メンヘラ当事者研究会関西第3回~居場所があるってどういうこと?~ レポート

ホリィ・センです。7月14日(日)のお昼に、京都でメンヘラ当事者研究会関西をおこないました。記憶が鮮明なうちにレポートしておこうと思います。

 

テーマは「居場所があるってどういうこと?」ということで、今までに自分にとっての居場所と言える場所があったかどうかを話していくところから始まりました。

 

「場に応じて自分を出す」ということについて

序盤では、「自分が出せる」ということが居場所の条件として主に語られていたように思います。その意味で、ある種の「寛容さ」を集団に求めるという人は複数いました。

しかし、どこかの場所Aでは出せている自分が、他の場所Bでは出せない、という人もいました。過激だと思われるのではないか、逸脱していると思われるのではないか、ここの集団には合わない話ではないか、などの理由から出さない話があるのだとか。

そのように「棲み分け」をするというのも一つのやり方で、それぞれに「居場所感」を感じることができる人もいるようです(Twitterのアカウント使い分けの話も出ていました)。ただし、場所によって自分のキャラクターや性格なども変わってしまったり、「合わせている感」があると居場所感を感じられなかったり、という話も出ていました。

棲み分けも可能な一方で、違う場所で出していた自分を他の場所でも出したい、という欲求を覚えるという人もいました。しかし、そうなってくると、各集団ごとの相容れない部分が問題になってきます。ある集団では、自分たちと「違う」存在である人々を軽視する場合がどうしても生じてきます(例えば、京大のようなアカデミック(だと思われている)場が、別の集団からは軽視される、など)。

その他の例では、家族に対して自分が出せるか、というところでつまずいている人がいるようでした。子どもにとって親は世代の違いもあり、どうしても異質性を持ってしまうというところでしょうか。

また、初対面の人が多すぎるといちいち関係を作っていかなきゃいけないのがしんどいという話や、あまりにいつもと同じ人ばかりだと外の風が入ってこない、などの話も出ていました。

いずれにせよ、異質性や多様性がありすぎると「居場所」感を持ちにくくなる一方、寛容さがなさすぎるのも問題だ、というジレンマが起こっていると考えられます。

では、どういうところが違うと居場所感がなくなるのか、逆にどういうところが同じでさえあれば居場所感を担保できるのかという問いが立つのかな、という話が出ていました。

 

帰属意識とサードプレイス

集団ごとの「棲み分け」とは別の考え方として、自分がはっきりと帰属意識を持って居れる集団、自分のアイデンティティを担保してくれるような集団を求めているのだという話もありました。その場合、「サークル」や「コミュニティ」のような、たまに出入りしたり自由に抜けたりするような集団では限界があるのではないか、という話にもなってきます。

そこで、キーワードとして「ファーストプレイス/セカンドプレイス/サードプレイス」という言葉が出てきました。ざっくり言えば、ファーストプレイスとは家庭のこと、セカンドプレイスとは学校や職場のこと、サードプレイスとはそれ以外のサークルやコミュニティなどを指すのだと思います。

歳を重ねる中で、ファーストプレイスを充実させる(結婚して家族を作る)ことや、セカンドプレイスを充実させる(会社への帰属意識を持った「会社人」になる)ことが社会から要請されることがあります。しかしそのプレッシャーにもかかわらず、家族を作ったり会社に馴染んだりできない人はどうすればいいのか、歳を重ねていくうちに「無」になっていく、という話が出ていました。

そこで、ファーストプレイス人間(「マイホームを持つ」、みたいな感じでしょうか)やセカンドプレイス人間(「社会人」という感じでしょうか)に対して、サードプレイス人間は成り立つのか、という問いについても検討されていました。あるいは、サードプレイスがファーストプレイスのように強固な場になりうる(帰属意識を持てる場になる)ことはありうるのか、ということも話されていました。

 

「いる」ことの可能性

そもそも居場所に入ること自体が苦手だという話もありました。自己主張が苦手で、特に何かをするわけでもなくそこにいるだけの人は、そのコミュニティに苦手意識を持っているのではないか、と。

アサーション(自己主張)トレーニングができるような場を設けるという案も出ていました。ただ、そもそも何かをしていなければそこに居てはいけない、ものなのでしょうか。

僕自身も会を主催する側として、何もせずにいるだけの人を見ると、あまり楽しめていないのではないか、手持ち無沙汰にさせてしまっているのではないか、と不安になってしまうことがあります。

しかし、その観点からすると「いる」ことに価値を見出している人の話は面白かったです。例えば、自己主張が苦手な人だけの集まり、というのもありうるはずです。みんなが「いる」だけ、ということもありうるのではないかと。また、そこにいるだけで「思い出の共有」はできるし、何か他の人が話していることを「吸収(インプット)」することはできるし、「雰囲気を楽しむ」だけもできるかもしれないのだと。

そのあたりの話を聞いて、僕自身がまさに「いる」だけというのを苦手としているのだなということを感じました。例えば僕は「ライブ」が苦手です。何をしていればいいのか分からないし、「ノる」こともできないからです。どこに身を置いておけばいいのか分からないがゆえに「居心地の悪さ」を感じることになります。「雰囲気を楽しむ」方法を僕も身につけたいなと思いました。

 

アンケート

Q1:全体の満足度

Q3:司会役の進行は快適だったか

Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか

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ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた

イ:話しやすい雰囲気だった

ウ:話すことを強制されていると感じた

エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った

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オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった

カ:言いたくないことを話してしまったことがあった

キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している

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会計報告

収入 金額 合計
参加費 △9000 9000
     
支出    
会場費 ▼0 9000
印刷費 ▼0 9000
雑費 ▼600 8400
     
事務手当 ▼2100 6300
司会手当 ▼2100 4200
     
残金   13950

 

事務(会の日程決め&ツイプラ作り、レポートを書く)や司会(当日の運営・司会)をやってくれる人を募集しています。

来月こそホワイトボード買うぞ。

 

 

ホリィ・セン