恋愛からの卒業と、その先

 この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー5日目の記事です。

adventar.org

遅れたので6日目の方が先に投稿されていますね。すみません。

4日目はfina @fina0539 さんの

circlecrash.hatenablog.com

でした。最後の話が読んでて気持ち良かった。

 

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 相も変わらずサークラアドベントカレンダーは「自分語り」というテーマで実施されていますが、率直な話、そろそろ自分について語ることがなくなってきたな、という気持ちを抱きました。

 自分の人生について語るみたいなことは、サークラ会誌3.5号と、2018年のアドベントカレンダーでやりました。

 そして、僕が語りがちな「恋愛」という話題についてはサークラ会誌では2.5号、4号(の一部)、5号、6号で語りました。2017年アドベントカレンダーの記事も恋愛成分多めです。

 それでもなお、今回も恋愛について語りましょう。ただし、恋愛からの「卒業」について。というのも僕は、会誌8号の記事とwebマガジン「高電寺」に寄稿した記事で、自分なりに性愛に対する方針を打ち出していました。それは分解して言うならこういうことです。

 

①自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない

②女性に対して持つ恋愛感情を否認しない

③自分が「女性によって性的に受け入れられたい」という感情を否認しない

④自己肯定の基盤に「女性としての性的価値」がありそうな人とは性行為しない

 

 

 雑にまとめて言うなら、女友だちと(①)、恋愛したいし(②)、セックスしたい(③)、ということになりましょうか。

 ただし、性行為がもたらす加害性(あるいは、せっかく築き上げてきた友だちとしての関係性が、性行為によって毀損される可能性)を考慮に入れると、相手の範囲を限定する必要はあるでしょう(④)。

 性行為による加害の問題が発生しやすいパターンの一つとして、「女性としての性的価値」が自己肯定の基盤になっている、という場合があると思っています。こういう人と性行為をすると、「私はあなたを性的な存在としてしかみなしていない」というメッセージになってしまいかねませんので。

 

 女友だちと恋愛したいしセックスしたい――それって「セックスフレンド」では? と思われるかもしれませんが、セフレだとかソフレだとかそういう言葉に簡単に回収されない関係性を模索していた結果、僕はいつの間にか恋愛から「卒業」してしまっていたのではないか、という自分語りです。

 

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「セックスしない」理論、実践編

 2020年4月、世界はコロナ自粛の炎に包まれた。

 

 そこから遡ること数日。3月終盤に僕はある女性(Aさんとしよう)からダイレクトメッセージを受け取った。Aさんは東京から京都へ傷心旅行にやってきた女性だった。僕のことをどのようにして知ったのかは分からないが、やってきた以上はまじめに応対することにした。

 聞けば、他愛ない恋愛の悩みだった。他愛ないと言ってもディティールはある。僕はAさんの話を聞いてディティールを理解し、いくつか質問をしたりしてみる。

 僕にとっての問題はAさんの距離の近さだった。泊まるところも確定していないということで一緒に泊まることになり、早速冒頭に挙げた理論の出番である。

 違っていたら申し訳ないが、話を聞いている限り、Aさんは「女性としての性的価値」を自己肯定の基盤の一つに置いているように僕には見えた。コミュニケーションとしても、女性性が前面に出てくる感じ。要するに距離が近い。

 こういう人とはセックスを(仮にできたとしても)しない。なりゆきで一緒に寝ることにはなったので、そこは不徹底だったかもしれない。身体は女性性の記号に対して正直に反応し、その日は夢精した。夢精したことに自分でも笑った。

 

 その後、さらに話を聞いてみると、案の定Aさんは、できれば僕とはセックスしたくないようだった。こういう人への処方箋(?)は、性的価値とは別の部分での関係性を養っていくことであろう。ということで僕はいったん自分の住むシェアハウスや、自分の周囲のコミュニティにその人を招き、いろんな人とコミュニケーションを取ってもらうことにした。

 もしセックスできていたらそのまま関係は切れていたかもしれない。こういう女性は必ずしもセックスがしたいわけではないからだ。(Aさんがそうだというわけではないが、)たとえば、自身の抱える負債感を返済するためのセックスをしていたり、自身の感情をコントロールするために自暴自棄にセックスをしていたりする女性がいるように思う(このあたりは説明が難しい)。

