西井開さん
が主催しているメイル・セクシュアリティーズ研究会において、10/8(月・祝)に『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化から見たその実態』の読書会が行われた。
この本は大ざっぱに言えば、「男性学」に分類されるものである。しかし、(フェミニズム的な問題意識による)男性性の暴力性や加害性への反省を主題にしたものではないし、「男らしさの鎧」とも言われる男性特有の生きづらさを主題にしたものでもない。そうではなくて、フェミニズムから距離を置いた「男らしさ」のある種の”肯定的な”側面をポピュラーカルチャ―の調査から見出そうという本である。
また、「男らしさ」なるものがどこか時代遅れになる中で、保守反動的に昔の「男らしさ」を復権しようというのでもない。この現代の文化・社会状況において「男らしさ」を肯定できるとすればいかにしてか、という問いに貫かれた本だと言える。
私はこの本の第三章、第五章、第六章のレジュメ作成を担当した。この本をこれから読む人/読まずに情報を得ようとしている人などのために、せっかくなのでブログ上で公開しておく。ただし、第六章のまとめは少し雑なので、このレジュメだけ読んでも何言ってるか分からない気がする。
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第三章 部族化するおしゃれな男たち――女性的な語彙と「男らしさ」の担保
谷本奈穂[1]・西山哲郎[2]
[1]社会学者。1970年生。関西大学教授。ポピュラーカルチャーを雑誌や漫画などのメディアから分析するのをよくやってらっしゃるイメージ。『恋愛の社会学』と『美容整形と化粧の社会学』が有名。
[2]社会学者。1965年生。関西大学教授。谷本さんと同じく阪大出身で年齢も近いし、旧知の仲なのだろうか。調べたところスポーツ社会学が専門っぽい。この本でもよく触れられるブルデューについての論文も書いておられる。
1 「男らしさ」とおしゃれの微妙な距離
ファッションは集団や自己に向けて自らを対象化させる装置にもなりうるため、ファッションはその人のアイデンティティの構築に強く結びついていると言われてきた。しかし、服装や髪型にあれこれと気を配ることは女性特有の振る舞いとみなされ、それを男性がした場合は「軽薄」「男らしくない」とみなされてきた。現在もそのイメージは根強く残っている。
2 男性の灰色化
服装の近代化
おしゃれをする男が軽薄で女々しいというイメージは19世紀以降の「近代の慣習」だという。19世紀半ばのテイラード・スーツの登場以降、男性服は簡素化した(男性の灰色化)。
日本における服装の近代化
西洋でも日本でも服装の華美/質素は性差ではなく身分差に左右されていた。しかし、明治時代になると、鹿鳴館(外国との社交場)の開設を機に、身分の高い女性は表を着飾って出歩くことを求められるようになったのに対し、男性は燕尾服やフロックコートなどのフォーマルウェアを着るようになった(身分差から性差へ)。
日本の管理社会の中では、西洋のフォーマルウェアが持っていたダンディズムや遊びの性格は希釈され、西洋以上に「灰色化」したと言える。
勤勉に働きうる身体
流行(モード)と言えば、女性のものとなり、男性は近代産業社会建設のための機械化兵士(サイボーグ)として選ばれたと言える。体を鍛えたり、働いたり稼いだりすること、すなわち「勤勉に働くこと」ができる身体を持つ男性こそ「男らしい」とみなされるようになった。
3 おしゃれな男
灰色化の拒否
高度経済成長とそれに随伴する消費革命の展開〔70~80年代頃?〕によって「おしゃれ」を目指す男性が増えてきている。そのような男性の意識を考察するために、インタビューを実施する。
「おしゃれ」であることの最低条件として、①本人がおしゃれ好き(服装や髪型に気を配る)である ②他者からおしゃれだと評価される を設定し、それらを満たすと思われる読者モデルやセミプロのモデルへのインタビューを実施した。
彼らには「目立たない洋服を着てその他大勢に埋没すること」を嫌がる心性が見られた(Cさんが制服も私服も可能な高校を私服で通っていた語り)。
自分を生かすおしゃれ――女性的な語彙[3]
おしゃれに関する意識やこだわりを尋ねたところ、「自分の中での決まり」「自分を生かすこと」といった、「自分」を意識している言葉が現れた。つまり、異性を中心とした他者ではなく、「自己」を意識し、自分の髪質に合うもの、身長が高くスリムな自分の身体に似合うものを着ようとする意識がある。
