『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』(知念渉)のレビュー記事

 大学に提出するレポートで、質的調査に基づいた本をレビューするというものがあったので、知念渉の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』をレビューしました。せっかくなのでブログに載せておきます(8000字ぐらいです)。

 

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1.本の要約

 この本は、2000年代後半以後における「ヤンキー」言説の盛り上がりにもかかわらず、「ヤンキー」についての学術的な調査研究が十分に行われていないという背景のもとで書かれた、エスノグラフィーの研究成果である。まずは、本の要約をする。

 日本の「ヤンキー」にまつわる先行研究は次の三つの立場に整理される。

 

①若者文化としてのヤンキー:

 佐藤郁哉の『暴走族のエスノグラフィー』(1984)に代表される。「少年期→青年期→成人期」という安定したライフスタイルにおいて「ヤンキー」という若者時代を位置づけ、分析の焦点となっているのはヤンキーが共有するシンボル(単車、特攻服など)である。また、2000年代以降は「オタク」論と対置されるかたちで「ヤンキー」が論じられているが、当事者に深くコミットして内側からその文化を描くという試みはほとんどなされていない。

 

②生徒文化としてのヤンキー:

 この立場では学校が求める規範や価値との関係においてヤンキーの学校経験が分析されてきた。70-80年代は「学歴社会」「競争社会」論を背景に、「学校のなかで低い地位を与えられた者が、その地位に対する不満を募らせた結果」(43ページ)として人々がヤンキーになるという「地位欲求不満説」が支配的だったという。しかし、90年代になるとそのモデルの説明力が低下したことが明らかになり、また、教育社会学においてジェンダー概念が本格導入されたことから、男性だけを想定したモデルも再考を迫られるようになった。

 

③階層分化としてのヤンキー:

 イギリスの労働者階級の少年たち〈野郎どもlads〉の学校経験を描いたポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(1977=1996)は、90年代前半頃までは②の立場において受容され、イギリスと日本の文化の違いが強調されてきた。しかし、90年代後半頃からは「格差社会」論、「フリーター」「ニート」に象徴される若者の雇用問題、「子どもの貧困」といったものが社会問題化されるなかで、「学校内でのメリトクラティックな競争に乗らない/乗れない生徒」という共通点が見出され、『ハマータウンの野郎ども』は再評価されることとなった。そこで分析の焦点となったのは、ヤンキーの出自(家庭背景・出身階層)と労働であった。

 

 これら三つの立場はそれぞれが相互に批判し合う関係にあり、補完し合っているとも言える。しかし「ヤンキー文化」を三つの立場のいずれかに還元して解釈される傾向があったために、「ヤンキー文化」の同質性を強調し、その内部にある多様性が看過されてきたのではないかと著者は指摘する。

 そこでこの本では、若者文化、生徒文化、階層文化を生み出す場として、それぞれメディア・ストリート空間、学校空間、社会空間という場を想定し、それぞれの場においてはたらく三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査する。なお、この本における「社会空間」という言葉は、先行研究の知見から「階級・階層」と「ジェンダー」の作用が交差した場を意味している。

 

フィールドと方法

 著者は大阪にある社会経済的に厳しい状況に置かれた人々が集住する地域のX高校をフィールドとして選択肢、2009年から2012年までの間、2年半の参与観察をおこなった。X高校では600人程度の生徒数のなかでも、ひとり親家庭率50%以上、生活保護世帯率約30%で、およそ三分の一の生徒が中退する、家庭背景的にも学力的にも厳しい生徒たちが多数入学してくるのだという。また、X高校は同和教育運動の影響を強く受けており、様々な困難を抱えた生徒たちに対して正面から取り組む教育実践に特徴があるという。

