「サークルクラッシュ」入門講義(「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1より)

この文章は「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1(実質的にはサークルクラッシュ同好会会誌Vol.11)に寄稿したものです。在庫が切れてきたのでネット上に公開します。

 

 

 こんにちは。初めまして。サークルクラッシュ同好会改め、「サークルクラッシュ」研究所の所長を務めています、ホリィ・センこと堀内翔平と申します。

 

 このたびは、恋愛で人間関係が壊れてしまう「サークルクラッシュ」という現象について、講義の形式でみなさんに解説したいと思います。

 

 「サークルクラッシュ」は大学生の間で実際に起きていることです。特に大学1回生の間で起きやすいものです。大学1回生というのは人間関係の流動性が最も高くなる時期だからです。「大学デビュー」的な勢いでサークルに入ったものの馴染めずにすぐ辞めてしまったり、サークル内で急速に恋愛の熱が高まったもののすぐに冷めてしまったり、勢いで告白したら振られてしまったりといった感じで起きてしまうものです。

 

 そんなゴシップ的な興味を掻き立てる「サークルクラッシュ」ですが、言葉の定義が難しく、かつ割と取り扱い注意の概念ですので、言葉としての「サークルクラッシュ」についてまずは解説しておきましょう。

 

 

1.そもそも「サークルクラッシュ」って言葉はなんなの?

 「サークルクラッシュ」とは「男女比が大きく不均衡なサークルや職場などに少数の異性が参加した際、その異性をめぐる恋愛トラブルで人間関係が悪化し、サークルが崩壊に向かう現象」(宇野・更科 2009:167)と定義されています。これは、評論家の宇野常寛さんが2005年ごろから「サークルクラッシャー」という言葉を使い始めたことによって、ネット上で広まったとされている言葉です。

 

 この定義とはやや異なりますが、個人的には「複数人が関与する恋愛トラブルによって人が集団から辞めたり、精神的に傷ついたりする現象」ぐらいに定義しておいた方が分かりやすいと思います。サークル自体が「クラッシュ」してしまうというよりも、失恋した人のメンタルが「クラッシュ」してしまうという意味合いで語られることも多いからです。

 

 さて、言葉の使い方として気をつけるべきなのは、「サークルクラッシャー」が多くの場合、女性を指して用いられがちな概念であることです。そしてこの概念には、恋愛トラブルの責任を女性に帰する含意があります。ここにはおそらく、恋愛関係や性的関係を持つことへの厳しい規範を女性にのみ課す「性規範のダブル・スタンダード」が背景にあります。

 

 むしろ「クラッシュ」を引き起こしているのは男性の方であろうということを強調するため、「クラッシャられ」という言葉が、サークルクラッシュ同好会の初期メンバーであるぶたおさんによって発明されました。クラッシャられ。まるで「赤坂サカス」みたいな響きですね。クラッシャられる、と動詞化することもできます。

 

 結局のところ「サークルクラッシュ」は男女がマッチングすることで起きる現象ですから、これもぶたおさんの言っていた比喩を借りれば、「ガソリンちゃんとライターくん」です。ガソリンちゃん単体、ライターくん単体では特に問題はないのですが、二人が出会ってしまうことで爆発してしまうわけです。

 

 まあ、そもそもとして「サークルクラッシャー」という〝人物〟ではなく、「サークルクラッシュ」という〝現象〟に注目する方が丸くおさまるでしょう。その方が、不当に個人に責任を帰属させてしまう誤った推論を避けることもできます。そのため、僕は基本的には「サークルクラッシュ」という言葉しか使わないようにしています。

 

 それでもなお、「サークルクラッシュ」という言葉自体が女性差別的な価値観に基づいている言葉なのだから使うべきでない、という立場もあるかもしれません。ですが、言葉遣いに問題があるかどうかはさすがに文脈によるでしょう。ステレオタイプを無批判に肯定することに注意して使用すればよいと僕は考えています。

 

 これはたとえば、黒人の研究をしている人が「黒人」という言葉を使うからと言って、「黒人」というカテゴリーの使用を無批判に肯定しているわけではないのと同様です。

 