また、「流行」や「同性」を意識しており、これらの身体観はある意味「女性的」である。というのは、著者らが行った2003~2005に大学生を対象としたアンケートでは、普段、身体に加工をするのはなぜかということを尋ねたが、「自分らしくあるため」「自己満足のため」「流行に乗り遅れないため」「同性から注目されたいから」という回答は、主に女性から得られたからである。一方、男性は女性に比べ「異性にもてたいから」という回答が多い(谷本 2008『美容整形と化粧の社会学』)。また、「自分の中にあるこだわり」を大切にし、「自分の特長を生かすこと」を心がけるという点で、谷本(2008)の美容整形経験者の女性へのインタビューとも共通している。
よって、「おしゃれ=男らしくない」というイメージ通りであると、とりあえず主張できる。
化粧の拒否――「男らしさ」の担保
しかし、他方で彼らには外見に関する「男らしさ」への強いこだわりもあるのではないか。具体的には、中高年女性が化粧や美容整形をすることを歓迎するのに対し、同性(特に友人)が美容整形や化粧をするとなると、「男がするものではない」という理由で否定的な目を向けたり、それをホモセクシュアルであるとみなしたりする。そうすることで自身の「男らしさ」(また、異性愛であるということ)を担保していると考えられる。
[3]本文中に「動機の語彙」という言葉が出てくるが、これはミルズというアメリカの社会学者の概念で、「動機」はいかにも個人の内面にあるように見えて、実は社会的なものであるということを示す概念。人は何かの行為の動機を問われると、集団や社会の規範に即した説明をしてしまう(例えば、「なぜ無断欠席したのか」と問われた際にどのように答えるかを考えてみればよいだろう)。
4 同質社会性――小集団化するジェンダー意識
以上のような女性的とも言える身体意識と、男性的とも言える身体意識の両立はどのような社会背景から生じているのだろうか。
似たもの同士の友人関係
日本の前期近代においても、大正時代の「モボ・モガ」や、昭和三十年代の「太陽族」や「みゆき族」など、「灰色化」に抵抗した小集団は存在していたが、彼らの卓越化戦略は、結局は購買能力の豊かさに還元できる。つまり社会階層のどこかに自分と他者を位置付けることで、社会の一員としてのアイデンティティ獲得を目指していた。
それに対し、60年代後半のヒッピー文化に始まるサブカルチャーの発展は、水平的な差異化を狙いとするものだった。つまり、経済的貧富の差ではなく、ライフスタイルの違いによって、人々は自己の存在を主張するように変わってきた。そのような自己の差異化戦略は、80年代のバブル景気に乗って記号論〔差異=価値〕的な洗練を加えられた(分衆化[4])。
「分衆」の観点からインタビューについて考えると、彼らの「友達がすることを止める」という発言は注目に値する。つまり、おしゃれな男性にとって、異性である女性が(場合によっては赤の他人である男性も)化粧や美容整形をしていいと考えながら、自分に近い存在である同性の友人には自らの持つジェンダー規範を遵守させようとする傾向がある。
そして、「大切なもの」を聞いた際の語りから、彼らは同性の友人を非常に大切にしていることが分かる。また、その友人たちは彼らと同様「おしゃれ」な人たちである(「目立つ」、「おしゃれに無頓着な子はあまりいない」、「かっこいい系のグループ」、「DJ」、「ショップ店員」)。また、グループのメンバーが外見的に似た者に変化していくという語りも見られる。以上より、おしゃれな男性たちのグループは「分衆化」の徹底として形成された小集団だと言える。
部族から、働く身体へ、そして〈部族〉へ
価値観が多元化した現代においては、近代以前の部族のような〈部族〉的小集団の一員として暮らすことが望まれるようになった。つまり、合理性を基盤として構築される会社や国家のような組織に代わり、アイデンティティの拠り所として美的センスやライフスタイルを同調できる集団が〈部族〉的な小集団として浮上するようになった(「世界の部族化」by ミッシェル・マフェゾリ)。
近代以前の部族社会では、集団の将来が、外敵や自然の脅威に晒されていたのに対して、現代(または後期近代)では生活に対する脅威が内部的な「リスク」として抱え込まれる点に違いがある。そのため、団結の契機を失い「同質の者と共にいたいという願い」がせり出してくるのが現代社会である。
「勤勉に働く身体」として「同質」になれた時代は終わり、普遍的な合理性に貫かれた社会建築の理想は、(局所的にのみ共有される)美学による生活のスタイル化の夢に取って代わられた。マフェゾリによれば、男性のおしゃれは個人主義ではなく、小集団快楽主義の表れである。そうして彼らは、同質の者と小集団をつくり、〈部族〉の象徴となるアイテムを身にまとうことで、かろうじて自己の意味の断片を拾い上げていくしかない。インタビューに見られた女性的な部分と男性的な部分は、この断片を拾い上げる作業(ブリコラージュ[5])の中で両立していると言える。
