バイバイ サークラワールド

 この記事は

adventar.org

の25日目の記事です。24日目の記事は複素数太郎の

sutaro.hatenablog.jp

でした。

 

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 今日は13:30頃に起きた。
しかし、なんと言えばいいのか分からないが、端的に言えば、僕は記憶を喪失した。
 名前は何かと言われれば答えることはできるし、「君は中学のとき何の部活に入っていた?」と問われれば答えることはできる。そうではなくて、ただ漠然とした断片的な記憶がバラバラに存在しているだけであり、それらが線を結ばない。それらの過去が意味を持って、僕を構成することはない。今ここにいる僕は何者なのか、それが分からなくなってしまった。
 ただ、今日は自分について語らなければならない、それだけは確かな感覚としてある。だからその感覚に従い、僕は書くことにする*0

 

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出生

 僕は1991年に生まれ、4000グラム強で出生した超健康優良児だった*1
とはいえ、4000グラム強で出生したというのは聞いた話に過ぎない。僕の意識は(いわゆる「物心」というやつだろうか)4歳のときから始まった。幼稚園の中で、「僕は本当は宇宙人で、この肉体に今さっき入ったのかもしれない」などと考えた記憶がある。4歳のときから哲学する子どもだったのである*2

 

マシンのような小学生

 小学校に入ってからの僕は、算数が得意だった。小2の頃、1+1=2,2+2=4,4+4=8,……という風に、2の累乗を数えていく遊びが局地的に流行った。みんなはすぐに飽きていたように思うが僕はハマった。みんながせいぜい1024ぐらいでギブアップする中、僕はすぐに262144ぐらいまで数えていた。その後も頭の中での筆算能力を高め、2097152ぐらいまでは言えるようになったと思う。そこからは繰り上がりが面倒くさかったので飽きた記憶がある。ところで、その頃スーパーファミコンで『ぷよぷよ通』をプレイしていたが、ぷよ通のオプションではなぜか0~Fの16進数が使われていた。兄から16進数という概念を教わっていたので、平方数に出てくる256、4096、65536、1048576が何かしら重要な数字なのだろうということを直観的に理解していた。
 算数が得意なことからその力を試したいと思いCMでやっていた公文式にも通うようになったし、そのおかげで暗算も早くなって、小学5年生のときの算数の授業で行われていた「百マス計算」のタイムアタックではクラスでよく1位を取っていた(そろばん勢に負けることも何回かあった)。小学4年生のときの担任は僕のことを「マシンのようだ」と言った。

 

くじ引きの中学受験

 親が言い出したのか僕が言い出したのか、僕は中学受験をすることになる。中学受験をするならということで勉強を始め、慣れない小論文のために塾にも通い、見事に筆記試験を突破した。面接試験もあるし、受験時の態度も見られているのだろうということを直観的に理解した僕は借りてきた猫のように礼儀正しく試験を受けたのであった*3
 しかし、なんと筆記試験を突破した後に待っているのはくじ引きだったのだ。内部進学者はくじ引き免除なのだが、外部進学者は26人中17人がくじ引きで受かるというシステムになっていた記憶がある。僕は「約2/3は受かるのか……じゃあたぶん大丈夫だろう」と考えていた。賢そうな子どもとその親が来ている会場の中で、たくさんある封筒の中から僕は一番上のものではなく真ん中の方のものを引いた。「じゃんけんでグーを出し続けると負ける」理論のようなもので、一番上を引くのは何か良くない気がした。しかしそれは裏目だった。
 1~26のランダムに選ばれた数字から始めて、17人が合格という方式だった。しかし僕はその17人に入れず、あろうことか「補欠6」だった。26人いる中で23番目のものを引いてしまったのである。僕はその帰り道で泣いた。
 気持ちを切り替えようと日々を送っていた僕だったが、なんと中学から連絡がきた。入学の権利を認める連絡だったのだ。補欠6だったにもかかわらず僕に連絡が回ってきた理由は、辞退者自体は6人もいなかったのだが、補欠1や補欠2の人たちが既に他の中学に行くことを決めていて、入学の権利を放棄したためだそうだ。周りが中学受験に対して真剣すぎる家庭ばかりであったことが功を奏したと言える。それに、中学のクラスは1クラス40人の3クラスで1学年120人だったのだが、男女比も1:1だったような記憶がある。人数を調整するためにいろんな条件があったからこそ、僕にまわってきたのもあるかもしれない。

