恋愛からの卒業と、その先

 この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー5日目の記事です。

adventar.org

遅れたので6日目の方が先に投稿されていますね。すみません。

4日目はfina @fina0539 さんの

circlecrash.hatenablog.com

でした。最後の話が読んでて気持ち良かった。

 

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 相も変わらずサークラアドベントカレンダーは「自分語り」というテーマで実施されていますが、率直な話、そろそろ自分について語ることがなくなってきたな、という気持ちを抱きました。

 自分の人生について語るみたいなことは、サークラ会誌3.5号と、2018年のアドベントカレンダーでやりました。

 そして、僕が語りがちな「恋愛」という話題についてはサークラ会誌では2.5号、4号(の一部)、5号、6号で語りました。2017年アドベントカレンダーの記事も恋愛成分多めです。

 それでもなお、今回も恋愛について語りましょう。ただし、恋愛からの「卒業」について。というのも僕は、会誌8号の記事とwebマガジン「高電寺」に寄稿した記事で、自分なりに性愛に対する方針を打ち出していました。それは分解して言うならこういうことです。

 

①自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない

②女性に対して持つ恋愛感情を否認しない

③自分が「女性によって性的に受け入れられたい」という感情を否認しない

④自己肯定の基盤に「女性としての性的価値」がありそうな人とは性行為しない

 

 

 雑にまとめて言うなら、女友だちと(①)、恋愛したいし(②)、セックスしたい(③)、ということになりましょうか。

 ただし、性行為がもたらす加害性(あるいは、せっかく築き上げてきた友だちとしての関係性が、性行為によって毀損される可能性)を考慮に入れると、相手の範囲を限定する必要はあるでしょう(④)。

 性行為による加害の問題が発生しやすいパターンの一つとして、「女性としての性的価値」が自己肯定の基盤になっている、という場合があると思っています。こういう人と性行為をすると、「私はあなたを性的な存在としてしかみなしていない」というメッセージになってしまいかねませんので。

 

 女友だちと恋愛したいしセックスしたい――それって「セックスフレンド」では? と思われるかもしれませんが、セフレだとかソフレだとかそういう言葉に簡単に回収されない関係性を模索していた結果、僕はいつの間にか恋愛から「卒業」してしまっていたのではないか、という自分語りです。

 

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「セックスしない」理論、実践編

 2020年4月、世界はコロナ自粛の炎に包まれた。

 

 そこから遡ること数日。3月終盤に僕はある女性(Aさんとしよう)からダイレクトメッセージを受け取った。Aさんは東京から京都へ傷心旅行にやってきた女性だった。僕のことをどのようにして知ったのかは分からないが、やってきた以上はまじめに応対することにした。

 聞けば、他愛ない恋愛の悩みだった。他愛ないと言ってもディティールはある。僕はAさんの話を聞いてディティールを理解し、いくつか質問をしたりしてみる。

 僕にとっての問題はAさんの距離の近さだった。泊まるところも確定していないということで一緒に泊まることになり、早速冒頭に挙げた理論の出番である。

 違っていたら申し訳ないが、話を聞いている限り、Aさんは「女性としての性的価値」を自己肯定の基盤の一つに置いているように僕には見えた。コミュニケーションとしても、女性性が前面に出てくる感じ。要するに距離が近い。

 こういう人とはセックスを(仮にできたとしても)しない。なりゆきで一緒に寝ることにはなったので、そこは不徹底だったかもしれない。身体は女性性の記号に対して正直に反応し、その日は夢精した。夢精したことに自分でも笑った。

 

 その後、さらに話を聞いてみると、案の定Aさんは、できれば僕とはセックスしたくないようだった。こういう人への処方箋(?)は、性的価値とは別の部分での関係性を養っていくことであろう。ということで僕はいったん自分の住むシェアハウスや、自分の周囲のコミュニティにその人を招き、いろんな人とコミュニケーションを取ってもらうことにした。

 もしセックスできていたらそのまま関係は切れていたかもしれない。こういう女性は必ずしもセックスがしたいわけではないからだ。(Aさんがそうだというわけではないが、)たとえば、自身の抱える負債感を返済するためのセックスをしていたり、自身の感情をコントロールするために自暴自棄にセックスをしていたりする女性がいるように思う(このあたりは説明が難しい)。

 Aさんから詳しく聞いた話は面白かった。Aさんはかつて、男とセックスをした後に生じる感覚が嫌だったらしい。セックスを終えた後、「自分はもう用済みなのではないか」という感覚に襲われ、帰りたくなるのだそうだ。そして、コミュニケーションがうまくいっていないのではないかという不安からAさんは再度セックスする空気に持ち込んでしまうという悪循環に陥ることがあったらしい。

 

 やはり答えとしては、セックスしないで別の関係性(「友だち」としての関係性)を作っていくことが重要だったということになるだろう。これは自分の「立場性」を考慮してもそう言える。権力を持った人間が人間関係をやっていると、放っておいてもセックスすることが可能な状況が訪れることがあるように思う(もはや僕も、ある意味においては「権力を持った人間」になってしまったのかもしれない)。

 しかし、そのような権力を何も考えずに行使してしまえば、「セクハラ」に発展しかねない。セックスした相手に「ガチ恋」しようが、逆に「ヤリ捨て」しようが、後の展開で相手への著しい加害に発展してしまうリスクがある。言ってしまえば「男女間の友情関係」を築くこと、「突然ペニスが生えたりはしないぬいぐるみ」であることに僕は価値があると思っている。

 先に言っておけば、その後Aさんは東京に帰り、今もごくたまに連絡がある。今後もたまに喋る友人ぐらいの関係性がいいのではないかと思う。Aさんが自分にとっての居場所を得て、健やかに生活していけることを願っている。

 