 Aさんから詳しく聞いた話は面白かった。Aさんはかつて、男とセックスをした後に生じる感覚が嫌だったらしい。セックスを終えた後、「自分はもう用済みなのではないか」という感覚に襲われ、帰りたくなるのだそうだ。そして、コミュニケーションがうまくいっていないのではないかという不安からAさんは再度セックスする空気に持ち込んでしまうという悪循環に陥ることがあったらしい。

 

 やはり答えとしては、セックスしないで別の関係性(「友だち」としての関係性)を作っていくことが重要だったということになるだろう。これは自分の「立場性」を考慮してもそう言える。権力を持った人間が人間関係をやっていると、放っておいてもセックスすることが可能な状況が訪れることがあるように思う(もはや僕も、ある意味においては「権力を持った人間」になってしまったのかもしれない)。

 しかし、そのような権力を何も考えずに行使してしまえば、「セクハラ」に発展しかねない。セックスした相手に「ガチ恋」しようが、逆に「ヤリ捨て」しようが、後の展開で相手への著しい加害に発展してしまうリスクがある。言ってしまえば「男女間の友情関係」を築くこと、「突然ペニスが生えたりはしないぬいぐるみ」であることに僕は価値があると思っている。

 先に言っておけば、その後Aさんは東京に帰り、今もごくたまに連絡がある。今後もたまに喋る友人ぐらいの関係性がいいのではないかと思う。Aさんが自分にとっての居場所を得て、健やかに生活していけることを願っている。

 

関係を切るコロナ、関係を結ぶコロナ

 Aさんは大学生で、本来4月から大学に行く必要があった。しかし、コロナの関係で4月はお休み、という状況になった。

 滞在期間1週間程度の予定で僕のシェアハウスに滞在していたが、しばらく東京に帰る必要がなくなったようだった。予定していた滞在期間を超過していくと、他の住民の負担になるかもしれない。

 ちょうどそのとき、自分のコミュニティで花見が開催されることになっていた。せっかくなので花見を通じて、Aさんを泊めてくれそうな人間を見つけようと画策した。

 

 さて、ここからが本題だ。

 僕には気になっている人がいた。恋愛的な意味で。昨年恋人と別れた際の反省から(サークラ会誌8号参照)、僕は「友だち関係」の延長線上で恋愛したりセックスしたりする関係性を模索していた。その人との間に、そういう関係性が築けるのではないかと、ひそかに期待してもいた。

 既に友だちとしての関係性は確立していたために、その花見にもその人を誘った。そして、Aさんが人との距離を詰めるスキルが高いのか(?)、見事に僕の意中の人の家に泊まることを確定した。

 「押しつけるのも悪いから」という口実で僕もその人の家に行った。まあ冷静に考えれば、それを受け入れてくれる時点で、僕の好意はある程度すでに分かっていたのだと思う(そもそも好きだと言ったことはあった)

 

 4月のコロナ自粛の猛威は止まらず、大学は休校になっていた。予定されていたイベント等も中止になるなどして、みんな「暇」だった。そうして、奇妙にも3人での生活が始まった。

 一人暮らし用の狭い部屋に3人が滞在していて何も起こらないわけがなく……というのは冗談だが、暇を持て余したわれわれは自炊したり、動画を観たりして、ていねいな自粛生活を送っていた。様々な話をする中で親密度も増していく。コロナ自粛は思いがけず意中の人との距離を縮める口実を作ってくれた。

 Aさんもなかなか東京には帰らず、巧妙にアシストしてくれていたように思う。僕はぎこちなくも好きな人への好意を伝え、2人きりになったときにセックスした。

 

友人関係と恋愛関係をきちんと両立させるために――恋愛からの卒業

 好きな人との友人関係は、すでにけっこう長かった。僕は彼女の恋愛観や体験について聞いてきたし、僕自身も彼女にいろいろと話してきた。だからこそ、「恋愛関係とはこういうものだ」という常識に必ずしも縛られることなく(縛られても問題ない部分は縛られつつ)、話し合いながら関係性を模索していくことができたのだと思う。

 