2.「サークルクラッシュ」のメカニズム

 さて、「クラッシャー」という言葉を使うことには慎重であるべきとはいえ、典型的な「サークルクラッシュ」のメカニズムを説明するにあたっては

A.「サークルクラッシュ」が起こる集団の特殊性

B.「クラッシャー」とみなされる女性の特徴

C.「クラッシャられ」とみなされる男性の特徴

をある程度一般化して見ていく方がイメージしやすいでしょう。ちなみに、男女逆のパターンや非異性愛のパターンは「典型」を見出せるほどには集まっていません。

 

 ここでは、僕が修士論文で調査したインターネット上での言説を紹介し、それと実際に見聞きした「サークルクラッシュ」の事例とを照合することで「サークルクラッシュ」のパターンを把握し、そこから「サークルクラッシュ」のメカニズムを考察します。

 

A.「サークルクラッシュ」が起こる集団について

まず、ネット上の言説を分析したところ、集団に関わる次の6つが見出されました。

 

①女性経験に乏しい男性ばかりの文化系・理系・オタク系の集団

②集団内の人間や恋愛関係に関する情報共有ができていない

③公私を混同し,集団自体の目的(公)よりもコミュニケーションや恋愛(私)を重視

④男女の友情が成立しにくく,恋愛に発展してしまう

⑤男同士の絆が弱く,形式だけのホモソーシャリティが維持されている

⑥「サークルクラッシュ」によって集団がなくなることは少ない

 

 はたしてこれらの言説は事実なのでしょうか。僕が見聞きした事例と照合してみますと、⑥については、「サークルクラッシュ」を経験したという人に実際にインタビューしてみたところ、インターネット上の「オフ会」のような、構造化されていない集団ならば、なくなる場合も割とあるようです。このような集団ではそもそも定期的な集まりがないわけですから、集団がなくなるというよりも「会わなくなる」という感じでしょう。

 

 次に、⑤についてもパターン分けができます。まず「ホモソーシャリティ」という言葉の定義を確認しておきましょう。ホモソーシャリティとは、男性同士の「ホモセクシュアリティhomosexuality」を抑圧しながら、男性が女性を性的欲望の対象として扱うことで周縁的な領域へと排除することによって成立する、男性同士の絆を意味します。図式化すれば,「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)と「ミソジニー」(女性嫌悪)を合成した概念です。

 

 イメージとしては「下ネタを言い合う男たち」「男らしさや権力を追求して競争し合う男たち」などが想像がつきやすいでしょうか。とはいえ、「ホモソーシャリティ」という言葉は実はとても曖昧な概念です。たとえば、男性同士は競争しているのか仲が良いのかどっちなのでしょうか? 女性は集団から排除されるのか集団内の性的対象として取り込まれるのかどっちなのでしょうか? また、俗に「ホモソ」と言われている事例においては「同性愛嫌悪」が明示的に見られない場合も多いわけです。

 

 これについても「サークルクラッシュ」経験者に調査したところ、「同性愛嫌悪」が明示的に見られる場合はほぼなかったですが、男性から女性への性的対象化の視線が集団内で強く共有されている際には――これはホモソーシャリティが〝強い〟と言えるでしょう――「サークルクラッシュ」が起きたときに、女性の方が悪者とみなされ、排除されるというパターンがよく見られます。

 

 それ以外のパターンでは――ホモソーシャリティが〝弱い〟際には――男性が勝手に失恋して集団に居づらくなって辞める、といった帰結を辿ります。

 

B.「サークルクラッシャー」とみなされる女性について

 「サークルクラッシャー」とみなされる女性は、言説上では「サークルクラッシャー」は「意図的なクラッシャー/非意図的なクラッシャー」で分類されることが多いようです。

 

 しかし、「意図的に自分からサークルを破壊する」なんて人はほとんどいないはずです。そのことを考慮してか、「承認欲求型/無意識型」という分類もよく見られます。前者は承認欲求が「暴走」することで、複数人から恋愛的な好意を向けられるような態度を取ってしまうというイメージです。どちらかと言えばこのパターンでは女性が非難される傾向にあります。一方、後者は、無意識に他者との距離感が近くなってしまい、結果的に意図しないかたちで恋愛的な好意を向けられてしまうというパターンであり、この場合はしばしば「勘違いする男に問題がある」と評価されがちです。

