『ネットは社会を分断しない』(角川新書)まとめ

面白かったので雑に要約しました。Twitterとか使う人はぜひ読んでほしい。

 

 

ネットは社会を分断しない (角川新書)

ネットは社会を分断しない (角川新書)

 

 

1章:ネットにみんな希望抱いていたけど、幻滅してきてる
→保守派/リベラル派の分断が起こってるっぽい。分断が強まりすぎると相互の対話ができなくなるので、民主主義の危機である

 

2章:「社会の分断の原因はネット」説の紹介
①情報を見る側は、「選択的接触」をする(見たいものだけを見て、見たくないものは見ない)
特に、ネットではそれが強くなる(フィルターバブル、エコーチェンバー)

②情報を発信する側が増えた(パーソナルメディア化)
世間の意見は中道が多い山型の分布をしているので、情報発信者が少ない場合は、顧客獲得のために中道にならざるを得ない。マスメディアは寡占状態で、参入する者が少なかった。
→しかし、ネットの発達により個人が発信できるようになり、メディアが増えた(メディアのパーソナル化)。パーソナルメディアでは参入コストが低いので、少数な過激な人を顧客(ターゲット)にしても十分やっていける。
→よって、過激なメディアが発達する。

以上より、「ネットは社会を分断する」というのが定説。
実際、ネット利用と意見の分極化(保守に強く偏っているorリベラルに強く偏っている)には相関がある。

 

3章:ネットを使わないはずの高齢者の方が過激
10万人規模の調査をしたところ、
①若者より高齢者(60代以上とか)の方が過激(リベラルまたは保守への意見の偏りが大きい)。
②女性よりも男性の方が過激。

若者の方がネットをよく使うので、①は2章までの議論と矛盾している。なぜか。
→因果関係が逆だからでは。
「ネット利用が意見を過激化させる」のではなく、「過激な意見を持った人、すなわちなんらかの発信をしたい人がネットメディアを利用するのを好む」という因果関係ではないか。

 

4章:2時点調査で、ネットの利用を開始した人を調査
①全体としては過激化していない
②若い人や女性はむしろ、ネット利用(ブログを見る)を通じて穏健化している
③最初からとても過激な人(端にいる2割の人たち)はTwitterを利用すると、より過激化する傾向は一応見られる

 

5章:保守派の人がリベラルな発信者に触れる/リベラル派の人が保守派の発信者に触れる割合(クロス接触率)は意外と高い
TwitterFacebookではクロス接触率4割。マスメディアとか紙媒体とかと比べてもこれはむしろ高いぐらい
・(当たり前だが)過激になればなるほど、クロス接触率は下がる
・両方の意見に触れると穏健化するという実験結果もある

2章の話と逆の結果になっている理由は何か?
①ネットでは「選択的接触」が起こるということだったが、(マスメディアと比べて)複数のメディアに触れるコストも低くなるために、多様なメディアに触れていると考えられる
②ネットでは一部の人の声がデカく見えるから、それをそのまま受け取ると2章のような話になってしまう

 

6章:ネットは罵倒と中傷ばかりに見えるのはなぜか
「人々の政治的態度」ベースでは偏っていない。むしろ中央に多く分布している。
しかし、ネット上の「書き込み総数」ベースで見ると偏っている。
なぜなら、ネットでは発信したい意見を持っているごく一部の人が何度も書き込むということが起こっているから(ヘビーライター)。
例えば、憲法9条の問題について、総書き込み数の半分は0.23%の人が書き込んだもの。

閲覧頻度から言っても、よく書き込む人のものがよく読まれる。

しかも、両極端の強い意見が目立っていることで、穏健派は書き込みを萎縮するようになる。

よって、ネットの書き込みは、真ん中の方にいるサイレントマジョリティたちの声を代表していない。

「下ネタ好きの女性」の困難

はじめに――友人関係と性的被害

 昨年、第8回 青少年の性行動全国調査報告をまとめた『「若者の性」白書』が発売された。

 

 

 僕は第7章の性的被害について書かれた箇所に興味を惹かれた。その中でも、性的被害と友人関係に関するデータが興味深い。

 それによれば、高校生と大学生において、

 

 

  • 「現在の友人関係のイメージ」を「楽しくない」としている者ほど「恋人以外からの性的被害」を受けている傾向にある(ただし大学生男子にはそのような傾向はない)

  •  「あなたは、友人と、性の問題についてどのくらい話しますか」という設問に「よく話す」としている者ほど「恋人以外からの性的被害」・「恋人からの性的被害」を受けている傾向にある

     

という。

 これについて羽渕は「青少年は、既存の友人関係のイメージが悪いことから、性的被害にあう可能性を高めるのだが、ケアを求める先もまた友人であると推測できる」(羽渕 2019: 161)という解釈を述べている*1

 そこで羽渕の解釈を否定するわけではないが、敢えて女性に関してのみ、逆向きの因果の方向を考えてみたい。すなわち、「友人と性の問題について会話している」女性が、そのことによって性的被害に遭いやすくなっているという因果関係について考える。

 

*1:その一方で羽渕は、「性的被害にあったことによって、友人と性の問題について会話しているのか、友人と性の問題について会話している層が被害にあいやすいのか、データのみで解釈することはできない」(羽渕 2019: 162)と、因果関係についてはペンディングしている。

 よって、因果関係がない可能性すらある。例えば、「性行動が活発であるがゆえに、友人と性の問題について会話する頻度が高い」、「性行動が活発であるがゆえに、性的被害に遭いやすい」という二つの因果関係が特定できれば、「性の問題について会話する頻度が高い」と「性的被害に遭いやすい」は擬似相関ということになる。

 

「下ネタ好きの女性」がタゲられる理由

 ここからがこの記事の本題。ありていに言って、「下ネタ」を話すことを好む女性は、男性から性的なターゲットにされやすい傾向があるのではないか、と僕は考えている*2

 その理由を以下、三点挙げよう。

 一つ目の理由は、下ネタを話すことを好むがゆえに、「性に対してオープン」であることを期待されてしまうからである。それにより女性は、男性から「ワンチャンありそう」「自分でもいけそう」(性的関係になれそう)と思われてしまうリスクがある*3

 二つ目の理由は、もっと動物的・下半身的な反応として、女性が性の話題について話しているのに対して目の前の男性が興奮する可能性があるからである。とりわけ密室的状況やアルコールが入った状況において、性的被害に発展するケースはあるだろう*4

 三つ目の理由は、女性と話すのが苦手な男性にとって、「下ネタ」を話す女性は話しやすいからである。というのも、「下ネタ」は男性的なコードを持った話題だからだ。すると、女性と話すのが苦手な男性にとってその女性は、まともに会話ができる希少な存在となる。希少であるがゆえに恋愛的関心を向けてしまうということはありうるだろう。

 

 

 以上三つの理由から、下ネタを話すことを好む女性は男性から性的なターゲットにされやすい傾向がある、と僕は考える。

 そして、この社会では男性の性行動に寛容であるのに対して、女性の性行動には非寛容である傾向が未だに根強い(「性規範のダブル・スタンダード」と呼ばれる)。そのため、性のことを頻繁に話題にする女性は、男性からは(恋人からにせよ、恋人以外からにせよ)性的な蔑視の対象になってしまう傾向があるのではないだろうか。

 その結果、男性から性的なターゲットにされることは、性的被害にまで発展してしまうと推測できる。……というのが冒頭の統計データに対する僕なりの解釈である。

 

*2:設問では「性の問題についてどのくらい話しますか」というワーディングがなされているため、これを「下ネタ」と特定することには飛躍があるかもしれないが、大まかには同一視できると仮定している。 

*3:ちなみに、性暴力の加害者はしばしば「彼女は本当は性的な関係になることを望んでいた」というような「暗黙理論」の下で、性暴力をはたらいている。その場合、加害者の更正においては、(被害者に責任を押しつけるのではなく)加害者が依拠してきた暗黙理論を可視化していくことが重要になる(中村 2016)。

 ここでは、下ネタを話すことを好む女性に対して「ワンチャンありそう」と考える傾向を、男性側の一種の暗黙理論として把握することができるだろう。

*4:とはいえ、アルコールは人の人格や性格を変えるのではなく、その人が元々持っている道徳観を暴くだけだとされている。

「酔った勢い」はなく、元々の道徳観が出るだけ 実験で判明か - ライブドアニュース

 また、女性に対して男性が動物的に反応してしまう、すなわち「性欲には抗えない」というのもある種の神話であり、上で述べた「暗黙理論」の一種と考えるのが妥当だろう。加害者が「性欲に逆らえずに」「魔が差した」という旨の説明をしたとしても、それは男性を免責する理由にはならない。ただし、「神話」だからといって簡単に抗えるというわけでもないだろう。

 

「下ネタ好きの女性」の性嫌悪と困難

 そして、ここからが重要なのだが、下ネタを話すことを好む女性は、実は性に対して防衛的であることも(世間で思われている以上に)少なくないのである。

 なぜ、性に対して防衛的であるのにもかかわらず、下ネタを話すことを好む人がいるのだろうか。考えられるパターンを二つ挙げておこう。

 

 一つ目は、無意識レベルでの性嫌悪があるパターンである。下ネタを話すことを好む女性が、実際に男性と性的関係を持つことは忌避しているというのは直観的には理解しがたいかもしれないが、精神分析的な解釈によって説明が可能になると僕は考える。

 すなわち、自身の性への嫌悪感を意識したくないがゆえに、その防衛機制として下ネタを話す、ということだ。「好きな子に(好きであるということを意識したくないがゆえに)いじわるをしてしまう」というのが、「反動形成」のわかりやすい例であるが、そのような裏腹なかたちでの下ネタによって自身を防衛していることがありうる*5

 しかし、上で述べたように、下ネタを話すことを好む女性は性的なターゲットとされやすい傾向があるために、性に対して防衛的であるのとは裏腹の結果を招いてしまう。

 

 二つ目のパターンは、「見る側」、ある種の「オヤジ」になることによって、自身が「女性身体」として見られることを回避しようとするパターンである。アダルトビデオの9割以上が男性向けであることからも分かるように、この社会では男性に「見る側」、女性に「見られる側」の役割が偏って割り振られている。その偏りに反して、女性側が「見る側」のポジションに立つということである。

 これには二つの方法がある。一つは「腐女子」である。男性同士の同性愛(BL)をまなざすポジションに立つことで、性的コンテンツにアクセスしながらも「見られるもの」としての女性身体から逃れることができる。

 もう一つは男性優位の(≒ホモソーシャルな)集団において、「名誉男性」(男性と同等であると認められた存在)になることである。男性と一緒になって下ネタを言うことで、自身を男性化する(女性であることを忘れる)ことができる。

 しかし、後者においては問題が生じる。多くの場合、ホモソーシャリティが強い集団に継続的に居続けられる女性というのは、男性のセクハラ的な接し方に対して許容的・鈍感で居られる女性である。というのも、ホモソーシャリティが強い集団においては、しばしば女性蔑視的に女性を性的に対象化する話題が語られ、その場にいる女性に対してもセクハラ的な接し方がなされるからである*6

 よって、女性自身は「名誉男性」になることを選び、「女性」として対象化されることを避けているつもりなのだが、結果的には男性から性的なターゲットにされてしまい、性的からかい等の被害を受けることになる可能性が高いであろう。

 

*5:「フィクションでの性愛を好むが、現実での性愛を忌避している」といった風に、単純に性愛の対象のレイヤーが異なるというパターンももちろんあるだろう。その場合にはことさらに精神分析的な解釈をする必要はないかもしれない。

*6:吉川康夫ら(2005)の調査によれば、体育系女子学生(スポーツの場)は体育系以外の女子学生(スポーツ以外の場)よりもセクシュアル・ハラスメントになりうる行為に対して許容的であり、マッサージを含む身体接触的行為がセクハラであるという認識も低かったという。

 ここから、ホモソーシャリティが強い集団に継続的に居続けられる女性は、セクハラ的な接し方に対して許容的・鈍感で居られる傾向が相対的に強い女性であると推測できる。

 

