「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて

【要約】

☆人を意味する差別的なバズワード「オタク」「ぼっち」「コミュ障」「アスペ」「メンヘラ」など)を使うと、その言葉によって他人を理解しやすくなるので、その他人に適切に接することができるようになる可能性がある。また、新たな言葉によってマイナスイメージの強かった人がプラスイメージに逆転する可能性がある。

一方で、その言葉によって他人の存在が可視化されてしまうので、見えなかったときよりもかえって差別が強まってしまう可能性がある。また、一つの言葉にいろんな人間を一緒くたに入れてしまうので、不適切な使用が広がる可能性がある。

だから、言葉は適切に理解しなきゃいけないし、その言葉の多義性を知っておいて、その中でも特に人の魅力を生かすような用法を積極的にしていくべき。

 

☆その言葉の当事者(例えば「コミュ障」当事者)はその言葉に甘えて弱者でいることに安住し、自助努力を怠ってしまうこと(例:「自分はコミュ障だから人とほとんど喋れなかったのはしょうがない」といった自己正当化)があるのは問題。

その言葉の当事者(例えば「メンヘラ」当事者)は、他人の目を気にして、その言葉通りの人間になろうと頑張ってしまう(「真のメンヘラ」になろうとする)ことがあるのも問題。

だから、そういう言葉を使うときは言葉に依存しすぎず、ほどほどに。

 

☆そもそも、あまりに益をもたらさず、害ばっかり成す言葉であれば、使わない方がいい。

 

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「メンヘラ展」があったと思ったら今度は「メンヘラ誌」なるものが出るようで、個人的にいろいろ思うところあるので書く。

話の前提

「メンヘラ」という言葉があるが、この言葉が持つ、以下4つの要素が重要となるので先に書いておく。

①(人の特性を表した)バズワードであるということ

バズワード、すなわち意味が曖昧で、いろんな意味で使われる言葉だということだ。語源としては「メンタルヘルスer」からきているので、言葉からぼんやりとしたイメージはできるだろう。しかし、ぼんやりとしているので、「精神疾患を持った人」とか、「精神的に不安定な人」とか、「構ってちゃんの女性」とか、言葉からいろんなイメージが喚起される。だがそれゆえに、明確に定義を定めることは難しい。というか、「メンヘラ」という言葉が世間で使われるたびに意味が変化していくので、その意味を捉えきり、「完全に正確な」理解をすることはできないだろう。

※全ての「使われ方」(用法)を挙げることは理論上可能かもしれないが、「よくある使われ方」や「レアな使われ方」があり、それらは使われる度に変化していく。そういう意味で、「完全に正確には」捉えきれないだろう。

視覚的に表現してみよう。

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それぞれの楕円は、「メンヘラ」という言葉が1回使われたときに、それが意味している範囲を示していて、意味をその中に含んだ「(数学的な意味での)集合」として表現している。
黒い楕円だけに注目すると、様々な意味で「メンヘラ」という言葉の使われ方があることが分かるが、真ん中に集まっている赤い部分があるだろう。これは「メンヘラ」という言葉に確実に含まれている意味を指している(例えば、「不安定」という意味かもしれない)。しかし、青い楕円に注目すると、誰かが従来とはかなり違った意味で「メンヘラ」という言葉を使っている。これは、赤い部分を含んでいない「とんでもない」使い方なのだが、これが簡単にまかり通ってしまうのがバズワードなのだ。
普通の言葉は、中心の赤いところに意味がだいたい収束している(言い換えれば、「よくある使われ方」が安定している)のだが、バズワードにおいては意味が縦横無尽に拡散していて、中心の赤いところに収束しきらない。「メンヘラ」のようなバズワードは、さまざまな使われ方をするたびに意味が拡散していく。
これが先ほどの「『よくある使われ方』や『レアな使われ方』があり、それらは使われる度に変化していく」ということの意味である。また、先ほどの話で言えば、それぞれの楕円に含まれる意味を全て拾いあげれば、全ての意味をカバーすることは理論上可能だということだ。
(なお、全ての楕円(集合)の重なってる部分を「内包」、全ての楕円が一回でも覆っている部分を「外延」と言ったりする。例えば、犬にもいろんな犬がいるが、いろんな犬の全体が外延であり、「犬は哺乳類」のように全てに共通する部分が内包である)

 

②興味を喚起するということ

①で述べた「言葉からぼんやりとしたイメージができる」一方で、「言葉からいろんなイメージが喚起される」と密接に関わっていることであるが、まず、「メンヘラ」という言葉やそれが意味する人物像は面白い。また、「あるあるネタ」として消費されたりもする。
これらの理由から「メンヘラ」という言葉は興味を喚起しやすいし、もっと言えば注目を集めやすい。

 

③マイナスイメージがあるということ

A.「メンヘラ」という言葉は「メンタルヘルスer」が由来であるということから、実際に精神疾患を抱えている人が「メンヘラ」にカテゴライズされることは多い。人によっては、実際に精神疾患を抱えている人のみをメンヘラと呼び、そうでない"メンヘラ的"な人をファッションメンヘラと呼ぶようなこともある。
精神疾患のあるなしはともかく、メンヘラの周りでは対人関係において問題が起こりやすいイメージがあるので、マイナスイメージに繋がっている。(実際に問題を起こしたせいで、メンヘラと呼ばれ始める人もいるだろう)

B.「メンヘラ」という言葉はもっぱら「女性」を指すことが多い。この理由は省略するが、ネットでよくあるミソジニー言説、つまり「女叩き」とセットでメンヘラが攻撃されることがある。女性に対するマイナスイメージがそのまま「メンヘラ」にも反映されているということだ。

C.「憎まれっ子世にはばかる」のことわざにあるように、人はマイナスイメージに対する印象が強いように思われる。人はバズワードには選択的にマイナスイメージを付与しているのではないだろうか。

 

これらABCより、「メンヘラ」という言葉にはマイナスイメージがあり、侮蔑的なニュアンスで使われることや、自虐として使われることが多い。

 

④マイノリティであるということ

③で述べたマイナスイメージもあり、自ら「メンヘラ」になりたがる人は少ない。「メンヘラ」は基本的にはマイノリティ(少数派)なのである。
そして、マイナスイメージがある上でかつマイノリティの人は社会に抑圧されて苦しんでいることが多い。こういった人を解放するためのアプローチは3つ考えられる。

1つ目はマジョリティとマイノリティの差異を強調した上で、マイノリティの側の良さを強調するアプローチである。例としては、男女差別を解消する際に「女性固有の」良さを強調したり、病気の人間を「シャーマン」として崇めたりといったものである。なお、このようなマイノリティ固有の力を発揮させるアプローチを福祉等の分野で「エンパワーメント」と言うことがある。

2つ目はマジョリティとマイノリティの同一性を強調するアプローチである。マイノリティであっても同じ人間なのだから、特別扱いせずに同じように扱い、同じ権利を保障するということである。例としては、男女差別を解消する際に女性にも選挙権を認めたり、『五体不満足』で有名な乙武さんが五体満足の人と同じように扱われたりといったものである。

3つ目はそもそもマイノリティがマジョリティと同じ土俵に立たないというアプローチである。例えば、新宿二丁目ではセクシャルマイノリティがシスジェンダーへテロセクシャルの社会とは隔離されて生きていたり、「べてるの家」という精神病等の人たちの当事者団体では病気の治療を目的とせずに生きていたりといったものである。

 

なお、ネットでよく使われる他のバズワードで、人の特性を表すものには「リア充」「イケメン」「意識が高い」「ウェイ」「オタク」「DQN」「ぼっち」「コミュ障」「アスペ」などがある。(個人的なバイアスがかかってる気もする。)前者2つは上記の①②を満たし、それ以外はだいたい①②③を満たし、④については満たすものと満たさないものがある。
だから、これから述べる問題は、「メンヘラ」に限らず、このようなバズワード全般に多かれ少なかれ当てはまる問題である。

 

メンヘラ展に続き、メンヘラ誌

Twitter上のメンヘラ界隈(?)のようなものの拡大は後を絶たない。数が増えてくると徒党を組むのもよくある話で、一部で話題になったメンヘラ展に続き、メンヘラ誌なるものが出るようで気になった。(メンヘラ展とメンヘラ誌には直接的に関係はない。しかし、横のつながりなしで乱立するあたり、「メンヘラ」に興味を持つ人たちや「メンヘラ」という自己認識のある人たちが増えている何よりの証拠であろう。かのメンヘラリティ・スカイも同じ文脈で捉えることが可能かもしれない)

 

真のメンヘラ?

