精神分析的読みのススメ・前編――エヴァンゲリオンTV版を例として

この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー18日目の記事です(遅くなってすみません)。

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半年ほど前にこんなツイートが(主にアラサーアラフォーに?)話題になっていた。Kanonって今も好かれているんだなあと感慨深い気持ちになった。

このツイートとはあまり関係ないが、「忘れていた幼少期」がストーリーにおける重要な「謎」になっているという作品展開はゼロ年代によく見られたものだ(たとえば赤松健の『ラブひな』とか)。

 

幼少期こそが人間について知るための重要な「謎」である、というのは「精神分析」と呼ばれる学問に特有の視点である。とりわけ、精神分析創始者であるフロイトはそう考えていた。

だが、2010年代に入り、精神分析の枠組みがすっかり流行らなくなったのと並行して、「忘れていた幼少期の謎が解き明かされていく」というストーリーも流行らなくなったように思う。

 

現代は即物的な情動が社会を支配するようになった(宮台真司風に言えば「感情が劣化した」)。具体的には、COVID-19が流行ればマスメディアもソーシャルメディアも過剰に不安を煽り、インターネット広告が人々のコンプレックスを刺激し、ソシャゲではガチャをまわすことで射幸心に慣らされ、思考を停止して押される「いいね」「リツイート」が“共感”を集める時代である。

今や(少なくとも若い世代の)人々の手元には常にスマホがあることで、これらの(光や音や「パワーワード」による)情動への情報刺激から逃れることは難しい。もっと言えば、メディアからの情報刺激が過多な現代社会において、休むことなく無理にテンションを保とうとすれば、合法的な神経刺激薬であるカフェインとアルコールに頼ることになってしまう。このこと自体も資本主義のロジックに飲み込まれていることは、「エナジードリンク」と「ストロング缶」が象徴している。

 

まるで動物の群れを操っているかのように即物的に情動へとはたらきかけてくるこの現代社会において、“人間”としての幸福を追求するためにはスマホソーシャルメディア以前の時代の視点をなんらかのかたちで再導入していかざるを得まい。そこでゼロ年代だ。

 

ゼロ年代の知」である精神分析の視点から作品を読むことができるようになること。

これだけでもだいぶ人間的に生きることに近づくはずだ。

さあ、精神分析的読みの世界へ足を踏み入れよう。

 

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起源としてのエヴァンゲリオン

ゼロ年代研究会は1995~2011年を「長いゼロ年代」と定義し、重視している。その一つの起源としてやはり重要な作品はエヴァンゲリオンである。

エヴァ庵野秀明監督はエヴァを作る際に精神分析関連の本を読み漁っていたと言うが、それがわかりやすく反映されているのは親子関係、広く言えば大人と子どもの関係だろう。

 

フロイト精神分析には「エディプス・コンプレックス」という根本的な仮説がある。異性の親への愛と、それを阻む同性の親への憎しみからなる欲望の複合体があり、これらは結局のところ無意識へと抑圧される。その抑圧のされ方(子と親との関係性)次第で、人間の欲望はその内容や対象を変えていくという考え方でもある。

 

この枠組みは実のところ、かたちを変えて一般に普及している。

 

たとえば、フロイトのこの枠組みを参考にしたジョン・ボウルビィの「愛着理論」は、親からの愛を得られなかった子どもが、成人してからも対人関係や自己肯定感、性格などにおいて問題が生じるという知識として、「常識」化している(ただし「親からの愛」だけで人の性格などの大部分を説明できるかというとそうでもないので、これは偏見の一種でもある)。

 

エヴァでもまた、このような枠組みが参考にされているのだろう。親との関係になんらかの難を抱えている「チルドレン」たち(これは当時流行していた「アダルトチルドレン」をもじった言葉だろう)について見てみると、シンジは引っ込み思案であり、レイは感情抑制的であり、アスカは短気である。また大人の側も、ミサトは押しつけがましく、ゲンドウは(主にシンジに対して)冷淡である。

そしてエヴァでは、このようなキャラクターたちによる様々なディスコミュニケーションや精神的葛藤が描かれるのである。

 

親子関係に限らず、このようなキャラクターたちの病理的な側面は、精神分析的には「症状」として読解することができる。

症状は、フロイト精神分析においては幼少期の「性生活」の影響によって生じるとされている。この仮説が、精神分析がバッシングを受ける大きな理由にもなっているのだが、その理路はいわゆる「トラウマ」がどのように発症するのかを考える上で重要なため、ここで紹介しておこう。

 

症状とは妥協された欲望の成就である

多くの成人において「性器」を中心に組織されていく性欲動は、幼児期にも「幼児性欲」というかたちで存在しているとフロイトは主張している。

 

おっぱいを吸うことで得られる快感(吸えないことで得られない不快感)に特異性のある時期が「口唇期」、トイレトレーニングの我慢や排泄がうまくいってほめられる快感(うまくいかないことで怒られる不快感)に特異性のある時期が「肛門期」、男性性器が重視される時期が「男根期」(たとえば幼稚園児が性器いじりをするのはよく言われることである)、といった区分である。

