『「意識高い系」の研究』古谷経衡 読書メモ

ねちっこい文体でひたすら承認欲求とルサンチマンの話をする本といった感じ。森見登美彦みたいな文体だ(言いすぎか)。

 

土着性や親からの相続(とりわけ不動産)の差を根拠に、「リア充=階級」であるという図式を提出している。そして、リア充とは「彼女がいること」などではなく、マイルドヤンキーや大学の内部進学者、スクールカースト上位者などのイメージなのだと。
「上京」的な都会への移動は過去の話で、東京圏などでも6割7割は地元民なのだということを統計で示している。これはなるほど。

 

→しかし、「スクールカースト上位」はその場のコミュニケーションの問題であって、階級ではないのでは……。「容姿や社交性の多寡」で説明しているが……。

一応、内部進学者は受験に追われない分、社交にかけられる時間が長いだとか、「ジモティー」は地元で人間関係の地盤を維持できるだとかいう説明がある。ブルデューの再生産論みたいな話だが、ブルデューほど説得力はない。

古谷さん自身「地方上洛組の意識高い系」だったと言っているように、(古谷さんが成り上がったのであれば)「成り上がり」は十分に起こりうるのではないか。「階級」のように固定的に捉えるのは一面的すぎるきらいがある。

 

意識高い系の二分類

地方上洛組→グレートリセット(大学デビュー)を狙うが、かけられる時間が少ない
在地下克上組→高度化(社会的起業やマイナージャンル)によってスクールカースト上位層を避ける

 

→上位層、中塗層、下位層という三分類をしていたが、スクールカースト論の語彙で言えば、これは「Bクラス」の問題と言える。

つまり、Bクラスが一番ルサンチマンを感じやすいし、頑張る動機付けがあるということ(Aクラスは不満を持たないし、Cクラスは諦観に至る、的な)。

となると、社会運動的なものに走っている僕自身も意識高い系と言える。あるいは意識高い系の機能的等価物か。

Bクラス的な自意識やルサンチマンを抱えた人がどのように発達していくのかは面白い問題だ。過去だったらまた別の発達の仕方があっただろうし(例えば、自己啓発セミナーはオウム以前もっと流行ってた)。

 

「高次の大義」と「低次の欲望」

あらゆる現象について、「抽象的な高次の大義」によって「具体的な低次の欲望」を隠蔽しているという論を展開していく。セックスに至るためには最初からそういう欲望を表明するんじゃなくて、まずは別の大義名分を掲げていくのと同様。具体例は下の方に示す。

 

社会学でいう「動機の語彙」論みたいなもんか。ちょっとズレるけど顕在的機能(行為者が意図している機能)と潜在的機能(行為者が意図していない機能)とも似てる。

「高次の大義」は抽象化されたリア充像に合致する。「低次の欲望」は具体的=グロテスクなので見ないようにする。コラムではご飯の例がいくつか挙げられていて、意識高い系は鍋の雑炊やシメのラーメンを食べないという話をしている。あと食べ放題→バイキング、甘いもの→スイーツ、喫茶店→カフェ的な言い換えにも言及している、なるほど。

その意味では意識高い系はコスパ厨の対義語なのかもしれない。あるいは、コスパ厨的な欲望を隠蔽している。

精神分析的に言えば、持っている欲望がグロテスクであればあるほど、動機の語彙は反動形成的に高次化・抽象化するのだろう。家庭では暴力的で幼稚な人が公の場では高潔に振舞うみたいなのと一緒。

 

また、意識高い系が具体的=グロテスクなものを避けるのは「傷つきたくない」という心ゆえだという旨のことも書かれている。

おそらく「めんどくさい」という心にも繋がっている。『恋愛しない若者たち』(牛窪恵)では「恋愛がめんどくさい若者」のことが書かれていたが、「めんどくさい」という意識は近年、社会に蔓延しているのだろうか。蔓延しているのだとしたらそれはいかにして蔓延したのだろうか、気になる。

 

以下この図式の具体例。
例:ハロウィンにおける仮装は欲望の隠蔽

 

例:「自分の写っている写真」はコペルニクス的転回だった。記録が目的ではなく「○○をしている自分」が目的
しかもこれは自撮りではなく、「他撮りに自分が写り込んでいる」という状態。

 

→友人の言っていた明るい自撮り/暗い自撮り の二分類を思い出す。前者はフェイスブック・インスタ的なキラキラしたやつで、後者はツイッターとかで黒髪ロングの人が承認欲求的に自撮りするみたいなやつを想像していただければ。この本で言ってるのは「明るい自撮り」の方だろう。「明るい自撮り」はそもそも「自撮り」ですらない場合も多いなそういえば。
SNOW以降はまたそのへんの布置が変わっただろうけど。

 

例:本来インストゥルメンタルであるはずのセミナーなどへの参加行為がコンサマトリー化(参加自体が目的化)している。「参加しているぞ」アピールをSNSに挙げるのが真の目的になっている。

例えば夏期講習(極めてインストゥルメンタルな行為)で自撮りする奴はおらんやろ、ということ

 


その他

意識高い系コミュニティの駄サイクル性を指摘していた。せやな。

意識高い系と意識高い人は違う、後者は結果を残す、という話をしていた。「私は嫉妬を隠さないぞ!」という「自覚しているという倫理」みたいなものを書いてた。まあこういう本出す人はそう言うよね。

 

三章の意識高い系列伝では、青木大和、愛国女子、安藤美冬、ばびろんまつこを引き合いに出していた。古谷さんは「彼らは全員僕の分身のようなものだ」と自戒を込めていたものの、結局これは個人攻撃にしか見えんし下品だなあ。まあいいけど。
ただ、古谷さんの図式にぴったり当てはまってるのはばびろんまつこだけな気がした……。そもそも有名な人を引き合いに出すとある程度の成功者であることは否めないし、「意識高い人」なんじゃないのかと。
青木大和(+Tehu)と奥田愛基を対比して後者を褒めてたけど、そんなに本質的な違いがあるのだろうか。具体的に政治にコミットしている人が偉いんだ、っていうのはどうなんだろう。
あとTehuくんを兵庫からの地方上洛組としていたけど、灘だしなあ。

 

この本の図式は多少は見通しがよくなるけど、あんまり万能ではない。あくまで一つの見方として使えるという程度だろう。
あと男女一緒くたに語られていたのは個人的には不満。「傷つきたくない」とか「承認欲求」とかはジェンダー的な差異がどうしても出てくるところだと思う。


本以外の感想

サブカルチャーの引用の仕方と言い、「地方上洛組」の立命館出身といい、ルサンチマンの取り扱い方といい、宇野常寛さんを思い起こさせる感じだ。宇野さんは78年生まれ、古谷さんは82年生まれかー。
こういうルサンチマン論や承認欲求論の系譜を描くことは僕の課題なのかもしれない。歳取って、30歳過ぎぐらいになったらこういう論壇から撤退していくのが普通っぽいし。今しかできない仕事かもしれないなあと。