 友人関係の延長線上で恋愛を始めたために、周囲との関係性においても案外有利な側面があった。

 去年まで付き合っていた人との別れを経て、僕は「思った以上に人間関係における『自由』を大事にしていたんだ」ということに気づいた。具体的には、女友だちとの関係性についてとやかく言われるのがキツかったし、性別関係なく周囲の友人の悪口を言われるときにはイライラすることがあった。

 僕は今まで(それこそ「サークルクラッシュ」的な問題を恐れて)自分のコミュニティの「外」の人と恋愛関係を築くことが多かった。しかし、そのことによって、僕の周囲の友だちと恋人との間にコンフリクトが起きやすかった。僕の周りの友だちは、こう言っちゃなんだが、クセの強い人も多い。相性が合わなかったのだと思う。

 つまり、サークルクラッシュ」的な問題を過剰に恐れて「外」から交際相手を調達するよりかは、ある程度「内」に存在している人と交際する方がコンフリクトは生じにくい側面もある。今回はある程度「内」にいた人を好きになったおかげで、結果的に周囲の人間関係への「根回し」もそこそこうまくいっているのではないかと思う。

 逆に言えば僕は、僕の恋愛関係について周囲から否定されるのも腹立たしく感じていた。恋愛に限らず、僕は人付き合いに対して文句を言われたくないし、言いたくもないタイプなのである。

 冒頭で「自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない」という方針を述べたが、より具体的には「僕の周りの友だちと仲良くできない人とは付き合えない」ということである。

 その意味で言えば、僕の好きな人はだいぶ関係性のレンジが広く、いろんな人と仲良くできるタイプだと思う。僕の築いている関係性についてもとやかくは言ってこない(もしガマンさせているのであれば、そこは話し合いを要する)

 これが僕にとっては非常にラクである。この記事を読んでいる善良な方々も、僕の作る関係性については、僕の好きにさせていただけると幸いである。

 また、ぶっちゃけて言えば、僕は好きな人と「付き合う」ということはしていない。「付き合う」という契約から生じてしまいがちな排他性が怖いからだ。よっぽど規範から自由な人でなければ、「付き合っているのだからこうしなければいけない」という感覚が魔力のように生じてくるんじゃないか、と僕は警戒している。有難いことに、「付き合う」はしたくない、という僕のワガママを好きな人は聞いてくれている。これは暫定的な措置なので、今後はどうなるかは分からないが。

 

 一般的な恋愛関係はしばしば排他性を要請するが、僕はその排他性に適応できていない。まず友人関係が大事で、それは恋愛関係と比べてそんなに序列があるように思えない。そして、自分の作る関係性についてとやかく言われることには、恋愛相手からであろうと、周囲の友人からであろうと、耐えられない。

 僕は一般的な「恋愛」をする者として失格と言えるだろう。それゆえに一般的な恋愛からは「卒業」したのである。

 

友人関係のように気楽に「恋愛」をすること

 それでは僕たちはいかなる関係性を築いているのだろうか。あくまで僕からの視点なのだが、思っていることを書く。

 この関係は、友人関係のように「気楽」である。思えば僕はこれまで、恋愛に対して実存を賭けすぎた。100%の力を使おうとしていた。そうして、感情的にもものすごく振り回されてきた。

 それこそがまさに恋愛なんじゃないのか? という疑問もあろう。しかし僕は恋愛から卒業した。どちらかと言えば、燃え上がるような激情を抱く「恋」の方から卒業してしまったのだと思う。「愛」だけが残ったと言える。

 好きな人に対してドキドキしないわけじゃない。むしろすごい好きだ。だが、その感情が空回りしてちゃ伝わらない。感情を空回りさせずに、この関係性の中でより良いものにしていくためには、むしろある程度の余裕が必要だろう。

 愛憎まみれる、心中するかのような、あるいは共依存的なまでの恋のカタチも否定はしない。しかし、友人関係とか自分のやりたいこととかも大切にしたい僕に、それは難しかったようだ。

 友人関係や自分のやりたいことなどとの「役割分担」で見た際、恋愛は一つの「役割」に過ぎなくなる。でも、それはとても大切な役割である。

 全てをなげうち、親の役割や友だちの役割、生きがいなども全て「恋愛」に集約させたくなる欲望も、痛いほどよく分かる。しかし、相手だって人格を持った人間である。相手にも自分の生活や様々なこれからの選択がある。自分の人生も相手の人生も肯定し、恋愛関係を(それこそ友人関係のように)あくまで一つの役割に過ぎない、としてしまう方がむしろ最大限、この「恋愛」を楽しめるように思う。