その後、自己の身体よりも外部の対象に対する愛情が重視されていく「潜伏期」を経て、その後第二次性徴期を境に「性器期」を迎え、異性との性器結合を目指すようになる。この時期以降の性欲を「性器性欲」と呼ぶ。

 

「口唇期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期」という、この壮大な性的発達論仮説は、例外も多いうえに幼児に「幼児性欲」があると主張しているため、世間にはなかなか受け入れられない。たしかにいろいろと反論は可能だろう。

しかし、口唇や肛門が他の部位と比べてしばしば明確な性感帯になることを考えれば、少なくともそこになんらかの基盤があると考えるのは自然なことではないだろうか。

 

そのうえで、もう二つ、重要な精神分析用語を導入しておこう。

それぞれの発達段階で十分に満足を得られなかった、または非常に満足を得た記憶がある場合には、成人してから強い精神的ショックなどがあったときにその段階へと行動原理が立ち返ることがある。これを「退行」と呼ぶ。

また、ある発達段階への(無意識的なものも含む)こだわりや執着を「固着」と呼ぶ。たとえば、口唇期固着のある人が退行した際には「爪を噛むクセ」が出るかもしれないし、肛門期固着のある人が退行した際には著しい我慢、または解放をするかもしれない。

 

以上のような性的発達段階論を受け入れるのにはだいぶ難があるかもしれない。しかし、以上の理論をいわゆる「トラウマ」論として抽出するならば、次のことを理解しておけばよい。

――ある人が過去になんらかの強度の高い体験をしたとする。その体験が幼い時期のものであることや、その体験の衝撃の強さゆえに、体験を十分に思い出すことができない状態にあるとしよう。そして、その体験にまつわる「退行」的な欲望がうまく満たせない葛藤状態になったときに、その体験はトラウマ(心的外傷)として「固着」することになる。言わば、トラウマ的な体験の記憶が無意識のなかに鬱積、沈殿してしまうというイメージである。

過去のトラウマにまつわる欲望をうまく満たせないとき、人は精神的な「症状」という代替的なかたちで欲望を満たそうとする。「症状」とは言わば、妥協された欲望の成就のことである。このように解釈することが精神分析の特異性だ。

 

 

エヴァンゲリオンはシンジが見た夢である

以上のような精神分析の視点で、エヴァンゲリオンTV版について解釈してみよう。

 

エヴァのTV版は最終的には主人公のシンジの内面がひたすらに描かれ、シンジの内面の中での気づきによってこれまでの問題がすべて解決したかのように終わる。

これを踏み込んで解釈すれば、これまで20話以上描かれてきた使徒の襲来やエヴァでの戦闘、あるいは父や女性たちとの人間関係的な葛藤は、結局のところシンジの内面の葛藤を象徴的に表現したものでしかなかったとして見ることが可能である。すなわち、使徒との戦闘も、人間関係的な葛藤も、シンジの「症状」だったのである、と。

 

あるいは、こう言った方が分かりやすいだろう。これらは、シンジの「夢」だったのだ、と。

 

フロイトは、夢は無意識へと至る王道である、と言った。そして、私たちが見る夢もまた、欲望の成就であるとフロイトは言っている。しかし、夢は明らかに、直接的な欲望成就ではない。私たちの見る夢はしばしば「意味不明」であるからだ。

ここでの欲望は、さまざまな検閲を被り、加工されたかたちで夢に表現される。夢もまた、「症状」と同様に、妥協形成の産物なのだ。だが、「意味不明」である症状も夢も、なんらかのかたちで無意識の欲望を表現しているはずなのだ。その欲望とはなんなのか。欲望はどのように葛藤し、どのように症状や夢を作ってしまったのか。これらの構造を解釈していくこと。これが、精神分析である。

以上のことを図にするとこんな感じである。このように、無意識の欲望はなんらかの検閲などを受けて葛藤し、妥協されたかたちでしか現れてこない。

精神分析ではこの矢印を逆に辿る。すなわち、夢や症状といったテクストを手がかりに、無意識の欲望を解読していくわけである。

 

さて、エヴァンゲリオンの24話までの物語がシンジの夢だったとするならば、精神分析の視座からすれば、そこにシンジの欲望が表現されているはずだ。それも、直接的ではないかたちで。

ここからの解釈はいろいろありうるが、一つ陳腐な解釈を述べておこう。

使徒はATフィールドという奇妙な壁を張りながらエヴァと戦い、終盤にはエヴァ操縦者の精神へとアクセスするようになっていった。

これをたとえば、「他者との壁を取り払い、繋がり・分かり合いたい」というシンジの欲望の象徴的な表現であると解釈することはできるであろう。

 

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さて、以上で精神分析的読みのだいたいの道具立ては揃った。これらを元に、次回は代表的なゼロ年代エロゲである『ONE』の瑞佳ルートと『Kanon』のあゆルートを読み解いていこう。

後編に続く。

(ホリィ・セン)