恋愛において男女二元論は不可避なのか――ゼロ年代恋愛塾(全3回)を終えて

 

 たにしさんは僕の開催してきたゼロ年代恋愛塾(全3回)に毎回熱心に参加してくれていた。これはおそらく、それを踏まえたうえでのツイートだろう。

 そこで、ゼロ年代恋愛塾の内容を振り返りつつ、僕からもこの問題について応答しておきたい。

 

 

 ゼロ年代恋愛塾(全3回)は異性愛男性向けを念頭に、毎回数時間にわたって僕が講義をして質疑応答をする感じだった。

 一言で言えば、ゼロ年代的な精神性(近代的な男性としての成熟の困難と葛藤、要するにエヴァのシンジくん)の延長線上に、「暴力的な男」ではなくある種の「紳士的な男」としての恋愛戦略がありうるのではないか、という話だった。

 この可能性を追求していたのが、2005年の『電車男』のブームの裏で、オタク男性との恋愛ノンフィクションエッセイ『59番目のプロポーズ』を書いていたアルテイシアさんの『モタク』や『ゼロから始めるオクテ男子愛され講座』なのではないか、という読みだった(第2回)。

 

 そしてそのさらなる延長線上で、現代において盛り上がってきているリベラルでジェンダー平等な規範を体現したような、清田隆之(桃山商事)さんの『よかれと思ってやったのに』を読み直せるのではないか、というコンセプトだった(第3回)。

 

 とはいえ、そもそも何のために恋愛すべきなのか? という点において、現代はある種のアノミー状態に陥っているように思われる。そちらの方がまず根本的な問題に思われたので、第1回では、40年前のバブル時代の恋愛をまさに経験してきた世代である、宮台真司さん・二村ヒトシさんの『どうすれば愛しあえるの』を読むことでまず基本的なスタンスを示すところから始めたのであった。

 

 

 

 一言で言うなら、現代の恋愛はマッチングアプリに象徴されるような、スペック志向、コスパ/タイパ志向、リスク回避志向があるように思われる。より性的な側面で言っても「コントロール」や「フェチ」に志向しすぎてしまうことの問題を宮台さんは喝破している。

 第1回の宮台・二村本と、第2回のアルテイシア本、第3回の清田本はそれぞれ全然テイストが違うように見えるのだが、性愛における「女性の」見方を重視する点では実は共通している。

 A. ギデンズは後期近代において「純粋な関係性」への志向が高まっていることを指摘しているが、その中では感情の共有や自己開示の志向が強調されていることが特徴的である。これをD. チェンバースは「女性の友情」が理想として掲げられている(しかし、実態としてはその理想はまだまだ達成されておらず、ジェンダー非対称性がある)、という風に読解しており、その点は僕も同意するところである。

 

 宮台さんはナンパについて語り、二村さんはAV監督であるというところから、一見きわめて「男性的」な人のようであるが、『どうすれば愛しあえるの』を読めば分かるように、そこで重視されているのは相手の心や身体へとダイヴし、フュージョンしていくような発想であり、その能力はむしろ女性の方にこそあるのだと。

 このような宮台・二村本の語り口とはだいぶ距離があるものの、アルテイシア本や清田本に見られる、自他の傷つきに配慮するあり方や、感情の共有を重視するあり方は、宮台・二村本で掲げられているような理想と響き合う部分がある(と僕は読んでいる)。

 

 さて、ゼロ年代恋愛塾で「女性性」の重要さを語ってきたことからも分かるように、よりよい恋愛のあり方を考えていく際に男女二元論を避けることはきわめて難しいように思われる(感情の共有などを「女性性」と呼ばなければよいのかもしれないが、それにもいろいろ問題はつきまとってくるだろう)。

 実際、男女二元論を完全になくしてしまえば恋愛における「型」が喪失し、きわめてハードルが高いものになってしまう。ただ現代においては「女性の友情」が理想視されているという話にもあったように、「暴力的な男らしさ」は女性にとっても、男性にとっても魅力を減じつつあるだろう(根強い魅力はあるだろうが)。

 しかし「暴力的な男らしさ」を抜きにして、異性愛男性はどのように恋愛ができるだろうか。これについて、アルテイシア本には重要なことが書かれている。それは、「友だちどまり」になってしまうという問題についても書かれていることだ。