 著者は一年生の〈ヤンチャな子ら〉と呼ばれる男子生徒たちに注目し、インタビューをしたり、より深く話を聞いたりすることができた14人を対象に分析を展開している。第3章で詳しく展開されているように、研究者の側が生徒たちを類型化してその特徴を描く「類型論的アプローチ」とは異なり、〈ヤンチャな子ら〉という境界が曖昧な集団を対象としていることによって、彼らのカテゴリー実践に基づいて集団の境界の維持や変動、集団内部の階層性を描き出すことを可能にしている。

 また、三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査していくという先に述べた方針ゆえに、家庭の文化とフォーマルな学校文化との間の関係性が、教師とのやりとりのなかでどのように現れているか(第2章)、〈ヤンチャな子ら〉が著者との相互行為のなかで「貧困家族であること」をどのように記述するのか(第4章)、高校中退/卒業後の仕事への移行経路はどのような要素によって規定されているのか(第5章)といった問いが設定され、それぞれの章でそれぞれの先行研究の文脈に乗せながら分析されていく。

 

調査結果

 調査の結果、調査当初に一様の集団と著者自身捉えていた〈ヤンチャな子ら〉が、一見まとまりをもった一つの集団のように見えるものの、そこには「社会的亀裂」が生じていて、二つの経路を生きる若者が見出されるということが明らかになった。そして、その亀裂は(階層とジェンダーの作用が交差する)社会空間の力学によって生じている。

 また、〈ヤンチャの子ら〉と教師の関係性が必ずしも対立的ではないということ(第2章)、家族の語りの流動性・相対性・多元性に着目することの重要性(第4章)なども明らかになった知見である。

 

考察

 ヤンキーを重層的な三つの力学のなかに位置づけ、〈ヤンチャな子ら〉という現場の言葉を出発点に対象にアプローチした意義について著者は述べる。その意義は、メディア・ストリート空間の力学が特有のスタイルを供給し、彼らを統合しつつも、社会空間の力学、すなわち育ってきた経緯によって集団内部に社会的亀裂を生じさせているということを明らかにしたことである。

 そして、これらの力学が具体的に出会う場として学校を位置づければ、X高校の教師たちの教育実践が〈ヤンチャな子ら〉の家庭の文化とフォーマルな学校文化の葛藤を緩和させていたからこそ、〈ヤンチャな子ら〉が一つの集団としてある程度の期間学校に留まって過ごせていたと言える。

 また、〈インキャラ〉と呼ばれていたような生徒たちは、〈ヤンチャな子ら〉と社会空間上の位置は近いにもかかわらず、メディア・ストリート空間上の位置が異なるがゆえに〈インキャラ〉とカテゴライズをされていたと言える。この説明もまた、重層的アプローチを採用しているがゆえに可能となっている。

 さらに、〈ヤンチャな子ら〉のなかでも劣位の立場に置かれた者が暴力を振るう際に、自らの「男らしさ」を暴力によって証明するという社会的文脈があったことが示されている。ここでもまた、重層的アプローチによって集団内部の二面性を明らかになったおかげで、男性性の原理が具体的な文脈においてどのように現れるのかが精緻に分析されたと言える。

 より広い社会的文脈においては、貧困の世代的な再生産は「貧困層に特有の考え方や生活様式がある」という〈貧困の文化〉概念によって先行研究では説明されることが多かったのに対し、〈ヤンチャな子ら〉の内部にある二つの層の差異の発生には、「地域や学校、家族で安定した社会関係を築けていない」がゆえに厳しい状況に置かれるという社会関係の次元の方が大きく関わっていることが明らかになった。よって、当研究の成果は、社会関係の次元に着目することの重要性の発見であり、著者による実践的・政策的な提案もそこから導きだされている。

 

結論

 社会関係の次元に注目することによって導き出された著者の実践的・政策的提案は社会的な合意がなければ実現しないことから、〈ヤンチャな子ら〉が抱える問題は、私たちの問題でもあると著者は述べる。