関係を切るコロナ、関係を結ぶコロナ

 Aさんは大学生で、本来4月から大学に行く必要があった。しかし、コロナの関係で4月はお休み、という状況になった。

 滞在期間1週間程度の予定で僕のシェアハウスに滞在していたが、しばらく東京に帰る必要がなくなったようだった。予定していた滞在期間を超過していくと、他の住民の負担になるかもしれない。

 ちょうどそのとき、自分のコミュニティで花見が開催されることになっていた。せっかくなので花見を通じて、Aさんを泊めてくれそうな人間を見つけようと画策した。

 

 さて、ここからが本題だ。

 僕には気になっている人がいた。恋愛的な意味で。昨年恋人と別れた際の反省から(サークラ会誌8号参照)、僕は「友だち関係」の延長線上で恋愛したりセックスしたりする関係性を模索していた。その人との間に、そういう関係性が築けるのではないかと、ひそかに期待してもいた。

 既に友だちとしての関係性は確立していたために、その花見にもその人を誘った。そして、Aさんが人との距離を詰めるスキルが高いのか(?)、見事に僕の意中の人の家に泊まることを確定した。

 「押しつけるのも悪いから」という口実で僕もその人の家に行った。まあ冷静に考えれば、それを受け入れてくれる時点で、僕の好意はある程度すでに分かっていたのだと思う(そもそも好きだと言ったことはあった)

 

 4月のコロナ自粛の猛威は止まらず、大学は休校になっていた。予定されていたイベント等も中止になるなどして、みんな「暇」だった。そうして、奇妙にも3人での生活が始まった。

 一人暮らし用の狭い部屋に3人が滞在していて何も起こらないわけがなく……というのは冗談だが、暇を持て余したわれわれは自炊したり、動画を観たりして、ていねいな自粛生活を送っていた。様々な話をする中で親密度も増していく。コロナ自粛は思いがけず意中の人との距離を縮める口実を作ってくれた。

 Aさんもなかなか東京には帰らず、巧妙にアシストしてくれていたように思う。僕はぎこちなくも好きな人への好意を伝え、2人きりになったときにセックスした。

 

友人関係と恋愛関係をきちんと両立させるために――恋愛からの卒業

 好きな人との友人関係は、すでにけっこう長かった。僕は彼女の恋愛観や体験について聞いてきたし、僕自身も彼女にいろいろと話してきた。だからこそ、「恋愛関係とはこういうものだ」という常識に必ずしも縛られることなく(縛られても問題ない部分は縛られつつ)、話し合いながら関係性を模索していくことができたのだと思う。

 

 友人関係の延長線上で恋愛を始めたために、周囲との関係性においても案外有利な側面があった。

 去年まで付き合っていた人との別れを経て、僕は「思った以上に人間関係における『自由』を大事にしていたんだ」ということに気づいた。具体的には、女友だちとの関係性についてとやかく言われるのがキツかったし、性別関係なく周囲の友人の悪口を言われるときにはイライラすることがあった。

 僕は今まで(それこそ「サークルクラッシュ」的な問題を恐れて)自分のコミュニティの「外」の人と恋愛関係を築くことが多かった。しかし、そのことによって、僕の周囲の友だちと恋人との間にコンフリクトが起きやすかった。僕の周りの友だちは、こう言っちゃなんだが、クセの強い人も多い。相性が合わなかったのだと思う。

 つまり、サークルクラッシュ」的な問題を過剰に恐れて「外」から交際相手を調達するよりかは、ある程度「内」に存在している人と交際する方がコンフリクトは生じにくい側面もある。今回はある程度「内」にいた人を好きになったおかげで、結果的に周囲の人間関係への「根回し」もそこそこうまくいっているのではないかと思う。

 逆に言えば僕は、僕の恋愛関係について周囲から否定されるのも腹立たしく感じていた。恋愛に限らず、僕は人付き合いに対して文句を言われたくないし、言いたくもないタイプなのである。

 冒頭で「自身の自由を著しく制限するような「付き合う」はしない」という方針を述べたが、より具体的には「僕の周りの友だちと仲良くできない人とは付き合えない」ということである。

 その意味で言えば、僕の好きな人はだいぶ関係性のレンジが広く、いろんな人と仲良くできるタイプだと思う。僕の築いている関係性についてもとやかくは言ってこない(もしガマンさせているのであれば、そこは話し合いを要する)

 これが僕にとっては非常にラクである。この記事を読んでいる善良な方々も、僕の作る関係性については、僕の好きにさせていただけると幸いである。

 また、ぶっちゃけて言えば、僕は好きな人と「付き合う」ということはしていない。「付き合う」という契約から生じてしまいがちな排他性が怖いからだ。よっぽど規範から自由な人でなければ、「付き合っているのだからこうしなければいけない」という感覚が魔力のように生じてくるんじゃないか、と僕は警戒している。有難いことに、「付き合う」はしたくない、という僕のワガママを好きな人は聞いてくれている。これは暫定的な措置なので、今後はどうなるかは分からないが。

 

 一般的な恋愛関係はしばしば排他性を要請するが、僕はその排他性に適応できていない。まず友人関係が大事で、それは恋愛関係と比べてそんなに序列があるように思えない。そして、自分の作る関係性についてとやかく言われることには、恋愛相手からであろうと、周囲の友人からであろうと、耐えられない。

 僕は一般的な「恋愛」をする者として失格と言えるだろう。それゆえに一般的な恋愛からは「卒業」したのである。

 

友人関係のように気楽に「恋愛」をすること

 それでは僕たちはいかなる関係性を築いているのだろうか。あくまで僕からの視点なのだが、思っていることを書く。

 この関係は、友人関係のように「気楽」である。思えば僕はこれまで、恋愛に対して実存を賭けすぎた。100%の力を使おうとしていた。そうして、感情的にもものすごく振り回されてきた。

