簡単に人を「危険人物」扱いすべきではない

 Twitterの話で恐縮なのだが、「こんな危険人物がいて怖い思いをしました」系の話が拡散されては、みんなで糾弾する流れになるのが見てて違和感がある。

 たしかに、危険な人物に対してあらかじめ予防的に警戒しておく方が安心だし、危険なことをしそうな人がいたときに「この人は危険だ」と思って距離を取ったり、他の人にその危険性を呼びかけたりできるというメリットはあるのだろう。

 

 しかし、人を危険人物扱いすることには様々な問題がある。どうすべきかも含めて、5つに分けて説明しよう。

 

 

①安心を追い求めると不安が強まり、人を信頼できなくなる:

 そもそも人生には予期せぬ事態がある程度起きるものだ。自分の予想を超えた人間が現れることもあるだろう。それに対していちいちビクビクしていると「不安が不安を呼ぶ」事態になりかねず、無菌な場所でしか生きられなくなってしまう。

 集団や組織としても、一度危険人物を排除した実績ができてしまうと、その後もいとも簡単に排除という選択肢を採れるようになってしまいかねない。

 むしろ、どんな人間に遭遇したとしても大丈夫だ、という「信頼」の構えを作っておく方がよいと思う。あるいは恣意的に人を危険人物認定してしまわないように、「これをやるとさすがにアウトだ」と見たら分かるような(ある意味公平な)線引きを設定しておくべきだろう。

 

②「危険」の構築性:

 そもそもその人間がした行為がどの程度危険なことなのかということは、事後的に周囲の判断によって決まる側面がある。「危険な人物」であるとレッテルを貼ることこそがその人物を危険たらしめている側面があるだろう。

 よってその「危険判定」そのものが公平に運用されているかどうかを絶えず問い返すべきだろう。

 

③更生可能性、「危険人物」であることのアイデンティティ化:

 危険なことを引き起こしそうな人物も、学習次第で行動を変化しうる。「この人は危険人物だ」とあらかじめ規定してしまうと、その変化の可能性の芽を潰してしまうかもしれない。

 それどころか、「危険人物」だというレッテルをその人が内面化し、実際に危険なことをしでかすハードルが下がっていくこともありうるだろう。たとえば、その人が「危険人物」として排除された結果、その人の周りの人間もアウトローな人間ばかりになれば、実際にその人自身もその文化に染まっていく可能性がある。

 よって、人を簡単に危険人物として排除するのではなく、可能な限り、危険ではない行動を学習させる可能性を模索すべきだろう。

 

④危険な行動の状況依存性:

 ある人が実際に危険なことを引き起こすかは、場や状況にも依存する。たとえば、盗んでも誰にもバレないお金が置いてあったらそのお金を盗んでしまう人は多いだろう。

 よって、危険な行動をその人の性格のせいにするのではなく、場や状況が危険な行動を誘発してしまわないように、環境調整することも大事だろう。

 

⑤優生思想への批判:

 長い人生の中では「危険人物」を批判しているその人自身が、「危険人物」になりうる。あるいは、過去の選択や運次第では、すでに「危険人物」になっていたかもしれない。

 よって、「危険人物」をあらかじめ排除するような空気やシステムを作ってしまうと、単に不運なだけの人間を「劣った生」として排除することに繋がる。これは公平ではないのでできる限り避けるべきだろう。

 

 以上、5点の理由から、簡単に人を「危険人物」扱いすべきではないと僕は考えている。