「下ネタ好きの女性」と「サークルクラッシュ」的問題系

 実は性に対して防衛的であるにもかかわらず、性的なターゲットにされてしまう。このような困難は、僕が専門としている「サークルクラッシュ(恋愛関係のこじれによって集団の人間関係が壊れること)」の問題系で捉えることができる。

 どういうことかというと、女性が周囲の男性たちと(非-性的な)友人関係でいたいにもかかわらず、「下ネタ」が一つの原因となって、性的・恋愛的対象として見られてしまいかねないということである。

 

 はてな匿名ダイアリーに「自戒」として書かれたという「サークラにならないために」と題された文章がある。そこには、男性が多い趣味集団において、男性に好意を抱かれないための注意が書かれている。「ここまで気をつけなきゃいけないの!?」と思わせるようなことがたくさん書かれている中で、こんな記述がある。

 

猥談では自分の話はしない

深夜になるとどうしても話が猥談になる。

自分のバスト、生理、オナニーの話はしてはならない。

酒が入った時は特に注意。

  

 つまり、「猥談」において「自分の話」をすることによって、男性からの性的なターゲットになってしまいかねないと注意が促されているのである。「下ネタ好きの女性」が意図せず性的なターゲットになってしまうという問題は、サークルクラッシュ問題に繋がってくる、ということがお分かりいただけただろうか。

 性的被害にあきたらず、周囲との関係が壊れてしまったり、集団に居づらくなって離脱せざるを得なくなったりするリスク。これは深刻である。

 

 そして、この問題は、「非モテ」や「インセル(自身に性的な経験がない原因は対象である相手の側にあると考える人)」と呼ばれるような問題系にも繋がってくる。

 「下ネタ好きの女性」が性的なターゲットになりやすい理由として、「女性と話すのが苦手な男性にとって、下ネタを話す女性は話しやすいから」ということを先に述べた。この男性がその女性に好意を持ったときに、そのまま成就すればよいのだが、女性がその男性の好意を拒否することは大いにありうる*7

 

 男性視点で見て、ただ単に拒否されるだけならまだしも、男性の側のアプローチがまずければ、女性や周囲から「セクハラ」や「被害」として認識される恐れがある。その一方で、女性は別の男性からの好意を受け入れることはよくある話である。このとき、男性は次のように主張するかもしれない。「同じようにアプローチをしているのに、自分のはセクハラで、あいつのは受け入れられるのはなんでなんだ! イケメンは無罪ってことかよ!」と。

 しかし、この主張のおかしさは、「家宅侵入」の比喩で考えてみれば分かりやすい。ある家に対して、Aさんは家主に許可されているために入ることができる。それに対して、Bさんは許可がないために、Bさんが家に勝手に入れば家宅侵入罪ということになってしまう。元の話に戻せば、女性がある男性の好意を受け入れながらも、別の男性の好意を拒む権利は当然にある、ということである。

 にもかかわらず、女性に好意を受け入れられない男性が女性に対して「恨み」を抱いてしまうのは、性的・恋愛的アプローチを拒絶されることで自分の人格を否定されたような感覚をおぼえるからではないだろうか。また、「イケメン無罪」という言い回しにも現れているように、性・恋愛を享受する女性・男性たちにルサンチマン(嫉妬による憎悪)を抱いてしまうからではないだろうか。

 これにより、女性が性的なターゲットになった際に生じてくる加害-被害の問題は後景に退き、「非モテ男性の受難」的な問題に回収されてしまう。すると、「下ネタ好きの女性」はなおも困難を抱える傾向が続くことだろう。

 

*7:このように、女性が好意を持たれたくない男性に好意を持たれてしまう現象を、女性視点で「雑魚モテ」と呼ぶ(峰・犬山 2012)。

 

おわりに――「性にオープン」であったとしても……

 ところで、そもそも下ネタを話すことを好む女性には「性に対してオープン」な人もいる。しかし、そうであってもやはり「対象外」の男性からアプローチされるのにはしばしば恐怖が伴うことだろう。

 「オープン」であると同時に、「拒否する」というコミュニケーションが苦手な人もいることだろう。そういう人が性的被害を受けては泣き寝入りをしている、という状況は想像に難くない。

 そして、性規範のダブル・スタンダードがあるために、女性が多くの男性と親密な関係を持つことに対するバッシングは激しい。多くの男性と親密な関係を持つ中で、結果的に友人関係から孤立していく女性には僕も覚えがある。

 

 冒頭に引用した羽渕の解釈によれば「既存の友人関係のイメージが悪いことから、性的被害にあう可能性を高めるのだが、ケアを求める先もまた友人である」という。また、同じデータによれば、「恋人からの性的被害」においても「携帯電話のチェックなどで、友達づきあいに干渉された」という項目が上位を占めている。

 これらを合わせて考えれば、女性が「下ネタ好き」である結果生じかねない性的被害の問題は、性的関係から独立した友人関係を「希少」化すると言えるのではないだろうか。サークルクラッシュで集団に居づらくなって辞めたらなおさら友人はいなくなることだし。

 

【参考文献】

羽渕一代、2019、「性的被害と親密性からの/への逃避」日本性教育協会編『「若者の性」白書――第8回 青少年の性行動全国調査報告』小学館: 147-63。

峰なゆか・犬山紙子、2012、『邪道モテ!――オンナの王道をゆけない女子のための新・モテ論』宝島社。

中村正、2016、「暴力臨床論の展開のために――暴力の実践を導く暗黙理論への着目」『立命館文學 = The journal of cultural sciences』646: 100-14。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/646/646PDF/nakamura.pdf

吉川康夫・熊安貴美江・飯田貴子・井谷惠子太田あや子・高峰修、2005、「スポーツにおいて女子学生が経験するセクシュアル・ハラスメントの現状とその特殊性」平成14~16年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(C)14594013)研究成果報告書。

http://players-first.jp/domestic/reports.html

サークルクラッシュ同好会とは何か? その戦略の全貌

 この記事はサークルクラッシュ同好会リレーブログ2020の15日目の記事です。14日目はゆーれいさんの記事のはずですが、この記事の投稿の時点ではまだ更新されていません。

 テーマは「あなたにとってサークルクラッシュ(同好会)とは?」とのことです。

 思い返せば、2016年11月発行のサークラ同好会会誌第5号に「サークルクラッシュ同好会運営マニュアル」という文章を書き、最近ブログにもアップロードしました。

holysen.hatenablog.com

 しかし、この記事はサークルを立ち上げて活動するための技術的な側面が強く、サークラ同好会そのものの明確な理念などについては書けていません。

 サークラ同好会を2012年に立ち上げて既に9年目になりますが、その間に様々な会員と出会いましたし、様々な活動を展開し、試行錯誤してきました。その経験を経て、僕の中で考えたことはたくさんあります。

 そこで、せっかくなのでこの機会にサークラ同好会の活動が何を目指しているのか/実際に何をしているのか、その戦略の全貌を書こうと思います。

 

目次:

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 ①「サークルクラッシュ」から見えてくる人間関係の生きづらさ

 ②ダークツーリズム戦略

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 ①社会における「ダーク」な人たち

 ②「所属」が苦手な人たち

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(ダークな人たち編)

 A:ダークサイドの語りの場

 B:「理論」の学習

 C:「実践」的な活動

 参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(所属が苦手編)

 所属なき活動

 参考:「一見さん」の機能

 所属しないということは一枚岩にならないということ

 

まとめ

 

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 「サークルクラッシュ」はもともと2005年に作られた言葉であり、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。

 この言葉を用いることが、「特定の個人(特に女性)に責任を押し付ける」という機能を持つことは当初から問題視されてきました。そこで僕は「サークルクラッシャー」という“”に焦点をあてた言葉ではなく、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを重視してきました。

 「そんな問題のある言葉はそもそも使わなければいい」という議論もあることでしょう。それでも「サークルクラッシュ」という言葉にこだわる第一の理由は、隠れている生きづらさの問題を可視化できるからです。

 

①「サークルクラッシュ」から見えてくる生きづらさ

 具体的には、集団において恋愛関係のトラブルが起きた際に、そのトラブルがどのように起きたのかを理解するための補助線となります。どんな恋愛トラブルが「サークルクラッシュ」と呼ばれるのでしょうか。

 例えば、「集団内の二人が付き合っていたが、結局は別れた」というだけでは、ただのよくあることで、「クラッシュ」とは呼べません。彼ら二人に何か問題があるとも考えないでしょう。

 その一方、「サークル内で恋愛をする気のないAさんはサークル内の人に友達として接しているつもりである。にもかかわらず、同じサークル内のBさんやCさんやDさんは、Aさんと恋愛関係になれると勘違いしてしまい、関係がこじれていく」などといったパターンはまさに「サークルクラッシュ」と呼ばれるような事態です。

 

 これは、抽象化して言えば、「関係に対して一方が抱いている期待ともう片方が抱いている期待とがあらかじめズレてしまっている」がゆえに生じてしまうトラブルです。そこには、自分が望む関係を相手に伝えることができない、相手が自分に望む関係を読み取ることができない、友だち関係/恋愛関係になりたいのになれない、などといったある種の「未熟な」人々が関わっている可能性が高いです。そのような「未熟な」人々のなかで生じる恋愛トラブルは「サークルクラッシュ」という言葉と(連想的に)結びつきます。

 そして、「自分が相手に望む関係」や「相手が自分に望む関係」といった期待は、しばしば「男性らしさ」「女性らしさ」というジェンダー規範に則って形成されます。特に恋愛関係においては、しばしば社会に流通している「男性らしさ」「女性らしさ」が再演されることになります(「ナイトと姫」の関係、「奢り・奢られる」関係などを想像すれば分かりやすいでしょう)

 しかし、そのような「男性らしさ」「女性らしさ」にうまくノれない(ひいては社会の「主流」にも馴染めない)人々もいるのです。そこで、「サークルクラッシュ」というレンズを通すことによって、そのような人々に生じたトラブルの具体的な困難が見えてきます。

 要するに、「サークルクラッシュ」という言葉は、社会の「主流」に馴染めない人々が抱える様々な困難を連想するための補助線です。「サークルクラッシュ同好会」に、(主に人間関係における)ある種の生きづらさ、上手くいかなさを抱えた人たちが集まってくるのは、この名前のおかげでもあるのです。

 

②ダークツーリズム戦略

 第二に、「サークルクラッシュ」は、人々のゴシップに対する欲望を掻き立てる「あるあるネタ」であると言えます。

 上で述べた「生きづらさ」を直接テーマにした(たとえば「居場所」や「支援」のような看板を掲げた、わかりやすく「正義」にかなった)団体をやっていくことも確かに可能ですし、そういった団体には意義があると思います。

 しかし、そのような「まとも」に見える団体ではリーチしにくい層もいます。例えば「差別」や「生きづらさ」のような問題に対して強い関心を持っていない層もいるでしょう。そういう人たちに対してはむしろ、やや扇情的な表現によって暗い好奇心、ある種の「偏見」を利用して「裏口から」誘導するという方法がありうると思います。

 「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるそのゴシップ性を用いることで、「生きづらさ」からやや遠いところにいる人も惹きつけることが可能になります。

 そして、最初は好奇心をキッカケにサークルクラッシュ同好会に参加した人も、最終的にはふだんなかなか語りにくい生きづらさや性愛、ジェンダーといった「まじめな」問題について考え、語り合える場に辿り着くことを狙っています。

 ここで期待しているのは、アウシュヴィッツ強制収容所チェルノブイリ原発などへの暗い好奇心を利用して観光させてその場所の現実を教える、「ダークツーリズム」と同様の効果です。

 

 以上の①②のいずれにせよ、サークルクラッシュ」という言葉をうまく用いることで、他の概念や視点ではリーチしにくい層にリーチできるということが、「サークルクラッシュ」にこだわる理由です。

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 では、サークルクラッシュ同好会には、「まとも」に見える活動ではリーチしにくい層が実際に来ているのでしょうか。以下、二つの側面から見ていきましょう。

 