 それこそがまさに恋愛なんじゃないのか? という疑問もあろう。しかし僕は恋愛から卒業した。どちらかと言えば、燃え上がるような激情を抱く「恋」の方から卒業してしまったのだと思う。「愛」だけが残ったと言える。

 好きな人に対してドキドキしないわけじゃない。むしろすごい好きだ。だが、その感情が空回りしてちゃ伝わらない。感情を空回りさせずに、この関係性の中でより良いものにしていくためには、むしろある程度の余裕が必要だろう。

 愛憎まみれる、心中するかのような、あるいは共依存的なまでの恋のカタチも否定はしない。しかし、友人関係とか自分のやりたいこととかも大切にしたい僕に、それは難しかったようだ。

 友人関係や自分のやりたいことなどとの「役割分担」で見た際、恋愛は一つの「役割」に過ぎなくなる。でも、それはとても大切な役割である。

 全てをなげうち、親の役割や友だちの役割、生きがいなども全て「恋愛」に集約させたくなる欲望も、痛いほどよく分かる。しかし、相手だって人格を持った人間である。相手にも自分の生活や様々なこれからの選択がある。自分の人生も相手の人生も肯定し、恋愛関係を(それこそ友人関係のように)あくまで一つの役割に過ぎない、としてしまう方がむしろ最大限、この「恋愛」を楽しめるように思う。

 

友人関係との区別について

 それでは、この関係性は友人関係とは何が違うのだろうか。これは正直、難しい。違わないのではないかとも思う。

 一応、明確に違うポイントとして、この関係性においては性行為をしている、ということが挙げられる。

 それはいわゆる「セックスフレンド」や「都合の良い関係」ではないのか、と思われるかもしれない。だが、それらの言葉にまとわりつくネガティヴなイメージが、この関係性にはない、ということを言っておこう。というのは、この関係性は、こちらの都合を強権的に押しつけないよう慎重に話し合いを経たうえで成立しているからだ。

 実際、僕は話し合いを経たうえで、僕は他の人間とは性行為をしないと決めている。逆に僕視点では相手が他の人間と性行為をしていても全然構わないというか、むしろしたいならぜひすべきである、という立場である。

 

 これは「嫉妬感情」をどう取り扱うかという問題である。相手を独占・所有したいだとか、自分を一番に扱ってほしい、相手にとっての特別でありたい、などといった感情が関係している。

 僕自身は正直あまり嫉妬感情が分からない。敢えて区別するなら、「自分が持っていないものを持っている人が羨ましい」という「羨望感情」はあるが、「自分が持っているものを他の人と共有したくない」という「排他的所有感情」は基本的にない。

 相手の嫉妬感情は、話を聞いたところ普通にあるようだ。それで僕の方は他の人間とは性行為しないことに決めた。正直、好きな人との性行為は楽しいし、十分に満足していると言えるのもあり、僕自身、これ以上他の人と性行為をしたいとも思っていない。

 

 その他、会う頻度がある程度確保されていたり(しばらく会ってないと僕も相手も会いたくなる)、贈り物を贈り合ったり、一定の特別な関係性ではあると思う。

 ただやはり、明確に友人関係と区別したいとも、できているとも思わないのだ。その意味で好きな人との関係性は友人関係だと言っていいかもしれない。

 僕にとっては、他の友人関係も、(性別問わず)それぞれ大切でかけがえのない(特別な)関係である。そこには恋愛に似た感情や、深いところで「繋がっている」という(それこそ「セックス」的な)感覚がどうしても生じてしまうこともあるだろう。それは仕方がないことだと思うし、だからといってそれを防ぐために「誰々とは二人きりで話さない」などとするのは、僕の方の事情でしたくない、という感じだ。

 他の人との関係性において、様々な感情が生じることは仕方がない。だからこそむしろ、「行為」の上では、友人関係と好きな人との関係との間に、きちんと区別を設けたい(その意味では、「他の友人に対して恋愛やセックス的な感覚が生じうる」ということを書いた「行為」自体も、相手の嫉妬感情に抵触しかねないし、問題だとは思う)。

 

素直にノロケると

 そんなわけで、好きな人のことは「友だち」のような存在だと思っており、そこには「執着」がない。おかげで「しなきゃいけない」みたいな義務感がなく、素直に好きだなと思える。最後はノロケてこの文章を閉じよう。

 

 上述したように、僕の好きな人は、対人関係の広さにおいて優れている。ありきたりな表現かもしれないが、感受性豊かでなんでも食べられる、言うなら雑食性があるように思う。

 

 好きな人のどこが好きかって言われたら、その感情のデカさである。「感情!」としか言いようがない。(必ずしもスピリチュアルではない意味で)宇宙と直接繋がっている系の人だと思う。

 

 そんな彼女はホリィ・センの開陳する「自意識」「メタ認知」ワールドにも興味津々のようだ。単にベタに一本気の人なのではなくて、メタ的な思考についても話しているとたくさん出てくる。彼女の考えていることは好きだし、もっと聞きたい。

 

 それでも、いざというときには思いきりがよい。「突き抜けられる」人である。一緒にいるとしばしば驚かされ、僕も笑顔になってしまう。

 

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6日目は、社会的信用がない @touhuwakame さんの、

「期待される様な命」

です。

オナニーから疑え ―〈男らしさ〉と快感―(『臨 格差の(さまざまな)デザイン』所収)

 ホリィ・センです。友人の小峰ひずみhttps://twitter.com/cococooperativ1/が『臨(サイド)』という批評誌(?)を出したので、宣伝します。

