく、「親」としての役割や「友人」としての役割など、複数の役割を担わせようとする人がいる。一緒にいようとする時間も極端に長い。こうなると外から見ても「依存」しているということになるだろうし、当人の心理的にも依存していることが感じられるだろう。

 そもそも人間はほとんど誰しも養育者に依存して育っていく。依存は自立の前提にあるのだ*8。また、依存先は交換可能だということが知られている。リスクが高かったり社会的に認められていなかったりする依存先(それこそ「アディクション」と呼ばれるもの)を、「スポーツ」や「趣味」などの健全な依存先に置き換えていくこともまた重要である。

 

 

「依存と自立」対「シェアハウス」

 再三述べているようにシェアハウスは「居場所」である。だからこそ、「自立のための依存」の出発点になりうる可能性はあるだろう。

 ただ、そこで問題になるのは、依存がしばしば権力関係になりやすいということだ。しかし、「暴力」のところで述べたようにシェアハウスは対等な交換関係による「相互扶助」が成り立ちやすい。だから、一方的な依存ではなく「持ちつ持たれつ」になれる可能性が(少なくとも家族よりは)高い。すると、一方的な依存に見られるような、与える側の負担や受け取る側の罪悪感が生じないで済む。

 

 しかし、シェアハウスでも個人主義者たちが「複数人で一人暮らし」しているだけということはありうる。危うい権力関係だって生じうる。いずれにせよ、シェアハウスする以上はそれぞれが自己主張を持った上でお互いの主張も認め合うような、ちゃんとコミュニケーションをし合う関係が望ましいだろう。

 また、シェアハウスはあくまで「住む」だけなので、今のところ直接アイデンティティを担保してくれる機能はないように思われる。むしろ、現代日本ではシェアハウスは「若者のモラトリアム」を象徴してしまっているようにも感じる。恋愛結婚によってできる「家族」と違って物語に欠けるのだ。何か明確なコンセプトを持ったシェアハウスを作るというのも一つの手だが、「シェアハウスはいかにして物語を供給するのか?」は今後の課題だろう。個人的にはやはり「子育て」ではないかと思っているのだが。

 

 

自他の境界の曖昧さと「女」の問題

 「自立」ができていないということを別の角度で言い換えると、「自己の領域」が確立できていないということである。それは同時に、「他者の領域」の確立もできていないことを意味する。これは「自他の境界の曖昧さ」とも言えるが、その極端な形が「境界性パーソナリティ障害」である。

 ここからは私見も入るが、「境界性パーソナリティ障害」においては自他の境界が曖昧だからこそ、(自分にとって)良い/悪いが自他を分けるための基準になってしまう。結果として、次のようなパターンが見られる。

 

 

  • 敵(他者側)/味方(自己側)をはっきりと分ける
  • 恋人に対して理想化(自己と一体化)したり/一気に幻滅したり(「他者」として切り離す)して、相手を「良いところも悪いところもある一人の他者」と見れない
  • 強い優越感/劣等感を往復する(自分が良いもので満たされるか、悪いもので満たされるか)
  • 100点満点の出来以外はダメだとしてしまう完璧主義(よくできた部分とできなかった部分を分けられず、100点満点のみ自己側、それ以外は他者側にしてしまう)

 

 

 これは「境界性パーソナリティ障害」の一部に見られる極端な例であるが、「敵/味方をはっきりと分ける」などは健康な人にもよく見られる。

 精神科医水島広子は、いろいろな女性に特徴的に見られる女性のイヤな部分をカッコつきの「女」と定義しており、「女」の自他の境界の曖昧さを指摘している。

 その説明は以下だ。まず、女性が「細やかな気遣いができるべきである」という社会通念から「何も言わなくても察する能力」が女性に求められるようになる。しかし、はっきりとモノを言わずに察するという態度が一般化すると「自他の境界の曖昧さ」に繋がってしまうということだ。

 結果として、「あなたのことは何でも分かっている」とおせっかいを焼きたがる人や、自分と異なる意見を持っているだけで「攻撃された」と感じてしまう人などが出てくる。これらは、本来他者の領域であるものを自己の領域にしてしまっている。

 詳述は省くが、だいたい同じ論理で、敵/味方をはっきり区別する人や、しきりに陰口を叩く人、しきりに悩みを相談する/される人、話したくもない恋バナを話させる人、他人の秘密をすぐにバラしてしまう人などの例が説明されている。

 