これは同時代人に共通する生活状況である。そのため、今後、身体やジェンダーに関わる意識を考察する場合には、年齢や性別といった個人の属性に加えて、こうした〈部族〉的な小集団の布置状況を検討していく必要があるだろう。
[4]1985年に博報堂生活総合研究所編の「分衆の誕生」にて定義され、同年の新語に選ばれた語である。ある製品が普及し1世帯あたりの平均保有数が1以上になることをいう。たとえば自動車やテレビのように1世帯に1台だったものが1世帯に2台ないしは1人1台のように状況が変化することである(Wikipediaより)。
[5]構造主義の代表格である文化人類学者レヴィ=ストロースの用語。「あり合わせ」という意味で、「エンジニアリング」と対比される。言うならば、西洋の人たちは物を合理的な設計図のパーツとしてしか捉えられないが、「未開」の部族の人たちは物を記号として捉え、柔軟に何にでも応用することができる。
第三章を受けての議論:
・社会階層は本当になくなったのか? 確かに、ブルデュー的な卓越化の議論(クラシック音楽が高尚、みたいな話)には批判がある(例えば、北田暁大は東浩紀の「動物化」に触れつつ、アニメのような趣味領域では「高尚/低俗」のような軸での卓越化はほぼ働いていないということを『社会にとって趣味とは何か』で指摘している)。
とはいえ、収入の格差はやはり厳然として存在するし、近年の「階層」はむしろ「コンプレックス」という形で現れているようにも思われる。コンプレックスの代表格として、まず身体的特徴(とりわけ顔や体型や身長や頭髪)とコミュニケーション(とりわけ性愛に関するもの)が挙げられるだろうし、「学歴」や「健康」などもコンプレックス産業になっている(もっとマイナーなのだと、「語学」とか「料理」とか「片付け」とか「家計」とか……本屋にコーナーがあるものはコンプレックス産業と間接的には繋がっているのではないかと私は邪推している)。
男の選び方が三高(高収入・高身長・高学歴)から三低(低姿勢・定依存・低リスク)に変わったなどともいわれるが、ポジティヴなものを増やすのではなくてネガティヴなものをなくしていく方向性があるような気もする。しかし、それで得られるアイデンティティや連帯というのは「共通の敵」や「異質な者の排除」によるものになってしまうのではないか。本文でも「同質性」について書かれていたが、「おしゃれな男」の連帯は「非おしゃれな男」や「女性」の排除によって成り立っている側面もあるだろう(これもホモソーシャリティか。その連帯が加害性を持つかどうかがすごく重要だとは思うが)。
・「勤勉に働く身体」としての「男らしさ」が「普遍的な合理性に貫かれた社会建築」のための資源になっていたと考えるのは面白い。今や様々な〈部族〉で男性性や女性性が断片的な資源として用いられているのだとすれば、身体的な性別が男性や女性やそれ以外であったとしても、「男性性」/「女性性」/「セクシャルマイノリティ性」はそれぞれ、〈部族〉として断片的に(ハイブリッドな形式で)用いることが可能なのではないか。例えば、近年話題になった「ジェンダーレス男子」などはそれぞれを断片的に拾い上げているようにも思われる。
第五章 一人ぼっちでラグビーを――グローバル化とラグビー文化の実践
河津孝宏[6]
[6]東京大学大学院学祭情報学府博士課程在学中(2009年情報)、WOWOW勤務。1971年生。著書に『彼女たちの「Sex and the City」――海外ドラマ視聴のエスノグラフィ』(せりか書房、2009)
1 グローバル化とスポーツ文化、そして男性性
メディアで注目されてきたプロ野球と大相撲は退潮し、80年代後半からはF1、サッカー、バスケ、総合格闘技が表に出てきている。また、野球にしてもメジャーリーグがメディアに出てくるようになり、メディア資本の国際的な再編と共に、私たちが接しているメディアも国際化が起こっている。
これは、グローバル化として、また、社会学者のギデンズの言葉で言えば、「脱埋め込み(特定の場所に根付いた対面的な社会関係や共同性から個人を引き剥がすこと)」[7]の進行と言える。ただし、グローバル化はローカルに積み上げられてきた伝統や制度を一掃してしまうのではなく、両者は錯綜しながら新たなスポーツ文化の実践のコンテクストを形成していく。
また、多くのスポーツ文化に見られる男性間の連帯や共同性は、家父長制における男性優位性の確認・維持の装置となる「ホモソーシャリティ(男同士の絆)」[8]として指摘されてきた。しかし、グローバル化の中で、「体育会系」とも称される男性メンバー同士の閉鎖的な結束と連帯のあり方も相対化されることになる。
