サークルクラッシュ同好会とは何か? その戦略の全貌

 この記事はサークルクラッシュ同好会リレーブログ2020の15日目の記事です。14日目はゆーれいさんの記事のはずですが、この記事の投稿の時点ではまだ更新されていません。

 テーマは「あなたにとってサークルクラッシュ(同好会)とは?」とのことです。

 思い返せば、2016年11月発行のサークラ同好会会誌第5号に「サークルクラッシュ同好会運営マニュアル」という文章を書き、最近ブログにもアップロードしました。

holysen.hatenablog.com

 しかし、この記事はサークルを立ち上げて活動するための技術的な側面が強く、サークラ同好会そのものの明確な理念などについては書けていません。

 サークラ同好会を2012年に立ち上げて既に9年目になりますが、その間に様々な会員と出会いましたし、様々な活動を展開し、試行錯誤してきました。その経験を経て、僕の中で考えたことはたくさんあります。

 そこで、せっかくなのでこの機会にサークラ同好会の活動が何を目指しているのか/実際に何をしているのか、その戦略の全貌を書こうと思います。

 

目次:

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 ①「サークルクラッシュ」から見えてくる人間関係の生きづらさ

 ②ダークツーリズム戦略

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 ①社会における「ダーク」な人たち

 ②「所属」が苦手な人たち

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(ダークな人たち編)

 A:ダークサイドの語りの場

 B:「理論」の学習

 C:「実践」的な活動

 参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(所属が苦手編)

 所属なき活動

 参考:「一見さん」の機能

 所属しないということは一枚岩にならないということ

 

まとめ

 

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 「サークルクラッシュ」はもともと2005年に作られた言葉であり、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。

 この言葉を用いることが、「特定の個人(特に女性)に責任を押し付ける」という機能を持つことは当初から問題視されてきました。そこで僕は「サークルクラッシャー」という“”に焦点をあてた言葉ではなく、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを重視してきました。

 「そんな問題のある言葉はそもそも使わなければいい」という議論もあることでしょう。それでも「サークルクラッシュ」という言葉にこだわる第一の理由は、隠れている生きづらさの問題を可視化できるからです。

 

①「サークルクラッシュ」から見えてくる生きづらさ

 具体的には、集団において恋愛関係のトラブルが起きた際に、そのトラブルがどのように起きたのかを理解するための補助線となります。どんな恋愛トラブルが「サークルクラッシュ」と呼ばれるのでしょうか。

 例えば、「集団内の二人が付き合っていたが、結局は別れた」というだけでは、ただのよくあることで、「クラッシュ」とは呼べません。彼ら二人に何か問題があるとも考えないでしょう。

 その一方、「サークル内で恋愛をする気のないAさんはサークル内の人に友達として接しているつもりである。にもかかわらず、同じサークル内のBさんやCさんやDさんは、Aさんと恋愛関係になれると勘違いしてしまい、関係がこじれていく」などといったパターンはまさに「サークルクラッシュ」と呼ばれるような事態です。

 

 これは、抽象化して言えば、「関係に対して一方が抱いている期待ともう片方が抱いている期待とがあらかじめズレてしまっている」がゆえに生じてしまうトラブルです。そこには、自分が望む関係を相手に伝えることができない、相手が自分に望む関係を読み取ることができない、友だち関係/恋愛関係になりたいのになれない、などといったある種の「未熟な」人々が関わっている可能性が高いです。そのような「未熟な」人々のなかで生じる恋愛トラブルは「サークルクラッシュ」という言葉と(連想的に)結びつきます。

 そして、「自分が相手に望む関係」や「相手が自分に望む関係」といった期待は、しばしば「男性らしさ」「女性らしさ」というジェンダー規範に則って形成されます。特に恋愛関係においては、しばしば社会に流通している「男性らしさ」「女性らしさ」が再演されることになります(「ナイトと姫」の関係、「奢り・奢られる」関係などを想像すれば分かりやすいでしょう)