 

助走期間としての中学生活

 何にせよ奇跡的に(?)中学受験が成功したのだった。1年生のときは紆余曲折あったものの*4、気が合う仲間たちにも恵まれて2年生からはよく笑うようになった。3年生になっても周囲に勉強する人たちがいたからこそ僕は自主的に塾に通い始めることができた*5。通常国数英理社の5科目を受けることになるのだが、僕は数学が得意だったので数学の授業は受ける必要がないと言った。そして、塾内で初めて受けたテストで数学は1位になり、その実力を証明した。
 高校受験では地元の高校を受けようかと思っていたが、県内トップの高校が部活としてやっている「ディベート」の誘いが中学にあり、見学に行ったところ衝撃を受けた。僕もこの高校に入ってディベートをやりたいと思った。そして、塾に通っていたこともあってか、なんとか合格することができた(点数的にはギリギリだったが)。

 

ディベートに打ち込む高校生活

 一緒に高校に進学したA君と共に、僕はディベートを始めた。ディベート部は週2回の活動だったので、演劇部も掛け持ちしよう、ということをA君と決めた。僕らは入学当初から入る部活を確定していたのである。
 中学校までの野球部と打って変わって、僕は高校では部活にのめり込んだ。どちらも「前で喋る」系の部活だったのもあって、「前で喋る」ことにはかなり慣れることができた。しかし、僕が高校時代の部活で得たものはそれだけではない。
 ディベートは何かの論題に対して肯定側と否定側に分かれて戦うゲームである。例えば、「死刑制度を廃止すべきである、是か非か」という論題に対して、肯定側は死刑制度を廃止することのメリット(つまり、現状は死刑制度が存在することによってこういう問題点があるが、それがなくなることでこのような良いことが起こるということ)を示す。逆に否定側は死刑制度を廃止することのデメリットを示し、現状維持をすべきだと主張する。メリットとデメリットを比較して、大きかった方が勝ち、という勝敗の決め方である。この、「あるプランを採ったときの、メリットとデメリットを比較して、大きかった方の勝ち」という考え方はシンプルだが、その分非常に応用性が高い。日常生活でも何かを選択するときに役に立つ考え方である。
 以上のことに限らず、ディベートという競技は「型」が非常にはっきりしている。議論を組み上げるために書籍やインターネットの資料を調べまくり、いい資料が見つかったら部活動内での共有ドライブだったGmailにアップロードした。全国に遠征して他校の試合を観戦し、盗める議論は盗んだ。部活内では黒板を使いながら日々、自分たちの立論を強くするための議論をした。想定される試合をシミュレーションし、「これがきたらこう返す」という原稿をたくさん作った。それらの原稿を読む練習もし、何秒で原稿が読めるかも記録していった。水も漏らさぬ詰将棋やパズルのような作業で、それが楽しかった。ディベートというと「前で喋る」スピーチの要素が目立つが、実のところ準備が7,8割を占める競技だと思う。
 僕は高校の3年間を通して、そのような「型」を徹底的に学んだのである。芸事の修行における理想は「守破離」だというが、高校ではひたすら型を「守」ったわけである。その結果、ディベート以外の場面では型を「破」ることができるし、ディベートとは「離」れて新たなコミュニケーションのやり方を編み出すことができていると自負している。非常にざっくりと言うならば、僕はディベートのおかげで頭が良くなったということである*6

 

