父親が死んだことについて

二日前に父親が死んだ。兄から電話がきて、兄は嘘をつくような人間じゃないことは分かっていたから、とりあえず父親が死んだという事実を認識した。しかし、現実感のない話だった。とにかくその場で一気にいろんなことを考えた。

 

父親は一言で言えば、神経質でコスパ厨な人だった。マイペースな母親に対していつも文句を言っていて(それこそ食事のときは3回に2回ぐらい文句を言っていたように思う)、僕が何かしら失敗をするたびに口うるさく怒られた。僕は正直父親が恐いとも思っていたし、何か言いたいことがあっても言えなくなっていた。でも、母親は人の話を聞き流す能力の高い人だったから、精神的に不安定になることはなく、すごくバランスの取れた良い夫婦だなと思っていた。
コスパ厨に関して言えば、倹約家で、クーポンや無料券、割引、懸賞などの類が好きで、贅沢もあまりしなかった。パソコンが好きだったから、Windows95の時代からパソコンにはお金を使っていたし、家も建て替えてローンを組んでいたし、車も買っていたし、使うときには使う人ではあったのだが。タバコをよく吸う人で、酒飲みでもあるのだが、酒はそれこそ、昔は焼酎ばっかり飲んでいて、最近は安い赤ワインばかり飲んでいた。
いくつかエピソードを挙げよう。冷暖房の使用にはうるさかったし、僕があるときエアコンの暖房を使っていると、「室外機が凍っていてエネルギー効率が悪くて電気代が高くつくから、これを使え」という旨のことを言って石油ストーブを部屋に持ってきたことがある。そういえば、風呂に入れと言われて、「明日家出る前にシャワーするからいいよ」と言ったら、湯船にある湯の熱がもったいないという文句を言われたこともあった。
最近はテレビをよく録画して1.3倍速で観ていた。通常で観るのはコスパが悪いようだ。キーボードもかな入力だった。それはコスパ厨関係ないか。
極めつきはよく笑い話にしている「エクセル寿司」の話だ。家を出るのがしんどい祖父母と出前で回転寿司を食べることがよくあった。その際に父親はエクセルファイルをパソコンにメール送信してくる。エクセルファイルには横欄に家族の名前、縦欄に寿司ネタの名前があり、それぞれに例えばマグロ1 なっとう1 ……などと数字をつけると、合計何皿かが出るようになっている。そのファイルをまた添付して送り返す。それで父親は集計して注文し、印刷していた。このシステムによって家族みんなが好きなネタを好きな分だけ食べられるという寸法だ。あきんどスシローにおいてはセットの割引は本当に大したことがないので、この方法を取るのが合理的だった。そもそも、僕は三兄弟の末っ子なのだが、食べ物の量で不公平が生じるとケンカになるということが小さい頃は多少あったように思う。今にして思うとそこまでケンカは生じていないように思うが、神経質な父親は食べ物の量が均等になるように注意を払っていて、母親が割り切れない数の食べ物を出すと文句を言っていた。寿司に関して言えば、「エクセル寿司」が完璧なシステムだということだ。

 

そんな父親だったが、僕は父親に対して自分がやっていることを言えなかった。僕は今まで自分がやっていることに後ろめたさがずっとあったのだ。しかし、今や僕は自分の勉強していることや活動に自信を持ち始めているし、そろそろ両親にも話そうかと思っていた。あるいは、何らかの形で有名になることによって、立派な姿を両親に見せたいと思っていた。それが一種の親孝行になるとも思っていた。
しかし父親は死んだ。たとえ立派になってもその姿を見せるべき重要な相手である父親はもういない。僕はそれがたまらなく悲しかったし、なんで死んだのかと泣いた。そのとき近くに人がいたからすぐには泣けなかったけど、一人になったときに泣き叫んだ。
もちろん、物理的な支援がストップするであろうことも苦しい。残された母親や兄、祖父母などはどんな気持ちなのだろう。いろいろ想像するとまた悲しくなった。

 

とにかくその場をやり過ごし、次の日もやり過ごした。いくぶん気丈に振舞っていたが、どうもいろいろ考えてしまって身体が思うように動かなかった。プチ鬱みたいな状態だった。そして、今日の朝に実家に帰った。今日は葬式だった。

 

地元の駅に久々に帰って、けっこう長い間帰ってなかったことに気づく。元々1月3日はそれこそ「エクセル寿司」の予定だったので、帰る気だった。しかし、兄の電話を受けてそれはナシになったのだった。
実家に着くと母親が出迎えてくれた。母親はとてもつらそうだった。僕もすごくつらくなって涙が抑えられなかった。父親の死の原因を尋ねたが、不明だという。1月1日には父親からはメールがきていたのだ。2日の夜に腰が痛いと言って病院に運ばれ、痛み止め・点滴を打たれてもずっと痛みを訴え続けていたそうだ。「水が飲みたい!」と言ったそうだ。しかし、点滴中はもどしてしまうために飲ませることができず、脱脂綿を口に含ませるぐらいしかできなかったそうで、そして吐きそうになったかと思えば呼吸が停止したそうだ。人工呼吸をしても意識は戻らなかったとのことだ。
母親からその話を聞いて、兆候がなかったかどうかを聞いたが、耳鳴りがしていたり下痢があったりといったぐらいだったそうだ。本当に急死だった。初詣で階段をのぼったのが良くなかったのだろうか、もっと優しくしていたかったと母親は言った。母親のその調子がすごくつらかった。僕は実家に置いてある新聞を眺めてみたりしたけど、父親のことを考えるとどうしようもなくて泣くしかなかった。鼻水がすごく出てティッシュで鼻をかみまくった。父親は苦しんで死んだのだと思うと悲しい。僕自身も苦しくなる。せめて苦しまずに死んでほしかった。苦しんでいる父親を眺めていた母親はどんな気持ちだったのだろう。