 それに対し、「ヤンキー」は、「暴走族」や学歴社会における「落ちこぼれ」、「子ども・若者の貧困」を生きる存在など、私たちの社会を映す鏡のように語られてきた。それゆえに、「ヤンキー論」はいつの間にか「自分語り」にスライドし、ヤンキーと呼ばれる人々のリアリティを捉え損ねてしまう危険性がある。だからこそ著者は、〈ヤンチャな子ら〉のリアリティをきちんと描き出し、他者への想像力を喚起することを目指した。

 

2.自分がこの本をどう読んだか

 次に、この本を自分がどう読んだかについて、エスノグラフィー、ポスト構造主義ジェンダー研究、構築主義的家族研究、子ども・若者の貧困研究の4つの観点から述べた後、この本に通底する「カテゴリーへのこだわり」という観点から全体について述べ、自分の研究にも接続する。

 

2-1.エスノグラフィーとして

 2年半のねばり強い参与観察が行われているだけあって、〈ヤンチャな子ら〉一人ひとりの個性や個々の状況のリアリティがフィールドノーツの引用やインタビューのスクリプトから生き生きと描き出されている。

 このことが特に効いているのは第2章に描かれている〈ヤンチャな子ら〉と教師たちの相互交渉の部分だと思う。もし、教師たちがどのような教育実践をしているかを知るだけであればそこまで長い参与観察を必要としないように思われる。

 しかし、〈ヤンチャな子ら〉の家庭と学校との間にあるジレンマに対処する戦略を教師たちに繰り出すのに対して、教師たちもまた対処戦略を無化したり流用したりしながら教育活動を遂行していく、そして、結果として〈ヤンチャな子ら〉は教師たちを肯定的に評価している、などといったきめ細かい分析にあたっては、〈ヤンチャな子ら〉への深いインタビューはもちろんのこと、教師と〈ヤンチャな子ら〉との間の相互作用場面の描写は不可欠だろう。

 終章で述べられているような、X高校の教師たちが状況に応じて〈しつける教員〉と〈つながる教員〉を使い分けていたことの意義は、第2章の精緻なフィールドワークがあったからこそ説得力がある。

 

2-2.ポスト構造主義ジェンダー研究として

 第3章では、〈ヤンチャな子ら〉が自分たちの集団の境界を維持したり変容させたりする実践において、〈インキャラ〉というカテゴリーに注目している。そして、アクロバティックなことに、その分析戦略をポスト構造主義ジェンダー研究の観点から「男性性」というジェンダーに注目するためにも用いている。

 ポスト構造主義に基づいた日本の「ジェンダーと教育」研究では、研究者の側から二分法的な性別カテゴリーをアプリオリに想定することや、ジェンダーの社会化-内面化図式が否定されてきた。しかし、その方針を貫徹すると、児童や生徒が「男子」や「女子」といった性別カテゴリーを明言するという、かなり限定された場面でしかジェンダーの作用を見出せなくなってしまう。

 だからこそ著者は敢えて「男性性」をデータに照らして自分で定義し、そして〈インキャラ〉というカテゴリーの適用においてどのように「男性性」が組み込まれているのかを分析するという方針を採っている。

 そして、コンネルやホーソンの「男性性」の定義、江原由美子の「からかい」論をもとに〈インキャラ〉という言葉がどのように機能しているのかを整理している。となると、データに照らして、なぜその「男性性」の定義を採用するのか(すべきなのか)が正当化される必要があるとは思うが、残念ながらそのような記述は見られない。

 とはいえ、どのような文脈のもとで〈インキャラ〉というカテゴリーが用いられ、そのことがどのような構造を規定しているのかについての厚い記述は見事としか言いようがない。それにより、男性学において重視されている「男性内でのヘゲモニー闘争」がしっかりと描かれており、第3章は男性学の文脈においても重要な位置づけを持った研究であることは間違いないと私は思った。

 

