簡単に人を「危険人物」扱いすべきではない

 Twitterの話で恐縮なのだが、「こんな危険人物がいて怖い思いをしました」系の話が拡散されては、みんなで糾弾する流れになるのが見てて違和感がある。

 たしかに、危険な人物に対してあらかじめ予防的に警戒しておく方が安心だし、危険なことをしそうな人がいたときに「この人は危険だ」と思って距離を取ったり、他の人にその危険性を呼びかけたりできるというメリットはあるのだろう。

 

 しかし、人を危険人物扱いすることには様々な問題がある。どうすべきかも含めて、5つに分けて説明しよう。

 

 

①安心を追い求めると不安が強まり、人を信頼できなくなる:

 そもそも人生には予期せぬ事態がある程度起きるものだ。自分の予想を超えた人間が現れることもあるだろう。それに対していちいちビクビクしていると「不安が不安を呼ぶ」事態になりかねず、無菌な場所でしか生きられなくなってしまう。

 集団や組織としても、一度危険人物を排除した実績ができてしまうと、その後もいとも簡単に排除という選択肢を採れるようになってしまいかねない。

 むしろ、どんな人間に遭遇したとしても大丈夫だ、という「信頼」の構えを作っておく方がよいと思う。あるいは恣意的に人を危険人物認定してしまわないように、「これをやるとさすがにアウトだ」と見たら分かるような(ある意味公平な)線引きを設定しておくべきだろう。

 

②「危険」の構築性:

 そもそもその人間がした行為がどの程度危険なことなのかということは、事後的に周囲の判断によって決まる側面がある。「危険な人物」であるとレッテルを貼ることこそがその人物を危険たらしめている側面があるだろう。

 よってその「危険判定」そのものが公平に運用されているかどうかを絶えず問い返すべきだろう。

 

③更生可能性、「危険人物」であることのアイデンティティ化:

 危険なことを引き起こしそうな人物も、学習次第で行動を変化しうる。「この人は危険人物だ」とあらかじめ規定してしまうと、その変化の可能性の芽を潰してしまうかもしれない。

 それどころか、「危険人物」だというレッテルをその人が内面化し、実際に危険なことをしでかすハードルが下がっていくこともありうるだろう。たとえば、その人が「危険人物」として排除された結果、その人の周りの人間もアウトローな人間ばかりになれば、実際にその人自身もその文化に染まっていく可能性がある。

 よって、人を簡単に危険人物として排除するのではなく、可能な限り、危険ではない行動を学習させる可能性を模索すべきだろう。

 

④危険な行動の状況依存性:

 ある人が実際に危険なことを引き起こすかは、場や状況にも依存する。たとえば、盗んでも誰にもバレないお金が置いてあったらそのお金を盗んでしまう人は多いだろう。

 よって、危険な行動をその人の性格のせいにするのではなく、場や状況が危険な行動を誘発してしまわないように、環境調整することも大事だろう。

 

⑤優生思想への批判:

 長い人生の中では「危険人物」を批判しているその人自身が、「危険人物」になりうる。あるいは、過去の選択や運次第では、すでに「危険人物」になっていたかもしれない。

 よって、「危険人物」をあらかじめ排除するような空気やシステムを作ってしまうと、単に不運なだけの人間を「劣った生」として排除することに繋がる。これは公平ではないのでできる限り避けるべきだろう。

 

 以上、5点の理由から、簡単に人を「危険人物」扱いすべきではないと僕は考えている。

ぼくらの非モテ研究会編著『モテないけど生きてます』書評――「ヒッカム的視点」の鋭さについて

 僕にとっていまイチオシの研究者・実践家である西井開さん(@kaikaidev)が7月16日、『「非モテ」からはじめる男性学』を上梓された。

 現代日本社会にとってきわめて重要な仕事をされている(と僕は思っている)ので、一冊でも多く売れて、広く読まれてほしいと思う。

 そこで、援護射撃の意味を込めて、西井さんが運営されている「ぼくらの非モテ研究会」名義で昨年出版された『モテないけど生きてます――苦悩する男たちの当事者研究』(以下、「モテ生き」と表記する)の紹介記事を書く。

  

  

 

1.はじめに――「モテ生き」のすごさは「ヒッカム的視点」にあり

 「モテ生き」は「ぼくらの非モテ研究会」という語り合いグループをめぐって、その活動や個人の「当事者研究」の成果などを報告した本である。

 良く言えば、きわめて「非モテ研」の参加者たちのユニークな苦悩の語りが面白く、かつそれらの研究が広い意味での男性問題として位置づけられ、男性たちの語り合いグループの意義が浮かび上がってくる本である。

 しかし、悪く言えば、雑多な語りが雑多な文脈のなかにコラージュ的に配置されており、いまひとつまとまりが感じられない(メッセージ性が薄い)構成になっているようにも見える。

 そこで、いち読者として「意義深い」「新しい」と思ったポイントを僕なりに整理して提示しようと思う。先に結論を述べるなら、「モテ生き」のすごさは「オッカムの剃刀(ある事柄を説明するために必要以上に多くを仮定すべきでないという考え方)の真逆をいっているところである。

 医療における診断では「オッカム」の対義語として「ヒッカムの格言」(患者は偶然に複数の疾患にかかりうるため、複数の原因を追究すべきだという考え方)という言葉があるそうだ。物事を理解するために「オッカムでいくべきかヒッカムでいくべきか」、言い換えるなら、できるだけ少ない原理でシンプルに(節約的に)物事を理解すべきか、複数の説明を検討していくべきかというのは、ケースバイケースである。

 ただ、西井さんは世間に流通している「非モテ」という問題のオッカム性を見抜いた。「モテないから苦しいのだ」「恋人ができれば“一発逆転”できる」などといった「モテ一元論」的な世界観に囚われることの困難を語り合いによって解きほぐし、「非モテ」という言葉を敢えて定義せずに語り合いグループを始めたことで、「非モテ」の問題はヒッカム的な方向へと開かれていったのである。

 この「ヒッカム的視点」は「モテ生き」に(そして西井さんに)通低している。以下、このヒッカム性の観点から「モテ生き」を紹介していこう。

 

 

2.「非モテ研」の背景にある様々な実践

 「モテ生き」の目次を見ると、あいだあいだに挿入されるかたちで「実践に学ぶ」という節がある。①「メンズリブ研究会」、②精神障害者コミュニティ「べてるの家」、③薬物依存者回復施設「三重ダルク」、④DV加害者脱暴力グループ「メンズサポートルーム大阪」の4つである。

 それぞれの(セルフヘルプグループ的な)先行実践を西井さんが4ページ程度で紹介しており、「非モテ研」が活動するうえで、それぞれのグループから何を学び取ったかが書かれている。

 単純化しすぎなのを承知で僕なりにまとめれば、それぞれ次のことを学んだという旨のことが書かれている(詳しくは本を参照してほしい)。

 

メンズリブ研究会:

男性同士が男性問題について語り合いの場を持つことの重要性

べてるの家

自分たちの「苦労」に自分たちで名前をつけて外在化し、社会規範に囚われないかたちで自分の「苦労」に付き合っていくこと

③三重ダルク:

単に薬物をやめるのを目指すのではなく、各人の様々な背景に基づいて「回復」の過程を共に生きること

④メンズサポートルーム大阪:

自らの豊かな気持ちに気づき、加害の問題についてグループで語り合う方法

 

  それぞれの先行実践に対して、「非モテ研」は折衷的に“いいとこ取り”をしている、という風にも見える。しかし、私見では単にそれぞれの実践は折衷されているだけではなく、有機的に統合されているように思われる。以下でそのことを説明しよう。

 

 

3.「非モテ」を呼び水に

 「モテ生き」の中でまず、先行実践から影響を受けているように思われるのが、「テーマ研究」の設定の巧みさである。第1章第4節52ページの図2にあるように、「非モテ」をテーマに語り続けた場合には「自分はモテないからつらい」と「恋人さえいれば幸せになれる」とがループすることになってしまいかねない。

 そこで、まず抽象度の高いテーマ(「非モテ」とは何か、など)でのエピソードベースの語り合いをすることでイレギュラーに生まれる具体的な話題を抽出し、その後の会では抽出された具体度の高いテーマ(「家族」「メディア」「いじり・からかい」など)を通じて多角的に「非モテ」という現象が分析される。

 

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「モテ生き」52ページより

 

 ここには「研究」という姿勢からべてるの家の影響が見られるのはもちろん、メンズリブ研究会において男性問題から派生した様々なテーマが語られていたこと、三重ダルクにおいて薬物の問題に限らず各人の様々な生きづらさの背景が射程に入れられていたことなどの影響が見られるように思われる。

 加えて、第5節67ページの「非モテ研用語辞典」も面白い。当事者研究の蓄積をユニークなワーディングで「用語」化し、毎回新しく参加する人にも用語集は配られる。287ページで村本邦子さんが述べているように、非モテ用語を蓄積していくことには「新しい文化の創造」という意義がある。社会において主流とされている価値観から避難できる場として、普段語りにくいようなことも語りやすい空気が醸成されることだろう。ここにもまた、べてるの家当事者研究における「外在化」や「自己病名」の考え方の影響が見られる。

 

 

 非モテ研では、以上のように先行実践がうまく継承され、新しい手法が編み出されている。それは一言で言えば、非モテ」概念が「呼び水」として用いられているということである。どういうことか説明しよう。

 当事者研究においては語り合いというかたちで「共同で」研究がおこなわれていることが重要である。僕の個人的な経験になるが、当事者研究をやっていると、自分一人で考えていたら思いもよらなかった「自分についての発見」が自分の口から語りとして出てくる。それは、仲間の研究・語りに触発されるかたちで「そういえば……」と連鎖的に生まれてくるのである。

 この「語りの連鎖」を促進させるうえで、「非モテ」という言葉をフックに探求していくシステムは非常によくできている、と僕は解釈する。「非モテ」について敢えて定義せずに、ゆるい同質性を持った人々が、ゆるく集まって、ゆるく語り合う。「非モテ」概念は、そのゆるさゆえに、豊穣な語りを生みだす「呼び水」としての機能を果たしているのである。

 この話は、西井さんの新著『「非モテ」からはじめる男性学』の第七章において、「非モテ」が「スーツケースワード」であるというかたちで触れられている。「非モテ」が個人の主観によって意味が多様に変化する多義語であることを活かして、中身が不明瞭な苦悩をとりあえず「非モテ」という「スーツケース」に放り込む。そして、「非モテ」の探求を通じてスーツケースの中身が明らかになっていく、という手順である。詳しくは西井さんの新著を参照してほしい。

 

 

4.「男性の加害性」にどう向き合うか

 次に、先行実践の影響が見られるポイントとして、加害性についての記述に紙幅が割かれていることが特徴的である。191~218ページの第4章は「加害と責任」と題されている。ここでの記述を読むと、「加害性」について男性たちが陥りがちな2つのパターンがうまく回避されている。以下、ABで説明しよう。

 

A.「ホモソーシャル化」「インセル化」の回避

 男性同士のグループが陥りかねない落とし穴として真っ先に思いつくのが、いわゆる「ホモソーシャル」の問題である。すなわち、女性を蔑視や欲望の対象にし、かつ同性愛を排除することを通じて男性同士の絆が強まるような状態である。男性同士が群れることで孤立が回避できるというメリットはあるものの、それによって不当に被害を受けたり排除されたりする人が生じてくる点でホモソーシャルな場にはリスクがある。

 とりわけ、「非モテ」という性愛に結びついた問題を軸に形成される集まりの場合、いわゆる「インセル」に陥ってしまう危険がある。すなわち、自分の性愛経験のなさや孤独による苦悩を女性のせいにすることで、女性への加害を正当化するような文化である。

 非モテ研はそのような加害に繋がりうる欲望や、加害の経験といった「ダークサイド」についても語る場であるという。しかし通常、そのようなダークサイドについては語りにくいだろう。一般的な社会で加害の欲望や経験がもし語られるとしたら、「ネタ」や「自慢」として語られることになりやすいのではないだろうか。それこそ、「ホモソーシャル」な場においてである。

 しかし、非モテ研においてそのような語りは、多くの場合罪悪感と共に語られ、ダークサイドにある苦悩や問題に少しでも変化が生じることが目指されているという。この点で「ホモソーシャル」ないし「インセル」的な方向性がある程度回避されていることが窺える。実際、非モテ研参加者たちの座談会(270ページ)にも、素直につらさを語る際には女性蔑視的な話がどうしても入ってきてしまうことと、それでも女性蔑視へと一気に流れていくことがないように西井さんが緩くファシリテートしている側面があることとのバランスの問題が書かれている。

 

B.「男性原罪論」の回避

 一方で、男性の加害性を反省した末に陥りかねないもう一つの落とし穴として、「男性原罪論」とでも呼べるような事態を挙げることができる。すなわち、フェミニズムなどの言説に偏った影響を受けた男性が、「男性には本質的に加害性がある」という考え方を持ってしまうような傾向である。これは、男性である自分自身への過度な自罰へと向かうこともあれば、他の男性に対する「呼びかけ」へと向かうこともある。

 いずれにせよ「男性原罪論」が問題なのは、一見男性の加害性に向き合っているようでいて、実は向き合うことから回避する効果を持っているからである。その理由は3点ほど挙げられる。

 一つは、「加害性がある理由は男性だからだ」という「なぜwhy」による説明図式が、男性性から「どのようにhow」加害が生まれるのかという問いを隠蔽してしまうからだ。二つ目に、「男性の加害性」をアピールすることが、自分自身について向き合うことを回避する「免罪符」として機能してしまいかねないからだ。そして三つ目が重要だが、加害性の強調が「つらい」という気持ちを表出することを抑制してしまいかねないということだ。

 以上を考慮すると、加害性に向き合うためには、感情を抑制せずに語り、個人個人の内面や背景事情もふまえて、どのように加害が発生したのかを見ていく必要がある。

 そのような“解像度を高めていく”とでも言える語りを可能にするのは、非モテ研の「温かい空気」なのではないかということが検討されている(214ページ)。実際、加害やそれに繋がる欲望を断罪・糾弾というかたちで“ジャッジ”してしまう空気があると語りにくいだろうし、仮に語れても素直に気持ちを表現することは難しいだろう(詳しい内容については第4章第3節「加害の研究とつぐないについて」を参照してほしい)。

 

 

 以上ABのように、女性蔑視の方向性にも、男性原罪論の方向性にも染まらないように、言わば弁証法的に非モテ研の実践は練り上げられている(※1)。そして、4つの先行実践からの影響もまた、弁証法的に統合されていると、僕は解釈している。

 ※1:本の中に言及はないが、これ以外に陥りがちな落とし穴としては、「『罪の告白』とそれへの『赦し』を過度に礼賛する」というある種の「自助グループ的ノリ」が挙げられるような気がする。それもまた、加害性に向き合うことを回避する効果があるだろう。

 

 先行実践にあったメンズリブの運動は、アメリカの一部では男性の権利運動men's rights movementへと派生してもいる。一方、日本ではフェミニズムの強い影響下から男性学が立ち上がっている。いずれの運動にも意義がないとは言わないが、立場が先鋭化することでむしろ男性の加害性の問題が問いにくくなっている側面があるのではないかと僕は考える。

 不正確な単純化を承知で書けば、フェミニズムとの距離が遠すぎれば加害性の問題は問えなくなり、フェミニズムとの距離が近すぎても(男性個々人の事情や文脈を探るような活動が後景化すれば)むしろ加害性の問題は問いにくくなる、というイメージで整理できるのではないだろうか。そう考えれば、「モテ生き」における加害性への向き合いは、「メンズリブ研究会」や「メンズサポートルーム大阪」からの影響が優れたバランスで統合された結果だとも言えるのではないだろうか(※2)。