①社会における「ダーク」な人たち

 サークラ同好会に来る人にはさまざまな人がいます。「生きづらさ」という面で言えば、例えば社会の「普通」の規範にノれない人々。いわゆる「男らしさ」「女らしさ」のようなジェンダー規範にノれない人、自身の恋愛の上手くいかなさに対してコンプレックスを抱いている人、無意識に人との距離感が近くなってしまう人、同性と仲良くするのが苦手な人、メンタルヘルスの問題を抱える人などが来ています。このような人が集まってくる理由は、「サークルクラッシュ」という言葉からこれらの困難が連想されるからでしょう。

 その中には、サークラ同好会が「ちょっと怪しい団体」であるがゆえに来た人もいるはずです。というのは、「まとも」であることや世間の「建前」に対して相性が悪い人もいるからです。

 具体的に述べましょう。例えば、「自傷行為や処方薬の過量服用(OD:オーバードーズ)は人に言えない恥ずかしいことだ」と思っている人がいたとしましょう。その人にとって、自身の自傷行為やODについて「まとも」そうな人に対して語ることは難しいかもしれません。「怒られるんじゃないか」「『やめた方がいい』という正論を言われるんじゃないか」といった恐れを持つからです。

 他にも、恋人からハラスメントや暴力を受けている人や、複数人と性的な関係を持っている人、逆に自身が性的に承認されないことを悩んでいる人なども同様の恥ずかしさや恐れを持っているかもしれません。一般的に言えば、「誰かに聞いてもらいたいけど、人に話すのは恥ずかしい/恐い」ことを抱えている、言わば「ダーク」な人たちがいるわけです。

 一方、サークラ同好会は「ちょっと怪しい団体」です。そこに集まる人々も「ちょっと怪しい」ことでしょう。「ちょっと怪しい」がゆえに、「ダーク」な人たちは自分の「まとも」ではない(社会における主流の価値観からは逸脱した)部分についても話を聞いてくれるのではないか、と。そのように期待し、自身の「ダークサイド」について語ってくれます。そして、サークルクラッシュ同好会の人々が、(「やめた方がいい」「間違っている」などと言うことなく)興味を持ってその語りに耳を傾けることで、サークラ同好会は安心して「ダークサイド」について語ることができる場になっていきます。

 確かに、自傷行為や暴力などは実際に深刻な害をもたらす場合があります。しかし、大事なのはその「害」をできる限り減らすことです。そう考えると、「よくないからやめた方がいい」という「正論」は役に立たないかもしれません(「やめた方がいい」と言うこと自体が人を孤立させていく可能性すらあります)。

 むしろ、被害を軽減するためには「ダークサイド」について語り合うことが効果的な場合がしばしばあります。社会的に良くないとされていることを安心して語れて、孤立しない。そういう場をサークラ同好会は目指していると言えます。

 また、先ほど述べた「ダークツーリズム」の戦略を採っていることから、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、最初から強い関心を持っていたわけではなかったりする人もサークラ同好会には来ます。そういう人たちにとっては、以上のような「ダークサイド」について触れ、学ぶ機会は重要でしょう。

 

②「所属」が苦手な人たち

 もう一つの特徴として、「所属の論理」が苦手な人がサークルクラッシュ同好会にはよく来ます。

 所属の論理とは、体育会系の組織などをイメージすれば分かりやすいかもしれません。先輩-後輩や上司-部下といった上下関係がはっきりとあり、タテの関係を継承していくような組織です。そこでは、一人ひとりが組織のためになんらかの役割(仕事)をこなす必要があるでしょう。

 そして、人間関係も往々にしてベタベタしたものになってきます。こういった「所属」に縛られたくなかったり、馴染めなかったりといった人もいるものです。そういう人たちがサークルクラッシュ同好会には来ます。

 具体的には、二パターンです。たくさんのサークルに入ったうえで、サークラ同好会にも来るという人と、普段居る場所に居場所がないからこそサークラ同好会に来るという人とがいるように思います。

 いずれにおいても、①で述べた「ダーク」な人たちは一定数います。しかし、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、強い関心を持ってはいなかったりするにもかかわらず同好会に来る人もまた、「所属」を苦手としている人がほとんどです。

 おそらく、「所属が苦手」という特徴は、サークルクラッシュ同好会会員の本質的な特徴の一つと言ってもいいでしょう。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「ダーク」な人たち編)

 それではサークルクラッシュ同好会ではどのような活動が行われているのでしょうか。先ほどの①「ダーク」な人たち、②「所属」が苦手な人たち、という分類に即して、まずは「ダーク」な人たちが集まるがゆえの活動について書きましょう。

 

A:ダークサイドの語りの場

 サークラ同好会はダークサイドの語りの場です。具体的には「当事者研究」という、誰もがなんらかの「生きづらさ」の当事者であるという立場から、テーマを決めて話し合い、自分のことについて研究するという会をよくやっています。

 また、ブログ上において「自分語り」をするという慣習があり、そこでも社会に対する疑問や生育環境などが語られ、しばしば「ダーク」な内容が含まれます(そういうことを語ろうという空気があるのです)。

 年に一、二回発行される会誌においても、「自分語り」を含んだエッセイは多くを占めています。口で語るだけでなく文章によって語るということも奨励されているということです。

 

B:「理論」の学習

 読書会などもよく開かれています。読書会に選ばれてきた本としては、抽象的な理論について書かれた本から、具体的な実践について書かれた本まで幅広いです。

 言うならば、学術的なジェンダー論について学ぶと共に、俗ないわゆる「男女論」などについても学ぶ、というイメージです。

 先ほどの当事者研究のことを考えるならば、専門知の学習と当事者としての研究を両方ともやっていると言えるでしょう。普段の会話や会誌においても学術的に言われていることと、具体的な経験とを往来するような語りが見られる気がします。

 サークラ同好会では言わば、人間関係やジェンダーにおける「理論」と「実践」と行き来していると言えるでしょう。

 

C:「実践」的な活動

 ここでいう「実践」的な活動のなかには、次のような活動が含まれます。「インプロ」と呼ばれる身体や発声を用いた即興劇的なコミュニケーションのゲーム。服を自分ではあまり買いに行かない人のための「服を買う会」。ここ数年は行われていませんが、旅行やバーベキューなどの「リア充擬態活動」みたいなものもありました。

 「ダーク」な人たちにとっては、Bで述べた「理論」と同時に、「実践」的な活動も重要になってきます。というのも、社会の「光」の側面、「ライトサイド」にいる人は社会の中で壁にぶち当たることが相対的に少なく、いちいち立ち止まって考える必要がないのに対し、ダークサイドにいる人たちはいちいち立ち止まるからです。社会への不適合を前にして、立ち止まらざるを得ないのです。

 立ち止まった人は、まず言葉を使って現実を「理論」的に捉えます。多くの言葉を尽くして、現実を把握し直します。それによって、自身と現実との距離を埋めていくのです。しかし、理論だけでは実際の行動にはなかなか結びつきません。言語化されたものは「実践」に応用されなければなりません。そこで、ある程度実践的な活動が必要になってくるわけです。

 

 このように考えると、サークラ同好会ではAで述べたような「語り」が行なわれると同時に、日常生活の具体的な「経験」も重視していますサークルクラッシュ「研究」会ではなく同好会という名前をつけたのも理由のないことではありません)

 また、理論的に現実を「相対化」することを重視していると同時に、とりあえず今生きている社会に「適応」するというベクトルも持っていると言えるでしょう。

 「理論」と「実践」、「語り」と「経験」、「相対化」と「適応」。それらは、ダークな人たちがこの生きづらい社会をサバイブしていくための、車の両輪と言えます。一見相反する活動ですが、それらは両方とも必要になってきます。理論だけでは社会の「外側」にしか居られず、実践だけでは社会の内側で居づらい思いをすることになるからです。

 

参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 以上のことをもっと別の、図式的な視点からも説明しましょう。僕は「サークラ同好会って何をやっているサークルなんですか?」という質問に対して、かつてこのような説明を好んでいました。「サークラ同好会はネタサークルであり、メタサークルであり、ベタサークルである」という説明です。

 「ネタサークル」とは「他のサークルをクラッシュする」だとか、「サークルクラッシャーを養成して他の団体に送り込む」だとか、そういった「ネタ」性を活かして目立つ活動をするサークルです。

 「メタサークル」とは一歩引いた目線からサークル、人間関係、コミュニケーションといったものを「研究」することで、具体的には自分語りや会誌作成のような活動をするサークルです。

 「ベタサークル」とは普通の(ベタな)サークルがやるような、新歓や定例会や交流などの活動をするサークルです。

 これを先ほどの「理論と実践」、「語りと経験」、「相対化と適応」の二項対立の話に当てはめれば、サークラ同好会では「メタとベタ」の往還運動をやっていることになります。「ダーク」な人たちの場合、立ちはだかる現実をまず「メタ」化したうえで、ゆっくりていねいに「ベタ」な社会と関わりを持っていくことになるでしょう。言わば、「メタ」の「頭でっかち性」を「ベタ」が補完していることになります。

 それでは、「ネタ」とはどのような機能を果たしているのでしょうか。いくら「メタとベタ」の往還運動の重要性を訴えても、それがきわめて内輪の、タコツボ化した活動となってしまっては意味がないでしょう。

 そこで先ほどの「ダークツーリズム」の発想が出てきます。「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるゴシップ性、すなわちネタ性を活かして外部の人を惹きつけるわけです。

 すなわち、ここで言う「ネタ」とは「内輪ネタ」のネタではありません。むしろ、「話題性やゴシップ性があり、ミームとして拡散する力がある」というニュアンスの「あるあるネタ」であるがゆえに、「外部の目」をサークラ同好会に持ち込むことができるのです。

 なお、「ダーク」な人たちをネタ性によって引きつける場合、先ほど述べたように現実のメタ化から入り、その後にベタに戻ってくることになりますが(ネタ→【メタ→ベタ】)、「ダークツーリズム」の場合はまず第一に、ベタな「生きづらさ」の“現実”を知ってもらった上で、その後でメタ化していく(広い視野から物事を捉える)活動が始まるように思います(ネタ→【ベタ→メタ】)。

 いずれにせよ、「ネタ」性によってサークルを外部に開くことで、サークルのタコツボ化を回避する狙いがあります。

 更に、「ネタ」という言葉は「話題にできる」というニュアンス、すなわち「話のネタ」という意味でも使っています。サークラ同好会では「コミュニケーション」や「自己」を話題とすることによって、誰でもある意味「専門家」として語りに参加することができます。基本的に、誰にでも「コミュニケーション」の経験は蓄積されており、「自分」について思うことはあるからです。

 この意味での「ネタ性」のおかげで、サークラ同好会が拠点としている京都大学のような場所には必然的に生じてしまう「メタサークル」の特権性、すなわちエリート主義(卓越主義)やオタク性(タコツボ性)が中和されます。要するに「カシコそうな人が集まってて恐い」「話題についていけないのではないか」という感覚を緩和しているのです。

 そして、このようなネタ性を介した「外部への開放性」は「所属なき活動」へと直結しています。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「所属」が苦手編)

 サークルクラッシュ同好会に集まる人たちの本質的な特徴の一つとして、「所属が苦手」という特徴がある、と先ほど書きました。それゆえに、サークラ同好会では「所属なき活動」という活動形態を編み出しました。

 

所属なき活動

 サークラ同好会の定例会は月に2回開催していますが、毎回はじめに「自己紹介」をするようにしています。「例会には自由参加」と明言しているためか、ある程度レギュラー化している会員たちですら毎回来るという人は少なく、初めて会うという人も多いのです。

 毎回の自己紹介においては、毎回その場で2,3個のトークテーマ(夏休みに何をしていたか、最近ハマっていること、など)を決めて律儀に一人ひとり話していきます。これにより、初めての人でも自動的に一定のコミュニケーションの機会を担保できるので、スムーズにその場に入っていけるようにするという狙いがあります(とはいえ、話すことを強制するわけではないので、パスもOKです)。