この章ではラグビー者(プレーや観戦や語りを通じてラグビー文化に接する者)の経験を扱い、グローバル/ローカル双方のコンテクストの交差を読み取る。
[7]イギリスの社会学者ギデンズは近代化を
①時間と空間の分離(テレビで世界の様子が中継されたり、乗り物ですぐ遠くに行けたりなど)、
②脱埋め込みメカニズム(専門家システム(電車がどうやって動いてるか、法律がどうやって運用されているか等知らなくても使える)と象徴的通標(貨幣など))、
③制度的再帰性(「伝統」は疑われずにその伝統の元で行為はなされていた。しかし、今や制度は絶えずチェックされ改変され、その制度のもとでまた行為し、行為によって制度が変わり……という感じで「構造→行為→構造→……」のループが起こるということ)
の三つに整理している。
[8]英文学者セジウィックの用語。非性的な男同士の絆のこと。その成立にはしばしばホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)が伴うとされている。それはすなわち、性的な絆を私的領域に押し込め、互いが異性愛であることを確認し合うことによって、安心して公的な領域で非性的な絆を形成することができるということである。
2 日本のラグビーの熱狂と停滞
ラグビーは名門大学や一流企業のイメージと結びつき、戦後日本社会の集団主義的な体制を表象する一面を有してきた。特に70年代末から90年代初頭に人気だった。
80年代にはメディア表象としてラグビー文化が取り上げられ、まともに成立していた。そこでは、ラグビーによる男性たちの結束がウェットに描かれていた。しかし、著者によれば今ではその表象に違和感をおぼえるのだという。その違和感は、90年代中盤以降のラグビー文化のメディア上での退潮と同じ地平にあるという。
一九八〇年代の「大学生的」熱狂
ラグビーは慶應、京大、早稲田、明治などの大学チームによって牽引され、戦後の社会人チームの台頭を経て、70年代から80年代にかけてポピュラーになっていく。伝統的な早明戦は戦略的な意味での対立構図を提供してくれるため、大学生とOBを中心とした一大イベントとして人気を博していった。
明大の元学生によれば、90年代初頭、早明戦で勝ったチームは新宿歌舞伎町のコマ劇場前を占領し、飲み会していたという。早稲田の名フルバックだった今泉清は、ペナルティ・ゴールを狙う際に大股で五歩ステップバックするルーティーンでおなじみだったが、観客がそのステップに合わせて「イチ、ニ、サン、シ、ゴー」と大コールするのが恒例だった。これは、学生たちの飲み会のコールと連続していた。
八〇年代/九〇年代の断層:コンテクストの開放
スポーツ総合誌『Number』の表紙掲載回数を見ると、80年代はラグビー隆盛の年だったが、90年代になってF1やサッカーに取って代わられたことが分かる。また、ラグビー特集のタイトルを見ると、国内のみに焦点を当てたものから、国際舞台における日本ラグビーの位置付けを前提に構成されたものに推移していった。80年代のように国内のコンテクストに内在したままでは商品としての特集が成立しなくなっていったと言える。
ローカルな文脈からの離脱
ここから80年代後半からのスポーツ文化のグローバル化が読み取れる。実際、ラグビーにおいても大学間対抗というローカルなコンテクストに留まらず、87年のワールドカップの開催を端緒にグローバル化が進展していった。大学ラグビー中心のアマチュアリズムから決別し、トップカテゴリーである社会人リーグの全国化とプロ化、つまり「世界標準」へのキャッチアップを目指すことになる。
ギデンズ的な枠組みで言えば、プロ化という名のもとに場所の特殊性を消失させる「象徴的通標」に手を伸ばし、脱埋め込みプロセスが進んでいったと言える。
3 ラグビーをプレーする――ローカルな共同性の実践
このような経緯を踏まえたうえで、「ラグビーを愛好すること」の今日的な実践の在り方に接近するため、プレー/観戦を問わず様々な形でラグビーに接したことのある人達へのフォーカス・インタビューを行った。
ラグビー部での日々――過酷さから連帯へ
ラグビー部の活動の厳しさ、つらさが異口同音に語られ、また、拘束時間の長さと肉体的な負荷の高さゆえに、部員のラグビー外の活動や人間関係を制限しがちである。
しかし、そんな過酷さにもかかわらずラグビーを続けられる理由は、メンバー間の連帯だという。ラグビー部のメンバーは、他の運動系クラブと比べても、その非日常性ゆえに外部からの「隔離」に近い状態に置かれやすい。そのため、部員たちは互いを扶助しあい、連帯や一体感を強めていく。
連帯の符丁としての男性性
