「オタク系」文化と「社会学」の不幸な結婚?

 大学のTA(ティーチングアシスタント)の仕事で書いた文章がそこそこよく書けた気がするので、ちょっと手を加えてブログにも掲載します。
 佐藤郁哉佐藤俊樹北田暁大の議論を自分なりに整理しただけなので、別にオリジナルなことは書いていませんが、「社会学」なるものが世間でどのように受け入れられて(しまって)いるのかに興味がある人が読むと面白いかもしれません。

 

(ちなみに、ググったらとても似たコンセプトの論文が既にありましたので併せて紹介しておきます。
永田大輔、2017、「『オタクを論ずること』をめぐる批評的言論と社会学との距離に関して」『年報社会学論集』30: 134-45。https://ci.nii.ac.jp/naid/130007480185

 

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 いわゆる「オタク系」文化は90年代以降の日本の社会学の研究対象として一定の地位を確立してきました。
 しかし、その一方でオタク系文化を対象とした研究は、社会学(あるいは社会学"的な"批評)が陥りがちな問題を象徴的に示してしまっています。今回は、ある種の「反面教師」として、以下「オタクと社会学」にまつわる三つの問題について論じていきましょう。

 

1.「反映論」の落とし穴と「オタク系」作品

 漫画・アニメ・ゲームのような作品はしばしば「オタク系」文化として挙げられます。みなさんの中には、そのような作品を「社会を映し出す鏡」と考える人がいるかもしれません。例えば、「作品を経年比較することによって時代の変化を描き出す」ような研究や評論はよくあるものです。
 しかし、社会学者の佐藤郁哉(2015)は社会調査について論じた本の中で、「文化現象には社会を忠実に映し出す鏡のような側面がある」という「反映論」を批判しています。そのような反映論的分析においては、社会的な要因が文化現象に対して実際に影響を与えていくメカニズムやプロセスへの分析、例えば文化の制作者(著者、芸術家、出版社など)、受け手(読者、視聴者など)、それらを媒介するゲートキーパー(流通業者、評論家など)、およびそれらの人々が属する集団や組織が具体的に果たしている役割についても検討が必要になってくるはずだ、ということを佐藤は述べます。
 すなわち、作品を社会を見るための「鏡」のように用いる場合は、単純な反映関係というよりは、その間に介在するさまざまな「屈折要因」の作用を明らかにしなければ、「本体」に辿りつけないということです。そのような慎重な分析を経ずに社会と文化現象(作品など)との反映関係を語ると、主観的な印象や感想を述べているに過ぎない「素朴反映論」に陥ってしまうと佐藤は述べています。


 とりわけ、そのような「反映論」的な分析が行われがちなのが漫画・アニメ・ゲームなどの「オタク系」の作品群なのではないでしょうか。そのことを大澤真幸(2008)のオタク論を元に述べたいと思います。
 大澤は「おたく」という言葉には、(「あなた」や「君」のような)二人称としての意味だけでなく、「お宅」すなわち「家」の意味が込められていると述べ、とりわけ「閉じられた個室」のメタファーであることを論じています。
 そこから大澤は、「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という仮説を立てています。その傍証として、鉄道マニアがローカルな路線図のネットワークから国民国家の領土や世界を見ていること、オタクが窓のない閉じられた(「外部」がなく、それ自体で完結している)個室を好むこと、「移動する個室」のような大きなカバンを常に持ち歩いていることなどを挙げています。また、大澤は明示的には述べていませんが、「キミとボク」のような個人的な関係性が「世界の命運」のような包括的な問題へと(中間にある具体的な社会を経ずに)短絡する「セカイ系」と呼ばれるジャンルも同型の構造を持っていると言えるでしょう。
 大澤の図式に乗っかるのであれば、「オタク系」作品の批評というのは(たとえ社会学的な装いを帯びていたとしても)、主観的な印象や感想を作品に投影することによってそこに「世界」を見ようとする「素朴反映論」に陥りがちなのではないでしょうか。


 なお、東浩紀(2001)の「物語消費からデータベース消費へ」という図式について、二つの消費形態は断絶したものではなくあくまで連続したものだと大澤は解釈しています。というのは、「ガンダム」シリーズのような(「小さな物語」の)作品もあくまで特定のひとつの物語だからです。
 そして、求められている物語(「大きな物語」の補完物としての物語)の普遍性の水準が上昇すると、あまりにも包括的なコンテクストをカバーするためには必然的にその内部での諸要素の間の連関性は失われることになります。そのため、物語としての外観を失った要素の単なる集合=「データベース」として「物語」は現れると大澤は述べています。