大学受験のこと

 ディベート部のある高校は進学校が多いが、そのため2年生で部活を辞める人も多い。しかし、同じ高校の先輩方はたいてい3年生までディベートを続け、しばしば浪人もしていた。僕も2年生ではディベートに満足できず、3年生の夏休み頃までディベートに打ち込んだ。大学受験の勉強を本格的にやり始めたのはその後からである。
 同級生には3年生に上がる頃にはもう本腰を入れて勉強していた者も多い。そのため、学内の実力テストでは僕は学年440人の内、せいぜい100番程度だった。まともに勉強していない割にはまだ良い方だったとは思う(というのもやはり、数学が得意なのが大きかったと思う)。学内偏差値で言えば57程度で、志望校の京都大学に受かるレベルではなかった(学内では実力テストの成績と受けた大学の合否の記録が残っており、僕の学内偏差値は言わば「圏外」だった)。
 しかし、実力テストが行われなくなる11月頃から僕の学力?は急激に伸び始めた。ディベートを終えてからは本格的に塾に通うようになり、苦手科目である古典と英語、そして学校の授業ではよく分からなかった物理の授業を受けた。授業は大手予備校講師のビデオ授業であり、びっくりするぐらい分かりやすかったのである。おかげで、学内の統計としては番狂わせなのだが、現役で京都大学理学部に合格することができた(理学部を受けた理由は数学が好きだったからと、センター配点がゼロ(足切りのみに使用)だったのでセンターの勉強に気合を入れる必要がなかったからである)。

 

大学で人生について考える

 理学部に入学したものの、すぐに僕は挫折を味わうこととなった。実は数学以外の理系科目にあまり興味が持てなかった*7し、それならば数学でちゃんと単位を取らなければならないのだが、大学の数学は思った以上に難しかった*8。受験という点取りゲームはどこかで別のゲームに切り替わる*9。それが僕にとっては大学入学1年目だった。人によってはそのまま進学し、就職活動をする際に「別のゲーム」に苦しむことになるだろう。あるいは大学院に進学した人が「勉強」ではなく「研究」をする段になって苦しむことになるだろう。受験勉強は圧倒的に「与えられた課題をこなす」ゲームである。しかし、そのゲームは「人生」という多くの場合に主体性を求められるゲームにおいては半分ぐらいしか役に立たない。残り半分は「別ゲー」である。
 そして僕はむしろ一般教養の科目を受ける中で、もっと直接的に人間を扱う学問に興味を持つようになっていった*10。しかし、このときにはまだ、自分が将来的に何をやりたいとかが明確に決まっているわけではなかった。僕は迷った挙句、3回生に上がるときに総合人間学部に転学部したのだった。

 

「人について知る」ために

 興味の向きはいろいろとフラフラしながらも*11僕は接している人間の心に興味を持つようになり、臨床心理士を目指すことにした*12。しかし、論文の準備がちゃんとできていなかったために、筆記試験では受かっても面接試験で落ちることとなってしまった*13。大学院の受験に失敗し途方に暮れていたが、自分の人生において何を選ぶのが正しいのかを考えた。そうだ、ここでの問いはつまり「どの選択が僕にとって【メリット-デメリット】を最大化するのか」である。ディベートで培った考え方は確かに活かされたと思うし、それは受験勉強だけでは身に付かなかった力だ。
 ……そうして、僕は社会学をやっている先輩に社会学を勧められることになる*14。僕が臨床心理士を目指した理由は、人間の心について知りたいと同時に、困っている人(とりわけ主観的・精神的に困難を抱えている人)を助けたいからだった*15臨床心理士の道が難しいとなった後に目をつけたのはコミュニティだった*16。そこで僕はシェアハウスを始めることになる*17。「社会学」という学問は、人々を包摂するコミュニティ、言うならば「居場所」について考える上で申し分ないと思ったのだった*18
 それに僕はそのとき「社会構成主義」という考え方に触れていた*19こともあって、人間の主観的・精神的な困難を規定するのは、必ずしも「病気」のような分かりやすいものだけではないと考えるようになっていた。例えば、医者は診断して薬を処方することができるし、臨床心理士心理療法を用いることができるだろう。しかし、経済的に困っている人にお金を渡すことはできないし、友だちがいない人に友だちを処方できるわけでもない。医療が果たしている役割は重要だが、それでも一人の人間の全体性を考える際にはあくまで限定的な領域を扱っているに過ぎない(それは他の分野も同じなのだが)。
 個人における経済的な問題や生活の問題、親密な関係の問題。それらには大きな社会構造の問題も強く関係している。貧乏な人間がいたとして、その人だけ見ていてもその人がなぜ貧乏なのかは分からない。「寂しい」人間がいたとして、その人だけ見ていてもなぜその人が「寂しい」のかは分からない*20

 