 ※2:日本の男性学フェミニズムの関係においては、澁谷知美さん(2001、「『フェミニスト男性研究』の視点と構想――日本の男性学および男性研究批判を中心に」)がフェミニズムに基づいて男性学に対して問題提起をしたことが有名である。その内容は「男性学は男性間の関係の問題や心理レベルの問題に閉じてしまうことで、女性への抑圧という構造的問題が問えなくなるのではないか」というものである。これに対して、「メンズサポートルーム大阪」で活動し、西井さんの指導教員である中村正さんは、自身の論文(2017、「不安定な男性性と暴力」)で、男性の対人暴力問題についての「臨床社会学」の実践を通じて、個人的・心理的(ミクロな)問題と社会的(マクロな)問題とを地続きのものとして位置づける、というかたちで応答されている。「モテ生き」における加害性への向き合い方はこの中村さんの姿勢に合致していると言えるだろう。

 

 加害に対して「どのように責任を取るか」という問題もまた第4章では検討されているが、ここには三重ダルクとべてるの影響が見られるように思う。非モテ研が「ダークサイドについて素直に語れる場」であるということがその影響の分かりやすい部分だろう。

 だが、三重ダルクからの影響としてより重要なのは「非モテ意識への囚われ」や「加害から生じる罪悪感への囚われ」といった問題系がアディクション(依存症)の観点から捉えられていることである。アディクションからの回復のイメージは、言わば「回復し続ける実践」をおこなうことである。これは、加害に対する責任の取り方に当てはめて考えることができよう。すなわち、「責任を取る」というのは、なんらかの罰を受けて一挙に清算されるようなイメージで考えるべきではなく、過去の行為にじっくり向き合うプロセスと共にあるものだと考えることができる。

 べてるにおいてもまた、ふつうの社会とは異なる「責任の取り方」が見られる。そのカギは「外在化」にある。極端な例で説明すればこういうことだ。誰かが「放火」をしたことについて「責任を取る」のであれば、ふつうの社会においては刑務所に入ることになる。

 それに対して、べてる式の発想では放火を「放火現象」と名づけて外在化することによって、いったん個人と問題を切り離して問題を探求する。このことでむしろ、どのように自分が放火に至ったのかについての認識がクリアになっていくのである。言わば、いったん“免責”することを通じて、“引責”することが可能になる、という、オルタナティブな責任の取り方である(※3)。

 ※3:ここでの「放火現象」や「免責と引責」についての記述は、國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『<責任>の生成――中動態と当事者研究』を参考にした。雑にまとめれば、現代の能動-受動パラダイムにおいては、行為が自分の「意志」によって為され、「意志」によってそれ以前の過去が切断されるということが責任を問う際の前提になっている。それに対して、中動態の発想を導入すると、過去を切断しないかたちでの責任の取り方にアプローチできる、ということが検討されている。

 

 以上より、「男性の加害性」に対する向き合い方、責任の取り方についても、「モテ生き」は先行実践を継承することで、新しい方法を提示していると言えるだろう。再度まとめるなら、女性蔑視に走らず、感情の抑制や男性=罪という短絡にも走らず、外在化の助けを借りながら語り合い、自身の過去の行為を掘り下げていく、といった方法である。これが結果として、加害の再発防止にも繋がると期待できる(※4)。

 ※4:ただし、これらはあくまで「オルタナティブな」責任の取り方であるということについては、留意が必要である。このような責任についての考え方を絶対視するのは危険だ。西井さんは慎重にも、当事者研究の「加害に至るプロセスを探る」という営みが「加害者にも加害をおこなうだけの事情や背景がある」という言説を呼び込み、加害者を免責するツールになってしまう危険性に言及している。また、このような営みが被害者からすれば「無責任」で「悠長」なものに映るであろうことも西井さんは指摘している。加害性への向き合い方・責任の取り方について、洗練していける可能性はあるが、絶対的な正解はない、と言えるだろう。

 

 

5.単なる予防線ではない、ポジショナリティ(立場性)とインターセクショナリティ(交差性)への意識

 以上で述べた「男性の加害性」への向き合い方は、西井さん自身のポジショナリティ(立場性)の探求にも活かされている。終章第3節の「解釈押し売りの研究」(246-254ページ)では、西井さん自身の「解釈押し売り」、すなわち他者の経験や語りについて客観的にまなざし、一方的に解釈を与えて押しつけることの問題が研究されている。

 詳しくは本を参照してほしいが、特に非モテ研の古参メンバーや、主宰である西井さんが非モテ研の中で権力性を持ってしまうため、そのような人が述べた解釈には異議を申し立てるのが難しいということだ。実際、非モテ研の中で「西井が持つ権力性」について何度か話し合いが持たれたという。

 

 

 さらには、非モテ研がジェンダーにある程度センシティブであるのに対して、それ以外の当事者性、たとえば民族性や障害の有無といった問題に十分に意識しきれていないのではないかということが言及されている。これは、インターセクショナリティ(交差性、複合差別)と呼ばれる問題意識である。

 このように他の当事者性についても言及することは、「予防線」や「綺麗事」のように思われる方もいるかもしれない。しかし、そうではなく西井さんは必然的なかたちで他の当事者性に言及している。

 というのも、男性という属性はやはりマジョリティの立場にある一方で、男性だからといって常に「標準」「正常」ではあり続けられるわけではないということを西井さんは問題にしているからだ。男性たちも障害やセクシュアリティ、民族性、出身など、性別とは別の軸でマイノリティ性を持っていることもありうる。それゆえに男性たちも差別を受けたり苦悩を抱えたりしうる存在なのだが、マジョリティでもある男性たちはこれまで自分たちの体験や感情について細かく描写することをあまりしてこなかった傾向がある(64-5ページ)。

 だからこそ、マジョリティであるがゆえに語りにくかった苦悩に対して、「非モテ」概念を入り口にアクセスしていくのである。これまで述べてきたように、この苦悩は単なる「モテない」ことに留まらない。家族や「いじり・からかい」のような具体的な問題に接続しうるし、民族性や障害の有無のような当事者性からくる苦悩にも接続しうるのである。それゆえに、一見男性問題や「非モテ」とは関係ないような当事者性にも「モテ生き」は言及することになる。言い換えれば、西井さんは「非モテ」問題の多義性を活かすことで、必然的にインターセクショナリティの問題にも開かれていったのである。

 

6.おわりに――西井開を刮目して見よ

 最後にまとめなおそう。「モテ生き」は「モテないから苦しいのだ」「恋人ができれば“一発逆転”できる」などといった世界観や、「男性」という当事者性の問題のみを探求する「オッカム的視点」(一元論的な思考)を斥けた。

 そして、様々なセルフヘルプグループの先行実践を取り込んでいくなかで、「非モテ」という言葉を定義せず「呼び水」として用いる手法を編み出した。それにより、「非モテ」の背景にある様々な具体的問題にアクセスし、さらには他の当事者性(インターセクショナリティ)の問題へと必然的に行き着いた。

 様々な先行実践の取り込みは、「男性の加害性」への向き合い方にも活かされ、弁証法的に(女性蔑視でも男性原罪論でもない)「第三の道」を確立した。これは西井さん自身の権力性(ポジショナリティ)の問題を扱ううえでも活かされている。

 以上の「モテ生き」の成果について、僕は「ヒッカム的視点」(多元論的な思考)であるとまとめたい。そして、このヒッカム的視点は、まさに西井さん自身が持っているものである。

 西井さんは学問的立場としては臨床社会学という「マイナーな分野」に属している。臨床心理士・公認心理士として臨床にも携わりながら、非モテ研のような社会的な実践をおこない、データに対する分析の手つきも臨床心理学と社会学とが組み合わさったものになっている。つまり、「マイナーな分野」に属しているというのは、西井さんが単一の分野に留まるスペシャリストではなく、複数の分野に股をかけるゼネラリストだからゆえである。

 僕は西井さんと個人的な付き合いがあるが、話しているとその視野の広さ、そして様々な問題に対して絶妙なポジションを取るそのバランスに驚かされる。様々な当事者性に配慮しようとする学者は、その代償としてエリート的な「上から目線」になりがちだが、実践家でもある西井さんは「下から目線」をちゃんと持っている。人文系学問の権威がどんどん低下し、反知性主義の風が吹く現代日本社会においては、西井さんのようなアカデミズムの世界の外へもリーチできる人が必要だ。

 そんな西井さんの新著は手に取りやすい新書であり、修士論文を下地とした単著である。紹介した「モテ生き」と共に、広く読まれてほしい。

 僕は西井さんの仕事がアカデミズムとしての男性学や、男性学的な実践においてどのように位置づけられ、どのような意義を持っているのかについて論じる用意があるが、さすがに字数も膨れ上がってきた。それは新著『「非モテ」からはじめる男性学』を紹介する際に譲るとしよう。

  

 

恋愛からの卒業と、その先

 この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー5日目の記事です。

adventar.org

遅れたので6日目の方が先に投稿されていますね。すみません。

4日目はfina @fina0539 さんの

circlecrash.hatenablog.com

でした。最後の話が読んでて気持ち良かった。

 

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 相も変わらずサークラアドベントカレンダーは「自分語り」というテーマで実施されていますが、率直な話、そろそろ自分について語ることがなくなってきたな、という気持ちを抱きました。

 自分の人生について語るみたいなことは、サークラ会誌3.5号と、2018年のアドベントカレンダーでやりました。

 そして、僕が語りがちな「恋愛」という話題についてはサークラ会誌では2.5号、4号(の一部)、5号、6号で語りました。2017年アドベントカレンダーの記事も恋愛成分多めです。

 それでもなお、今回も恋愛について語りましょう。ただし、恋愛からの「卒業」について。というのも僕は、会誌8号の記事とwebマガジン「高電寺」に寄稿した記事で、自分なりに性愛に対する方針を打ち出していました。それは分解して言うならこういうことです。

 

①自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない

②女性に対して持つ恋愛感情を否認しない

③自分が「女性によって性的に受け入れられたい」という感情を否認しない

④自己肯定の基盤に「女性としての性的価値」がありそうな人とは性行為しない

 

 

 雑にまとめて言うなら、女友だちと(①)、恋愛したいし(②)、セックスしたい(③)、ということになりましょうか。

 ただし、性行為がもたらす加害性(あるいは、せっかく築き上げてきた友だちとしての関係性が、性行為によって毀損される可能性)を考慮に入れると、相手の範囲を限定する必要はあるでしょう(④)。

 性行為による加害の問題が発生しやすいパターンの一つとして、「女性としての性的価値」が自己肯定の基盤になっている、という場合があると思っています。こういう人と性行為をすると、「私はあなたを性的な存在としてしかみなしていない」というメッセージになってしまいかねませんので。

 

 女友だちと恋愛したいしセックスしたい――それって「セックスフレンド」では? と思われるかもしれませんが、セフレだとかソフレだとかそういう言葉に簡単に回収されない関係性を模索していた結果、僕はいつの間にか恋愛から「卒業」してしまっていたのではないか、という自分語りです。

 

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「セックスしない」理論、実践編

 2020年4月、世界はコロナ自粛の炎に包まれた。

 

 そこから遡ること数日。3月終盤に僕はある女性(Aさんとしよう)からダイレクトメッセージを受け取った。Aさんは東京から京都へ傷心旅行にやってきた女性だった。僕のことをどのようにして知ったのかは分からないが、やってきた以上はまじめに応対することにした。

 聞けば、他愛ない恋愛の悩みだった。他愛ないと言ってもディティールはある。僕はAさんの話を聞いてディティールを理解し、いくつか質問をしたりしてみる。

 僕にとっての問題はAさんの距離の近さだった。泊まるところも確定していないということで一緒に泊まることになり、早速冒頭に挙げた理論の出番である。

 違っていたら申し訳ないが、話を聞いている限り、Aさんは「女性としての性的価値」を自己肯定の基盤の一つに置いているように僕には見えた。コミュニケーションとしても、女性性が前面に出てくる感じ。要するに距離が近い。

 こういう人とはセックスを(仮にできたとしても)しない。なりゆきで一緒に寝ることにはなったので、そこは不徹底だったかもしれない。身体は女性性の記号に対して正直に反応し、その日は夢精した。夢精したことに自分でも笑った。

 

 その後、さらに話を聞いてみると、案の定Aさんは、できれば僕とはセックスしたくないようだった。こういう人への処方箋(?)は、性的価値とは別の部分での関係性を養っていくことであろう。ということで僕はいったん自分の住むシェアハウスや、自分の周囲のコミュニティにその人を招き、いろんな人とコミュニケーションを取ってもらうことにした。

 もしセックスできていたらそのまま関係は切れていたかもしれない。こういう女性は必ずしもセックスがしたいわけではないからだ。(Aさんがそうだというわけではないが、)たとえば、自身の抱える負債感を返済するためのセックスをしていたり、自身の感情をコントロールするために自暴自棄にセックスをしていたりする女性がいるように思う(このあたりは説明が難しい)。

 Aさんから詳しく聞いた話は面白かった。Aさんはかつて、男とセックスをした後に生じる感覚が嫌だったらしい。セックスを終えた後、「自分はもう用済みなのではないか」という感覚に襲われ、帰りたくなるのだそうだ。そして、コミュニケーションがうまくいっていないのではないかという不安からAさんは再度セックスする空気に持ち込んでしまうという悪循環に陥ることがあったらしい。

 

 やはり答えとしては、セックスしないで別の関係性(「友だち」としての関係性)を作っていくことが重要だったということになるだろう。これは自分の「立場性」を考慮してもそう言える。権力を持った人間が人間関係をやっていると、放っておいてもセックスすることが可能な状況が訪れることがあるように思う(もはや僕も、ある意味においては「権力を持った人間」になってしまったのかもしれない)。

 しかし、そのような権力を何も考えずに行使してしまえば、「セクハラ」に発展しかねない。セックスした相手に「ガチ恋」しようが、逆に「ヤリ捨て」しようが、後の展開で相手への著しい加害に発展してしまうリスクがある。言ってしまえば「男女間の友情関係」を築くこと、「突然ペニスが生えたりはしないぬいぐるみ」であることに僕は価値があると思っている。

 先に言っておけば、その後Aさんは東京に帰り、今もごくたまに連絡がある。今後もたまに喋る友人ぐらいの関係性がいいのではないかと思う。Aさんが自分にとっての居場所を得て、健やかに生活していけることを願っている。

 

関係を切るコロナ、関係を結ぶコロナ

 Aさんは大学生で、本来4月から大学に行く必要があった。しかし、コロナの関係で4月はお休み、という状況になった。

 滞在期間1週間程度の予定で僕のシェアハウスに滞在していたが、しばらく東京に帰る必要がなくなったようだった。予定していた滞在期間を超過していくと、他の住民の負担になるかもしれない。

 ちょうどそのとき、自分のコミュニティで花見が開催されることになっていた。せっかくなので花見を通じて、Aさんを泊めてくれそうな人間を見つけようと画策した。

 

 さて、ここからが本題だ。

 僕には気になっている人がいた。恋愛的な意味で。昨年恋人と別れた際の反省から(サークラ会誌8号参照)、僕は「友だち関係」の延長線上で恋愛したりセックスしたりする関係性を模索していた。その人との間に、そういう関係性が築けるのではないかと、ひそかに期待してもいた。

 既に友だちとしての関係性は確立していたために、その花見にもその人を誘った。そして、Aさんが人との距離を詰めるスキルが高いのか(?)、見事に僕の意中の人の家に泊まることを確定した。

 「押しつけるのも悪いから」という口実で僕もその人の家に行った。まあ冷静に考えれば、それを受け入れてくれる時点で、僕の好意はある程度すでに分かっていたのだと思う(そもそも好きだと言ったことはあった)

 

 4月のコロナ自粛の猛威は止まらず、大学は休校になっていた。予定されていたイベント等も中止になるなどして、みんな「暇」だった。そうして、奇妙にも3人での生活が始まった。

 一人暮らし用の狭い部屋に3人が滞在していて何も起こらないわけがなく……というのは冗談だが、暇を持て余したわれわれは自炊したり、動画を観たりして、ていねいな自粛生活を送っていた。様々な話をする中で親密度も増していく。コロナ自粛は思いがけず意中の人との距離を縮める口実を作ってくれた。

 Aさんもなかなか東京には帰らず、巧妙にアシストしてくれていたように思う。僕はぎこちなくも好きな人への好意を伝え、2人きりになったときにセックスした。

 

