「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ

要約:

1.メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」に対して、自己表現、承認、情報提供の場になっているので大事。しかもメンヘラ.jpでしか届かない人に届いてるのでは。

でも、三つ批判がある。

2.「メンヘラ」という「つながり」が悪い方向にいく危険性がある。具体的には当事者間のトラブルと、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化の問題がある。メンヘラ.jpはそれぞれに対策してるっぽい。

3.メンヘラ.jpは治療を重視しており、治療文化に則っているので、強制的に治療に向かわせる圧力を生む危険性がある。そうならないように、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められる。治療ばかり強調しない、介入しすぎない、多様性を保つ、など。

4.メンヘラ.jpは支援者として信頼に足るのかどうか。やっちゃいけないことやっちゃってる。クラウドファンディングも騙されそうで怖い。誤ったら謝ろう。複数人の運営主体がいるのは良いこと。外部の批判もうまく受け入れられるといいのでは

 

目次:

1.メンヘラ.jpの功績(読むのにかかる時間:9分程度)

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 

2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性(読むのにかかる時間:5分程度)

リスク①:当事者間のトラブル

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 

3.治療文化に伴う優生学的思考(読むのにかかる時間:9分程度)

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化
問題②:強制的な治療=優生学

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp(読むのにかかる時間:3分程度)

 

 

 

 この記事ではメンヘラ.jpのやってきた活動とその意義を「メンヘラ」に一家言ある者として紹介します。また、今後のメンヘラ.jpの発展を願い、敢えてメンヘラ.jpへの批判を紹介し、その対策についても考えます。ただし長いです。全部読むのに30分近くかかるかもしれないので、つまみ食いしてくださっても構いません。

 

1.メンヘラ.jpの功績

 メンヘラ.jpとは管理人のわかり手氏によれば、メンヘラ.jpとは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者が集うオンラインコミュニティメディア」である。
 私個人はメンヘラ.jpを支持している。支持している理由はこのサイトが社会問題の解決に寄与し、これからも寄与していくと考えているからだ。具体的には「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」をより生きやすくしている。あるいは、わかり手氏の言葉を借りるなら「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の孤立の解消に寄与していると私は考えている。

 

 ただし、メンヘラ.jpの具体的な活動内容を紹介する前に急いで触れておくべきことがある。そもそもなぜ「メンヘラ」という言葉を使うのか?という疑問を持たれた方がいるかもしれない。これは、メンヘラ.jpに対して最もよくある批判だと思われる。「メンヘラ」という言葉を使うことによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」がレッテルを貼られ、攻撃を受けてしまうという問題である。この問題について今回は詳しく扱わないが、私なりに回答しておこう。
 確かに「メンヘラ」という言葉はレッテル貼りとして用いられてきた歴史がある。特に、2006年頃から「メンヘラ」のイメージが「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)に結びつき始めたという背景がある。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」という言葉は恋愛におけるコミュニケーションの特異性(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)やリストカットなどの自傷行為等のイメージを喚起させるようになっていった。
 しかし、次で述べるメンヘラ.jpの活動などもあり、「メンヘラ」という言葉が単なるレッテル貼りとして使われることはこれから減っていくと私は期待している。「メンヘラ」という言葉はむしろ当事者が自身の問題を発見して、当事者たちがつながりを作り、情報を集めるための「フック」になっていくのではないか。特に、メンヘラ.jpの「メンヘラ」の定義は「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であり、かなり多くの人を含む定義である。にもかかわらず、「これは自分のことだ」と思わせる力が「メンヘラ」という言葉にはあると私は考えている。
 似たような例として「オタク」という言葉について考えてみてほしい。「オタク」という言葉は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者が「オタク」であったということからには強いマイナスイメージを持って迎えられ、90年代には「オタクバッシング」の時代があった。しかし、岡田斗司夫大塚英志などの活動から徐々にオタクを肯定的に捉えたり、オタクをアイデンティティとしたりするような方向性が生まれた。そして、2005年頃の「電車男」ブーム頃からオタクは一般に知られるようになり、もはや「オタク」という言葉に強いマイナスイメージは見られない。このように、「メンヘラ」という言葉のイメージも変化していく可能性がある。そこで私は「メンヘラ」という言葉が自身を知るための「フック」となることに期待し、そのような活動にコミットしているのである。この記事を書く理由の一つもそのためである。

