現代インターネットにおける〈マイノリティ〉の在り処――売野機子『インターネット・ラヴ!』評
売野機子『インターネット・ラヴ!』評です。別の場所にこっそり載っている文章ですが、よく書けたと思うので、ちょっと修正してブログにも載せておきます。
1.『インターネット・ラヴ!』の設定の背景にあるもの――忘却できない傷つき・痛み
売野がこの作品において、インスタや韓国、ネイリストのような「オシャレ」なもの、あるいは「社会に包摂されたセクシャルマイノリティ」のようなものをベタに肯定して描いているわけではない点にまず注意を促したい。
では、それらの現代的なモチーフにどのような機能を持たせているのか?
この問いについては、インターネットとマイノリティとの間の関係から考える必要がある。解説しよう。
かつてインターネットはマイノリティにとっての希望だった。人生の敗者復活戦の場だった。
今・ここのしがらみから逃走し、「本当の私」を承認してもらえる……少なくともそのような希望を抱くことのできる、解放の場であった。
しかし、SNSが普及することで、多くの人間が日常生活の延長線上で自らの情報を電子上にアップロードするようになった。
「ないことにされている」存在にとっての承認の場であったインターネットのありようは反転する。人々は自らの存在証明をし続けることを強いられるようになる。逆にSNSにアップロードされないものは「ないことにされている」のが現代である。
そうして、マイノリティの居場所は再び失われる。リベラルデモクラシーが活気づく現代において、一見セクシャルマイノリティは存在を承認されているように見えるが、それはマイノリティを「ノーマル」なものとする権力の下で、である。
『インターネット・ラヴ!』はそのような時代状況における物語である。
天馬は表面的には自らのクィア性を周囲からも、ましてや両親からも承認されている。軽快にインスタグラムを使いこなす「リア充ネイリスト」として生きている。
現代の水準へと「アップデート」された人間においても、やはり恋の悩みは付きまとう。ただし、その恋のカタチは当初「推し」という、これまた慎重に傷つき・痛みを排除した現代的なものとして立ち現れている。
しかし、傷つき・痛みを排除することはできない。天馬は失恋の傷つきを通じて自らのセクシュアリティに対して真剣にならざるを得なくなる。彼女とも別れ、彼女からは「拳で決着」をつけられることになる(身体が傷つくものであるということの端的な表現である)。天馬は〝軽快な〟クィアネス(あるいはバイセクシュアリティ)を降りて、「モテないゲイ」としての実存を生きることになる。
自らの身体性をキャンセルできないということ。これ自体もSNS以前のインターネットにおけるつまずきの石となっていた、きわめてマイノリティ的な問題系である。
ちなみに売野機子は『ルポルタージュ』においても、恋愛が絶対視されなくなった未来社会において、それでも自らの身体性は残るのだという主題を扱っていたわけだが、多かれ少なかれ「失われていくものへのノスタルジー」を通して耽美な世界観を作り上げている。今作におけるノスタルジーの対象は、SNS以前の「マイノリティによるインターネット」ということになるだろうか。
ウノくんに出会った天馬は、その肉々しい身体性に圧倒され、その匂いを嗅ぎ、射精する。これにはクスリとさせられると同時に、正しくマイノリティとしての身体性を表現している(むろん、翻訳アプリを使わない、手書きの文字や絵でなされるコミュニケーションもまた、SNS以前の身体性を巧みに表現していると言えよう)。
ここまでをまとめるならば、売野は「傷つく身体性」を排除しない描き方をしていると読むべきである。すなわち、「推し」や「認知」などといった安全圏においては忘れ去られているものを描き出そうとしているのである。
2.「否定性=物語」なき世界での〈抵抗〉のかたち
「SNS以前のインターネット」というノスタルジーを描いているからと言って、この作品は決して懐古趣味ではない。むしろ、この作品は「漂白」され、フラット化した現代社会の〝内側〟において、それでも決して何かに回収されることなく、抵抗的に生きる人間を描いている。それは、一見「抵抗」には見えないようなあり方である。
より具体的に言おう。
インターネットがマイノリティにとっての楽園だった理由の一つは、インターネットが2ちゃんねるに代表されるようなシニカルなカルチャーを持っていたからである。
すなわち、社会で常識とされている規範を相対化する「冷笑」や「否定性」の中で、社会の主流に対するオルタナティブとなるようなカウンターナラティブが形成されてきた。
現代のSNSにおいてその代表的な場はTwitter(現X)である。結果としてTwitterは、広い意味でのマイノリティが社会に対して文句を言いつつも存在を承認される、サブカルチャーの格好の場となってきた(2016年頃からは人口が増えすぎてだいぶ「治安が悪く」なっている側面もあるが)。
Twitterと比べるとインスタグラムは社会に対して迎合的である。ここまで再三述べてきたように、傷つきを避け、否定性を排除したようなフラットで漂白された場という傾向が強いだろう。
この観点から見ると、『インターネット・ラヴ!』の世界は「インスタグラム」的な世界である。キャラクターたちの関係に否定や批判は生じず、共感と配慮に満ちている。この「やさしい世界」においては、マイノリティたちが持つ後ろ暗い欲望を追求していこうというサブカルチャーは生じてこない。否定はされないものの「人それぞれだよね」とゆるやかに遠ざけられることになるであろう。
一方、Twitterではたびたび批判が噴出しつつも「出会い厨」「メンヘラ」「サークルクラッシャー」「オタサーの姫」「オフパコ」「ナンパ」などといった、王道ではない「邪道」のインターネット恋愛文化が醸成されてきた。
オタク系やサブカル系の作品において描かれる恋愛はこれらの文化と呼応してきた側面が強いように思われる。「セカイ系」と呼ばれる作品群において描かれる自己憐憫的な恋愛描写や、サブカル系作品の逸脱的な性愛の描写は、「社会に適応できないダメ人間」を慰撫しつつ恋愛へと駆り立てている側面があるだろう。要するに「陰キャによる恋愛」の物語を提供してきたと言える。
しかし『インターネット・ラヴ!』はそれらの路線にはのらない。セカイ系的な自己陶酔モノローグが描かれるわけでも、周囲の関係や親子関係での不和が描かれるわけでもない。実際、天馬がゲイであることを親が受容していることは、これみよがしに描かれている。それゆえに親や誰かを「敵」として設定することもできず、「敵を乗り越える」という分かりやすい主体性獲得の物語が描けないような構造になっているのである。
すなわち、「否定性」がない世界だ。その内側におけるある種の〈抵抗〉のかたちが丁寧に描写されている。
たとえば「やさしい配慮」で天馬を受容してくれる親の言いつけ;「人生は短い」を天馬は否定することができず、天馬はウノくんに対して「ダメ元」で告白することを決意するというかたちで話が進んでいくのは、マイノリティの物語としては特異であろう。しかし、微妙にズレている親に対してキッパリとした抵抗ができない点にこそリアリティがある。
小括しよう。たしかに「否定性」を媒介とした分かりやすい物語としての「インターネット・ラブ」であれば安易に批判/共感もできるだろう。
しかし、売野は現代の否定性なき世界における〈インターネット・ラブ〉に真剣に向き合っているのである。タイトルは『インターネット・ラヴ!』であるが、ここを読み違えてはならない。
3.『インターネット・ラヴ!』の結末について
この作品の結末に疑義を呈する声もあるようだが、私見ではむしろ、この作品の結末は非常に練られたものになっている。最後に結末で何が描かれていたのかについて、解説しよう。
クライマックスに至るプロセスで、作中の主題は単に「マイノリティ」の問題ではなくなることがポイントである。
天馬が恋する相手であるウノくんは韓国人というだけで、分かりやすく定義されたマイノリティ性を持っているわけではない(ただし、日本人と韓国人という設定が、疑似的にSNS時代以前の「距離」を再現しており、「会う」ことの特別さを演出しているということは指摘しておこう)。
現代的な基準においてウノくんは「SNS依存」だと彼女に診断されてしまうわけだが、彼はメディア上に自己をアップロードすること、目の前にはいない「誰か」にまなざされることを純粋に楽しんでいる。それは作中で描かれているように、神からのまなざしの等価物である。
インターネットに〈神〉からの救いを求めたが、まなざし返されなかったことに絶望したのはそう、秋葉原連続通り魔事件のKだった。
Kは現代における「インセル」「弱者男性」現象の走りとして解釈することも可能だが――まさに売野は『ルポルタージュ』で「インセル」を描写している――ウノくんには天馬がいたからこそ、天馬がずっとまなざしてくれていたからこそ、闇堕ちせずに済んでいるのである。過剰なまでにアップロードされ続ける「存在の叫び声」の中に、「寂しがり屋」なところを見出したのが天馬だったのだ。
ウノくんの方は天馬に対し1か月間自分のことをアップロードするように言う。そして天馬は「おれはおれの知らないおれを知る」。メディア上に自己をアップロードすることを通じて、「マイノリティとして」ですらない自己に出会い直すのだ。
重要なのは、これがちょうど天馬がウノくんのインスタ投稿からウノくんが「寂しがり屋」であると見出したことを、自分自身に対して適用する構図になっていることだ。天馬はそうして自分の感情を省察し、自らのゲイネスさえも相対化していく。
そしてその天馬の投稿もまたウノくんは見ている。お互いがお互いを発見していくプロセス。ウノくんはひょっとするとここで自身のゲイネスに気づいたのかもしれない。
そして何よりウノくんは、天馬がインスタ投稿を続ける(=まなざされる)ことを通じて、天馬がそれまでのただまなざすだけの存在ではない、ということに気づいたのだろう。まなざし合う双方向性が生まれることで、二人は結ばれるのである。
そこにはもはや他者からの承認は必要ない。作中を通して、軽快なクィア→モテないゲイ→マイノリティとしてではない自分自身という、3段階のビルドゥングのプロセスが描かれたのである。
谷口一平「「マイナス内包」としての性自認の構成」&査読コメント を検証する
【拡散希望】本日、日本大学哲学会『精神科学』に投稿していた私の論文「「マイナス内包」としての性自認の構成 (Gender as Irifuji’s Minus-Intensions)」に、不採用の通知が届きました。来年出る『精神科学』に掲載されるよう今年春に書いたもので、トランスジェンダーを巡っても注目を集めている pic.twitter.com/EaJD44DVxv
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) 2023年12月25日
独立研究者・谷口一平氏の日本大学哲学会『精神科学』への投稿論文がリジェクトされた。
そこで谷口氏は査読過程、及び匿名査読者2名の査読コメントに疑義を投げかける連投ツイートを昨年末にしていた。
谷口氏のツイートを見る限り、この疑義にはもっともな部分もありそうだが、谷口氏の論文本体が公開されているわけではないので、判断しかねる部分もある。
とりあえず、Twitter上の言説レベルで分かるのは、このツイートを火種として、トランスジェンダーの問題にまつわる党派的な争いが(いつものように)起きているということである。
