サークルクラッシュ同好会からサクラ荘へ――ホリィ・センがコミュニティを作った理由の、簡単な軌跡

 この記事はサークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2021の5日目の記事です。

 

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 ホリィ・センこと僕は現在、「サクラ荘」というシェアハウス作りを目的としたサークルのようなものを運営している。僕自身も通称10号館の「あおい荘」に住んでいる。それぞれの家ごとに住人が賃貸契約を結ぶという不安定な運営ゆえに、既に閉鎖したものも多いが、名目上は左京区を中心に5軒存在している。

 僕がサクラ荘を始めたのは大学院に進学した2015年からのことだった。サクラ荘ができた当初は「サークラハウス」という名前だった。というのはあくまでも、僕が現在も運営を続けている「サークルクラッシュ同好会」(以下サー同と表記する)のメンバーが気軽に来ていいシェアハウス、として始める算段だったからだ。

 ということで、僕の大学生になってからの選択と、サー同の設立からサクラ荘の運営にまで至る自分語りをここに書き記しておこう。

 

サークルクラッシュ同好会の設立経緯とその変質

 サー同は、恋愛で人間関係が壊れる「サークルクラッシュ」現象をネタにしたサークルのつもりで2012年に立ち上げた。京大にはネタっぽいサークルを作っていい風潮があったからだ。しかし、「サークルクラッシュ」現象についてインターネット上で調べていくうちに、どうやらとても奥深い現象であり、学問的なテーマになりうることが分かってきた。

 僕自身、「何かしらの文脈がなければ会話を始めたり続けたりするのができず黙ってしまう」などといったコミュニケーションへの苦手意識を昔から抱えていた。また、自分が恋愛できないことへのコンプレックスも強かった(コンプレックスを感じている、ということを言うこと自体恥ずかしいことだと感じていた)。だからこそ、サークルクラッシュ現象に対して当事者性も感じた。

 1年目はただ会誌を作るだけしかやっていなかったが、2年目からはビラを貼ってTwitterも駆使して新歓を行い始めた。いつからかサー同はちゃんとしたサークルとしての形をなすようになり、人間関係上の生きづらさの悩みを相談し合う「自助グループ」的なコンセプトを持つようになった。それは今も大枠では変わっていない。

 実を言えば、サー同がそのように「自助グループ」的コンセプトを持つようになったことと、「サークラハウス」というシェアハウスを立ち上げようと思ったこと、そして結局はサクラ荘という別団体として独立させたことについては僕の中に一貫した論理がある。それについて語るために、僕が大学生活をどのように送ってきたか、というところにまで遡ってみるとしよう。

 

僕の大学生活

 2010年に京都大学理学部に入学した僕は、当初数学を専攻しようと思っていたのだが、すぐに挫折してしまった。計画性がなくステップバイステップで学んでいく姿勢がなかった僕は、いきなり杉浦の解析入門に手を出し、理解できずにチンプンカンプンになってしまったからだ。

 それでも、毎日数学に真剣に取り組む時間が数時間確保できていたら、なんとか理解し、微積や線形の授業にもついていけていたかもしれない。しかし、当時、それほど学問に真剣ではなく、むしろオタクとしてのアイデンティティが強かった僕はアニメを観ることや漫画を読むことに忙しかった。

 とはいえ、授業に出ていなかったというほどではない。ただ理系分野から逃げていた僕は、大学生らしく何を専攻するかを悩み、フラフラといろんな(主に文系の)一般教養の授業を受けていた。そして、ある日、同じクラスの奴らが休み時間にも数学の話を楽しそうにしていることに愕然とし、もう限界だと知ったとき、理学部を辞めた。総合人間学部に転学部を敢行し、どうにか成功した。二回生から三回生に上がる際の転学部だった。

 転学部先の指導教員は精神分析を専門とするS先生だったが、いろんな授業をかじるうちにマルクス主義ジェンダー論、社会構築主義の考え方にも馴染むようになっていた(マルクスへの傾倒についてはサークルの先輩だったHさんの影響もある)。その結果、自分自身のコミュニケーションへの苦手意識に対して、「この生きづらさは、僕自身の能力というよりも、社会に責任があるのではないか」という思考法を獲得していくようになる。

 既に「サークルクラッシュ」現象の魅力にどっぷり浸かっていた僕は、その思考法を活かしつつ、「サークルクラッシュ社会学――排除された人たちが流れ着くコミュニティ」という2万字を超える文章を卒論そっちのけで4回生のときに書き上げた。

 家族・地域・学校・職場などの旧来的な中間集団の包摂性が弱くなった現代において、コミュニケーションの苦手な人たちが「明るい人たち」の集団を避けて、どちらかと言えば「根暗」「陰キャ」「オタク」的な集団に集まってくる。そのような「暗い」人間たちの「濃縮」された集団が形成されるからこそ、その集団においてサークルクラッシュ的な現象が起きやすいのではないか、という論旨だった。

 卒論(カントとフロイトの幸福観/道徳観を比較する内容だった)の方もなんとかS先生に提出したものの、進路について深く考えていなかった僕は「臨床心理士」になるための大学院を受けたのだが落ち、「大学院浪人」の生活に突入した。その間、暇だった僕は京都や東京の様々なシェアハウスなどの特殊なコミュニティに出入りし、影響を受けることになる。