 

友人関係との区別について

 それでは、この関係性は友人関係とは何が違うのだろうか。これは正直、難しい。違わないのではないかとも思う。

 一応、明確に違うポイントとして、この関係性においては性行為をしている、ということが挙げられる。

 それはいわゆる「セックスフレンド」や「都合の良い関係」ではないのか、と思われるかもしれない。だが、それらの言葉にまとわりつくネガティヴなイメージが、この関係性にはない、ということを言っておこう。というのは、この関係性は、こちらの都合を強権的に押しつけないよう慎重に話し合いを経たうえで成立しているからだ。

 実際、僕は話し合いを経たうえで、僕は他の人間とは性行為をしないと決めている。逆に僕視点では相手が他の人間と性行為をしていても全然構わないというか、むしろしたいならぜひすべきである、という立場である。

 

 これは「嫉妬感情」をどう取り扱うかという問題である。相手を独占・所有したいだとか、自分を一番に扱ってほしい、相手にとっての特別でありたい、などといった感情が関係している。

 僕自身は正直あまり嫉妬感情が分からない。敢えて区別するなら、「自分が持っていないものを持っている人が羨ましい」という「羨望感情」はあるが、「自分が持っているものを他の人と共有したくない」という「排他的所有感情」は基本的にない。

 相手の嫉妬感情は、話を聞いたところ普通にあるようだ。それで僕の方は他の人間とは性行為しないことに決めた。正直、好きな人との性行為は楽しいし、十分に満足していると言えるのもあり、僕自身、これ以上他の人と性行為をしたいとも思っていない。

 

 その他、会う頻度がある程度確保されていたり(しばらく会ってないと僕も相手も会いたくなる)、贈り物を贈り合ったり、一定の特別な関係性ではあると思う。

 ただやはり、明確に友人関係と区別したいとも、できているとも思わないのだ。その意味で好きな人との関係性は友人関係だと言っていいかもしれない。

 僕にとっては、他の友人関係も、(性別問わず)それぞれ大切でかけがえのない(特別な)関係である。そこには恋愛に似た感情や、深いところで「繋がっている」という(それこそ「セックス」的な)感覚がどうしても生じてしまうこともあるだろう。それは仕方がないことだと思うし、だからといってそれを防ぐために「誰々とは二人きりで話さない」などとするのは、僕の方の事情でしたくない、という感じだ。

 他の人との関係性において、様々な感情が生じることは仕方がない。だからこそむしろ、「行為」の上では、友人関係と好きな人との関係との間に、きちんと区別を設けたい(その意味では、「他の友人に対して恋愛やセックス的な感覚が生じうる」ということを書いた「行為」自体も、相手の嫉妬感情に抵触しかねないし、問題だとは思う)。

 

素直にノロケると

 そんなわけで、好きな人のことは「友だち」のような存在だと思っており、そこには「執着」がない。おかげで「しなきゃいけない」みたいな義務感がなく、素直に好きだなと思える。最後はノロケてこの文章を閉じよう。

 

 上述したように、僕の好きな人は、対人関係の広さにおいて優れている。ありきたりな表現かもしれないが、感受性豊かでなんでも食べられる、言うなら雑食性があるように思う。

 

 好きな人のどこが好きかって言われたら、その感情のデカさである。「感情!」としか言いようがない。(必ずしもスピリチュアルではない意味で)宇宙と直接繋がっている系の人だと思う。

 

 そんな彼女はホリィ・センの開陳する「自意識」「メタ認知」ワールドにも興味津々のようだ。単にベタに一本気の人なのではなくて、メタ的な思考についても話しているとたくさん出てくる。彼女の考えていることは好きだし、もっと聞きたい。

 

 それでも、いざというときには思いきりがよい。「突き抜けられる」人である。一緒にいるとしばしば驚かされ、僕も笑顔になってしまう。

 

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6日目は、社会的信用がない @touhuwakame さんの、

「期待される様な命」

です。