トランスジェンダーにまつわる問題は、非常に複雑な側面があるように思うし、一個人としてどういう働きかけをすれば不幸の最小化に寄与できるのかもあまりよく分かっていない(ので、この問題について、僕は沈黙していることが多い)。
ただ、今回の騒動については自分の出る幕があるように思った。
というのは、
①谷口氏自身に論文を請求し、読んだうえで査読コメントの妥当性を検討している人がなぜかほとんどいない(まあそんなもんなのか……)
②自分は「ジェンダー論」が一つの専門であり、永井均の議論にも触れたことがないわけではないので、論文の内容/査読コメントの意図が少しは理解できそう(あと、個人的に読んでみたいテーマでもあるので、モチベーションは高い)
③(これは後から分かったことだが、)この論文には精神医学にまつわる科学哲学の議論も関わっている。僕はその議論にも比較的詳しいほうなので、その点もコメントできる
というところからである。
よって、ある程度多元的な視点からのコメントができそうなので、それを(主にTwitter上の)言説空間に放り込んでおくことで、この問題がごくわずかであっても良い方向に進むよう寄与できるかもしれないと思った(まあ、言説の行く末なんて予測不能なものだが)。
もちろん僕には僕で立場上の偏りがあり、それは避けられないし、いくら中立的な立場でコメントしようとしても、どうしても「党派的」なものとして回収されてしまうだろう。
自説に都合の良い部分だけを取りあげて溜飲を下げたい人はどうぞ溜飲を下げてくれ。人は意見・政治的構えに偏りがあって当然だと思う。そうして溜飲が下がっちゃうのは当然のことである。
ただし、溜飲が下がった後に「自説に都合の悪い」部分も含めて検討するべきだ、と僕は考えている。それが理性というものだろう。
だから僕は自分の目で谷口氏の論文を読んだうえで、査読コメントが妥当なのか妥当でないのかも含めて、自分の目で確かめてみたい。
個人的に論文データを送ってくれた谷口氏にまずは感謝したい。
査読①のコメントについて
まずは、査読コメントを検討する。
査読コメントには妥当でないと思われる部分と、妥当だと思われる部分の両方があるように思われるので、具体的に指摘していきたい。
しっかり文章として構成するのが面倒なので、ここからは基本、階層化された箇条書きで僕の考えを述べていく。なお、査読コメントの内容を太字で示す。
まず査読①ですが、冒頭から誤っています。本論文は「特にトランスジェンダーの」性自認を扱ったものではありません。むしろ誰にでも存在すると想定されているそれについて、性的身体としての自己理解一般の成立根拠を問うたものであり、論文の前提そのものが読めていないと言わざるをえません。 pic.twitter.com/1cjkQWw5ZG
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) 2023年12月25日
- 2段落目:
- 「性自認」は「性同一性」と同じ意味の言葉であり、性自認は社会のうちで生きていくなかで、さまざまなジェンダー規範に対する反応を通じて形成されていくものだという理解が一般的だと考えられる
- 谷口氏も言うようにこの話は根拠が曖昧
- まあ、たとえば社会で「男性」だとみなされる人が、そうみなされるがゆえに自分を「男性」だと自認していく、みたいなそういうプロセスを指して言っているのだろうなと思う
- なお、「「性自認」を「性同一性」と同じ意味だと考えるのが一般的ではないか」という視点については後で谷口論文の中身を検討するときに触れる
- こうして形成された性自認はさまざまな振る舞いに現われるため、私秘的なものであるとも思えない
- 3段落目:
- 残る問題は「外的な基準を一切持たない自己についての認識はいかにして可能か」というごく一般的な問題のみ
- 谷口論文はとりわけ「性自認」について問うているし、その理路も含めてオリジナリティはあると思う。なので、この言い方には疑問がある
- 4段落目:
- シスジェンダーの性自認については自明視し、トランスジェンダーの性自認のみを特別な説明や根拠が必要なこととみなすことを前提としている
- 谷口論文はそんなことしていないだろう
- 身体が性自認の究極的な根拠だ
- 谷口論文はそんなこと言っていない(はず)
- 5段落目は省略
- 査読①の感想:
- 言っていないことが言っていることになっているという点ではよろしくない査読
- まあでも〝ふつうの査読〟として最低限は機能しているとは思う
査読②のコメントについて
次に査読②ですが、この査読者は本論文を「ジェンダー論」と「自己論」という二つの側面に区別しています。しかし私は「ジェンダー論」の話など何もしておらず、性的身体の成立という、純粋に形而上学的な「自己論」の問題だけを論じています。 pic.twitter.com/x33v2SaJUm
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) 2023年12月25日
同じく査読コメントは太字で示す。
- 査読②の1,2段落目:
- 谷口論文は身体基準とは無関係のところでなされる性自認を有意味なものとして解釈する理路を提示している
- これはそう
- 3段落目:
- 自己論としての新奇性や妥当性があるのか?
- 4,5段落目:
- 谷口論文によれば、自己の性性は「第〇次内包」とはなりえない
- ここは谷口論文第三節の主張の根幹だなあ
- この指摘はそのままトランスの人々やジェンダー論の論者への批判に繋がっている
- 「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる」(谷口論文3ページ)
- 本論文がジェンダー論への学術的な貢献をなしうるためには、上記の論述に関する典拠が必要
- 言い換えるなら、トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張しているという証拠が必要
- 谷口論文の主題を「自己論/ジェンダー論」と分けて考えるという査読者②の見方に従うのであれば、自己論またはジェンダー論への学術的な貢献が必要、ということをこの査読者は言いたいのだろうなとまず思った。だからこそ「ジェンダー論への学術的な貢献」の話をしているのだろう
- 査読②の言うとおりここの「典拠」、「証拠」が必要になってくるとは僕も思うのだが、それは査読②とは違う意味で必要だと思う(詳しくは谷口論文の中身の検討のところで述べる)
- ちなみに、ここでの「言い換え」について谷口氏は「そんなこと私もひと言も言ってない」とツイートしていた。どうだろうか。
該当部分を引用すると、「さて 20 世紀後半からのトランス権利運動の流れの中でトランスジェンダーの脱病理化・脱医療化が進められ、「性同一性」という概念の置かれる文脈も変容する。identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる。重要なのは、それが自己確証に基く「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになってきたということである。」(谷口論文3ページ) - これはすなわち、「性同一性という概念は、自分のことを女/男と思うこと(谷口の定義による「性自認」)に近づいている」ということを意味しているように思われる。そして、当事者やジェンダー論者たちの言説がそのように組織されているということなのだろう。
- よって、基本的には査読者②が言っているとおり(トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張している)に僕には読めるが……
- なお、査読者②が危惧しているのはおそらく、「自分が女/男だと思えば、その人は女/男である」という主張が簡単に成立しすぎてしまうと、トランスヘイト言説における〝陰謀論〟の資源になってしまうからである。「あいつらは好き勝手に自分の性別を名乗っている!」という風に。
- ちなみに、ここでの「言い換え」について谷口氏は「そんなこと私もひと言も言ってない」とツイートしていた。どうだろうか。
- なんにせよ、やはり先行研究からの流れにおいて谷口論文がどう位置づけられるのかが書かれていないと、〝ふつうの査読〟においては落ちそう
- このとき注意すべきなのは、筆者自身がこうした言明〔「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」〕を独自の形而上学的世界図式にもとづいて「私の身体は男であるが、私はもともと女であった」 という言明へと再解釈しているように、たとえ現実に「自分で女と思えば、その人は女なのだ」という発言が認められたとしても、それをただちに筆者の定義する「性自認」概念と同一視する必然性はないということです。それはあくまで省略的な物言いであり、別様に解釈することがつねに可能
- 6段落目:
- トランスの人々がみずからを女性/男性として自認するとき、それは真空状態で生起するわけではなく(…)セックスから派生するジェンダーを割り振られることへの違和感を契機としている場合が多いように思われる
- そうしたこと〔社会におけるジェンダー割り振り経験に基づいた性自認の獲得、という理路〕を捨象して、トランスの人々やジェンダー論の論者たちの「性自認」概念は概念的に未整備であり、筆者自身が哲学的にそれを整備するというスタンスで論文を書くというのは、学術的意義の捏造に近いものがある。それどころか、トランスの人々を非哲学的な存在として指定している点で、本論文は不要な攻撃性を孕んでいるとさえ言える
- 繰り返しになるが、"社会的な"性自認の形成、という理路を捨象せずにちゃんと先行研究として扱ってよ、ということだろう
- 「不要な攻撃性」については後で検討
- 査読②の感想:
- 査読①ほどの根本的な誤読はないと思う
- ただまあ、言っていることの中心は査読①とはあまり変わらないという印象
査読①②総合しての感想
- 谷口論文はほんとうにトランスジェンダーの人々に対して中立的ではなかったり、不要に攻撃的であったりするのか?
- 谷口氏は「哲学」の論文を「ジェンダー論」の人間に査読されたことを問題視しているが……
- 『精神科学』は日本大学における紀要的な位置づけの雑誌なので、リジェクトを聞いたことがないにもかかわらずリジェクトされたという話について
- 紀要的な位置づけなんだとすると、たしかに政治的なリジェクトっぽい
- ただまあ、上で述べてきたように、〝ふつうの査読雑誌〟であれば修正なりリジェクトなりになってしまうぐらいの瑕疵はあるのではとは思う
- 問題は〝ふつうの査読雑誌〟レベルの厳しさをなぜ『精神科学』は課したのだろうかということ
- 編集方針が気になるところ
- 一つ考えられることとして、査読者の選定については実務的にはタイトルとか「はじめに」とかで選定されることになりそう。なので、さすがにキルケゴールの専門家は査読者に選ばれないのでは……
- 「マイナス内包」という入不二の用語もあまり知られていない気がするので(永井均のいる大学なので、むしろ「マイナス内包」のことを知ってる人も多いかもしれないが)、そうなると「性自認」という用語に基づいて、現実的にはジェンダー論の学者が査読するのもやむを得ないかもしれない
- 『精神科学』に投稿された論文のタイトルをザッとCiNiiで見てみたが、基本的には哲学、倫理学、美学あたりの論文が多い感じ。なので、基本的には哲学の人が査読をすると考えても良さそうだが、「性自認」がキーワードになったことで今回はジェンダー論者を査読者に据えたってことなんだろうか
- その結果、ジェンダー論的観点から見て厳しい基準での査読が行われた?
