私がなぜオフパコによって童貞喪失したのかについて

※この記事は2013年3月10日に書かれた記事です。童貞喪失の勢いで書かれた記事ということもあり、現在の恋愛観・性交観とは異なりますのでご了承ください。

 

いわゆるオフパコ(インターネットを介して実際に人と出会う"オフ"を通じて、"パコ"る、つまりセックスすること)をした。
自分はノンケだが、これまで童貞非処女だった。(一つ前の日記参照)
つまり、オフパコによって童貞喪失をした。
 
ここでは、自分の個人的なオフパコの経緯や体験を詳しく述べるのではなく、そのメタにある「なぜオフパコによって童貞喪失をしたのか」という問いに回答する形で、自らのこじれてしまった恋愛観・性交観を述べる。
ちなみにオフパコの経緯は要約すれば、「スカイプちゃんねる」等のskype掲示板で知り合った人と仲良くなって会ってセックスした、というだけである。
 
さて、自分の恋愛観・性交観だが、大きく7つの、細かくは13個の命題(④と⑥以外は当為命題の形にしてる)によって説明する。
これらの内、矛盾・対立している命題がいくつもある。しかし自分にとっては、言うならばそれらが「全て同時に成り立つ」ような状態なのである。
順番にそれらの命題を述べ、説明していく。
 
今まで自分を縛ってきた、そして現在になってもなおどうしても囚われてしまう、童貞性に関する命題:
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
(論理的な構造としては、①を命題Aとすると、①´はAかつB、①´´はAかつCと考えると分かりやすいか。つまり、①´が成り立てば①も成り立つ)
 
自分はこれらの幻想に大学入学あたりまで囚われていたように思うし、今でもこれらは、ロマンティックで良いなと思う。いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観である。
いわゆる処女厨はこれらの命題に頷けるのではないだろうか。
 
 
恋愛・性交をロクに経験をしていないにもかかわらず思考だけが進み、現行の社会制度にさえも疑義を呈する命題:
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
(論理的な構造としては、②´ならば②、②ならば②´´と考えると分かりやすいか)
 
歳をとるにつれて①~①´´の命題には現実性がなくなっていく。幻想は崩壊し、その反動で思考が極端に推し進められてしまった。
 
 
恋愛の必要性を述べる命題:
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
 
自分にとって、恋愛は楽しいと思う。きっとそうに違いない。
セックスは肉体的なものではなく、精神が介在するという点で、オナニーよりも優位性があると思う。きっとそうに違いない。
ロクに体験してこなかったために、夢想だけが広がっていく。人によってはすっぱいブドウになるんだろうけど。
 
 
童貞にとっての事実命題:
④童貞はつらい。
 
なんでつらいかと言うと、「他人と比べて」ということだろう。非童貞が知っているものを自分は知らないという不安や焦燥。突き詰めればルサンチマン。つまり、非童貞への憎悪ということになる。
 
 
童貞の自己正当化のための命題:
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
 
「童貞も守れない奴には何も守れない」という言葉や「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」という都市伝説があるが、童貞→非童貞は不可逆的がゆえに、何か呪術的なものを感じる。
なお、自分の場合は「童貞非処女」というちょっと希少なステイタスだったため、なおさら簡単に失ってはいけなかった。
 
 
自らの定義を揺るがす事実命題:
⑥ヤリチンマンは合理的である。
 
ヤリチンマン、つまりセックスしまくってる人は多数と関係を持つことによって、自己利益を最大化している。その意味で合理的である。
これは命題②´によって補強されるのだが、後で説明する。
 
 
リアルに対するネットの優位性を述べる命題:
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
綺麗な命題になってなくて申し訳ないけど、要するにネットはリアルからの逃げ道とか受け皿だけでなく、積極的な意味合いもあるよと言いたい。
 
 
これらを図示すると次のようになる。①と②は包含関係を形成しているのでそれを示した。
上部の点線は時間の経過によって自分の考えが変化したことを表す。青い矢印は論理の補強、赤い矢印は矛盾・対立を表す。
れんあいかん
①最終的に愛する対象は唯一人であるべきである。
①´その最終的な一人は、他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象であるべきである。
①´´その最終的な一人と性交する際は、お互いに初めての性交である(童貞・処女同士である)べきである。
②恋愛関係は複数あってもよい(1対1に限定すべきではない)。
②´人間の魅力はそれぞれ独立に存在しているので、複数の人間の魅力を、単一の価値基準・軸で単純比較すべきではない。
②´´一夫一妻制ではなく、多夫多妻制であるべきである。
③恋愛はすべきである。
③´愛のないセックスはすべきではない。
④童貞はつらい。
⑤童貞は簡単に失うべきではない。
⑥ヤリチンマンは合理的である。
⑦aリアルではコミュニケーションがしにくいので、人と話すためにネットを使うべきである。
⑦bリアルだけでは観測できる範囲が限られるので、人と出会うためにネットを使うべきである。
 