「親密な関係」について研究する

 そして僕は自らも3年住んでいた「シェアハウス」を対象に、「親密な関係」と社会構造との関係について研究している。先ほども述べたように、「親密な関係」が築けるかどうかは一見その人の性格やコミュニケーション能力に規定されている、非常に「自己責任」的な要素の強いものだと思われがちだ。しかし、それではこの社会に厳然として存在している「親密な関係」にまつわる「格差」も自己責任ということになってしまう。「能力のない者が淘汰されるのは仕方がない」という考え方もある。しかし、本当にそうだろうか。
 人が淘汰されるのは「能力がない」からだろうか。「能力」なるものを決めるのは誰だろうか。その人自身にはどうすることもできないのにもかかわらず、社会がつくるある種の「配置」によって必然的に生み出されてしまった不幸があるのではないだろうか。
 もちろん、この幸福/不幸を決めるものは「親密な関係」だけではない。家族や友人関係に恵まれていても何らかの別の理由で不幸を抱える人はいる。それは病気だったり、経済的なものだったり。それぞれの分野において研究されるべきことだろう。だが、僕が僕の個人的なパッションにおいて問題にしていることは「親密な関係」の問題である。これは人間の幸福/不幸を決定する上で重要な要素であり、確かに解くべき問題であると僕は確信している。
 同時に僕はシェアハウスを運営し、日本において拡大していくことによって、「親密な関係」を広げていくことを実践している。こうして僕は、ようやく自分の人生において何をすべきなのか、何をしたいのかがはっきり分かったのだった。

 

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 そうだ、ここまで書いてやっと自分が何者なのか思い出した。いろいろあったし、なんだか受験勉強のことばっかり書いたけども、けっこう良い人生だったんだな。なんだか安心した。

 ……ただ、それはそうなんだが、それにしても、僕はなぜ「親密な関係」にパッションがあるんだろう? 「親密な関係」にこそ一番興味を持っていて、研究するモチベーションが湧いてくるんだろう?
 確かに、ディベート的なメリット/デメリットの思考は活かされているとは思う。すなわち、「この選択が僕にとって【メリット-デメリット】を最大化するのか」という問いを考えてきたはずだ。
 でも、それでも、なんでこれ、「僕にとって」、最高の選択肢だったんだろう。
 何か、忘れちゃいけないことを、忘れている気がする。
 本当に何か、それは、大切なことだった気がするんだ。

 

 

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*0:この文章を8000字ぐらい書いたところでデータが消えた。僕はなぜ自動保存機能のないメモ帳で文章を書くのだろうか、それすらもはっきりとは思い出せない。こうして記憶を文章として紡いでいる間にも僕の記憶はどんどん失われていっているということの証左であろう(?)。『君の名は。』でタキ君が見ていた電子上の日記がなぜかデリートされていく現象と同じだと思う(?)。
 失われた2時間半を後悔してもいられない、箇条書きでいいからなんとか文章を書き直そう。
 あと最近読んだ「東大を舐めている全ての人達へ」って文章がちょっと面白かったから、僕も京大に入るまでの受験勉強の経緯の話書こうかなって思った。めっちゃ今更だけど。

 

*1:今日調べて初めて知ったのだが、出生時4000グラム以上の赤ちゃんは「巨大児」というらしい。自分がいかに健康かということを書くためにこの話を書くつもりだったのだが、出生時の体重が大きければ大きいほど健康、というわけでもないらしい。

 

*2:というのも、事後的に作り上げられた偽の記憶かもしれない。
ところで僕は幼稚園の頃、日本昔話の『さんまいのおふだ』のあるシーンにハマっていた。『さんまいのおふだ』とは山に栗を拾いにいった小僧がヤマンバに襲われる。ヤマンバは小僧を追いかけるが、小僧は和尚さんから渡された三枚のお札によって逃げる、という話である。
 幼稚園では厚紙に銀色の紙を貼り、ハサミによって形を整えたものを「包丁」に見立て、ヤマンバはそれを持って小僧を追いかける、というシーンをなぜか再現する遊びをしていた。僕は狂喜乱舞しながら包丁を持って人間を追いかけ、部屋の中をグルグル回っていた。そのシーンを何度も何度も反復した記憶があるが、他の子どもや先生はそれに付き合ってくれていたのだろうか。そのことについての記憶はない。

 

*3:ところで、中学受験をする際に面接で「今まで言われて嬉しかったこと」を問われたのだが、僕は「マシンのようだ」と言われたのが嬉しかったと言った。

 