- 余談だが、僕は「ジェンダー論」が一つの専門であるので、「ジェンダー論」の論文を某社会学雑誌に出したことがある。すると、タイトルとキーワードにジェンダー要素が薄かったせいか、「ぜんぜんジェンダー論を分かってないだろ」という人たちに査読をされ、リジェクトされ、嫌な思いをしたことがある
- ところで、学会発表や学会誌を軽視する社会学者への警鐘を慣らしている太郎丸氏のブログは有名だが、
- その太郎丸氏が「査読結果への不満」の話をかなり具体的に書いている論文がある
- 最終的には太郎丸氏は査読制度をよりよいものにしていく方策を考えるべきだという話をしている
- 査読制度は公正であるべきだろう。だが、どうしても限界はあるというか、ある種の偏りを伴うものであるし、投稿者視点では「査読を通すためのゲーム」になってしまう側面もある。とはいえさすがに「ないよりはマシ」だろう。アカデミアの専門性を担保するための代替案が思いつかない以上、現行の査読制度をより「マシ」なものにしていくしかないのではないだろうか
- 以上余談
谷口論文「「マイナス内包」としての性自認の構成」の中身の検討
では、さきほどの査読コメントも踏まえた上で、論文の中身を検討する。やはり本文の内容を太字で書く。
- 2節:
- 「性同一性」と訳される意味でのgender identityは外形的に判断されうるし、操作的定義を試みることも可能。精神医学的実在論を取るならば、科学的探究の結果として脳内にその本質が発見されることもありうる。ゆえに、それを「性自認」と訳すのは誤訳である。(谷口的には)性自認は性同一性の一部である
- そうでなきゃ、self-identified gender identity: SIGIという言葉が訳せなくなる、ということも脚注7で主張されている
- 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
- 脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
- この2節の議論には大きく以下2点の問題があるように思う
- ①「性同一性」概念の取り扱いの問題
- ②性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるのではないか、という議論がすっ飛ばされている
- 以下で順に書いていく
- ①:脚注9で指示されている動画https://youtu.be/b5vnpTwt0cs?si=Qm9PXP2sp8Pn3RXvも含めて、「性同一性」は医学的な概念であることから、「性同一性」は科学的探究の対象であり、科学的探究の末にその本質が発見されうるような概念であると規定されている
- しかしそもそも、精神医学的カテゴリーが(たとえば脳内に)実在するという「精神医学的実在論」はかなり偏った立場であると言わざるを得ない
- 精神疾患を原因別に分類する、よく知られた分類としてたとえば外因性/心因性/内因性というものがある
- ましてや、DSMにおける「適応障害」や「PTSD」といったカテゴリーは、「ストレス因」や「外傷となった出来事」が関わってくるため、脳には還元しきれないカテゴリーである(仮に脳が同じ状態になったとしても、明確な「ストレス因」や「外傷となった出来事」がなければ、そのようには診断されないだろう)
- 精神医学ではこのような社会的なものの関わってくるカテゴリーも念頭に置きながら診断するため、バイオ-サイコ-ソーシャルモデル(生物-心理-社会モデル)に基づく診断が行われている
- 以上より、「性同一性障害」に本質主義的定義を与える(たとえば、脳内の状態がこれこれであれば「性同一性障害」であると定義する)ことが果たして可能なのかと言われると、かなり疑わしい
- また、谷口論文や動画において、DSMでは操作的定義が採用されているということが言われている
- すなわち、客観的に定義が可能な概念であるということが言いたいのだろう
- しかし、アメリカ精神医学会(APA)も認めているように、DSMにおける精神疾患カテゴリー間の境界は曖昧であり、実際、医師ごとの診断にも揺れがある(心理検査の用語で言えば信頼性がない)
- 動画を観た限り、谷口氏は「「性同一性障害」という堅固なカテゴリーであればアイデンティティ・ポリティクスが成立し、それに対して「性自認」という科学探求的内包を持たない・家族的類似でしかないカテゴリーではアイデンティティ・ポリティクスは成立しない」という旨の対比によって「性自認」の概念上の不備を指摘しているが、以上の議論を踏まえれば対比として成立しているかは怪しい
- 医学のカテゴリーであるとはいえ、「性同一性」も「性自認」と同じぐらい本質主義的には定義し難く、運用し難いカテゴリーである
- 実際、現状のDSM-5の「性別違和」の診断基準を抜粋してみると、
-
A その人が体験し、または表出するジェンダーと指定されたジェンダーとの間の著しい不一致が少なくとも6か月、以下のうち2つ以上によって示される。
-
1.その人が体験し、または表出するジェンダーと、第一次および/または第二次性徴(または若年青年においては予想される第二次性徴)との間の著しい不一致。
-
2.その人が体験し、または表出するジェンダーとの間の著しい不一致のために、第一次および/または第二次性徴から解放されたい(または若年青年においては予想される第二次性徴の発達をくい止めたい)という強い欲求。
-
3.反対のジェンダーの第一次および/または第二次性徴を強く望む。
-
6.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)に定型的な感情や反応を持っているという強い確信。
-
- ……という感じで、「欲求」や「確信」に基づいている
- これらは、実務的には精神科医や臨床心理士などがその人の生育歴を聴取することや「振る舞い」から診断することになるだろう
- ついでに言えば、性同一性障害の人が実際に性別再割り当て手術を受ける際には高いハードルがある。イギリスにおいて専門の医師が「門番」の役割を果たしてきた(今でも果たしている)ことがよく知られている。どれぐらい「門番」が機能するのかは恣意的な基準が適用されてきた(たとえば、「パス度」を医師が勝手に判断することで、手術を拒否するなど)
- 以上より、「性同一性」は科学的探究の末に本質主義的な定義が可能なカテゴリーとは到底考えられない
- 実際、現状のDSM-5の「性別違和」の診断基準を抜粋してみると、
- 以上の議論に基づけば、gender identityが「性同一性」とも「性自認」とも訳されうるのは、その二つの概念の間に本質的な差異を設けることが不適切だからだとも解釈しうるし、査読①による「性自認」が「性同一性」と同じ意味の言葉である、という理解もそれほど無理のあることではない
- ついでに、知らない読者もいるだろうから一応触れておくが、gender identityを「性同一性」と訳すのか「性自認」と訳すのかはそれ自体狭い意味での政治的な問題を孕んでいる
- 具体的には、昨年成立した「LGBT理解増進法」では法案の段階で、右派から「性自認」概念を用いることへの(シスジェンダー女性の安全への配慮を根拠とした)批判があり、法案の中の文言が右派への配慮から「性自認」→「性同一性」→「ジェンダー・アイデンティティ」と変化していった経緯がある
- よって、「性自認」概念と「性同一性」概念とを対比させて、前者を不備のあるものと考えるのは、右派による「性自認」バッシングの主張と重なるものである
- 次に、「②性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるという議論がすっ飛ばされている」について。まずは谷口論文の該当部分をもう一度貼る
- 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
- +脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
- これらの話については論文としては文献を示すぐらいでもよいので、(査読者②も言ってるけど)典拠が必要だろう。典拠を示さずとも、もう少し議論が必要だろう
- というのも、トランスジェンダーが第二次内包を持たない「雑多な状態像の寄せ集め」である〔これは、「家族的類似」に基づいたものであると言い換えてもよいだろう〕と脚注9で言っているんだから、何に基づいて性自認が成立しているのかを考えると、まずは社会における経験が累積していくことで成立していくと考えるのが普通では?
- しかし、その議論はすっ飛ばされ、性自認は自己確証に基づく「一人称特権」を伴うものとして、すなわち私秘的なものとして(第〇次内包またはマイナス内包として構成されるものとして)扱われるというスジで議論が展開されていく
- 3節では(背理法的な理路で)性自認は第〇次内包としては構成できないという話になり、そこから4節~6節では性自認はマイナス内包として構成できるという主張に辿りつくように議論は進んでいく
- けどそもそも、「性自認は社会的経験の累積の結果として構成される」という話がすっ飛ばされているし、2節の議論だけでは不十分だろう
- これは永井や入不二の用語法でいくなら、 「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」説と考えることもできるかもしれない
- だがこれに対しては、第二次内包(科学探求的内包)による逆襲も、第〇次内包(文脈独立的な内包ないし、内面孤立的な内包)による逆襲もあり得ないと考えられる(2節・3節参照)。それを「第一次内包」と呼んでよいのか?