 しかし、そのような「男性らしさ」「女性らしさ」にうまくノれない(ひいては社会の「主流」にも馴染めない)人々もいるのです。そこで、「サークルクラッシュ」というレンズを通すことによって、そのような人々に生じたトラブルの具体的な困難が見えてきます。

 要するに、「サークルクラッシュ」という言葉は、社会の「主流」に馴染めない人々が抱える様々な困難を連想するための補助線です。「サークルクラッシュ同好会」に、(主に人間関係における)ある種の生きづらさ、上手くいかなさを抱えた人たちが集まってくるのは、この名前のおかげでもあるのです。

 

②ダークツーリズム戦略

 第二に、「サークルクラッシュ」は、人々のゴシップに対する欲望を掻き立てる「あるあるネタ」であると言えます。

 上で述べた「生きづらさ」を直接テーマにした(たとえば「居場所」や「支援」のような看板を掲げた、わかりやすく「正義」にかなった)団体をやっていくことも確かに可能ですし、そういった団体には意義があると思います。

 しかし、そのような「まとも」に見える団体ではリーチしにくい層もいます。例えば「差別」や「生きづらさ」のような問題に対して強い関心を持っていない層もいるでしょう。そういう人たちに対してはむしろ、やや扇情的な表現によって暗い好奇心、ある種の「偏見」を利用して「裏口から」誘導するという方法がありうると思います。

 「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるそのゴシップ性を用いることで、「生きづらさ」からやや遠いところにいる人も惹きつけることが可能になります。

 そして、最初は好奇心をキッカケにサークルクラッシュ同好会に参加した人も、最終的にはふだんなかなか語りにくい生きづらさや性愛、ジェンダーといった「まじめな」問題について考え、語り合える場に辿り着くことを狙っています。

 ここで期待しているのは、アウシュヴィッツ強制収容所チェルノブイリ原発などへの暗い好奇心を利用して観光させてその場所の現実を教える、「ダークツーリズム」と同様の効果です。

 

 以上の①②のいずれにせよ、サークルクラッシュ」という言葉をうまく用いることで、他の概念や視点ではリーチしにくい層にリーチできるということが、「サークルクラッシュ」にこだわる理由です。

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 では、サークルクラッシュ同好会には、「まとも」に見える活動ではリーチしにくい層が実際に来ているのでしょうか。以下、二つの側面から見ていきましょう。

 

①社会における「ダーク」な人たち

 サークラ同好会に来る人にはさまざまな人がいます。「生きづらさ」という面で言えば、例えば社会の「普通」の規範にノれない人々。いわゆる「男らしさ」「女らしさ」のようなジェンダー規範にノれない人、自身の恋愛の上手くいかなさに対してコンプレックスを抱いている人、無意識に人との距離感が近くなってしまう人、同性と仲良くするのが苦手な人、メンタルヘルスの問題を抱える人などが来ています。このような人が集まってくる理由は、「サークルクラッシュ」という言葉からこれらの困難が連想されるからでしょう。

 その中には、サークラ同好会が「ちょっと怪しい団体」であるがゆえに来た人もいるはずです。というのは、「まとも」であることや世間の「建前」に対して相性が悪い人もいるからです。

 具体的に述べましょう。例えば、「自傷行為や処方薬の過量服用(OD:オーバードーズ)は人に言えない恥ずかしいことだ」と思っている人がいたとしましょう。その人にとって、自身の自傷行為やODについて「まとも」そうな人に対して語ることは難しいかもしれません。「怒られるんじゃないか」「『やめた方がいい』という正論を言われるんじゃないか」といった恐れを持つからです。

 他にも、恋人からハラスメントや暴力を受けている人や、複数人と性的な関係を持っている人、逆に自身が性的に承認されないことを悩んでいる人なども同様の恥ずかしさや恐れを持っているかもしれません。一般的に言えば、「誰かに聞いてもらいたいけど、人に話すのは恥ずかしい/恐い」ことを抱えている、言わば「ダーク」な人たちがいるわけです。

