『当事者研究と専門知』読書会第一回(9/7)の個人的感想メモ

 

 友人のべとりんが『当事者研究と専門知』読書会を開くということで、面白そうなのでskype参加した。当事者活動を実際にやっている人とかも参加してて実りのある内容だった。以下、個人的な感想メモを記す。

 

1.平井秀幸「ハームリダクションのダークサイドに関する社会学的考察・序説」(『当事者研究と専門知』p119-131)の雑な要約

 ハームリダクション(以下HR)とは「合法・違法にかかわらず精神作用性のある薬物について、必ずしもその使用量は減ることはなくとも、その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させることを主たる目的とする政策・プログラム・実践である」とされている。

 

 薬物使用に関するHRは「犯罪モデル」にも「医療モデル」にも対立するものとして生まれたと考えられる。
 「犯罪モデル」では薬物使用を「乱用」と扱い、処罰によって解決する。
 「医療モデル」では薬物使用を「嗜癖」と扱い、治療によって解決する。
 それらに対し、HRのモデルでは薬物使用は単に「使用」というノーマルな行為であり、使用そのものを減らすのではなくて「健康・社会・経済上の悪影響(ハーム)」を減らす方向に持っていく。

 

 その例として「安全な注射」キャンペーンが挙げられる。そこでは、①「安全な注射技術」の伝達、②「注射器具の適切な廃棄」の教授、③「注射実践についての思慮と沈黙」の勧奨(むやみに薬物を使用していると発言したり、使用する姿を見せたりしないこと)といった実践が行われる。なお、「安全な注射」キャンペーンでは、薬物使用当事者をサービスの受け手だけでなく、キャンペーンを広める人としても扱う。

 

 しかし、このようなHRにはダークサイドがある。すなわち、「安全な薬物使用者」の像を示すことによって、それに従わない人は「リスキーな薬物使用者」とみなされてしまう。これにより、「リスキーな薬物使用」の方を選んだ人間は「自己責任」であるとして処罰・排除の対象となることが正当化されてしまう。また、「安全な薬物使用者」がそのキャンペーンを広める者として動員されることで、その処罰・排除はより苛烈なものになりうる。これらは「安全な/リスキーな薬物使用者」の分断統治と言える。
 また、問題の焦点が「薬物使用」ではなく「ハーム」に当たるため、薬物使用以外のリスキーな行為(性病予防のなされていない性行為や、不衛生なホームレスなど)も排除の対象になる恐れがある。

 

 そもそもHRにおける「ハーム」とは何だったのか。これまで述べてきたHRはHIV/AIDSやC型肝炎などの公衆衛生的なものをハームと定義した際に行われる、効果があるというエビデンスに基づいた政策である。つまり、HRは「寛容さ」や「薬物使用当事者の脱スティグマ」が第一義的な目的で行われているものではない。
 それに対して、「薬物使用当事者のQOL」にとってのハームを考えることができる。このハームを対象としたハームリダクションを〈HR〉とするならば、ダルクをはじめとした当事者活動はむしろ〈HR〉を志向してきたのではないか。ここでは、「減らすべきハーム」を定義するのはあくまで「個人」である。一方「ハームの減らし方(リダクション)」の方は、資源調達の困難さを考えれば、できる限り社会が担うべきであると考えられる。
 HRのダークサイドについて鑑みれば、〈HR〉への想像力を高めておく必要がある。そのヒントは日本の当事者活動にあるのではないか。

 


2.ホリィ・センの持った疑問

 「ハーム」は個人的なものとして扱い、「リダクション」は社会的にやっていくということが本当にできるのか?

 

 というのは、ハームとリダクションが分けがたく結びついているのではないかと考えられる。例えば、医療のモデルで考えてみると、「ハーム」の定義は「診断」であり、「リダクション」が「治療」にあたる。あるいは、「ハーム」が「問題」で「リダクション」が「解決」と考えてもいいかもしれない。
 このとき、「治療」や「解決」というゴールによって「診断」や「問題」が定義されてしまう可能性がある。HRの話に戻せば、「リダクション」を社会的なものと考えると、「ハーム」を個人的なものと捉えることが難しくなってしまうのではないか。逆に、個人的な「ハーム」に対して社会的な「リダクション」を当てはめるのは難しいのではないか。

 

3.この疑問に対して出た話

 「当事者研究」の文脈に引きつけて考えてみると、当事者の問題(ハーム)を定義する際にも当事者だけでやっているわけではない。語り合ったり、他人の言葉を借りたりしながら自分自身の問題を定義していく。つまり、個人的な「ハーム」を定義するためにもある種の「社会的なもの」は必要なのである。


 また、ベーシックインカムや、個人が行ける「居場所」がいっぱい社会に作られていくことは、「社会的な」リダクションの例なのではないか。

 

4.更にホリィ・センが考えたこと

 「個人」と「社会」は必ずしも対立概念として捉えられない。「個人」が使える選択肢、資源としての「社会」はむしろいろいろあった方が良い。その意味では公衆衛生型HRが想定する「社会」も、当事者型〈HR〉が想定する「社会」も、個人にとっての「選択肢」として現れてくるのであれば良いものな気がする。(ちょっと違う話だけど、国家がやるべきことは「基準」を定めることであって、「裁量」をすることではないという国家観を思い出した。ハイエクソ連社会主義の批判の文脈で言ってるらしいが……)

 

5.他に面白いと思った話


・公衆衛生型HRが批判されているけど、誰でも真似できる共通の枠組みがあって、効果のエビデンスもあるんならけっこう良いことなのではないか。むしろ、当事者型〈HR〉はすごく個人の力に頼ることになるし、形式化された枠組みもないし、危ういものなのではないか
(個人的な意見としては、「リスキーな当事者」がスティグマされることによって生じてしまう「罪悪感」と「孤立」を防ごう!という枠組みは共有できるのではないか、と思った)

 

・本で扱われているのは薬物使用だったけど、自傷行為とか性的逸脱とかアルコール依存とかでもHRの考え方は応用できる可能性がある。しかし、その対象によってHRの方法だけでなくHRを行う主体も変わってくるだろう

 

・日本とオランダでは対人観がそもそも全然違うよねという話。オランダで公衆衛生型HRが発達した(?)のは新自由主義的な対人観があったからではないか
(個人的な意見としては、日本はねじれた新自由主義のようなものがあると思う。マクロな社会政策としては新自由主義的だからこそあまり福祉が発達せず、HRも発達しなかったのではないか。しかし、ミクロな対人観としては新自由主義がそこまで浸透していないからこそ、ダルクのような〈HR〉の先駆的存在が発達したのではないか)