- 谷口氏が3節で「性を自認するとはどういうことなのか、わからない」という問題に触れているように、「感じ」を伴わないものは定義上「第一次内包」と呼んではいけないのではないか?(そのへん、チャーマーズ=永井用語の使い方を僕は厳密には分かってない)
- ということで、以下は「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」という言葉遣いはやめて、「社会的経験の累積の結果としての性自認」という言葉遣いにする
- 査読論文としては、2節で先行研究レビューをして、査読①②で指摘されていた「社会的経験の累積の結果としての性自認」説を乗り越えておくべきだと思われる
- 「性自認は社会的経験の累積の結果として構成できる」という主張では説明しきれない事態もきっとあるだろうからそれを指摘すればよい(筋が良いかは分からないが、たとえば、社会的な経験が同定できない状況でなんとなく「私は男性である」と思う、ということもありうるだろう)
- 1節の永井の発言も踏まえると、谷口的には「社会的経験の累積の結果としての性自認」は「ジェンダー論」の話であり、「哲学」の話ではないのかもしれないけど……
- ちなみに余談だが、「社会的経験の累積の結果としての性自認」も脱病理化・脱医療化運動の流れで捉えることが可能である。専門知から離れた当事者主導で作られていくカテゴリーがむしろ、アイデンティティ・ポリティクスとして有用でありうる事例はいくらでもある(アダルトチルドレン概念やニューロダイバーシティ運動、当事者研究など)
- また、専門知を利用するかたちで当事者の概念運用が活性化するパターンもある(cf.前田・西村 2018 『遺伝学の知識と病いの語り』)
- 必ずしも「当事者」に同一化するのではなく、「当事者」カテゴリーに対して交渉的な立場を持つという概念運用の方法もありうる(cf.貴戸理恵 2022『「生きづらさ」を聴く』)
- なので、個人的には家族的類似に基づくカテゴリーによってある種のアイデンティティ・ポリティクスをやってもいいし、成功しうるでしょとは思ってる
- 以上、余談
- 3節:
- 4ページ5行目「というのも、素朴な仕方で立てられた「性自認」は、哲学的に構成不可能だからである」
- ウィトゲンシュタインの言う「私的言語」としての性自認;永井均の言う第〇次内包(観察可能な兆候なしで当人に、「通時的他者としての自分」と記憶によって繋がっているがゆえに、判別可能なもの)としての性自認
- 「女性(男性)」は内観における感覚的対象を名指す語ではないので、第〇次内包がないという主張。例として、子供が「男性」という概念を習得する場面が挙げられている
- これはなるほど。「女性(男性)」が感覚語ではなく、すなわち第〇次内包がないことを示す例としてよく分かるし説得される
- 心を自由に入れ替えることができる(複数の身体を渡り歩ける)と仮定して、「女」の身体になったときにだけ感じる特異な感覚や体験を同定できれば、それが「女」であると言えるかもしれない
- しかし、実際には心を自由に入れ替えることはできないので、特異な体験があったとしてもそれを「女」としては同定することが権利上不可能。つまり、ここでの「性自認」は有意味な信念として言語運用できない
- 4節:
- キルケゴールの(言語哲学的)解釈に基づき、性自認の発生について考えていく
- 面白い。脚注14でも言われているが、僕も真っ先にラカンを思い出した。バトラーもジェンダー・メランコリー論で同じ問題を違った角度から論じていると僕は理解している
- 僕はキルケゴールを読んだことないので、残念ながら内在的なコメントはできない
- とりあえず脚注14で指示されている上野論文は読んでみたが、これは(上野は無内包の話に繋げているが)マイナス内包の話に繋げる方がしっくりくるかも? その意味でも谷口氏が6節でマイナス内包を導入するのも分かるなあと
- というのも、マイナス内包は認識論(意味論)が成立する以前の存在論として構成されているものなわけだが、これ自体非常に精神分析的な議論だと思う。フロイトのトラウマ論では、幼少期に何かしらの一撃(ラカンが言うところの原初のシニフィアン)があり、それは当初は意味づけられていないわけだけど、後から言語的に解釈されることで症状が現われてしまうというスジだから(これはフロイトの用語では「事後性」という)。
- 「ここでいきなり読みを入れておけば、これは各人が「私である」という極めて特殊なありかたをした類例のない存在であると同時に、それが客観的世界へ錨泊する実在として「谷口 一平という人物である」といった仕方で人類史に登場してきもする、という二重性をもったありかたをして在るという事実の、キルケゴールによる言い表わしである、と筆者は解釈する」(6ページ)
- 5節:
- 原罪前性自認成立説と原罪後性自認成立説
- 不可逆な一撃として言語世界への参入を捉える図式はやはりラカンを思い出す
- 永井的な話では、そもそもは現象的な〈私〉しかないのに、「自分」がそれぞれの人間にあるものとして一般化して(人称化して)語れてしまうようになることが、言語による作用だという話なので、その理路が5節の展開においても活かされているのだと思われる
- 原罪(言語世界への参入)後であれば、言語が使えるので、性的主体の自己規定(性自認)は可能である
- というスジで合ってるよね?
- ただし、それは認識論的な話であり、存在論的には「原罪前からもともとそうであったもの」として性自認は成立したと谷口は言う
- 「しかし原罪後も、「私」が依然として「世界」でもあることに注意しよう。それならば、性的身体として規定された谷口一平は、世界全体を内包とする概念としても「男」を獲得している、と考えることはできないか?」(11ページ)の意味が分からなかったので、ここの理路が僕には追えない
- この事態を考える際に「マイナス内包」という見方が適切
- 6節:
- 「マイナス内包」としての性自認の構成
- ①現代科学において物神化された超越論的統覚としての、すなわち世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」に注目
- 「脳」を召喚する理由は、「性自認」という語りの体制それ自体が現代科学の産物なのではないかという解釈ゆえ
- これ自体、かなり面白い仮説だと思う
- 「脳」を召喚する理由は、「性自認」という語りの体制それ自体が現代科学の産物なのではないかという解釈ゆえ
- ②「中心化された可能世界」というコンセプト
- 世界の内容的事実はそのままで、その世界が「男」から開かれている可能世界であると考える場合と「女」から開かれている可能世界であると考える場合とを区別する
- これは言語(に組み込まれた様相化装置)が可能にしている事態
- ①②を使って、性自認はマイナス内包として構成される
- ここ以降の議論は正直難しくてよく分からなかった
- 論文全体の構成についての感想:
- 最後の方がムズカしかったのでコメントに窮しているが、最後に世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」が召喚される以上、2節では精神医学的実在論の立場に立たざるを得ない感じなのかもなあとは思った
- とはいえ、精神医学の科学哲学を踏まえたうえで、僕はやはり「性同一性」を科学的なカテゴリーとして擁護するスジは厳しいと思っている
- 「マイナス内包」を用いて議論を展開することについて一般的なコメントをするならば、これ自体一時代前の現代思想的な議論と相性いいんだろうなと思った
- ただまあやはり、構築主義なり「社会的経験の累積の結果としての性自認」と多少なりとも対決しないことには、この論文の射程が分かりにくく、もったいないなとは少し思った
- この考え方自体、アカデミアに毒されすぎなのかもしれんが
精神分析的読みのススメ・前編――エヴァンゲリオンTV版を例として
この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー18日目の記事です(遅くなってすみません)。
エロゲーギャルゲーでは定番の『主人公に盲目的に好意を抱き続ける女の子』って、実際は白痴や狂気と紙一重で、その違和感を持たれないためには、主人公が女の子に好かれるための理由が担保されるべきだけど、『モテる理由』を明確化すると、今度は分身たるプレイヤーと主人公が乖離してしまう。
— 涼元悠一 (@SuzumotoYuuichi) 2022年7月22日
なのでKanonに初めて触れた時、主人公がヒロイン(たち)に好かれる理由を『忘れていた幼少時』に置くのは賢いやり方だと思った。覚えてない主人公が徐々に思い出していく=プレイヤーにはもともとなかったものをストーリーを通じて『思い出させる』わけで。まあこれもご都合主義と紙一重ではあるけど。
— 涼元悠一 (@SuzumotoYuuichi) 2022年7月22日
半年ほど前にこんなツイートが(主にアラサーアラフォーに?)話題になっていた。Kanonって今も好かれているんだなあと感慨深い気持ちになった。
このツイートとはあまり関係ないが、「忘れていた幼少期」がストーリーにおける重要な「謎」になっているという作品展開はゼロ年代によく見られたものだ(たとえば赤松健の『ラブひな』とか)。
幼少期こそが人間について知るための重要な「謎」である、というのは「精神分析」と呼ばれる学問に特有の視点である。とりわけ、精神分析の創始者であるフロイトはそう考えていた。
だが、2010年代に入り、精神分析の枠組みがすっかり流行らなくなったのと並行して、「忘れていた幼少期の謎が解き明かされていく」というストーリーも流行らなくなったように思う。
現代は即物的な情動が社会を支配するようになった(宮台真司風に言えば「感情が劣化した」)。具体的には、COVID-19が流行ればマスメディアもソーシャルメディアも過剰に不安を煽り、インターネット広告が人々のコンプレックスを刺激し、ソシャゲではガチャをまわすことで射幸心に慣らされ、思考を停止して押される「いいね」「リツイート」が“共感”を集める時代である。
今や(少なくとも若い世代の)人々の手元には常にスマホがあることで、これらの(光や音や「パワーワード」による)情動への情報刺激から逃れることは難しい。もっと言えば、メディアからの情報刺激が過多な現代社会において、休むことなく無理にテンションを保とうとすれば、合法的な神経刺激薬であるカフェインとアルコールに頼ることになってしまう。このこと自体も資本主義のロジックに飲み込まれていることは、「エナジードリンク」と「ストロング缶」が象徴している。
まるで動物の群れを操っているかのように即物的に情動へとはたらきかけてくるこの現代社会において、“人間”としての幸福を追求するためにはスマホ・ソーシャルメディア以前の時代の視点をなんらかのかたちで再導入していかざるを得まい。そこでゼロ年代だ。
「ゼロ年代の知」である精神分析の視点から作品を読むことができるようになること。
これだけでもだいぶ人間的に生きることに近づくはずだ。
さあ、精神分析的読みの世界へ足を踏み入れよう。
---
起源としてのエヴァンゲリオン
ゼロ年代研究会は1995~2011年を「長いゼロ年代」と定義し、重視している。その一つの起源としてやはり重要な作品はエヴァンゲリオンである。
エヴァの庵野秀明監督はエヴァを作る際に精神分析関連の本を読み漁っていたと言うが、それがわかりやすく反映されているのは親子関係、広く言えば大人と子どもの関係だろう。
フロイトの精神分析には「エディプス・コンプレックス」という根本的な仮説がある。異性の親への愛と、それを阻む同性の親への憎しみからなる欲望の複合体があり、これらは結局のところ無意識へと抑圧される。その抑圧のされ方(子と親との関係性)次第で、人間の欲望はその内容や対象を変えていくという考え方でもある。
この枠組みは実のところ、かたちを変えて一般に普及している。