ラグビーでは卓越した個人技よりもチームとしての連携を保ち続ける献身的なプレー姿勢が要求される。その中でのプレーは必然的にある種の精神的高揚を伴い、攻撃性や荒々しさといった男性的なトーンを帯びたものになる。
つまり、連帯や相手チームの対抗心などの集団的な性質から個人個人の男性性が発露されており、そこにはホモソーシャルな関係性の実践としてのラグビーがあると言える。
チーム内部での濃密な経験/外部との断絶
語りによれば、青春期の生活における潜在的な空虚さに対して、「熱さ」と「濃さ」を注ぎ込んでくれる存在としてラグビーが選ばれている側面があるという。そして、そんなラグビーへの特別なコミットメントは指導者との人格的な結びつきと関係があるという。ラグビーに打ち込んできた選手を指導者は見守り、その言葉によって彼らのつらさに意味を与えるため、彼らは「救われる」経験をすることになる。
しかし、以上のような濃密さゆえに、ラグビーの外部にいる者との経験の共有は難しく、温度差が生じてしまい、ラグビーに対するステレオタイプ的な表象(「痛い」、「つらい」など)を自分が引き受けることでお茶を濁すしかないという。それゆえ、ラグビーの濃密な経験はプレー共同体の内部に封じ込められることになる。
ローカルな共同性の実践
ラグビーをプレーすることは、スポーツの実践であると同時に、チーム内で完結したローカルな関係性の実践でもある。
しかし、学校制度と結びついた実践空間は期限つきで一回的なものである。特定の場所に根付いた関係性から離脱したコンテクストにおいてのラグビーの実践はどうあるのか。
4 ラグビーを観る――共同性からの離脱と競技性の消費
プレーしなくなってからラグビー文化へのコミットメントを維持するには二つの条件がある。それは、ラグビーを巡るローカルな共同性(かつてのチームメイトとの縁やラグビー経験を共有する場)を維持することと、ラグビーという競技に関わり続ける(観戦する)ことである。
共同性の再構築
ラグビー実践における共同性を維持した例として、47歳のインタビュイーのFは卒業後も草ラグビーでプレーを続け、大学時代の仲間と共にラグビー観戦を趣味として母校を応援し、国内のプロリーグである「トップリーグ」や日本代表の試合もカバーしていたという。Fの人間関係もラグビーを軸にして形成されている。
しかし、これは希少な例だと言える。Fが30歳代だった90年代半ばまでは秩父宮か国立競技場で大きな試合が行われていた。グローバル化による「脱埋め込み」を受けずに東京で観戦を続けられたために、80年代と同質の共同性の中に居続けることができていると言える。
「脱埋め込み」後のラグビー観戦――グローバルで私的な実践
一方、75年生まれのインタビュイーBに注目すると、Bは高校・大学のチームメイトと親交を続けているものの、観戦の経験を共有できる人がいないという。Bは海外のラグビー中継、特に南半球三ヵ国による国際大会に熱中し、サッカーも観ているために、国内ラグビーは後回しにされ、実際に観に行くことも少ないのだという。
Bが大学を卒業してプレーの第一線から退いたのが90年代後半であり、ラグビーのグローバル化が進んでいた時期であった。個人でアクセスできるコンテンツの範囲が広がり、本人にリテラシーがあれば限りなくマニアックなコンテンツに浸ることができる今日の環境において、メディア実践は個人化していく。オールブラックス好きが高じてニュージーランドへの短期留学まで果たしたBの個人的なコンテクストは他のラグビー者一般と直ちに共有できるものではない。ギデンズ的な枠組みで言えば、Bは率先して「脱埋め込み」に応じ、その後も何らかのローカルな共同性の中に「再埋め込み」されることもなく、自由で孤独な実践を続けている。
5 排他性と優越性なき「男」
Bのラグビーやサッカー観戦の実践は、家庭においても共同性の外にある。このような共同性なき実践における実践者は、男でも女でもなく「私」であると言える。
ラグビーにおいて発露する男性性が、メンバー間のホモソーシャルな連帯を維持し確認するための符丁ではある。しかし、著者のインタビューからは他者の姿が見えてこない。自らを「男」というカテゴリーに区分けするために必要な「男でない者」を、彼らは語りの中で分節化・対象化することはなかった。
むしろ、大学ラグビー部の女子マネージャーAの語りは、彼女がプレーに参加できずともチームの強い連帯の中に組み込まれていることを示している。ここでは従来のスポーツ文化におけるジェンダー研究と違い、「男でない者」に対する優越性や排他性を前提としない「男らしさ」が見出される。ラグビー者は「仲間」であるために必要な限りで「男らしさ」を引き受けているのであって、決してその逆ではない。だからこそ、「仲間」の連帯から解かれたとき、つまりラグビー者がプレー空間の共同性から「脱埋め込み」を受けたとき、彼らはもはや「男」というカテゴリーから離脱して、「私」としてラグビー文化に関わっていく。