 例会には自由参加というだけでなく、会費はありませんし、京大生や大学生でなくともLINEグループに入会すれば会員、という方式にしています。これは、会員であるための条件や義務をできるだけ排除するためです。

 もちろん、代表を始め、イベントの企画や例会の招集、司会、新歓のビラ貼りなどといった役割を誰かがやらざるを得ないのですが、それらを義務にはしていません。これにより、会員でありながら来たいときに来る、「所属」のしがらみをなくしているのです。

 

 会員だけど「所属」している感がない、ということは、裏を返せば非会員でも活動に参加できるということです。そのため、活動を積極的に外部に開いてもいます。上で述べた当事者研究やインプロ、読書会、ボードゲームのような交流活動も含めて、初見の人を歓迎し、できる限りTwitterアカウントでも活動を告知するようにしています。

 他にも、例会ではない突発的な企画として「普段一人では行けない場所に行く」というコンセプトの活動を外部の人を巻き込みながら展開しています。「服を買う会」や「リア充擬態活動」がそれです。最近では、外部の特殊なコミュニティに行ってみたり、特殊なイベントに参加してみたりといったある種の「社会科見学」もおこなっています(このような活動を指して、僕はサークラ同好会を「陰キャのイベサー」と呼ぶこともあります)

 よって、サークラ同好会会員は「所属が苦手」ゆえに、会の活動としても「所属なき活動」を展開しています。つまり、会員/非会員の境界を曖昧にすることによって、体育会系の組織などにありがちな「所属の論理」を無効化しているのです。

 

参考:「一見さん」の機能

 かつて、僕の友人であるダブル手帳氏がサークルクラッシュ同好会の例会の感想として、こんな記事を書いてくれました。

double-techou.hatenablog.com

 ダブル手帳氏は、サークラ同好会の例会の「居心地の良い雰囲気」を成立させている構造は「一見さん」にあるのだと指摘しています。

 以下、ダブル手帳氏による、サークラ同好会の例会に来る人の三分類です。

 

①中心メンバーを含めた常連の会員。例会に頻繁に参加。

 〔……〕

②コミットが中程度のシンパ層。ごくたまにしか例会に参加しない人、あるいは①のうち幾人かと個人的な結び付きが元々あるものの例会には初めて来たという人など。

 〔……〕

③今まで何らコミットが無く会員との個人的面識も殆ど無い状態で初めて例会に参加する層。いわゆる「一見さん」。

 

 ダブル手帳氏によれば、③の「一見さん」に配慮せざるを得ないがゆえに、「内輪ノリ」が避けられ、内部でのカースト(序列)が無効化される側面があるようです。

 実際にダブル手帳氏が述べているほどのことができているかと言われると自信がないですが、僕自身、高校までのクラスのようなノリ・空気感に嫌気が差していました。それゆえに、自然ともっと「ゆるやかな」集団を形成できたのかもしれません。

 すなわち、上で述べてきた「所属の論理」を解きほぐすようにサークラ同好会はデザインされていると言っても過言ではないでしょう。

 

所属しないということは一枚岩にならないということ

 「所属の論理」を避けた結果、おそらくサークラ同好会の会員には多様性が保たれており(半分以上は非京大生です)、同好会内の一部の権力が暴走してしまうリスクに対しても歯止めが効いているのではないでしょうか。

 1月に書いた謝罪記事 にあるように、少なくとも2012~14年頃の僕は、浅い理解で性差別について考えていましたし、男性である自分自身の立場性にも無自覚的でした(もちろん現在においても、自身の性差別についての認識を実際の社会に照らし合わせて更新していく必要があると感じています)。

 そんな僕に対しても、同好会内には多様な立場があり、かつ語りの場が豊富なおかげで建設的な内部批判がなされてきました(単なるヤバい不和もあったかもしれませんが……)。この8年間、サークラ同好会は相互批判の中で成長してきたとは言えると思います。

 要するに、サークルクラッシュ同好会では「所属」という感覚が希薄だからこそ、「一枚岩」の組織ではないのです。内と外の間にある境界の曖昧さはこれからも保っていきたいですし、もっと外部にも「ダークサイド」についての語り合いの輪を広げていきたいと思っています。

 

まとめ

 「サークルクラッシュ」という言葉は、この社会における様々な生きづらさを連想するための補助線として用いています。そして、その言葉がゴシップ性を持つ「あるあるネタ」であることによって、「生きづらさ」についてあまり深く考えたことがない人にも届くことを狙っています。

 サークラ同好会には、この社会に対して生きづらさを感じている「ダーク」な人たちがやってきます。そして、そのような「ダークサイド」について様々な人が楽しく語り合い、学び合う場であることを目指しています。そのために、「理論」と「実践」、言い換えれば「メタ」と「ベタ」を往復する活動を重視しています。

 また、サークラ同好会は体育会系の組織のような「所属の論理」を苦手とする人が集まってきます。だからこそ、義務をできるだけなくし、例会には自由参加とし、会員/非会員の境界が曖昧で外部に開かれた「所属なき活動」を展開しているのです。

 

 サークラ同好会はTwitter上でこれからも活動日を告知していきますので、この記事を読んでいただいた方にはぜひ、一度サークルクラッシュ同好会にお越しいただければと思います。お話できるのを楽しみにしています。

 

 リレーブログの次の16日目の記事はこじらせ神さんの記事です。よろしくお願いします。

サークルクラッシュ同好会へのご指摘について

 サークルクラッシュ同好会が2013~16年頃までの間に京都大学の中で配布しておりましたビラ、ならびにホームページやTwitter上での表現に不適切な内容があることをご指摘いただきました。

 これらのビラや表現は直接的には2012~14年に作られたものであり、当会の現役会員で製作に関わった人間は(この記事の文責である)ホリィ・センを除き、存在しません。

 サークルクラッシュ同好会には様々な思想やスタンスを持った人が入ってきます。実際、(末尾の***で具体的に述べますが)当会の例会は様々な立場から開かれ、毎年発行している会誌は様々な立場から書かれています。

 そのような相互批判的な対話の土壌が築かれていったからこそ、過去の会員やホリィ・センが製作したビラや表現に不適切な内容があるという声も上がりました。その結果、サークルクラッシュ同好会としては2017年頃からはそのようなビラの配布を停止しておりました。

 

 しかし、2020年1月現在、なおも大学内の一部に不適切な内容のビラが残存していたり、不適切な内容の表現がインターネット上にアップロードされたままであったりしたために、正当にも外部の方からご指摘をいただきました。

 この問題が放置されていたのは、ビラの配布や、ホームページ・Twitterアカウントなどの運営のほとんどの部分をホリィ・センが独占していたことが一つの大きな原因です。

 また、本来ならばビラの配布を停止したその時点で、ビラや表現の作成に責任のある者(主にホリィ・セン)が謝罪をすべきでしたが、この記事以前には謝罪はなされてきませんでした。

 まずは僕が問題を放置していたことを謝罪します。申し訳ございませんでした。

 

 不適切なビラや表現の有害な効果を鑑みて、

  1. 京都大学内に残存している不適切なビラの撤去
  2. Twitter上・ホームページ上に残存している不適切な表現の削除
  3. ホームページ上に残存している一部文章における、差別的だと受け取られかねない表現に対する注釈
  4. ビラや表現によって精神的な苦痛を負った方への個別の謝罪

 に、ホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志で、できるかぎり取り組んでいきたいと思います。

 また、今後作成するビラについては、作成前と配布前に不適切な表現がないか、会内でのチェックをおこなうこととします。

 

 :ここで、「一部有志」としている理由を書いておきます。上で述べたように、会内には様々な立場の人がいる上に、過去のビラや表現について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけです。そのため、同好会全体の立場を代表するような対応(比喩的に言えば、企業や政党のような対応)はしたくてもできないからです(また、代表すべきでもないと思います)。

 よって、本記事の内容もまた、サークルクラッシュ同好会全体を代表するものではなく、文責のホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志によるものだということをあらかじめご了承願います。

 

 今回の件を受けて、サークルクラッシュ同好会の例会ならびにLINEグループ上において話し合いを行いました。話し合いにおいてビラ等の問題性を確認した上で、今回の記事を書くことに決定しました。

 ここからは、過去の過ちを繰り返さないためにも、当会の過去のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べた上で、個別の観点ごとに謝罪していきたいと思います。

 

 ただ、謝罪に入る前に、申し上げておきたいことがあります。

 今回、ビラや表現の不適切性についてご指摘いただいた方々はこの社会や大学における性差別的な構造に対する問題意識を持っている方々だとお見受けしております。

 サークルクラッシュ同好会も同じく、観点や意見は異なるかもしれませんが、性差別的な構造に対して問題意識を持っているつもりです。

 そのため、共通する問題意識について、今後、可能な限り対話していけたらと考えております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。

 

 そして、この記事を読んでいる方にお願いがあります。

 当会に対してご指摘いただいた内容を以下で引用していきますが、それらのご指摘をされた方々やそれに類する方々に対する誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をお控えいただきたいです。

 そのようなコメント・書き込み等によって、共通の問題意識を持っている方々とのせっかくの対話の機会が失われ、溝ができてしまうことを強く危惧しております。たとえ当会を擁護しているような内容であっても、結果的に分断を生むようなコメント・書き込み等は望んでおりません。

 ただ、攻撃的ではない範囲での感想・意見等をいただくのは構いませんし、歓迎します。

 

 さて、それでは、当会のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べてそれぞれ謝罪したうえで、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪していきたいと思います。

 

ビラその1について

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  このビラは2013年に初めて配布・掲示し、同様の内容のビラを2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラの上部には「狭いコミュニティでその気はなくとも次々と男を喰い荒し そのコミュニティの人間関係を壊滅させる系女子の特徴」と白抜き文字かつ扇情的なフォントで書かれています。真ん中には女性として描かれた絵と、その絵についての特徴やセリフが書かれています。そして、下部にはサークルクラッシュ同好会の活動と説明会についての情報が書かれています。

 以上の内容を見た上で、3点の問題点を指摘できると思います。

 

個人レベルの問題点

 ビラの絵や記述に自分が当てはまると認識し、このビラによって告発されているとその人自身が感じることで、精神的な苦痛を負ってしまう点。

 

関係レベルの問題点

 ビラの絵や記述に当てはまると周囲から認識された人が、ビラの絵や記述に基づいて不適切なレッテル貼りを受けることで、精神的な苦痛を負ったり関係性に困難をおぼえたりしてしまう点。

 

規範レベルの問題点

 直接的にはこのビラに基づいた被害が発生しなかったとしても、「ビラに描かれているような人物については非難してよい」という規範(価値観)の形成に(累積的に)寄与してしまう可能性がある。そしてそのことが間接的なかたちでビラに描かれているような人物への被害に繋がりうる点。

 

 以上三つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 また、後にも触れますが、実際に京大の中でこのビラによって傷ついた方がいるということを伺っております。本当に申し訳ありません。

 可能であれば個別にも謝罪したいと思いますので、個別で謝罪を受けたいという方がいらっしゃいましたらご連絡いただけると幸いです。

 

 

ビラその2について

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  このビラは2014年から 2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラには「卒業後日本を背負って立つ君たちが女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という文言があります。

 この文言には大きく二つの問題点があると思います。「男女はこうあるべき」という男女観といわゆる「恋愛至上主義」のような価値観を再生産してしまうことです。

 

「男女はこうあるべき」という男女観について

 「女の尻を追いかけ」るという表現は「男性は性的主体/女性は性的客体」という古典的な異性愛主義に基づいていると言えます。よって、そのような価値観を息苦しく感じる人にとっては不快でしょう。また、欲望される男性、欲望する女性、非異性愛者、男性でも女性でもない人、などの存在が排除されてしまっていることも問題です。

 また、「女の尻」という表現から女性を特定の身体部位に切り詰め、その人格性を否定していることになります。

 更に、「女の尻を追いかけ」る主語が「卒業後日本を背負って立つ君たち」であることから、京大生はエリートであるという価値観に基づきながら、その主体が男性に限定されてしまっています。つまり、女性は出世しなくていいという価値観が前提されています。