たとえば、フロイトのこの枠組みを参考にしたジョン・ボウルビィの「愛着理論」は、親からの愛を得られなかった子どもが、成人してからも対人関係や自己肯定感、性格などにおいて問題が生じるという知識として、「常識」化している(ただし「親からの愛」だけで人の性格などの大部分を説明できるかというとそうでもないので、これは偏見の一種でもある)。
エヴァでもまた、このような枠組みが参考にされているのだろう。親との関係になんらかの難を抱えている「チルドレン」たち(これは当時流行していた「アダルトチルドレン」をもじった言葉だろう)について見てみると、シンジは引っ込み思案であり、レイは感情抑制的であり、アスカは短気である。また大人の側も、ミサトは押しつけがましく、ゲンドウは(主にシンジに対して)冷淡である。
そしてエヴァでは、このようなキャラクターたちによる様々なディスコミュニケーションや精神的葛藤が描かれるのである。
親子関係に限らず、このようなキャラクターたちの病理的な側面は、精神分析的には「症状」として読解することができる。
症状は、フロイトの精神分析においては幼少期の「性生活」の影響によって生じるとされている。この仮説が、精神分析がバッシングを受ける大きな理由にもなっているのだが、その理路はいわゆる「トラウマ」がどのように発症するのかを考える上で重要なため、ここで紹介しておこう。
症状とは妥協された欲望の成就である
多くの成人において「性器」を中心に組織されていく性欲動は、幼児期にも「幼児性欲」というかたちで存在しているとフロイトは主張している。
おっぱいを吸うことで得られる快感(吸えないことで得られない不快感)に特異性のある時期が「口唇期」、トイレトレーニングの我慢や排泄がうまくいってほめられる快感(うまくいかないことで怒られる不快感)に特異性のある時期が「肛門期」、男性性器が重視される時期が「男根期」(たとえば幼稚園児が性器いじりをするのはよく言われることである)、といった区分である。
その後、自己の身体よりも外部の対象に対する愛情が重視されていく「潜伏期」を経て、その後第二次性徴期を境に「性器期」を迎え、異性との性器結合を目指すようになる。この時期以降の性欲を「性器性欲」と呼ぶ。
「口唇期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期」という、この壮大な性的発達論仮説は、例外も多いうえに幼児に「幼児性欲」があると主張しているため、世間にはなかなか受け入れられない。たしかにいろいろと反論は可能だろう。
しかし、口唇や肛門が他の部位と比べてしばしば明確な性感帯になることを考えれば、少なくともそこになんらかの基盤があると考えるのは自然なことではないだろうか。
そのうえで、もう二つ、重要な精神分析用語を導入しておこう。
それぞれの発達段階で十分に満足を得られなかった、または非常に満足を得た記憶がある場合には、成人してから強い精神的ショックなどがあったときにその段階へと行動原理が立ち返ることがある。これを「退行」と呼ぶ。
また、ある発達段階への(無意識的なものも含む)こだわりや執着を「固着」と呼ぶ。たとえば、口唇期固着のある人が退行した際には「爪を噛むクセ」が出るかもしれないし、肛門期固着のある人が退行した際には著しい我慢、または解放をするかもしれない。
以上のような性的発達段階論を受け入れるのにはだいぶ難があるかもしれない。しかし、以上の理論をいわゆる「トラウマ」論として抽出するならば、次のことを理解しておけばよい。
――ある人が過去になんらかの強度の高い体験をしたとする。その体験が幼い時期のものであることや、その体験の衝撃の強さゆえに、体験を十分に思い出すことができない状態にあるとしよう。そして、その体験にまつわる「退行」的な欲望がうまく満たせない葛藤状態になったときに、その体験はトラウマ(心的外傷)として「固着」することになる。言わば、トラウマ的な体験の記憶が無意識のなかに鬱積、沈殿してしまうというイメージである。
過去のトラウマにまつわる欲望をうまく満たせないとき、人は精神的な「症状」という代替的なかたちで欲望を満たそうとする。「症状」とは言わば、妥協された欲望の成就のことである。このように解釈することが精神分析の特異性だ。
エヴァンゲリオンはシンジが見た夢である
以上のような精神分析の視点で、エヴァンゲリオンTV版について解釈してみよう。
エヴァのTV版は最終的には主人公のシンジの内面がひたすらに描かれ、シンジの内面の中での気づきによってこれまでの問題がすべて解決したかのように終わる。
これを踏み込んで解釈すれば、これまで20話以上描かれてきた使徒の襲来やエヴァでの戦闘、あるいは父や女性たちとの人間関係的な葛藤は、結局のところシンジの内面の葛藤を象徴的に表現したものでしかなかったとして見ることが可能である。すなわち、使徒との戦闘も、人間関係的な葛藤も、シンジの「症状」だったのである、と。
あるいは、こう言った方が分かりやすいだろう。これらは、シンジの「夢」だったのだ、と。
フロイトは、夢は無意識へと至る王道である、と言った。そして、私たちが見る夢もまた、欲望の成就であるとフロイトは言っている。しかし、夢は明らかに、直接的な欲望成就ではない。私たちの見る夢はしばしば「意味不明」であるからだ。
ここでの欲望は、さまざまな検閲を被り、加工されたかたちで夢に表現される。夢もまた、「症状」と同様に、妥協形成の産物なのだ。だが、「意味不明」である症状も夢も、なんらかのかたちで無意識の欲望を表現しているはずなのだ。その欲望とはなんなのか。欲望はどのように葛藤し、どのように症状や夢を作ってしまったのか。これらの構造を解釈していくこと。これが、精神分析である。

以上のことを図にするとこんな感じである。このように、無意識の欲望はなんらかの検閲などを受けて葛藤し、妥協されたかたちでしか現れてこない。
精神分析ではこの矢印を逆に辿る。すなわち、夢や症状といったテクストを手がかりに、無意識の欲望を解読していくわけである。
さて、エヴァンゲリオンの24話までの物語がシンジの夢だったとするならば、精神分析の視座からすれば、そこにシンジの欲望が表現されているはずだ。それも、直接的ではないかたちで。
ここからの解釈はいろいろありうるが、一つ陳腐な解釈を述べておこう。
使徒はATフィールドという奇妙な壁を張りながらエヴァと戦い、終盤にはエヴァ操縦者の精神へとアクセスするようになっていった。
これをたとえば、「他者との壁を取り払い、繋がり・分かり合いたい」というシンジの欲望の象徴的な表現であると解釈することはできるであろう。
---
さて、以上で精神分析的読みのだいたいの道具立ては揃った。これらを元に、次回は代表的なゼロ年代エロゲである『ONE』の瑞佳ルートと『Kanon』のあゆルートを読み解いていこう。
後編に続く。
(ホリィ・セン)
ホリィ・センが20代頃にしてきた恋愛の総括
この記事は「サークルクラッシュ」研究所アドベントカレンダー5日目の記事です。
2年前のサークラアドベントカレンダー
で書いたように、僕は好きな人と「友人関係のような恋愛関係」を築いた。この関係は概ね今も継続していると言ってよい。そのため、自分の精神に動揺が走るような"事件"が起きることもなく、僕の心は平穏な幸福に包まれている。
思えばそれまでの恋愛は青年期らしいというか、動揺続きの疾風怒濤なものだったので、しばしば僕は自分の苦しみや考えたことなどを文章に書き綴って(書き殴って)きた。
これまでの恋愛に比べると、今はとても落ち着いているし、2年前に「恋愛からの卒業」と書いたのは間違っていなかったと思う。
ここに至るまでの「20代頃の恋愛」を、いま一度大局的な視点から軽く語り直しておいてもよいかと思った。すなわち個別具体的な恋愛の中身について云々するのではなくて、僕がどういう態度で恋愛に臨んでいたかの変遷というかたちで今回は書いてみようと思う。
はじめての交際
思えば、初めて人と「付き合う」ということをしたのは約14年前、17歳のときのことだった。滋賀県の高校生の演劇部の人たちが集まる合宿で知り合った同い年の女の子のことがどうも気にかかり、友人にもその子のことを話していたら「好きなのでは」と言われた。
僕は小学生とかのときから同級生の女子を意識するタイプだったし、どういうわけか“女”というものに対して常に幻想を抱いてきたように思う。
また、今から振り返れば、たびたび教室などで話題になる「好きな人」という概念に固執してしまうタイプだった。一度囚われるとなかなかそこから自由になれないタイプであって、中学生のときは好きになった人に告白してみたこともある(振られた)。
演劇で知り合った子については、メールや年賀状などでコミュニケーションを取っていた。彼女は当時流行していたケータイサイトをやっていて、ケータイブログなどを書いていたこともあって、電子上でその動向を追えていたというのも好きになるキッカケだったのかもしれない。合宿でメールアドレスを交換した後に特に連絡を取らなければ、関係が進展することはなかっただろう。
そんな感じで幸運が重なり、告白したら実ったのだが、他校の生徒ということもあって普段の接触はなかった。「付き合う」が成立したその後に、どのように関係が進展していくのかということが具体的にイメージできていなかった。メールのやりとりをするのは楽しかったのだが。
恥ずかしからずに同級生とかに相談しておけばよかったのかもしれないが、何回か会って、特に関係も進展しないまま、それこそ手も繋ぐこともないまま振られてしまった(大学1年生の夏のことだったと思う。高校2年の2月から付き合ったので、期間だけで言えば1年半も付き合っていたことになる)。
僕の中ではおそらく「彼女がいる」ということに観念的に満足してしまっていたように思う。そこには実質が伴っていなかった。
日常生活において特に接点があるわけでもない関係性においては、自分で主体的に相手とのイベントを作った方が良かったのだろうなと今では思う。まあ、当時はそういうのがムリだった。
ネット恋愛期
それからはとある女性声優にガチ恋してしまい、3年ぐらいはその追っかけをしていた。それは今から考えると恋愛の代替物として機能していたように思う。
ただ僕は割と寂しがりな方なので、大学でも人と交流しようとしていた。だが僕はシャイというか、自分を何者として呈示すればよいものか分からなかったときにはとりわけ、人に話しかけることが苦手だった。
それゆえに、なんらかの文脈を共有している特定の人としか関係を作れないタイプだった。理系だったのもあり交友関係は限定されており、人間関係は所属していたオタク系サークルが主だった。必然的に周囲の人間はほとんど男だった。
それにより、僕にとって女性との交友の主戦場は小中学校の頃から通暁しているインターネット上、ということになった。高校のときに演劇をやっていたり、声優オタクだったりした流れで、「こえ部」という音声投稿サイトに登録していた。そこには女性がそれなりにいて、とりわけ「こえ部LIVE!」という不特定多数の人が会話できるサービス(今で言うTwitterのスペースみたいなの)で会話していた。
ただし、3人以上での会話が苦手だった。文脈の共有できている相手ならまだしも、見知らぬ人と「雑談」的なコミュニケーションを継起していくことの難しさを感じた。
当時の僕は自分の会話できなさを「内輪ノリ」への嫌悪として理解していた。自分で「ノリ」を作り出せる人や、相手が作った「ノリ」に入り込める人が会話において有利だということだ。
そんな苦手さを感じつつも仲良くなった女性はいて、一人とはリアルで会えたので好きだと言ってみたものの、恋愛関係になることはなかった。
「こえ部」でウダウダやっていていろんな人の話を聞いている間に別のサービスを知ることになる。たしか当時小学6年生の子が教えてくれたような記憶があるが、Skypeちゃんねるというものだ。
LINEが十分に普及していなかった頃に流行していた音声通話サービスであるSkypeのアカウントを掲示板に書き込み、誰かと会話をするというものである。これはこえ部LIVE!と違って一対一で通話できるので、僕にも馴染みやすかったし、Skypeちゃんねるに漂う場末的な雰囲気ゆえか、性愛的な関係に進展することが割と容易だった。