 つまり、「女性的」とも言われる自己開示や感情の共有が重要なのはそうなのだが、それだけでは「男らしさ」が発揮できず、意中の女性に対する関係が「友だち以上・恋愛未満」から脱せないという問題だ。その状態でアプローチをしたところで「ぬいぐるみペニスショック」と言われるような「恋愛対象だと思っていない相手に突然恋愛対象として見られる」悲劇が起きることになるだろう。

 

 アルテイシアさんはナンパ的な恋愛マニュアルを批判しつつ「いつ何時も紳士たれ」と言う。アルテイシアさんが提示する男性のイメージは、なんと『ジョジョの奇妙な冒険』のジョナサン・ジョースターである。

ジョジョの奇妙な冒険』1巻より

 

 そもそもアルテイシアさんは漫画アニメの比喩を多用しているので、ジョナサンの比喩を100%本気で受け取る必要はないだろう。しかし、「友だち以上・恋人未満」を脱出する、すなわち女性が男性に対して恋愛的魅力を感じるための要素として、「守られてる」「いざという時に頼りになる」「女の苦手分野が得意」「尊敬できる」を挙げており、ジョナサンからそれほど遠いイメージではない。

 僕はこれについて「暴力的な男らしさから紳士的な男らしさへ」とまとめた。というのも、「男性の加害性」について叫ばれる昨今において、「加害する」リスクを減じたうえで、なおも恋愛的魅力を感じさせるという方向性が重要であるように思うからだ。

 

 そうは言っても「紳士的な男らしさ」よりも「暴力的な男らしさ」の方がやっぱり恋愛においては有利じゃないのか? その方が簡単じゃないのか?という声もあるだろうが、そこにはいくつか反論しておこう。

 まず、「紳士的」だからと言って「積極性や主体性がない」という意味ではない。上記の「守られてる」「いざという時に頼りになる」などの要素においては、相手が困っていたりピンチになっていたりするときに助ける、という程度の主体性は前提されている。そして、恋愛関係へと移行していくための「アプローチ」の仕方についても、アルテイシア本では詳しく書かれている。

 そしてそもそも、恋愛経験に乏しい「非モテ」男性が「暴力的男らしさ」を目指すのはハードルが高いところがある。自己イメージに強く反しない範囲で恋愛へと乗り出す際には、「紳士的な男らしさ」という方が目指しやすいイメージなのではないだろうか。

 また、恋愛は1対1でやるもののように思われるが、アルテイシアさんが論じている恋愛においては「第三者からの評価」も重視されている。アルテイシアさんが言う「いつ何時も紳士たれ」というのは、周囲から信頼されることが重要であることも意味している。なぜならそのことが相手からの高評価に繋がったり、「良い相手」の紹介に繋がったりするからだ。

 

 そんな「紳士的な男らしさ」のメリットはともかくとして、もう一度結論を言おう。恋愛においてなんらかの男女二元論が必要である場合がきわめて多い、ということだ。たとえば同性愛を考えてみても、しばしば「男性役」「女性役」が再演されているように、なんらかのかたちで男女二元論は活用されているだろう。

 恋愛的なコミュニケーションを積み重ねていく中で男女二元論を相対化していく可能性は十分にありうるだろうが、少なくとも特定の相手も見つかっていないような段階でいきなり男女二元論を回避したところで、なかなか恋愛にアクセスできないのではないだろうか。

 「恋愛をしたくてもできない」ということに困っている層がそれなりの割合いる以上、男女二元論なき恋愛を強調しすぎるのはやや欺瞞的なように僕には思われる。ただ、「男性性」「女性性」が意味する内容や、どんな男性性、どんな女性性が評価されるのかといったことは時代や文化によって変わるし、状況ごとでケースバイケースでもあるだろう。

 だからこそ、現代の恋愛において、より使いやすく個人の自由を抑圧しない「男性性」「女性性」を提示するべきだと僕は考える。その「男性性」「女性性」のヒントは実はゼロ年代にあった、というのが僕の考えてきたことである。

 

 

追記:

 そんなわけで、ゼロ年代恋愛塾は結局のところ「リベラルな恋愛」を目指していたことになるわけだが、その点ではたにしさんとはやや意見が異なるところもあった。たにしさんのツイートを貼っておく(ツイートのツリー欄も参照)。

 

 

  なお、肝心の内容が気になる人は、動画アーカイブもあるんでこのフォームで登録して料金を払ってくれればお送りします(宣伝)。

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