 

 以上のことを踏まえた上で、メンヘラ.jpの活動を①②③の3点に分けて、具体的に説明しよう。

 

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自己の問題を表現することを困難に思っている場合が多い。その理由は3点ある。以下ABCで説明する。

 

A.自身の「メンタルヘルスの問題」をうまく言語化できない

 自身のメンタルヘルスの問題を表現するためにはまず、言語化が必要になる。具体的には文章力や、自分の状態をうまく言葉で説明する力である。もっと根底には、自分がどういう状態にあるのかを気づくのが苦手な「鈍感」な人もいることだろう。
 文章が書けなくとも話し言葉でなら自分の問題について語れる、という人はいるだろうが、いずれにせよこういった表現能力がないために自分の問題をうまく表現できない人はいるだろう。
 なお、絵を描くなどの「芸術」分野にあたるものも一種の表現であり、「言語化」と同様に考えることができるが、今回は「言語化」に絞って議論する。

 

B.自己主張できない性格

 言語化する能力があったとしても、なかなか自己主張できないという人もいる。例えば、家庭で自分のわがままを強く叱られ、親の言うことに強く従わされてきた、という人がいるとしよう。そういう人は家庭以外の対人場面でもついつい自分の言いたいことを飲み込んでしまう、ということになりやすいだろう。これが表現できない理由の二つ目である。

 

C.「メンタルヘルスの問題」を話すことによって人間関係に問題が生じてしまう 

 また、言語化の能力があり、言いたいことも言えるとしよう。それでもなお、自身の「メンタルヘルスの問題」を人に話すことによって、その人に拒絶されるということはありうる。
 まずそもそも「メンタルヘルスの問題」によって具体的に人に迷惑をかけてしまって拒絶されるということは社会一般によく見られる現象である。そして、人はそのリスクを予期して、「メンタルヘルスに問題を抱えている」ということだけでその人を拒絶することもある。そのため、自分が「メンタルヘルスの問題」を抱えているということを隠して生活している人もいることだろう。このように、人間関係の問題を回避するために「メンタルヘルスの問題」を表現できない人もいる。

 

 以上ABC3点から、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が自己の問題を表現できなくなっていることがある。それに対して、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスの問題」を自己表現する場を与えている。この場をうまく活用できる人にとっては、上記BCの問題は基本的には解決する。ただ、Aについては課題が残る。自己の問題をある程度言語化できればメンヘラ.jpの読者投稿を活用することはできるが、うまく言語化できない人には活用が難しい。とはいえ、少なくともBCについてはメンヘラ.jpは自己表現の問題を解決している。
 そして、メンタルヘルスの問題」を抱えた当事者が自己表現をすることは基本的には重要である。メンタルヘルスの問題」が不安やストレスなどに起因する問題であれば、そもそも表現すること自体によってそれらの問題を弱めることができる。また、多くの人は漠然とした不安やストレスよりも、明確な問題の方が耐えられるだろう。そして、病気や障害に限らずとも、そのような表現は自分自身を理解することに繋がりうる。
 そして、自己表現は他者に承認されるための取っかかりになる。このことを次に述べよう。

 