 以上のような不適切な価値観を再生産してしまうことは問題です。

 

恋愛至上主義」について

 「女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という表現は(その後の「学部生のうちに死ぬほど振られろ」なども含めて)、恋愛を「早いうちにしなければならないもの」として規定していると言えます。

 これは、物事をなんでもかんでも恋愛に結びつけられたくない(すぐ恋愛の話をする社会が嫌いな)人や、アセクシャルなどのような恋愛感情を持たない人にとっては息苦しい価値観だと思います。よってこのような価値観を再生産することも問題です。

 

 以上二つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

ビラその3について

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 このビラは2014~15年頃に掲示しておりました。目線が隠された女性の写真と、その左に「おねえさんと、ランチしよ♡」と書かれています。また、最下部には小さく「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言が書かれています。

 これも「ビラその2」と同様に、女性の目線が隠されていることから、広告にありがちな「顔のない女性」として、女性の人格性を否定しているものです。また、「女性は性的客体」という価値観を再生産しています。

 そして、丸文字のフォントと、最下部の「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言と、目線の隠された女性のセットから、このビラが性風俗広告のパロディであることが読み取れます。そのようなパロディが行われているこのビラを見て、セックスワークの従事者の中には不快に思う人がいることと思います。

 

 以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

サークルクラッシャー」にまつわる表現について

 サークルクラッシュ同好会という名前にもある「サークルクラッシュ」は、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。しかし、「サークルクラッシャー」という“人”に焦点をあてた言葉を用いると、特定の個人に責任を押し付けてしまうという問題に繋がりやすいため、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを当会では推奨してきました。

 しかし、ホームページ上に残っていた2012~3年の文章では、集団内の恋愛トラブルの責任を「サークルクラッシャー」と名指された女性に押し付けるような表現や、悪意が読み取れるかたちでそのような女性の特徴を挙げている箇所がありました。

 そのため、「ビラその1」と同様に、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点があると考えられます。

 ホームページ上に残っていた文章に、以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 ここまでビラや表現がどのように不適切であるかを述べてきました。

 そして、これらのビラや文章の作成も、男性である僕が中心となっておこなってきたものです。

 つまり、ジェンダーにおいて優位な立場にある僕が劣位な立場に置かれてしまっている女性を貶めていることがより問題です。社会や集団における自らの立場性を自覚できるよう努めていきたいと思います。申し訳ありません。

 次に、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪します。

 

 

ファリードやす様のご指摘

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 ファリードやす様は「サークルクラッシャー」という言葉を不用意に使うことの問題と、サークルクラッシュ同好会が性差別的な文化に寄与しているということの問題を「ビラその1」の画像と共に指摘されています。

 上で述べましたように、ホームページ上には「サークルクラッシャー」という語を女性に責任を押し付けるかたちで用いてしまっている文章が残っていました。また、ビラの内容には、「ビラその1」で述べた規範レベルの問題、「ビラその2」で述べた「男女はこうあるべき」という男女観の再生産の問題などがありました。

 そのため、文章やビラに関してはおっしゃるとおりだと思いますし、これからもこのような問題が起こらないように努めていきたいと思います。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、サークルクラッシュ同好会が「インセル**の思想」を持ったサークルである、ということについては申し上げたいことがあります。ビラの内容などからそのように判断されたのかもしれませんが、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そのことははっきりと否定しておきたいと思います。

 

 **:「インセル」とは恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は相手の側にあると考える人のことを意味し、典型的には異性愛者の男性を指します。詳しくはWikipediaの「インセル」を参照。

 

 

ひびのまこと様のご指摘

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 ひびのまこと様は

①ビラの内容の性差別性

②実際に京大女子が「紅一点」として有徴化され、ラベルを貼られる・少数派として説明役割を負わされているという状況において、「サークルクラッシャー」という言葉が暴力として機能している点

サークルクラッシュ同好会がジェンダー的に中立であることを装いながら男性中心主義を実践することによって、女性差別を不可視化している点(ひいては、ジェンダー概念の盗用)

 の三つの内容を指摘されているように思います。

 

 ①について、上で述べたように、おっしゃるとおり差別的と言える表現が含まれております。

 ②について、「サークルクラッシャー」にまつわる表現について のところで述べたように、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点がありますので、おっしゃるとおりだと思います。

 2012~14年頃に作られたビラや表現に、①②のようなご指摘は当てはまります。これからもこのような問題が起きないよう努めます。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、③については申し上げたいことがあります。

 確かに、当会のかつてのビラや表現を「男性中心主義の実践」と言うことが可能なことについては同意します。

 しかし、サークルクラッシュ同好会は、メンバーの多様性や日々の活動の中で、相互批判的な対話が行われているからこそ、過去のビラや表現の問題も会内で指摘され、配布が停止されました。

 よって、「サークルクラッシュ同好会が男性中心主義を実践しつつ、ジェンダー的に中立であることを装っている」ということについては、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そうとは言いきれないと言っておきます。

 

 

ななみん様のご指摘

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 ななみん様は上記のお二人と同様の指摘に加えて、「ビラを見て実際に傷ついた人がいる」ということを指摘していらっしゃいます。

 これは、「ビラその1」のところで確認しましたように、個人レベル・関係レベルでの問題が実際に起きたのだと思います。

 しかも、僕は数年にわたって問題を放置してきました。僕がもっと早く対処していれば、傷つかないで済んだ人がもっといたことと思います。ビラや表現の撤去・削除については迅速におこないます。申し訳ありませんでした。

 そして、傷ついたという方におかれましては、個別に謝罪したいと考えています。ななみん様から見て、ご友人に連絡されるのが適切であればご連絡いただくか、そのご友人の連絡先をお教えいただければ幸いです(センシティブな問題ですので、「連絡はできない」ということでしたらそれでも大丈夫です)。

 

 

まとめ

 サークルクラッシュ同好会で2012~14年に作られたビラや表現は不適切なものでした。そのため、同好会内でも批判の声があがり、配布は停止されていました。

 しかし、問題への対処が不十分でしたので、ビラや表現は残っていました。今回、ご指摘いただいたことによって問題は表面化しました。

 当時のビラや文章の作成について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけですので、不適切なビラや表現によって生じた問題の補償となる対応(削除や謝罪など)はホリィ・センをはじめとした一部有志で行いたいと思います。

 また、今後同じ過ちを繰り返さないためにも、ビラや表現の問題性を確認しました。

 そして、今回、ビラや表現の不適切性をご指摘いただいた方々は、性差別的な構造に対する問題意識を(観点や意見は違うかもしれませんが)持っているという点で「共闘」できる可能性があると信じています。だからこそ、個別に応答させていただきました。(紙幅の都合上この記事上で応答できなかった方についても可能な限り、対話していけたらと思っております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。)

 

 最後にもう一度、僕個人の気持ちを書いておきます。当同好会のビラ等にご指摘をされた方々やそれに類する方々に対して、誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をするのはお控えください。

 意見を封殺したいのではありません。感想・意見等、お待ちしております。僕はただ、Twitter上で日々感じる分断に、嫌気が差しているのです。

 

 

 ***:最初に書きましたように、サークルクラッシュ同好会の中には様々な思想やスタンスがあります。その中で、旧来のジェンダー規範を批判するような活動は連綿と存在しております。

 具体的に書きます。近年の会誌で言えば、

6.5号の「「女の腐ったような奴」の当事者研究」(雪原まりも)は異性装を主題とすることでジェンダー規範に対する自身のあり方を脱構築/再構築していく試みと言えます。

7号「すぐ恋愛の話をする社会が嫌い」(複素数太郎)は、性愛中心主義の押し付けについて疑義を呈しています。

8号の「「サークラ女子会」名称批判 座談会」(無花果)では同好会内での周縁的な立場の人々の座談会を通じて、男女の性役割の問題への言及や、同好会の運営体制が男性中心主義的ではないかという疑問が呈されています。

 

 例会の活動でもフェミニズムジェンダーを明確に主題とした勉強会も何度か開かれています。一例として2017年に開かれた会のレジュメの一部を貼っておきましょう。

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 その他、会員有志による読書会でも『セックス神話解体新書』(小倉千加子)や『ジェンダー・トラブル』(ジュディス・バトラー)のような、既存のジェンダー規範を問い直す内容のものが選ばれています。

「オタク系」文化と「社会学」の不幸な結婚?

 大学のTA(ティーチングアシスタント)の仕事で書いた文章がそこそこよく書けた気がするので、ちょっと手を加えてブログにも掲載します。
 佐藤郁哉佐藤俊樹北田暁大の議論を自分なりに整理しただけなので、別にオリジナルなことは書いていませんが、「社会学」なるものが世間でどのように受け入れられて(しまって)いるのかに興味がある人が読むと面白いかもしれません。

 

(ちなみに、ググったらとても似たコンセプトの論文が既にありましたので併せて紹介しておきます。
永田大輔、2017、「『オタクを論ずること』をめぐる批評的言論と社会学との距離に関して」『年報社会学論集』30: 134-45。https://ci.nii.ac.jp/naid/130007480185

 

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 いわゆる「オタク系」文化は90年代以降の日本の社会学の研究対象として一定の地位を確立してきました。
 しかし、その一方でオタク系文化を対象とした研究は、社会学(あるいは社会学"的な"批評)が陥りがちな問題を象徴的に示してしまっています。今回は、ある種の「反面教師」として、以下「オタクと社会学」にまつわる三つの問題について論じていきましょう。

 

1.「反映論」の落とし穴と「オタク系」作品

 漫画・アニメ・ゲームのような作品はしばしば「オタク系」文化として挙げられます。みなさんの中には、そのような作品を「社会を映し出す鏡」と考える人がいるかもしれません。例えば、「作品を経年比較することによって時代の変化を描き出す」ような研究や評論はよくあるものです。
 しかし、社会学者の佐藤郁哉(2015)は社会調査について論じた本の中で、「文化現象には社会を忠実に映し出す鏡のような側面がある」という「反映論」を批判しています。そのような反映論的分析においては、社会的な要因が文化現象に対して実際に影響を与えていくメカニズムやプロセスへの分析、例えば文化の制作者(著者、芸術家、出版社など)、受け手(読者、視聴者など)、それらを媒介するゲートキーパー(流通業者、評論家など)、およびそれらの人々が属する集団や組織が具体的に果たしている役割についても検討が必要になってくるはずだ、ということを佐藤は述べます。
 すなわち、作品を社会を見るための「鏡」のように用いる場合は、単純な反映関係というよりは、その間に介在するさまざまな「屈折要因」の作用を明らかにしなければ、「本体」に辿りつけないということです。そのような慎重な分析を経ずに社会と文化現象(作品など)との反映関係を語ると、主観的な印象や感想を述べているに過ぎない「素朴反映論」に陥ってしまうと佐藤は述べています。


 とりわけ、そのような「反映論」的な分析が行われがちなのが漫画・アニメ・ゲームなどの「オタク系」の作品群なのではないでしょうか。そのことを大澤真幸(2008)のオタク論を元に述べたいと思います。
 大澤は「おたく」という言葉には、(「あなた」や「君」のような)二人称としての意味だけでなく、「お宅」すなわち「家」の意味が込められていると述べ、とりわけ「閉じられた個室」のメタファーであることを論じています。
 そこから大澤は、「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という仮説を立てています。その傍証として、鉄道マニアがローカルな路線図のネットワークから国民国家の領土や世界を見ていること、オタクが窓のない閉じられた(「外部」がなく、それ自体で完結している)個室を好むこと、「移動する個室」のような大きなカバンを常に持ち歩いていることなどを挙げています。また、大澤は明示的には述べていませんが、「キミとボク」のような個人的な関係性が「世界の命運」のような包括的な問題へと(中間にある具体的な社会を経ずに)短絡する「セカイ系」と呼ばれるジャンルも同型の構造を持っていると言えるでしょう。
 大澤の図式に乗っかるのであれば、「オタク系」作品の批評というのは(たとえ社会学的な装いを帯びていたとしても)、主観的な印象や感想を作品に投影することによってそこに「世界」を見ようとする「素朴反映論」に陥りがちなのではないでしょうか。