 

 また、「承認欲求」という言葉は意味合いが曖昧であり、また、実情に即していない場合もあるように思います。そこで元々の「意図的」という要素を残すのであれば、「操作型/無意識型」という分類にした方がより適切かもしれない場合もあると思います。ここでの「操作」には「他者からの自分に対する印象を操作する」という意味と「関係を操作する」という意味の両方を含みますが、いずれにせよ「無意識型」には見られない傾向ですので、分類としては成立するのではないでしょうか。

 

 「承認欲求」にせよ「操作」にせよ、ある種の〝病理性〟がそこには読み取られています。そのため、「サークルクラッシャー」とみなされる女性の恋愛に関する行為の動機としては、「自己肯定感の低さ」が語られがちです。そして自己肯定感はしばしば「家庭環境の問題」とも結びつけられて語られます。これらの「病理的な恋愛」「自己肯定感」「家庭環境」といった概念セットは、それぞれが意味的な連関を持っており、「家庭環境に問題がある→自己肯定感が低い→病理的な恋愛をする」といった、ステレオタイプな因果関係がしばしば語られますし、そのステレオタイプは「メンヘラ」と呼ばれるカテゴリーによって語られることで戯画化されています。

 

 このような戯画化によって「メンヘラ」カテゴリーはスティグマとして機能してしまい、他者から差別や非難を受けるだけでなく、自分で自分に対してマイナスイメージを付与してしまい、社会からの疎外を強めてしまう場合があります。おそらく、精神疾患カテゴリー(ここではたとえば「発達障害」、「境界性パーソナリティ障害」などがイメージしやすいでしょう)を用いるときと同様の慎重さが必要になるように思います。

 

 しばしば女性を指して用いられる「サークルクラッシャー」というカテゴリーに関しても同様です。ひょっとすると、女性を「サークルクラッシャー」として名づけたくなる欲望自体、男性同士の絆を強める「ホモソーシャリティ」の構造から発生しているのではないか、ということも考えられるように思います。

 

C.「クラッシャられ」とみなされる男性について

 最後に、「クラッシャられ」について。言説の分析から見出された「クラッシャられ」の特徴は主に二つです。一つは「ロマンティックな恋愛規範の内面化」です。アニメや漫画などのフィクションで描かれがちな「ボーイ・ミーツ・ガール」、極端に言えば、「空から少女が降ってくる」ような〝運命的〟な出会いのストーリーをどこか内面化している、ということです。

 

 そしてもう一つは、「非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階(グラデーション)のなさ」です。これについては次の図解を元に説明しましょう。

 


 異性愛の男女の関係が「知り合い→友だち→恋人」という風に〝進展〟していくという単純化された図式で考えることになりますが、図式的に言うならばまず、「サークルクラッシャー」とみなされる女性は「知り合い」という関係性をスキップし、最初からまるで友だちに接するかのように接してしまっているということになるでしょう。いわゆる「距離感がバグってる」というやつです。

 

 次に「クラッシャられ」とみなされる男性は、非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階にある「友だち」という関係性をスキップしてしまっているということになります。言うならば、「グラデーション」がなく、「すぐ女性を好きになってしまう」ような男性だということです。

 

 この二者――まさに、「ガソリンちゃんとライターくん」――が出会うとどうなってしまうのか。図解を見てください。

 

 ①の段階では、「クラッシャられ」とみなされる男性はしばしば消極的で、むしろ「サークルクラッシャー」とみなされる女性の方が「友だち」として「積極的」に接することになります。まあ、女性からすると積極的に接しているつもりはなく、意図せず距離感が近くなっているということもしばしばあるのですが、男性視点からすると積極的に見えるわけです。

 

 このことで、男性はグラデーションなしに一気に「恋人関係になれる」と勘違いしてしまいます。あるいは実感としては、「ワンチャンいけるかもしれないからいってみよう」という感じでしょうか。暴走しちゃうわけですね。ここでフェイズは図解の②に移行し、男性の方ばかりが恋愛モードになってしまって盛り上がり、友だちだとしか思っていない女性からすると男性からのアプローチに困ってしまうわけです。