しかし、メンヘラ展のときもそうだったが、今回もメンヘラ誌が始まってもいないのに批判が出ている。その一つは「真のメンヘラ」問題だ。
それは何かと言うと、メンヘラと自称する人が増えるにつれて、そこまで苦しんでいない人と特に苦しんでいる人との区別がなくなり、特に苦しんでいる人をないがしろにしてしまうという問題である。言い換えれば「ファッションメンヘラ」を容認していいかどうかという問題なのだが、それに対して、Twitterのフォロワーのえりみそ氏がこういった反応をしていた。


つまり、「本当のメンヘラはもっと苦しいんだ!」と主張する人がいるのも分かるが、その主張自体にも問題があるのではないかという話である。
なお、この話はメンヘラに限らず、上記に挙げたバズワードなど、マイナスイメージを持ったいろんな言葉において起こる現象である。
このことに興味を持った自分は、最終的に「メンヘラという言葉を使って大々的に活動をする際に注意すべきこと」という問題意識で整理してみることにした。

 

抑圧について

最初に②で述べたように、「メンヘラ」という言葉はHOTで、興味を持つ人が多いので、注目を集めるには持ってこいだ。メンヘラ展が注目を集めたのは、その理由からだろう。(主催者自身そのようなことを言っていた)
問題は、その言葉を使うことによって抑圧される人間がいるかもしれないということだ。
抑圧とはおそらく1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びること2.偏見から不適切な接し方をされること3.新たなマイナスイメージが生成されること、の3つだろう。

 

1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」という言葉の認知度は高まる。元々、最初の③で述べたように、「メンヘラ」にはマイナスイメージがあるのだが、全ての人がそのマイナスイメージを持っているわけではない。元々「メンヘラ」についてよく知らない人が、「メンヘラ」について知ることによって、マイナスイメージを持つ人が増えたり、元々マイナスイメージを持っていた人のマイナスイメージが更に強化されたりすることがありうる。これによって「メンヘラ」当事者は非難を浴びる可能性が高まるので、「抑圧」と言えるだろう。
これは部落差別問題の文脈などで使われる「寝た子を起こすな論」に近い。「メンヘラ」について知らない「寝た子」を起こさなければ、わざわざ非難するような事態は起きなかったという理論だ。

 

2.偏見から不適切な接し方をされることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」に対する偏見が強化されることがある。偏見とは具体的には、最初の③で述べたようなマイナスイメージも含まれる。③Aで述べたような「メンヘラ」の対人関係に関するマイナスイメージは常に実際のメンヘラに当てはまるわけではないし、③Bに関してはそもそも女性蔑視であり、③Cも認知バイアスの一種なので、それぞれ「偏見」の名に値するだろう。

また、最初の①で述べたように、「メンヘラ」はバズワードである。よって、一口に「メンヘラ」と言っても様々なメンヘラがいることは既に述べた。ここで更に議論を整理するために、「どれくらい重篤なメンヘラか」という軸を導入する。

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図に示したように、一口に「メンヘラ」と言っても様々なカテゴリーが存在し、精神疾患を持っていない人を「メンヘラ」と呼ぶこともあれば、精神疾患を持った「メンヘラ」の中でも、症状などによって様々なカテゴリーに分けられる。
先ほど述べた「偏見」の具体的な例のもう一つは、このカテゴリーから外れた理解をすることである。説明しよう。
最初の①のバズワードの話で述べたように、このカテゴリー=バズワードの意味は絶えず変化し、様々な意味が付与されていく。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動をすることによって、メンヘラという言葉自体が広まって誰しもが「メンヘラ」とみなされてしまったり、多くの人がメンヘラを自称するようになったりもするだろう。そのように「メンヘラ」の意味は絶えず変化していくのだが、一時的にはカテゴリーについてのある程度の合意はなされるはずである。
しかし、「偏見」が原因で、その合意されたカテゴリーとは違うカテゴライズをする人間もいるということである。例えば、

X.図の青色の人を、緑色の人のごとく扱ってしまった際に、問題が生じうる。なぜなら、青色の人と緑色の人は質的に異なる「メンヘラ」であり、適切な接し方も異なることがあるからだ。

Y.またそういった質的な違いだけでなく、この問題は「重篤なメンヘラ」を「軽度なメンヘラ」として扱ってしまう場合に更に問題になりやすい。先ほどの図で言えば、重い精神疾患を抱えている人(図の青いところ)を軽い精神疾患を抱えている人(図の赤いところ)のごとく扱ってしまい、その当事者が傷つくという問題がありうる。

Z.上二つのような「『メンヘラ』という言葉内の境界」を超えたカテゴライズのミスも問題だが、「『メンヘラ』か『メンヘラ』でないかという境界」を超えたカテゴライズのミスによる問題もありうる。それはつまり、実際に精神疾患を抱えている人を、精神疾患を抱えてない「ファッションメンヘラ」≒「健常者」のごとく扱ってしまい、その当事者が傷つくという問題だ。

(これは『真のメンヘラ』を「ファッションメンヘラ」≒「健常者」として扱われてしまうことによって生じる「真のメンヘラ」問題にも通ずる。それとは逆に「健常者」が「メンヘラ」を名乗ることによって、「真のメンヘラ」と区別がつかなくなる場合もある。

いずれにせよ、「真のメンヘラ」問題とは、個々人の中にある 健常者/ファッションメンヘラ/軽度のメンヘラ/重度のメンヘラ といった区別がいい加減になり、実際に存在する「真のメンヘラ」が苦しむという問題である。
この「真のメンヘラ」問題については後にも述べる。)

ともかく結論として、最初の③で述べたようなマイナスイメージの強化にせよ、①のバズワード性から生じがちなカテゴライズのミスにせよ、「偏見から不適切な接し方をされる」という抑圧に当たるだろう。

 

3.新たなマイナスイメージが生成されることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」に新たなマイナスイメージが付与される可能性がある。最初の①で述べたようにバズワードである「メンヘラ」は新たなイメージが付与されやすい。
とは言え、最初の③で述べたように既にマイナスイメージがあるので、これ以上新たなマイナスイメージが付与される可能性は低いのだが。もし、新たなマイナスイメージが付与された場合には「抑圧」と言えるだろう。

 


ともあれ、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動することで、「メンヘラ」の「抑圧」に繋がりうるということがこれら3つの説明から分かる。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動することには責任が伴うということははっきりしているだろう。

この責任の大きさは、使う言葉によって違う。たとえば、「オタク」が偏見から心無い非難を浴びるのであれば、それに対して怒ったり、悲しんだりで話は済むだろう(それはそれで問題だが)。しかし、「メンヘラ」の場合は、実際に精神疾患を抱える人もいる問題なだけにデリケートだ。民族差別においては戦争が起こってしまうレベルであることを考えれば、抑圧が起こることによってより大きな問題に発展しやすければ、それだけいっそう責任も重大であるということだ。


解放について

勘違いしてほしくないのは、これは「『メンヘラ』という言葉を使って大々的な活動をするな」という脅しではないということだ。「抑圧される人間がいるかもしれない」と言ったけど、逆に「解放」される人間もいるかもしれない。
解放とはおそらく、Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされることⅡ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなることⅢ「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになること、の3つだろう。

 

Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされることに関して

抑圧の1.の裏返しなのだが、メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」という言葉の認知度は高まる。それによって元々メンヘラのことをよく知らなかった人や、偏見を持っていた人が「メンヘラ」に対してより正確な理解をするようになる。*1

言わば、抑圧の2.の図で示したカテゴリー通りの接し方ができるようになるということである。赤色の人には赤色の人固有の、青色の人には青色の人固有の、緑色の人には緑色の人固有の、ファッションメンヘラにはファッションメンヘラ固有の、適切な接し方がおそらくあるだろう。例えば、「うつの人に『頑張れ』と言ってはいけない」とはよく言われるが、これは、抑圧の2.で述べたような、「メンヘラ」を「ファッションメンヘラ」のごとく扱ってしまうカテゴライズのミスから生じる不適切な接し方である。
逆に「メンヘラ」に対して、偏見のない、より正確な理解が広まれば、こういったカテゴライズのミスがなくなり、より適切な接し方がされるようになるだろう。これは「解放」だろう。
抑圧の1.で述べたことを繰り返せば、これは「寝た子を起こす」ことを良しとするアプローチである。
なお、この「正確な理解」という議論は次の「特別扱い」の議論に繋がってくる。

 

Ⅱ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、多くの人にとって「メンヘラ」が身近なものになる可能性がある。それにより、「メンヘラ」に対する特別扱いがなくなる可能性がある。
特別扱いがなくなることには良い面も悪い面もあるので、細かく見ていこう。

まず、「特別扱い」とは具体的にはなんだろうか。一つにはそれは当事者も「してくれてありがたい」と感じる、正当な配慮・気遣いだろう。これがなくなってしまえば、抑圧の2.で述べたカテゴライズのミスという事態が生じる。

一方で、ありがた迷惑大きなお世話のような特別扱いや、自分から異質のものを遠ざけてしまって、気まずさを感じさせる特別扱いはむしろ問題だ。これはなくなった方が良いのではないだろうか。
メンヘラの話で言えば、「真のメンヘラ」とそれ以外との間にある明確な境界を超えて、ボーダーレスに、健常者と同じように扱われることは、むしろ当事者にとって気楽なのではないだろうか。これは最初の④の2つ目で述べた、マジョリティとマイノリティの同一性を強調するアプローチである。
そして、「特別扱い」をされなくなれば、当事者自身が「特別性」の"檻"から解放される。もちろん、病気の人が特別扱いをされなくなったからといってその病気が治るわけではないが、自ら特別性を獲得するために自分から「メンヘラ」として振舞うことはなくなるのではないだろうか。別の言い方をすれば、「疾病利得に甘える」ことはなくなるのではないだろうか。このことは、後に述べる「特別性への依存」の話と真逆の問題である。
また、似た議論ではあるが、特別扱いをされなくなれば、「メンヘラ」という"弱者の座"に甘えることもできなくなる。"弱者の座"に甘えるとは一言で言えば、自虐によって自分の立場の正当性を主張することである。言い換えれば、「頑張らなくていい理由」を周囲に説明できるということである。これについては、べとりん氏東大「Twitterサークル」研究会のブログに詳しい↓

 

ねじれた階級闘争 ―「弱者」の座を巡ってー(全5回)


弱者の座に甘えることが良いのか悪いのかは微妙な問題である。べとりん氏が挙げる例にある「劣等感」のようなものは、改善可能性が高いだけに、弱者の座に甘えていてはいけないかもしれない。一方で、重篤な精神疾患などのように、改善可能性が低ければ、甘えるもとい、休むことも必要だろう。(「うつは甘え」という言葉があるが、これは精神疾患への無理解からくる偏見だろう)
ただ、「ファッションメンヘラ」に関して言えば、「メンヘラ」を自称して「メンヘラ」になろうとすることで本当に「メンヘラ」になってしまうこともあるので、"弱者の座"に甘えることの問題は更に根深い。だからこそ、「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなるという「解放」はより重要であるように思われる。