 一方、サークラ同好会は「ちょっと怪しい団体」です。そこに集まる人々も「ちょっと怪しい」ことでしょう。「ちょっと怪しい」がゆえに、「ダーク」な人たちは自分の「まとも」ではない(社会における主流の価値観からは逸脱した)部分についても話を聞いてくれるのではないか、と。そのように期待し、自身の「ダークサイド」について語ってくれます。そして、サークルクラッシュ同好会の人々が、(「やめた方がいい」「間違っている」などと言うことなく)興味を持ってその語りに耳を傾けることで、サークラ同好会は安心して「ダークサイド」について語ることができる場になっていきます。

 確かに、自傷行為や暴力などは実際に深刻な害をもたらす場合があります。しかし、大事なのはその「害」をできる限り減らすことです。そう考えると、「よくないからやめた方がいい」という「正論」は役に立たないかもしれません(「やめた方がいい」と言うこと自体が人を孤立させていく可能性すらあります)。

 むしろ、被害を軽減するためには「ダークサイド」について語り合うことが効果的な場合がしばしばあります。社会的に良くないとされていることを安心して語れて、孤立しない。そういう場をサークラ同好会は目指していると言えます。

 また、先ほど述べた「ダークツーリズム」の戦略を採っていることから、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、最初から強い関心を持っていたわけではなかったりする人もサークラ同好会には来ます。そういう人たちにとっては、以上のような「ダークサイド」について触れ、学ぶ機会は重要でしょう。

 

②「所属」が苦手な人たち

 もう一つの特徴として、「所属の論理」が苦手な人がサークルクラッシュ同好会にはよく来ます。

 所属の論理とは、体育会系の組織などをイメージすれば分かりやすいかもしれません。先輩-後輩や上司-部下といった上下関係がはっきりとあり、タテの関係を継承していくような組織です。そこでは、一人ひとりが組織のためになんらかの役割(仕事)をこなす必要があるでしょう。

 そして、人間関係も往々にしてベタベタしたものになってきます。こういった「所属」に縛られたくなかったり、馴染めなかったりといった人もいるものです。そういう人たちがサークルクラッシュ同好会には来ます。

 具体的には、二パターンです。たくさんのサークルに入ったうえで、サークラ同好会にも来るという人と、普段居る場所に居場所がないからこそサークラ同好会に来るという人とがいるように思います。

 いずれにおいても、①で述べた「ダーク」な人たちは一定数います。しかし、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、強い関心を持ってはいなかったりするにもかかわらず同好会に来る人もまた、「所属」を苦手としている人がほとんどです。

 おそらく、「所属が苦手」という特徴は、サークルクラッシュ同好会会員の本質的な特徴の一つと言ってもいいでしょう。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「ダーク」な人たち編)

 それではサークルクラッシュ同好会ではどのような活動が行われているのでしょうか。先ほどの①「ダーク」な人たち、②「所属」が苦手な人たち、という分類に即して、まずは「ダーク」な人たちが集まるがゆえの活動について書きましょう。

 

A:ダークサイドの語りの場

 サークラ同好会はダークサイドの語りの場です。具体的には「当事者研究」という、誰もがなんらかの「生きづらさ」の当事者であるという立場から、テーマを決めて話し合い、自分のことについて研究するという会をよくやっています。

 また、ブログ上において「自分語り」をするという慣習があり、そこでも社会に対する疑問や生育環境などが語られ、しばしば「ダーク」な内容が含まれます(そういうことを語ろうという空気があるのです)。

 年に一、二回発行される会誌においても、「自分語り」を含んだエッセイは多くを占めています。口で語るだけでなく文章によって語るということも奨励されているということです。

 

B:「理論」の学習

 読書会などもよく開かれています。読書会に選ばれてきた本としては、抽象的な理論について書かれた本から、具体的な実践について書かれた本まで幅広いです。

 言うならば、学術的なジェンダー論について学ぶと共に、俗ないわゆる「男女論」などについても学ぶ、というイメージです。

 先ほどの当事者研究のことを考えるならば、専門知の学習と当事者としての研究を両方ともやっていると言えるでしょう。普段の会話や会誌においても学術的に言われていることと、具体的な経験とを往来するような語りが見られる気がします。