第五章を受けての議論:
・ローカルな共同性が「脱埋め込み」されていき、それに代わる「象徴的通標」がグローバルな関係性を作るという話は私自身の研究(ローカルな共同性が希薄な集団において起こるサークルクラッシュ)とも深く関わる論点なので、頷けるところがあった。ラグビーをプレーしなくなった人がどのようにラグビー文化と関わっているのかを追うというのはとてもユニークな研究。
・最後に「排他性と優越性なき男らしさ」という話が出てきたが、プレー空間の共同性から脱した後のBはやはり孤独だとは思うし、それでいいのだろうか。
・むしろ、プレーしていた時代の「男らしさ」はやはり排他性と優越性を伴うものだったのではないか。「脱埋め込み」後の推移から事後的にローカルな共同性を「排他的なものではなかった(だからこそ孤独になっているのだ)」と論じているようにも見えるが、そういう論理展開だとしたら、それはさすがにおかしいのでは。著者はラグビーの共同体を少し理想化しすぎではないか。
かといって、「このローカルな共同性には、排他性と優越性がない!」と実証的に明らかにするのは相当難しいだろうなあ。
・「連帯することによって男らしさが発露され、その男らしさによってまた連帯が維持される」という論理だったと思うけど、「前提として男らしさが目的にあり、だからこそ連帯している」ということはないのだろうか。
第六章 「男らしさ」の装着――ホストクラブにおけるジェンダー・ディスプレイ
木島由晶[9]
[9]社会学者。1975年生。桃山学院大学社会学部准教授。第三章の谷本さん・西山さんと同じく阪大出身なので何か繋がりがあったのだろうか。音楽やゲームなどのポピュラー文化に関する論文がある。共著では「なぜキャラクターに『萌える』のか――ポストモダンの文化社会学」(2008、『文化社会学の視座』所収)や「ゲームはどこまで恋愛できるか」(初版2011、第三版2017、『デジタルメディアの社会学』所収)
1 〈男〉を演じる
「男らしさ」の脱皮と獲得
「男らしさ」は「鎧」であり、脱ぎ去るべきものであるという議論があるが、80年代には、「男らしさ」の獲得が謳われた時代もあった。「男はタフでなくては生きていけない。やさしくなくては生きていく資格がない」(フィリップ・マーロウ)
裏を返せば、「弱さを見せるな」ということである。しかし、やせ我慢の方が恥だと感じられたり、「女々しい」という印象に潜む性差別的な含みが看守されたりすれば、獲得すべきとされたその「鎧」は脱ぎ去るべきものに転じる。
指針なき時代の不安
「男らしさ」が獲得や脱皮の対象となるのは、それが揺らいでいるからである。つまり、「男らしさ」は家父長制が失墜していく戦後史の動きを象徴している。世代論的には「新人類」世代が特にその失墜を切実に受け止めていたと言える。
具体的には、「アッシー、メッシー、ミツグくん」が流行語となり、「弱い女」と「強い男」の関係性が転倒して報じられた際、『Hot Dog Press』のような若年男性向けのメディアは「どうすれば女性を攻略できるか」という特集を頻繁に組んだ。これは旧来の男らしさからの脱皮を促すものであると同時に、失われつつある男らしさを再獲得するための指南でもあり、両義性があった。
しかし、今や脱皮や獲得の基準となるはずの「男らしさ」という観念そのものにも共通の了解を見出せなくなった。つまり、「いかに脱皮/獲得するか」ではなく「何を指針とするか」が切実な課題として表れてきたというのが新しい男性問題と言える。
「男らしさ」を演じる職業
これは、本当に「男らしい」かどうか以上に、そう見えるかどうかが問われているがゆえに演技的な問題と言える。そこで今日的な「男らしさ」の演技を考えるにあたり、「ホスト」に注目する。その理由は二つ。
一つ目は、ホストが「よき男性」として振る舞うことを期待される職業だからである。そこでは、〈男〉と〈女〉の関係がねじれた形で現れる。つまり、ホストクラブでは役割roleとしては男女の関係が反転し、女性が金で男性を「買う」のであり、ホストの支配権や決定権は客の側にある。一方で役柄characterとしては男女の関係が誇張され、女性が男性に金を「貢ぐ」という点で金銭的奉仕を客が少なからず楽しんでいる。いずれにせよホストが「よき男性」とみなされなければ、店にお金は支払われない(役割/役柄の区別については後述)。
二つ目は、ホストクラブそのものに「男らしさ」の変化が示唆されているからである。というのは、90年代の前半頃から、歓楽街のホスト遊びは中年文化から青年文化にシフトした。ホスト以外でも「男の社交場」だった歓楽街がいかがわしさを失い、「マダムの社交場」だったホストクラブにも若い女性が気軽に立ち寄り始めた。