これについてはサークラ会誌Vol.5で詳しく書いたので繰り返さないが、そこで毎晩のように女性と話したり、いわゆる「エロイプ」というテレホンセックス的なものをしていたりした。しまいには女性と出会い、いわゆる「オフパコ」をすることになる。女性への執着が強かった僕は、そこで初めて女性とセックスをするに至った。2013年3月のことだった。
このときは自分が童貞じゃなくなることは本当に良いことなのだろうか、といったやはり観念的な思考に囚われていた。中学生の頃から僕はまとまって考えたことはなんでもブログなどに書く性分だったので、その混乱ぶりについては当時のブログ記事(をこのブログに移したもの)
私がなぜオフパコによって童貞喪失したのかについて - 落ち着けMONOLOG
に記録してある。怪文書(というか怪図表)もいいところだし、そのときの情感を自分でも思い出すことが難しい。
自分本位な恋愛
リアルにおいて女性との性愛的な関わりがなかったためにどうにかネットでそれを実現していた僕だったが、サークルクラッシュ同好会(以下サー同と表記)を2012年に立ち上げ、翌年の2013年4月にまじめに新歓を始めてからはおそらく人生で初めて多数の女性と関わるようになった。
余談だが、2012年のあまり発信できていないときの新歓にも1人だけ他大学から女性が来ており、当時はあまりにも少数で行われていた活動を手伝ってくれていた。後になってその女性には彼氏ができたのだが、そのときにその女性はワンチャン自分とセックスすることを狙っている側面もあったのだと話していた。
曰く、自分が処女であることにコンプレックスを抱いていたとか。「なんだそりゃ」と思ったが、今にして考えると、恋愛の"可能性"は自分が認識していた以上に無数にあったものなのだろう。『やれたかも委員会』的な世界観である。
それはともかく、2013年のサー同の新歓で入ってきた他大学の女性と急に親密になった。やはりSkypeで長々と通話することで仲良くなったのだった。
相手には彼氏がいたらしいのだが、僕は相手に好きだと言ったところ付き合っているような関係になった。今思うと「付き合っていた」のかちょっと疑問なのだが。なんにせよイチャイチャしていたり性的な関係を持っていたりはしたので、自分としては完全に舞い上がっていたし実感としては「初めてまともに彼女ができた」気分だった。そのときの精神状態はちょっとおかしかったと思う。
詳しくは省略するが1ヶ月半後に酷い別れ方することになる。主観的にはあまりにも濃密な時間を過ごしていた気がするので、体感的には1年ぐらい付き合っていた感じなのだが。
恥ずかしい話、別れた後に僕は相手を非難する酷い発言をいろいろとしていた。だが、冷静に考えるともう少し相手を楽しませるというか、テイクだけでなくギブがあるべきだったんじゃないかと思う。要はその関係性において、相手が何を考えているかとか、自分の行動によって相手がどう感じるだろうかといった想像がうまくできていなかった。僕はとにかく自分本位に考え、自分にとっての快楽に邁進していたのである。
別れてしまったものの、周囲の人々との相談を繰り返すうちに、かなり自分の中で他者性が芽生えてきた。要は自分が取る行動が、相手にとってどのように映るのか、どのように評価されるのかということをかなり具体的に想像できるようになったように思う。
再度、ネット恋愛
とはいったものの翌年の2014年にはまたやらかすことになる。大学院試験に落ちてしまった僕は、大学は卒業していたので身分がない状態だった。勉強はしていたものの暇だったので、やはりSkype掲示板などに明け暮れていた。
そして、サー同が軌道に乗っていたことで、僕に興味を示した女性がTwitterを通じて話しかけてくるということが何回かあった。それで話しかけてきた女性と親密になったのだが、通話するうちに僕はガチ恋してしまうことになる。
その女性とのコミュニケーションにおいては、お互いの内面をかなり深いところまで開示することを意識的にやっていた感じがあり、そのせいでおそらく僕も自分の内面の脆い部分まで開示してしまったのだと思う。最終的には相手に対する好意を伝えるために異常なポエム文章を書き上げてしまい、恐怖を与えてしまったのか音信不通になった。
余談だが、その後にその女性と交際していたと思われる男性とはTwitterで相互フォローだったのだが、あるときにブロックされた。
その他にも、急にTwitter経由で連絡先を交換して、急に付き合おうと言ってきた女性がいた。僕は当時やはり女性に飢えていたし、好奇心もあってあまり考えずにOKしたのだった。
その人とは毎日5時間ぐらい通話していたと記憶しているが、心理的な距離は1センチメートルぐらいしか埋まらなかったってやつかもしれない。8~10月ぐらいに付き合って、大学院試験で忙しかった1月ぐらいに別れた記憶がある。
相手に合わせる恋愛、自分を変える恋愛
というわけで、2010年代前半の恋愛はかなり観念的なことに終始していた。「付き合う」まで進むことはけっこうあったが、そこから先がうまくいかないというか、大まかにいって「関係の維持」をどうしていくかという問題が僕の中から抜け落ちていたのだろう。
そろそろ具体的な情報を書くのが疲れてきたのでもうちょっと省略するが、2016年に大きな恋愛があった。これは約半年付き合った。
この恋愛において「相手に合わせる」ということをそれなりにちゃんと始めるようになり、「関係の維持」にしっかり取り組み始めたような気もするが、それはかなり歪なかたちだった。
どのように歪かと言うと、「普通になりたい」、「カルチャー教養を得たい」、「自分を変えたい」といった願望がそこに大きく関わっていたことである。
僕は大学入学当初から周囲に対するカルチャー・コンプレックスが強かったのだが、彼女に対してもそれを強く感じていた。彼女は東京的な(?)カルチャーにそれまでの人生でいろいろと触れてきた人で、多趣味な人だった。
だから彼女が「良い」と言っているものを摂取することで、自分もカルチャーに染まっていけるんじゃないか、今の無教養でみすぼらしい自分を脱して変われるんじゃないか、みたいなやや強迫的な観念があった。
この記事
はそんな彼女と付き合う最中で書いたものであり、彼女に見せようと思って書いた記憶がある。この記事は3月初めに書かれているが、付き合い始めたのはたしか年初ぐらいだった。こういう記事を書いて見せている時点で彼女との関係は崩壊し始めていたように思う。
もちろん「関係の維持」を目指す意味でも「相手に合わせる」ということはしていたが、それはすなわち「相手の言動に対して嫌なことを嫌だと言えない」ということだった。僕は彼女の言動を間違っているとは思えず、怒りなどの感情が抑圧されていた。我慢の限界を超えた際には爆発していたというか癇癪を起こし、それでも彼女にぶつけるのはおかしいと思っていたから、叫んだり床を殴ったりしていた。当時シェアハウスに一緒に住んでいた人たちには申し訳なかった。
彼女の気持ちが僕から離れていくことで、「別れたくない」がゆえにより「相手に合わせなきゃいけない」という感覚が強まり、更なる悪循環に突入していたようにも思う。今にして思うと相手はだいぶ僕に対して酷いことも言っていたのだが、それは僕が招いたことでもあった。
「自分に持っていないものを彼女は持っている」から、彼女のことが好きなのだという説明を当時はよくしていたが、そのせいである種の権力性が生じていたというか、「自分よりも相手の方がモノを知っているし、相手の方が上」という感覚で彼女と接してしまっていたのだと思う。要するに僕は舐められていたのだ。
自分の中の「劣等コンプレックス」と「恋愛関係の維持」の問題がないまぜになり、結局は振られてしまったわけなのだが、別れた後もだいぶ引きずった記憶がある。そこには「彼女が僕を変えてくれるはずだ」という絶望的な幻想があった。
「彼女のメガネに適う自分になって、もう一度彼女と付き合うんだ」という妄想をよくしていた記憶がある。
普通で対等な恋愛
ついつい感傷的なことまで書いてしまったが、別れてから友人に相談したり文章を書いたりする中で、上に書いたような歪な関係についても自覚していくようになった。
心のオアシス(?)であるSkype掲示板に還っていった僕は2017年、またもや女性と親密になる。ケンカなどはあまりせずにイイ感じの関係だったのだが、遠距離であることが問題だった。
「付き合う」ことになり、通話はよくしていたが、東京まで会いに行くとドタキャンされることが何度もあった。さらに、ある時期からあまり相手が連絡を取ってくれなくなった。この間に彼女の中にどういう心情の変化があったのは分からない。
それでもたまに喋ってみるとちゃんと好意を表現してくれる人だった。けっこう演技派だったのかもしれない。
僕と別れた1年後ぐらいに彼女が結婚したのを聞いてびっくりした。やはり、僕と関係を持っていると同時に他の男性とも関係を持っていたのかもなあと。
翌年、2018年1月の文学フリマ京都にたまたま来ていた女性がサークラ会誌を読んで興味を持ってくれて、僕にコンタクトを取ってくれた。
その女性と会ったところ意気投合し、彼女とはあまり連絡が取れなくなっていたのもあったので僕は「乗り換える」ことにしたのだった。
詳しくはサークラ会誌Vol.8参照だが、その彼女とは2019年8月ぐらいまで付き合っていた。幸福にも(?)彼女は恋愛の儀式的側面を重視する人だったので、1年半の間に、同棲を始めるというイベントや、誕生日というイベント、一緒に旅行に行くというイベントなどいろいろやったし、相手の親と会うとかもあった。
そういうのを通ってこなかった僕はかなり勉強させていただいた。というか、それまでの僕の恋愛関係においていかに世間的な意味での「恋愛」をしていなかったかが思い知らされた。積年の劣等コンプレックスが解消されたような気分だった。
むろん、そういう「普通の恋愛」をしなければいけないわけではないのだが、ここで「普通の恋愛」を体験したおかげで、ときに「普通じゃない恋愛」を主体的に選択できるような基盤ができたように思う。
先ほど挙げた「関係の維持」問題についても改善が見られた。というのもまず、僕は自分のデリカシーのない部分もだいぶ分かるようになったからである。自覚できたところで改善しない側面もあったのだが、十分に自覚していなかったときに比べると大きな進歩である。
同時に、彼女との付き合いにおいては初めて「最悪別れてもいい」と思いながら付き合っていたのも関係の維持においては重要だった。自分にとってどうしても付き合いきれないことがあったら別れる、という選択肢を自分で取っても良い、という主体性が芽生えていたのだ。
これについては彼女が(少なくとも半年ぐらいは)僕のことをちゃんと好きでいてくれたのが大きかったのかもしれない。「恋愛は惚れた方が負け」ということはよく言われるが、それは惚れている側ばかり相手に譲歩するような権力関係が生じてしまうからだと思う。このような権力差は彼女との間になかったように思う。
結果として彼女とはたびたび「ケンカ」をしていたのだが、対等なケンカだったように思うし、その点は良かった。ただ、あまりにもエスカレートして落としどころが分からなくなることも割とあったのは苦しかった。
別れてみて、ケンカの原因について全体として考えてみたときに、自分と相手の相性の悪さが浮き彫りになったところはある。加点法的な意味では笑いの趣味などが合うところがありそれでお互い好きだったのだが、減点法的に考えると、たとえば清潔さの感覚などで相性が合わないところはけっこうあった。
特に問題だったのは、彼女と僕の周囲の友人があまり仲良くできないところだった。これは彼女に問題があるというよりも、彼女を自分が所属している界隈の「外」から連れてきていることによって必然的に生じる問題であった。
ここで得た教訓から自分がどのように考えるようになったかについては、冒頭に貼った2年前の記事に書いたとおりである。要は「友だち」を自分の関係の中心に据えるようになったということである。
まとめ――具体化・リベラル化した恋愛のその先は?