友人関係と恋愛関係をきちんと両立させるために――恋愛からの卒業

 好きな人との友人関係は、すでにけっこう長かった。僕は彼女の恋愛観や体験について聞いてきたし、僕自身も彼女にいろいろと話してきた。だからこそ、「恋愛関係とはこういうものだ」という常識に必ずしも縛られることなく(縛られても問題ない部分は縛られつつ)、話し合いながら関係性を模索していくことができたのだと思う。

 

 友人関係の延長線上で恋愛を始めたために、周囲との関係性においても案外有利な側面があった。

 去年まで付き合っていた人との別れを経て、僕は「思った以上に人間関係における『自由』を大事にしていたんだ」ということに気づいた。具体的には、女友だちとの関係性についてとやかく言われるのがキツかったし、性別関係なく周囲の友人の悪口を言われるときにはイライラすることがあった。

 僕は今まで(それこそ「サークルクラッシュ」的な問題を恐れて)自分のコミュニティの「外」の人と恋愛関係を築くことが多かった。しかし、そのことによって、僕の周囲の友だちと恋人との間にコンフリクトが起きやすかった。僕の周りの友だちは、こう言っちゃなんだが、クセの強い人も多い。相性が合わなかったのだと思う。

 つまり、サークルクラッシュ」的な問題を過剰に恐れて「外」から交際相手を調達するよりかは、ある程度「内」に存在している人と交際する方がコンフリクトは生じにくい側面もある。今回はある程度「内」にいた人を好きになったおかげで、結果的に周囲の人間関係への「根回し」もそこそこうまくいっているのではないかと思う。

 逆に言えば僕は、僕の恋愛関係について周囲から否定されるのも腹立たしく感じていた。恋愛に限らず、僕は人付き合いに対して文句を言われたくないし、言いたくもないタイプなのである。

 冒頭で「自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない」という方針を述べたが、より具体的には「僕の周りの友だちと仲良くできない人とは付き合えない」ということである。

 その意味で言えば、僕の好きな人はだいぶ関係性のレンジが広く、いろんな人と仲良くできるタイプだと思う。僕の築いている関係性についてもとやかくは言ってこない(もしガマンさせているのであれば、そこは話し合いを要する)

 これが僕にとっては非常にラクである。この記事を読んでいる善良な方々も、僕の作る関係性については、僕の好きにさせていただけると幸いである。

 また、ぶっちゃけて言えば、僕は好きな人と「付き合う」ということはしていない。「付き合う」という契約から生じてしまいがちな排他性が怖いからだ。よっぽど規範から自由な人でなければ、「付き合っているのだからこうしなければいけない」という感覚が魔力のように生じてくるんじゃないか、と僕は警戒している。有難いことに、「付き合う」はしたくない、という僕のワガママを好きな人は聞いてくれている。これは暫定的な措置なので、今後はどうなるかは分からないが。

 

 一般的な恋愛関係はしばしば排他性を要請するが、僕はその排他性に適応できていない。まず友人関係が大事で、それは恋愛関係と比べてそんなに序列があるように思えない。そして、自分の作る関係性についてとやかく言われることには、恋愛相手からであろうと、周囲の友人からであろうと、耐えられない。

 僕は一般的な「恋愛」をする者として失格と言えるだろう。それゆえに一般的な恋愛からは「卒業」したのである。

 

友人関係のように気楽に「恋愛」をすること

 それでは僕たちはいかなる関係性を築いているのだろうか。あくまで僕からの視点なのだが、思っていることを書く。

 この関係は、友人関係のように「気楽」である。思えば僕はこれまで、恋愛に対して実存を賭けすぎた。100%の力を使おうとしていた。そうして、感情的にもものすごく振り回されてきた。

 それこそがまさに恋愛なんじゃないのか? という疑問もあろう。しかし僕は恋愛から卒業した。どちらかと言えば、燃え上がるような激情を抱く「恋」の方から卒業してしまったのだと思う。「愛」だけが残ったと言える。

 好きな人に対してドキドキしないわけじゃない。むしろすごい好きだ。だが、その感情が空回りしてちゃ伝わらない。感情を空回りさせずに、この関係性の中でより良いものにしていくためには、むしろある程度の余裕が必要だろう。

 愛憎まみれる、心中するかのような、あるいは共依存的なまでの恋のカタチも否定はしない。しかし、友人関係とか自分のやりたいこととかも大切にしたい僕に、それは難しかったようだ。

 友人関係や自分のやりたいことなどとの「役割分担」で見た際、恋愛は一つの「役割」に過ぎなくなる。でも、それはとても大切な役割である。

 全てをなげうち、親の役割や友だちの役割、生きがいなども全て「恋愛」に集約させたくなる欲望も、痛いほどよく分かる。しかし、相手だって人格を持った人間である。相手にも自分の生活や様々なこれからの選択がある。自分の人生も相手の人生も肯定し、恋愛関係を(それこそ友人関係のように)あくまで一つの役割に過ぎない、としてしまう方がむしろ最大限、この「恋愛」を楽しめるように思う。

 

友人関係との区別について

 それでは、この関係性は友人関係とは何が違うのだろうか。これは正直、難しい。違わないのではないかとも思う。

 一応、明確に違うポイントとして、この関係性においては性行為をしている、ということが挙げられる。

 それはいわゆる「セックスフレンド」や「都合の良い関係」ではないのか、と思われるかもしれない。だが、それらの言葉にまとわりつくネガティヴなイメージが、この関係性にはない、ということを言っておこう。というのは、この関係性は、こちらの都合を強権的に押しつけないよう慎重に話し合いを経たうえで成立しているからだ。

 実際、僕は話し合いを経たうえで、僕は他の人間とは性行為をしないと決めている。逆に僕視点では相手が他の人間と性行為をしていても全然構わないというか、むしろしたいならぜひすべきである、という立場である。

 

 これは「嫉妬感情」をどう取り扱うかという問題である。相手を独占・所有したいだとか、自分を一番に扱ってほしい、相手にとっての特別でありたい、などといった感情が関係している。

 僕自身は正直あまり嫉妬感情が分からない。敢えて区別するなら、「自分が持っていないものを持っている人が羨ましい」という「羨望感情」はあるが、「自分が持っているものを他の人と共有したくない」という「排他的所有感情」は基本的にない。

 相手の嫉妬感情は、話を聞いたところ普通にあるようだ。それで僕の方は他の人間とは性行為しないことに決めた。正直、好きな人との性行為は楽しいし、十分に満足していると言えるのもあり、僕自身、これ以上他の人と性行為をしたいとも思っていない。

 

 その他、会う頻度がある程度確保されていたり(しばらく会ってないと僕も相手も会いたくなる)、贈り物を贈り合ったり、一定の特別な関係性ではあると思う。

 ただやはり、明確に友人関係と区別したいとも、できているとも思わないのだ。その意味で好きな人との関係性は友人関係だと言っていいかもしれない。

 僕にとっては、他の友人関係も、(性別問わず)それぞれ大切でかけがえのない(特別な)関係である。そこには恋愛に似た感情や、深いところで「繋がっている」という(それこそ「セックス」的な)感覚がどうしても生じてしまうこともあるだろう。それは仕方がないことだと思うし、だからといってそれを防ぐために「誰々とは二人きりで話さない」などとするのは、僕の方の事情でしたくない、という感じだ。

 他の人との関係性において、様々な感情が生じることは仕方がない。だからこそむしろ、「行為」の上では、友人関係と好きな人との関係との間に、きちんと区別を設けたい(その意味では、「他の友人に対して恋愛やセックス的な感覚が生じうる」ということを書いた「行為」自体も、相手の嫉妬感情に抵触しかねないし、問題だとは思う)。

 

素直にノロケると

 そんなわけで、好きな人のことは「友だち」のような存在だと思っており、そこには「執着」がない。おかげで「しなきゃいけない」みたいな義務感がなく、素直に好きだなと思える。最後はノロケてこの文章を閉じよう。

 

 上述したように、僕の好きな人は、対人関係の広さにおいて優れている。ありきたりな表現かもしれないが、感受性豊かでなんでも食べられる、言うなら雑食性があるように思う。

 

 好きな人のどこが好きかって言われたら、その感情のデカさである。「感情!」としか言いようがない。(必ずしもスピリチュアルではない意味で)宇宙と直接繋がっている系の人だと思う。

 

 そんな彼女はホリィ・センの開陳する「自意識」「メタ認知」ワールドにも興味津々のようだ。単にベタに一本気の人なのではなくて、メタ的な思考についても話しているとたくさん出てくる。彼女の考えていることは好きだし、もっと聞きたい。

 

 それでも、いざというときには思いきりがよい。「突き抜けられる」人である。一緒にいるとしばしば驚かされ、僕も笑顔になってしまう。

 

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6日目は、社会的信用がない @touhuwakame さんの、

「期待される様な命」

です。

オナニーから疑え ―〈男らしさ〉と快感―(『臨 格差の(さまざまな)デザイン』所収)

 ホリィ・センです。友人の小峰ひずみhttps://twitter.com/cococooperativ1/が『臨(サイド)』という批評誌(?)を出したので、宣伝します。

 僕はサクラ荘というシェアハウスをやっていることから小峰くんからインタビューを受け、「シェアハウス思想探訪」という物々しいタイトルの記事があります。

 『臨(サイド)』から一つ記事を載せてほしいとのことだったので、僕は小峰くんの書いた「オナニーから疑え――〈男らしさ〉と快感――」という記事を転載します。笑えるながら、かなり真面目な記事です。

『臨(サイド)』の目次:

〇思考にとって「現場」とはなにか?――臨床哲学・再論――(小峰ひずみ)

〇中毒政治論――依存・ケア・回復・闘争――(小峰ひずみ)

〇二十一世紀の支援と代弁――現場から〈イタコ〉へ――(田中俊英

少子化時代のフェミニズム――子育て VS 資本主義――(九照)

〇人間のカテゴリーと〈私〉の関係(ひかるころも)

〇オナニーから疑え――〈男らしさ〉と快感――(小峰ひずみ)

〇シェアハウス思想探訪――サクラ荘主宰に話を聴く――

 

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オナニーから疑え―〈男らしさ〉と快感―

   小峰ひずみ

 

 

 

―そういえば、オナニーする男の姿や表情は、仏像によく似ている。

右掌に輪をつくり左でほとばしりを受けるような形ではないかね?

                   野坂昭如

 

 

 

オナニーから疑え

私の人生はセックスするよりも、オナニーする回数のほうが多いのではないか。そう気づいたとき、なにかとんでもないことに気づいてしまった気がした。男の悩みの半分はセックスである。断言していい。みなセックスで困っている。私も困っている。

かの有名なAV監督・二村ヒトシは言う。

 

「モテないこと以外のほとんどすべての不幸は、モテてさえいれば、なんとかなる(か、ガマンできる)」[1]

 

しかし、我々の実際は次のようなものではないか。

夜になる。さあ、待ってましたとばかりにベッドに潜り込めど、セックスが下手なら相方は眠り込み、腹いせにソープに行ってもケチればそれ相応のサービス、女は男をバカにするか、身勝手に怒ってミソジニー女性嫌悪)の闇にはまり八つ当たれば、呆れられて、見捨てられて、そもそもセックスする相手がいなくなっている。

 しかも、セックスせずんば人にあらず、セックスこそ人生最大の至福との俗説、天馬のごとく七つの海を駆けめぐり、わが宿、半地下の安宿にして、上階より三日に一度ほど夜中、パンポコ聞こえてくるような薄壁であってみれば、セックスばかりが関心ごとになっても咎められる筋合いはない。

 しかし、もし、その「セックス」とやら、実は私のからだにとってはたいしたことのないものだとしたら、どうだろうか。というよりも、もっと大事なことがあったとすれば。それは私が人生を歩んでいくうえで抱える悩み、あるいは問いをまちがっていた、ということになる。

セックスばかりを問題とすること、させられること、それは言ってしまえば、生まれたときからともに時を歩んだ我が愚息を、他人(セックス商人どもの)の価値観にゆだねていた、ということになりはしないか。まるで敵国に人質として預けられ幼き頃から委縮していた竹千代(のちの徳川家康)のごとく、ちんぽこを委縮させていたということになる。

どうりで立たないわけである……。

ならば、全国のオナニーを愛す、いや、もう愛するとかではなくて、やっちまう人々よ、我と汝の愚息のために、精神において立ち上がり、身体においては各々、好きな姿勢を取れ。

 オナニーから疑ってかかれ。

 

感じる男―男オナニーひとり道―

 「オナニーをすると女になる」と誰かが言っていたが、たしかに、「快楽を感じるのは女の役割」との意識、男にはこびりついているのではないか。私にはある。

 大学生の頃だったか、ベッド上で射精が終わったあとに、隣にいたセックス・パートナーから顔をまじまじと見られ、一言「かわいい」と言われて、イラッというか、ムカッというか、少なくとも喜ばなかったという記憶があるのだ。

感じるのは女、感じさせるのは男。男が感じるなど、恥ずかしい。理不尽な性的分業、ここにあらわる。だとすれば、フェミニストが嫌い、男性学が脱しようとする、〈男らしさ〉なる呪縛からの解放、まずは「感じる」ところから始まる道があってもよい。

この世には「男は不感症である」との説がわりと一般的にある。『火垂るの墓』で有名な野坂昭如は『エロトピア』のどこかで「男の快感は女の七十分の一」ほどだと言っていたはずだし、「草食系男子」という言葉の火付け役である生命学者の森岡正博は「男の不感症」を主題的に論じている。森岡は次のように言う。

 

「どんなに努力してみても、射精の直後の、あの興奮がすーっと醒めていく空虚な感じだけは決してなくならない…[後略]…。「死をイメージさせる虚無感」という渡辺[淳一―筆者]の表現は的確だ。射精がいつもこのような絶望的な感覚で締めくくられてしまうこと、これこそが「男の不感症」の核心なのである」[2]

 

私もそう思う。私もまた、セックスにせよオナニーにせよ、射精が終わったあとはもうどうでもいいやという投げやりな気分になり、虚しさに覆われる。キモチいい、か? 決して「人生最大の至福」が終わったあととは思えない。不感症である。

さて、森岡は「男の不感症」を脱するために二つの道を示している。

ひとつは、「不感症がいやなら、真の快楽を感じることのできるようなセックスを学べばよい」[3]という主張。感じればいいじゃん、ということだ。単純明快、わかりやすい、説明不要のことと思う。性的技術派である。

もうひとつは、不感症であることを堂々と認めることで、「生命あるもの、傷つきやすいものに対する「やさしさ」へと振り向けていくこと」[4]が大事だという主張である。しかし、この主張は、正直、よくわからない。具体的な説明がない。「マスターベーションした直後に、人々に対するやさしい気持ちを自分の心の中に満たしてみるといいかもしれない」[5]と言われるのだが、What?!って感じである。さっぱりわからん。まあ、どうやら、「やさしい」イメージ、草食系男子へ至るイメージだ。

森岡は前者=技術派をやんわりと排撃し、後者の道を選びたいという。では、森岡はなにゆえ快楽追求の技術派をやんわり否定するのか。彼は言う。

 

「私は彼らの試みを否定しない。しかしながら、私は、彼らとは別の道を進もうと思うのである。なぜなら、彼らのように真のオーガニズムを追求する方向に行ってしまうと、自分のセクシュアリティのねじれや、対人関係のねじれを維持したまま、「性の快楽への欲望」だけが肥大することになりかねないからである」[6]

 

なるほど、わからなくはない。

 

「具体的に言えば、極上のオーガニズムを得るために、プロの売春婦相手のセックスを繰り返すような男が出来上がっても、まったく仕方がないからである」[7]

 

至極、もっともである。

 

 しかし、残念ながら、私たちはその「極上のオーガニズム」とやらを味わうための時間も金もない。私たちにとって、射精は(ものすごく、という意味でも、一瞬は非日常的快楽を得る、という意味でも)「超」日常的な実践である。

虚しい射精か、「極上のオーガニズム」か、という選択肢しかないのだろうか。だとすれば、男とはたしかに不幸な性だと言えるだろう。

しかし、諸君、はじめてオナニーと出会った日のことを、まるで初恋の人を思い浮かべるがごとく、思い出してみよ。テーブルに我が逸物を押し付けて快感に目覚め、おそるおそる三本の指でしごき、ついには小遣いをはたき親の目をはばかってTENGA(オナニーホール)にまで手を出しながら追求してきた、その道、私たちはオナニーと共に精神的発達を遂げてきたのではなかったか。私たちがその先端から宙(そら)へと我が白濁の魂を噴出するのは、決して「極上のオーガニズム」のためではない。日常の一部なのだ。つまり、ごはんなのだ。

大見えを切って、もう少し言えば、オナニーとは「おひとりさま」という単身者が多くなった現代社会で、その単身者が性的生活を送るための最後の砦である。若き頃なら当然だが、性欲なるもの齢九十まで続くと言う。人は老いれば、無我の境地にいたれるわけでもないらしく、ただ、ひとりでシコシコするしかないのだ。とすれば、『男おひとりさま道』(上野千鶴子)、それは必然的に「男オナニーひとり道」であるよりほかない。

老いてもシコシコ。

この冷酷な事実を想起し、夜中に布団で打ち震える男子の数、統計は取れねども、あまたいると確信する。(安心しろ、私は君らの仲間だ。)

 

オナニー、それはひとりで生きると決めた男の覚悟なのだ。

 

 という悲壮な心持ちを抱きつつ、私は『男のオナニー教本』なるものをAmazonで買ったのである。

 さて、お待たせした。

いよいよ、実践編である。

 

自己への前戯

 さて、みなさんはいったいどのような姿勢でオナニーをされるか。

 あぐらをかいてか。

 寝そべってM字開脚か。

 まさか足をピンと伸ばしてオナニーしているのではあるまいな?