 僕はサクラ荘というシェアハウスをやっていることから小峰くんからインタビューを受け、「シェアハウス思想探訪」という物々しいタイトルの記事があります。

 『臨(サイド)』から一つ記事を載せてほしいとのことだったので、僕は小峰くんの書いた「オナニーから疑え――〈男らしさ〉と快感――」という記事を転載します。笑えるながら、かなり真面目な記事です。

『臨(サイド)』の目次:

〇思考にとって「現場」とはなにか?――臨床哲学・再論――(小峰ひずみ)

〇中毒政治論――依存・ケア・回復・闘争――(小峰ひずみ)

〇二十一世紀の支援と代弁――現場から〈イタコ〉へ――(田中俊英

少子化時代のフェミニズム――子育て VS 資本主義――(九照)

〇人間のカテゴリーと〈私〉の関係(ひかるころも)

〇オナニーから疑え――〈男らしさ〉と快感――(小峰ひずみ)

〇シェアハウス思想探訪――サクラ荘主宰に話を聴く――

 

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オナニーから疑え―〈男らしさ〉と快感―

   小峰ひずみ

 

 

 

―そういえば、オナニーする男の姿や表情は、仏像によく似ている。

右掌に輪をつくり左でほとばしりを受けるような形ではないかね?

                   野坂昭如

 

 

 

オナニーから疑え

私の人生はセックスするよりも、オナニーする回数のほうが多いのではないか。そう気づいたとき、なにかとんでもないことに気づいてしまった気がした。男の悩みの半分はセックスである。断言していい。みなセックスで困っている。私も困っている。

かの有名なAV監督・二村ヒトシは言う。

 

「モテないこと以外のほとんどすべての不幸は、モテてさえいれば、なんとかなる(か、ガマンできる)」[1]

 

しかし、我々の実際は次のようなものではないか。

夜になる。さあ、待ってましたとばかりにベッドに潜り込めど、セックスが下手なら相方は眠り込み、腹いせにソープに行ってもケチればそれ相応のサービス、女は男をバカにするか、身勝手に怒ってミソジニー女性嫌悪)の闇にはまり八つ当たれば、呆れられて、見捨てられて、そもそもセックスする相手がいなくなっている。

 しかも、セックスせずんば人にあらず、セックスこそ人生最大の至福との俗説、天馬のごとく七つの海を駆けめぐり、わが宿、半地下の安宿にして、上階より三日に一度ほど夜中、パンポコ聞こえてくるような薄壁であってみれば、セックスばかりが関心ごとになっても咎められる筋合いはない。

 しかし、もし、その「セックス」とやら、実は私のからだにとってはたいしたことのないものだとしたら、どうだろうか。というよりも、もっと大事なことがあったとすれば。それは私が人生を歩んでいくうえで抱える悩み、あるいは問いをまちがっていた、ということになる。

セックスばかりを問題とすること、させられること、それは言ってしまえば、生まれたときからともに時を歩んだ我が愚息を、他人(セックス商人どもの)の価値観にゆだねていた、ということになりはしないか。まるで敵国に人質として預けられ幼き頃から委縮していた竹千代(のちの徳川家康)のごとく、ちんぽこを委縮させていたということになる。

どうりで立たないわけである……。

ならば、全国のオナニーを愛す、いや、もう愛するとかではなくて、やっちまう人々よ、我と汝の愚息のために、精神において立ち上がり、身体においては各々、好きな姿勢を取れ。

 オナニーから疑ってかかれ。

 

感じる男―男オナニーひとり道―

 「オナニーをすると女になる」と誰かが言っていたが、たしかに、「快楽を感じるのは女の役割」との意識、男にはこびりついているのではないか。私にはある。

 大学生の頃だったか、ベッド上で射精が終わったあとに、隣にいたセックス・パートナーから顔をまじまじと見られ、一言「かわいい」と言われて、イラッというか、ムカッというか、少なくとも喜ばなかったという記憶があるのだ。

感じるのは女、感じさせるのは男。男が感じるなど、恥ずかしい。理不尽な性的分業、ここにあらわる。だとすれば、フェミニストが嫌い、男性学が脱しようとする、〈男らしさ〉なる呪縛からの解放、まずは「感じる」ところから始まる道があってもよい。

この世には「男は不感症である」との説がわりと一般的にある。『火垂るの墓』で有名な野坂昭如は『エロトピア』のどこかで「男の快感は女の七十分の一」ほどだと言っていたはずだし、「草食系男子」という言葉の火付け役である生命学者の森岡正博は「男の不感症」を主題的に論じている。森岡は次のように言う。

 

「どんなに努力してみても、射精の直後の、あの興奮がすーっと醒めていく空虚な感じだけは決してなくならない…[後略]…。「死をイメージさせる虚無感」という渡辺[淳一―筆者]の表現は的確だ。射精がいつもこのような絶望的な感覚で締めくくられてしまうこと、これこそが「男の不感症」の核心なのである」[2]

 

私もそう思う。私もまた、セックスにせよオナニーにせよ、射精が終わったあとはもうどうでもいいやという投げやりな気分になり、虚しさに覆われる。キモチいい、か? 決して「人生最大の至福」が終わったあととは思えない。不感症である。

さて、森岡は「男の不感症」を脱するために二つの道を示している。

ひとつは、「不感症がいやなら、真の快楽を感じることのできるようなセックスを学べばよい」[3]という主張。感じればいいじゃん、ということだ。単純明快、わかりやすい、説明不要のことと思う。性的技術派である。

もうひとつは、不感症であることを堂々と認めることで、「生命あるもの、傷つきやすいものに対する「やさしさ」へと振り向けていくこと」[4]が大事だという主張である。しかし、この主張は、正直、よくわからない。具体的な説明がない。「マスターベーションした直後に、人々に対するやさしい気持ちを自分の心の中に満たしてみるといいかもしれない」[5]と言われるのだが、What?!って感じである。さっぱりわからん。まあ、どうやら、「やさしい」イメージ、草食系男子へ至るイメージだ。