まとめよう。2009~2015年頃の僕はまだ恋愛を観念論的に捉えていたように思う。すなわち、「付き合う」という観念ばかりに自己本位に固執し、自分の行動が相手にどのように評価されるのかをあまり想像できなかった。また、「付き合う」という際には具体的に二人で何をするのかを具体化できなかった。そのこともあり、「関係の維持」をしていくことに意識が向かなかった、ということである。
2016年頃になってようやく恋愛関係は具体的なものになっていったが、「今の自分を変えたい」という欲望が相手に対して投影されることで、相手が自分よりも権力的に優位に立つ恋愛関係を作ってしまっていた。具体的には相手の言動を絶対視してしまうことで、「嫌なことを嫌と言えない」状況になってしまっていた(付き合っている間は、嫌だということを意識することすらできていなかった)。
2018年頃からはより恋愛関係が具体化し、「付き合う」ということの標準的なプロトコルを強く参照した恋愛を経験できた。また、対等な関係性を築くことを重視するようになった。
今では、恋愛対象を減点法的な基準で選択をすることや、自分の周囲の友人と仲良くできる人を選ぶこと、さらには必ずしも「普通の恋愛」にこだわらずに自分にフィットした関係をカスタマイズしていくことも模索するようになった。
こうやって振り返ってみると、2016年以降の僕の恋愛は「リベラル化」の過程だったと言える。今の恋愛においてもかなりの程度、相手と話し合うことによって、再帰的に関係性を作り上げているが、僕もすっかり都市型の人間になってしまったということか。
2020年から関係が始まった「好きな人」との関係についてはもう2年半になる。やはりいろいろあったので、これについても書き記しておきたいが、ここで書くことではないだろう。稿を改めてじっくり語りたい(要はのろけたい)。
思えば、2018年頃の僕は標準的なライフコースに敢えて乗ることで、彼女と結婚し・子育てをしたいなどと考えていたものだ。そこで頓挫したのもあって今では一気に羽を伸ばしているという感がある。結婚や子育ての問題をどう考えるかがやはり今後の課題なのだろうなあ。
コミュニケーション強化合宿by「サークルクラッシュ」研究所のお知らせ ――自分の権利を知る、自分の感情を感じる、自分の言いたいことを溜め込まずに言う
「サークルクラッシュ」研究所が今年の4月から新しく始まり、大学のセメスターとしては前期が終わろうとしています。
「サークルクラッシュ」研究所では定期的な集まりはやっていませんが、その代わり夏休み(8~9月頃)を使っていわゆる「強化合宿」を開きたいと思います。
「サークルクラッシュ」研究所の前身であるサークルクラッシュ同好会においては、自身のコミュニケーションやメンタルヘルス、生きづらさについて見つめ直すような活動をしばしばやってきました。
しかし、1回でせいぜい3時間程度のまとまった時間しか取らないため、体系的なかたちで活動に取り組むには少し限界がありました。
そこで、2泊3日の合宿形式にすることで、まとまった活動に取り組みたいと思います。今回取り組むのは「アサーション・トレーニング」と呼ばれている方法論です。
「アサーション」ないし「アサーティブ」といった言葉を聞き慣れない人もいるかと思いますが、敢えて直訳するならば「自己主張」です。より適切に言うならば「やわらかい自己表現」といった言葉になるでしょうか。
本合宿の目論見はこの「アサーション」の理論について学び、かつロールプレイによって実践していくことでコミュニケーションを手っ取り早く強化しようということになります。
なぜアサーションなのか
それではなぜこの「アサーション」に僕が着目したのか。キッカケはやはり「サークルクラッシュ」現象にありました。「サークルクラッシュ」現象において、ある種の人が「無意識型サークルクラッシャー」とカテゴライズされてしまう場合があります。
具体的には、様々な人にフレンドリーに接したり、目の前にいる人に対して配慮する能力が高かったりといった特徴を持っています。
このような特徴を持った人は一般的には「いい人」ということになるでしょう。しかし、そのような「いい人」が恋愛対象でない人に恋愛的な好意を持たれたり、不快なことを言われたり、プライベートな領域にズケズケと踏み込まれたり、といったかたちで被害を受けることがしばしば観察されます。
結果として、「無意識にサークルクラッシュしてしまう」ことに悩んでいる、あるいは「サークルクラッシュ」まではいかずとも対人関係で適切な距離感を保てないことに悩んでいる人がいます。
このような問題について、もちろん適切な距離感を保たずに侵害的な関わりを持とうとする人(ステレオタイプなイメージで言い換えれば「モラハラ」的であったり、「ストーカー」的であったりする人)に大きな責任がある、と言ってよいと僕は思います。
ただ、この社会を生きていくうえで、そのような人たちと関わらずに生きたり、加害の責任を取らせるかたちで罰したり、といったことは現実的には難しいように思います。
このような言わば「加害者側」が今後加害をしないように“教育”するプログラムもたしかに存在はしていますが、まだまだ普及しているとは言えませんし、今後も普及するのかは分かりません。
そこで、「被害者」の側が身につけられるスキルを身につけておく、ということも両立するだろうというのが今回の趣旨です。
そもそもアサーションは、自分も他人も共に大切に扱うコミュニケーションを目指しているという点では、「加害-被害」といったシリアスな事態になる以前の問題としても重要です。そのため、特に「加害-被害」といった状況に陥ることはない、という人にとっても役立つスキルだと思います。
自分の権利を知る
しかし、「アサーション」と言われてもピンとこないでしょうから、アサーションによって具体的に達成できることを、この文章において大きく三つ紹介しておくことにします。
1つ目は「自分の権利を知る」です。アサーションにおいては「アサーション権」という概念があります。たとえば、「私には『イエス』『ノー』を自分で決めて言う権利がある」「私には、間違う権利がある」などといったものです。
ここでは、文字だけ読むと「……当たり前では?」と思われるようなことが、敢えて「権利」として明文化されています。これは「ルール」と言い換えてもいいかもしれません。
しかし、このような「権利」は現実にはしばしば侵害されているものです。現実のコミュニケーション場面において、自分の権利が侵害されている状況にすぐさま気づくために、このような「権利」や「ルール」に対する“マインドセット”を形成しておくことが有用だという考え方だと僕は捉えています。
この「自分の権利を知る」トレーニングにおいては、アサーション関連の本に限らず、ASDの当事者向けの「人間関係やコミュニケーションのルール」を記している本も適宜参照します。
そこで、どのような「権利」や「ルール」があらかじめ定められているとよいのかというメタ的な観点からも参加者の方からは意見をいただきたいと考えています。
自分の感情を感じる
2つ目は「自分の感情を感じる」です。アサーションでは自分の思っていることを適切に表現する必要がありますが、そのためにはそもそも自分がどう感じていて、どういう意見を持っているのかを場面に応じて把握できなければなりません。
しばしば人は「あのときああ言えば良かった」と考えがちですが、それ以前の問題として、「あのとき自分はこう感じていたんだ」と後になって自分の感情を知ることもあるように思います。
特に、自分の感情を表現することを抑圧されて育ってきた人の中には、たとえば目上の人の前では「自分の感情を表現してはいけない」というのがクセになってしまい、状況ごとの自分の感情を感じることも難しくなっている人がいるように思います。
そういった人たちにとって、自分の感情を感じることがまず大切です。具体的にはコミュニケーションの場面で感情を表現するロールプレイもしますが、コミュニケーションの外で感情を表現したり、自分の感情と繋がっている身体感覚に注意を向けたりといったトレーニングも実施していきます。
ここでもまたアサーション関連の本の知識だけに留まらず、マインドフルネスと言われる、自分の身体感覚や思考や感情に気づくための瞑想の技法も学び、実践していこうと考えています。
自分の言いたいことを溜め込まずに言う
3つ目は「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」です。「アサーション」でイメージされるものの一番分かりやすいものはおそらくコレだと思います。
アサーションの用語をざっくり紹介すれば、コミュニケーションにおいて困難が生じやすい態度としてまず、「アグレッシブ」型(自己主張が強く、相手の話を受容しない)と「パッシブ」型(ノン・アサーティブとも。相手の話を受容するだけで、自己主張ができない)の二つが挙げられています。
それに加えて「パッシブアグレッシブ」型(受動攻撃的、作為的などと訳される。自己主張をしないかたちで相手に攻撃を加える)という分類もあります。
これらの状態から脱し、目指されるのが、相手の話を受容しつつ適切に自己主張もする「アサーション」型ということになります。
このような分類を示すとなんとなくイメージできたでしょうか。僕としては「モラハラ」的被害を受けてしまうような状況をひとまず問題視していますので、どちらかと言えば「パッシブ」型の状態から抜け出せるようスキルを身につけるトレーニングができればいいのではないかと考えています。
ただ、「パッシブ」型のコミュニケーションをしている人もしばしば、「溜め込む」ことによって「爆発」してしまうことは観察されるように思います。そうなった際に「アグレッシブ」や「パッシブアグレッシブ」なかたちで他者に接することもあるのではないかと思います。
結局一言で言えば「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」という方向性での練習が必要になってくるのではないか、と考えています。
こういったコミュニケーションは頭では分かっていてもなかなか現実には実践できないものです。今までの人生で「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」ということをほとんどしたことがない人もいるんじゃないかと思います。