 私はまさしく足ピンオナニーを十数年愛好してきた人間のひとりである。

 足ピンオナニーをしていると、筋肉が緊張してか、たしかそんな理由で(曖昧)、すぐに射精することができる。時間のない現代人にとっては都合のいい姿勢だと言えよう。しかし、その快感たるや、まさにしょんべん、あるいはそれ以下、我慢に我慢を重ねたうえでの御排尿のほうがよっぽど気持ちよい。これでは、男が「不感症」なのも当然と言える。

 そもそも、私の場合は、オナニーを右手でするものと思っていた。しかし、AV女優のオナニー動画を見ると、どうも右手でチツ、左手でムネ、武蔵流の両刀使いである。他方、私などは右手でサオ、左手はスマホ北辰一刀流と言えば聞こえはいいが、なに、ポルノの刺激で快楽物質を無理に出し、足ピン状態でサオをしごけば、野坂の言うところの「二こすり半」、すぐに我が魂も顔を見せ、天に昇る意志もむなしく、スマホから素早く持ち替えたティッシュペーパーにぴしゃりと落ちる。これでは、快楽もへったくれもない。誰だ、こんな身体につくりあげたのは? とアッラーヤハウェイザナミに怒ってみても仕方がない。

 しかし、実践性科学研究会著・『男のオナニー教本』には次のように書いてある。

 

「[オナニーに必要な―筆者]時間は、一、二時間」[8]

 

一、二時間?!

「二こすり半」が、「一、二時間」?!

 いや、たしかに、ポルノ動画を探していたら、一時間すぎていたこと、ままある。だが、オナニーに一時間、ましてや二時間、聞いたことがない。

 これ、どういうことか。

端的に言えば、前戯をするかどうかの違いである。

 まず、この本では前戯として、我が愚息の下方に鎮座しておる「玉」様をなでるところから始まるのだ。ついで、サオの裏をやさしく撫でる。オナニーの本番がサオのしごきだとすれば、タマをもむのは愛撫と言えよう。

 そうすると、当然ながら、右手にサオ、左手はタマとなるわけだから、両刀使い、ポルノは使えない。かといって、女体を想像しろとは言わないのが、この教本のよいところ、「頭の中でどんなことを考えても自由」[9]とおっしゃる。ならば、と、私は勃起し本番が始まるまで、右手で金玉をもみ、左手で大塚英志という批評家の評論を読んでいたが、ま、立たなかったね。

大塚英志はそれくらいおもしろいのだ。

 

金玉―〈傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)〉の発見―

 男はオナニーと共に生き、感じ、精神的発達を遂げる存在であること、これ、私の持論であるが、男性学という〈男〉について論じる学問もついぞオナニーを論じぬ(私の知っている範囲では)。先ほどより引用している森岡正博の『感じない男』はオナニーについて考えた珍しい考察であるが、それ以外はなぜか女が男の身体について論じている。

 金田淳子という社会学者と澁谷知美という社会学者の「新たなる男性身体の〈開発〉のために」という勇ましき対談は男が読んでもかなりおもしろい。そのなかで、金田は次のように言う。

 

「男性が自らの身体性と向き合う困難という点に関連して私が常に思っているのは、男性がもっと自分の身体に対して肯定的になれないものかということなんです。よく、男性の多くは自分の身体を汚いと感じているということが言われますが、これだけジェンダーギャップ指数の低さが指摘されるなか、それでも女のほうが恵まれていると頑なに言い張る男性が絶えない最大の原因は、男性たち自身の男体嫌悪ではないか。」[10]

 

私は一読、むかついて、この文章の上に「×(バツ)」をつけた。私の考えでは、女のほうが恵まれていると男が感じるのは、女は年収が低くても結婚して「主婦」という役割を得ることができるのに対し、男は年収が低いと結婚さえしにくい(している人はたくさんいるが)という「負けっぷり」の非対称性に起因していると考えている(し、この二人もそれは知っている)が、そんな冷酷な現実はここではどうでもよい。

 しかし、私がこの引用にむかついたのは、私と金田の認識の違いだけではあるまい。おそらく、この引用が問題の奥深くをえぐり出していたからではないか。

 男の体とはなにか? 特にその象徴と考えられているペニスとは?

 澁谷はペニスを「〈強くて、硬くて、頑丈な〉男性身体の象徴」[11]としているが、残念ながら、我が愚息、そのようなものではない。「血は立ったまま眠っている」(寺山修司)、その具体的現実である勃起せるちんぽこを手の平を大きく開いてさわってみるべし。その下方には、あのやわらかき玉袋がある。

 そこは男性の急所、コメディ・ドラマでは女にけり上げられる場所だ。

日本を代表する大作家・村上春樹は金玉を蹴り上げる練習をするボディ・インストラクターを物語に登場させている。彼女がある男に「睾丸を思いきり蹴り上げられる痛さがどのようなものか」と尋ねたとき、その男は熟考し、こういった。

 

「あれは、じきに世界が終わるんじゃないかというような痛みだ。ほかにうまくたとえようがない。ただの痛みとは違う」[12]

 

私はこの一節をみたとき、この作家は男にとっての天災だなと思った。誤字ではない。続いて、私たちが読むべきは他の作家ではなく、『男のオナニー教本』である。

 

「陰のうの中の睾丸の形を一個一個確かめたり、軽く転がすように握ったり離したり、手のひらで円を描くようにさすったりして、じっくりと時間をかけて刺激しましょう」[13] 

 

金玉、そこは男の急所であり、痛みと快楽をもたらす箇所である。なにより、ぷにゅぷにゅとやわらかい。金玉はそのやわらかさゆえに、他者の手を、そして、自己の手を受け容れる場所である。

 さっそくさわってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……あな、やわらかきこと……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……はあぁ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この自己への前戯の手ざわりを私たちはよく覚えておかねばならない。それは自分の最もデリケートな部分、〈傷つきやすい(ヴァルネラブル)〉部分である。そして、その傷つきやすさゆえに、苦しみと歓び、痛みと快楽を併せもつ。この〈傷つきやすさ〉を認められないことこそ、つまり、そそり立つペニス中心主義とやわらかき金玉の否認こそ、男の呪縛ではないのか。

 

「男たちの最大の罪(自己欺瞞)とは、まさに自らの痛みに気づけないこと、「痛い」や「苦しい」と口に出せないことかもしれない」[14]

 

杉田俊介という批評家は「男たちは、なぜ、「助けて」と言えないのか」との疑問にこう語る。「痛い」「苦しい」と言えないこと、それが男たちの最大の自己欺瞞だ、と。男は「痛い」や「苦しい」と言えない。それは同時に、「感じる」「気持ちいい」と言えないことではないのか。感じるのは女の役目、感じさせるのが男の役目。その呪縛は、男の最大の自己欺瞞につながっているように思う。

 やわらかきこと、それを男は意識としても、身体としても忘れているとは言えないか。

 女にけりあげられる急所、その急所こそ、痛みと快楽を感じる〈傷つきやすさ〉の結集点である。愚息はそそり立つも、金玉はやわらかい。そのような〈傷つきやすいちんぽこ〉という認識からしか、男は「痛い」「苦しい」と言えないだろうし、また、自らの傷を「手当て」し「ケア」(杉田)することもできないだろう。そして、「手当て」に値しないものを愛せるはずもなく、男体嫌悪はつのっていく。

 オナニーが重要なのは、ペニスに象徴される男の体が前戯を必要とし、それゆえに、「手当て」を必要とするものとして認識をできる日常的な行為だからだ。人は毎日、男性学の本を読んでいるわけではない。しかし、オナニーは一日一回、二日に一っぺん、少なくとも三日に一度はする。だとすれば、男性学の百冊はオナニーのいっぺんに如かず、とも言えそうだ。

杉田は言う。

 

「ラディカルとは、急進的というよりも、根源的であろうとすることだ。それは日常や生活にも根を張らねば力が足りないものになってしまう」[15]

 

私もまた、「ラディカル(根源的)」でありたいと願う者である。

 

私たちは「ティッシュなし」でオナニーができる

 もう少し男体嫌悪を掘り下げよう。

森岡はある男性が「男の体は汚い」と聞いて、「その通りだ」と実感した、という。では、その汚い男の体とは?

 

 「体毛が密集し、肌の色は悪く、骨がごつごつしており、筋肉がうっとうしいこの体。精液によって汚れてしまうペニスと周辺の毛。自分の体はほんとうに汚いという実感がある」[16]

 

わかる。特に、射精がやっかいだろう。森岡もできるだけ射精しないようにオナ禁していた学生時代があったと告白している。杉田が引用するデータによれば、中高生のときに、射精を「汚らわしい」と感じる男性は約一八%にものぼったという[17]

 だが、私の予想では、もっといる。

 でなければ、ティッシュを持ってオナニーすること自体がおかしい。射精が汚くないのであれば、単に自分の体にその「魂」をぶちかまし、その後にティッシュでふいて、風呂に入ればいいだけの話だ。

 しかし、いままで頼りにしてきた、かのオナニー教本でさえ、「ティッシュペーパーを横に置いたら、一切の余計なことは考えず、力を抜いて仰向けになりましょう」[18]ティッシュを推奨しているのである。しかし、私の経験では、精液は体にぶちまけたほうが気持ちいいのである。いったい、実践性科学研究会の面々はなにに遠慮しているのだ?

 やはりここには、オナニー・オブ・ジェダイたちさえも戸惑わせたビッグ・フォースが潜んでいると考えてよい。

 だとすれば、ここは、日本文学史に残るオナニー・マスターに登場していただこう。野坂昭如はオナニーをする男の姿についてこういう。

 

「そういえば、オナニーする男の姿や表情は、仏像によく似ている。右掌に輪をつくり左でほとばしりを受けるような形ではないかね?」[19]

 

これを一読して、私は「え?」と思った。

 ティッシュペーパーの記述がない。

 ティッシュペーパーの存在が、ここでは自明ではないのだ。

左手でじかに「ほとばしりを受ける」のか?

 野坂、やりおる。

 もちろん、ここに記述されていないだけで、ほんとうは傍にティッシュがあるのかもしれない(きっとあるだろう)。

 しかし、ここで野坂が書き漏らしたことで得られる想像力は、私たちのオナニーからひとつの幻想を取り払ってくれるのではないか。

 すなわち、私たちはオナニーができる、ティッシュなしで。

 しかも、先ほども述べたように、私の実感ではそちらのほうが、解放感があってよろしい。よろしい、というか、キモチがいい。ティッシュを切らしたもののたまりにたまって仕方なく自慰にふけったことのある人々も、実は「こっちのほうが気持ちいいのでは?」と思った人がいるのではないか。

では、なぜ、ティッシュなしでシコらないのか。精液が汚いからか。しかし、精液は我らが白濁の魂である(と、とらえることもできる)。

 ティッシュなしでオナニーする日があってもよい。精液を身近に感じる日があってもいい。

 そのようなラディカルな(日常的な)実践が徐々に私(たち)の男体嫌悪を溶かしてくれるような気もする。

もちろん、これはひとつの仮説、可能性にすぎないが。

 

ミソジニーを脱するオナニー

 フェミニストの旗手・上野千鶴子といえば、泣く子も黙る言論界の覇者であるが、彼女はご存知の通り、わりと男に手厳しい。どこかの対談で「男は女に依存している。そのことがわかっているから、逆にミソジニー女性嫌悪)に陥る」と述べていたはずだ。まさに、男は己の精神的玉袋をけりあげられた格好になったわけであるが、その痛み、しかと体に刻むべし。男は女に依存している、こんなことはフェミニズムの洗礼を受けた若い世代の女性は、とっくに気づいているだろう。

さて、手元に上野の対談集がないので、どのような意味で彼女が「男は女に依存している」と言ったのかはわからないが、私の経験を照らしてもだいたいの予想はつく。

第一に、性的依存。すなわち、セックスする相手として依存している。

第二に、インチキ自己肯定(「彼女いる・モテる俺」)を保つための依存。

第三に、女にモテたから自分の汚い体を肯定できるという依存。

昔であれば、お見合い結婚という形なので双方「男」「(子どもが産める)女」であればよく、付き合う期間もないまま、すぐに永年連れ添うことになるので、幸せかどうかはともかく、話は簡単なのであるが、いまや恋愛結婚全盛期をとうに経た時代、男も女も「私自身を愛して」という実存を賭けてマッチングアプリや盛り場に繰り出してくるものだから、ややこしい。男は「女」なるカテゴリーを必要とし、女は、これ、どうか知らない。きっと「男」なしで生きて行くだろう。

金田と澁谷は「女と付き合うならコミュ力をつけないといけない」という上野の発言に激怒した男たちについて、次のように言う。

 

「たしかに「なぜ女がケアしてくれないんだ」という不満がありそうですね。とはいえフェミニズムは、恋愛や孤独の問題にかんして「男たちよ、もっとモテない女と付き合え」などとは言わず、自分たち自身でやってきたわけだから。」(金田)

「そうなんですよ。私もそれはふつうだと思ってきたのですが、それができないのはやはりなんとしても女とつがいたいという欲望があるからだろうと私は踏んでいます。本来であれば男性たち自身が、恋人や配偶者のいない男性を肯定する営みをどんどんしていくべきなのに、なぜかしようとしない」(澁谷)[20]

 

この男女の違い、男にとっては由々しき差異である。しかも、男にとってより都合が悪いのは、このような依存構造を女は肌感覚で気づいていて、依存すればするほど、逆にモテない、ということだ。求めれば求めるほど、離れていく……。

では、この依存からどのように抜け出せばよいか? とにかく、第二と第三の依存からは独力でも抜け出せるのではないか? これはしばしば「モテ論」として語られてきたことだ。

先ほども引用したAV監督の二村ヒトシは「自分の【居場所】をつくる」のが大事だとしたうえで、次のように言う。

 

「【あなたの居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れてるところじゃなくて【あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです」[21]

 

あるいは、『草食系男子の恋愛学』で森岡正博は次のように言う。

 

「真の自信とは、他人との比較をやめたあとに生まれる控えめな自足のことである。このような心境に近づいたとき、…[中略]…「人間として成長したいと思っていたり、将来に対して夢を持っていたりして、全身からまっすぐに立ち上がる心意気があふれている」という若い男の人間的な魅力が、はっきりと備わり始める」[22]

 

とのこと。両者の共通点は「一人っきりでいても淋しくない場所」「他人との比較をやめたあとに生まれる控えめな自足」にあるといっていい。つまり、一人でもOKということだ。

これはオナニーにも言えるのではないか? つまり、オナニーを「一人でいても淋しくない」場所にできたら、私たちはどんなにか救われるだろう。

金田と澁谷は男がミソジニーに陥るのは男による「男体嫌悪」の原因があると述べていたが、「女にモテたから肯定できたという迂回路をとらず、自分で自分の身体を肯定してほしい」という。「[自分の体を自分で愛することで]自己完結して、これ以上女を迫害するのをやめてほしい」とも言う。

男が女に性的に依存し、自らの身体の肯定も女に依存しているのであれば、そこから脱するために、オナニーはどのように変われるか?