 

久々に帰った家は父親の痕跡に満ちていた。最近の父親はよく家にいて、パソコンを触ったりテレビを録画で観たりしていた。父親は凝り性な人だったから、家の中で父親にしか分からないことはいっぱいあった。母親が「父親のやっていたことが自分には分からない」と言っていてつらかった。お父さんはなんでこんなに早く死んでしまったんだろう。

 

兄にはこれからのことを聞かれた。僕は家族とはできるだけ腹を割って話す覚悟で帰ってきたから、一応自分が今考えていることを述べた。僕は母や兄がいるところでも泣いてしまったし、まともに兄の顔が見れなかった。相手の気遣いに対して気遣いをしている/されているような、そんな感覚だった。

 

・兄の運転で葬儀場に向かったのだが、何か一つ一つの動作が神経症的に安全志向になっているように思えた。肉親の死はこれ以上見たくないという気持ちなのだろうか。

 

・葬儀場は山の上にあり、まさに俗世間から分離された聖なる空間という感じだった。葬儀自体もそのようだった。明確に日常世界から分離した作業が必要なのだと思ったし、僕は今まで葬儀をバカにしていたが、遺族のためには葬儀は必要なのだと肌で実感した。

 

・葬儀や告別式の儀式的順序はある意味神経症的でありながら、それほど神経質なわけでもないので、うまいこと神経症的な状態を解除する力があるように感じた。なるほど、葬式とはよくできている。

 

・父親の姉である叔母の家族がきていたが、いつものノリでうるさい感じだった。しかしそれが沈痛な雰囲気に対してはありがたかった。いくらか気分が和らいだ。しかし、そんな叔母や祖母も、葬式や告別式の場では感情を隠さずに泣いていた。なるほど、女性の方が感情を素直に出す傾向にあるのだなあと思った。感情を素直に出す人が場にいることはすごくありがたかった。僕も父親の死は本当につらいのだから、泣くことを抑圧したくはなかった。母親や兄は葬式を取りしきる責任感から少し抑圧していたように感じたが、父親の死の直後には既にけっこう泣いたのかもしれない。母や兄も明らかに疲弊していた。

 

・葬式で見た父親の顔は赤みがあり、普通に寝ているのと変わらなかった。死化粧の話を聞いたこともあるが、父親に対しては全然施されていない。ドライアイスだけだということだ。何も違わない。しかし、視覚情報には重みがある。僕は父親の顔や遺影を見て、やっぱり何回も泣いてしまった。

 

兄の父親に対する視点は僕とはけっこう違った。迷信的なこともけっこう言っていた。死んだ父親が今もそこにいるかのような話を叔母や母もしていた。母は父親のことを現在形で語っていたし、父親が生きている感覚で喋っていた。母親の中では父の死はまだ受け入れられていないのかもしれないなどと考えた。
僕は唯物論で考えるから、死んだら人の感覚や認識はなくなると考えてしまう。しかし、それはけっこうキツい考え方だ。葬儀は仏教式だったが、仏教的な世界観において、死者が旅立っていく。そんな風に考えた方が、死を受け入れるのはやりやすい。みんないろんな考え方をしている。

昔、友人が「誰かが死ぬと、死んだ人の周りの人たちが階層化されてしまう」というようなことを言っていた。図で表すとこんな感じだろう。

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人間はコミュニケーションをする上で、共感することがある。一方で、テレパシーのようなものはないのだから、他者の体験を完全にトレースすることはできない、すなわち本質的には分かりあえないということもある。そのような共感可能性という希望と、共感不可能性という絶望との狭間を揺れ動いている。人が死んだとき、共感不可能性という絶望は強調され、人々を断絶させるのだろう。僕には僕なりの父親の喪失体験があり、兄には兄なりの、母には母なりの喪失体験があるのだと思う。僕はこれからももうちょっとだけ腹を割ってその感覚を共有していきたいと思う。しかし一方で、相手の考えに口を出したり否定したりすることはなかなかできない。死者に対する思いというのはそういうものだと思う。

 

この記事を書いている間にもやはり泣いていたが、兄は「生きよう」と言った。また、兄は父の死に強く意味を見出しても、見出さなくても良いのだと言ってくれた。僕もそう思う。僕は「死」や「喪失体験」について深く考えたいという気持ちが強まった一方で、父が死んだからといって自分の人生をねじ曲げるつもりはない。自分を強く持ちたいし、それこそが父への恩返しにもなると信じたい。つまるところ、父の死を経たからこそ、僕は前向きになれるよう努力するのが良いのだと思う。

 

これは、父のことに限らない。前に僕にとって大事な人が死んだことがあったが、その喪失体験は僕の人生に強く影響を与えた。僕の人生・進路は大きく変わったように思う。それを呪いのように感じることも少しはあるが、こう言うととても嫌な言い方になるが、その死に感謝してもいる。あの死のおかげで僕はいろんな方向に進めたし、いろんな仲間に出会えたのは事実だ。


「あの挫折があったからこそ今の自分がある」、そういう物語を紡いでいくしかない。それが僕のこれからです。

 

追記:

そういえば父親は僕のTwitterとかブログとかを見ていたそうです。言ってくれれば良かったのに。こういうとき、多くを語らない男性ジェンダーって損だなあとか思います。

あと父親はすごく勤勉な人でした。資格を取るためにいろいろ勉強していた父の姿を思い出します。それは誇っています。それも込みで、本当に良い父親でした。