森岡は前者=技術派をやんわりと排撃し、後者の道を選びたいという。では、森岡はなにゆえ快楽追求の技術派をやんわり否定するのか。彼は言う。

 

「私は彼らの試みを否定しない。しかしながら、私は、彼らとは別の道を進もうと思うのである。なぜなら、彼らのように真のオーガニズムを追求する方向に行ってしまうと、自分のセクシュアリティのねじれや、対人関係のねじれを維持したまま、「性の快楽への欲望」だけが肥大することになりかねないからである」[6]

 

なるほど、わからなくはない。

 

「具体的に言えば、極上のオーガニズムを得るために、プロの売春婦相手のセックスを繰り返すような男が出来上がっても、まったく仕方がないからである」[7]

 

至極、もっともである。

 

 しかし、残念ながら、私たちはその「極上のオーガニズム」とやらを味わうための時間も金もない。私たちにとって、射精は(ものすごく、という意味でも、一瞬は非日常的快楽を得る、という意味でも)「超」日常的な実践である。

虚しい射精か、「極上のオーガニズム」か、という選択肢しかないのだろうか。だとすれば、男とはたしかに不幸な性だと言えるだろう。

しかし、諸君、はじめてオナニーと出会った日のことを、まるで初恋の人を思い浮かべるがごとく、思い出してみよ。テーブルに我が逸物を押し付けて快感に目覚め、おそるおそる三本の指でしごき、ついには小遣いをはたき親の目をはばかってTENGA(オナニーホール)にまで手を出しながら追求してきた、その道、私たちはオナニーと共に精神的発達を遂げてきたのではなかったか。私たちがその先端から宙(そら)へと我が白濁の魂を噴出するのは、決して「極上のオーガニズム」のためではない。日常の一部なのだ。つまり、ごはんなのだ。

大見えを切って、もう少し言えば、オナニーとは「おひとりさま」という単身者が多くなった現代社会で、その単身者が性的生活を送るための最後の砦である。若き頃なら当然だが、性欲なるもの齢九十まで続くと言う。人は老いれば、無我の境地にいたれるわけでもないらしく、ただ、ひとりでシコシコするしかないのだ。とすれば、『男おひとりさま道』(上野千鶴子)、それは必然的に「男オナニーひとり道」であるよりほかない。

老いてもシコシコ。

この冷酷な事実を想起し、夜中に布団で打ち震える男子の数、統計は取れねども、あまたいると確信する。(安心しろ、私は君らの仲間だ。)

 

オナニー、それはひとりで生きると決めた男の覚悟なのだ。

 

 という悲壮な心持ちを抱きつつ、私は『男のオナニー教本』なるものをAmazonで買ったのである。

 さて、お待たせした。

いよいよ、実践編である。

 

自己への前戯

 さて、みなさんはいったいどのような姿勢でオナニーをされるか。

 あぐらをかいてか。

 寝そべってM字開脚か。

 まさか足をピンと伸ばしてオナニーしているのではあるまいな?

 私はまさしく足ピンオナニーを十数年愛好してきた人間のひとりである。

 足ピンオナニーをしていると、筋肉が緊張してか、たしかそんな理由で(曖昧)、すぐに射精することができる。時間のない現代人にとっては都合のいい姿勢だと言えよう。しかし、その快感たるや、まさにしょんべん、あるいはそれ以下、我慢に我慢を重ねたうえでの御排尿のほうがよっぽど気持ちよい。これでは、男が「不感症」なのも当然と言える。

 そもそも、私の場合は、オナニーを右手でするものと思っていた。しかし、AV女優のオナニー動画を見ると、どうも右手でチツ、左手でムネ、武蔵流の両刀使いである。他方、私などは右手でサオ、左手はスマホ北辰一刀流と言えば聞こえはいいが、なに、ポルノの刺激で快楽物質を無理に出し、足ピン状態でサオをしごけば、野坂の言うところの「二こすり半」、すぐに我が魂も顔を見せ、天に昇る意志もむなしく、スマホから素早く持ち替えたティッシュペーパーにぴしゃりと落ちる。これでは、快楽もへったくれもない。誰だ、こんな身体につくりあげたのは? とアッラーヤハウェイザナミに怒ってみても仕方がない。

 しかし、実践性科学研究会著・『男のオナニー教本』には次のように書いてある。

 

「[オナニーに必要な―筆者]時間は、一、二時間」[8]

 

一、二時間?!

「二こすり半」が、「一、二時間」?!

 いや、たしかに、ポルノ動画を探していたら、一時間すぎていたこと、ままある。だが、オナニーに一時間、ましてや二時間、聞いたことがない。

 これ、どういうことか。

端的に言えば、前戯をするかどうかの違いである。

 まず、この本では前戯として、我が愚息の下方に鎮座しておる「玉」様をなでるところから始まるのだ。ついで、サオの裏をやさしく撫でる。オナニーの本番がサオのしごきだとすれば、タマをもむのは愛撫と言えよう。

 そうすると、当然ながら、右手にサオ、左手はタマとなるわけだから、両刀使い、ポルノは使えない。かといって、女体を想像しろとは言わないのが、この教本のよいところ、「頭の中でどんなことを考えても自由」[9]とおっしゃる。ならば、と、私は勃起し本番が始まるまで、右手で金玉をもみ、左手で大塚英志という批評家の評論を読んでいたが、ま、立たなかったね。

大塚英志はそれくらいおもしろいのだ。

 