この命題の検証は、われらのオナニー・チャレンジにかかっていると言っても、過言ではない。

 

挿入れない関係―男と女のレズビアン・セックス―

子よりも親が大事と思いたい。セクよりオナが大事と思いたい。そう思って、しばらく論考を進めてきた。しかし、ここでセックスについて論じないのもどうかと思う。というのも、人間はたまには(しばしば)セックスをするからだ。そこで単なるオナニー野郎になってしまっては、つまらない。ここは裏切り者の罵声、全身で浴びることを厭わず、セックスについても論じたいと思う。

芥川賞作家・村田沙耶香は『消滅世界』でジェンダーレス社会を描いている。その社会は女が「男」になる社会ではなく、男が「おかあさん」になる社会だ。夫婦間のセックスが禁じられ、人工授精で子どもを産む未来。実験都市・千葉では、さらにラディカルに性への管理は進められ、人工子宮によって男も出産でき、家族という概念がなく、人々は性欲を醜いものとしている。そして、その実験都市・千葉では男女関係なく、みな「おかあさん」と呼ばれるのだ。

ひきこもり論で有名な精神科医斎藤環は、『消滅世界』の解説で正確に次のように述べる。

 

「そう、この社会ではすべてが女であり、すべてが母なのだ」[23]

 

そして、そのような社会を、いまの男と女はどう見ているのか?

 

「本書への反響として、女性の側からは主として「ユートピア小説」、男性からは「ディストピア小説」という評価があった。」[24]

 

この評価の乖離からもわかるのは、先ほど述べた通り、男は「女」というカテゴリーを必要とするが、女は「男」というカテゴリーを必要としないということだ。

『消滅世界』は現代の性と生を考えるうえで非常に有益な小説だが、私がこの小説で違和感をもったのは、その性欲への扱いだった。同書では、性欲を汚いものとして扱い、クリーンルームと呼ばれる部屋で、各々が性欲を自慰により処理することになっているが、そこには「性への歓び」がなく、その「歓び」が消えていく悲しみへの表現もない。これはもちろん、社会にとっては合理的だ。フランスの哲学者のミシェル・フーコーは次のように述べる。

 

「組織的に労働力を搾取している時代に、それが快楽の中で四散するなどということを人は許容できたであろうか」[25]

 

村田は徹底して合理的な社会を描いた。その社会には男も父も存在せず、セックスも存在せず、性欲は忌避すべきものとして扱われる。

しかし、それはあまりに性欲を見くびっていやしないか。

村田はレズビアン・セックスの可能性に一切ふれない。「女」しかいない「女」の「ユートピア」。そこでのセックスはおのずとレズビアン・セックスになる。「女」と「女」のセックス。それは挿入れないセックスだ。

斉藤は次のように言う。

 

「性行為は……男性の「所有原理」と女性の「関係原理」のすれ違いとして起こる。男性にとっての性交は、快楽であると同時に所有ないし征服のためのほぼ唯一の儀式でもある。性交後に態度が冷淡になる男性が多いのは、要は「釣った魚に餌はやらない」ということだ。これに対して女性にとっての性交は、関係原理を満足させるさまざまな行為の中の一つでしかない。それゆえ性愛関係=性交という「性交原理主義」は、男性原理に由来する」[26]

 

女は男と交流したいが、男は女を所有したい。そうすると「あなた〈と〉ひとつになりたい」という淡い欲望は女性特有のものであり、男性のそれは偽りだ、ということになる。なぜなら、男は「あなた〈と〉」(関係原理)ではなく、「あなた〈に〉挿入れたい」(所有原理)と望むからだ。「あなた〈と〉」を「あなた〈に〉」にしてしまうからだ。斎藤いわく、〈と〉(関係原理)と〈に〉(所有原理)の違いが性交を生む。

すると、村田は男性の所有関係(「あなた〈に〉」)を排除すると同時に、女性の関係原理(「あなた〈と〉」)をも、極端に狭めてしまったと思える。それは、レズビアン・セックス、すなわち、挿入れないセックスの可能性も奪ってしまったということだ。それは、おそらく、村田のセックス観の貧困に由来する。

同じくジェンダーレスの可能性を思わせる私小説・『夫のちんぽが入らない』もまた、女性に圧倒的に支持されているのも関わらず、セックス観において貧困だ。作者で主人公のこだまは、夫のちんぽが入らず、仕方がないので、「口や手」で交わる。

 

「「どうしてだろうね」と言っては手や口で出す日が続いた。私にできることはそれくらいしかない。農作業のようであった。」[27]

 

『夫のちんぽが入らない』はその題名にもかかわらず、性描写がほとんどない。せっかく挿入れないのだから、挿入れないセックス(レズビアン・セックス)の可能性を突き詰めればいいのに、と勝手に残念がっていた。実は、それを期待して購入したところがあるのだ。

というわけで、村田沙耶香にせよ、こだまにせよ、女性に支持される中年作家のセックス観は、二十歳も若い男性の私が言うのもなんだが、かなり貧困だ。

 私は違和感を表明せざるを得ない。

なぜか。

さて、ここからは私の経験になる。

私は高校生のとき、はじめて「彼女」ができた。

で、彼女の家にお邪魔して、さて、童貞を卒業しようか、というときに、彼女のほうから「妊娠が怖いから、大学生になるまで、挿入れないで」とお願いされた。私もまた、それを承諾した。

それがよかった。

気持ちよかったのだ。

一晩中、裸でイチャついたりキスしたり胸をいじったりアソコをなめてただけで、指も(いま思えば奥手)、ちんぽもチツのなかに入れなかった。なので、ずっと欲情しっぱなしで、あれほど欲情と激しく濃く結託したことはないと思うほどだ。終わることがない。だから、「釣った魚に餌をやらない」ということもない。釣れない、終わらない、挿入れれない、から。欲情が収斂することなくつづき、キスしたりまさぐったりしている。終わるのは、射精したときではなく、疲れたときだ。

これは控えめに言っても(私は)かなり気持ちよかった。挿入していないのに。

しかし、彼女は大学生になっても、まだ妊娠を恐れ挿入れさせてくれなかった。そして私は挿入れさせてくれない彼女に嫌気がさして別れてしまった。単純に言えば、童貞を卒業したかったし、挿入れたかったし、〈男〉になりたかった。

それが不幸の始まりだった。

大学生になり、数人彼女ができて、挿入れるセックスをしても、幸せになれない。いくら挿入しても「うーん、なんか違うな」という気分はぬぐえなかった(すいません……)。私から見れば、相手も気持ちよさそうではない。でも、私はセックスは気持ちのいいものだと教わっていたし、大人の〈男〉と〈女〉のセックスは挿入れるものだと思っていたし、挿入れると気持ちよくなるのだと信じていたのだ。

挿入れないセックスがあるとは思えなかった。

実際には経験していたにもかかわらず、それをセックスだと思っていなかったのだ。

それは自分にも相手にも不幸なことだったと思うし、申し訳ないと思う。

そんなこんなで、なんだかなーと思っていたら、先日、女の子同士のレズ・セックスの映像をみてびっくりした。責められている女の人が、ほんとうに気持ちよさそうだったからだ。

「ああ! これこれ! こういうの!」と一瞬で納得した。

なにに納得したかはわからないが、とりあえず納得した。

ああ、いいなーと思った。男と女にもこういうセックスの可能性は開かれていいと思った。しかし、その納得が正しいのかどうか、いまは恋人もいないし、できる予定もないので、わからない。いつか、相手ができれば、ヤってみたいと思う。

 

いま私は正直、セックスのときの「ちんぽ」の使い道がよくわかっていない。もし、「ちんぽ」の使い道がわかり、「ちんぽ」で互いに気持ちよくなれれば、それは私の思想観・人生観に大きな影響を与えるだろう。

みなさん、聞いてみたい。ちんぽとその使用法はどのようなものか?

連絡先はcococooperative@gmail.comです。よろしくお願いします。

では、ごきげんよう

そして、君と私のちんぽこ(まんぽこ)に幸あれ。

 

 

 

 

[1] 二村ヒトシ、『すべてはモテるためである』、イースト・プレス、2012、p.3

[2] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、pp.32-33

[3] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.163

[4] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.168

[5] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.167

[6] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.165

[7] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.165

[8] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.8

[9] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.10

[10] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.168

 

[11] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.167

[12] 村上春樹、『1Q84 BOOK1前編』、新潮社、2012、p.299

[13] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.10

[14] 杉田俊介、『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』、集英社、p.35

[15] 杉田俊介、『現代思想vol.47-2』「ラディカル・メンズリブのために」、青土社、2019、p.115

 

[16] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.145

[17] 杉田俊介、『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』、集英社、p.23

[18] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.9

[19]  野坂昭如、『エロトピア』、文藝春秋、1977、p.23

[20] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.176

[21] 二村ヒトシ、『すべてはモテるためである』、イースト・プレス、2012、p.94

[22] 森岡正博、『草食系男子の恋愛学』、メディアファクトリー、2008、p.167

[23] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、p.277

[24] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、p.277

[25] ミシェル・フーコー、『知への意志』、1986、新潮社、p.13

[26] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、pp.279-280

[27] こだま、『夫のちんぽが入らない』、講談社、p.57

 

 

小峰くん自身の『臨(サイド)』の宣伝記事はこちら

note.com

差別性を指摘するだけで終わらないことの意義、あるいは「第三者」になることの意義(「トーンポリシング」批判)

 (言及元は

【大炎上】note社が運営するcakesでホームレス差別をする投稿が受賞し内容の非道さから大炎上 - Togetter を参照)

 

 

 (言及元は

人生無理バー運営、発達障害男性(複数)が問題を起こしたため、「全ての発達障害男性」を出禁にしてしまう - Togetter を参照)

 

 

 

 

 といったツイートをした。しかし、この話には一つ問題点がある。それは、どこまでが「直接の被害者」であり、どこからが直接の被害者ではないのかという線引きが難しいという問題だ。それどころか、あらゆる者が被害者なのではないかとすら言える。

 実際、何気なく行われる差別的表現は、その差別が「当たり前」のものであるという規範を作り上げてしまう。その規範は原理的にはあらゆる人間に対して被害をもたらしうるのである。ゆえに、差別的表現についてはあらゆる者が「被害者」であると言えなくはない。

 よって、あらゆる人間がある種の当事者性を以って、差別的表現には疑義を呈するべきだ、といったこの考え方は一度は通るべきだとは思う。


 しかし、それでもなお僕が「直接被害を受けていない者」「第三者」と呼んでいるのは誰なのか? ということを以下で説明しよう。


 「トーンポリシング」という、告発における「言い方」の問題を云々することで、告発における感情をなかったことにしたり、告発の内容を無効化したりしてしまう問題を指した言葉がある。この言葉について考えるために、まず、告発における「言い方」を気にするという課題()と、告発における感情や内容を十全に表現するという課題()という2つの課題があるとしよう。

 このが同時に達成するだけの余裕がない人において、の課題が優先させられてしまうせいで、が遂行できなくなってしまうことがありうる。この限りにおいて、このトーンポリシングという言葉は正当だと思う。

 しかし、を余裕をもって同時に達成できるうえに、同時達成することによって社会の改善に寄与できる立場にある人間もいる。そういう立場にある人間がをサボるのはよろしくないんじゃないか、ということが僕の主張だ。

 をサボるせいで、結果的に加害行為の問題点を加害者自身に気づかせたり、差別的な規範を改善したりするためのチャンスを失ってしまいかねない。

 より具体的に言おう。加害者から謝罪の言質を引き出せたとして、加害者は「イヤイヤ、渋々」謝っているだけかもしれない。人間は非難を受けるとむしろ防衛的になってしまって、自分の考え方を柔軟に変化させることを拒んでしまう傾向にあるからだ。

 また、差別的な規範を改善するためには、マスメディアやネットメディアの環境下において、適切に情報が流通しなくてはならない。今までに行われてきた議論の蓄積を集めたり、問題を理解するために新しい視点を提供したり、問題点をまとめたりする必要があるだろう。ここでもまた、強い言葉による差別者への非難は、差別者の防衛的態度を招く可能性が高いように思われる。

 以上のような場合には、加害者に対する言葉遣いや、差別的規範を改善するための表現を「トーンポリシング」してもいいんじゃないかと思う。改めて繰り返せば、上記のの課題を余裕をもって同時達成できる人間はの課題をサボらずに遂行すべきだということだ。

 

※ただし、Twitterのような「アテンション(注意)の自由市場」において、注意を引きがちなのは差別的規範をストレートに改善するものよりも、「パワーワード」であるように思う。ここには、人間が「言い方」を工夫するだけではどうにもならない、Twitterの「アーキテクチャ」的な側面もありそうだ

 

 ツイートの中で僕は便宜上、加害者と優しく対話を試みたり、意識的に「第三者」の立場に立ったりしうるのは、「直接被害を受けていない人」であるという線引きをした。これはすなわち、直接被害を受けて「傷ついた」人に対して、加害者と対話したり「言い方」について努力したりするよう求めるのは酷であるし、求めるべきではないということを意味していた。

 しかし、むしろ本質的には、上記のの課題を同時達成できるような人、一般的に言えば、「加害者を傷つけないように加害者とやり取りしたり、世間から拒絶されたり情報流通を混乱させたりしないように差別的表現を批判したりを、できるだけの余裕がある人」こそが、加害者と優しく対話を試みたり、第三者の立場に立ったりできるのではないか、ということが言いたかった。

 

 この余裕の有無はどのように線引きできるのか? という問題は新たに生じるが、ここでは論じない。

 粗い表現でざっくり言ってしまえば、自分の行為の結果を冷静に比較考量できる人間は、「加害者叩き」に走って加害者の「更正」の道を絶つのではなく、加害者をも包摂しうるようなシステムを目指すべきだ、と僕は主張する。

 一方、「差別的な規範を改善するためにどう発信すべきか」に関しては、僕もはっきりとした答えがない。情報の正確性や整理された議論みたいなものを目指すのは一つだろうが、情報流通においては「分かりやすさ」や「キャッチーさ」も時には求められるかもしれない。しかし、「分かりやすさ」のせいでむしろ差別的規範が温存されてしまっては元も子もない。

草食系男子とホモソーシャルを超えて――ナンパとセックスをめぐる三人の対話

 

この文章は、webマガジン「高電寺」の創刊号「特集:フリーセックス」に寄稿したものです。

そのため、最終的にはフリーセックスについて考えています。

 

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登場人物

イド:精神分析が好き。無意識の衝動を大事にしている。

超自我ジェンダー論が好き。世の中の男性中心主義を憂いている。

わたし:イドさんと超自我さんが折衷できる点を探る。フリーセックスについて現実主義的に考えている。

 

AVを教材にセックスする時代の帰結

わたし インターネットで手軽にAV(アダルトビデオ)を目にする現代の私たちは、AVを観ることでセックスを学びます。そのままAVというフィクションが現実の――AVの多くは男性向けに作られているため、多くの場合男性の――セックスを規定することにもなります。そのセックスの実態はいかがなものでしょうか。

超自我 よく言われることですが、AVにおけるセックスは、性暴力が伴っていたり、男に都合が良いように女性が快楽を覚えていたり、ガシガシと手マンをしていたり、といった感じで、現実の性関係におけるセックスと深刻なズレをきたしかねないものが多いんですね。

イド たしかに、AVが性癖の型を決めちゃうみたいなところありますよね。私たちはオナニーのオカズを渉猟する中で、好みの女優やシチュエーション、性的嗜好フェティシズムを掘り下げ、開発していきます。それと同時に、その欲望のあり方はなんらかの形に収束し、画定され、閉じてもいく場合も多いでしょうね。