 浪人期間中、サー同に来ていた院生の方が僕の書き上げたサークルクラッシュについての文章を見て、「ホリィ君は社会学に向いているんじゃないか」と言って社会学の道に誘ってくれた。

 そうして2015年、僕はなんとか社会学の研究室の試験に合格し、本格的に社会学専攻の院生として「サークルクラッシュ」現象を研究し始めることになる。

 サー同において「自助グループ」的コンセプトがすんなり受け入れられたのは、このように僕自身の社会学への転向が大きかったように思う。生きづらさの問題を個人のメンタルヘルスの問題にするのではなく、社会的問題としても捉え返し、個々人が所属している環境の方を変えていこうというアプローチである(ただし、社会学をやってみて分かったが、そのような介入的なアプローチが社会学において主流というわけではないように思う)。

 それでは、僕が「サークラハウス」や「サクラ荘」に至ったキッカケはなんだったのか、ということを次に書こう。

 

「シェアハウス拡大」への道

 大学院浪人時代に特によく出入りしていたシェアハウスに「りべるたん」(池袋)という場所があった。そこでは左翼の(たまに右翼も)活動家がよく出入りしていた。

 そこに出入りするようになった経緯ははっきり言ってたまたまである。マルクスにかぶれていた僕はTwitterマルクスbotをフォローしていたのだが、そのマルクスbotがとあるアカウントをRTし始めた。そのアカウントは「神の声が聞こえる」といったようなツイートをしていた。後で分かったことだが、そのアカウントはマルクスbotの管理人だった。

 半分面白がりながらそのアカウントを追いかけていたところ、健常な生活を取り戻したらしいその管理人(Mさんとしよう)が京都に来ることが分かった。Mさんに会いに行ったところ、指定された場所もまたシェアハウスだったのである(彼らはシェアハウスというよりもオルタナティブスペースと名乗っていたが)。そこから僕とシェアハウスの繋がりが始まった。

 当時声優の追っかけでよく東京に行っていた僕に対して、「ここに泊まるとよい」とMさんが勧めてくれた場所が先述の「りべるたん」だったのだ。何が人生を左右するのか分からないものである。

 そして「りべるたん」で知り合った、かつて左翼活動家だったHという男と共に、京都でシェアハウス「サークラハウス」を始めた。その時点で僕は、活動家的な「拠点を持つ」という発想にも理解を示すようになっていたのである。

 ただ、サークルでシェアハウスを持とうと考えたのは、左翼の「アジト」的な発想だけでなく、京大の有名アウトドアサークル「ボヘミアン」がやっていた手法に影響を受けたからである。「ボヘミアン」もまたシェアハウスを借りて、「ボヘハウス」という溜まり場にしている。

 サー同の人が気軽に来ていい「サークラハウス」、ということで僕たちは図らずもサー同の会員たちをシェアハウスの活動へと引き込む「オルグ」をすることになった。サー同の新歓に来た新入生たちもシェアハウスに連れて行き、今もサクラ荘のメンバーを続けている者もいる。

 シェアハウスの運営経験があるHと話し合う中で、シェアハウスはサー同とは独立した社会運動の組織体になっていくべきだと考えるようになった。そうして「サクラ荘」ができた。左翼的な発想のみならず、家族社会学の議論にも触れていた僕は、シェアハウスという手段を通じて、一人暮らしや結婚といった制度を問い直す運動へと接続していったのだ。

 そのため、サー同ではどちらかと言えば「フリースペース」や「居場所」系の活動として“内部の人間関係”を大事していた僕も、サクラ荘では「拡大」路線を採用することになる。2年目には2軒、3年目には5軒と数を増やしていった。数を増やすことが「シェアハウス」を一人暮らしや家族に代わる選択肢にするための第一歩だと考えたからだ。

 

おわりに、最近のこと

 2018年ごろまでは勢いのあったサクラ荘だが、後継者が見いだせず、コロナによって活動を停滞させられている。一時期は7軒まで勢力を伸ばしたが、今は5軒になってしまった。

 メンバーたちも歳を取って、卒業したり社会人になったりしている。組織としてはもはや存在していないに等しく、ゆるやかなネットワークが残っているだけである。

 それでも僕は「シェアハウス」の可能性を諦めたくはない。このブログでも何回か「シェアハウス」について書いてはきたが、単に同じことを繰り返して組織を拡大していく路線には疲れてしまった(若い人にも響かない)ので、別のやり方でシェアハウスにハクをつける方法を模索中である。

 コロナ騒動はサー同の活動にも直撃し、オンライン化を余儀なくされた。オンラインのおかげで定着した会員もいて、それはそれでありがたいのだが、やはり対面時代を懐古してしまう。実際、このアドベントカレンダーを含めて停滞気味だし、オンラインの活動に限界を感じる。

 サクラ荘もサークルクラッシュ同好会も以前のような勢いがなくなった。ホリィ・センの明日はどっちだ。

 とはいえまあ、なんとかなるやろ。