*4:僕は人見知りで、自分から友人を作ったことがなかった。だから自分から話しかけることもできず、内部進学生たちが仲良くしている輪に僕は入っていけなかった。野球を小学校のときからやっていたので中学では野球部に入ったが、正直野球が上手くなかったのもあり、良い思い出はない。
 そして、地元の中学に進んだ同級生たちの話を聞くと、彼らは一歩一歩大人になっているようだった。僕には小学校の頃から女の子と仲良くしたかったのだが、うまく話せなかった。それに対し、小学校の同級生たちは地元の中学で中学生的アバンチュールを楽しんでいるようだった。僕は劣等感をおぼえて、「僕も地元の中学に進学していれば……」と思った。
 しかし、中学2年生になってからは仲間には恵まれた。当時、『電車男』の影響もあり「オタク」というものが世間に広く知られ始めていた。僕は「オタク」としてのアイデンティティによって、共通の趣味を持つ人たちと「輪」を形成したのだった。そして、その輪の中にいたA君とは一緒に「ディベート」をすることになり、高校にも一緒に進学することになるのだが、それは後に述べる。

 

*5:僕は実はA君にも劣等感を抱いていた。それはA君の人間関係にだ。もちろん小学校から内部進学であることがアドバンテージになっていた部分もあるのだろうが、何より彼は「塾」に通うことにより、独自のネットワークを形成していたようだった。「塾」では遅くまで勉強するし、教師も厳しいためにその苦労が語られていたが、一方で、塾内で築かれる関係性は楽しそうだった。何より、A君は何人かの女子と親密そうだった。「僕も塾に行けば変わるかもしれない」、そう思い、建前上は高校受験の準備ということで、親に言って割と早くから塾に通い始めたのだった。
 ところで、塾内のテストで常に僕に数点差で勝ち続けている同じ中学の女子がいた。Bさんとしよう。確か、8点差→4点差→6点差という推移だったと思う。Bは僕にとってライバルだ、ということを塾の先生にも言ったことがある。しかし、どこかで僕はBさんにも惹かれていたのだと思う。中学時代のある友だちは人間関係を「キャラ」によって見ることに長けていた。彼曰く、Bさんは「不思議ちゃん」や「ブリっ子」の代名詞だったようだ。そう言われることによって、より僕はBさんに惹かれる部分があった。
 しかし、Bさんとは同じクラスになったことがなく、塾も県内にいくつかの「校」が点在しているために、授業で一緒になることはない。しかし、夏休みには私立高校の受験を考えている人たちのために特進クラスのようなものができるということだった。特進クラスでは県内から選りすぐりの精鋭たちが集まってくるらしく、Bさんも来るようだった。それなら、ということで僕も参加することにした。しかし、僕が受験する高校は公立なのでそれほど難しい問題は出ないし、無駄に難しい数学の図形の問題を解かされるなど、高い金を親に払わせた割にはあまり得るものはなかったように思う。確かにBさんもいたのだが、特に親密になることはなかった。あれはなんだったのだろうか。

 

*6:一方、演劇の方は相方のA君にほぼ任せきりであり、非常に受け身な態度で取り組んできた。そのため、はっきりと得られるものがあったとは言い難い。ただ、年に1度県内の高校生たちが集まる合宿は良かった。
 合宿に来ている講師がいろいろと教えてくれたのはそれはそれで意味があったと思っているが、それよりも僕はこの合宿を通して人生で初めて女子と親密になったのかもしれない。正しくは合宿で会った女子にプライベートに連絡を取り、プライベートに遊びに行くことができたということなのだが。その後、どういうわけか運良く交際関係になったりもしたのだが、付き合えたということ自体に舞い上がって何をすればよいのか分からず、手も繋がずに別れた。本当に運が良かっただけで、関係を持続する方法については分からなかったし、その方法について真剣に考える機会もなかったのである。

 

*7:というよりも、本当は数学にすらそこまで興味がなかったとも言える。そのとき僕が本当にやりたかった「理系」的なものは、論理学だったような気もする。実際そのときに受けていた論理学の授業は楽しかったし、何かを間違えれば論理学を専門的に勉強する方向にいっていたかもしれない。

 