 なお、東浩紀(2001)の「物語消費からデータベース消費へ」という図式について、二つの消費形態は断絶したものではなくあくまで連続したものだと大澤は解釈しています。というのは、「ガンダム」シリーズのような(「小さな物語」の)作品もあくまで特定のひとつの物語だからです。
 そして、求められている物語(「大きな物語」の補完物としての物語)の普遍性の水準が上昇すると、あまりにも包括的なコンテクストをカバーするためには必然的にその内部での諸要素の間の連関性は失われることになります。そのため、物語としての外観を失った要素の単なる集合=「データベース」として「物語」は現れると大澤は述べています。

 つまり、大澤の論においては、「データベース消費」であってもやはりオタクは普遍性を希求している、ということになるでしょう。

 

 

2.社会学と「社会学

 ところで、大澤の「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という図式や、東の「物語消費からデータベース消費へ」のような図式は、日本の社会学研究者コミュニティよりもむしろ、一般の人々に広く受け入れられた図式だったように思います(そもそも東は社会学者ではありませんが)。


 このように、大学などの高等教育機関で教育・研究されている社会学がある一方で、雑誌や一般書、ラジオやテレビで語られる「社会学」(カギカッコつき!)の二つがあるということを社会学者の佐藤俊樹(2010)は論じています。
 佐藤は固有名詞を挙げていませんが、テレビにも出てくるような「スター社会学者」について考えてみましょう。90年代に女子高生のブルセラショップや援助交際オウム真理教地下鉄サリン事件などについて論じた宮台真司や、フェミニストとして知られる上野千鶴子などが挙げられるかもしれません(最近では「ワイドナショー」や「ニッポンのジレンマ」などに出演している古市憲寿なども想起するかもしれません)。


 このような「スター社会学者」たちを筆頭として世間で語られる「社会学」と、大学で教えられる社会学との違いはなんでしょうか。佐藤によれば、その違いは「過剰説明」にこそあります。
 「社会学」は特定の図式や「理論」によってなんでもかんでも説明してしまうために、自らの議論の適用限界や反証可能性がしばしば明示されません。そのため、論理が飛躍してしまったり、経験的な調査データがない部分まで説明しようとしてしまったりすることになります。


 例えば先ほどの大澤は「アイロニカルな没入」や「第三者の審級」、東は「動物化」や「観光客」、宮台は「島宇宙化」や「意味から強度へ」のような図式・理論を提出していますが、それらの図式がどこまで適用可能なのか、そして適用する場合はどのような手順の経験的調査が行われたのかといったことがなかなか明示されません。
 それでもこのような図式の「分かりやすさ」「シンプルさ」、あるいは一元的な図式によって社会全体を把握できる(ように思える)「万能包丁」は魅力的です。複雑化していく社会をスパッと理解できる単純な図式が、マスメディアにおいても求められていると言えるでしょう。
 しかも、佐藤も述べているように、そのような「社会学」の人気に底上げされる形で、学生たちが社会学に対して興味を持ったり注目したりするという事態は実際に起きていることです。言わば、社会学と「社会学」とはある種の共犯関係になってしまっている側面があります。
 大学で研究している社会学者も一般書によってまるでコピーライターのごとくキャッチーな言葉を発明し、社会に影響を与えることがあります(家族社会学者の山田昌弘の「パラサイト・シングル」や「婚活」、上野千鶴子の「おひとりさま」など)。あるいは「社会学」的装いのうえで一般書が売れるということがあります(土井隆義の『友だち地獄』や古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』など)。


 そして、「オタク系」文化もしばしば「社会学」の対象となってきました。例えば、北田暁大は『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)という著作で、1960年代から10年ごとの「反省」「アイロニー」の歴史を描くことで、社会の「2ちゃんねる」化(アイロニー(嗤い)を持ちながらも「電車男」に本気で感動してしまうような志向の共存)を説明しています。
 しかしこの本は経験的データが恣意的に選択され、「○○年代」に対して偏った説明が与えられているのではないかという疑問が湧いてくる点で、カギカッコつきの「社会学」寄りの本とも言えます。


 北田自身、「『社会批評』から離れてなにか他のことをやらなきゃいけない」(岸ほか 2018: 11)という問題意識の末、『社会にとって「趣味」とは何か』(2017)という本ではブルデュー理論の批判や計量調査に基づいたオタク論を展開しています。これは社会調査に基づく「普通の学問」としての社会学を標榜したオタク論と言えるでしょう。
 北田も編著者である『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(2018)ではそのような北田の「転向」に呼応して、地道に社会調査を積み重ねていく形での社会学が重視されているように思います。この潮流において「オタク系」文化は「社会学」的な批評の対象というよりも、あくまで社会調査の一対象として見られているのではないでしょうか。
 つまり、佐藤が社会学と「社会学」との共依存的関係を論じたのは2010年のことでしたが、今や特定の理論図式による過剰説明による「社会学」は流行らなくなってしまったのかもしれません。


 なお、佐藤(2017)は「特定の規範がある」という説明図式を社会学において効果的に活用する方法についても論じています。社会学はついつい「雇用におけるジェンダー不平等が維持されるのは、不平等なジェンダー役割規範によって働き方が規制されているからだ」などという規範による説明に頼りがちですが、これでは規範によってなんでも説明できてしまい、カギカッコつきの「社会学」と同じ落とし穴にハマることになります。
 そうではなく、物理的な制約や、具体的な制度(法律やルール、経済的な合理性など)で説明できるものは説明した上で、それでも説明できない残余部分こそを規範によって説明した方が説得力のある社会学的分析になると佐藤は論じています(詳しくは文献を参照)。
 また、実際に(卒業論文を含む)論文を書く際には、単に現象に理論を当てはめるだけでは研究としての新規性は薄いと言えます。調査によって得られたデータから、その理論によっては説明できない部分を解釈していき、元の理論の修正をはかっていく、といった態度が必要になってくるのではないでしょうか。

 

 

3.「~化」という説明図式

(※ここの議論は北田(2010)に強い影響を受けています)

 上ではカギカッコつきの「社会学」を批判してきましたが、そもそも社会学理論による「過剰説明」の図式に対する批判は社会学内部でも起こってきたことです。おそらく最も象徴的な例は、1950年代頃のアメリ社会学におけるタルコット・パーソンズの社会システム理論に対する「誇大理論(グランド・セオリー)」への批判です。
 パーソンズの理論は「誇大」であるがゆえに、マクロな社会現象とミクロな社会現象とがどう繋がっているのかが分からないという批判や、経験的な調査が等閑視されているという批判、また、社会の中の個々人が持つ主体性が無視されているといった批判を受けることになりました。
 しかし、社会学のビッグネームたちの多くが用いてきた誇大理論があります。それは、「近代化」や「~化」と呼ばれる「社会変動」についての理論です。箇条書き的に挙げるならば、コントの「三段階の法則」、スペンサーの「社会進化論」、マルクスの「唯物史観」、テンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」、ヴェーバーの「世俗化」、デュルケムの「環節的社会(機械的連帯)から組織的社会(有機的連帯)へ」、リースマンの「伝統志向/内部志向/他人志向」、ベルの「脱工業化社会」、ギデンズやベックの「再帰的近代化」、バウマンの「リキッド化」、ライアンの「監視社会化」などなど……。
 社会学は何かと何かを比較する形での研究がオーソドックスであるため、時代ごとの比較をするという方法がどうしても流行してしまいます。その結果、「~化する社会」のような言葉が標語的に用いられ、その適用範囲が無際限に押し広げられてしまいます。


 日本の社会学においてそのような社会変動を描いた代表的なものとしては、見田宗介による「理想の時代(1945~60)/夢の時代(1960~75頃)/虚構の時代(75頃~90頃)」という15年ごとの時代区分があります。これらはそれぞれ「現実」の対義語が並べられています。経済的には戦後のプレ高度経済成長期、1973年のオイルショックで低成長の時代に入るまでの高度経済成長期、1991年のバブル崩壊やそれに続く構造改革に至るまでの時代、と考えられます。
 経済現象ではなく文化現象に対応づけるならば、夢の時代は学生運動の盛り上がりと退潮の時期に一致していますし、大澤真幸も述べているように「虚構の時代の果て」には1995年の地下鉄サリン事件があります(東はその後の時代を例の「データベース消費」から「動物の時代」として論じましたし、大澤は「これぞ現実!」という感覚を求める心性を「現実への逃避」と呼び、「不可能性の時代」として論じました)。
 これらは確かにもっともらしい時代区分ではあるのですが、研究として捉えるのであればやはり2.で述べたようにその経験的な実証性や、理論の適用範囲が問われるべきでしょう。

 例えば、山田昌弘(2005)は家族について論じる際に、1975年と1998年を転換点として捉えており、似たような時代区分を用いていると言えますが、それはある程度制度的な変化や統計上の変化に基づいたものになっています(しかし、注目するデータ次第では別様の時代区分もありうるでしょう)。


 逆に言えば、「~化」は経験的な実証性を伴わない場合がしばしばあります。よく言われるのは「少年犯罪の増加」が一部で語られている中、統計的には犯罪は減少していたというものです。
 このように、経験的データに基づかない言説を統計などの経験的データによって反駁していくことは社会学の一つの仕事と言えます(実際にそういう研究はあります)。

 

 しかし、このような言説と実態とが矛盾するような事態が起きる理由はなんでしょうか?
 その理由は、言説がいわゆる「実態」から独立して固有のメカニズムで動いている、ということでしょう。つまり、「経験的データに基づかない言説」自体も一つの社会的事実と言えます。よって、言説上において「少年犯罪が増加している(あるいは深刻化している)」と述べられること、それ自体のメカニズムを探求することも社会学のもう一つの仕事と言えるでしょう。


 単純な説明として考えられるのは、マスメディアにしても評論家にしても、過去と現在をどのように比較しているのかを明らかにしないまま現在の問題を「問題化」し、「昔は良かった」式の話法に頼っているというパターンがあります。あるいは、マスメディアの事件報道が視聴者の「体感治安」を悪化させているのかもしれません。より包括的には日本社会全体が「劣化」したという「劣化言説」が90年代以降流行しました。とりわけ目立っていたのは「ゆとり」や「ニート」などの言葉を用いた「若者バッシング」です。
 「劣化言説」が発生するメカニズムはいろいろと考えられますが、この場合、社会学者としては、例えば「若者の人間関係は希薄化している」という言説があった際に、「人間関係が希薄化した/していない」という区別・定義は誰がどのように行っているのか、その区別・定義はいかなる社会的条件の元で可能になっているのかということを(社会学者が勝手に「理論」によって説明するのではなく)内在的に記述していくことが重要でしょう。


 具体的な例を挙げましょう。北田(2010)が挙げている中村功(2003)の研究によれば、携帯メールによる個人的な繋がりを強く求める人たちは、リアルな人間関係も活発であり、孤独感も低いそうです。その一方で、孤独を恐れる度合いが高いそうです。また、「人間関係が希薄化している」という希薄化論を受け入れる20代の割合は増えているそうです。
 これらの知見を総合するならば、若者の友人関係は客観的な人間関係の数や「孤独感」という基準においては、人間関係は濃密になっていると言えます。それと同時に、「孤独になることが恐い」という基準においては「人間関係が希薄化している」と区別していると言えるのではないでしょうか。
 ここでは、「希薄化した/していない」という区別を、当事者の用いている基準に内在的な形で探求することで、一見「にもかかわらず」と接続されそうな部分を、「それと同時に」として説明することが可能になっています。この点で、より精緻な社会学的説明がなされていると言えるでしょう。


 もちろん、このような説明ですら、量的データから明らかになった「孤独になることが恐い」を「人間関係の希薄化を受け入れている」ことに接続しているため、厳密には論理飛躍があります。そこで、研究対象となる人々が用いる概念に寄り添う形での研究方法として「エスノメソドロジー(人々の-方法論)」や「概念分析」といった研究手法が日本の社会学の一部の界隈では流行し始めています。実際、先ほど挙げた北田(2017)においても第七章で「おたく」の概念分析が行われています。

