アンコール複借論争~ホリィ・セン×借金玉イベントに蘇る複素数太郎~

 予定されていた「複素数太郎借金玉イベント」が中止になりました。複素数太郎の代わりに僕、ホリィ・センが登壇することになりましたが、僕は複素数太郎借金玉イベントを開く意義が未だにあると思っています。
 この記事ではまず、複素数太郎がイベントから外されてしまった経緯を書きます。にもかかわらず複素数太郎が出している論点が重要であるがゆえに、複素数太郎が登壇しないとしてもやはり8月25日はその論点について議論すべきだということをその次に書きます。

 特に司会を担当していただく青識亜論さんにはこの記事をしっかり読んでいただけると助かります。

 

1.複素数太郎はいかにして外されたのか

 この件について僕は推測することしかできませんが、僕なりの見解を述べておきます。

 

1-1.「複素数太郎を外して代替イベントをやろう」という借金玉さんの提案

 8月4日の夜に僕が今井くん(

今井 ホツマ (@O_regalis) | Twitter

)と会っていたところ、借金玉さんと今井くんと僕との三人でLINE通話をしようということになりました。
 そこで借金玉さんは、複素数太郎借金玉イベントを中止して、僕と借金玉さんの代替イベントを開催しようという提案をしました。
金玉さんがその提案をした理由は僕の聞いた限りでは以下の四点にあるように思いました。


複素数太郎が、事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれないこと。
②また、継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしていること。
複素数太郎がそのようなアカデミズムの立場であるにもかかわらず、複素数太郎が集めた観客のリストを見たところ、それらはアカデミックな人間(例えば学者)というわけではないこと。
④それどころか、集められた観客は複素数太郎の周囲の「リスク」のある人間であること。そのような「リスクのある」人間がイベント時に何か問題を起こした際には、責任を取りきれないということ。

 また、なぜ借金玉さんは、複素数太郎の周囲の人間に「リスク」があると考えているのかについて以下で述べます。
 あるとき、これ以上ツイッターに関わることに対して危険を感じたために、複素数太郎は死んだフリをしました(詳細は以下)

sutaro.hatenablog.jp
 その際に誰もそのことを借金玉さんには言わず、その際に誰か(借金玉さんによれば「真実烏」というアカウント)が「借金玉さんが殺人者である」というデマを借金玉さんの職場に「密告」したため、借金玉さんは仕事を失うことになったという事件があったようです。

 他にも理由はあるとは思いますが、とりあえずこの事件などが理由で「リスク」があると考えているようです。

 最終的に8月7日の今井くんのイベント告知で複素数太郎が外されていますが、その背景には借金玉さんからの提案があったということをここでは述べておきます。

 

1-2.それでも複素数太郎借金玉イベントをやるべきだった(と僕は思ってる)

 そして、僕自身はそれでもなお、8月25日に複素数太郎借金玉イベントを開催すべきだと思いましたのでその場ではそう言いました。
 僕からすれば複素数太郎の出した論点は重要であり、上記の①②もまさにその論点に関わるポイントなので、イベントで議論すべき内容だと感じたからです(後述の2-2を参照)。
 また、③についてはそもそもアカデミックな人間を複素数太郎がその場に呼ばなければならない必要を僕は感じません(どうしても専門家に見てもらいたいなら録音・録画などをすればいいのではないかと思いますし、複素数太郎=アカデミズム、借金玉さん=当事者事業という対立構造が明確に成立しているのかについては疑問が残ります)。しかも、複素数太郎は専門家を呼ぼうともしていました。
 ④については「リスクのある人間の排除」ということ自体がまさに議論されるべき内容だと感じています(後述の2-1参照)。「リスクのある人間の排除」の是非を問うべき議論の場で、あらかじめ「リスクのある人間の排除」をするのは「論点先取」的だと僕は感じています。

 しかも、仮にリスクのある人間をあらかじめ排除すべきだとしても、現在リスクのある人間を排除できているのかどうかは分かりません。「複素数太郎の周囲の人間ならばリスクがあり、そうでなければリスクがない」と考える理由が不明確です(「京都若者界隈」なるハイリスク群が押し寄せてくるとでも考えていたのでしょうか?)し、今回のイベントの観客募集方法でも、抽選になるのならば「複素数太郎の周囲の人間」や「リスクのある人間」は入りうるのでリスクが変化するようにはあまり思えません(観客のツイッターアカウントを一人一人見れば、ある程度「検閲」できるのかもしれませんが)。

 また、そもそも集められた観客のリストを登壇者の一方である借金玉さんのみが閲覧し、それを根拠にイベントの中止を提案したという経緯はいかがなものか、とも思っています。最終判断を下したのが今井くんだとしても、強権的に今井くんに責任を押しつけすぎなのではないでしょうか。

 