 

 このような男性が複数人いれば「サークルクラッシュ」の危険性は高まっていきます。あるいは、男性Aからのアプローチに困った女性は、別の男性Bに相談する、ということもあります。男性Bが「クラッシャられ」でなければよいのですが、どういうわけか「クラッシャられ」である男性Bに対して相談してしまった場合、見事に三角関係の成立です。このような「困ったアプローチ→他の男性への相談」が連鎖していくことで「サークルクラッシュ」に繋がっていくのは一つの黄金パターンとして、しばしば観察されています。

 

 この「クラッシャられ」と呼ばれる男性は、モテない人を指す「非モテ」というカテゴリーと近いように思います。そもそも「サークルクラッシャー」という言葉がインターネット、とりわけ株式会社はてなにまつわるサービス(はてなダイアリーなど)を通じて盛り上がり始めた2005年頃、「非モテ」という言葉を通じたコミュニケーションも盛り上がっており、はてな界隈では「非モテ論壇」と呼ばれるような人たちが存在したほどです。

 

 その後、「非モテ」についての言説はいったんあまり盛り上がらなくなるのですが、近年「インセル」という言葉が出てきたこともあり、「弱者男性論」の一環でよく語られるようになりました。インセルとはInvoluntary Celibateの略で、直訳すると「不本意な禁欲主義者」です。恋愛やセックスを欲しているが、それが女性のせいで叶わないと考えている、女性蔑視(ミソジニー)を基盤とした男性たちを指すと考えればよいでしょうか。

 

 インセルについての言説では、女性蔑視や男性の加害性が問題として語られることが多いですが、「非モテ」については価値判断から離れて、どのように「非モテ」という生きづらさを経験しているかという文脈で語られることも増えてきました。この文脈で言えば、「非モテ研究会」という面白い団体があります。

 

 非モテ研ではたとえば、当事者たちが展開する「非モテ研究」によって、「非モテ」という状況にありがちなパターンを「非モテ用語辞典」としてまとめています。恋愛に関わるもので言えば、自分を救ってくれる女神のように女性を扱ってしまう「女神化」、急激に恋愛のスイッチが入ってしまう「ロマンススイッチ」、振られることが分かっていて告白してしまう「自爆型告白」などの用語が発明されています(ぼくらの非モテ研究会編、2020)。これは「クラッシャられ」が経験している困難を当事者視点からうまく記述したものと言えるでしょう。

 

 「クラッシャられ」はこの他にも、近年話題になっている現象との結びつきがあります。たとえば、スクールカースト」問題が挙げられます。またもや、「クラッシャられ」という言葉の発明者であるぶたおさんの言葉を借りますが、「オタクになりたくてオタクになった奴ではなく、オタクサークルに入るしかなかった奴がクラッシャられる」のだそうです。これは言い得て妙です。今の時代では何かに熱中できる「オタク」が羨ましい存在として語られることもあります。「オタクになりたくてオタクになった」という人はむしろ人生を謳歌している人だと言えるかもしれません。

 

 それに対して、学校のクラスで周縁的な存在であり、かといって熱中できる趣味もないような人。こういった人こそ「スクールカースト」の犠牲者であるように思われます。居場所のない彼らは、大学生になった際に、オタク的な趣味に熱中しているわけではないもののしぶしぶ居場所を求めてオタクサークルに入ることがあります。それでなんらかの趣味に熱中できるようになればまだよいのですが、目の前に「恋愛」のチャンスが転がりこんでくると、コロッとそちらに転んでしまうわけです。戯画的に言えば、「こんなオタクサークル、二人で抜け出そうよ」というわけです。しかし、それは彼の勘違いなわけです。

 

 「恋愛によって青春を取り戻すチャンスがきた」という勘違いから発生するトラブルを通じて、彼がサークル活動や友情よりも恋愛の方を優先する人間だったということが周囲に露呈してしまうわけです。ぶたおさんは「クラッシャられは友だち甲斐のないやつだ」ということをあるときに言っていましたが、それはこういったプロセスを辿るときでしょう。