著者は2001年にホストクラブで働いた経験をもとに、店を辞めて以降も梅田・新宿の歓楽街にあるホストクラブを中心に聞き取り調査を続け、①オーナーが二十歳代前半~三十歳代前半で、②店は90年代の後半以降に作られたものであり、③従業員も客もに十歳前後の青年層を中心としている店を調査した。その調査から、今日のホストがいかに「男らしさ」を演じているかを検討する。
2 上演舞台としてのホストクラブ
ゴッフマンのユニークネス
分析の前に社会学者ゴッフマンの理論を整理する。ゴッフマンの着眼の特色を大きく三点抽出する。
①行為の中身(何をするか)よりも、外見(どう見えるか)に注目したこと。言い換えるなら、「役割-行為」ではなく、「役柄-表出」に力点が置かれる。〈男〉と〈女〉の関係に当てはめるならば、「男は仕事、女は家庭」という役割分業のありよう以上に、「男は堂々と、女は可愛らしく」といった挙動やしぐさが分析される。
②集団そのものよりも、それが立ち現れる背景に注目したこと。社会学では通常、関係性のあり方から集団を類別するが、ゴッフマンはむしろ、人と人とが居合わせる社会的場面の方こそを類別した。つまり、集団があるのではなく、いかにして集まりが形成されるのかに注目し、「出会い」encounter(人々が居合わせる曖昧で流動的な状況、雑踏におけるすれ違いなど)から「全制的施設」total institution(外部から厳格に隔離され、管理の行き届いた施設、精神病院や監獄など)までを分析の対象とした。
③そうした場面で他者の面前に表れる「私」の姿を、重層的に捉えたこと。複数の「私」を横に並べて把握する(会社ではよき社員、家庭ではよき父)のではなく、深さの層として把握する(本音と建前、素顔と仮面、など)
ゴッフマンは社会学的な認識枠組みの図と地を反転させ、「秩序→対面相互作用場面」の矢印ではなく、対面相互作用場面から秩序が立ち上がってくる矢印を探求したと言える。
パフォーマンスと局域
ゴッフマンの『行為と演技』は、劇場のパフォーマンスのように社会を分析する。場面を「劇場」に、そこにあるものを「舞台装置」に、そこにいる人々を「役者」や「共演者」や「観客」などに見立てる。
パフォーマーたちが演じる「局域」regionは大きく三つに分離されやすいとゴッフマンは指摘する。①役柄がオーディエンスの眼前で成功裏に演じられる「表局域」、②オーディエンスから隔離されて役柄から降りる「裏局域」(舞台裏)、③そのどちらにも属さない「局域外」とに区別される。
自営する従業員
ホストの仕事は①接客、②キャッチ、③営業に分かれる。①接客は店で客を楽しませること。②キャッチはホスト自身が街に繰り出し、行きかう女性に声をかけてつかまえること。③営業は客(または客候補)と店の外で親睦を深めること。
明けない仕事
以上より、①は夜、③は昼、②は昼夜分かたず行われている。夜は従業員の役割、昼は自営業の役割を果たすと言ってよい。
ホスト社会の局域編成
このように考えると、ゴッフマンの区別につけ加えて、夜の接客場面を「表局域」とするならば、昼の営業場面は「下位局域」と呼ぶことができる。「下位局域」は従業員の目からは見えないという点で、個人事業主としての「舞台裏」となるのである。
彼らが演じる「男らしさ」の特徴を掴むには、店の外にも注目する必要がある。
3 ホストクラブのジェンダー・パフォーマンス
ホスト社会の競争原理
ホストクラブは一種の駆け込み寺であり、広く門戸を開いている。その理由は二つある。一つは、慢性的に求人難だから(重労働)、もう一つは採用しても損をしないからである(歩合制)。
ホストクラブで重要なのは結果であり、手段はどうあれ売上げればよい。売上至上主義は広告やトイレや厨房に掲載される「売上ランキング」にも表れている。そして、売上によって歩合給が上昇したり、出勤時間をフレックス制にできたり、豪華なマンションが貸し与えられたりする。また、職階も基本的に売上で決まる。この売上の競争は「面子」の競争であると言える。
生活世界の局域化
ホストは売上を伸ばすために、〈男〉を磨く(自身の商品価値を高めるために外見に気を遣い、コミュニケーションの取り方を学ぶ)。また、営業の「舞台」を整える(人気の料理屋やアミューズメント施設をおさえておく、自宅を「営業用」に演出する)。そして、売れたら売れた分だけ身辺の演出にかけられる費用も増えていく。ここには、「誇示的消費」(ヴェブレン)の原理も見て取れる。稼いだ分だけ演出に注ぎ込むのは、彼自身がそう欲求しているからというよりも、ホスト社会の規範的な要求に従わざるを得ない部分が大きいと考えられる。