 それに、やはり観客が見たかったのは複素数太郎借金玉イベントだろうと僕は思います。僕と借金玉さんのイベントは、その後にやれば十分でしょう。複素数太郎のことを踏まえずに僕と借金玉さんトークイベントをやるならば、それは敢えて言うなら「事業主」同士のイベントになることでしょう。しかしその前に「事業の論理」への批判者である複素数太郎との論争を終えておくべきなのでは? と僕は未だに思っています。
 とはいえ複素数太郎が登壇できないならもう仕方ないということで、8月25日の「ホリィ・セン借金玉イベント」には登壇させていただくことにします。ただし、8月25日のイベントに少なくとも複素数太郎が観客として参加するという条件は呑んでもらいました。

 

 

2.8月25日に議論したい内容

 さて、僕はこれまでサークルやシェアハウスを運営してきましたし、そこには生きづらさを抱えた“当事者”と呼べる人もいるように思います(かく言う僕自身もコミュニケーションや恋愛がうまくいかないことへの“当事者”性があったからこそ「サークルクラッシュ同好会」を始めたのです)。
 だから、本来なら「当事者事業」の主として借金玉さんトークイベントをするのが妥当だとは考えています。しかし、1で述べたように複素数太郎が出した論点は未消化だと僕は考えています。だから敢えて複素数太郎の批判を引き継ぎ、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場も持った上で今回のイベントに臨みたいと思います。それは結果的に「当事者事業」を考える上でも建設的な議論になるでしょう。
 ということで、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場をできるだけ勉強してから8月25日のイベントには臨みたいと思いますが、とりあえず今のところ考えている主要な論点だけでも、先に書いておきたいと思います。

 

2-1.「事業としてできること」について

まず借金玉さんの主張に引きつけていえば、「事業主として当事者運動をやる際に、何を最低限担保すべきか」という論点です。借金玉さんは例えば「赤字を出さず、事業として回す」「利益と目的をバランスさせ、可能な限りの継続性を担保する」ということなどを述べていました。

 

(他にもいろいろ述べていましたが詳細は以下)

twitter.com



 そこで、ある当事者事業において、自傷行為オーバードーズを禁止するような規定がある場合について議論になっていました。
 これに対する複素数太郎の批判は、「禁止」という抑圧をスタートラインにして支援を始めるべきではないということです。また、具体的な支援ということになるのであれば、自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行うべきだということや、学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行うべきだということなどを述べています。

 

 

 

 

 

 

 一方で借金玉さんの主張は、この批判を受け入れると、先ほど述べた「最低限」を担保できなくなる、ということです。なぜなら、自傷行為オーバードーズを容認することになれば、事業として責任を取りきれない可能性があるからです。責任を取れないと事業は継続できません。

 この時点でまず、「何が最低限なのか」という論点については様々なことが言えます。言い換えれば、「当事者運動を継続しつつ、かつできるだけ抑圧的でない支援をするためにどのようにバランスを取れるのか」ということが論点になるでしょう。
 ここで、複素数太郎の述べていた「小さな労力」とは、「きっかけを与える」、すなわち、規約において抑圧的な文言を使わないという話を指すと思われます。ただし、話が現実の支援や対処のレベルに移ると「大きな労力」になってくるものと思われます。
 つまり、複素数太郎の立場ではまず、「A.自傷行為オーバードーズを禁止する規定を作らない」ことが重要なわけです。

 ただし、具体的な支援の話になってくると、「B.自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行う」「C.学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行う」べきだということ などが複素数太郎から挙げられています。

 一方借金玉さんの立場では、Bは事業主としてはできるレベルではないし、Cも「監修をつける」のレベルになると労力やお金がかかり、到底できるレベルではないということです(ただし、BとCについては複素数太郎は応答として提示しただけなので積極的に主張しているわけではありませんし、話題になっていた「メンヘラ芸」の話も複素数太郎が始めたものではありません。よって、実はそもそも複素数太郎と借金玉さんの間にそこまで対立はないように思われます)。

 

 また、借金玉さんの主張では、それが一つの事業である限りその事業の内部において「コンプライアンスを守る」ためには、ある種の禁止をしてもよいという立場だと思います(「外でやる人には文句はつけられない」ものの)。一方、複素数太郎の立場からすれば、そのような規約をあらかじめ設けることは「抑圧」や「暴力」といった言葉遣いになるでしょう(ただし、規約とは関係なく、実際に支援にする場面においてある種の禁止をすることまでは、複素数太郎は積極的に否定まではしていないように思います)。
 借金玉さんはこの話について、アカデミズムとしてそういう議論は成り立つし、「お友達」に接する分にはそうありたいが、一つの事業としてやるならば禁止することになるということになるということだと思います。

 

 しかし、――あくまで僕が思うにですが――可能な限り、一つの事業の中であっても先ほどのBやCのようなことをすべきだと思います。この点についても8月25日に議論したい内容です。

 参考までにざっくり言っておけば、僕自身もサークルクラッシュ同好会やサクラ荘の内部で自傷オーバードーズを「禁止」したことはありません。それは、たとえ「事業」をやっていたとしても、やはり抑圧的でない関係性を作ることが重要だと考えているからです。

 