 つまり、大澤の論においては、「データベース消費」であってもやはりオタクは普遍性を希求している、ということになるでしょう。

 

 

2.社会学と「社会学

 ところで、大澤の「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という図式や、東の「物語消費からデータベース消費へ」のような図式は、日本の社会学研究者コミュニティよりもむしろ、一般の人々に広く受け入れられた図式だったように思います(そもそも東は社会学者ではありませんが)。


 このように、大学などの高等教育機関で教育・研究されている社会学がある一方で、雑誌や一般書、ラジオやテレビで語られる「社会学」(カギカッコつき!)の二つがあるということを社会学者の佐藤俊樹(2010)は論じています。
 佐藤は固有名詞を挙げていませんが、テレビにも出てくるような「スター社会学者」について考えてみましょう。90年代に女子高生のブルセラショップや援助交際オウム真理教地下鉄サリン事件などについて論じた宮台真司や、フェミニストとして知られる上野千鶴子などが挙げられるかもしれません(最近では「ワイドナショー」や「ニッポンのジレンマ」などに出演している古市憲寿なども想起するかもしれません)。


 このような「スター社会学者」たちを筆頭として世間で語られる「社会学」と、大学で教えられる社会学との違いはなんでしょうか。佐藤によれば、その違いは「過剰説明」にこそあります。
 「社会学」は特定の図式や「理論」によってなんでもかんでも説明してしまうために、自らの議論の適用限界や反証可能性がしばしば明示されません。そのため、論理が飛躍してしまったり、経験的な調査データがない部分まで説明しようとしてしまったりすることになります。


 例えば先ほどの大澤は「アイロニカルな没入」や「第三者の審級」、東は「動物化」や「観光客」、宮台は「島宇宙化」や「意味から強度へ」のような図式・理論を提出していますが、それらの図式がどこまで適用可能なのか、そして適用する場合はどのような手順の経験的調査が行われたのかといったことがなかなか明示されません。
 それでもこのような図式の「分かりやすさ」「シンプルさ」、あるいは一元的な図式によって社会全体を把握できる(ように思える)「万能包丁」は魅力的です。複雑化していく社会をスパッと理解できる単純な図式が、マスメディアにおいても求められていると言えるでしょう。
 しかも、佐藤も述べているように、そのような「社会学」の人気に底上げされる形で、学生たちが社会学に対して興味を持ったり注目したりするという事態は実際に起きていることです。言わば、社会学と「社会学」とはある種の共犯関係になってしまっている側面があります。
 大学で研究している社会学者も一般書によってまるでコピーライターのごとくキャッチーな言葉を発明し、社会に影響を与えることがあります(家族社会学者の山田昌弘の「パラサイト・シングル」や「婚活」、上野千鶴子の「おひとりさま」など)。あるいは「社会学」的装いのうえで一般書が売れるということがあります(土井隆義の『友だち地獄』や古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』など)。


 そして、「オタク系」文化もしばしば「社会学」の対象となってきました。例えば、北田暁大は『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)という著作で、1960年代から10年ごとの「反省」「アイロニー」の歴史を描くことで、社会の「2ちゃんねる」化(アイロニー(嗤い)を持ちながらも「電車男」に本気で感動してしまうような志向の共存)を説明しています。
 しかしこの本は経験的データが恣意的に選択され、「○○年代」に対して偏った説明が与えられているのではないかという疑問が湧いてくる点で、カギカッコつきの「社会学」寄りの本とも言えます。


 北田自身、「『社会批評』から離れてなにか他のことをやらなきゃいけない」(岸ほか 2018: 11)という問題意識の末、『社会にとって「趣味」とは何か』(2017)という本ではブルデュー理論の批判や計量調査に基づいたオタク論を展開しています。これは社会調査に基づく「普通の学問」としての社会学を標榜したオタク論と言えるでしょう。
 北田も編著者である『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(2018)ではそのような北田の「転向」に呼応して、地道に社会調査を積み重ねていく形での社会学が重視されているように思います。この潮流において「オタク系」文化は「社会学」的な批評の対象というよりも、あくまで社会調査の一対象として見られているのではないでしょうか。
 つまり、佐藤が社会学と「社会学」との共依存的関係を論じたのは2010年のことでしたが、今や特定の理論図式による過剰説明による「社会学」は流行らなくなってしまったのかもしれません。