 いずれにせよ、基本的には(他者を攻撃せず、尊重しながら)自己の領域と他者の領域をはっきり区別することが解決策として提示されている。ここでも先ほどの「自立のための依存」とはまた違った意味で「自立」がキーワードとなっているように思われる。

 

 

「自他の境界の曖昧さ」対「シェアハウス」

 シェアハウスは相互扶助が成立し、「与える側」と「受け取る側」の両方の役割を経験できうると述べた。これに加えて、シェアハウスでは絶対的な権力者が生じにくく、同居人はそもそもは他人であるために多様性がある。それぞれの同居人に対して取る立場・役割は様々だろう。これは言わば、野球というゲームにおいてピッチャーという役割を経験するのではなく、複数のポジションを経験していくことで野球というゲーム全体の構造を(あたかも野球ゲームをプレイしている人のように)俯瞰して眺めることができるようになることに等しい。

 そのような俯瞰的な視点を獲得して始めて、押し付けられた役割に流されるのではなく、自分で役割・態度を選択していく、すなわち「自立」した個人になれるだろう。この俯瞰的な視点、すなわち「自分はA側でもありうるし、B側でもありうるし、C側でもありうる……」といった相対的な視点を獲得することで、どんな状況においても他者の領域と自己の領域を明確化することができる、すなわち自他の境界線がはっきりするのではないか。

 

 しかし、シェアハウスであっても役割が固定化してしまうときはあるだろう。もし同じような人間が集まってしまえば、複数のポジションを経験する必要もなくなるし、ダメな部分をお互いに増幅し合うこともあるだろう。

 だから、シェアハウスにおいては適度に(対応できる余裕がある程度に)異質な人間がいた方が良いかもしれない。もちろん、根本的に相性が合わないであろう人と住む必要はないが。そして、適度に異なる他者との価値観の違いに対し、コミュニケーションによって折り合いをつけていく態度がやはり重要になるだろう。*9

 

 

性・恋愛による人間関係の崩壊

 「境界性パーソナリティ障害」の人間が、一つの集団において複数人と性関係・恋愛関係を持ち、結果として人間関係が崩壊するパターンが見られることがある。それは、単に境界性パーソナリティ障害の人間との関係が悪化した人が集団に居づらくなるというパターンもあるし、その人間を巡って争いが起きるというパターンもある。

 それは私が研究してきた「サークルクラッシュ」という現象なのだが、その際に複数人と性関係や恋愛関係を持った女性がしばしば「サークルクラッシャー」と呼ばれてきた(私にとっては不本意だが)。

 

 しかし一般的に言って、(異性愛の場合)男女の混じった親密な集団においては恋愛や性行為が起こりがちであるし、恋愛関係は友人関係よりも関係の持続が困難である。だからこそ、特定の集団においては性行為や恋愛が起こらない工夫が見られる(家族における近親相姦のタブーや、サークルや企業などにおける「恋愛禁止」のルール、男子禁制・女人禁制の集団など)。

 それら性・恋愛による人間関係が崩壊してしまう問題は、「サークルクラッシャー」のように(あるいは「バンド解散」のように)センセーショナルには語られないだけで、潜在的なリスクとして一般的に存在しているのだ。

 

 

「性・恋愛」対「シェアハウス」

 これは一見バカバカしいようだが、現在のところ「家族」に勝つことができない難問である。血縁においては厳格な近親相姦のタブーがあり、日本においてはしばしば子どもができると夫婦がセックスレスになるほどだ。

 それに対して、シェアハウスはあくまで他人同士である。恋愛や性行為が起きたところで「当人同士の自由」と、私事になりかねない。しかし、一方でシェアハウスは公共空間である。複数人と関係を持ってしまう人がいたらたいてい問題になるだろう。たとえ二者関係で済んだとしても、性行為をする場所があるのだろうか。その都度ホテルに行くのだとしたら、コストの面で一人暮らしに劣るだろう。個室を使うのだとしたら、性行為の音を嫌がる同居人もいるだろう。恋愛関係に嫉妬する同居人もいるかもしれない(要するに三角関係の問題)。

 そして、そういった問題で住人が出て行きでもしたら、家賃の支払いが滞ってしまう。これも問題だ。

 

 これらの問題に対策するための一つの方策は、そもそも性行為や恋愛をシェアハウス内部ではしないというものだ。それ以前に、男性専用や女性専用にするという方法もある(それでも外から連れ込んだら一緒なのだが)。

 あるいは逆に性や恋愛に関してオープンな空気を作るという方法もある。性や恋愛に関しては、秘密にしてコミュニケーションを遮断するからこそ問題が起きることも多い。性行為の音に内心嫌がっている同居人がいても、なかなか言い出しにくいからこそストレスが溜まっていくということはある。