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自身のメンタルヘルスが問題となっていると同時に、社会的な孤立も問題になっている場合が多い。というのも、メンタルヘルスの問題によってそもそも何かに参加したりコミュニケーションしたりするためのエネルギーがなかったり、他者との不和が生じてしまったりしがちだからである。
 しかしメンヘラ.jpによって、①で述べた自己表現が記事となり(メンヘラ.jpでは「体験談」や「コラム」というカテゴリーの記事になっている)、メンヘラ.jpの閲覧者は記事を読むことだろう。記事にコメントする人なども出てくるだろう。コメントなどがなかったとしても、記事を書いた人にとって「読まれている」という意識を持つことはできる。自己表現はそれ自体重要であるが、それが承認されること(つまり「聞いてくれる人」がいること)で、①で述べたようなメリットはより高まる。また、自己表現を繰り返すことで自分自身のことを説明することもだんだんうまくなっていくだろうから、それによって他者からの承認は得やすくなるだろう。
 また、読者の中には似たような問題を抱えた当事者も多いだろうから、当事者同士が承認し合うことにも繋がるだろう。記事の読み手の視点に立つと「同じことで悩んでいる人がいたんだ」という安心感に繋がる効果や、「なるほど、こういう考え方もあるのか」という自身の考えや状態をよりクリアにする効果が見込める。そして、似たような問題を抱えた当事者は問題を解決するためのヒントを持っている可能性がある。そのことを次に述べよう。
(一方、当事者同士の承認は、2.で述べる「メンヘラのコンテンツ化」問題に繋がってしまうリスクもあるので、それをメンヘラ.jpは回避しようとしている。そのことについては後に述べる)

 

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の中には病院に通っている人も多いことだろう。しかし、病院に通うことが金銭的に困難だったり、そもそも病院で受けている治療に対する不信感があったり、病院で受けている治療だけでは自分の悩みが解決しなかったりということもあるだろう。
 メンヘラ.jpではこのような人たちのために、福祉制度や自助団体、支援者団体などの利用方法や様々なライフハックの記事が掲載されている。また、「お悩み相談」という悩みを投稿して、それに他者が答えるサービスがある。これによって、メンタルヘルスに問題を抱える当事者」個人がアクセスできる情報の限界を超えて情報を得ることができるだろう。また、似たような問題を抱えた当事者だからこそ分かる感覚というものもあるだろう。当事者ならではの悩みに対して、同じ目線からの回答を受けることで、問題解決のヒントが得られるかもしれない。
 なお、このように支援を届けるべきなのにもかかわらず支援が届かない人に支援を届けることを「アウトリーチ」という。アウト(外)にリーチ(届ける)ということだ。インターネット上でカジュアルに使われている「メンヘラ」概念は多くの人にとってアクセスしやすい。最初に述べたように、「メンヘラ」という言葉には「これは私のことだ」と思わせるだけのイメージ喚起力がある。そのため、メンヘラ.jpは病院の治療や福祉制度の支援を十分に受けているとは言えない人にまで届くという固有のメリットがある(もちろんそれでも当事者みんなに届くわけではないが、一部の人にであっても届けることは重要である)。この「アウトリーチ」は福祉の分野で主に用いられている言葉だが、福祉的な支援にとって「メンヘラ」という言葉を用いることには「アウトリーチ」としての意義があるのである。

 

 以上三つの活動より、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」を生きやすくしている、非常に価値のあるものである。
 しかし、そんなメンヘラ.jpに対してはいくつかの批判がある。その一つは冒頭に紹介した「メンヘラ」というレッテルを貼ることへの問題だが、それ以外にも大きく三つの批判が存在する。これらの批判について検討することはメンヘラ.jpの今後の行く末を考える上で重要なことだと思われる。以下で一つずつ紹介する。

 


2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性

 メンヘラ.jpでは、「孤立」が問題視されており、メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちがより良い生活を歩むための「つながり作り」が目的とされている。確かにこれは重要なことである。
 しかし、ことメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちにおいては、不用意に「つながり」を作ることにリスクが伴うこともある。そのリスクは大きく二つに分けられる。

 

リスク①:当事者間のトラブル

 一つ目のリスクは「当事者間のトラブル」である。メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちは対人関係においても問題を抱えている傾向が強いと考えられる。よって、それらの当事者たちが「つながり」を作ってしまうと、結果的にトラブルに繋がってしまうことが通常よりも多いことが予想される。たとえ当事者の一方がトラブルを起こすような人ではなかったとしても、その人が別の当事者に対して過剰に気を使って無理をしてしまい、余計にメンタルヘルスの問題を悪化させるなどということもありうるだろう。
 また、これは同じ「メンヘラ」という言葉でメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちを括っていることの弱点であると言えるかもしれない。当事者たちはそれぞれ事情が異なる他者に対して想像が及ばず(あるいは想像力を働かせる余裕もなく)、お互いに攻撃的になってしまうということはありうるだろう。仮に、お互いに事情が似ていたとしても「同族嫌悪」が起こる可能性はある。例えば、似た事情の相手に対しては「私にできたんだからあなたにもできるはず」といった考えが働きやすく、自分と同等の努力をできない人に対してキツく当たってしまうなどといった事態が考えられる。