まとめると、「正当な配慮・気遣い」をしてもらいながら(良い意味での特別扱い)、健常者と同じように扱うべきところは同じように扱われる(良い意味でのボーダーレス化)という状態が理想である。

「『正当な配慮・気遣い』をしてもらいながら、健常者と同じように扱うべきところは同じように扱われる」……そんなムシの良いことが実現するかと言われれば難しいだろうが、解放のⅠで述べたように「『メンヘラ』に対する偏見が弱まって、より正確な理解をされること」でしか、その理想に近づくことはできないのではないだろうか。
というのは、おそらく「正当な配慮・気遣い」は偏見のない、より正確な理解があってこそのものだからだ。「メンヘラ」に対する正確な理解がないまま、「何かよく分からない異質なもの」を特別扱いするのは、「正当な配慮・気遣い」ではなく、「腫れ物を触る」という言葉がふさわしいだろう。

つまり最初に述べた「正当な配慮・気遣い」=「良い意味での特別扱い」≒解放のⅠ(「メンヘラ」に対するより正確な理解から生じる「適切な接し方」)ということである。この点で言えば、たとえ「メンヘラ」が多くの人にとって身近なものになったとしても、その分「正確な理解」があれば、「良い意味での特別扱い」は残るだろう。また、「メンヘラ」が身近になれば「変な特別扱い」の方こそがなくなっていき、「メンヘラ」当事者は気楽
に生活できるようになるだろうし、"特別性の檻"に縛られたり、"弱者の座"に甘えるということはなくなっていくだろうというのがこの「解放」である。


Ⅲ「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになることに関して

メンヘラの魅力に関しては、個人的にはそれこそいくらでも書けることがある(東大ダメ人間の会会長であるべとりん氏も「メンヘラの魅力考察」をしていて、B5用紙36ページに渡る大作だった)のだが、そこは議論が分かれるところでもあるので箇条書きするに留めておく。

・一つの物事に対する想いの強さ
・共感力の高さ
・特有のコミュニケーション形式(特に他人との距離感が独特)
・特有の思考形式(芸術などに昇華されることが多い)
……などだろう

代わりに、「オタク」という言葉のイメージを巡る変遷から類推してみよう。「オタク」という言葉にはマイナスイメージが強かった。それはマスメディアでの、宮崎勤の事件に対するコメントをはじめとするネガティヴキャンペーンが影響している。しかし近年では、「オタキング」を自称する岡田斗司夫を筆頭とするオタク側の頑張りもあって、肯定的なイメージも広がっている。これと同様に、「メンヘラ」にも肯定的なイメージを付与することは可能ではないだろうか。なお、これは最初の④の1つ目で述べた、マジョリティとマイノリティの差異を強調するアプローチである。

しかし、大きな問題もある。メンヘラが肯定的に評価されると、個々人の不安定な行動(言わばメンヘラ性)をエスカレートさせてしまうという問題(誰が一番メンヘラか競争みたいな)がある。私見では他者からの承認に依存しやすい傾向にあるメンヘラは多いので、もしそうならばこの問題は起こりやすい。えりみそ氏も似たようなことを述べていた。

 


これは、メンヘラが肯定的に評価されることで、かえってその特別性が強調され、特別性に依存してしまうという問題である。解放のⅡのところで述べた、ボーダーレス化によって「特別性」の"檻"から解放されることとは真逆の事態である。
この問題に関してはフォロワーのオマテキ氏のブログに詳しい↓ 正直、あまり配慮のない文章だと思うが、その分問題意識がはっきりしている。

 

メンヘラをネタにインターネットで人気者になることについて : 戦争だ、90年代に戻してやる



この問題に関しては当座のところ、個人的には「何事にも限度があるよね」としか言えない。周囲も限度を超えることを煽ってはいけない。「メンヘラ」を「肯定」するという言葉が良くないかもしれない。せいぜい「受容」するぐらいが適切かもしれない。今後考えていくべき問題だと思っている。

こういう問題があるので、一概には言えないところなのだが、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には「抑圧」と共に「解放」の要素がある。
ここまで述べてお気づきの方もいるかもしれないが、抑圧の1.、2.、3.、は、それぞれ解放のⅠ、Ⅱ、Ⅲと裏表の関係にある。そのことをまとめて表にして提示しておこう。

 

既存の「メンヘラ」という言葉の意味について正確に理解することによって:

抑圧1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びる

解放Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされる

 

既存の「メンヘラ」という言葉が作る意味のカテゴリーとは違う意味づけをすることによって:

抑圧2.偏見から不適切な接し方をされる

解放Ⅱ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなる

 

「メンヘラ」という言葉に新たな意味を付与することによって:

抑圧3.新たなマイナスイメージが生成される

解放Ⅲ 「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになる

 

そして、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には「抑圧」ではなく「解放」を志向してほしいというのが私の主張である。ⅡとⅢについては微妙な問題もあるのだが、少なくともⅠについて、偏見をなくして「メンヘラ」についてより正確な理解をすることは重要だろう。

 

 

抑圧するのか解放するのか

では、メンヘラという言葉を使った活動が「抑圧」に寄与するのか「解放」に寄与するのか、それを分けるものはなんだろう。これはかなり難しい問題だと思うので、またもや一概には言えない。それは先ほどの錯綜した議論に現れている。「偏見をなくし、正確な理解をすることが重要だ」と解放のⅠで言ったものの、そもそも「メンヘラ」という言葉がバズワードである時点で、「メンヘラ」という言葉の意味はどんどん変化していくし、偏見もクソもないんじゃないかという問題もある。
また、「プラスイメージ」は偏見ではなく、「マイナスイメージ」は偏見であるという、誤った前提で考えていたかのように見えるかもしれない(そんなことはないのだが)。

しかし、難しい問題であることを承知の上で、これまでの議論を踏まえて3つほど提言する。

言葉への適切な理解

まず、「メンヘラ」という言葉を使って「メンヘラ」当事者を傷つけてはいけない。また、直接傷つけることはなくとも、不適切な言葉遣いによって「メンヘラ」当事者が傷つくような社会構造を再生産し、間接的に「メンヘラ」当事者を傷つけることがある。
これらを避けるためには、まず言葉の正確な理解が必要である。「メンヘラ」に密接に関わる領域として、精神疾患の知識はあった方が良いし、「メンヘラ」が「女性」と結びつきやすいことから男女差別に関するジェンダー論的な知識もあった方が良いし、言葉による差別がどういう構造で生まれるのかという知識(例えば「ポリティカルコレクトネス」に関する知識)などもあった方が良いだろう。
そして、正確な知識を持った上で、それらを適切に運用していく必要がある。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動をする人たちの、少なくとも一部はこういう知識に精通している必要があるだろう。そして、その知識を適切に運用できるよう活動参加者に周知しておくべきだと私は思う。

多様性への配慮

最初の①で述べたように、また抑圧の2.の図で述べたように、「メンヘラ」という言葉の意味は曖昧で多義的で、様々な意味のカテゴリーを形成している。
だから、一口に「メンヘラ」と言ってもいろんな「メンヘラ」がいる。これらの内の特定の部分だけを強調するようなことは避けるべきだろう。でなければ、抑圧の2.で述べたようなカテゴライズのミスによって、「メンヘラ」に対して不適切な接し方をする人が増えてしまいかねないからだ。
この多様性に配慮している点において、私は「メンヘラ展」を高く評価している。
(詳しくは拙ブログ

メンヘラ展2について考えたこと - 落ち着けMONOLOG

を参照)

魅力の強調(ただし、取り返しのつかないことは避ける)

最初の③④で述べたように、「メンヘラ」という言葉にはマイナスイメージがあり、「メンヘラ」当事者はおそらくマイノリティである。だからこそ、解放のⅢで述べたように、その魅力を、肯定的な部分を強調することによって解放していくべきだと私は思う。
「メンヘラの魅力」は人によって様々であるので、どれを強調するのが良いとまでは私には言えないが、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には、「どういった魅力を強調するか」についてある程度あたりをつけておいても良いのではないだろうか。
ただし、解放のⅢで述べたように、個々人のメンヘラ性をエスカレートさせてしまう問題はあるので、そのあたりへの配慮、「やっちゃいけない限度」は必要だろう。

以上3つを挙げたが、誤解を恐れずに端的に言えば、「どうせ『メンヘラ』という言葉を使って活動するんだったらクオリティの高いことやってほしい」ということになる。

そして、この話が「真のメンヘラ」問題にも繋がってくる。「メンヘラ」当事者への適切な理解をしつつ、その多様な「メンヘラ」像を"多様なまま"表現する。そうすれば、「真のメンヘラ」当事者の納得度は高まるのではないだろうか。

 

「真のメンヘラ」問題について

はじめの方で述べた「真のメンヘラ」問題について、これまでの議論を使って決着をつけよう。この問題の解決へのアプローチは3つだ。

1つ目は、抑圧の2.で述べた「メンヘラ」の意味カテゴリー図を参考に考えていく。図では「軽度なメンヘラか重篤なメンヘラか」という軸を導入したが、このような"量的な"違いを理解することは一面では重要だが、それが全てではない。
カテゴリー図を縦に見れば分かるように、一口に「メンヘラ」と言っても"質的な"違いがあるのだ。うつにせよ
、パーソナリティ障害にせよ、解離にせよ、統合失調症にせよ、「みんなちがってみんな苦しい」という側面はあるだろう。自分が「真のメンヘラ」当事者であるからと言って、それらの違いを無視して「自分や、自分と同じ苦しみを抱えた人間だけが苦しいんだ」と主張するのは間違いだろう。