 たとえば私はマゾヒストです。女性優位のシチュエーションのオカズでないと抜く気が起きません。高校時代に催眠オナニー(「催眠音声」によって自身を催眠にかけながらするオナニー)を実践していたことによって、たまたま乳首が開発されたこともあり、基本的に自身の乳首を触りながら射精することにしています。このようなルーティーンは、長年の絶えざる反復によって培われてきたと言えるでしょう。

超自我 そういうオナニー等によって閉じていった理想のイメージがそのままセックスへと投影されることも多いわけです。その帰結は、「他人の身体を使ってオナニーをする」という事態です。これは、2人でセックスしている場合の双方に起こっていることもあるでしょう。

 そこで起こっているのはおそらく、「相手をモノのように扱う」ということです。オナニーにのみ習熟してきた人は、相手が意志を持った人間である、ということに堪えられず、罪悪感をおぼえたり、逆におぞましさを感じたりすることになるわけです。だからそこから逃げて相手をモノ扱いしてしまう。

 

幻想は本能を超える

わたし そんな「2人オナニー」とも呼べる事態において、それでもセックスがある程度成り立っているのは、セックスの「ゴール」が明確に定まっているからでしょうね。そのゴールとは陰茎の膣への挿入、そしてオーガズム(“イく”こと)です。挿入する前のやり取りを「前戯」と呼ぶように、それは「本番」と対置されています。この社会では多くの場合、男性の射精によって幕を閉じることになっています。

 このように――異性愛の男女がするものである、という前提も含め――セックスのイメージが固定されていることで、多くのセックスが齟齬なく成り立っています。たとえその内実は「2人オナニー」であったとしても。これは、祝福すべきことでしょうか。

イド なるほどたしかに、生殖を目的としているのであれば、そうなのかもしれません。

 しかし、「唯幻論」で知られる岸田秀も言うように、人間は本能の壊れた動物です。生殖行為をせずに一生を終えることも珍しいことではありませんし、自殺だってする生き物です。

 岸田の考えの元となったフロイトは、生殖へと至る、性器中心主義的な性欲の発達モデルを描いたために、フェミニズムの立場からは批判されてきました。しかし、むしろフロイトは「多形倒錯」という言葉で、幼児の性欲のあり方が未分化であり、どうとでも発達しうることを示唆した点にそのラディカルさがあるのです。

 たしかに、文化・社会的な学習の中で、人の欲望は①現実性愛中心主義、②異性愛中心主義、③二者関係中心主義、④性行為中心主義、⑤挿入中心主義、⑥オーガズム中心主義へと導かれる傾向があります。それぞれにおいて打ち捨てられているのは、①フィクションの性愛、②異性愛以外の性愛、③三者以上の性愛関係、④性行為以外の性愛、⑤⑥挿入・オーガズム以外の性行為です。

 とはいえ、もはや人間が生殖と性的欲望とを区別して、別々に享受しているということは世界の常識でしょう。

超自我 その背景には、避妊具の発明がありますね。生殖を目的としたセックスが、そうでないセックスよりもヒエラルキー的に上にある、ということはもはやないでしょう。

イド そのとおりです。となれば、先に述べた6つの「中心主義」は、今後の人類の歴史の中で解体されていく可能性もあるでしょう。

 このように考えると、そもそも私たちの「欲望」一般は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から、分化してきたものだと見ることもできるでしょう。もともと生殖=性欲として一つの結晶体だったものが、自身の出自を忘れて様々な欲望へと変化していったのではないでしょうか。フロイトはあらゆるものに性的な意味を見出そうとすることから「汎性欲説」であると批判されてきましたが、このような分化の過程を想定してみると、実はすべてが性から始まっている、と考えるのもゆえなきことではありません。

 人間の欲望がこのように分化していったのは、「幻想(ファンタジー)」の作用です。もはや人間には身体的・本能的基盤はなく、すべて幻である、という極論が生まれるのも理解できないことではありません。

 

分化する性欲

イド 現代が生殖中心の性愛を解体する過程にあるとすれば、その惰性として、「本当は生殖にまで至るつもりだったけど、途中で止まった性欲」を考えることができます。これもまたフロイトの卓見です。

 フロイトは、幼児の乳飲みやトイレトレーニング、性器いじりといった現象から、口唇期、肛門期、男根期といった発達段階をモデル化しました。幼児はこれらの期間に対して固着する(強いこだわりを持つような出来事がある)ことによって、自身の性的嗜好の基盤を作っていく、というのがフロイトの考え方です。大人になって、唇や肛門が性感帯になりやすい理由の一つはここにあります。

 フロイトはさらに、性格までもこの「固着」によって形成されると考えました。それはともかくとして、「生殖にまでは至らなかった」性欲がある、という発想は更なる考察を生みます。つまり、フェティシズムの問題です。

 フェティシズムはしばしば物質へと向かいます。人間を部分へと切り分け、はてはパンツや靴のような身体部位ではないものにまで興奮するようになります。ここには先ほど超自我さんが述べていた「相手をモノのように扱う」という機制が含まれていますね。

 とはいえ、生殖に至る性行為=人間扱い/生殖に至らない性行為=モノ扱いというわけではありません。生殖へと至る性行為にだってフェティシズムは含まれうるでしょうし、そもそも「モノ扱い」と対比される「人間扱い」とは何を意味しているのだろうか、という疑問が湧くでしょう。

超自我 その疑問については後に検討することにしましょう。確認しておきたいのは、現代の人間は決して生殖中心のセックスを営んでいるわけではないし、すでに挿入・オーガズムを中心としたセックスも相対化されつつある、ということです。そして、更に推し進めるならば、先にイドさんが述べた6つの「中心主義」にはすべて解体の可能性がありますね。

わたし 今回は④の性行為中心主義を解体する可能性について取り上げましょう。

 具体的な題材として、「ナンパ」という行為を扱います。日本の一部界隈で流行した「恋愛工学」と呼ばれるナンパ術と、それに対する批判的見解を取り上げて、最終的には「友だち主義」とも呼べる方向性を提示するという流れになります。

 

 小説『ぼくは愛を証明しようと思う。』

わたし 「ナンパ」という行為においては、習熟するための「マニュアル本」が出回っています。マニュアルではなく、小説の形式で多くの読者を生んだ作品が『ぼくは愛を証明しようと思う。』(2015)です。

 この小説は著者である藤沢数希(物理学のPh.Dで投資家とされている)がブログ「金融日記」やメールマガジンで連載していた「恋愛工学」が元となっています。そのため、この本は小説の形式で書かれているものの、実際には「ナンパマニュアル」として機能していると考えられます。

 社会学者の井上俊(2008)によれば、私たちの社会生活の経験はしばしば「物語」的に構成されているといいます。それは「人生は物語である」「人間関係はドラマである」といったことを単なるメタファーとして捉えるのではなくて、「物語」や「ドラマ」を実際に社会生活に織り込まれたものとして捉える視点です。つまり、文学における「物語」は、私たちの社会的経験や行為の様式を形成する側面がある、ということです。

 つまり、このマニュアルが「小説」という形式で書かれているのは、読者に新たな行為様式を根づかせる効果を狙ってのことだと言えるでしょう。

 それでは、ナンパマニュアルが読者に対してどのように機能することになるのかを検討するために、まずはこの小説のあらすじを紹介しましょう。

 

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プロローグ:恋愛工学に熟達した時点での渡辺と永沢(後述)のやりとりが描かれている。「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」「ああ、無料のな」という酷いセリフが印象的。

 

第一章:特許事務所に勤める主人公、渡辺正樹は二七歳の弁理士で、結婚まで考えていた恋人の麻衣子に手ひどく振られる。失意の中、友人と六本木ヒルズにあるバーで飲んでいると、突然現れた男がモデルのような美女三人と話し始め、15分もしないうちに一番の美女とキスし連絡先を交換する。その男は仕事のクライアントである永沢だった。渡辺はプライベートで永沢に接触し、モテるためのテクニックを伝授してもらおうとする。渡辺の今までの行動を永沢は恋愛工学独特の用語(非モテコミット※1、フレンドシップ戦略友だちフォルダ※2)で解説していく(いずれも本文中では太字ゴシック体)。そして、恋愛も勉強や仕事と同じで効率良くやるべきもので、「正しい方法論」があるのだと諭す。

 

※1:「非モテコミットというのは、お前みたいな欲求不満の男が、ちょっとやさしくしてくれた女を簡単に好きになり、もうこの女しかいないと思いつめて、その女のことばかり考え、その女に好かれようと必死にアプローチすることだ」(文庫版 58ページ)

 

※2:「フレンドシップ戦略というのはなんですか?」「お前みたいなモテない男が、非モテコミットした女にアプローチするときにやる、唯一の戦略だよ。まずはセックスしたいなんてことはおくびにも出さずに、親切にしたりして友だちになろうとする。それで友だちとしての親密度をどんどん深めていって、最後に告白したりして彼女になってもらい、セックスしようとする戦略のことだ」「確かに、そうやってきました。でも、それがふつうだと思うんですけど、ダメなんですか?」「まったく、ダメだ。なぜなら女は男と出会うとそいつが将来セックスしたり、恋人にするかもしれない男か、ただの友だちにする男かをすぐに仕分けてしまう。友だちフォルダだ。いったんこの友だちフォルダに入れられると、そこからまた男フォルダに移動するのは至難の業だ」(59ページ)

 

第二章:トライアスロン」と称された「週末の街コン→ストナン(ストリートナンパ)→クラナン(クラブナンパ)のサーキットで、1日50人以上の女にアタックする」という修行を、渡辺は永沢に助けられながら遂行していく。

 

第三章:渡辺はナンパによって連絡先を交換した女性たちとデートを繰り返した末、一人を家に誘ってセックスする。

 

第四章:渡辺はナンパによって知り合った一人の女性と交際するものの、一ヶ月も経たないうちに振られ、自らの「非モテコミット」を恥じる。なおも「恋愛工学」に則りナンパを続ける渡辺は複数人とセックスを重ねていく。しかし、「スランプ」に陥り一ヶ月半の間新しく女性と関係を持てなかったことで永沢に相談する。永沢は「お前、何を目的に、街にナンパしに行くんだ?」と渡辺に問い、「俺たちは、出会った女を喜ばせるためにナンパしないといけない」と告げる。

 

第五章:適宜「恋愛工学」の用語が紹介されつつ、本文中で「Aクラス」とランク付けされた女性に渡辺はターゲットを絞っていく。取引先の女性に対しても手を出したことが露見し、結果的にセクハラとして訴えられたことで、渡辺は会社を辞める。

 

第六章:失意の中、再就職もうまくいかず女性との関係を失った渡辺だったが、伊豆に旅行に行った際に女性と出会う。

 

エピローグ:交流を再会した永沢に対して、「いまはもう、たくさんの女と関係を持ちたいとは思わないんです。ひとりの女を愛することを学びたい」と告げる。しかし、最後のシーンで再度渡辺がナンパを始めていることが示唆されている。

 

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わたし あらすじは以上です。ここから、「非モテコミット」をしていたダメな自分が、ナンパを通じて「男」になっていくという過程は容易に読み取れるでしょう。

 「恋愛工学」に限らず、ナンパのマニュアル本にはしばしば「今までのダメな自分を変える」という「自己啓発」のノリがあります。しかし、「自分を変え」た先にどこに向かうのでしょうか。

 この小説のオチでは、ナンパを辞めて一人の人間を愛そうとする意志を主人公が語っています。しかし、再度ナンパを始めてしまうという「ナンパ依存症」のような側面が見られます。なので、ナンパにハマることの危険性を指摘しているようにも読めなくはないのですが……。

 

「恋愛工学」と女性蔑視

超自我 この小説を批判した論文が哲学者の森岡正博(2017)によって書かれています。森岡は集団性的暴行事件を起こした千葉大学の学生が「恋愛工学」に“私淑”していたということが書かれた『週間文春』の記事に言及するところから始め、この小説を分析しています。

 森岡はこの小説に対して、「セックスを最終目標とし、女性を「股を開く」メスとして捉える「女性蔑視」の思想」があると述べています。また、「女性に喜びを与える、幸せにするとの言辞も書かれているが、それは「恋愛工学」の「女性蔑視」を糊塗するための言い訳」であるとも述べています。森岡の読みに従うなら、第六章とエピローグの内容は、社会から糾弾された際の言い訳として取ってつけた内容だということになるでしょう。

 森岡は元のメルマガである「週刊金融日記」の言説やそれに対する読者の反応まで分析しており、説得的な議論を展開していると言えるでしょう。

 森岡がそうまで「恋愛工学」にこだわり、批判をする理由は「私もまた、恋愛に奥手で女性にどう迫っていけばいいか分からない若い男性たちに恋愛と性愛のアドバイスをしたい気持ちがあるし、またいろんな女性たちとセックスの冒険を重ねていきたいという彼らの気持ちが理解できるから」だといいます。しかし、「恋愛工学」によって女性蔑視に染まってしまえば、女性の尊厳を毀損してしまい、好きな人との関係を結局は壊してしまう、というのが森岡の主張です。

わたし なるほど。森岡の立場は女性への性暴力やハラスメントを防止し、性別に関わりなく人々が対等な関係を作っていくべきであるという観点からすれば一理あるでしょうね。しかし、地に足がついていないというか、現代日本社会における男性性の現実に立脚できていないところがあるようにも思います。

 

「草食系男子」という夢想

わたし 森岡は哲学者でありながら、『草食系男子の恋愛学』(2008)という男性向けの指南本と、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(2009)という「草食系男子」の魅力を紹介した女性向けの本を書いています。「草食系男子」という言葉を広めるのに大きな役割を果たした人物ななんですね。

 森岡は草食系男子を 「心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」(森岡 2009: 7)と定義しています。そして、「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護するという意味での『男らしさ』を窮屈に感じ、その呪縛から自分で降りようとしている男性たち」(森岡 2011: 26)でもあるといいます。森岡はインタビューによってその存在を確認したうえで、殺人検挙数の低下から「草食系男子の増加」の傍証を試みています。しかし、はたして、「草食系男子」がスタンダードになる兆しはあるのでしょうか。

 実際のところ、高橋征仁(2013)によると、「日本性教育協会」の青少年への調査から「草食化」の4つのトレンドである①性的欲望の縮小、②性行動の不活発化、③性別分業意識の低下、④性別隔離の解消はおおむね支持できるものの、この4つは男性だけでなく女性にも起こっている現象なのです。

 そして何より、その4つのトレンドに全体としての一貫性があるわけではないのが問題です。具体的には、④の性別隔離の解消は「異性の友人がいる」という回答が増加したという点で見られるものの、①~③とは逆向きの関連があるのです。つまり、「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンは比較的少ないのです。

 高橋は、この4つのトレンドが「草食系男子」としてひとかたまりのものとして扱われてしまう理由の解釈を次のように述べています。「性経験が豊富なために『がつがつしない』という因果的推論を行うことで、性行動の分極化という全体像や消極化の原因を見誤っている」、「かつての『肉食系』の男性像――異性との接触機会があれば、それを恋愛やセックスのチャンスととらえて積極的にアタックする――を前提にしている。そして接触機会が増えたにもかかわらず消極化する男子という理論的構成をとっている」(高橋 2013: 55)。しかし、実際には、男性は異性との接触機会がある者とない者とで単に二極化しているだけなんですね。

 にもかかわらず、森岡(2009: 61-143)のインタビューに登場する草食系男子は「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンのものです。つまり、先ほどの高橋のデータにおいては少ない類型のものが取り上げられているわけです。

 森岡の言う「草食系男子」はある種の「理想」であって、現実のトレンドを反映しているとは言い難いんですね。

超自我 ただ、森岡のインタビューは4人とも三十歳前後のものですので、大学生以下である高橋のデータとは単純に比較できない側面はあると思いますけどね。

「男らしさ」から始めよ?