 

 このようなクラッシャられの人物像は特殊なものかもしれませんが、ある意味で現代の「草食化」した若者像を象徴しているとも言えるかもしれません。自身が「サークルクラッシャー」であったと著書で語っている鶉まどかさんは、「クラッシャられ」は「上げ膳据え膳を希望」であり「リスク回避・コスパ志向」であるという特徴づけをしています。

 鶉さんはそのような「クラッシャられ」に対してデートプランをこちらで考えるなどの「お膳立て」をすることでどんどん男性たちを攻略していったそうです(鶉 2015)。「クラッシャられ」は自分からは恋愛に対して積極的に行動はせずに「リスク」を回避するものの、いざ恋愛のチャンスが巡ってきたらそれはいただきます、という戦略を採っているわけです。「恋人のおいしいところだけが欲しいんです」というのは2016年に流行したドラマ「逃げ恥」のセリフですが、恋愛のおいしいところだけがほしい「クラッシャられ」はまさに現代的な恋愛を象徴している側面があるのではないでしょうか。

 

3.「サークルクラッシュ」現象の社会学的意義

 さて、既に「クラッシャられ」というものを通じて、非モテスクールカースト、草食化のような現代的な現象との接合性を紹介しているわけですが、ここからはさらに一般化し、現代社会において「サークルクラッシュ」現象とはどういうものなのかということを考えていきましょう。

 

 社会学者のアンソニー・ギデンズ(1992=1995)いわく、社会が近代化していく中で「純粋な関係」というものがよく見られるようになりました。「純粋な関係」とは、関係を結びたいというそれだけの目的のために結ばれる関係であり、その関係から得られる満足がある限り関係を続けていくような関係を指します。要は外的な拘束によっては左右されないような関係のことです。

 

 とはいえ、現代においても、完全に「純粋な関係」はまずありえません。たとえば、僕たちはなんだかんだ学校や企業などの場所があって初めて人と出会うわけです。結婚相手の選択などにおいても、性別はもちろん、収入、学歴、人種などでフィルターがかかることは現代でもよくあることです。しかし、昔に比べればそれらの友人関係や恋愛関係は「純粋化」しているとは言えそうです。たとえば現代は、同じ地域や身分の人としか友人関係や恋愛関係を築けない、みたいな時代ではないわけです。

 

 また、社会学者の石田光規(2018)の言い方を借りるならば、人間関係は近代化によって「共同体的関係」から「選択的関係」へシフトしているとも言えます。共同体的な「そこにある」関係ではなく、自分の選択によって選びとっていく関係が主流になってきているとは言えるでしょう。

 

 このように考えると、伝統的に機能してきた中間集団、たとえば親戚や地域、学校、職場における出会いはどんどん衰退していると考えられるでしょう。それに対して、自発的な選択に基づく関係が盛り上がっています。その意味で、「サークル」的なものが台頭しているのが現代なのです。そして、インターネットやSNSの存在がこの「選択的関係」が主流になる傾向を加速させています。サークルについても大学のサークルに限らず、インターネットを経由して作られた「サークル」(あるいは「コミュニティ」)は数多く存在しています。

 

 ところで、個人の選択に基づいて関係が作られるようになったということは、個人の「コミュニケーション能力」がモノを言う時代になったということでもあります。というのは、選択的に関係が作られるということは、自分の力で相手との関係を取り結ぶことが重要になってきますし、「人から選ばれる」能力も重要になってくるからです。

 

 言い換えるならば、人間関係は「自由市場」に近づいていくことになります。すると、「選ばれる」人が生き残り、「選ばれない」人が淘汰されていくという傾向が強まります。これは「スクールカースト」や「陽キャ陰キャ」の二極化の問題にもおそらくつながっていることでしょう。これまた石田の言い方を借りれば「つながり格差」が生じる社会なわけです。

 

 このような現代の人間関係の状況が、実は「サークルクラッシュ」の発生に繋がります。まず、中間集団が衰退したことで、家庭や地域に居場所がなかったり、学級の「スクールカースト」からはじき出されたりする人がそれなりの数出てくるわけです。そういう人たちが、いざ大学やネットで人間関係を作ろうと思うと、コミュニケーションの不得手な人たちだけが「生物濃縮」(あるいは濾過)された「サークル」ができあがってしまうわけです。典型的にはオタクサークルですね。