2つ目は、解放のⅡで述べた"弱者の座"の問題だ。「真のメンヘラ」が自分のメンヘラ性に甘えて、治療可能性を放棄することは問題だろう。また、メンヘラというものの性質上、「自分がメンヘラであるということを主張することが更にメンヘラを悪化させる」という側面が強い(例えば、自分の悩みを特別なものだと思い込んで思い悩むことが悩みを加速させることや、リストカットを実行することでリストカットへの依存を強めることなど)。
だから、自分は「真のメンヘラ」であると主張して"弱者の座"に甘える、または"特別性の檻"に閉じこもることには問題がある。かと言って、「うつは甘え」などと言った不適切な言説によって、「正当な配慮・気遣い」をしなくなることは問題なので、一概には言えないのだが。

3つ目は、「真のメンヘラ」当事者に対してではなく、他の人たちに対するアプローチである。先ほど、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には、「メンヘラ」当事者への適切な理解と「メンヘラ」の多様性への配慮が必要だと述べた。そうすれば、「真のメンヘラ」当事者の納得度も高まるのではないかと。
そして、それは活動者に限った話ではない。社会全体のより多くの人間が「メンヘラ」当事者への適切な理解と配慮をすることで、「真のメンヘラ」当事者も多少は納得していくことだろう。


述べた3つのことは重要であるものの、「真のメンヘラ」問題の決定的な解決とは言いがたい。依然として、「真のメンヘラ」が「自分のような真のメンヘラがいるのだから、ファッションメンヘラはメンヘラを名乗るな」と主張するのも正しいのかもしれない。


最後に~そもそも「メンヘラ」という言葉を使わなければいいのでは?~

メンヘラという言葉自体にマイナスイメージがあることから、そもそもその言葉を使うこと自体が差別的だと感じる人もいる。
だから、そもそも「メンヘラ」という言葉を使わない方が社会のために良いのではないかという主張もでてくるだろう。例えば「かたわ」や「白痴」などの言葉はもはや見かけること自体が少ないし、使う必要性がないと私も思う。
(参考:差別用語 - Wikipedia

一方で、最初の②で述べたように「メンヘラ」という言葉は興味を喚起しやすい。精神疾患のような堅い言葉では共有されにくいイメージも瞬時に共有されることが多い。
この「イメージしやすさ」は"武器"に転化しうる。「メンヘラ」という言葉が、またその他様々なバズワードが、差別の文脈を離れて様々な意味に変化しうる以上、逆にマイノリティが戦うための"武器"としてうまく利用していくのもアリなのではないだろうか。
もちろん、全てのバズワードが積極的に利用できるわけではないと思うので、そのあたりの線引きは熟慮していかなければならないだろうが。

*1:「正確な」という言葉と「適切な」という言葉を意図的に使い分けている。最初の①で述べたバズワードの話と、抑圧の2.で述べた意味カテゴリーの話を参照してほしいのだが、「正確な理解」という言葉遣いをするときは「現在における『メンヘラ』という言葉の意味をそのまま理解している」ぐらいの意味で取ってほしい。しかし、最初の①で述べたように「完全に正確な」理解はとてもできないので、「より正確な」という表現を使っていることが多い。
「適切な」という言葉遣いをするときは一歩進んで、「『メンヘラ』当事者が傷つかなかったり、社会全体にとってより良い結果をもたらしたりするような接し方になるような」ぐらいの意味で取ってほしい。

メンヘラ展2について考えたこと

メンヘラ展2に行ってきたので僕なりに考えたことを書く。
僕なりに考えたことの結論から言うと、至極当たり前のことなんだけど、「メンヘラって一口に言ってもいろんなメンヘラがいるよね」ということ。

まあとりあえず、出展者の一人であるwall-handさんの記録ページを参照。雰囲気やら作品やらが分かると思うので↓
http://blog.goo.ne.jp/chlor_hibiye/e/51a0a8762e1fa2f6fd52ee2df2f0b7a3

 

※僕の性格上、細かい前提の議論から始めることをお許しください。メンヘラ展2自体の感想については最後の方に書いてます。

「メンヘラ展」というもののコンセプトについて

そもそも去年の「メンヘラ展」のときから「メンヘラ」というバズワードで括って、「メンヘラ展」なるものを開催していること自体に疑問があったので、その疑問から書いていく。

メンヘラ展1のコンセプト文↓
https://61749a6c3fa896154961fda45f8420a09ea03e3b.googledrive.com/host/0B5xrKP8tWBoMaDFuRU94QkhyMU0/menu/concept.html

抜粋しながら分析していく。


①メンヘラという言葉のキャッチーさ

"漠然とした募集には誰も見向きもしないし、まずは参加資格を限定しなければ立候補しにくいと思い、どんなグループなら人が集まるのか、インパクトや話題性があるのかを考えた結果、「メンヘラ」を打ち出しました。"

"何の地位もない無名の私が「精神障がい者でグループ展をしませんか。」と言ったところで誰も手を挙げないと思います。"

そもそも「メンヘラ」って言葉を使わないと、一般公募のグループ展自体が成り立たないよね、という話。これはごもっとも。
問題は「メンヘラ」という言葉に何を見出してるかということ。そして、「メンヘラ展」が何を目的としているグループ展なのかということで次。

 

②ネットとリアルをつなぐ?

"何故、「メンヘラ」というネットスラングを使ったのかと言うと、ネットユーザーにとっては身近な言葉であり、 「ネットとリアルを繋ぐ」という作業に最適だと思ったからです。"

メンヘラというネットスラングを使うことで、ネットとリアルが繋がる。確かにそういう側面もあるかもしれない。
ただ、ここに関しては単純に疑問があって、「ネットとリアルを繋ぐ」というのは耳あたりの良い言葉遣いなだけで、これはたぶん本質ではないと思う。メンヘラ展1を見に行ったわけではないけど、そういうところは最終的には大きく意識してなかったように思う。次から書く内容がおそらく本質である。

 

アートセラピーでもメンヘラに安住するわけでもない

"私達の目的は、アートセラピーでも、メンヘラに安住することでもありません。 承認欲求を満たすためだけのものでもありません。"

アートセラピーでもメンヘラに安住することでもない」というのは実は結構強い限定だと思う。メンヘラがアートによって表現をすることの理由はこの二つに還元されることがかなり多いので。
「承認欲求を満たすためだけのものでもない」は、承認欲求はおそらくメンヘラを扱う分には大きな要素なので、「満たすためでもある」ってことなんだろうなあと。

 

④内発的なものをアートに昇華する

"自傷やODや過食嘔吐といった問題行動は、一人の世界です。生産性がありません。 メンヘラ特有の、モヤモヤやぐちゃぐちゃドロドロをアートに昇華し、そのむき出しの叫びをぶち撒ける。 それは、非常に意義があることだと考えています。"

ここで、メンヘラ当事者の内発的なものをアートにしようというコンセプトが伝わってくる。
実際に、メンヘラ展の参加資格に「精神疾患を患っていて、表現をしていること」というものを挙げていた。
これによって「メンヘラ展」は「メンヘラに関する展示」ではなく、「メンヘラがやる展示」であるという、当事者性を重視したものであるということが分かる。

 

⑤メンヘラ展の問題点

脱線するが重要なことなので、急いで付け加える。
精神疾患を患っていて、表現をしていること」という参加資格には「メンヘラ≒精神疾患」であるという前提と、「メンヘラの中でも表現ができる人」に限られているという前提が隠れていることが分かるだろうか。

僕自身、この二つの前提が「メンヘラ展」を「メンヘラ展」という名前でやることの大きな問題点だと思っている。以下ABに分けて詳しく述べる。

 

A.「メンヘラ≒精神疾患」という限定の問題点(実は解決済みだけど一応)

「メンヘラ≒精神疾患」という限定は強すぎる限定であり、「メンヘラ」という言葉の本質さえも抜け落ちてしまうレベルの限定だということだ。
メンヘラはネットスラングでありバズワードである。だから、いろんな意味の広がりを見せている。
それは、ただ単に精神疾患を指すだけでなく、
Ⅰ.精神疾患というほどでもないのに「メンヘラ的なもの」を敢えて志向する「ファッションメンヘラ」の存在や、
Ⅱ.精神疾患の当事者ではない人がやる「メンヘラ的な行為」(いわゆる構ってちゃんや、一時的な強い不安、他人に迷惑をかける過剰な行動などなど)
をも指す。むしろ、ネットにおける「メンヘラ」という言葉の使われ方を見ると、こちらに本質があるとすら思えるほどである。
こういった要素がこぼれ落ちてしまう「メンヘラ展」という名付け方は、ミスリードだ。

また、更に言えば、一般的に使われる「メンヘラ」を指す「精神疾患」は、「境界性パーソナリティ障害」を指すことが多いように思う。服薬をする点では他の精神疾患でもよいのだが、いわゆる「メンヘラ」らしさを分かりやすく表現してるのは「境界性パーソナリティ障害」だろう。
それに対して、「精神疾患」の中には「統合失調症」のような、健常者の論理では――おそらく、境界性パーソナリティ障害よりも遥かに――理解しがたい論理で行動する人がいる。
このような人はおおよそ「メンヘラ」的ではない。しかし、アートの世界においては「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」と呼ばれる、主に統合失調症の人によるアートも存在する。
また、それに近いものに、無意識による芸術を志向した「シュルレアリスム」というものもあり、これもある種精神疾患に近い要素を秘めている。
精神疾患」はこういった要素をも指しうる。

要するに、「メンヘラ≒精神疾患」という限定をしてしまうと、本来「メンヘラ」が指すはずのものが抜け落ちてしまったり、本来「メンヘラ」が指さないはずのものが入り込んできてしまったりするということだ。
にもかかわらず「メンヘラ展」という名前を使うこと、ここに「誤解を招く」という問題点や「名が体を表さない」という問題点がある。
①で述べた言葉のキャッチーさや、②のネットとリアルをつなぐなどの要素を考えれば、「メンヘラ展」という名前をつけるメリットはとても大きいので、どうしようもないとは思うのだが、こういったデメリットについては目をつぶってほしくはないし、できるだけ「メンヘラ」という言葉が何を指しているか、「メンヘラ」という言葉の本質は何なのか、そういった点に留意しながらやってほしいというのが僕の考えだ。

(※っていう考えだったんだけど、メンヘラ展2の方の参加資格は「メンヘラであること、表現活動をしていること、渋谷に搬入出に来られること」になっていた。まあ下手に精神疾患って言葉使うより「メンヘラであること」というフワッとした定義にしておく方がいいよね、ということで実はこの問題は既に解決していた(!!)