わたし 敷衍して考えるならば、日本社会には未だに「男らしさ」のヒエラルキーが厳然として存在していると言えるのではないでしょうか。つまり、「性的関心の強さ」と「異性との接触機会」というワンセットの基準において、「男であるもの」と「男でないもの」が二極化、すなわち序列化しているということです。

超自我 「男らしさ」一般について考えるために参考になるのは「男性学」という分野の蓄積です。日本の男性学の第一人者と言える伊藤公雄(1996)は、優越志向、権力志向、所有志向で定義される「男らしさ」の「鎧(よろい)」を脱いで、「自分らしさ」を志向することを勧める、いわゆる「脱鎧論」を提唱しました。

わたし たしかに、脱鎧論は男性性を相対化するにあたって一定の役割を果たしたと言えるでしょうね。しかし、これもまた草食系男子同様のある種の「理想」なのではないでしょうか。

 宮台真司ほか(2009)の『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』では伊藤の脱鎧論に対する批判的な検討が行われています。そこでは、これまでの男性性研究の対象が職場や家庭の性別役割分業といった限定された空間に偏っていたことが指摘されています。それゆえ、「男性性にはそもそも暴力性や抑圧性が内在するものである」とひとくくりに論じられることが多かったんじゃないかという疑問が呈されています。

 同著の結論部分では、ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)から定義される「ホモソーシャリティ」が旧来的な「男らしさ」を再強化してしまう(暴力に繋がってしまう)可能性を指摘してはいます。しかし、ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することの難しさから現実的な「とりあえずの連帯」としてホモソーシャリティから出発するべきだということが述べられています。

 すなわち、「自分らしさ」に「空回り」を続けるよりも、「男らしさ」をある程度基盤にして「群れ」つつ「男らしさ」を内部からずらすような「処方箋」こそが(関係性の構築において)現実的だという主張です。

 「男らしさ」を内部からずらす、というのはいまひとつイメージしにくい言い方だと思います。そこで次は、『「男らしさ」の快楽』の編者の一人でもある宮台真司のナンパ論から、その内実を探っていきましょう。これは、先に挙げた「恋愛工学」が旧来的な「男らしさ」を温存しようとすることへの批判にもなっています。

 

宮台真司のナンパ論

イド それについては私が説明しましょう。宮台がナンパを主題として取り扱ったおそらく最新の本である『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(2013)に基づいて、宮台のナンパ論を整理します。

 一言で言えば、宮台は「スゴイ人」が持っている〈感染力〉によって、身体の内から湧き上がってくる〈内発性〉が駆動することを重視しています。ただし、それは個人の意志力や、損得勘定に基づいた「自発性」ではありません。「スゴイ人」は利他的行動を取るのにいちいち理由を考えません。「我々」や「共同体」と呼べるような〈ホームベース〉がしっかり構築されているので、理由をスキップできるのです。逆に〈ホームベース〉がなければ、利他的行動を取る際に、いちいち「見返り」を計算することになります。これは「セコイ人」がやることです。

 そして、〈内発性〉に基づいて行動することで〈ホームベース〉は構築されます。〈内発性〉に基づいた行動と〈ホームベース〉とは相互規定的であるということですね。

 「スゴイ人」は人を巻き込むカリスマ的な力を持っています。〈今ここ〉を生きている人間を〈ここではないどこか〉へと連れていき、ある種のトランス=〈変性意識状態〉(めまいや酩酊)を引き起こします。そうして、その人においてもまた、〈内発性〉が駆動し始めるわけです。これは言わば〈感染〉の過程ですね。

 現代は「我々」「共同体」のような生活世界が、システムによって植民地化された時代です。それゆえ〈感染〉が困難になっています。しかし、ナンパはそのような〈感染〉を引き起こし、自身と他者の〈内発性〉を駆動するものでなければなりません。

 しかし、宮台によれば世のナンパマニュアルはそのようにはなっていません。決まり文句(ルーティーン)を設定し、他者からの承認を目指すものになっているのです。そこで、宮台はマニュアルの問題を「硬さ」と「細かさ」という言葉でまとめています。

 一方で、マニュアルに書かれているような文字通りのテキストにこだわることは、「変わらないコンテクスト」「他者が発しているオーラ」への感度をなくしてしまいます。一つ一つの言葉にいちいち「硬く」反応するのではなく、「言葉なき言葉(オーラ)」に反応できる〈敏感さ〉を持とうということです。

 他方、マニュアルに書かれていることで「これがいいのか、あれがいいのか」といちいち比較することは、相手の反応に一喜一憂してしまう「細かさ」を生んでしまいます。むしろ、他者からの承認の可能性にいちいち頓着しないという意味での〈愚鈍さ〉を持つべきなのです。

 結果として、ナンパマニュアルは〈変性意識状態〉を生まず、ナンパにおける〈踏み出し〉という前半プロセスは可能になったとしても、そのまま袋小路に入ってしまい、その後の〈深入り〉という後半プロセスは実現しません。その状態で行なわれるナンパでは、他人がモノ扱いされることになります。宮台はこれを人格化ならぬ「物格化」と呼んでいます。

 大まかには、以上が宮台のナンパ論です。

超自我 最後におっしゃった「物格化」は、「恋愛工学」においても見出せるナンパマニュアルの問題点ですね。

イド はい。それに対して、この宮台のナンパ論には「男らしさ」をずらしていく実践も含まれています。それは、「今までの自己を破壊する」という、精神分析的な視点によって達成されます。ここからは私なりの説明をつけ加えましょう。

 

自己を破壊せよ

イド そもそも、他者を自分のファンタジーの中に押し込めて「物格化」し、自意識に留まっているうちは、殻を破れません。自身の「男らしさ」をずらしていく上では、相手に対して〈深入り〉していくことが重要です。

 というのは、ナンパを通じて〈深入り〉した人間関係になっているときには、お互いが〈変性意識状態〉に入ることができるからです。その際、自分と相手は、自己の核となる部分同士でコミュニケートすることになります。すると、自己の基底にあった「男らしさ」もどんどん変形していくことになります。

超自我 なるほど。たしかに実際、男性学者の多賀太が、青年期の男性のアイデンティティ形成についてのインタビューで、恋人との交際を通じて「伝統的」な男女観が相対化された事例を提示していますね(多賀 2006: 56-62)。

 その理由として多賀は、元々の価値観が相対化されるためには、対抗的価値観を強く「内面化」する必要があると述べています。そして、価値の内面化において情動的なコミュニケーションが重要である、というパーソンズの説を引いています(多賀 2006: 70-71)。

イド そういうことはあるでしょうね。ここからはさらに精神分析的な説明をします。まず、フロイトは、人間が興奮したり緊張したりして高まったエネルギーを解放し、低めることで快楽を得ることを「涅槃原則」と呼びました。そこから、エネルギーがゼロになった状態=死を人間は求めているのではないかという仮説を見出し、フロイトは「死の欲動」と呼んでいます。

 「死の欲動」は無意識から湧き出てくるわけですが、逆に、意識や自我と呼ばれるものは、「無意識」のカオスな力に対して防衛、すなわち「フタ」をしてしまいます。しかし、このような防衛的態度では現在の自己はひたすら固定され、「男らしさ」への神経症的なこだわりを解消することができません。だからこそ、自己を破壊する「死の欲動」の力を使うわけです。

 ところで冒頭で、私たちの欲望は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から分化してきたものではないか、ということを述べました。しかし、その元となっている生殖欲=性欲は種のレベルで見れば自己保存的ですが、個人のレベルで見れば自己破壊的な側面があります。というのはまず、女性にとっては妊娠や出産が大きな健康リスクです。何より、生殖を導くオーガズム(“イく”こと)は、「今ここ」の自己から離れる、エクスタシーの感覚を伴うというところが、自己破壊的なんですね。

 このように、生殖を導くオーガズムが最初から自己破壊的な側面を持っていることは、フロイトの「死の欲動」説の傍証となっているでしょう。そして、そこから私たちの持っている欲望が分化してきたものだとするならば、その欲望にも自己破壊的な側面がある、と考えるのは自然なことです。

 しかし、その欲望が他者の「物格化」へと閉じてしまうならば、せっかくの自己破壊的側面も失われてしまいます。

わたし あ、つまり、その逆の事態である〈人格化〉は自己を破壊するということですか?

イド そのとおりです。えっと、説明するとですね、「人に対して一人の人間として接する」とき、私たちは自我の境界を揺らがせ、他者の中に深く入り込むことなるわけです。そこでは、剥き出しの他者の欲望も自己に流れ込んできて、自己は破壊を余儀なくされる、ということです。

 こう考えると、冒頭で述べた人間扱い/モノ扱いの区別は、自己破壊/自己防衛という区別に対応すると言えます。

 結局のところ、ナンパというのは自己を変えるためにやっているわけですから、自己が破壊されることを恐れることはないんです。むしろ、凝り固まった「男らしさ」をずらしていく契機になるという点でも、祝福すべきことなのです。

超自我 ふむふむ。まだ咀嚼しきれていないですが、なんとなく分かったような気がします。しかし、その話もやはり、精神分析的な説明を理想化してしまっているんじゃないですかね。本当に「男らしさ」はずらされているのか、疑問があります。

 

師匠と弟子――排除された女性

超自我 『「絶望の時代」の希望の恋愛学』で、宮台は理由なき利他性:〈内発性〉を育むために「妥当に方向づけられた性愛実践」を提唱しています。しかし、ここで「妥当に方向づける」のは宮台自身や経験を積んだナンパ師たちですよね。これってすごくホモソーシャル的な状況なんじゃないでしょうか。

わたし 実際、宮台は『「男らしさ」の快楽』の「脱鎧論」批判としてホモソーシャリティを肯定的に評価していますからね。ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することは難しいのだと。

イド たしかに、宮台自身、ある社会学者が実践していたナンパを見て、その「グルーヴ」の中でナンパを始めたのだと電子書籍版のあとがきで書いています。これは、「スゴイ人」が弟子にあたる人物を〈感染〉させていく過程なんでしょうね。

 弟子にあたる人物は「スゴイ人」を理想化していて、認識のうえでは〈変性意識状態〉が生じているんでしょう。これは精神分析で言うところの「陽性転移」ですし、先ほど述べた「自己の破壊」にも繋がる、ということなんじゃないですかね。

超自我 しかし、そこには女性がいない。「師匠と弟子」という形で脈々と受け継がれてきた継承線は、圧倒的に男性に偏っていますよね。

 それがまさにホモソーシャルなんですよ。ナンパのような実践では、女性が性的な対象として外部化され、そのことによって、「女性でないもの」である男性たちが自らの「男らしさ」を確立していくことになります。

 のみならず、「恋愛工学」への森岡の批判でも述べられていたように、ナンパは現実問題として女性に対する性暴力の温床になってもいます。

わたし なるほど。全てのナンパが悪いとまでは私は思いませんが、そこには構造的な問題がありますね。

「依存症」におけるメタ的な自己保存

超自我 はい。加えて、もう一つ問題があります。性愛関係が〈変性意識状態〉を生み、非日常の〈ここではないどこか〉へと旅立つ手助けになりうる、ということが宮台のナンパ論だったわけですが、逆向きの可能性もありえます。それは「依存症」です。

 アルコール依存症をはじめとして、そもそも依存症の対象は強い刺激によって〈変性意識状態〉を誘発することが多いですよね。これはまさに自己を破壊するわけですが、その自己の破壊が「クセ」になってしまっては元も子もないんじゃないでしょうか。つまり、自己を破壊する、ということがルーティーンになってしまったら、メタ的な意味では「自己を破壊することを習慣としている自己」が保存されることになるんじゃないかと。

 依存症の対象は、ある意味では、自己を苦しみから解き放ってくれるものです。人は依存することによって「自己治療」をおこなっていると言います。しかしそれゆえに依存は強まり、量が増えるなどして、身体にも耐性がついてきます。非日常だった依存の対象は日常化し、より強い刺激を求めることでしか非日常は得られなくなるわけです。言ってしまえば、バカになってしまうんですね。

イド 「男らしさ」をずらす、という課題においては、〈変性意識状態〉を生んでくれる依存の対象はある意味重要だと思うんですけどねぇ。

超自我 しかし、それが日常化してしまい、「アルコールをどれだけ飲めるか」や「何人の女とヤったか」を競うゲームになってしまったら、それは旧来的な男らしさに回収されてしまいますよね。それは結果的に人間関係も破壊して、男性の場合、女性への暴力にも向かう傾向が強いわけです。

よいナンパとわるいナンパ

わたし なるほど。ナンパには女性を排除しているという問題や、依存症的な自己保存を帰結してしまいかねないという問題があることは分かりました。私たちは、そのような問題を避けつつ、自己を破壊することで「男らしさ」をずらしていく、という価値をナンパから救い出さなければならないんじゃないでしょうか。

 つまり、もっと「よいナンパ」がありうるはずだと。

 そもそもナンパとは何かを定義するのは難しいですよね。見知らぬ人に話しかける、という意味であれば、僕らは多かれ少なかれナンパを普段やっていることになります。

超自我 ただ、その中でも、対象を〈物格化〉し、凝り固まった自己を保存してしまうようなナンパは問題ですよね。

イド 宮台のナンパ論から言ってもそうですね。ナンパが目指すべきものは、むしろ対象の〈人格化〉であり、相手の視点に深く入り込むことで、自己が破壊されていくということです。

わたし しかし、相手の視点に深く入り込むということには必ずしも性愛関係が伴うわけじゃないですよね。自他の境界が曖昧になる〈変性意識状態〉の中で、お互いの無意識が発露し、自己が破壊されていく、と。これが起こることが重要なのであって、性愛関係が必要条件だというわけではない。

 むしろ、現実的に考えればまだまだ現代日本社会では、性愛関係においては一対一の関係がスタンダードですよね。フリーセックスのような形でスタンダードが破られると、精神的に傷つく人は多いでしょう。

超自我 昨今はMeTooブームもあり、セクハラや性暴力に対する意識も高まっています。今の世の中で、セックスを至上目的としたナンパを持続していくのは無理だと思いますね。

わたし なるほど。やはり、地に足のついた「よいナンパ」のあり方を提示しなきゃいけないようですね。最後に私なりの意見を述べたいと思います。

恋愛の魔力

わたし 自分の話になりますが、私は「付き合う」という契約をして一対一の恋愛関係をやっていくことに非常に息苦しさを感じるようになりました。

 自分で言うのもなんなのですが、僕には友だちが多い。とりわけ女友だちとは、一対一で「深い話」をしがちです。

 それに対して付き合っている人が嫉妬してしまうのに困っていました。顔も知らない女性に対して、激しい怒りを覚えたりする。逆に、よく知っている女性と私が話していてもあまり怒りはしない、ということすらありました。

 この恋人の怒りは「付き合う」という契約によって正当化されているのだと思います。顔すら知らない女性に対しても彼女は怒ることができてしまう。言うならば、恋愛というものが持っている魔力なのだと思います。

 だから私は「付き合う」ということに対しては慎重になりました。実質的には恋愛関係にある人との関係を「付き合ってはいない」と定めることにどれだけ効果があるのかと言われると微妙なんですが……少なくとも私は「付き合う」ことに疲れてしまいました。

 

女友だちと〈セックス〉するために

イド しかし、あなたはどうしようもなく異性愛者で、女性に対して恋愛感情を抱いてしまいますよね。その感情自体を完全に抑えることはできないし、精神分析的に言えば、抑圧されたものは回帰してしまうと思います。

わたし そうですね。だからむしろ、私は女性への恋愛感情は徹底的に自覚したいと思います。

超自我 自覚するおかげで、行動化しないで済むという面はあるでしょうね。行動化しなければ、暴力や関係の破壊に繋がりやすい性行為は、制限することができる。

イド それでも女性に対して強い感情を抱くこと自体は自由です。フロイトに言わせれば、人間のコミュニケーションへの欲求は「目標(性行為)を制止されたもの」です。つまり、性欲が分化し、文化的に意味づけられたものとしてコミュニケーションがある、と考えればいいでしょう。

わたし たしかに、人と深い話をしているとき、「まるで〈セックス〉をしているみたいだった」と感じることがあります。冗談めかして「完全に〈セックス〉していた」と言っている人もいましたね。実際文字通りそのとおりなのではなんじゃないでしょうか。

イド ディープな会話は、自他の境界を揺らがせ、〈変性意識状態〉を誘発します。そして、深いコミュニケートの中で、ゆっくりと自己は破壊され、再構築されていきます。それはいわゆる性行為ではなくとも、〈セックス〉なのではないか、ということですね。