金玉―〈傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)〉の発見―

 男はオナニーと共に生き、感じ、精神的発達を遂げる存在であること、これ、私の持論であるが、男性学という〈男〉について論じる学問もついぞオナニーを論じぬ(私の知っている範囲では)。先ほどより引用している森岡正博の『感じない男』はオナニーについて考えた珍しい考察であるが、それ以外はなぜか女が男の身体について論じている。

 金田淳子という社会学者と澁谷知美という社会学者の「新たなる男性身体の〈開発〉のために」という勇ましき対談は男が読んでもかなりおもしろい。そのなかで、金田は次のように言う。

 

「男性が自らの身体性と向き合う困難という点に関連して私が常に思っているのは、男性がもっと自分の身体に対して肯定的になれないものかということなんです。よく、男性の多くは自分の身体を汚いと感じているということが言われますが、これだけジェンダーギャップ指数の低さが指摘されるなか、それでも女のほうが恵まれていると頑なに言い張る男性が絶えない最大の原因は、男性たち自身の男体嫌悪ではないか。」[10]

 

私は一読、むかついて、この文章の上に「×(バツ)」をつけた。私の考えでは、女のほうが恵まれていると男が感じるのは、女は年収が低くても結婚して「主婦」という役割を得ることができるのに対し、男は年収が低いと結婚さえしにくい(している人はたくさんいるが)という「負けっぷり」の非対称性に起因していると考えている(し、この二人もそれは知っている)が、そんな冷酷な現実はここではどうでもよい。

 しかし、私がこの引用にむかついたのは、私と金田の認識の違いだけではあるまい。おそらく、この引用が問題の奥深くをえぐり出していたからではないか。

 男の体とはなにか? 特にその象徴と考えられているペニスとは?

 澁谷はペニスを「〈強くて、硬くて、頑丈な〉男性身体の象徴」[11]としているが、残念ながら、我が愚息、そのようなものではない。「血は立ったまま眠っている」(寺山修司)、その具体的現実である勃起せるちんぽこを手の平を大きく開いてさわってみるべし。その下方には、あのやわらかき玉袋がある。

 そこは男性の急所、コメディ・ドラマでは女にけり上げられる場所だ。

日本を代表する大作家・村上春樹は金玉を蹴り上げる練習をするボディ・インストラクターを物語に登場させている。彼女がある男に「睾丸を思いきり蹴り上げられる痛さがどのようなものか」と尋ねたとき、その男は熟考し、こういった。

 

「あれは、じきに世界が終わるんじゃないかというような痛みだ。ほかにうまくたとえようがない。ただの痛みとは違う」[12]

 

私はこの一節をみたとき、この作家は男にとっての天災だなと思った。誤字ではない。続いて、私たちが読むべきは他の作家ではなく、『男のオナニー教本』である。

 

「陰のうの中の睾丸の形を一個一個確かめたり、軽く転がすように握ったり離したり、手のひらで円を描くようにさすったりして、じっくりと時間をかけて刺激しましょう」[13] 

 

金玉、そこは男の急所であり、痛みと快楽をもたらす箇所である。なにより、ぷにゅぷにゅとやわらかい。金玉はそのやわらかさゆえに、他者の手を、そして、自己の手を受け容れる場所である。

 さっそくさわってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……あな、やわらかきこと……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……はあぁ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この自己への前戯の手ざわりを私たちはよく覚えておかねばならない。それは自分の最もデリケートな部分、〈傷つきやすい(ヴァルネラブル)〉部分である。そして、その傷つきやすさゆえに、苦しみと歓び、痛みと快楽を併せもつ。この〈傷つきやすさ〉を認められないことこそ、つまり、そそり立つペニス中心主義とやわらかき金玉の否認こそ、男の呪縛ではないのか。

 

「男たちの最大の罪(自己欺瞞)とは、まさに自らの痛みに気づけないこと、「痛い」や「苦しい」と口に出せないことかもしれない」[14]

 

杉田俊介という批評家は「男たちは、なぜ、「助けて」と言えないのか」との疑問にこう語る。「痛い」「苦しい」と言えないこと、それが男たちの最大の自己欺瞞だ、と。男は「痛い」や「苦しい」と言えない。それは同時に、「感じる」「気持ちいい」と言えないことではないのか。感じるのは女の役目、感じさせるのが男の役目。その呪縛は、男の最大の自己欺瞞につながっているように思う。

 やわらかきこと、それを男は意識としても、身体としても忘れているとは言えないか。

 女にけりあげられる急所、その急所こそ、痛みと快楽を感じる〈傷つきやすさ〉の結集点である。愚息はそそり立つも、金玉はやわらかい。そのような〈傷つきやすいちんぽこ〉という認識からしか、男は「痛い」「苦しい」と言えないだろうし、また、自らの傷を「手当て」し「ケア」(杉田)することもできないだろう。そして、「手当て」に値しないものを愛せるはずもなく、男体嫌悪はつのっていく。

 オナニーが重要なのは、ペニスに象徴される男の体が前戯を必要とし、それゆえに、「手当て」を必要とするものとして認識をできる日常的な行為だからだ。人は毎日、男性学の本を読んでいるわけではない。しかし、オナニーは一日一回、二日に一っぺん、少なくとも三日に一度はする。だとすれば、男性学の百冊はオナニーのいっぺんに如かず、とも言えそうだ。

杉田は言う。

 

「ラディカルとは、急進的というよりも、根源的であろうとすることだ。それは日常や生活にも根を張らねば力が足りないものになってしまう」[15]

 

私もまた、「ラディカル(根源的)」でありたいと願う者である。

 

私たちは「ティッシュなし」でオナニーができる

 もう少し男体嫌悪を掘り下げよう。

森岡はある男性が「男の体は汚い」と聞いて、「その通りだ」と実感した、という。では、その汚い男の体とは?