 

【文献】
東浩紀、2001、『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社
岸政彦ほか、2018、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣
北田暁大、2005、『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHK出版。
――――、2010、「【『社会と個人』の現代的編成】フラット『化』の語り方」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 385-92。
――――、2017、『社会にとって「趣味」とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房新社
中村功、2003、「携帯メールと孤独」『松山大学論集』14(6): 85-99。
大澤真幸、2008、『不可能性の時代』岩波書店
佐藤郁哉、2015、「反映論の強靭な生命力」『社会調査の考え方 下』東京大学出版会: 238-9。
佐藤俊樹、2010、「【社会学/『社会学』】背中あわせの共依存――あるいは『殻のなかの幽霊』」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 393-400。
――――、2017、「29 規範と制度」友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留編『社会学の力――最重要概念・命題集』有斐閣: 100-3。
山田昌弘、2005、『迷走する家族――戦後家族モデルの形成と解体』岩波書店

「シェアハウス」に対するイメージの偏りについて

 この記事は

adventar.org

の23日目の記事です。

 

シェアハウス関連の自己紹介

 京都で「オープンシェアハウス サクラ荘」という団体の代表をしているホリィ・センと申します。28歳です。現在シェアハウスは6軒ほど運営しています。

 運営といっても、全部大家さんから賃貸しているだけですし、借りる人もそれぞれの家の代表がやっている感じです。

 じゃあサクラ荘って何をやっているのかっていうと、月1で集まって会議をして、「サクラ荘グループ」全体としてどうしていくかというのを決めている感じです。サークルみたいな感じですね。

 会議で決まったことを元に、パーティを開いたりイベントを開いたりサクラ荘メンバーたちで交流したり、という感じです。

 サクラ荘にはコンセプトがあります。それは、「日本にシェアハウスを根付かせる」「そのために、シェアハウスを増殖させる」ということです。シェアハウスを通じた社会運動です。シェアハウスで世界を(まずは日本を)変えようとしています。

 

「ライフコースとシェアハウス」という問題設定

 というのも、今の日本では“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきているからです。

 1990年代前半ぐらいまでは、学校でちゃんと勉強して、良い会社に入って/良い人と結婚して、家庭を営み、子どもを育てていくというコースがうまくいく人が多かったと思います。しかし、そのコースに乗れない人がどんどん増えてきています。箇条書きするならこんな感じでしょう。

 

  • 正規雇用が広がり、お金を稼ぐのが難しい
  • 未婚化・晩婚化でそもそも家族を作れない
  • 家族の維持も難しい(離婚の増加)
  • お金や時間がなくて子育てにリソースをうまく割けない
  • そのくせ、家事・育児・介護に対する社会的な要求水準は高いままである
  • 家事・育児・介護は未だに「母親」に押しつけられがち

 

 こういった問題の帰結として、僕はとりわけ「孤独」の問題と、「子育て環境の悪化」の問題がヤバいと思っています。もっと言えば、「非モテ」問題や「毒親」問題がヤバいと思っています。

 ヤバいので「シェアハウス」で「結婚以外の同居」を推し進めれば問題解決するんじゃね? と思ってとりあえずシェアハウスを広める活動をやっています。ここ4年ぐらいシェアハウス増殖活動をやってきました。

 しかし、サクラ荘は年齢層がめっちゃ限られてます。18~35歳ぐらいですが、20代半ばに集中しています。いわゆる「若者」ですね。

 “まともな”ライフコースをざっくり、出生学校就職結婚子育て老後 だと考えると、僕らのシェアハウスは結局、学校就職結婚の間にしか入れていない、ということになります(なお、仕事についても、フルタイムの人はあんまりいないです)。

 

「シェアハウス」は若者がやるもの?

 シェアハウスは海外暮らしや寮暮らし、ドラマやテラスハウスなどの影響で広がってきた感じです。だからそもそも「若者文化」なのです。

 ライフコース全体から見ても「一時的な経験」として見られがちで、シェアハウスに住むことを「留学」みたいな感じで捉えている人も多いと思います。実際問題、シェアハウスに住んだ経験でいろいろ得られるものはあったと僕も思っています。人によっては合わなくて割とすぐに退去していくんですが。すぐに退去できるのがむしろ魅力なわけです。

 しかし、「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきている」という問題意識からすると、シェアハウスを若者専用にしてしまうのはもったいないんじゃないか、となってくるわけです。

 実際に、共同保育をするシングルマザーのシェアハウスや、就活や企業活動を軸に集まるシェアハウス、高齢者が寄り集まっているシェアハウス、あるいは子育て世代も高齢者も混ざった多世代居住(コレクティブハウスといいます)のような実践が一部では行われています。

 本当はシェアハウスにはいろいろポテンシャルがあるんだと思います。しかし、「シェアハウス」という言葉のイメージはそれを裏切ります。

 不動産屋主導で広まっているシェアハウスは「オシャレなライフスタイル」のようなものが中心だと思いますし、世間では「シェアハウス」と聞くと若者的な生活がイメージされるでしょう。

 

もっとたくさんの・様々なシェアハウスを

 僕は様々なシェアハウス実践者と話してきましたが、単なる「若者」のイメージに回収されない人は実のところたくさんいます。シェアハウスに住んでいる人は明るい人も多いですが、ある意味「暗い」というか、人間同士の関係についてとても深く考えたうえでシェアハウスに生活し続けている人も割といます。

 ライフコースの視点で見れば、たしかに結婚してシェアハウスを抜けていく人もたくさんいますが、その一方で離婚した後にシェアハウスに住んでいる、みたいな人も割とよく見かけます。「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなった」という問題に対するセーフティネットのような機能を果たしている側面があるわけです。

 「シェアハウス」の「若者」的イメージはこれからも根強く残っていくでしょう。しかしシェアハウスはもっと長いスパンで人生を捉えたときに、若者以外にも必要なものになっていくと思います。僕はその準備の作業をやっていきたい。

 28歳の僕は「若者」ではなくなっていく。具体的には「次の世代」について考えるときです。そういう気持ちを大事にしたいので、5年後ぐらいには里親になることも検討しています。

 僕が年齢を重ねると共に、「シェアハウス」もまた若者以外へと開かれたものにしたいと思っています。だからこそ、これからも僕はシェアハウスを拡大していきますし、個性豊かなシェアハウス実践者たちのことを応援しています。

 これからもよろしくお願いします。

ぼくの「二次元」時代ーー中二病回顧(懐古)録 その壱

※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー14日目の記事です。13日目はjocojocochijocoさんの「」でした。

 

holysen.hatenablog.com

 3年前に描いた記事で「中二病」を回顧(懐古)するぞ!と意気込んだのですが、全然書いてませんでした。せっかくのアドベントカレンダーの自分語りの機会なので、書こうと思います。③の「ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ」ってやつです。

 僕は三男です。長男のオタク趣味を間近で見て育ってきました。今日書きます「二次元趣味」の多くは兄に影響を受けたものです。記事中の画像は全部Google画像検索で拾ってきたやつです(ヤバいかも)。

 

  三男なうえで、妹がいない。妹という存在に対して憧れを感じた。中学校の頃、妹がいる男に嫉妬した。自然と身近に異性がいる環境が羨ましかったのだと思う。

 妹というものを単なる属性として見たときに、僕はカードキャプターさくらの主人公さくらと、兄の桃矢との関係性が好きだった。桃矢は妹のさくらを常にからかい続けるが、根っこのところでは妹思いである。「うちの妹に何しやがる!」、すごく言ってみたいセリフだった。

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最高の兄妹

 

 「おにいちゃん」という呼び名は、血の繋がっていない関係性に対しても擬似的に用いられる。『マギ』で有名な作者の大高忍が描いていた『すもももももも』では「いろは」というキャラがその意味で萌えた。主人公の犬塚孝士のヘタレうじうじっぷりがたまらない作品だ。『マギ』のアリババのポジションのキャラを主人公がやっている感じである。『ダイの大冒険』で言えばポップである。

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かわいい(けど、実はメッチャ強い)

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うじうじしててもハートは燃えてるんです

 

ボクっ娘

 妹と言えば、12人の妹が攻略対象のギャルゲーの「シスタープリンセス」というものがあった。みんな魅力的な妹たちなのだが、僕は衛というキャラに惹かれた。衛は「ボクっ娘」という属性を持っている。スポーツ少女であり、冬の寒い中「あにぃ」と朝にランニングをするイベントが印象的だった。「見て見てあにぃ! 吐いた息が真っ白だよ!」 無邪気だ。

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萌える……

 ところで、シスプリのゲーム版は12人の妹に対し、それぞれ「血縁END」「非血縁END」がある。ストーリー次第で血の繋がりがあったりなかったりするのは狂ってると思う。

 

  『みなみけ』で有名な桜場コハルはかつて『今日の5の2』という作品を描いていた。たまにリアルタッチになるシュールなギャグが笑える作品なのだが、普通に萌える。とりわけ、平川ナツミというボクっ娘キャラがたまらなかった。単行本が2003年なのに2008年にアニメ化してテンションが上がった。平川ナツミを阿澄佳奈が演じていたのもマジで最強だった。

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目がキラキラしてる子かわいい

 ところで、『みなみけ』のカナと藤岡の関係もすごく好きだな。桜場コハル先生は良い仕事をする。カナを井上麻里奈が演じていたのも完璧だった。

 

 ボクっ娘と言えば、「うぐぅ」が口癖のたい焼き好きの少女、月宮あゆだが、萌え属性全部乗せだなあと思う。海外でたい焼きが流行るのも納得だ。Kanon京アニが再アニメ化したときは狂喜乱舞した。

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いたる絵は神

 

 しかし、僕が今までの人生で最も萌えたキャラは『魔導物語』『ぷよぷよ』シリーズのアルル・ナジャである。そもそものキャラデザインが神がかっているし、シリーズによって冷たい大人な性格だったり無邪気だったりの(意図せざる)二面性が良い。後に僕は「関係性萌え」に至るわけだが、それについては後に述べる。

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神デザイン

 

 

男の娘

 ボクっ娘は沼だったのだが、そんななかで高校生のときに兄の部屋でふと読んでみた作品に心奪われた。やぶうち優の『少女少年』である。タイトルのとおり(?)、小学生の男の子が「男の娘」としてアイドルデビューする作品が描かれている。これが「小学五年生」とかに掲載されていたと思うと、性癖が歪むと思う。2012~16年に少女少年リバイバル的に連載されていた『ドーリィ♪カノン』も本当に神だった。

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全員男

 

 大学で漫画読みサークルに入ると「おちんちんが生えている」ということを非常に重視する先輩がいて、男の娘成分が割と補充されていた。『プラナスガール』はそこで出会った作品だった。扇情的な男の娘によって巻き込まれヤレヤレ系主人公が堕ちていく様は気持ちが良い。

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やっぱ好きなんすねぇ

 

 当時、ついにはショタでもいいんじゃないかという気持ちも湧いてきていたが(『ムシブギョー』という作品の主人公をショタとして読んでいた)、結局おねショタが好きだっただけかもしれない。つくづく僕はヘテロセクシャルである。

 

関係性萌え(カプ厨)

 2013年頃、リアルで恋愛し始めた影響もあったのか、関係性萌えというか、僕はすっかりヘテロ恋愛カプ(カップル)厨になっていた。印象に残っている作品はまず『ラブロマ』だろうか。すっかり人気作家であるとよ田みのる出世作だが、男の子がいちいちまっすぐ正直に気持ちを伝える(近年の言葉で言えば「アスペルガー」的、と言える)というのが斬新な作品だ。

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やさしい世界

 

 カプ厨という意味では高津カリノの『WORKING!!』も好きだった。作者のサイトで連載されていた『ブタイウラ』もそうなのだが、ある友人は高津カリノの作品を「みんなリア充になっていくからニヤニヤできる」と評していた。同感である。

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カップル二組

 