とはいえやはり、「メンヘラ」という言葉が何を指しているかということは、依然として「メンヘラ展」のコンセプトにかかわる重要なポイントだろう)

 

B.「メンヘラの中でも表現ができる人」という限定の問題点

ある意味では、「全ての人間は表現をしている」と言ってしまえばそうなのだが、現実問題として「作品」として鑑賞する価値のあるものを作れる人間は限られているだろう。
だから、メンヘラ展1の「表現をしていること」やメンヘラ展2の「表現活動をしていること」という限定は、相応の限定であるということが伺える(実際、メンヘラ展2に行ってみた感想を先取りすると、表現・作品として成立している(それこそお金取れるレベルの)ものばかりだった)。

つまり、「表現をしている」だとか「表現活動をしている」だとかいうのは、「作品として一定以上のレベルを求めますよ」ということを柔らかく言っているということだ。
もちろん、アートのグループ展だったら、参加資格として一定以上のレベルを必要とするのはそりゃ当たり前っちゃあ当たり前だ。
ただ、こと「メンヘラ」を扱う分においては考えなければいけないことが増える。というのは、「メンヘラ」には「社会的弱者」の側面がある場合が多いからだ。
「表現活動ができる」、すなわち「作品として一定以上のレベルのものが出せる」ということは、それだけで強者だとも言える。
世の中には表現活動ができるだけの能力や技術、手段、社会的立場、場所、時間、お金等のない「メンヘラ」や、通院や服薬するだけの時間やお金がなくて言わば「メンヘラを続けることすらもできない」人はおそらくたくさんいることだろう。
結局のところ、「メンヘラ展」は表現活動ができるだけの能力や技術、手段、社会的立場、場所、時間、お金等に恵まれたメンヘラのみによるグループ展であるということだ。これはひょっとすると、そういったものに「恵まれていないメンヘラ」や、「メンヘラを続けることすらももできない人」を社会的に抑圧してしまうことに繋がりかねないという問題点がある。

 

別の例を挙げよう。たとえばゲイ当事者によるゲイパレードがあるとしよう。その中で、「ゲイの中でもこういう人は参加してもいいけど、別の人は参加しちゃダメだよ」みたいな限定があると問題になるだろう。極端な話かもしれないがそれと同じだ。
(もちろん、この例においても、ゲイの中で自分がゲイだとカムアウト(カミングアウト)してない人がゲイパレードに参加できるかどうかは怪しいし、そのパレードに参加できなくなるような地理的、時間的、経済的制約を受けていないことも条件になる。)

 

話を戻す。だから、「メンヘラ展」は表現できない、表現したくでもできないような「恵まれないメンヘラ」や、お金や時間の問題で通院できないなどの「メンヘラを続けることすらできない人」に対する留意が必要だろうということだ。「メンヘラ展」の出展者には、メンヘラの中でも表現活動ができるという、ある意味では「恵まれた」メンヘラであるという、一種のノブレスオブリージュ・責任が発生しうるだろう。

ただ、具体的にその責任からどういう行動を取らなきゃいけないかっていうのは難しい。こういった問題に自覚的であるべきなのではないかということや、あたかも自分が全てのメンヘラを代表しているというような態度を取るべきでないということ、などだろうか。
実際問題としては、全てのメンヘラに配慮することは、たとえしたくてもできないだろうなあ、とは思う。
まあ、たとえば「恵まれないメンヘラ」当事者から嫉妬や羨望から生じる誹謗中傷を受けたとして、こういった問題に自覚的であるか自覚的でないかで、対応の仕方は変わってくるんじゃないかなあとか思う。

個人的な戯言としては、「メンヘラ展」がより多くのメンヘラを包括できるようなシステムを構築してくれると嬉しいなあとか思う。たとえば、メンヘラ個人によるアートだけじゃなくて、メンヘラ集団によるアートをやってみるとか。(集団リスカや集団ODはアートとは言えんだろうけど、その方向性じゃないだろうか。)いや、いろいろ問題だし、難しいだろうけど。

なんかいろいろ言ったけど、別にそれほど問題でもなかったかな……「メンヘラ」を「社会的弱者」であるとして、差別の文脈で捉えてみたらこういう問題点がもしかしたらあるかもね、という程度のごく弱い主張でした。

 

⑥メンヘラと、アートというコミュニケーションツール

脱線しまくったけど、メンヘラ展のコンセプト文の話に戻ります。

"アートは社会との、鑑賞者との、作品との、自分との、コミュニケーションツールの一つです。 自分のメンタリティを全て曝け出さなければ、表現になりません。 そこに初めてメンヘラがアートをするということに意味が生まれるのではないでしょうか。

メンヘラである私達にしか出来ないことがあるのではないかという可能性を見出し、 この展示グループが発足しました。

アートを通して、メンヘラが世界と繋がる。ネットとリアルが繋がる。メンヘラのリアルを伝える。 メンヘラと意識を共有する。そんな展示にしたいと思っています。"

ネットとリアルの話は②でしたからいいとして、「アートというコミュニケーションツール」によってメンヘラのメンタリティを表現し、伝えることが重要なようだ。それも、健常者に対してメンヘラのリアルを伝えるという側面と、メンヘラ同士がメンヘラとしての意識を共有するという両方の側面があるようだ。
④で「メンヘラ展」は「メンヘラに関する展示」ではなく、「メンヘラがやる展示」であるという、当事者性を重視したものであるということを言ったんだけど、この⑥を見ると、「メンヘラに関する展示」であるという側面もあるんだなあと思った。
だから、出展者は必ずしもメンヘラ当事者でなくてもいいんじゃないの? という疑問は生じる。
もちろん、出展者が当事者だけであるということから、「メンヘラじゃないクセにメンヘラ展で出展するのは欺瞞だ」みたいな非難は避けられるというメリットや、④で述べた「内発的なものをアートに昇華する」という側面を強調できるというメリットはあるんだろうけど。


以上が、メンヘラ展1のコンセプトについて。
行ってないから実際コンセプトがどう実現されてたのかとかはよく知らんけど。

無駄に長く書いた気がするけど、これを先に書いておくことによって後の議論に繋がる部分もあるので、もうちょっと付き合ってください。

 

次に、メンヘラ展2のコンセプト文について。

メンヘラ展2のコンセプト文↓
https://61749a6c3fa896154961fda45f8420a09ea03e3b.googledrive.com/host/0B5xrKP8tWBoMaDFuRU94QkhyMU0/menu/concept_2nd.html

なんかめっちゃ文学的になってる。メンヘラ展1の方はすごくエクスキューズ感あったけど、2では変に限定するのはやめたんだろうなという感じ。
一応、文学的な文章を自分なりに翻訳して考えてみると、アートや芸術という表現が「呼吸」や「はけ口」であるという旨の内容が見える。
これは多少アートセラピー寄りなんじゃないかと思った。アートセラピーには鬱屈したものを吐き出す側面はあると思うので。

また、芸術の、言語を超えた普遍性みたいな話もしている。「メンヘラ」には「他者との分かり合えなさ」みたいなところが付きまとうので、確かに言語を超えた普遍性によって繋がることは重要なんじゃないかと思うのは同意できるところだ。


ということで、メンヘラ展1と2は結構コンセプト的には異なるんだろうなあと思った。
現実的にはたぶん、メンヘラ展1でいろいろ書いたら、いろいろツッコまれて面倒くさかったんだと思うけど。
だからと言って⑤で述べた「メンヘラ展」という名前を背負うことの意味合いや責任から逃れられるわけではないと思うので、その辺にも注意しながら実際メンヘラ展2がどうだったのかということについての感想を述べていく。(ここまで長かったなオイ)

 

メンヘラ展2の中身(雑感)

先に個人的な雑感述べます。
とりあえず、出展者がいっぱいいて、それぞれが個性溢れる感じだったなあという感想。
個人的に好きだったのはウソブキドリさんの作品。すごく細かい描き込みでありながら、単純な模様とか無意味な模様とかじゃなくて、意味が読み取れる(と少なくとも僕は感じた)作品ばかりだったから好きだった。
個人的にインパクトを感じたのは川久富美さんの作品。いやまあ単純にインパクトあったよね。スケッチブックに描かれていた絵と文章もすごいなあと。(小学生並の感想)

個々の作品を云々するよりも、僕としてはメンヘラ展2が全体としてどういう構造になっていたかみたいなところを考えたい。でも、なおも雑感です。
作品は主に壁に貼られていて、たまに机にあったりとかして、割と無造作に並べられていた。だからどういう順番で見てもよかったし、飛ばしたりしてもいいんだろうけど、とりあえず右から順番に見ていった。
作者とコミュニケーションできるようなメモ帳もけっこう置いてあって、まあ感想的なところは気になるよねと思うんだけど、コンセプトとしてメンヘラと承認欲求は切り離せないから、やっぱそういうのあった方が「っぽい」よね。
配置は無造作だと言ったけど、あおいうにさんが「今回はインスタレーションが多い」みたいなことを確か言ってて、個々の作品がインスタレーションになってるのも確かにあった。
しかし、僕としては無造作な並びの中に、複数の作品が奇妙にコラボレートしてインスタレーションになっているかのような感覚が多少あったことが良かった。錯覚かもしれんけど。
ということで、いっぱい出展者がいるんだったら、正シナジーのありそうな並びにすることって重要なのかもとか。例えば、セルフポートレートのろまんさんが最後から二番目にあって、中盤ぐらいに川久さんの写真があって、自撮りのFluynさんが最初にあったのは、良いバランスなのかなあと。