 そしてこの話は1-1の④で述べた「リスクのある人間の排除」にも適用できる話でしょう。僕が思うに「リスクがある」とされた人間をあらかじめ排除することは、責任を取るための「事業の論理」だと思います。それ自体が間違っているわけではありませんが、「当事者事業」であればこそなおさら排除という「抑圧」には繊細になるべきでしょう。もちろん無際限に「来るもの拒まず」というわけにはいきませんが、できるだけ排除せずに継続できるような事業のあり方についてはまだ工夫のし甲斐があるように僕は思います。

 参考にまで言っておけば、複素数太郎の批判対象であったメンヘラ.jpは、途中で規定の文言を少し変えています。
 元々メンヘラ.jpに書かれていた文言は「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」だったのに対して、現在では【メンヘラ.jpでは掲載できないコンテンツ】として「病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」が挙げられているという変更です。これは、病気や障害を「魅力」として扱うことへの権利とリスクとの間のバランスを踏まえ、「禁止」という抑圧をスタートラインにしない、ベターな文言の変更だと僕は考えています。すなわち、複素数太郎の批判に意義があるパターンの一例とも言えるでしょう。

 

 再度抽象的なレベルで言えば、どこまでが「アカデミズム」や「お友達」で、どこからが「事業」なのか、また「アカデミズムの論理」や「お友達の論理」がどこまで「事業の論理」に入ってきてもいいのか、という話が論点になるように思います。

 

2-2.「当事者事業」は批判をどこまで受け入れられるのか/無視できるのか

 そして、とても重要な論点として、当事者運動への批判はどうあるべきかという問題があると思います。
 1-1で述べたように借金玉さんの立場からすれば、複素数太郎の主張には問題があります。再度書くと、

①事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれない
②継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしている(それにまともに取り合ってたら運動の継続しようがない)。

ということです。

 一方で①について、複素数太郎の批判は、実際に海外の当事者運動である「ニューロ・ダイバーシティ運動」が「障害者権利条約」のスローガン「私たち抜きに私たちのことを決めるな」に依拠している、ということを援用しています(2ツイートだけ貼りますが、細かい議論はリプライツリーを見てください)。

 

 

 つまり、当事者のニーズに沿った抑圧的でない支援をするということは「当事者運動」としても主流のことであり、アカデミズムの枠内に留まらない上に、「無理難題」ではない批判になっていると捉えることもできます。
 また、②について――これも僕個人の意見ですが――複素数太郎の主張内容だけ抽出し、敵対しない立場の人が、マイルドな言い方に変えさえすれば、批判として有効に機能するのではないかと思います(それが僕がブログ記事に書いた「「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ」でやろうとしたことです)。

 

 そして、先ほどの2-1の議論を踏まえるならば、おそらく借金玉さんの主張は「事業の外部においてはその批判はもっともだが、事業の内部においてはその事業なりのルールがあるのだから受け入れられない」ということでもあると思います。
 そこで、――僕が思うにですが――ある批判を当事者事業がどの程度受け入れるべきかは、「その批判を受け入れられる場」が社会にどの程度存在するかに依存するように思います。例えば、「よそ」に有力な「駆け込み寺」があるのならば、「よそに行ってくれ」というのは分からないのでもないです。しかし、有力な「よそ」がないのならば、「よそに行ってくれ」と言うのは「たらい回し」をしていることになります。
 仮にあらゆる批判を受け入れないのであれば、メンヘラ.jp内でも批判されていた「クラスジャパン」(引きこもり支援)ような事態になりかねません。

menhera.jp

 だからこそ、「どこまで当事者のニーズを優先できるのか」は議論すべき点だと思います。

 

 以上より、「当事者事業」はどこまでの批判なら受け入れられるのか、またどういう言い方の批判なら受け入れられるのかということは論点になると思います。


3.青識亜論さんへのお願いと僕がこれから読む本

 少し雑多でしたが、2で述べてきた論点について僕は議論したいと思っています。それは、1で述べた経緯から、僕は複素数太郎の代理人の立場としても登壇したいと考えているからです。司会を担当していただく青識亜論さんにはぜひとも、以上の論点を踏まえた上で進行していただければとお願いしたいです。

 また、2の論点を踏まえて8月25日までには勉強して、議論を組み立てた上で臨みたいと思います。少なくとも、『自傷行為の理解と援助―「故意に自分の健康を害する」若者たち』(松本俊彦)は、例として出てきた自傷行為オーバードーズをする人への接し方を考えるために読みます。
 他に読もうと思っている本としては、「当事者のニーズ」というのは何なのかという問題を考えるにあたって『当事者主権』(中西正司、上野千鶴子)が挙げられます。
また、アカデミズムが当事者事業にいかに介在すべきなのかという視点では『臨床心理学 増刊第10号-当事者研究と専門知』(熊谷晋一郎編)も読んでおきたいところです。
 他にもいくつかあたりをつけていますが、とりあえずこれぐらいにしておきます。

 

 各位、8月25日はよろしくお願いします。