 なお、佐藤(2017)は「特定の規範がある」という説明図式を社会学において効果的に活用する方法についても論じています。社会学はついつい「雇用におけるジェンダー不平等が維持されるのは、不平等なジェンダー役割規範によって働き方が規制されているからだ」などという規範による説明に頼りがちですが、これでは規範によってなんでも説明できてしまい、カギカッコつきの「社会学」と同じ落とし穴にハマることになります。
 そうではなく、物理的な制約や、具体的な制度(法律やルール、経済的な合理性など)で説明できるものは説明した上で、それでも説明できない残余部分こそを規範によって説明した方が説得力のある社会学的分析になると佐藤は論じています(詳しくは文献を参照)。
 また、実際に(卒業論文を含む)論文を書く際には、単に現象に理論を当てはめるだけでは研究としての新規性は薄いと言えます。調査によって得られたデータから、その理論によっては説明できない部分を解釈していき、元の理論の修正をはかっていく、といった態度が必要になってくるのではないでしょうか。

 

 

3.「~化」という説明図式

(※ここの議論は北田(2010)に強い影響を受けています)

 上ではカギカッコつきの「社会学」を批判してきましたが、そもそも社会学理論による「過剰説明」の図式に対する批判は社会学内部でも起こってきたことです。おそらく最も象徴的な例は、1950年代頃のアメリ社会学におけるタルコット・パーソンズの社会システム理論に対する「誇大理論(グランド・セオリー)」への批判です。
 パーソンズの理論は「誇大」であるがゆえに、マクロな社会現象とミクロな社会現象とがどう繋がっているのかが分からないという批判や、経験的な調査が等閑視されているという批判、また、社会の中の個々人が持つ主体性が無視されているといった批判を受けることになりました。
 しかし、社会学のビッグネームたちの多くが用いてきた誇大理論があります。それは、「近代化」や「~化」と呼ばれる「社会変動」についての理論です。箇条書き的に挙げるならば、コントの「三段階の法則」、スペンサーの「社会進化論」、マルクスの「唯物史観」、テンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」、ヴェーバーの「世俗化」、デュルケムの「環節的社会(機械的連帯)から組織的社会(有機的連帯)へ」、リースマンの「伝統志向/内部志向/他人志向」、ベルの「脱工業化社会」、ギデンズやベックの「再帰的近代化」、バウマンの「リキッド化」、ライアンの「監視社会化」などなど……。
 社会学は何かと何かを比較する形での研究がオーソドックスであるため、時代ごとの比較をするという方法がどうしても流行してしまいます。その結果、「~化する社会」のような言葉が標語的に用いられ、その適用範囲が無際限に押し広げられてしまいます。


 日本の社会学においてそのような社会変動を描いた代表的なものとしては、見田宗介による「理想の時代(1945~60)/夢の時代(1960~75頃)/虚構の時代(75頃~90頃)」という15年ごとの時代区分があります。これらはそれぞれ「現実」の対義語が並べられています。経済的には戦後のプレ高度経済成長期、1973年のオイルショックで低成長の時代に入るまでの高度経済成長期、1991年のバブル崩壊やそれに続く構造改革に至るまでの時代、と考えられます。
 経済現象ではなく文化現象に対応づけるならば、夢の時代は学生運動の盛り上がりと退潮の時期に一致していますし、大澤真幸も述べているように「虚構の時代の果て」には1995年の地下鉄サリン事件があります(東はその後の時代を例の「データベース消費」から「動物の時代」として論じましたし、大澤は「これぞ現実!」という感覚を求める心性を「現実への逃避」と呼び、「不可能性の時代」として論じました)。
 これらは確かにもっともらしい時代区分ではあるのですが、研究として捉えるのであればやはり2.で述べたようにその経験的な実証性や、理論の適用範囲が問われるべきでしょう。

 例えば、山田昌弘(2005)は家族について論じる際に、1975年と1998年を転換点として捉えており、似たような時代区分を用いていると言えますが、それはある程度制度的な変化や統計上の変化に基づいたものになっています(しかし、注目するデータ次第では別様の時代区分もありうるでしょう)。