*8:難しかったというよりも勉強していなかった。僕はサークルに入って毎週金曜日に徹夜で遊んでいたのである。それに当時は声優の悠木碧ちゃんの大ファンであり、ひたすら追いかけていた(アニメを観たり、ラジオを聴いたり、東京のイベントに行ったり、交通費のためにバイトしたり)。悠木碧ちゃんに人生を賭けるレベルだった。それは「信仰」と言っても過言ではないレベルだった。そんなわけで、プライベートで数学の勉強に使う時間はほとんどなかった。

 

*9:そういう意味で僕はずっと「点取りゲーム」に勤しんでいたことになる。京大に入ってから強く感じたことだが、思った以上にみんな「勉強」が好きではないのだ。みんな好きではない「勉強」を頑張ってやっている。なんのために? 将来のためにだ。あるいは、親の期待に応えるために。僕は親に勉強しろと言われたことはないし、将来のことなんかも考えず、ただただ目の前の勉強に打ち込んできた。それは受験に合格するためという目的のための手段でもあったが、いざ勉強をやってみると、そのこと自体が楽しいと思えてくることもしばしばあったのだ。それはおそらく僕の「才能」である。他の人がめちゃくちゃ時間かけて勉強しているのに比べると、大して勉強に対して時間をかけていないと思う。一回授業を聞いただけで理解していろいろ記憶できていることも多かったし、おそらく僕は他の人よりも記憶力もいいのだと思う。
 しかし、「勉強自体が楽しい」という事態は、しばしば「その勉強を何のためにやっているのか」ということを見失わせる。僕は大学受験を終えて、「何のために自分は勉強しているのか」という問いにそこでぶつかったのである。それも東大生・京大生にありがちな「親のために」的なものとはまた別の方向性で、である。あまり勉強を楽しんでいない人間の方がむしろすんなり就職活動できるんだろうな、と僕は思う。

 

*10:表向きには「高校時代では心理学のような学問はやっていなかった」という理由づけであるが、僕が文系で倫理選択などしていたら違う言い訳をしていただろう。僕は心理学に惹かれたというよりかはフロイト精神分析で扱う「性」に引っ掛かりがあったのだと思う。ついでにジェンダー論の授業もよく取っていた。単純に言ってしまえば僕は女性への興味をこじらせていた。それまで学問とは結びついていなかった「性」への興味が、学問というベクトルに向き始めた。

 

*11:悠木碧ちゃんを追っかける気持ちはまだまだ強かったので、とうとう「声優」になりたいと思い、声優養成所に通うようになった。大学3回生と4回生の2年間通っていたし、そのための資金もいろいろやりくりしていた。でも、いつからかその気持ちが薄れていったんだよな。どうしてだっけ。

 

*12:当時は精神分析が専門だったので、そこから臨床心理にいくというのは割と自然な流れであるが、結局本当に興味があったのは「性」の現象だったと思うので、どこか妥協した側面もあるように思う。あと、精神科医になるという選択肢もあったが、医学部を再受験する気力はなかった。

 

*13:臨床心理の院に行く人間は臨床系の論文を書くのが普通のようだ。そんなことも僕は知らず、自分がただ勉強したいがためにカントとフロイトを比較するという哲学めいた論文を書いていた。

 

*14:あれ、この社会学をやっている先輩とはどこで出会ったのだったろうか?

 

*15:なぜ僕は困っている人を助けたいなんてことを考えたのだろう。僕は自分のことが好きで、自分さえ良ければそれでいい、という人間だったはずなのだが。それに、それまで僕が持っていた「性」への興味は、どこいったんだっけ。

 

*16:京大の中にいても「コミュニティ」について考える機会なんてなかったと思うのだが……

 

*17:それまで実家に住んでいたのに、なんで急にシェアハウスを始めたのだろう?

 

*18:僕は将来に不安はあったけども、自分の居る場所には満足していた。じゃあなんで「居場所」について考えたのか?

 

*19:僕が社会構造に目を向けるようになった学問的契機はもう一つあった気がするのだが、思い出せない……

 

*20:友だちがたくさんいても、深いことを話し合える仲の人がいても「寂しい」という人はいる。例えば、自分には「彼女」がいない、「彼女」さえいれば、全ては解決するのだという人がいるように。僕もかつては自分が「童貞」であることに……ウッ