はい、雑感終わり。
そろそろそれっぽいこと言うか。

メンヘラ展の中身(個々のメンヘラ性と作品の個性が対応)

「メンヘラって一口に言ってもいろんなメンヘラがいるよね」というのが結論だと最初に述べたけどその話をしよう。
要するに「メンヘラの芸術」って言っても、そのメンヘラの内容ごとに作品の種類も分類できるよね、という話。例を挙げながら説明していく。

①そもそもの話なんだけど、メンヘラ展1のコンセプトの話の④で、「内発的なものをアートに昇華する」という要素が満たせているかどうかというところが気になっていた。
ほとんどの人はそうだと思ったんだけど、一部、「自ら敢えて奇を衒った、メンヘラ的なもの」を作ろうとして作った人がいたように感じた。誰がそう、という話ではなくて、多分そういうものを部分的に感じた。
だから内発的なものをアートに昇華してるんじゃなくて、「外部的なメンヘラなるもの」を志向して取り入れてるというタイプの人もいるなあと感じた。でも、これって「メンヘラ」における重要な本質だと思うし、こういう要素が入っているのは全然良いことだと思う。さすがに、狂人しかいないみたいな状態だと「メンヘラ展」という名前はちょっと弱いようにも思うので。
要するに「ファッションメンヘラ」みたいな人の要素があった方が少し安心するし、「メンヘラ展」という名に恥じないと思った、ということ。

 

②それに近いんだけど、「メタメンヘラ」みたいな要素もあった。はなびさんの作品で、耳が聞こえない人の映像作品があった。何かしらの障害を抱えた当事者についての映像を出すというのは、内発的なものをアートに昇華しているのではなくて、外部的な障害当事者をメタ的に見て作品化しているのだなあという感じ。
でも、これをやるんだったら、はなびさんのようなメンヘラ当事者がやる必要はないのではと思った。
個人的には、「メンヘラに興味がある人」とか「メンヘラ好きな人」とかがメンヘラ展に参加して、メンヘラをメタ的に見た作品を出す、みたいな試みをしてもいいんじゃないかと今後は期待してる。

ついでにはなびさんの作品について言うと、「Trip」の方が「内発的」だなと感じたし、内容も好きだった。何かしらメンヘラに対して心揺さぶるものがあると思うし。あのメンヘラ展の中で「映像作品」、それも20分以上もあるものを流すのはちょっと大変というか、立ち止まってちゃんと鑑賞するのは難しいと思うので、時間をある程度絞った作品に特化するなり、何かしらの工夫が必要なのでは、と思う。

 

ここから下は「内発的なものをアートに昇華」した場合のメンヘラ芸術の話。

③全体として「四肢欠損」のモチーフを使っている人が多かったんだけど、これは「境界性パーソナリティ障害」的だと思う。
境界性パーソナリティ障害」はクライン対象関係論的に言えば、妄想・分裂ポジションから抑うつポジションへの移行がうまくいかなかったまま成長してしまった人の障害だという説がある。説明すると、基本的には生まれて初めての他者である母親を、最初は「母親」という全体像として認識できなくて、たとえば「おっぱい」っていう部分対象としてまずは捉えてしまう。でも長く愛情を注がれているうちに、自分にミルクをくれるのはおっぱいじゃなくて、母親という全体対象なんだということに気づき始めるみたいなプロセスがある。
バラバラの身体像は、そのプロセスがうまくいかずに、他者、ひいては自分を全体対象として捉えられない人間の、内発的な感情だと思う。
境界性パーソナリティ障害」の特徴は他にもいろいろあるんだけど、たとえば自己の身体と外界の境界が曖昧だということも挙げられる(だからリスカをして自己の身体を確かめるのだ、と説明できる)。
四肢欠損に限らずそういうバラバラのまとまらない身体、身体像の曖昧さとかをアートにしている人は、「境界性パーソナリティ障害」的だなあと感じた。

また、それを表現する際に、絵画はかなり適していると感じた。僕は絵画に関しては素人だけど、どうやら、絵画を描くときって、人間の全体像のゲシュタルトもあるんだけど、「腕」を描くんだったら、腕という対象を部分的に描くことになるようだ。
幸温望さんの作品に、ボトルから手足が生えた絵があったんだけど、腕だったら腕、脚だったら脚のデッサン?がちゃんと考えられてる人の作品なんだろうなあと思った。
また、あおいうにさんの作品を見ていると、線が明確でない、淡くて抽象的な描き方が多かった。絵が上手い人って、具体的に写実的に身体を描くこともできるし、抽象的に象徴的に身体を描くこともできるんだろうけど、たぶんあおいうにさんは後者。この線のはっきりしない抽象的な描き方は「境界性パーソナリティ障害」的な内発感情を表現する際に、とても適しているんだろうなあと思った。
(念のために言っておくと、幸温望さんやあおいうにさんが境界性パーソナリティ障害だと言っているのではない)

 

④暗い色合いの作品は、うつ病的だと思う。ちょっと僕もあんま覚えてないので、例を挙げられないけど、とりあえずそういうのあったと思う。

 

アウトサイダー・アートの中には、すごい細かくて正確な描き込みがあったりするんだけど、細かくて正確な描き込みをしているなと感じたのはウソブキドリさんとかFluynさんとか。細かすぎる書き込みってどういうメンヘラ性と対応してるのかはちょっと分からんけど、神経症っぽい感じ?

 

⑥全体的に(日本語の)文字が多いなと感じたので、メンヘラ展2のコンセプトにある、「言語を超えた普遍性」みたいな話を出展者は言うほど意識してないのではと感じた。別にいいけど。さりいさんの書道は、単に日本語として見るんじゃなくて、なんかもっとすごいものだと思うし。(極端な話、外国人が見ても何かしら感じるところあると思う)

 

⑦ちょっとどんどんいい加減になってきたけど、まあいいや最後まで書く。
性同一性障害っぽい人も何人かいたのかな。多分、そういう人の描く作品は、性に対して独特の価値観があって、それも内発的だよね。

挙げだすと他にもいろいろあると思うんだけどまあいいや。

 

何が言いたいかっていうと、「メンヘラ」って言ってもいろんなメンヘラがいる。境界性パーソナリティ障害の人もいれば、うつだったり躁うつだったりの人もいるだろうし、強迫性障害の人もいれば、解離してたりパニック障害だったり、性同一性障害だったり、ひょっとすると統合失調症だったり、薬飲みまくってたり、性的倒錯を持ってたり、自己愛が強かったり、実は疾患ってレベルじゃないけどメンヘラワナビでメンヘラ的な振る舞いをしてみたりとかいろいろあると思う。
で、その個々のメンヘラ性に対応した様々な作品が実際にメンヘラ展にはあった。全てのメンヘラを包括しているかって言ったらそうじゃないと思うけど、鑑賞に堪える多様性があった。ここはすごく評価したい。
「メンヘラ」という括りによって、どこまでをメンヘラとし、どこに境界線を置くかというのは非常に難しいと思うが、このように偏りすぎず、様々な方向性を持ってこれたのはすごいことだと思う。

また、質的に異なるメンヘラが共存していることの重要性もさることながら、言わば程度的にも異なると思った。重度のメンヘラがいれば、軽度のメンヘラもいる。たぶんそこに貴賎はなくて、それらが共存していることが重要なんだと思う。鑑賞する側からしても、重度すぎれば「ドン引き」したり「疎外感」を覚えたりするだろうし、軽度すぎれば「メンヘラと言ってもこの程度か」となるだろう。程度的に異なるメンヘラが共存していることで、そうはならないで済む。それは鑑賞者について考えた上でも重要なことだと思う。

つまり、「メンヘラ」という言葉に内在している多様性を、そのまま多様に表現すること。これは「メンヘラ展」が続くのであれば、ずっと続けていってほしいことだと思う。メンヘラ展の出展者を集める際には現在のように、多様性を意識してほしいと思う。この点、とても評価してる。


メンヘラに安住するかどうかの問題

最後にこの話を。
メンヘラ展1のコンセプトに、「メンヘラに安住するわけではない」とあったけど、2ではコンセプト文からはその要素は感じられなかった。ただ、出展者のtwitterとか見てると、あるいはFluynさんのプロフィールなどを見てると、「安住するわけではない」とはっきり言ってる人もチラホラいた。

実際のところ、メンヘラじゃなくなることによって、「作品の質が落ちる」というのはありうる話だ(ムンクが病気のときは『叫び』とか描いていたけど、治療してからは明るい絵になって、評判が落ちたのは有名な例だ)。
だからと言って、メンヘラであり続けて治療を拒否すれば、社会で生きることは難しい。また、「自分のメンヘラ性の方がすごい」、「いやこの人のメンヘラの方がもっと重度だ」などといったメンヘラ競争みたいなことが起きれば、不要なエスカレートで、より不幸になってしまうかもしれない。ここにはジレンマがある。

だから、「メンヘラに安住すること/しないこと」のどちらが正しいとは言えるわけがないと僕は思ってる。メンヘラ展の個々の作品を見たところ、メンヘラからの脱却を志向している(もっと言えばアートセラピー的な志向を持った)人も、自分のメンヘラ性をむしろ肯定している人も両方いたように僕は感じたし、実際そうだと思う。
メンヘラであるがゆえにメンヘラ展に参加できる、そういうある種のシャーマンのような役割を担う人間はいてもいいと思うし、「メンヘラであることがかえって生きやすい」人だっているはずだと僕は思ってる。