まず、青い矢印の論理の補強について順番に説明しておこう。
①´→⑦b
これは、①´にある「他の人間と比べて、自分にとって最も好ましい対象」を見つけるためには、リアルだけでは狭いという話である。
そのために、ネットを使えば「自分にとって最も好ましい対象」が見つかる可能性は上がる。むしろ、ネットを使っていない人間は「自分にとって最も好ましい対象」を見つける努力をしていないと言ってもいいだろう。
 
①´´→⑤
①´´が童貞を守る根拠になっている。本当に大切な人のために童貞は残しておくべきだという論理だ。
 
②´→⑥
「人間の魅力はそれぞれ独立に存在している」とはつまり、Aさんもいいけど、Bさんも別の面でいいよね、という話である。
だから、相手を一人に限定しないヤリチンマンは最大利益を追えているだろうということである。
 
③´→③
セックスするためにも恋愛すべきだということ。
 
③→⑦a
スクールカーストよろしく、学校コミュニティから弾き出された連中は恋愛などできないまま学生時代を過ごす。その責任は本人にあるというよりかは、システムにあると思う。
だから、そういった者達(多くはリアルでのコミュニケーションが苦手だろう)が恋愛をするために代替システム、救済措置としてネットの存在は重要である。
 
ここでの⑦aと⑦bがオフパコの積極的な意味合いである。最初の問題提起は一応の決着を見るだろうか。
また、オフパコには愛がないという反論があるかもしれないが、そもそもそれはリアル至上主義の偏見だ。
③´の通り、愛は必要だ。しかし、自分は相手に対して恋愛をしていた。好きだからセックスした。問題はない。
 
 
さて、このように、命題同士が調和している場合もあったのだが、こじれてしまった恋愛観・性交観は、むしろいくつもの矛盾・対立を生み出してしまった。
これらを抱えながら従来の価値観で恋愛・性交をすることは難しい。
そこで、なんとかこれらの矛盾・対立への妥協案・折衷案・ジンテーゼアウフヘーベンを見出していかねばならない。
 
どのように矛盾・対立しているのかの説明と共に、解決策を示していく。
 
 
先に言っておくと、①´ならば① と ②ならば②´が成り立つのだが、これらはほぼ対偶の関係にある。(厳密には少しおかしいが)
だからこそ、①⇔②の対立と、①´⇔②´の対立がある。では個々の中身を検討する。
 
 
①´⇔②´の対立は結局、自分にとっての好みを比べて優劣をつけられるのかつけられないのかということである。
ここでの答えは、まず「優劣がつけられるかどうかは時と場合による」と考えた。時と場合によって、こっちもいいが、あっちもいい、とはなるからだ。
時と場合によるのならば、一人に定めることは愚かしいというのが結論だ。⑥でもヤリチンマンが合理的だと述べたが、自分とコミュニケーションをしていく相手・恋愛する対象と考えると、それぞれ違う良さがあるし、だからこそ何より「飽き」という要素もある。
少なくとも、常に最も好みな人間を対象にしたいのであれば、ずっと同じ人間と付き合う必要はないのだ。それは友人関係と同じことだろう。恋愛関係だからと言って、特別に考える必要はないと考えた。
 
つまり、①´を言い換えると、「その時々、その場合場合によって、最も好ましい対象を選ぶべきである」ということだ。しかし、それは時と場合によっていくらでも変わりうるし、最も好ましいのが複数であるならば、複数を選んでも良いのだ。
②´は「魅力」で考えているが、魅力があっても好ましくないこともあれば、魅力がなくても好ましいことはある。最終的な判断に直接関係するのは魅力ではなく「その時々と場合場合における好み」であるため、「魅力」ではなく「好み」で考えるとうまくいく。
 