 このように、性愛の価値観に対して一定のルールや空気を作るという方法もあるが、建築構造にも問題があるかもしれない。例えば、海外のコレクティブハウジングでは複数の夫婦が同じ建物のそれぞれ違う階に住んでいるという例があるようだが、それならば性行為の音の問題は生じにくいだろう。一軒家であっても、部屋の位置を工夫するという手段はある。

 また、住人が出て行くという問題に関しては、家賃支払いをある程度保証できるように、出て行く3ヶ月前には告知するなどのルールがある方がいいだろう。サクラ荘においても、「次の住人を見つけてから出て行く」ということが推奨されている。

 

 

おわりに

 ここまでの内容をまとめると次の図のようになる。

 

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   このように「メンヘラ」概念を「一般‐特殊」の橋渡しにすることで、「アダルト・チルドレン」や「境界性パーソナリティ障害」といった特殊な概念において戯画的に見られる問題が、実は現代日本の社会構造上一般的に見られる問題であり、実は程度問題なのだということを示した。

 そしてそれらの問題の解決において、シェアハウスが一定の寄与を果たすということを個別個別で述べた。大雑把に言えばそれはシェアハウスの「居場所」と「自立」の機能である。しかし「性」の問題など、いくつかの問題点は残っているため、今後「シェアハウス」概念を鍛え上げていくことが必要である。

 

*1

それは発達心理学的には例えば、イギリスの精神科医ボウルビィの「愛着理論」や、アメリカの発達心理学エリクソンの「ライフサイクル理論」などから説明できるだろう。詳しくはググれ。

 

*2

「やり直す」というと、「家族」や「友人」が絶対に必要と主張していると聞こえるかもしれないが、それらとは違った「シェアハウスの同居人」という固有の関係性を新たに「創造する」と考えてもよい。

 

*3

アメリカにおける精神疾患の診断基準「DSM-5」によると、境界性パーソナリティ障害の診断基準は、

 

 

  1. 現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。
  2. 理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式。
  3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像や自己観。
  4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(浪費、性行為、物質濫用、無謀な運転、むちゃ食いなど)。
  5. 自殺の行為、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し。
  6. 顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は 2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな強い気分変調、いらいら、または不安)。
  7. 慢性的な空虚感。
  8. 不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)。
  9. 一過性のストレス関連性の妄想様観念、または重篤な解離性症状。

 

 

の5つ以上を満たすことが基準である。1、2、5、8あたりは明確に対人関係における問題であるため、「メンヘラ」と結びついたのであろう。

 

*4

このあたりの事情は090氏の記事、「メンヘラ」という言葉の歴史 2ちゃんねるで「メンヘラ」が誕生するまで を参照。

 

*5

アダルト・チルドレンとは、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」人のことを指す。元々は「アルコール依存症の親を持つ子ども」を意味し、現場のソーシャルワーカーによって作られた非医学的な概念である。

日本では、精神科医斎藤学臨床心理士信田さよ子などの著述活動によってアダルト・チルドレン概念が紹介されたことと、スーザン・フォワード『毒になる親』が翻訳出版されてベストセラーになったことが流行の主な原因であると思われる。

 

*6

実際、日本でも「沈没家族」というシングルマザーやその友人たちによる共同保育の実践が行われた例がある。詳しくはだめ連編『だめ連宣言!』とインターネットを参照。

 

*7

この「自分自身以外のもの」には「一時的な感情」(衝動)も含まれると考えた方がいいかもしれない。なぜなら、一時的な感情に基づいた判断はしばしば状態や状況に左右される、非一貫的なものだからだ。こう言うと、「人間はみんな理性的な主体を目指すべきだ」という主張に聞こえるだろうが、実際だいたいの人は目指すべきだと私は考えている。

 

*8

発達心理学における「愛着理論」によれば、養育者が「安全基地」となり、子どもはそこに依存しながら、新たな世界へと自立していく。また、教育学では、自律のために他律的な教育をしなければならないことを「近代教育のパラドックス」という。もっと言えば、「自由な思考のためには『言語』という制約が不可欠である」など、「〈自〉なるもの」は根源的には「〈他〉なるもの」に支えられていることが分かる。

 

*9

言い換えれば、自分の主張を押し付ける(アグレッシブ)でもなく、相手の主張に流される(パッシブ)でもなく、相手の主張を受け入れながら自己主張をする(アサーティブ)な態度が重要である。