引き続いて、メンヘラ当事者研究会関西第二回「『普通』ってなんだろう?」のレポートを書きます。これは二週間前ぐらいに実施しましたので、まだ記憶に残っています。
個人的感想というか、会が終わった後にも参加者の方と話していて出てきた話として、だいぶコミュニケーションや関係性や適応の話に偏っていたなと思います。集団における普通/普通じゃないとか、適応できるかできないかとかですね。
以下、内容をつらつら書いていきます。
ある人が「『普通』というのは『理解の努力を要さない』ということなのではないか」と言っていたのが印象に残っています。ある意味では、「普通」の人は理解し合うためのコストが小さい世界を生きているのかもしれませんね。
また、普通/普通じゃないということにそれぞれ両義的な評価があるのだなというところも分かってきました。普通に価値を置くがゆえの「『普通』マウンティング」などという言葉も飛び出していました。一方で、異常であることに憧れるだとか、アウトローな方が馴染みやすいだとか、集団に普通の人が入ってくると困るかもしれないだとか、そういう話があったと記憶しています。
その意味では普通性による序列化も起きていますね。人の選別においても「普通」という基準はしばしば用いられているようですし、確かに「普通」という基準を僕も用いざるを得なくなってしまうことはあるように思います。
途中でセクシャリティの話になったのも面白かったです。セクシャリティにおいてはむしろ「普通」ということがあまりないのではないかという話も出ていましたが、ある人は自分が普通じゃないというところで悩んだこともあったそうです。このあたりは興味深いです。
僕の場合、普通/普通じゃない、といったような境界線によって苦手意識を抱いている人たちがいます。そういう人たちに対してどうアプローチしていけばいいか、そういうことへのヒントをもらったような気がします。
アンケート
Q1:全体の満足度
Q3:司会役の進行は快適だったか
Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか
ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた
イ:話しやすい雰囲気だった
ウ:話すことを強制されていると感じた
エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った
オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった
カ:言いたくないことを話してしまったことがあった
キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している
今回はそこそこちゃんと司会できたように思います。人数が多いのでなんとも難しくはありましたが。また、無理に話を振りすぎるのもどうかな、というのも司会としてはいつも悩むところです。
「普通」というテーマは案外ドンピシャに響かないテーマなのかもなぁと感じました。「メンヘラ」という言葉と同様に、当事者研究の入口のための言葉の一つなのかなぁという感じはするものの、自分は普通ではない、という感じている人の方が圧倒的に多数派でしたので。ある社会学者が『〈普通〉という希望』という本を出していますが、「普通」ってのは敢えてやるものなのかもなぁ、とか思います。
また、冒頭にも書きましたが、「普通」というテーマはコミュニケーション的な悩みに収束しがちなのかもなと。どうしても内面的なしんどさとか、漠然とした死にたさや自己否定感とか、そういうものにはアクセスしにくいテーマなのかもなとは思いました。
あと、個人的にはそもそも今まで僕自身の悩みがコミュニケーションや人間関係に偏り過ぎていたんだなということを改めて思いました。
会計報告
収入 | 金額 | 合計 |
参加費 | △11000 | 11000 |
支出 | ||
会場費 | ▼0 | 11000 |
印刷費 | ▼0 | 11000 |
雑費 | ▼1100 | 9900 |
事務手当 | ▼2475 | 7425 |
司会手当 | ▼2475 | 4950 |
残金 | 9750 |
今回、新しく無料で使える会場を用意できたのですが、椅子とかホワイトボードとか足りてないので余っているお金で買っていきたいなと思います。
ホリィ・セン