 

ナンパとフリーセックス

 はこれまで様々な場所に飛び込んで友だちを作ってきました。それはナンパと変わらないものだと思います。意気投合して深く話し込んできました。それはセックスと変わらないものだと思います。

 世界には様々な人間がいます。様々な人間と様々に交歓します。そのセックスを一人の相手としかしないなんてもったいない。しかし、社会の性規範は、どうしようもなくフリーセックスを否定し、現に人々は傷つき、その豊かな可能性は毀損されてしまっています。

 傷つくこと自体も、必ずしも悪いことではありません。「草食系男子」は「傷つけることも傷つくことも恐れている」といいますが、傷つきのない人間関係なんて、多くの場合嘘っぱちなんじゃないでしょうか。それはただ、リスクから自分を防衛しているに過ぎず、「傷つき」がなければ、古い自己をずっと大事に保存してしまうでしょう。

 しかし、非対称な権力関係によって、「傷つける男」と「傷つけられる女」が固定されてしまっているという構造はあります。そして、傷つきを受け入れ、乗り越える仕組みもまた、十分には整備されていないでしょう。それこそが問題なのです。

 性行為中心主義的ナンパから友だち主義的ナンパへ。フリーセックスから〈フリーセックス〉へ。これが現代の性愛に対してが打ち出せる方向性です。

 

【文献】

藤沢数希、2015、『ぼくは愛を証明しようと思う。』幻冬舎

井上俊、2008、「社会学と文学」『社会学評論』59(1): 2-14。(再録:2019、『文化社会学界隈』世界思想社、2-23。)

伊藤公雄、1996、『男性学入門』作品社。

宮台真司編、2013、『「絶望の時代」の希望の恋愛学』KADOKAWA/中経出版

宮台真司・辻泉・岡井崇之編、2009、『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』勁草書房

森岡正博、2008、『草食系男子の恋愛学メディアファクトリー

――――、2009、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』マガジンハウス。

――――、2011、「『草食系男子』の現象学的考察」『The Review of Life Studies』Life Studies Press、1: 13-28。

――――、2017、「『恋愛工学』はなぜ危険なのか――女性蔑視と愛の砂漠」The Review of Life Studies Vol.8 (February 2017): 1-14。

多賀太、2006、『男らしさの社会学――揺らぐ男のライフコース』世界思想社

高橋征仁、2013、「欲望の時代からリスクの時代へ――性の自己決定をめぐるパラドクス」日本性教育協会編『「若者の性」白書――第7回 青少年の性行動全国調査報告』小学館: 43-61。

リゼロにおける「ゲーム的リアリズム」の乗り越え――Re: ゼロ年代から始める異世界生活

 『Re: ゼロから始める異世界生活』というアニメを毎週楽しく観ている。僕は原作は読んでいないのだが、33話まで放映されたアニメの範囲で、ある種の批評性を感じているのでそれについて試論する。「リゼロ」を読んでる/観てる人向けの記事です。

 

 

1.「ループもの」から「異世界もの」への連続性と断絶

 『Re: ゼロから始まる異世界生活』は小説投稿サイト「小説家になろう」の人気ジャンルである「異世界もの」である。それと同時に、主人公が死ぬと一定の「セーブポイント」に戻り、やり直す「死に戻り」というシステムがある。

 この「死に戻り」のシステムはオタク文化において「ループもの」として広く受け入れられてきた。批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』や、その続編にあたる『ゲーム的リアリズムの誕生』でこの「ループもの」について論じている。

 

 東の議論には様々な論点があるが、ここでは「キャラクターとプレイヤーの二層化」の話に絞ろう。

 ゲーム、とりわけ美少女ゲームにおいては、プレイヤーは選択肢を選ぶことによってゲームを進めていく。選択肢を間違えればゲームはバッドエンドになってしまうわけだが、プレイヤーはセーブしたところから(あるいは最初から)ゲームをやり直すことができる。そして、間違った選択肢Aを選ぶとキャラクターがどうなるのかを知っている立場から、プレイヤーは間違った選択肢Aを避けるわけである。

 つまり、未来の立場のプレイヤーは、キャラクターとしての過去をやり直すことができる。これが、「キャラクターとプレイヤーの二層化」である。この「ゲーム的」な構造はゲームに限らず様々なフィクションにおいて用いられ、「ループもの」というジャンルが流行したと考えられる。東は『動物化するポストモダン』のなかで、その二層構造を「解離」や「多重人格」と結びつけている。

 というのも、多くの美少女ゲームはマルチストーリー・マルチエンディングの形式を採用しており、個々のストーリーではヒロインとの「純愛」や「運命」が強調される一方で、プレイヤー視点に戻れば選択肢の分岐によって複数の恋愛を体験することができる、ご都合主義が存在するからである。このご都合主義を矛盾なくやり過ごすには、あるヒロインとの「運命」的恋愛のことを忘却したり、人格を分裂させたりする必要があるというのが東の見立てである。

 これはいくぶん比喩的ではあるが、実際に美少女ゲームは「記憶喪失」の構造に支えられている。美少女ゲームの主人公は「幼なじみ」と子ども時代を過ごしていたはずだが、そのときの記憶があまりないという設定が典型的である。そして、どのヒロインを攻略するかが選択されていくことによって、事後的に子ども時代の記憶が確定する(実はこの子とは幼い頃に会っていた! 運命だ!)という構造を持っている*1

 

 この「忘却」の構造が存在する点で、「ループもの」は「異世界もの」に繋がっている。「異世界もの」の一つの魅力は、その魅惑的な世界観によって、現実の世界を忘却させてくれるからだ。悪く言ってしまえば「現実逃避」の構造を持っているわけである。

 しかし、「ループもの」からは一方で、現実に向き合う「やり直し=思い出し」構造を抽出することもできる。過去の「間違った選択肢」をトラウマとして反復しながらも、それを乗り越えていく、そんな構造である。この構造が「異世界もの」では薄まってしまった、その点で「ループもの」と断絶がある、とひとまずは言えるだろう*2

 

*1

 なお、この記憶喪失構造はハーレム的な欲望を満たす。プレイヤー視点に立てば選択前に戻ることによって複数の運命を経験できる=複数のヒロインを攻略できるという点を東は指摘しているわけだが、そもそも子ども時代の記憶が曖昧であれば、「誰が運命の相手なのか」の答えを保留したままで複数のヒロインが登場させることができる。いわば、「運命の相手」という変数xにどの女の子でも代入できる状態を楽しむことができる。この構造は、美少女ゲーム以外でも例えば赤松健の『ラブひな』で指摘できる。「トーダイに一緒に行くこと」を約束した女の子が誰なのかをめぐって二人のヒロインが候補に挙がってくる、という話がソレである。

 この「なんでも選べる」という記憶喪失構造の全能性ゆえに、宇野常寛セカイ系美少女ゲームを「レイプ・ファンタジー」と名付けて批判している。

 

*2

 むしろ、忘却構造を強化するような、あるいは別世界に別の「現実」があると考えてしまうような、そんな構造が昨今流行りのジャンルからは読み取れる。元の生活からは切り離され、閉鎖された世界での勝利を目指す「デスゲームもの」。世界の破滅を"生々しく"描く「ポスト・アポカリプスもの」。あるいは、夾雑物が紛れ込んでこない純粋な世界を描いた「日常系」や「アイドルもの」もそうかもしれない。

 とはいえ、東の議論に沿って考えれば、リアルとフィクションとの間に境界線がはっきりと引かれ、フィクションにおける「現実逃避」の機能が強まる、というベクトルだけでもあるまい。むしろ、リアルがフィクションのレンズを通して再構成され、フィクションの傾向がリアルの文化に影響を受けて変化していく、そういうこともあるはずである。僕にそれらを細かく論じる知識はないので、ここではそのあたりのジャンルについては述べないでおく。

 

2.「リゼロ」における乗り越え

 前置きはこのくらいにして、それでは「リゼロ」がどのようにしてこの「忘却=現実逃避」構造を乗り越えていったのかをアニメを観て気づいた範囲で記そう。

 

痛みを忘れないループ

 真っ先に指摘できることとして、リゼロはループの仕方が特殊である。よくあるループものでは、ゲームをプレイしている人と一緒で試行回数を増やすことによって最適解を見つけていくのが定番である。

 しかし、リゼロにおいては、ちゃんと死の痛みが忘却されずにトラウマになってしまっている。主人公のスバルはそれにより精神に変調を来たしている(おまけに、ループするたびに「魔女の残り香」が強化されていくことで、周囲のキャラクターから信用されるための難易度も上がっていく)。

 

異世界転移なのに元の世界のことを思い出す(29話)

 主人公のスバルは引きこもり生活をしていたらふと異世界に転移したという設定である。この設定は単に読者/視聴者にとって感情移入しやすいからそうなっているのだ、と僕は素朴に考えていた。

 しかし、29話。聖域における試練において、スバルの過去が明かされる。スバルは自分が父と比較され、周囲からの期待に応えることがプレッシャーとなり、引きこもりとなったのである。アニメで描かれた、暑苦しくも優しさがイタい親子関係に対して、僕は共感性羞恥のようなものをおぼえた。「日常系」というジャンルではしばしば親が描かれないが、その真逆で、ここまでイタイタしく親子の関係を描くのには新しさを感じる。

 

 

  この回はゼロ年代の文化を意識している!という僕の推測に関しては後に詳しく。

 余談だが30話でガーフィールが「そもそも、過去なんて乗り越える必要あんのか?」というセリフを発しているのが印象的。この問いに対してどのような答えが出てくるのか気になる。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――ゼロ年代の象徴としてのレム

 リゼロでは、スバルが異世界転移してすぐに出会うエミリアがひとまずメインヒロインに見える。しかし、ピンチのエミリアを助ける過程をスバルと共にするレムもまた、圧倒的なヒロイン力を発揮している。

 18話では、打つ手がなく絶望してしまい、自己否定の言葉を繰り返すスバルに対して、レムはダメな部分も含めて優しく受け入れる。2人の会話劇だけでまるまる1話使うというものすごい回。「母性」という言葉をこれほど想起させるものはないだろうというぐらい。

 しかし、2期の最初にあたる26話で、魔女教大罪司教、『暴食』担当のライによって「名前」を喰われ、レムは忘れ去られてしまう。

 

 僕にはこの「忘却」が、どうも先ほど述べた美少女ゲーム的忘却構造のメタファーであるようにしか見えなかった。レムというヒロインは、美少女ゲームでヒット作が量産され、「セカイ系」が一世を風靡したあの時代、「ゼロ年代」の象徴なのではないかと(レムも「ここから始めましょう、イチから――いいえ、ゼロから!」って言ってるし!)。

 自分のダメさを吐露するスバルをレムが「母性」的に受け入れたのは、表面的にはスバルがレムを助けた英雄だったからなのだが、それ以上に、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」を思い出すのだ。

 これは、「セカイ系」の構造と類似している。「セカイ系」はエヴァンゲリオンから始まったとされているが、その意味でのエヴァンゲリオンの新しさは、アニメ上で「モノローグ」を多用したことである。

 社会から受け入れられない人間はどうしてもモノローグ的に自分の世界に引きこもってしまうことになる。しかし、社会から切り離された人間が一発逆転できるシステム、それが「恋愛」である。セカイ系では、「キミとボク」の関係が、中間にある「社会」をすっ飛ばして「セカイ」へと直結してしまう構造があるのだ(あるいは「キミとボク」こそが「セカイ」になるとも言える)。

 社会から虐げられたオタクくんからすれば、これには感情移入せざるを得ない。2005年頃の「電車男」以前では、オタクはまだまだ社会から虐げられた存在だった。社会から虐げられていたからこそ、恋愛という個別的関係にこそ超越性を見出せたのである。

 このように考えると、ダメなスバルを丸ごと受け止めるレムはまるで、セカイ系に出てくるヒロインである。

 

 しかし、スバルはレムに告げる。「エミリアが好きだ」と。これはどう解釈すべきか?

 一つの見方では、「エミリアが好き」でありながら、自分のダメさをレムに許される、といういいとこ取りのハーレム的構造を維持していると言える。その意味ではやはりゼロ年代美少女ゲーム構造とも言える。

 一方、スバルははっきりエミリアを選んでいる。それはレムを選ばないということであり、美少女ゲーム的構造を乗り越えているようにも見える。このあたりの解釈は、今後の展開次第でもあるだろう。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――「プレイヤー」の立場に立つエキドナ

 最新の33話を観た時点ではまだ早漏かもしれないが、エキドナは三人目のヒロインだと思う。エキドナの優位性は、スバルの「死に戻り」を観察してきたことにある。エキドナはスバルの死に戻りの苦悩を知っている。だからこそスバルはエキドナに対して気持ちを吐露するのである。

 これは東浩紀が提起した「キャラクターとプレイヤーの二層化」において、エキドナが「プレイヤー」の側に立っていることを意味する。これまでスバル以外はスバルの死に戻りを知らなかったため、あくまで「キャラクター」の位置にいたのだ。

 「キャラクターとプレイヤーの二層化」は崩れた。ゆえに「忘却=現実逃避」の構造はない。現時点でのリゼロの可能性は、ここに見出されるように思う。

 ついでに言えば、エミリア、レム、エキドナはそれぞれ異なる機能を持っていることになる。美少女ゲーム的にリゼロを見れば、スバルは結局誰を「選ぶ」のか? そこにも注目したい。

 

3.ゼロ年代の止まった時計が動き出す

 まとめよう。「異世界もの」は一般的には「忘却=現実逃避」の構造があり、それはある意味で、ゼロ年代に流行った「ループもの」や美少女ゲームにおける文法を徹底したものだった。

 しかし、「リゼロ」には傷の痛みを忘却しない設定や、元の世界における親子関係の描写、ループ構造を観察するエキドナの存在などがある。これには「キャラクターとプレイヤーの二層化」を乗り越えようという意志を感じたのである。

 

 この「乗り越え」について、僕は今後、さらに議論を展開させたいので、最後に二つの展開の可能性を述べておく。

 一つは、哲学者の森岡正博が『意識通信』(1993)で提唱し、社会学者の加藤晴明が『メディア文化の社会学』(2001)などで取り上げている「二世界問題」と呼ばれる問題との接続である。「二世界問題」とはすなわち、「現実と虚構のどちらが『リアル』なのか」という問題である。

 ベタな「異世界もの」ではもはや元の世界と異世界との間のリアリティの強度は反転してしまっており、「異世界」の方が「リアル」だと感じられてしまっている、ということになろう。しかし、「リゼロ」においては、元の世界と異世界、(ループする)プレイヤー世界と(ループしない)キャラクター世界、それぞれの二世界が複雑な絡み合いを見せている。「リゼロ」が「二世界問題」に対していかなる答えを出すのか、注目していきたい。

 

 二つ目の展開可能性として、近年のリバイバルブームに象徴される、「思い出し」の可能性である。リバイバルブームやかつての作品の続編の制作について、90年代やゼロ年代のコンテンツがリサイクルされている、高齢化したオタクが介護されている、などと揶揄されることがある。しかし、僕はこのリバイバル=反復は祝福すべきことであるとかつて論じた(「人生の止まった時計が動き出す――「毒親」語りとリバイバルブーム」『メンヘラ批評Vol.1』所収)。

 ざっくり言ってしまえば、バブルが崩壊し、日本社会がデフレ不況と新自由主義に飲まれていく端緒となった、90年代/ゼロ年代というあのトラウマの時代を、大人になった視点から「語り直す」ことで乗り越えられる可能性がある、という話である。

 「リゼロ」の著者の長月達平は現在33歳。リゼロを書き始めたのは25歳からのようだ。彼は多感な子ども時代、思春期を90年代/ゼロ年代で過ごした。そして、同時代のコンテンツに触れてきたことだろう。あの時代の乗り越えは、まったく新しいものによってではなく、あの時代を反復することを経た先に到達されるものだと僕は考えている。

 

 18話でレムは言った。「レムの止まっていた時間をスバルくんが動かしてくれたみたいに、スバルくんが止まっていると思っていた時間を、今、動かすんです」

 レムとはゼロ年代のことであり、スバルとはまさに今の時代のことなのだ。