 逆に言えば、「~化」は経験的な実証性を伴わない場合がしばしばあります。よく言われるのは「少年犯罪の増加」が一部で語られている中、統計的には犯罪は減少していたというものです。
 このように、経験的データに基づかない言説を統計などの経験的データによって反駁していくことは社会学の一つの仕事と言えます(実際にそういう研究はあります)。

 

 しかし、このような言説と実態とが矛盾するような事態が起きる理由はなんでしょうか?
 その理由は、言説がいわゆる「実態」から独立して固有のメカニズムで動いている、ということでしょう。つまり、「経験的データに基づかない言説」自体も一つの社会的事実と言えます。よって、言説上において「少年犯罪が増加している(あるいは深刻化している)」と述べられること、それ自体のメカニズムを探求することも社会学のもう一つの仕事と言えるでしょう。


 単純な説明として考えられるのは、マスメディアにしても評論家にしても、過去と現在をどのように比較しているのかを明らかにしないまま現在の問題を「問題化」し、「昔は良かった」式の話法に頼っているというパターンがあります。あるいは、マスメディアの事件報道が視聴者の「体感治安」を悪化させているのかもしれません。より包括的には日本社会全体が「劣化」したという「劣化言説」が90年代以降流行しました。とりわけ目立っていたのは「ゆとり」や「ニート」などの言葉を用いた「若者バッシング」です。
 「劣化言説」が発生するメカニズムはいろいろと考えられますが、この場合、社会学者としては、例えば「若者の人間関係は希薄化している」という言説があった際に、「人間関係が希薄化した/していない」という区別・定義は誰がどのように行っているのか、その区別・定義はいかなる社会的条件の元で可能になっているのかということを(社会学者が勝手に「理論」によって説明するのではなく)内在的に記述していくことが重要でしょう。


 具体的な例を挙げましょう。北田(2010)が挙げている中村功(2003)の研究によれば、携帯メールによる個人的な繋がりを強く求める人たちは、リアルな人間関係も活発であり、孤独感も低いそうです。その一方で、孤独を恐れる度合いが高いそうです。また、「人間関係が希薄化している」という希薄化論を受け入れる20代の割合は増えているそうです。
 これらの知見を総合するならば、若者の友人関係は客観的な人間関係の数や「孤独感」という基準においては、人間関係は濃密になっていると言えます。それと同時に、「孤独になることが恐い」という基準においては「人間関係が希薄化している」と区別していると言えるのではないでしょうか。
 ここでは、「希薄化した/していない」という区別を、当事者の用いている基準に内在的な形で探求することで、一見「にもかかわらず」と接続されそうな部分を、「それと同時に」として説明することが可能になっています。この点で、より精緻な社会学的説明がなされていると言えるでしょう。


 もちろん、このような説明ですら、量的データから明らかになった「孤独になることが恐い」を「人間関係の希薄化を受け入れている」ことに接続しているため、厳密には論理飛躍があります。そこで、研究対象となる人々が用いる概念に寄り添う形での研究方法として「エスノメソドロジー(人々の-方法論)」や「概念分析」といった研究手法が日本の社会学の一部の界隈では流行し始めています。実際、先ほど挙げた北田(2017)においても第七章で「おたく」の概念分析が行われています。

 

【文献】
東浩紀、2001、『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社
岸政彦ほか、2018、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣
北田暁大、2005、『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHK出版。
――――、2010、「【『社会と個人』の現代的編成】フラット『化』の語り方」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 385-92。
――――、2017、『社会にとって「趣味」とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房新社
中村功、2003、「携帯メールと孤独」『松山大学論集』14(6): 85-99。
大澤真幸、2008、『不可能性の時代』岩波書店
佐藤郁哉、2015、「反映論の強靭な生命力」『社会調査の考え方 下』東京大学出版会: 238-9。
佐藤俊樹、2010、「【社会学/『社会学』】背中あわせの共依存――あるいは『殻のなかの幽霊』」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 393-400。
――――、2017、「29 規範と制度」友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留編『社会学の力――最重要概念・命題集』有斐閣: 100-3。
山田昌弘、2005、『迷走する家族――戦後家族モデルの形成と解体』岩波書店