 ぷよぷよシリーズではシェゾ×アルルが捗りまくった。僕は一時期コミケに行くたびにシェアル同人誌を買い込んでいた。コミケぷよぷよ島は小さいが、質が高いものも多い。シェゾの有名な「お前が欲しい」(「もとい、おまえの魔力が欲しいだけだ」)という迷ゼリフの考証(?)もずいぶんと進んでいる。

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ヘンタイ

 

 僕は不器用な恋愛や「照れて赤面する」というのが好きなのだと思う。その意味で、ジュブナイル的な幼い恋も大好きなので、小学生たちや中学生たちを描いた作品なども大好物である(だから、やぶうち優の作品も好きだったんだと思う)。とはいえ、恋愛を描いた作品は挙げだすとキリがない。

 

 

二次元恋愛を三次元恋愛へ投影

 このように二次元に萌え萌えだった僕は、それを現実へと転写してしまったのだと思う。その大きなキッカケの一つは「セカイ系」やモノローグの多い「泣きゲー」というジャンルである。

 架け橋となった作品を挙げていこう。無論、新海誠作品やイリヤの空最終兵器彼女といったセカイ系の王道は原作はだいたい履修済みである。しかし、僕に圧倒的な影響を与えたのはおそらくkeyの作品である。

 先ほどKanon月宮あゆを挙げたが、key作品は傷や障害を持ったキャラクターを主人公が「フラットに受け入れる」という構図になっている。シナリオライター麻枝准の自己投影(?)である主人公たちはクセの強いヒロインたちを「おちょくり」ながらも受け入れていく。ヤレヤレ系主人公とは別の意味でヒロインたちの可笑しさを楽しんでいると言えるだろう。

 

 あるいは、傷や障害を持ったキャラクターだからこそ主人公(=プレイヤーのオタクくんの投影先)を受け入れてくれるのだという錯覚を生む。それでいてエロゲーというジャンルの構造上、選択肢を間違えるとBAD ENDによって主人公(=オタクくん)は「無力感」を覚えることになる。「ダメな俺」という自己陶酔的マゾヒズムを刺激するのだ。しかもkey作品はケータイ小説かよ」というぐらい人が死ぬ。選択肢を間違えると死んでしまい、「マモレナカッタ……」となってしまうわけだ。しかし、正しい選択肢を選ぶと「奇跡」が起こりTRUE ENDを迎える。この落差によって、「ダメな俺」が感情移入することもできるし、「ダメな俺」を救済してくれもするのである。

 しかし、key作品に限らず、エロゲにどっぷり浸かったせいで三次元でも「変な人」を好きになりがちな人は僕以外にもいないのだろうか。情報求ム。

 

二次元に描かれた(奥深い)愛のかたち

  ヒロインに対して「ダメな俺でも受け入れてくれる」という聖母性を見出してしまうことは一つの(政治的には正しくない)ゴールではある。僕がたびたび「メンヘラが好き」と公言してきた理由の一つはそこにある。

 しかし、そこから更に先へと僕を進めてくれる、強度のある作品もいくつかあった。最後にそれらを紹介しよう。僕を二次元から脱却させ、三次元の対人関係を豊かにしてくれたのも、おそらくこの作品たちである。

 まず、やはりkeyの主要メンバーが所属していたTacticsで作られた『ONE~輝く季節へ~』を挙げたい。この作品のメインヒロインである長森瑞佳の「聖母性」について(そして逆に浮き彫りになる主人公の自分勝手さについて)、かつてサークルクラッシュ同好会会誌第四号で述べたことがある。僕が別に所属している漫トロピーというサークルのブログでも同じ箇所を転載して記事を書いた。

mantropy.hatenablog.com

 

 しかし、敢えて言えば、瑞佳の本当の魅力はここから更に先にある。『ONE』という作品は、正しい選択肢を選ばないと主人公の浩平が世界からどんどん稀薄になっていき、「えいえんのせかい」に旅立ってしまうという設定になっている。それは過去に妹を失ったことによるトラウマ、また、その際に(おそらく浩平が妄想で生み出した少女である)「みずか」と交わした盟約が理由、という設定になっている。

 「みずか」はそもそも長森瑞佳をモデルとして作られた。純粋な「聖母」のようでいて、実はその二面性が示唆されていると言えるだろう。「みずか」の冷たい視線は僕(=プレイヤー)を射抜いてくる。

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ポタクくん「ぽれは…ぽれは…」

 そして、瑞佳ルートには一つの謎がある。浩平と瑞佳が待ち合わせをした際に、瑞佳がいつまで経っても来ず、降ってきた雨のせいで浩平は風邪を引いてしまうというエピソードがある。

 設定に沿って単純に考えればこれは、「えいえんのせかい」の作用によって瑞佳が浩平のことを(一時的に)忘れてしまったと解釈できる。しかし、トゥルールートに入っている場合にはヒロインだけは浩平のことを忘れないはずなのである。実際、他のヒロインたちも(正しい選択肢を選んでいれば)浩平を忘れることはない(なかったはず)。なぜ瑞佳だけが浩平のことを忘れてしまったのか?

 この問いに答えがあるわけではない。しかし、一つ言えることは、このエピソードこそがエロゲヒロインの聖母性に対して、異化効果をもたらしているということだ。このエピソードをどう解釈するかについては様々に考察できるが、少なくともこのエピソードこそが瑞佳ルートに深みを持たせ、瑞佳というヒロインにどこか冷たさと同時にミステリアスな魅力をもたらしている。

 

***

 

 同じエロゲでも「ヤンデレ」という属性を有名にしたNavelの『SHUFFLE!』という作品がある。SHUFFLE!のアニメの「空鍋」のエピソードは視聴者に衝撃を与えた。

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精神を病んだ挙句、主人公:稟(りん)の帰りを待ちながら空の鍋を混ぜるヒロイン:楓。

 楓は幼い頃に事故で両親を亡くしているという設定である。実際には、両親が旅行に行った際に楓が両親を呼び戻したせいで自動車が事故に遭い両親が亡くなったのだが、楓がその罪悪感に押し潰されないよう、幼馴染である稟は「自分が両親を呼び戻したせいで両親は死んだ」という嘘をつく。それ以来、稟は楓に恨まれ、嫌がらせをされながら生活をすることになる。

 それでも稟は罪を被り続ける。楓が生きる気力を失わないように、恨まれることも厭わない。そうして、結果的に楓は(本当は自分が両親の死の原因になったという)真実に気づくことになる。楓は今まで稟にしてきた攻撃のことを反省し、逆に稟に対して「尽くす」ようになる。言わば、負債を返す形で稟に尽くしているのである。この設定を「ヤンデレ」と解釈するのは個人的には間違っていないと思う。アニメスタッフはよくやってくれた。

 それはともかく、僕が感動したのは、稟の「ヒロイックな自己犠牲」である。現実にはなかなかあり得ないような設定ではあるし、自分が恨まれるように仕向けることが本当に楓の癒しになるのかは疑問符がつくが、このような(恨まれることを選ぶという)形の愛がありうるのか、と目からウロコが落ちた。

 

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 ギャルゲ原作ではあるが全く違う内容のオリジナルアニメに『true tears』という作品がある。昼ドラ的手法をアニメの世界に持ち込んだ岡田磨里の出世作の一つでもある。

 『true tears』には三人のヒロインが出てくるが、乃絵というヒロインがこれまた変なヒロインである。ニワトリを餌付けしていたかと思えば、主人公:眞一郎をニワトリと同一視してニワトリの餌を与え始める。

 眞一郎はヤレヤレ系主人公とは違う。乃絵の奇妙な行動に驚きつつも、乃絵に対して(乃絵の独特な言語に寄り添う形で)真剣に向き合っていく。そして、こっそり趣味として描いている絵本を乃絵だけに見せるなかで、二人の関係を築いていく。

 ニワトリになぞらえられた眞一郎であるが、乃絵は「飛べる/飛べない」という比喩で眞一郎に示唆を与える存在になる。「眞一郎、あなたは飛べるの」と。

 さすがに長くなってきたのでもう詳しくは書かないが、自分の恋心を諦めて、相手を「飛べる」ようにする、そういう愛もあるんだなあと思う。何度も観たい作品である。

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天使

 

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 この記事を書く前に僕は『NHKにようこそ!』のアニメを何年ぶりかに観た。心が震えた。ここまで実存に刺さってくるアニメが今の時代にありうるだろうか? いや、俺TUEEや異世界転生モノが人気を博してしまっているこの時代には、こんな作品が出てくることはありえないだろう。

 ネットの一部界隈では『NHKにようこそ!』のヒロイン:中原岬が「ダメな俺を救ってくれる天使・聖母」のように扱われているようだが、それは一面的すぎるのではないかと思う。

 あるいは、「中原岬になりたい系女子」は、「ナジャになりたい系女子」、つまり純朴な男の前に現れるミステリアスで魅惑的な女になりたい人とどう違うんだよ、という話である(何の話だ)。

 中原岬は、ひきこもりの佐藤くんを「ダメ人間」、それも「自分よりもダメな人間」だと見下すことによってある種の安心感を得ながらコミュニケーションを展開する。岬に振り回されることで結果的に気持ちが楽になっていく佐藤くんの視点において、岬ちゃんはある種の「天使」なのかもしれない(実際、岬ちゃんは佐藤くんがどれだけヤバくても佐藤くんを受け入れるのだから)。

 しかし、それはイコール、岬ちゃんが天使であるということではない。岬ちゃん自身、周囲との噛み合わなさを抱えた結果、その生きづらさを佐藤くんに投影している。つまり、佐藤くんを救うことによって自分を救おうとしている。これは典型的なメサイアコンプレックスの構造である。

 あるいは、自分が「天使」の役割を引き受けることに陶酔している、とさえ言えるかもしれない。これが男女逆なら暴力性は明らかなのだが、女性から男性への矢印であることによって、岬ちゃんの側の暴力性はあまり見えにくくなっているようにも思う。

 佐藤くんと岬ちゃんの関係性がどんどんギクシャクしていくことからも分かるように、佐藤くんも徐々に岬ちゃん自身の問題を理解していくのである。岬ちゃんだって葛藤を抱えた人間であるのだと。「救い-救われる」関係はそう簡単には成立しない

 その諦観をお互いに受け入れたうえで、それでもなお、「きっと大丈夫だよ」とゆるやかに関係を続けていく。そして、生き延びていく。これが『NHKにようこそ!』が導き出した答えなんじゃないかと僕は思う。

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 僕が『NHKにようこそ!』の原作を読んだのは中学生のときだが、大学生になり、サークルクラッシュ同好会を始めてからようやく、三次元でNHKにようこそ!」的世界を目の当たりにした。『NHKにようこそ!』は紛うことなき“リアル”だった。それは佐藤-岬の関係に限らず、先輩や山崎、自己啓発セミナーや自殺オフ会の描写においてもそうである。

 佐藤-岬的関係の一例を挙げるならば、Skype掲示板である。Skype掲示板では、親代わりが欲しい中高生の女子と、青春を取り戻したい20代半ば以降の男性が奇妙にもマッチングしている。中高生の女子は天使の役割を引き受けながら男性の青春を「取り戻させてあげる」のだ。一方、20代半ば以降の男性は年上として中高生の女子に対して「大人の余裕」を見せる(本当に余裕なのだろうか?)。

 やがて彼ら彼女らはその関係の「異常さ」に気づくかもしれない。中高生から見ると「大人と付き合っている」というのはカッコよく見える側面もあるのかもしれないが、20代以上から見れば中高生と付き合っているというのは普通に「ヤバい奴」である。

 この関係を、グロテスクで幼稚な関係だと笑い飛ばせるだろうか? 否、これは僕に言わせれば「社会問題」である。もちろん、18歳未満との性行為は犯罪なのだが、お互いがお互いの(自分と相手の)抱えている「後ろめたいニーズ」について理解してしまいながらも、それでもなんとなく共生していく。そういう愛もあるんじゃないだろうか

 

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次は15日目、saraさんの「世界一 可愛い子に 生まれたかった」です。