ともあれ、身辺の演出に精を出せば出すほど、彼らの生活世界は「局域化」していく。つまり、「局域外」の領域がなくなっていくということだが、局域化が進行するほど、役柄であったはずのホストの「仮面」は、限りなく当人の「素顔」に近づく。外見と中身、演出と実像といった区別がつかなくなり、普段からホスト然とした佇まいが備わることになる。
面子でつながるバディ
ホスト社会の競争原理は客にも作用している。彼女たちにとっても、自分と接するホストが売れるのは名誉であり、売れないのは恥であるという感覚を共有している。
その理由は客とホストが中長期的に二者関係を築くからである。ほとんどのホストクラブに一度自分の担当に指名したホストを二度と変更できない「永久指名」の制度があり、ホストと客は互いの面子をかけて共闘する「バディ」の関係になると言える。
そして、ホスト同士の売上競争と同型の構図が、一人の担当ホストを中心とした指名客同士の支払い競争において生じる。これもまた「誇示的消費」と言える。ホストの側も、「下位局域」において客一人ひとりに対して、「お前が一番」あるいは「特別」といった態度で接することを余儀なくされることになる。また、時間差で客に会うなどの工夫も行われることになる。
オブジェとしての男性性
一ヶ月間の売上が決定する月末(締め日)において「舞台」は輝く(接客をするホストを支援するヘルプが入る例)。「ドンペリコール」では、客は単なるオーディエンスではなく、その場に見合う〈女〉として映るよう、パフォーマンスをする。客は昼に「尽くされる女」となるのに対し、夜は「貢ぐ女」として金銭的な奉仕に努めるが、従来の「尽くす女」と違うのは、通常の性別役割分業が男性を「陰」で支える役回りであるのに対して、彼女たちは店で奉仕し、店でその功績が大々的に賞賛される点にある。
ゆえに担当ホストは、夜は「貢がれる男」としてふんぞり返っているようでいて、実は客の誇示的消費を満足させるオブジェのようなものである。
4 「男らしさ」のコーディネート
望まれる男性像の探知
旧来的な男らしさとホストの演じ方では二つの違いがある。一つ目は、「男の美学」を持たないことである。北方謙三が述べるような、旧来的な「男らしい人間」は、「羅針盤」としての「男の理想」を内面にインプットし、自分のルールを押し通して生きるタイプであり、いわば「信念の人間」である(リースマンのいう内部指向型にあたる)。一方、ホストの演じ方は客のニーズに従い、相手の反応を敏感に察知する「レーダー」を研ぎ澄ませる「空気を読む」人間である(リースマンのいう他人指向型にあたる)。前者は「男の誇り」を守り抜くことに自尊心を持つのに対し、後者は「売上のランク」を守り抜くことに自尊心を持つ。
望まれる状況の探知
二つ目の違いは、単一の役柄に固執しないことである。ホストはある種の感情労働と言えるが、葬儀屋などのように一貫しているわけではない、言わば「カメレオン型」の感情ワーカーである。
「男らしさ」の衣へ
ホストは、一つの「私」を信じぬくことが困難になった今日における「男らしさ」の在り方を、ある部分で象徴している。彼らは「男らしさ」を無理に獲得しようとも、脱ぎ去ろうともしていない。「らしくある」とはどういうことかを悩まず、「形から入る」のであって、「らしさ」は後からついてくる。
彼らにとっての「男らしさ」とは、必死で獲得/脱皮する「鎧」というよりは、なんとなく着脱する「衣」のようなものである。衣を着脱することに屈託がないのは、自分の望む〈男〉以上に、相手の望む〈男〉を演じようとするからである。
ここには「男らしさ」を楽しむ、いわば「試着」を許す寛容さがある。ただしその快楽はむろん、状況に適切な役柄をどう「着こなす」かという不安と背中合わせの関係にある。いずれにせよ、今日の若年男性は「男らしさ」を上手にコーディネートしていかざるをえない。
第六章を受けての議論
・「着脱」ができる人ばっかりではないだろう。社会学の若者論では、一元的自己から多元的自己(あるいは、平野啓一郎の言う分人主義)へと変化しつつあるということが言われているが、それでも相当数「一元的自己観」を持った人間はいる。ホストの中にも、役柄間の葛藤や、役柄に「素の自分」が引っ張られることに苦しむ者はいるのではないか。
・男らしさというよりも、自分らしさ(アイデンティティ)の議論が中心だったように思う。強いて言うなら、女性のニーズを媒介して自分の〈男〉らしさを作り上げていくこと、また、その作り上げ方が主体的な”演技”であることが現代的なのかもしれない。
・(女性が持つ)オブジェとしての男性性という議論は面白かったが、旧来的な「オブジェとしての女性」が反転しただけのような気もする。