そういう人がせめてロールプレイの場面で「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」というのはこういうことなんだ、という感覚を掴むだけでも価値はあるんじゃないかと考えています。
***
以上が、「サークルクラッシュ」研究所で開催予定の「コミュニケーション強化合宿」の概要です。既に参加希望いただいている方の都合上関西でやる予定です。
参加者がある程度決まり次第日程調整をしようと思いますので、参加を希望される方はどなたでもご連絡ください。
連絡先:
circlecrush@gmail.com
または
ADHDについて哲学的に考えてみる――「注意欠如/過集中」を超えて
ADHD者の「注意欠如/過集中」
ここ数年、「ADHD的アイデンティティ」のようなものを考えている。いろいろ考えてきたことについてちょっとまとめてみたい。
まずADHDの言葉通りの「注意欠如」、すなわち「注意が欠如し、集中力が持続しない」状態では長い文章を読んだり、長時間授業を聞いたり映像を観たりすることができない。
そこで、ADHD者はしばしばTwitterのように長くない1ツイートで完結する情報を好んでしまうように思う。これは時代を遡れば、チャンネルを次々に変えていく“ザッピング”というテレビ視聴の方法をより洗練されたものだと考えられる(そもそもテレビのニュースなども“途中から”観れるように構成されている)。
しかしADHD者には一方で、「過集中」という特徴も見られる。ある状況に没入し、それが“すべて”になり、外部がなくなるような状態だ。これにより、一部の才能の恵まれた者は短期的なかたちで優れた成果を上げる場合が見られる。
この「注意欠如」と「過集中」との間の揺れを、個人のアイデンティティの問題に(ムリヤリ)繋げてみよう。
まず、「注意欠如」という特徴から、長い時間をかけて紡がれる一元的な「物語」によって自己を確立させるよりも、社会の中で浮遊し多元的に所属することで複数の顔を使い分けるというアイデンティティ観になる。
言い換えれば、「自分は何者なのか」を単一の原理や累積的な経験によって掘り下げていくのではなく、その場その場の関係や、そのときそのときの衝動によってなんとなく「自己」という像を結んでいくイメージになる。
ただし「過集中」という特徴も加えて考えれば、「その場その場の関係や、そのときそのときの衝動」に強く没入することもある。この「過集中」にはしばしば強い快楽が伴い、「これこそが本当の自分だ」と思い込みたくなるように思う(しばしばADHD者が「好き」なものに過集中することがその傾向を強める)。
以上の「注意欠如/過集中」によって生じてしまうADHDのアイデンティティのあり方はどちらかと言えば受動的なものである。そこで、もっと主体的にADHD者が目指すべき自己について以下では考えてみる。先に言えば、三つ提示する。
「注意欠如/過集中」の認知行動療法的コントロール
まず第一に、「過集中」時の自分を「本当の自己」だと思い込んでしまうことこそ、衝動に規定されている(すなわち、「衝動的に過集中した自己」を本当の自己だと思い込みたいという衝動、言わば“メタ衝動”である)ように思われる。そこで「過集中時の自己」については批判的に捉えて、「過集中」時の自分が「本当の自己」ではないとしてみよう。
すると、目指されるべきなのは「注意欠如」と「過集中」との間で揺れることよる自己の断片化を、さらにメタ的に捉えるような自己のあり方ではないか。
それは半ばランダムに生じてくる「衝動」を直接的にコントロールしようとするのではなく、「自分が衝動的になりうる」ということをあらかじめ考慮に入れた間接的なコントロールをする自己なのではないかと思う。
実際近年、ADHD的な「症状」を認知行動療法的なアプローチで統御していく本がよく売られており、そのような自己を目指している人は多いのかもしれない。
しかし、ヘタをすればこれはあくまで「生産性」を高めるための手段に過ぎない。言ってしまえば「仕事術」や「片付け術」などの自己啓発本もまた、ADHD的な症状を“治療”し、よき労働の主体を作り上げる装置なのだから(とはいえ、そのような自己啓発本の効用を全否定するつもりはない。絶対的な活動量を増やすことは必要だと思っている僕自身、認知行動療法的なアプローチを活用している)。
「注意欠如/過集中」から脱する「山ごもり」的戦略
そこで、二つ目に目指すべきなのは、さまざまな場面で生じる「過集中」を束ねる何らかの概念を発見することで到達できるアイデンティティである。
よくあるパターンとして、ADHD者は「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティに至っているが、それは半ばランダムに生じる過集中を並列的に捉えたに過ぎない(「過ぎない」とはいえ、「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティはしばしばADHD者を慰めているとも思う)。
そこから一歩進めば、自己の持つ複数の趣味間の連関を“統合”的に捉えることも可能なはずである。優れた芸術家や研究者は自身の来歴に反省的に向き合うことで、一つの世界観を形成する。ここではADHD的な「注意欠如/過集中」の揺れから脱出し、一元的な物語が作り上げられていると見ることができるだろう。
では、どうすれば「注意欠如/過集中」の揺れから脱することができるのか? ここでは、一つ目に示したような認知行動療法的・社会適応的なアプローチではなく、むしろ社会から離脱するアプローチが重要だと思われる。
どういうことか説明しよう。先ほど例に出した“芸術家”や“研究者”はしばしば俗世間から離れた生活世界を作り上げている。そこには、世間からの要求に振り回されずに生きることができるという合理性がある。というのも、ADHD的な「症状」は社会生活の中で生じるものだからだ(社会が、SNSが、スマホが、我々の衝動を煽ってくる。そして同時に、その衝動を制御するように社会は要求する!)。
よって、「注意欠如/過集中」の揺れから脱し、一つの統合されたアイデンティティを作り上げるためには、一度社会から離脱してじっくり考える・何かに取り組む(たとえば作品を作る、本を書く)ことが重要になってくる。これは言うなら「山ごもり」的戦略と言えるだろう。
しかし、そのようなことを実際に達成することは難しい。私たちは社会に生きており、今もなお社会の煽動・要求に左右されているのだから。そこで、「注意欠如/過集中」の揺れから脱するのではなく、それらに内在するかたちで三つ目の方向性を示そう。
「注意欠如/過集中」における衝動を(ある意味で)肯定する
(この部分は『現代思想入門』をはじめ、千葉雅也さんの思想に強い影響を受けています)
それは、冒頭で示した、“ザッピング”やTwitter的な情報摂取のあり方を肯定するような方向性である。しかしそれは、単に1ツイートで完結するような、小さな情報群を摂取していくということではない。また、1から始り10で終わるような、摂取に時間のかかる「物語」でもない。
むしろ、ひとびとが自分の中にある生煮えの情報を(衝動的に!)次々に投下していく中で繋がり、それがどういうわけか何らかの創造性を生むようなあり方である。
当然、生煮えの情報群はたくさんのいいねやリツイートを集めないので、“バズる”ことはない。しかし、Twitterにおける文脈が切り離された情報群が、文脈が切り離されているからこそセレンディピティを生むことはあるだろう。おそらく人口の少なかった2010年前後のTwitterでは、そういうことが起きていたはずである。
ここからイメージされるアイデンティティはおそらく“統合”されたものではなく、断片化をある意味で肯定していくようなものだろう。それどころか「アイデンティティ」という言葉がそぐわない、理性よりも身体的な感覚やリズムが生み出す何かであろう。これもまた“衝動”と呼べるものかもしれないが、先述したような社会にコントロールされた衝動ではなく、むしろ非社会的な衝動であると思われる。
「ADHD的な生き方」を肯定するとすれば、この意味での衝動を肯定しなければならないのではないだろうか。
インスタを始めない人生だった(完)
サークルクラッシュ研究会です!
— 「サークルクラッシュ」研究所 (@circlecrush) 2022年4月22日
4/29〜5/8の期間で新歓企画、1分自分語りをやります!!!
画像や動画などのノンバーバルな情報と短めの補足文章で1分で読める自分語りをしよう!(詳細は画像を参照)
是非気軽に参加してください!! pic.twitter.com/a4GvyH432g
「サークルクラッシュ」研究所の新歓期自分語り企画! ということで、今回は1分で読める感じでノンバーバルに自分を語ってくださいとのことです。
僕は写真撮るとかそういうのはからっきしです。それゆえか、今まで付き合ってきた人は写真好きが多かったですね。自分が持っていないものを持っている人を好きになりがち。
とはいえ、せっかくなのでちょっと愛用しているiPadの写真フォルダを開いてみて、自分が撮ったものを遡ってみましょう。

西野もゆたぼんも“革命家”なんだなあ。

露骨な“SDGs”に笑ってしまった。



変な自販機や変な飲み物に嬉しくなってしまう。あと、僕はかなりの甘党なので、甘ったるいやつも飲みます。

リングフィットアドベンチャーの設定、狂ってると思う。

“暫定”って。

友人の結婚式の引き出物はカタログギフトだったので「じゃがいも5kg」を選んだ。放置していたら芽が尋常じゃなく伸びていた(でも切り落とせば普通に食えた。じゃがバター美味かった)。

恋人と遠くに遊びに行くと、なんだかんだ少しはノリで個人的に写真を撮ってる。後から見返すとあまり良い写真ではない場合が多い。
この写真は松戸市立博物館行ったときの写真。「連盟よさらば! 我が代表堂々退場す」じゃないけど、明治〜戦後期ぐらいの新聞ってカッコイイな。
僕もスマホをメインにすればもっと写真撮るんだろうか。撮らないだろうなあ。