 このようなリスクがあるものの、おそらくメンヘラ.jpはそのリスクを認識していると考えられる。というのも、メンヘラ.jpの提供しているサービスにおいては、当事者同士の個人的な繋がりを作ることを推奨しているわけではない。あくまでメンヘラ.jp上において、読者投稿やお悩み相談などを通じてコミュニケーションが取られるだけである。よって、以上のような当事者間のトラブルが起こるには、当事者が自発的に他の当事者と個人的繋がりを作る必要がある。メンヘラ.jpの存在がそのような個人的繋がりを促進している側面はあるかもしれないが、積極的に推奨されているわけではない。そのため、当事者間の対人関係におけるトラブルはメンヘラ.jpを通じては起こりにくいとは考えられる。むしろ、当事者と支援者とのつながりや、支援者を媒介とした当事者間のつながりといった、より安全なつながりが作られていると考えられる(ただし、この支援者も万能というわけではない。「支援者」の問題については4.で述べよう)。
 また、以上のリスクを回避するために、自他の境界をある程度明確に設定し、「付き合えない相手とは無理に付き合わない」という態度があると良いかもしれない。他人を介在させず自己肯定する、良い意味での「孤独」が必要なときもあるだろう。しかし、そのような態度を選択することが苦手で、ついつい他人に巻き込まれたり、他人を操作したりする人もいる。これは次の②の論点にも関わってくる。

 

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 二つ目のリスクは「メンヘラのアイデンティティ化・コンテンツ化」である。まず、「メンヘラ」当事者たちがつながりを作ることで、より「メンヘラ」としてのアイデンティティを強化し、それに依存してしまう可能性がある。それによって例えば、他の当事者の自傷行為を真似したり、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなかったり(素人判断で誤った病名を自分に当てはめるなど)、治療を放棄したりといったことが起こりうるだろう。メンタルヘルスの問題の治療を目的とした場合には、これらは治療を阻害することになる。また、治療を目的としなかったとしても、「メンヘラ」という言葉のパワーによって個人の行為の自由が奪われていること自体が問題だと言えるかもしれない。
 また、「メンヘラ」を強いアイデンティティにすると、それによって他人からの承認を得ようという動きも出てくる。それが「コンテンツ化」の問題である。メンタルヘルスの問題は場合によっては面白おかしく、魅力的に語ることができる。しかし、それが不幸自慢の形を取り、「誰が一番不幸なのか」という競争がエスカレートしていくこともある。自らをコンテンツ化するために自ら不幸になるといったことが起こるのである。この不幸が最終的に自殺にまで至るかどうかは分からないが、「メンヘラ」という分かりやすい「コンテンツ」としてのイメージをアイデンティティとしてしまうことで、より大きな問題を抱えることになってしまうことは十分にありうるだろう。


 このようなリスクを避けるためであろう、メンヘラ.jpでは「①標準的な医療措置を否定するようなコンテンツ ②自傷行為、自殺、犯罪などを過度に奨励するようなコンテンツ ③病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」の掲載を断っている。そして、③に関してはメンタルヘルスの問題を肯定的に評価するのではなく、「受け入れる」ことを推奨している。よって、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化のリスクは抑えられている(ちなみに私見ではアイデンティティ化・コンテンツ化の問題は男女で現れ方が明確に異なるように感じるが、ここでは掘り下げない)。ただし、これらの文言に代表されるメンヘラ.jp全体の方針が更なる批判を生んでいる。それが次の批判である。

 

hyogokurumi.hatenablog.com

(2.はこの記事を参考にしました)

 

3.治療文化に伴う優生学的思考


 以下はこの記事

sutaro.hatenablog.jp

に基づいて批判を紹介する。必要なはずの論点が拾えていなかったり誤解があったりする場合は私の責任である(ので、その場合は私に指摘していただけると幸いです)。

 