 

 言うならば「排除された人たちが流れ着く、受け皿としてのサークル」が生じるわけです。そのサークルの内部で起きる、更なる排除の問題が「サークルクラッシュ」であると言えるでしょう。

 

 実際、そのような「受け皿サークル」で起きる恋愛はリスクが高いわけです。具体的に言いましょう。たとえば中学高校などで規範的な男性性に馴染めずに疎外されてきた男の子が、大学に入って、自分の男性性をワンチャン取り戻せる手段として恋愛が立ち現われてきてしまうわけです。非モテ研用語で言えば、「彼女ができれば全て救われる」という「一発逆転幻想」ですね。

 また、親などの重要な他者から愛を受けずに育ってきた女の子が、自身の寂しさを埋める手段として恋愛してしまうなんてこともあります。

 

 このような恋愛は、誤解を恐れずに言えば、幼稚で未熟なものになるでしょう。青年心理学者の大野久(1995)は、思春期特有の自己愛が先行する身勝手な恋愛をアイデンティティのための恋愛」と呼んでいますが、まさにそのような恋愛が「受け皿サークル」では生じやすいわけです。

 

 結果として、「受け皿」からも排除されてしまうわけですので、外から見れば笑い話かもしれませんが、当事者から見れば深刻な問題なわけです。現代の「選択的関係」から生じる「つながり格差」は、自己責任の問題として片付けられない「社会問題」だと僕は考えています。

 

 この他にも、「サークルクラッシュ」現象と深い関わりがあるのはたとえば「若さ=女性性に固執してしまう問題」――これは「パパ活」や美容整形ブームなどとも関連が深いでしょう。

 「距離感がバグってる問題」――これは流行している「発達障害」という言葉とも関連づけて語られがちでしょう。

 「恋愛ではない関係を築きたいのに恋愛的な好意を持たれてしまう問題」――これはネットミームでは「ぬいぐるみペニスショック」や「雑魚モテ」、ミームでない言葉では「アロマンティック」などと関わりが深いと思われます。

 

 いずれにせよ、サークルクラッシュ」は現代的な社会問題を発見するための1つのスコープ(照準器)だということが僕の言いたいことです。

 

 ですが、「サークルクラッシュ」を社会問題と結びつけすぎるのも、ちょっとまじめすぎるかもしれません。「サークルクラッシュ」がゴシップとして語られてきたことを振り返れば、起きてしまった「サークルクラッシュ」を楽しく味わえることもまた重要だと考えています。

 現代の選択的関係は「排除型社会」、つまり「失敗を許さない」社会を助長しています。選ばれなかった人が再度「社会復帰」できる方が公正な社会であると僕は思います。どうしても「サークルクラッシュ」は起きてしまう、しょうがないんだという側面もあるわけです。むしろ起きてからのアフターケアが大事です。長い目で見れば失敗したことを笑って語り合えるような、そんな場があってこそ、過去の失敗を受容できる。そして、その後の人生のまだ見ぬ誰かと、より良い関係性を築いていける。そういうものなのではないでしょうか。

 

【文献】

ぼくらの非モテ研究会編 2020 『モテないけど生きてます――苦悩する男たちの当事者研究青弓社

Giddens, A. 1992 The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroricism in Modern Societies, Cambridge: Polity Press.(松尾精文・松川昭子訳 1995 『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房)。

石田光規 2018 『孤立不安社会――つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖』勁草書房

大野久 1995 「青年期の自己意識と生き方」落合良行・楠見孝編『講座生涯発達心理学4 自己への問い直し』金子書房:89‐123。

Sedgwick, E. K. 1985  Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire, New York: Columbia University Press.(上原早苗・亀澤美由紀共訳  2001 『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出版会)。

宇野常寛更科修一郎 2009 『批評のジェノサイズ――サブカルチャー最終審判』サイゾー

鶉まどか 2015 『岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私――サークルクラッシャー恋愛論コアマガジン