2-3.構築主義的家族研究として

 共働き夫婦の増加や、子どもを持たないカップルの増加、離婚の増加等、近年の家族をめぐる変容は日本の家族社会学において、「家族の多様化」論として論じられてきた。そこでは、パーソンズの構造機能主義の影響を受けた「標準的家族」像を批判し、乗り越えることが企図されている。

 その研究の流れに「構築主義的家族研究」と呼ばれるものがある。この研究においては、研究者の側が制度や形態、機能の面から家族を定義するのではなく、「家族」という概念が語りや言説においてどのように用いられているのかに注目する研究である。

 この研究の意義は、構築主義的家族研究を批判的に検討した久保田裕之(2010: 10)によれば、従来の血縁や婚姻に基づく家族研究が取り上げてこなかった、家族に関する個人のリアリティ構築という、新しい研究の平面を開拓したことに求められるべきだという。

 以上のような研究の文脈を踏まえた上で、著者は松木洋人の子育て支援の研究において、「子どもへのケア提供は引き受けるが、『親であること』は引き受けないという実践」が行われていることによって、家族が子どもへのケア提供を外部化しつつ「親であること」は放棄しないということを実現していることを参照している。そして、山田昌弘による、家族関係は「機能的欲求」だけでなく、自分の存在意義を確認する「アイデンティティ欲求」をも満たす関係になっているという整理を参照し、「家族であること」に配慮した支援を「アイデンティティ欲求」に配慮した支援として解釈している。

 そして、第4章のデータでは「貧困家族」についての記述の実践が相互行為のなかで描かれており、「正常な家族/逸脱的な家族」という区別の揺らぎ(あるいは家族経験の多元性)がどのように起こっているかを明らかにしている。

 これは構築主義的なインタビュー解釈の方法論として優れているだけでなく、構築主義的家族研究とアイデンティティ欲求を接続するという山田の方針を応用することで、見事に〈ヤンチャな子ら〉の語りのデータから「当事者たちの『家族であること』を担保しながら、家族以外の者がケアを提供していくこと」(231ページ)という実践的な提言を導き出している。

 ともすれば単なる記述で終わりかねない「構築主義的家族研究」の方法論によって、データから実践的な提言を導き出すところまで持っていっていることに感心した。

 

2-4.子ども・若者の貧困研究として

 私がこの本を読む前の素朴な印象として「ヤンキー」というのは階層的には困難な状態にあっても社会関係資本や精神的健康においては恵まれている場合が多いのではないかと思っていた。しかしそんなことはなく、著者は厳しい状況に置かれた人々が集まるX高校を戦略的にフィールドに選ぶことで〈ヤンチャな子ら〉のなかの二面性を描き出せている。

 私の素朴な印象は打ち破られ、「『その立場にいたら自分もそういう行動をしたかもしれない、そういう選択をしたかもしれない』という、人々の他者への想像力」(239ページ)を喚起されたように思う。

 そして、階層再生産や支援において、文化の次元よりも社会関係の次元が強く効いているのではないかという知見も面白い。北田暁大・解体研(2017)ではブルデュー文化資本による象徴闘争が界によっては成立していないのではないかということが実証的に検討されているが、その知見を参考にするなら、階層再生産や支援においても経済資本が強く効いてくる場合、文化資本が強く効いてくる場合、社会関係資本が強く効いてくる場合などを分ける基準があるのではないかと考えられる。

 ざっくり言えば、お金があれば幸せになれる人、文化的に豊かであれば幸せになれる人、サポートネットワークがあれば幸せになれる人、といったものを分けるなんらかの基準があるのではないかと思う。

 

2-5.「カテゴリーへのこだわり」について

 この本は人々のカテゴリー実践に対するこだわりが全体を通して強いように感じた。「ヤンキー」という言葉は敢えて現場の〈ヤンチャな子ら〉という言葉に置き換えられ、第3章でも第4章でもジェンダーや家族に関するカテゴリー実践が主題になっていることで、分析が豊かなものとなっている。