 基本的に、メンヘラ.jpではメンタルヘルスに問題を抱える当事者の治療を推奨している。とりわけ、この「治療文化批判」が行われる以前においては、メンヘラ.jpで掲載を断っているものの③では「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」という、やや強い文言が書かれていた。その他、掲載されている記事には治療を推奨するものがいくつも見られる。以上のことから先取りして書いておくと、メンヘラ.jpは治療文化に則っている。
 治療文化とは「精神疾患発達障害を正常からはみ出た状態とし、治療(すべき)対象とするようなイデオロギー」を指す。しかし、これだけだと何が問題なのか分からないので、記事にならい、治療対象とされる人の問題解決の方法について三つのアプローチを紹介する。これはメンヘラ.jpが対象とする「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」にも適用できるので適用して考えてみよう。なお、この三つのアプローチについては

岡田有司、2015、「発達障害生徒における学校不適応の理解と対応―特性論,適合論,構築論の視点から」

https://takachiho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=86&item_no=1&page_id=13&block_id=21


が元となっている。

 

アプローチ①:特性論

 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者の特性にあると考えるものである。そして、その特性を変化させることによって問題解決するというアプローチである。つまり、基本的には当事者を治療することを指していると言っていいだろう。

 

アプローチ②:適合論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者を取り巻く環境にあると考えるものである。そして、その環境を変化させることによって環境を当事者に適合させるというアプローチである。これは具体的にはいろいろ考えられる。当事者の利用できる福祉制度や医療制度などを充実させたり、当事者にとって居心地の良い居場所を作ったり、周囲が当事者に気遣ったりといったところだろうか。

 

アプローチ③:構築論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、社会全体の価値観やその集団の価値観や周囲の人間のコミュニケーションなどによって「問題」として構築されていることにあると考えるものである。そして、当時者を取り巻く人々の価値観を変化させることで「メンタルヘルスの問題」とされていたものはそもそも問題ではないというところに持っていくアプローチである。というよりもより正確に言えば、それが「問題」なのかどうかという定義は外から決められるものではなく、当事者が問題だと感じるかどうかにかかっているというところに持っていく。

 

 治療文化は以上の三つのアプローチの内、構築論に対立し、特性論(部分的には適合論)に依拠する。それゆえ、この治療文化の問題点は、根底に優生学的思想があることである。どういうことかというと、治療文化は「正常からはみ出た、治療(すべき)対象」を当事者の外の特権的な位置から設定し、強制的に治療=根絶の対象にしているということである。
 よって、メンヘラ.jpが治療文化に則っていることから以下二つの問題が生じる。

 

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化

 一つは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が「治療(すべき)対象」であるがゆえに強制的に「正常からはみ出た」存在にされてしまうということである。通常「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」や「メンヘラ」という言葉には、医師からの診断を受けたわけでもないので「治療(すべき)対象である」という意味合いはない。にもかかわらず、「メンヘラ」という言葉がその対象範囲を広げた上で、従来の単純なレッテル貼りの道具として以上に、強いレッテル(「治療」すべき病気や障害)として機能し、当事者が自己肯定感を失ってしまうという問題である。

 

問題②:強制的な治療=優生学

 もう一つの問題は、強制的な「治療」は優生学的なジェノサイドを帰結するということである。例えば、「治療を受けたい人が治療を受け、障害や病気がなくなる」というのならば良いだろう。しかし、実のところ障害や病気にはしばしばメリットが伴うことがある。古くから「疾病利得」という言葉もあるし、発達障害の人間が特定の能力に優れているというパターンや、特定のパーソナリティ障害の人が魅力的なコミュニケーションをとるといったことはよく見られることである。いや、そもそも外から見て理由も分からないのが本人にとってはこの病気・障害が自分の人生や世界観にとってかけがえのない重要なものなのだと主張する場合もあるだろう。よって「治療を受けたくない人」も存在するのである。そのような人の障害や病気を外からの強制的な介入によって根絶することは許されない、という問題である。


