『生きてるものはいないのか』をドキドキぼーいずがやってたので感想

 アトリエ劇研で6月10日14時に観た。なんかこれを最後に2年ぐらい休止するらしいので観れてよかった。

 思えば、ドキドキぼーいずを『愛と退屈の国』で初めて観て、その後『じゅんすいなカタチ』を観て、本間くんが演出してる『(おわりたい)漂流』も観に行ったし、僕はいつの間にか本間くんのファンになっていたようだ。今回の『生きてるものはいないのか』はタイトルはよく聞くけど内容を知らなかったので、一度ぐらい観たかったというのもあった。さて、以下感想。

 

・まず、いつもの身体痙攣みたいな演出が分かりやすく脚本にマッチしていて傑作だったと思う。

 

 現実にはありえないような高速テンポでの掛け合いを初っ端から飛ばしていくことで、「言葉の上では成り立っているけどコミュニケーションとしては成り立っていない」ようなディスコミュニケーションを戯画的に示していた。だからこそ、その後にキャラがどんどん死んでいく中で描かれる、「死に際の孤独感」の表現が活きていたように思う。人は死んでいくときは孤独だみたいな話をバタイユがしてた気がする(テキトー)

 

 

・会話におけるありえないほどの高速テンポや、誰にも合わない視線、音響に合わせてリズムを持った死の踊りや身体痙攣などは、見事な本間メソッドだなあと。それらは

 

①会話における「言葉」の空虚さ

②地下鉄サリンや公害や戦争や災害や放射能などを思わせる圧倒的「現実」の侵入

③普段意識していない(というか抑圧している)死の恐怖

 

を生々しく示しているように思えて、効果的だったなと。

 

 それらに対応づけて言えば、僕らは普段、

 

①言語

②「目に見える」もの

③死を忘れて「生きている」ということ

 

のそれぞれのヴェールに包まれて、「安心」して生きているのだなあ、ということが浮き彫りにされた。

 

 

・そう考えると、舞台セットの白色の幕?は、「こちら側/あちら側」を分けるヴェールを示しているようにも見えた。つまりヴェールは言語/非言語(①)、可視のもの/不可視のもの(②)、生/死(③)などを分けており、それらの断絶は、自己と他者の根源的なディスコミュニケーションやそれにまつわる孤独感にも繋がっているなあと感じた。例えば、親密な人の突然の死を前にして、幕の後ろに逃げていくシーンにはリアリティがあった。

 

 

・義理の兄役の人、妹と仲良くしたいみたいな部分を表現する役でありながら、時折見せる焦点の合っていない自閉的な視線が恐ろしくて良かった。

 

 

・本間くんの身体痙攣演出みたいなのすごい好きだし、ネガティブな表現をするための使い方だけじゃなくてポジティブな表現のための使い方も見たいかも。

 分かりやすいのだと例えば、「複数の身体が共振することによって生まれるつながり」みたいな表現とか。もっといいのあるだろうけど。