 サークラ同好会では言わば、人間関係やジェンダーにおける「理論」と「実践」と行き来していると言えるでしょう。

 

C:「実践」的な活動

 ここでいう「実践」的な活動のなかには、次のような活動が含まれます。「インプロ」と呼ばれる身体や発声を用いた即興劇的なコミュニケーションのゲーム。服を自分ではあまり買いに行かない人のための「服を買う会」。ここ数年は行われていませんが、旅行やバーベキューなどの「リア充擬態活動」みたいなものもありました。

 「ダーク」な人たちにとっては、Bで述べた「理論」と同時に、「実践」的な活動も重要になってきます。というのも、社会の「光」の側面、「ライトサイド」にいる人は社会の中で壁にぶち当たることが相対的に少なく、いちいち立ち止まって考える必要がないのに対し、ダークサイドにいる人たちはいちいち立ち止まるからです。社会への不適合を前にして、立ち止まらざるを得ないのです。

 立ち止まった人は、まず言葉を使って現実を「理論」的に捉えます。多くの言葉を尽くして、現実を把握し直します。それによって、自身と現実との距離を埋めていくのです。しかし、理論だけでは実際の行動にはなかなか結びつきません。言語化されたものは「実践」に応用されなければなりません。そこで、ある程度実践的な活動が必要になってくるわけです。

 

 このように考えると、サークラ同好会ではAで述べたような「語り」が行なわれると同時に、日常生活の具体的な「経験」も重視していますサークルクラッシュ「研究」会ではなく同好会という名前をつけたのも理由のないことではありません)

 また、理論的に現実を「相対化」することを重視していると同時に、とりあえず今生きている社会に「適応」するというベクトルも持っていると言えるでしょう。

 「理論」と「実践」、「語り」と「経験」、「相対化」と「適応」。それらは、ダークな人たちがこの生きづらい社会をサバイブしていくための、車の両輪と言えます。一見相反する活動ですが、それらは両方とも必要になってきます。理論だけでは社会の「外側」にしか居られず、実践だけでは社会の内側で居づらい思いをすることになるからです。

 

参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 以上のことをもっと別の、図式的な視点からも説明しましょう。僕は「サークラ同好会って何をやっているサークルなんですか?」という質問に対して、かつてこのような説明を好んでいました。「サークラ同好会はネタサークルであり、メタサークルであり、ベタサークルである」という説明です。

 「ネタサークル」とは「他のサークルをクラッシュする」だとか、「サークルクラッシャーを養成して他の団体に送り込む」だとか、そういった「ネタ」性を活かして目立つ活動をするサークルです。

 「メタサークル」とは一歩引いた目線からサークル、人間関係、コミュニケーションといったものを「研究」することで、具体的には自分語りや会誌作成のような活動をするサークルです。

 「ベタサークル」とは普通の(ベタな)サークルがやるような、新歓や定例会や交流などの活動をするサークルです。

 これを先ほどの「理論と実践」、「語りと経験」、「相対化と適応」の二項対立の話に当てはめれば、サークラ同好会では「メタとベタ」の往還運動をやっていることになります。「ダーク」な人たちの場合、立ちはだかる現実をまず「メタ」化したうえで、ゆっくりていねいに「ベタ」な社会と関わりを持っていくことになるでしょう。言わば、「メタ」の「頭でっかち性」を「ベタ」が補完していることになります。

 それでは、「ネタ」とはどのような機能を果たしているのでしょうか。いくら「メタとベタ」の往還運動の重要性を訴えても、それがきわめて内輪の、タコツボ化した活動となってしまっては意味がないでしょう。

 そこで先ほどの「ダークツーリズム」の発想が出てきます。「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるゴシップ性、すなわちネタ性を活かして外部の人を惹きつけるわけです。