 以上の二つの問題は、メンヘラ.jpの活動に再考を促す非常に根本的なものだと思われる。メンヘラ.jpとしてはこれらの問題をどのように避ければいいのだろうか。以下、メンヘラ.jpの立場に立って考えてみよう。結論から言えば、適度なバランス感覚を持って「程度」を定めることが必要だと思われる。具体的には以下①②③④の4つの「程度」について検討しよう。

 

程度①:「治療」を強調する程度

 まず、性急な治療だけが唯一の解答ではないということは言えるだろう。例えば、ADHDの治療に用いられているコンサータストラテラといった薬があるが、それを用いると創造性が失われてしまうために使わないようにしている、ということをADHDの当事者から聞いたことがある。薬による治療が必ずしも良いというわけではないようだ。これは一つの例だが、メンヘラ.jpにとっては治療以外の選択肢や「そのままでもいい」的な言説をある程度提示することが重要だろう。それによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」への苛烈なレッテル貼りは防げる側面があるだろうし、治療がジェノサイドにまで行き着くことを防げるだろう。
 (なお、批判とは直接関係ないが、治療以外の選択肢を提示することは、医療の権力を相対化できるというメリットもある。現代日本において、医療の権力が強いことによって問題が生じている側面は無視できない。例えば、製薬会社で開発された薬が存在するがゆえに特定の病気を「流行」させて、その薬を使える機会を増やす、といったことが起きている可能性が考えられる)

 

程度②:介入の程度

 先ほど「治療を受けたくない人」も存在するということを述べた。この選択を尊重することはリベラリズムという政治思想における「愚行権」を尊重することに当たるだろう(「愚行」という言葉を用いること自体がそもそもおこがましいのだが)。一方で、自身がどのような行動をとれば幸福に繋がるかということを自身では判断できない者もいる(典型的には精神疾患を抱えた人や小さな子どもが挙げられる)。そこで治療を勧めるなどの一定の介入が必要になってくる。メンヘラ.jpに掲載できないものを挙げた文言はその介入の一例である。介入がなければ、「メンヘラのコンテンツ化・アイデンティティ化」という自ら不幸を招く結果が目に見えているからだ。
 よって例えば、基本的には「よりよい選択肢」をメンヘラ.jpの側が提示するが、最終的に選ぶ権利は当事者の側にある、選択を強制はしない、という程度に抑えておくのが穏当なように思われる。しかし、どうしても強制せざるを得ない場面が出てきたり、強制していないつもりでも当事者には強制のように映ったり、といった問題はありうるだろう。更に、いったい何が「不幸」なのか、何が「よりよい選択肢」なのか、それを判断する権利がメンヘラ.jpの側にあるのか、それを推し進めるとやっぱり優生学なのではないかという問題がつきまとう。そこでメンヘラ.jpという「支援者」が信頼に値するのかという論点は重要になってくるだろう。これについては4.で述べる。

 

程度③:影響力の程度

 メンヘラ.jpは大きな影響力を持つようになってきたが、今のところその影響力は「メンタルヘルスに問題を抱えた当事者」の一部に対してのものに留まっているだろう。しかし、このまま影響力が拡大していくと、それこそメンヘラ.jpの提示する「治療」が当事者にとって絶対的なものとして映ってしまう可能性はある。また、メンヘラ.jpのサービスが肌に合わない当事者がいることも想像できる。そういう人たちの「他の選択肢」は確保する必要があるだろう。
 そこでメンヘラ.jpにできることは、影響力を限定的なものに抑えるというよりかは、メンヘラ.jpの方から他の選択肢を提示するということだと思われる。その意味で、全国の自助グループ、支援者団体等のデータベースを作るというクラウドファンディングには強い意義があるだろう。このデータベースにおいてはメンヘラ.jpが持っているバイアスがかかっておらず、多様性を確保できているかどうかのチェックが今後必要になってくる。私もそのチェックには協力したい。

 