 

 「体毛が密集し、肌の色は悪く、骨がごつごつしており、筋肉がうっとうしいこの体。精液によって汚れてしまうペニスと周辺の毛。自分の体はほんとうに汚いという実感がある」[16]

 

わかる。特に、射精がやっかいだろう。森岡もできるだけ射精しないようにオナ禁していた学生時代があったと告白している。杉田が引用するデータによれば、中高生のときに、射精を「汚らわしい」と感じる男性は約一八%にものぼったという[17]

 だが、私の予想では、もっといる。

 でなければ、ティッシュを持ってオナニーすること自体がおかしい。射精が汚くないのであれば、単に自分の体にその「魂」をぶちかまし、その後にティッシュでふいて、風呂に入ればいいだけの話だ。

 しかし、いままで頼りにしてきた、かのオナニー教本でさえ、「ティッシュペーパーを横に置いたら、一切の余計なことは考えず、力を抜いて仰向けになりましょう」[18]ティッシュを推奨しているのである。しかし、私の経験では、精液は体にぶちまけたほうが気持ちいいのである。いったい、実践性科学研究会の面々はなにに遠慮しているのだ?

 やはりここには、オナニー・オブ・ジェダイたちさえも戸惑わせたビッグ・フォースが潜んでいると考えてよい。

 だとすれば、ここは、日本文学史に残るオナニー・マスターに登場していただこう。野坂昭如はオナニーをする男の姿についてこういう。

 

「そういえば、オナニーする男の姿や表情は、仏像によく似ている。右掌に輪をつくり左でほとばしりを受けるような形ではないかね?」[19]

 

これを一読して、私は「え?」と思った。

 ティッシュペーパーの記述がない。

 ティッシュペーパーの存在が、ここでは自明ではないのだ。

左手でじかに「ほとばしりを受ける」のか?

 野坂、やりおる。

 もちろん、ここに記述されていないだけで、ほんとうは傍にティッシュがあるのかもしれない(きっとあるだろう)。

 しかし、ここで野坂が書き漏らしたことで得られる想像力は、私たちのオナニーからひとつの幻想を取り払ってくれるのではないか。

 すなわち、私たちはオナニーができる、ティッシュなしで。

 しかも、先ほども述べたように、私の実感ではそちらのほうが、解放感があってよろしい。よろしい、というか、キモチがいい。ティッシュを切らしたもののたまりにたまって仕方なく自慰にふけったことのある人々も、実は「こっちのほうが気持ちいいのでは?」と思った人がいるのではないか。

では、なぜ、ティッシュなしでシコらないのか。精液が汚いからか。しかし、精液は我らが白濁の魂である(と、とらえることもできる)。

 ティッシュなしでオナニーする日があってもよい。精液を身近に感じる日があってもいい。

 そのようなラディカルな(日常的な)実践が徐々に私(たち)の男体嫌悪を溶かしてくれるような気もする。

もちろん、これはひとつの仮説、可能性にすぎないが。

 

ミソジニーを脱するオナニー

 フェミニストの旗手・上野千鶴子といえば、泣く子も黙る言論界の覇者であるが、彼女はご存知の通り、わりと男に手厳しい。どこかの対談で「男は女に依存している。そのことがわかっているから、逆にミソジニー女性嫌悪)に陥る」と述べていたはずだ。まさに、男は己の精神的玉袋をけりあげられた格好になったわけであるが、その痛み、しかと体に刻むべし。男は女に依存している、こんなことはフェミニズムの洗礼を受けた若い世代の女性は、とっくに気づいているだろう。

さて、手元に上野の対談集がないので、どのような意味で彼女が「男は女に依存している」と言ったのかはわからないが、私の経験を照らしてもだいたいの予想はつく。

第一に、性的依存。すなわち、セックスする相手として依存している。

第二に、インチキ自己肯定(「彼女いる・モテる俺」)を保つための依存。

第三に、女にモテたから自分の汚い体を肯定できるという依存。

昔であれば、お見合い結婚という形なので双方「男」「(子どもが産める)女」であればよく、付き合う期間もないまま、すぐに永年連れ添うことになるので、幸せかどうかはともかく、話は簡単なのであるが、いまや恋愛結婚全盛期をとうに経た時代、男も女も「私自身を愛して」という実存を賭けてマッチングアプリや盛り場に繰り出してくるものだから、ややこしい。男は「女」なるカテゴリーを必要とし、女は、これ、どうか知らない。きっと「男」なしで生きて行くだろう。

金田と澁谷は「女と付き合うならコミュ力をつけないといけない」という上野の発言に激怒した男たちについて、次のように言う。

 

「たしかに「なぜ女がケアしてくれないんだ」という不満がありそうですね。とはいえフェミニズムは、恋愛や孤独の問題にかんして「男たちよ、もっとモテない女と付き合え」などとは言わず、自分たち自身でやってきたわけだから。」(金田)

「そうなんですよ。私もそれはふつうだと思ってきたのですが、それができないのはやはりなんとしても女とつがいたいという欲望があるからだろうと私は踏んでいます。本来であれば男性たち自身が、恋人や配偶者のいない男性を肯定する営みをどんどんしていくべきなのに、なぜかしようとしない」(澁谷)[20]

 

この男女の違い、男にとっては由々しき差異である。しかも、男にとってより都合が悪いのは、このような依存構造を女は肌感覚で気づいていて、依存すればするほど、逆にモテない、ということだ。求めれば求めるほど、離れていく……。

では、この依存からどのように抜け出せばよいか? とにかく、第二と第三の依存からは独力でも抜け出せるのではないか? これはしばしば「モテ論」として語られてきたことだ。

先ほども引用したAV監督の二村ヒトシは「自分の【居場所】をつくる」のが大事だとしたうえで、次のように言う。

 