 再帰的近代化論に則って現代社会のことを考えるならば、研究者が固定的なカテゴリーに固執するのではなく、社会における多様な成員の解釈的なカテゴリー実践に依拠しながら調査研究をすることはますます重要になっているように思う。

 「(マイルド)ヤンキー」という言葉に典型的なように、語義が曖昧なまま使用が拡散していく言葉(いわゆる「バズワード」)はこれからますます増えていくことだろう。その意味では「家族」のような既存の概念の用法も変化していかざるを得ないだろう。

 そこで、著者のようなカテゴリーの使用にこだわった分析戦略を採用することは、経験的研究のリアリティを担保するうえで重要なことだと思う。

 ただ、その意味では第5章の「見通しをもてる仕事/見通しのもてない仕事」という分類は、正規/非正規という区別が不適切であったにせよ、〈ヤンチャな子ら〉の仕事経験に必ずしも寄り添いきれていない分類のようにも思われる。著者が見出した〈ヤンチャな子ら〉の中にある社会的亀裂そのものが、このような分類によって固定的なものになってしまっている側面もあるのではないだろうか。

 

2-6.私の研究において

 私は修士論文においてコンネルの理論を用いながら、文化系サークルの男性内における力学を描いたという点でこの本の第3章の議論に通ずる分析を行っている。ただし、そこではあくまでインタビューから得られた情報から集団内の力学を再構成したに過ぎないため、この本のように参与観察に基づいて男性性実践を精緻に分析したものは非常に参考になった。

 また、私は博士課程においてはシェア居住の研究を通じて、そのようなジェンダーの観点からの分析に加え、「家族」をめぐる記述の実践を分析するつもりである。「家族」をめぐる記述の実践が描かれたエスノグラフィーが読めたのはその意味で幸運だった。

 ただ、私はシェア居住の研究においては「ライフストーリー」の観点を重視したいと考えている。この本に書かれた「若者文化としてのヤンキー」の立場にある先行研究の整理によれば、こんにちの日本の状況では、少年期→青年期→成人期という安定したライフサイクルを前提にできないために、2000年代以降のヤンキーを描くためには「一定の年齢期に活動し卒業していくといったパターンを前提」(40ページ)にすることはできないのだという。

 それに対して、著者は幼少期→学齢期→移行期の軌道を想定し、三つの力学と高校入学までにたどってきた軌道が高校入学以後の生活実践を規定するとしながら〈ヤンチャな子ら〉を記述している。

 そして第4章では〈ヤンチャな子ら〉からライフストーリーを聞きつつも、「記述の実践としての家族」という視点の有効性を引き出すために、「調査で得られた語りのなかに対象者の家族に関する出来事や経験を見つけ出すというよりも、特定の文脈や状況で私との相互行為のなかで対象者がどのように家族を記述していたのか、それ自体を分析する」(150ページ)という鶴田幸恵・小宮友根(2007)による桜井厚の「対話的構築主義」への批判を受けての方針を採用している。

 この方針はデータに応じて設定されており、正当なものと言える。ただし、私が修論でおこなった「ライフストーリーにおける失敗経験」の分析のように、「転機」を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析したい場合は、前者の桜井の方針も採用しうるように思う。

 私が今後予定しているシェア居住についての調査でも、家族にまつわる記述の実践を分析するための「人生のなかの語り」という方針と、転機を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析するための「語りのなかの人生」という方針とを使い分けることになると思われる。

 

【文献】

知念渉、2018、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー――ヤンキーの生活世界を描き出す』青弓社

北田暁大・解体研、2017、『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房。

鶴田幸恵・小宮友根、2007、「人びとの人生を記述する――『相互行為としてのインタビュー』について」『ソシオロジ』52(1),21-36,159。

久保田裕之、2010、「家族定義の可能性と妥当性――非家族研究の系譜を手がかりに」『ソシオロジ』55(1): 3-19,136。