程度④:「メンヘラ」定義の程度

 メンヘラ.jpにおいては「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」と定義されていると見てよいだろう。この定義は運用次第ではかなり広範囲の人を含めることができてしまう。それによって、レッテル貼りが横行したり、逆に「自分はメンヘラではない」という反発があったりといった問題が想定できる。メンヘラ.jpにおいては「みんなメンヘラでみんなしんどいんだ、だから無理しなくていい」ということが語られているように私には見える。この語りには人を安心させる効果もあるだろうが、「みんなメンヘラ」によって個別の問題が見えなくなっている側面はあるかもしれない。これは、2.のリスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化で述べたような、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなくなってしまうという問題でもある。
 よって、「みんなメンヘラ」にも再考が必要な可能性がある。例えば「メンヘラ」を程度問題や状態として捉えて考えてみるだとか、同じ「メンヘラ」でも個別の症状やジェンダーによって異なる捉え方をしてみるだとか、多様性・個別性の確保が「メンヘラ」の定義には求められるだろう。

 

 以上四つの「程度」について、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められると私は考える。それではメンヘラ.jpがそのようなバランス感覚を持った存在なのかどうか、これが最後の批判である。

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp

 メンヘラ.jpが「支援者」として信頼に値するかどうか。これは根本的に難しい問題である。というのも、1.の活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供 で述べたように、メンヘラ.jpにはアウトリーチ機能(支援が届きにくい人に届く機能)があると私は考えている。つまり、活動が「まとも」すぎるとやってこない人も、良い意味で「怪しい」からこそやってくるということがありうるのである。そこでは「メンヘラ」という言葉に対する偏見のようなものも逆用されている。
 実際、メンヘラ.jpの「まとも」ではない部分として、運営主体もまた「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるということが挙げられる。しかし、だからこそ当事者が共感を持ってメンヘラ.jpを利用する、そういったこともきっと起きていることであろう。
 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるかどうかは措くとしても、実際にわかり手氏がTwitter上で決して看過できない攻撃をされたりしたりしているのを私は目撃している。Twitter上で執拗に攻撃されることによって反撃したくなる気持ちは分かる。しかし、その中には恣意的で問題のある(ように私には見える)線引きを行って、攻撃している例があった。これでは、メンヘラ.jpが「支援者」としてバランス感覚を持って、適切な線引きをしていけるかどうかには一抹の不安を覚えてしまう。
 また、クラウドファンディングに関してもお金の集め方への不信から、でき上がっていくデータベースも「騙されやすい人達の情報集」になってしまうという批判もある。

hyogokurumi.hatenablog.com


これは確かに一理ある批判である。


 しかし、1.で述べたようなメンヘラ.jpの功績はこれらの問題を上回る価値があると私は考えている。そこで、メンヘラ.jpの活動の中止を求めるのではなく、メンヘラ.jpがこれらの問題をどのように回避できるかをやはり考えたいと思う。
 まず、支援者として「まとも」かどうかという問題だが、どんなに「まとも」な人間であっても誤りは犯してしまうものだろう。問題は、その誤りを謝れるかどうか、反省できるかどうかだと私は考えている。まず、自分で自分の間違いを認め、謝罪ができるということ、それがメンヘラ.jpの運営には求められるように思う。
 しかし、何が「間違い」なのかといったことすら自分一人ではなかなか判断できないだろう。また、一度してしまった過ちや攻撃による傷つきは取り返しがつかない部分があるかもしれない。だからこそ事前にそういった誤るリスクを減らす努力もまた必要である。そこで、メンヘラ.jpの運営事情を見てみると、どうやら複数の主体によって運営されているらしい。わかり手氏に管理運営が一極集中するという事態は避けられているようだ。メンヘラ.jp内部において良い意味で批判的にメンヘラ.jpを運営し、慎重にリスクを避けられる人間がいることに期待している。
 また、外部の人間も批判的に機能する可能性はある。今回私は3つほどの批判を紹介したが、外部からの批判が良い意味で機能することで、問題が生じるのを慎重に避け、かつ、メンヘラ.jpにしかできないことを最大限やっていけると良いと思う。私は個人的にはメンヘラ.jpの活動を応援している。問題があるときはちゃんと問題を指摘したいが、建設的な批判者としてメンヘラ.jpの活動を見守っていきたい。