 すなわち、ここで言う「ネタ」とは「内輪ネタ」のネタではありません。むしろ、「話題性やゴシップ性があり、ミームとして拡散する力がある」というニュアンスの「あるあるネタ」であるがゆえに、「外部の目」をサークラ同好会に持ち込むことができるのです。

 なお、「ダーク」な人たちをネタ性によって引きつける場合、先ほど述べたように現実のメタ化から入り、その後にベタに戻ってくることになりますが(ネタ→【メタ→ベタ】)、「ダークツーリズム」の場合はまず第一に、ベタな「生きづらさ」の“現実”を知ってもらった上で、その後でメタ化していく(広い視野から物事を捉える)活動が始まるように思います(ネタ→【ベタ→メタ】)。

 いずれにせよ、「ネタ」性によってサークルを外部に開くことで、サークルのタコツボ化を回避する狙いがあります。

 更に、「ネタ」という言葉は「話題にできる」というニュアンス、すなわち「話のネタ」という意味でも使っています。サークラ同好会では「コミュニケーション」や「自己」を話題とすることによって、誰でもある意味「専門家」として語りに参加することができます。基本的に、誰にでも「コミュニケーション」の経験は蓄積されており、「自分」について思うことはあるからです。

 この意味での「ネタ性」のおかげで、サークラ同好会が拠点としている京都大学のような場所には必然的に生じてしまう「メタサークル」の特権性、すなわちエリート主義(卓越主義)やオタク性(タコツボ性)が中和されます。要するに「カシコそうな人が集まってて恐い」「話題についていけないのではないか」という感覚を緩和しているのです。

 そして、このようなネタ性を介した「外部への開放性」は「所属なき活動」へと直結しています。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「所属」が苦手編)

 サークルクラッシュ同好会に集まる人たちの本質的な特徴の一つとして、「所属が苦手」という特徴がある、と先ほど書きました。それゆえに、サークラ同好会では「所属なき活動」という活動形態を編み出しました。

 

所属なき活動

 サークラ同好会の定例会は月に2回開催していますが、毎回はじめに「自己紹介」をするようにしています。「例会には自由参加」と明言しているためか、ある程度レギュラー化している会員たちですら毎回来るという人は少なく、初めて会うという人も多いのです。

 毎回の自己紹介においては、毎回その場で2,3個のトークテーマ(夏休みに何をしていたか、最近ハマっていること、など)を決めて律儀に一人ひとり話していきます。これにより、初めての人でも自動的に一定のコミュニケーションの機会を担保できるので、スムーズにその場に入っていけるようにするという狙いがあります(とはいえ、話すことを強制するわけではないので、パスもOKです)。

 例会には自由参加というだけでなく、会費はありませんし、京大生や大学生でなくともLINEグループに入会すれば会員、という方式にしています。これは、会員であるための条件や義務をできるだけ排除するためです。

 もちろん、代表を始め、イベントの企画や例会の招集、司会、新歓のビラ貼りなどといった役割を誰かがやらざるを得ないのですが、それらを義務にはしていません。これにより、会員でありながら来たいときに来る、「所属」のしがらみをなくしているのです。

 

 会員だけど「所属」している感がない、ということは、裏を返せば非会員でも活動に参加できるということです。そのため、活動を積極的に外部に開いてもいます。上で述べた当事者研究やインプロ、読書会、ボードゲームのような交流活動も含めて、初見の人を歓迎し、できる限りTwitterアカウントでも活動を告知するようにしています。

 他にも、例会ではない突発的な企画として「普段一人では行けない場所に行く」というコンセプトの活動を外部の人を巻き込みながら展開しています。「服を買う会」や「リア充擬態活動」がそれです。最近では、外部の特殊なコミュニティに行ってみたり、特殊なイベントに参加してみたりといったある種の「社会科見学」もおこなっています(このような活動を指して、僕はサークラ同好会を「陰キャのイベサー」と呼ぶこともあります)

 よって、サークラ同好会会員は「所属が苦手」ゆえに、会の活動としても「所属なき活動」を展開しています。つまり、会員/非会員の境界を曖昧にすることによって、体育会系の組織などにありがちな「所属の論理」を無効化しているのです。

