小峰ひずみ「平成転向論――鷲田清一をめぐって」(『群像』2021年12月号所収)の感想

 友人の小峰ひずみが群像の新人評論賞に応募していたことを聞いていたのだが、なんと入選していた!

 早速本屋に走り、買って読んでみたらこれがまた面白く、いろいろ考えさせられたので長めの感想を書いておこうと思った次第。

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書いてあることの僕なりの大まかな要約

 一般的に、Aのアクチュアリティを理解するためには、Aの本質的な特徴を抉り出しているA'からアプローチするのがよい。SEALDsには

戦後民主主義の担い手として理解されている

②自分の言葉で政治を語ろうとしている

という特徴がある。

 

①について、〈戦後〉を見定めるために〈戦前〉(ここでは柄谷に従い、1930年代と1990年代)の哲学者にアプローチされている
②について、「翻訳」の問題に苦闘する者にアプローチされている

 

 その結果、ナショナル(翻訳不可能)/インターナショナル(翻訳可能)という軸と、30年代/90年代という軸で、和辻哲郎、戸坂潤、柄谷行人鷲田清一という四角形が構成される。

 戦前から戦後へ(①)、「翻訳」において日本語(やまとことば)にこだわる(②)、というのは、いずれにせよ「転向」の問題系として捉えられるのだと。そこから、鷲田清一の、阪神淡路大震災以後の「転向」について捉え返されていく。

 

 やはり、A'(鷲田清一の転向)のアクチュアリティを理解するためには、A'ときわめて近いが微妙に異なる運命(if)を辿ったA''からアプローチするのがよい。
 さらなる補助線としてのA''に、先ほどの四角形の中心に位置すると言える、谷川雁が召喚される。

 細かい論理展開は省略するが、ともかく谷川雁マルクス主義の「組織語」を労働者にぶつけることを「刃」と比喩していた。これは、鷲田の「ことばはひとを支え、またひとを傷つける」という認識に合致している。

 

 ここから鷲田の「臨床哲学」実践が紐解かれていく。鷲田は何かの(哲学の)専門家であることを封印してなんらかの現場に入っていくことを当時の大学院生に要求した(「最大の被害者は、当時の大学院生だ」の箇所は正直めっちゃ笑った)。なお、これらの活動は現代でも哲学対話、哲学カフェ、当事者研究などのようなナラティヴ実践に継承されているようだ。

 

 鷲田が哲学のことばと対置しているのは「日常の言語」であり、もっと言えば「エッセイ」なのだと。
 この観点からSEALDsを見てみると、「政治の言葉」を「個人の言葉」で補おうとしたSEALDsのアクチュアリティが見えてくる(「民主主義ってなんだ? これだ!」が象徴的)。
 しかし、それゆえにSEALDsは政治に特化した党組織を作り上げる論理を持たず、「生活への回帰」をせざるを得なかったがゆえに、「非転向」を貫けなかった。

 

 それと対比して見ると、鷲田はたしかに「転向」していったのだが、哲学の言葉を捨てなかった点で「非転向」の側面があるのだと。哲学と現場との間の緊張関係を生きた。
 この哲学と現場との(SEALDsにおいては政治と日常生活との)間の距離を埋めるものとして、導入されているのが〈声〉という概念である。

“「反芻」を可能にするものこそ〈声〉である。「これが哲学か?」と問うことを通じて、「哲学ってなんだ?」と既存の哲学を再審する〈声〉だ。”(群像2021年12月号 397ページ)

 


感想(箇条書き)

・教科書などでもよく知られている鷲田清一が、こんなかたちで読まれるなんて! という素朴な感動があった。

 

谷川雁が出てくるところでの「言葉が人を支え、傷つける」という論点がきわめて面白い。これを「ケア」と呼ぶことも正当だと思う。「ケア」はどうしようもなく他者とべったりした状況で行われるものだし、被傷性を無痛化することはできないだろうから。個人的にはバトラーの『触発する言葉』という本のことを思い出した。バトラーの場合は「ヘイトスピーチ」と「ポルノグラフィ」の事例から言葉のパフォーマティビティを良きにつけ悪しきにつけ検討している。
逆に考えれば、谷川雁の「組織語」をぶつける、という戦略も非常によくわかる。ちょっと遠い例かもしれないが、企業家がマルクスを転用していったり、アドラー自己啓発の文脈で読まれたりするような面白さがある。数年前見学に行った児童福祉施設の代表の方がドラッカーに深い影響を受けているという話をしていて驚いたことを思い出した。
言うならば、「日常生活や現場に降りていく」だけでなく、「背伸び」として用いられた言葉が、ある種の日常性を帯びていくという理路も考えられるのではないかと。
いずれにせよ、ここはもっと展開されていくべき、面白い論点。

 

・SEALDsの人物たち一人ひとりの言葉や実践を追いかけているのがよい。僕自身、SEALDsのことはフワッとしか知らなかった。
学部生時代に児童養護施設に行っていたという諏訪原健の語りや、在日韓国人の子と新大久保を歩いていたときにヘイトスピーチのデモにぶつかって自分が何も言えなかったという溝井萌子の語りが引用されているが、これはたしかに日常生活に降りていき、他者についての想像を巡らせるケアの問題だなと。

 

・選考委員の山城さんも「非転向の細道を「〈声〉」というイメージで通り抜けるその理路は危うい」と言っていて、僕もそのとおりだと思った。ただ、上で引用したように「反芻」という部分が特に重要だと思った。臨床哲学的実践においても、「反芻」の部分を展開することは可能なのではないだろうか。

 

・というのも、僕自身、ふだんサークルの活動で「当事者研究」に親しんでいるので、特定の言葉について「反芻」することで咀嚼されていくといった事態におぼえがある。鷲田の臨床哲学について詳しくは知らなかったが、そこから繋がっていった(当事者研究、哲学対話、哲学カフェのような)実践を鑑みると、〈声〉のイメージは説得的だと感じた。

 

・そのほか、「詩」や「エッセイ」というイメージも出てくるが、どのように概念的に区別されているのかが詳しくは分からなかった。とはいえ、いずれも「身体性」に関わるイメージではあると思う。エッセイにおける身体性、そしてそれがどのように政治や哲学の言葉に接続されていくのか、という論点は気になるところだ。