相対主義的でつまらない結論だが、メンヘラであることは簡単に肯定も否定もできないし、「メンヘラ展」の存在意義を簡単に肯定も否定もできない。
ただ、僕個人としては、メンヘラというものの一端を社会に示している、それによりメンヘラに関する建設的な議論を生みうるという点で、素晴らしい活動だと思う。(客観的には芸術的価値もあるだろうね)

京都を夜歩く会とはなんだったのか――ネタとガチの境界で

2ヶ月ほど前に話題になっていた「京都を夜歩く会」とはなんだったのか、なぜ話題になったのか、真意はどこにあったか等をホリィ・センなりに解釈したのでそれを解説する。

まず最初に何があったのか。こちらを見てほしい。

謎のインカレサークル「京都を夜歩く会」に申し込みが殺到している模様 - Togetterまとめ

京都大学には「京都を歩く会」という団体がある。それをもじった名前の団体が出てきたのだ。
主要なツイートを拾いながら解説していく。

 

①京都を夜歩く会は面白そう

当サークルはその名の通り「夜に」活動するサークルです。したがって、「夜の」人間、具体的には、「大学生活に馴染めていない」「友人が少ない」「人と話せない」「人の目を見れない」人間たちを求めています。そのようなオーラが強ければ、上回生でも間違ってフォローしてしまうかもしれません!

 

↑これをパッと見ると、「非リア」や「コミュ障」みたいな人で群れてなにかをしようみたいなサークルなのかな?と感じる。
大きな目的を持たない「ぼっちサークル」や「ラーメンサークル」(?)などといった一発ネタのようなサークルに見える。
しかし、よく見ると……

 

②京都を夜歩く会はうさんくさい

②A

こんにちわ!京都を夜歩く会です!本日の夜歩く会は新入生の申し込みが殺到し、定員一杯になりました。大変申し訳ありませんがこれ以降の参加申し込みはお断りさせて頂きます。

 

こんにちわ!京都を夜歩く会です!みなさまに大変お得なお知らせがあります!先ほど定員が埋まったとお知らせした本日の夜歩く会ですが、キャンセルが出、急遽、枠が空きました!先着三名様に限り本日の夜歩く会への参加を認めます!

 

こんにちわ!京都を夜歩く会です!現在、定員数との関係で、選抜により、基準に満たない方の入会申し込みをお断りしなければならない状態になっています。ご迷惑おかけします(._.)


定員が一杯になった→枠が空きました といった「限定商法」や、


②B

こんにちわ!京都を夜歩く会です!入会希望の方は、大学名、性別、親の職業、写メを添付の上、お申し込みください。

 

こんにちわ!京都を夜歩く会です!活動時間が夜ということで、女性の方は終電が気になるかと思いますが、泊まる場所はあるので大丈夫です。

 

こんにちわ!京都を夜歩く会です!参加を断られた方が当サークルの悪い噂を流しているようです。現在流れている噂をまったく事実無根ですので、よろしくお願いします。

 

当サークルが参加希望の方に事前審査として写メや親の職業をきいているのは、
1,変な人が入ってこないように
2,参加メンバーが快適に楽しめように
です。誤解なきようお願いします。


学名、性別、親の職業、写メを要求し、女性に泊まる場所があると書く、露骨に性的な目的が見える内容。それに対する弁解もしている。
こうして、「夜の」という言葉にそのままの意味だけでなく性的な意味があることを気づかされる。
(最初は"夜の"という言葉を「大学生活に馴染めていない」「友人が少ない」「人と話せない」「人の目を見れない」人間を指す意味で使っていると説明していただけに、この露骨なミスリーディング(?)は面白い。よくネット上にある悪徳商法の記事を彷彿とさせる。)
だからうさんくさい団体のように見えてくるのだが、更によくよく見ると……


③京都を夜歩く会はネタ

@37min_ 申し訳ありませんが、参加をお断りします。今回はご縁がなかったということで…今後の活躍をお祈りせていただきます。

 

@gyokyu おめでとうございます!あなたは写メ審査を通過しました!入会を許可します!早速ですかDMで連絡先を教えて頂けますか?

 

【重要】以降の入会審査はメールでおこないます。リプライでの審査は受け付けません。今後リプライで送った方はブロックします。yoruarukouze@yahoo.co.jpまで応募メールどうぞ。敬語を忘れずに。


こんにちわ!京都を夜歩く会です!

大学新入生のみなさん!

もう大学生活は慣れましたか?

またまだの君も

ナれナれドンドンの君も

京都を夜歩く会に入ってハッピー大学ライフをエンジョイしちゃおう!

応募はこちら!→yoruarukouze@yahoo.co.jp←


【重要】現在タイムライン通知が混雑しており返信が遅れている状況です。必ず返信がするのでそのまま待機をお願いします。また男の場合京都を夜歩く会に貢献できる【何らかの特別な能力】【何らかの特別な人間関係(コネグジョン)】【何らかの特別な持ち物】がないと審査通過は難しいと考えてください


明らかにネタであるだろうツイートが見られる。一番下のツイートが極めつきで、「コネグジョン」という書き方はもはや真性っぽい感じが出てきていて、むしろネタをやろうとしてやってる感じがしなくなってくるレベル。

 

京都を夜歩く会の実態は?

要するに、この団体は見方によっていろんな見え方があるのだ。
便宜上①②③という風に分けたが、

①ベタに見てる人:自分は大学生活に馴染めていないし……京都を夜歩くの楽しそう!
②1段階メタに見てる人:性的な目的があるんじゃないの……うさんくさい。
③ネタに見てる人:「京都を歩く会」のパクリだし性的な目的露骨すぎだろww

といった感じで分類できるだろう。

実際togetter上でも、ベタに「面白そう」みたいなことを言ってる人や、ネタとして支持する人、批判する人といろんな反応が見える。
というのも、"反応せざるを得ない"のだ。ほとんどのツイートにツッコみどころがあり、どうしても口を出さずにはいられない感じがあるのだ。(ある種の炎上マーケティングだろう)

それ以降のツイートを追ってみると(下記リンク先を参照)

京都を夜歩く会が面白過ぎるwwwww - NAVER まとめ

京都を夜歩く会が更に復活していたwwwww【京都を夜歩く会まとめ2】 - NAVER まとめ

京都を夜歩く会のベストツイート

明らかに③、すなわちネタのものが多いのだが、性的な目的が露骨で、もはや隠さなくなっているところが面白い。口調を変えることで「本音が出てる」感じをうまく演出していて秀逸だ。
しかし、誤字が多かったり、文章の感じだったり、谷川優樹と名乗る会長の個人アカウントが、メンヘラっぽいポエムツイートをしてはツイ消ししまくったり(下記リンク先参照)

谷川優樹のベストツイート (追記:残念ながら本人がこの記事を読んですぐにツイートを削除したようです)

アカウントを転生しまくったりと、ネタでやっているのではなく、素でおかしい人なんじゃないかという疑いすら出てくる。少し前にtwitterで話題になった

世界樹ポエム(@Seka_iki) - Twilog

のような真性っぽさも感じられる。


つまり新たな問題は、これはネタでやっているのか? それともガチなのか?ということである。

ネタかガチか

ホリィ・セン自身、京都を夜歩く会に考察を加えたり、リプライを送ったり、メールやDMで本気で参加したいかのようなやりとりをしたりしていて牽制をしていた。(顔写真が必要と言われていたので、上半身裸の写真を送ったりもしてみた)
すると、思いがけずDMで"種明かし"が行なわれた。

具体的には割愛するが、どこまで本気でどこまで冗談なんだ(女の子目的は本気なのか、それとも……)みたいな話で、注目すべき発言を引用する。

 

ホリィ・セン:冗談でやっているんだろうなあと思いながら、これを冗談でやっている人はすごい人なんだろうなと思いましたので、気になったというのはあります。だからこそメールを送りました。……

 

京都を夜歩く会の会長:えっと、じゃあホリーさん的にはAFAFに乗り込むというよりは、ボヘミアンに乗り込むようなそんな気持ちで参加されたわけですね。

 

この喩えである。AFAFというのは京大内の(チャラい)四大テニスサークルの総称で、ボヘミアンは簡単に言えば京大内で意味不明なことをする集団(4月に一週間耐久で酒を飲みながら青空麻雀をしたり、裸で芸をしたり、鳥を屠殺して食べたり等々)のことである。「AFAFに乗り込むというよりは、ボヘミアンに乗り込む気持ちで参加」するということは、「性的な目的の集団に乗り込むというよりは、変なことをやっている集団に乗り込もうとしている」ということだ。
これはつまり、ホリィ・センが「京都を夜歩く会」に「性的な目的以外の何かを見出している」ということを彼が看破していることを伝える見事な喩えだ。

結論を言えば、彼はネタでやっているのだ。メタ視ができているのだ。その上でポエムツイートや誤字に関してはガチなところもあるだろう。
つまりは、素で結構おかしい人間が、かなりのメタ視をしながらネタを生産している。奇跡のようなバランスで成り立っているのが「京都を夜歩く会」だったのだ。

彼はこの後にも、京都を夜歩く会のホームページを作って消したり、ナンパ研究会を作って消したりサークルクラッシュ同好会に入ってきて自分の歓迎会を開くとメーリスで流したかと思えば「女が来ない」からといってドタキャンしたりと、破天荒なことを繰り返す。ただの迷惑な人にも見えるが、毎回毎回の行動や文章が秀逸なので憎めない。
お騒がせながらもネタを提供してくれるエンターテイナーなのだ。本人としては自分が遊びたくてやっているのかもしれないが。


京都を夜歩く会や、谷川優樹(今は吉谷優樹を名乗っている↓

吉谷優樹 (yoursexfriendY) on Twitter

)を見て真面目に非難してたり、一笑に付したりしていた人間はホリィ・センから言わせれば「リテラシーがない」と思う。

2ちゃんねる管理人のひろゆき氏は「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉を残しているが、パラフレーズすれば「ネタをネタであると見抜ける人でないと(インターネットを使うのは)難しい」ということであると思う。これは現代にも、いや現代だからこそなおさら通用する至言であろう。(別にひろゆき氏を褒めたいわけではないけど。)

上記の三分類

①ベタに見てる人:自分は大学生活に馴染めていないし……京都を夜歩くの楽しそう!
②1段階メタに見てる人:性的な目的があるんじゃないの……うさんくさい。
③ネタに見てる人:「京都を歩く会」のパクリだし性的な目的露骨すぎだろww

でいけば、とりあえずは③の見方をしてほしいものだ。更に言えば、もう一段階メタ視して、

④2段階メタに見てる人:ここまで露骨に性的なことを書くのは逆に考えると……?