 

参考:「一見さん」の機能

 かつて、僕の友人であるダブル手帳氏がサークルクラッシュ同好会の例会の感想として、こんな記事を書いてくれました。

double-techou.hatenablog.com

 ダブル手帳氏は、サークラ同好会の例会の「居心地の良い雰囲気」を成立させている構造は「一見さん」にあるのだと指摘しています。

 以下、ダブル手帳氏による、サークラ同好会の例会に来る人の三分類です。

 

①中心メンバーを含めた常連の会員。例会に頻繁に参加。

 〔……〕

②コミットが中程度のシンパ層。ごくたまにしか例会に参加しない人、あるいは①のうち幾人かと個人的な結び付きが元々あるものの例会には初めて来たという人など。

 〔……〕

③今まで何らコミットが無く会員との個人的面識も殆ど無い状態で初めて例会に参加する層。いわゆる「一見さん」。

 

 ダブル手帳氏によれば、③の「一見さん」に配慮せざるを得ないがゆえに、「内輪ノリ」が避けられ、内部でのカースト(序列)が無効化される側面があるようです。

 実際にダブル手帳氏が述べているほどのことができているかと言われると自信がないですが、僕自身、高校までのクラスのようなノリ・空気感に嫌気が差していました。それゆえに、自然ともっと「ゆるやかな」集団を形成できたのかもしれません。

 すなわち、上で述べてきた「所属の論理」を解きほぐすようにサークラ同好会はデザインされていると言っても過言ではないでしょう。

 

所属しないということは一枚岩にならないということ

 「所属の論理」を避けた結果、おそらくサークラ同好会の会員には多様性が保たれており(半分以上は非京大生です)、同好会内の一部の権力が暴走してしまうリスクに対しても歯止めが効いているのではないでしょうか。

 1月に書いた謝罪記事 にあるように、少なくとも2012~14年頃の僕は、浅い理解で性差別について考えていましたし、男性である自分自身の立場性にも無自覚的でした(もちろん現在においても、自身の性差別についての認識を実際の社会に照らし合わせて更新していく必要があると感じています)。

 そんな僕に対しても、同好会内には多様な立場があり、かつ語りの場が豊富なおかげで建設的な内部批判がなされてきました(単なるヤバい不和もあったかもしれませんが……)。この8年間、サークラ同好会は相互批判の中で成長してきたとは言えると思います。

 要するに、サークルクラッシュ同好会では「所属」という感覚が希薄だからこそ、「一枚岩」の組織ではないのです。内と外の間にある境界の曖昧さはこれからも保っていきたいですし、もっと外部にも「ダークサイド」についての語り合いの輪を広げていきたいと思っています。

 

まとめ

 「サークルクラッシュ」という言葉は、この社会における様々な生きづらさを連想するための補助線として用いています。そして、その言葉がゴシップ性を持つ「あるあるネタ」であることによって、「生きづらさ」についてあまり深く考えたことがない人にも届くことを狙っています。

 サークラ同好会には、この社会に対して生きづらさを感じている「ダーク」な人たちがやってきます。そして、そのような「ダークサイド」について様々な人が楽しく語り合い、学び合う場であることを目指しています。そのために、「理論」と「実践」、言い換えれば「メタ」と「ベタ」を往復する活動を重視しています。

 また、サークラ同好会は体育会系の組織のような「所属の論理」を苦手とする人が集まってきます。だからこそ、義務をできるだけなくし、例会には自由参加とし、会員/非会員の境界が曖昧で外部に開かれた「所属なき活動」を展開しているのです。

 

 サークラ同好会はTwitter上でこれからも活動日を告知していきますので、この記事を読んでいただいた方にはぜひ、一度サークルクラッシュ同好会にお越しいただければと思います。お話できるのを楽しみにしています。

 

 リレーブログの次の16日目の記事はこじらせ神さんの記事です。よろしくお願いします。