「自我がない」ではなく「習熟しないと欲求を持てない」だと気づいた話

 昨日、サークルクラッシュ同好会で「自我がない」というテーマで当事者研究をした。

 当事者研究とは、簡単に言えば、特定の生きづらさを抱えた当事者が自身のことについて研究して理解していく営みのことである。サークルクラッシュ同好会では「誰でも当事者研究」というかたちで、比較的多くの人が持ちがちな困りごとをテーマに設定してほぼ毎月開催している。

 「自我がない」というテーマに基づいて自分の困っていることや困った経験を考えてみると、自分のコンテンツの「開拓」のことについて思い至った。

 僕は兄の影響でオタクになったのだが、昔の作品などで好きなものはたいてい兄の影響だ。最近も周囲の人に勧められたコンテンツを消費していることが多い。コンテンツを自分で開拓することがなかなかない。

 強いて自分で開拓できているものを考えてみると、人文社会科学系の研究を始めてからは、その系統の学術書や新書、あるいは批評と呼ばれるジャンルなどについては(それでも主にTwitterAmazonなどを通じてだが)、開拓できるようになっている感じがある。

 言うならば、「ウィンドウショッピング」「ジャケ買い」的なことができないことへのコンプレックスがあるのである。

 これをもう少し抽象化して考えてみると、「手がかりがないと先に進めない」ということなのかもしれない。たとえば、会話において、一定の文脈が共有できている相手でなければ話題が出せない、「何を話していいか分からない」状態になりがちなことと同じ気がする。

 裏返して考えると、「手がかり」があれば先に進めるわけなので、比喩的に言えば、特定の分野に関する「地図」があればいいことになる。僕はたとえば、社会学学術書に関してはある程度の「地図」を持っているので、新しく社会学の本が発売したときに自分が読むべきかをある程度判断できるし、「社会学でこういう本ない?」と聞かれたときにそれなりの答えを返すことができる。

 自分にとっての「地図」がない分野に関してはそんなに気にすることないのかなあと、地図がある分野から着実に開拓していけばいいのかなあと、そういうことを考えた。

 

 ……と、ここまでは昨日考えていたことなのだが、今日になって「何か食べたいものある?」と聞かれて、ピンときた。

 この質問に対して、僕はいつも困るというか、「食べたいもの」はたいてい、ないのである。同様に「行きたい場所」を聞かれても困る。

 「〜を食べたい」「〜へ行きたい」は通常、上で論じた「コンテンツの開拓」のような仰々しいものではなく、もっと原始的な欲求のレベルにあるものだと思う。しかし、それすらも僕の頭には出てこない。

 ということはどうやら、僕の場合、通常「欲求」のレベルにあるとされているものでさえも、ある種の習熟をしないと持てない傾向にあるらしい。

 こうなってくると、話は「発達障害」的な話題に近づく。「みんなが自然にできていることを自分はできない」という悩みがずっとあるが、それは「コンテンツが開拓できない」「欲求が持てない」という、ここまで論じてきた悩みと同様の悩みだということになりそうだ。

 

 ちょうど「みんなが自然にできていることが自分はできない」現象が直近で2つ起きたので、そこから更に思考を進めてみよう。

 一つはラジオ体操について。最近、肩こり腰痛などが激しいので、ラジオ体操をやっている。あるとき、友人もラジオ体操をするというので、一緒にやってみた。

 すると、動きのおかしさを笑われた。どうおかしいのかを検討してみたところ、自分はラジオ体操において「どこの筋肉が伸びているか」を意識して身体を動かしているのではなく、ラジオ体操者の動きを外形的に真似て動いているだけだということが明らかになった。だから不自然だったのだ。となると、僕は子どものときから不自然な動きでラジオ体操をしていた、ということになろう。


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 二つ目に、髪の毛の洗い方について。昔から、髪の毛をシャンプーで洗うときに一回で泡立たないのが地味な悩みだった。特に汗をかいた日や、脂質の多いモノを食べた日はそうなりがちだった。シャンプーを2回使わざるを得ず、どうしたものかとずっと思っていた。

 しかし、美容師の洗髪などを体験しているうちに、非常に基礎的なことに気づいた。そもそもシャンプーで洗う前に、湯でかなり丁寧に洗っているということだ。

 「シャンプーで洗う前に湯でしっかり洗いましょう」という言葉は見聞きしていたし、理解しているつもりだったのだが、ちゃんと理解できていなかったことに気づいた。湯で単に長時間流すだけでなく、①髪を手できちんと梳きながら湯で流す、②頭皮を指の腹でこする、といった動作が必要らしい。やってみると一発で泡立つようになったのである。

 

 以上のように、僕の場合、自分ではできていると思っていても、実は十分にできていない、ということが日常生活の中にたくさんある。腹落ちしないものについては、1を聞いても1を知ることしかできないのだ。

 つまり、他の人にとっては「自然にできる」ものであったとしても、僕にとっては「上達」「習熟」を要するものだ、ということになるだろう。逆に言えば、「上達」「習熟」が必要なものだと認識してそれなりに努力してきた分野に関しては、人並みにはできていると思うし、人並み以上にできる分野もある。

 このように考えると、僕の場合、いわゆる「ゲーミフィケーション」が有効なのかもしれない。通常ゲームとして捉えられていないものを「ゲーム」として枠づけ直してみるという手法だ。

 実際僕は、コミュニケーションや人間関係を、ある部分では「ゲーム」のように捉えているところがある。「他人の好感度を上げるゲーム」と言うと美少女ゲームのようだが、たとえば「いかにベストなコミュニケーションに近づけるか」というゲームとして会話を捉えることがあり、それでうまくいっている部分はあるように思う。

 一部界隈で流行っている「ナンパ術」は、コミュニケーションや恋愛を「自然にはできない」からこそ、「ゲーム」のように「上達」「習熟」していくものとして枠づけて直している営みなのではないか(たとえば「レベル上げ」という表現はナンパ術の言説でよくみる気がする)。そんなことを考えさせられる。

 「ゲーミフィケーション」という考え方は2010年代前半には流行っていた気がするが、最近はそこまで聞かない気がする。しかし、日常生活のさまざまなことを「自然にはできない」僕にとっては、そのようにゲームのメタファーで物事を捉え返していくことが非常に有効なのかもしれない。それは、通常「誰もが自然に持つ欲求」として扱われているような原始的なレベルのものにおいてもそうなのかもしれない。そんなことを考えた。