と、なってほしいものだ。「京都を夜歩く会」はインターネット上のリトマス試験紙であったと言えるし、「本当に魅力的な人間やコンテンツ」――それはあくまで客観的なものではなく、共同主観的なもの;絶対的なものではなく、相対的なものでしかないのだが――を見出すためにはこういったことをもっと考えてほしいものだと、切に思う。

吉谷優樹は魅力的な人間だし、これからも期待している。

 

特定の条件を満たしつつn股(n≧2)する際の鍵垢数最小化問題(twitter)

恋愛においてn股(n≧2)をする人間がいるらしい。

普通はn股をする際にはそれぞれにバレないように付き合うものらしい。

 

しかし、時には恋人がいるということを知られながらも、「今の恋人とは上手くいってなくて……」と言い、具体的に「上手くいってなさ」を説明することによって、「今の恋人」を言わば「サブ恋人」とし、新しく言わば「メイン恋人」を作るというケースがあるらしい。(妄想)

 

これには恋人を増やすことと同時に、さらに二つの目的がある。次の二つだ。

目的①(外的目的)

「サブ恋人」との「上手くいってなさ」を説明することによって、新たな「メイン恋人」に「自分が守ってあげないと」という庇護欲をかき立てること

目的②(内的目的)

「『サブ恋人』に対する悪口を言いたいという欲求」を満たすこと

 

またここで、twitterアカウントの概念を導入する。

twitterにおいては鍵アカウント(以下鍵垢)という特定の人間にしかツイートを見えないようにできるアカウントを作ることができる。

先ほどの目的①「庇護欲をかき立てること」、目的②「『サブ恋人』に対する悪口を言いたいという欲求を満たすこと」をtwitter上でも果たすために、この鍵垢が必要になってくる。

 

そして、労力を減らすために、鍵垢数を最小にしたい。これは、「n股(n≧2)する際の鍵垢数最小化問題」である。

また、簡単のために適宜、条件(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)を加えるので、「条件(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)を満たしつつn股(n≧2)する際の鍵垢数最小化問題」とする。

以下解答。

 

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まず条件として、2股目である「メイン恋人」は1股目である「サブ恋人」がいると分かっていながらも付き合う。

 

条件(ⅰ)

2股目以降の恋人は、別に一人の「サブ恋人」がいると分かっていながらも付き合う

 

twitter上ではまず鍵垢Aを作る。

1股目の「サブ恋人」に見せるのは、「鍵でないアカウント」の一つのみである。

次に、2股目の「メイン恋人」に見せるのは、「鍵でないアカウント」と「鍵垢A」の二つだ。

鍵垢Aで1股目の「サブ恋人」に対する悪口ツイートを、1股目のサブ恋人には見えないように、つぶやく。

 

これにより、目的①②を果たせる。すなわち、鍵垢Aで1股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、2股目の「メイン恋人」のもつ庇護欲をかき立てることができるようになる。

 

これで、「2股」の完成だ。

 

次に3股目に移ろう。3股目に対しても「今の恋人とはうまくいってなくて……」と言って具体的に「上手くいってなさ」を説明する。これによって、3股目の庇護欲をかき立て、3股目が「メイン恋人」になる。

ただし、ここで悪口を言う対象である「今の恋人」とは2股目を指す。

なぜなら、先ほど述べた「『サブ恋人』に対する悪口を言いたいという欲求」を満たさなければならないからである。

条件(ⅱ)

全ての「サブ恋人」に対して悪口を言う

(定義:「サブ恋人」とは、最新の恋人である「メイン恋人」以外の恋人全員を指す)

 

また更に、「m股してんのかよコイツ!(m≧3)」と思われると、mが大きくなればなるほど、相手は恋人になるのを避けるだろう。せめて、相手には「2股」だと思わせたい。

条件(ⅲ)

3股目以降の恋人にも、「2股」だと思い込ませる

 

そこで、1股目には触れず、2股目のみを「今の恋人」として悪口を言えばよい。

そしてこの「今の恋人」(2股目)を「サブ恋人」にして、3股目に新たな「メイン恋人」の地位を与える。

なおこのとき、2股目の恋人に対しては何も言っていないので、2股目の恋人は自分のことを「メイン恋人」だと思い込んでいる。

 

さて、twitter上で考えてみよう。鍵垢の数は何個になるだろうか。

1股目と2股目は先ほどと同様だ。おさらいのため、見えているアカウントを表にすると次のようになる

1股目:鍵でないアカウント

2股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

 

では、3股目に見せるアカウントはどうなるだろうか。ここで、2股目に対する悪口ツイートを含んだ鍵垢は2股目に見せることはできない。そのため、2股目に対する悪口ツイートのできる鍵垢をもう一つ作らなければならない。よって、新しい鍵垢を作る(鍵垢B)

3股目に見せるアカウントは、

3股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

である。

ここでは、

鍵垢A:1股目に対する悪口ツイートをする。

鍵垢B:2股目に対する悪口ツイートをする。

ということになる。これで、目的①②も果たせる。

すなわち、

鍵垢A:1股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、2股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

鍵垢B:2股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、3股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

 

これで、「3股」ということになる。

 

次に4股目に移ろう。4股目に対しても「今の恋人とはうまくいってなくて……」と言って具体的に「上手くいってなさ」を説明する。これによって、4股目の庇護欲をかき立て、4股目が「メイン恋人」になる。

ただし、ここで悪口を言う対象である「今の恋人」とは1股目と3股目を指す。

3股目に悪口を言うことで、条件(ⅱ)である「全ての『サブ恋人』に対して悪口を言う」を満たせる。

なお、なぜ1股目の分の悪口も言わなければならないかは後で鍵垢のところで説明する。

 

ここでは、1股目と3股目を統合し、一人の人格の「今の恋人」として二人分の悪口を言う。これによって、4股目の恋人からは「今の恋人」は一人かのように見えるだろう。

 

そしてこの「今の恋人」(1股目と3股目二人分で一人の人格)を「サブ恋人」にして、4股目に新たな「メイン恋人」の地位を与える。

先ほど同様、3股目の恋人に対しては何も言っていないので、3股目の恋人は自分のことを「メイン恋人」だと思い込んでいる。

 

twitter上で考えてみよう。先ほどのおさらい。見せるアカウントは、

1股目:鍵でないアカウント

2股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

3股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

 

では、4股目に見せるアカウントはどうなるだろうか。労力を避けるため、できるだけ鍵垢は作りたくない。そこで、鍵垢Aによって3股目の悪口ツイートをする。

よって、4股目に見せるアカウントは、

4股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

である。

ここでは、

鍵垢A:1股目と3股目の二人分、に対する悪口ツイートをする。ただし、外から見ると一人に対して言っているかのように見える。

鍵垢B:2股目に対する悪口ツイートをする。

ということになる。

これで、目的①②も果たせる。

すなわち、

鍵垢A:1股目と3股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、2股目と4股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

鍵垢B:2股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、3股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

 

これで、「4股」ということになる。

5股目以降も同様を手続きを踏む。これ以上は鍵垢は増えない。

 

試しにn=10、10股で表を作ってみよう。

各恋人に見せるアカウントは

1股目:鍵でないアカウント

2股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

3股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

4股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

5股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

6股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

7股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

8股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

9股目:鍵でないアカウントと鍵垢B

10股目:鍵でないアカウントと鍵垢A

 

また、各鍵垢の動向は、

鍵垢A:1・3・5・7・9股目の五人分、に対する悪口ツイートをする。ただし、外から見ると一人に対して言ってるかのように見える。

鍵垢B:2・4・6・8股目の四人分、に対する悪口ツイートをする。ただし、外から見ると一人に対して言ってるかのように見える。

ということになる。

これで、目的①②も果たせる。

すなわち、

鍵垢A:1・3・5・7・9股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、2・4・6・8・10股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

鍵垢B:2・4・6・8股目の「サブ恋人」に対する悪口を言いつつ、3・5・7・9股目のもつ庇護欲をかき立てることができる。

 

一般化すれば、

鍵でない垢:全員に見える。

鍵垢A:偶数股目の「サブ恋人」に対する悪口ツイートをする。それが、奇数股目の恋人全員に見える。

鍵垢B:奇数股目の「サブ恋人」に対する悪口ツイートをする。それが、偶数股目の恋人全員に見える。

ということになる。

新たに恋人を増やす際には、最新の恋人を「サブ恋人」に格下げし、次の恋人を「メイン恋人」にすればよい。

 

鍵垢数の最小値はn=2のとき1、n≧3のとき2である。

 

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こうして、「条件(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)を満たしつつn股(n≧2)する際の鍵垢数最小化問題」は解けた。