 
①⇔②の矛盾は言うまでもないだろう。
解決策としては、まず先ほどの対立で述べたように、「最も好ましい対象」を選び続けるためには②の方を取るべきだということ。(時と場合によって、誰を選んでもよい(複数を選んでよい)ということ。)
では何故①があるのかということになるが、それは道徳的な問題である。
いわゆる「妥協」や「浮気」を許さない価値観だと最初に述べたが、この「浮気」の方の問題だ。
しかし、何故浮気をしてはいけないのだろうか。
それはおそらく、ロマンティックな美学といった面もあるだろうが、現代では先にそれが慣習化している、すなわち暗黙の制度となっているからというのが大きいだろう。
それは、日本の一夫一妻制の現状を見れば明らかである。答えを先取りするようだが、②´´にもあるように多夫多妻制が制度として正しいと自分は思う。
 
浮気という概念があること自体がそもそも間違っているのであって、誰もそんな一対一契約をしなければいいのだ。
一般化して、全員が②のように複数の恋愛関係を持ったとすれば、浮気などという概念をなくすことも可能ではないか。究極的には浮気をする必要がなくなるのだから。
現在は①が一般化している状態なので、少数の②が出てくると叩かれるのだが、②が一般化してしまえばそこまで問題は生じないように思う。
それならば、「最も好ましい対象」を選び続ける②の方が良いだろう。
 
結論としては、②が一般化した世界ならば②の方が良い。①が一般化している現状、②へのマイナスイメージの払拭を頑張るほかない。
それができないからみんな隠れて二股、浮気をするんだろうけど。解決になってない。
 
 
そして更に、これらの対立へのもう一つの解決策を提示しておこう。それは「最も好ましい対象」を極端に「神格化」することである。つまり、①で定まった「最終的な一人」を神にしてしまうことである。
こうしてしまえば、葛藤していた自分にとって、他の全ての恋愛は俗世のとるに足らぬこと、メイン腹とは違う別腹となってしまう。
永遠に辿り着けない神を想いながら(①や①´を満たす)も、通常生活している分には俗世の恋愛が楽しめる(②や②´を満たす)、というところである。
そじて実際、自分は①~①´´の「最も好ましい対象」を自分の中の神(偶像)に投射してしまうことで精神の安定を得た。別にそんな宗教的な話でもないけど。
 
 
③´に関する②⇔③´、③´⇔⑥の対立の対立は別にそもそも対立ではない。
恋愛関係が複数あっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
ヤリチンマンであっても、それぞれに愛が向けられていればセックスしてもよいだろう。
 
 
④を中心とした、③´⇔④、④⇔⑤、④⇔⑥の対立は、まとめると、童貞は辛くても禁を犯してはならない、事実から目をそらしてはいけない、堪えなくてはならないということである。
童貞が辛いからと言って愛なきセックス(風俗など)をしてはいけない。
童貞が辛いからと言って簡単に失って(風俗など)はいけない。
童貞は辛いからヤリチンマンを憎むのは仕方ない。しかし、その合理性まで否定してはいけない。
 
 
⑤⇔⑥の対立は、最初のセックスと、それ以降のセックスを分けて考えれば解決できる。
最初のセックスは⑤のように慎重さが必要かもしれない。
しかし、2回目以降は⑥のようにヤリチンマンが合理的である。
 
 
以上で、矛盾・対立の一定の解決が得られただろうか。
しかし、対立が解決しても、それ自体で非常に厳しい命題がいくつもあるので、それらへのフォローを二、三する。
 
①~①´´は実際厳しい。現実的に考えて①´´の対象が処女である必要はないと思った。それは大学生となった今では傲慢である。自分の性交観を縛る権利はあっても、相手の性交観を縛る権利がどこにあろうか、いやない。(反語)
その上で、やはり①~①´´を満たす「最も好ましい対象」を神格化することで一応の解決を見た。
 
②を満たすのは結局のところ、いわゆる「セフレ」ではないだろうか。セフレにも愛はあると思う。友情関係の延長線上にセフレがあってもいいと思う。
付け加えるならば、恋愛関係や夫婦関係が0か1かで規定され「付き合った/別れた」「結婚/離婚」という概念があることによって損をしていると思う。
敢えてその概念を使うにしても、別れても友達、別れてもたまにはセックスするみたいなヤリチンマンの発想はやっぱり合理的だと思う。
 
③´と言ったものの、「愛があるかどうか」は個人の主観である。まず自分は正直言ってかなり多くの人のことが好きである。
しかし、何より一番好きなものは「自分」である。その自分に対して、アプローチしてくれる(構ってくれる)人間はだいたい好きになってしまう。
相手が自分に構ってくれる+自分も相手のことが好き となると主観的には恋愛関係が成立していると考えてしまう。だからセックスができるのだ。
 
 
以上、自己正当化のために長々と書いた。もっともらしいことを言ってもことごとく台無しにしてしまった。全ては言い訳であった。