「【あなたの居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れてるところじゃなくて【あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです」[21]

 

あるいは、『草食系男子の恋愛学』で森岡正博は次のように言う。

 

「真の自信とは、他人との比較をやめたあとに生まれる控えめな自足のことである。このような心境に近づいたとき、…[中略]…「人間として成長したいと思っていたり、将来に対して夢を持っていたりして、全身からまっすぐに立ち上がる心意気があふれている」という若い男の人間的な魅力が、はっきりと備わり始める」[22]

 

とのこと。両者の共通点は「一人っきりでいても淋しくない場所」「他人との比較をやめたあとに生まれる控えめな自足」にあるといっていい。つまり、一人でもOKということだ。

これはオナニーにも言えるのではないか? つまり、オナニーを「一人でいても淋しくない」場所にできたら、私たちはどんなにか救われるだろう。

金田と澁谷は男がミソジニーに陥るのは男による「男体嫌悪」の原因があると述べていたが、「女にモテたから肯定できたという迂回路をとらず、自分で自分の身体を肯定してほしい」という。「[自分の体を自分で愛することで]自己完結して、これ以上女を迫害するのをやめてほしい」とも言う。

男が女に性的に依存し、自らの身体の肯定も女に依存しているのであれば、そこから脱するために、オナニーはどのように変われるか?

この命題の検証は、われらのオナニー・チャレンジにかかっていると言っても、過言ではない。

 

挿入れない関係―男と女のレズビアン・セックス―

子よりも親が大事と思いたい。セクよりオナが大事と思いたい。そう思って、しばらく論考を進めてきた。しかし、ここでセックスについて論じないのもどうかと思う。というのも、人間はたまには(しばしば)セックスをするからだ。そこで単なるオナニー野郎になってしまっては、つまらない。ここは裏切り者の罵声、全身で浴びることを厭わず、セックスについても論じたいと思う。

芥川賞作家・村田沙耶香は『消滅世界』でジェンダーレス社会を描いている。その社会は女が「男」になる社会ではなく、男が「おかあさん」になる社会だ。夫婦間のセックスが禁じられ、人工授精で子どもを産む未来。実験都市・千葉では、さらにラディカルに性への管理は進められ、人工子宮によって男も出産でき、家族という概念がなく、人々は性欲を醜いものとしている。そして、その実験都市・千葉では男女関係なく、みな「おかあさん」と呼ばれるのだ。

ひきこもり論で有名な精神科医斎藤環は、『消滅世界』の解説で正確に次のように述べる。

 

「そう、この社会ではすべてが女であり、すべてが母なのだ」[23]

 

そして、そのような社会を、いまの男と女はどう見ているのか?

 

「本書への反響として、女性の側からは主として「ユートピア小説」、男性からは「ディストピア小説」という評価があった。」[24]

 

この評価の乖離からもわかるのは、先ほど述べた通り、男は「女」というカテゴリーを必要とするが、女は「男」というカテゴリーを必要としないということだ。

『消滅世界』は現代の性と生を考えるうえで非常に有益な小説だが、私がこの小説で違和感をもったのは、その性欲への扱いだった。同書では、性欲を汚いものとして扱い、クリーンルームと呼ばれる部屋で、各々が性欲を自慰により処理することになっているが、そこには「性への歓び」がなく、その「歓び」が消えていく悲しみへの表現もない。これはもちろん、社会にとっては合理的だ。フランスの哲学者のミシェル・フーコーは次のように述べる。

 

「組織的に労働力を搾取している時代に、それが快楽の中で四散するなどということを人は許容できたであろうか」[25]

 

村田は徹底して合理的な社会を描いた。その社会には男も父も存在せず、セックスも存在せず、性欲は忌避すべきものとして扱われる。

しかし、それはあまりに性欲を見くびっていやしないか。

村田はレズビアン・セックスの可能性に一切ふれない。「女」しかいない「女」の「ユートピア」。そこでのセックスはおのずとレズビアン・セックスになる。「女」と「女」のセックス。それは挿入れないセックスだ。

斉藤は次のように言う。

 

「性行為は……男性の「所有原理」と女性の「関係原理」のすれ違いとして起こる。男性にとっての性交は、快楽であると同時に所有ないし征服のためのほぼ唯一の儀式でもある。性交後に態度が冷淡になる男性が多いのは、要は「釣った魚に餌はやらない」ということだ。これに対して女性にとっての性交は、関係原理を満足させるさまざまな行為の中の一つでしかない。それゆえ性愛関係=性交という「性交原理主義」は、男性原理に由来する」[26]

 

女は男と交流したいが、男は女を所有したい。そうすると「あなた〈と〉ひとつになりたい」という淡い欲望は女性特有のものであり、男性のそれは偽りだ、ということになる。なぜなら、男は「あなた〈と〉」(関係原理)ではなく、「あなた〈に〉挿入れたい」(所有原理)と望むからだ。「あなた〈と〉」を「あなた〈に〉」にしてしまうからだ。斎藤いわく、〈と〉(関係原理)と〈に〉(所有原理)の違いが性交を生む。

すると、村田は男性の所有関係(「あなた〈に〉」)を排除すると同時に、女性の関係原理(「あなた〈と〉」)をも、極端に狭めてしまったと思える。それは、レズビアン・セックス、すなわち、挿入れないセックスの可能性も奪ってしまったということだ。それは、おそらく、村田のセックス観の貧困に由来する。

同じくジェンダーレスの可能性を思わせる私小説・『夫のちんぽが入らない』もまた、女性に圧倒的に支持されているのも関わらず、セックス観において貧困だ。作者で主人公のこだまは、夫のちんぽが入らず、仕方がないので、「口や手」で交わる。

 

「「どうしてだろうね」と言っては手や口で出す日が続いた。私にできることはそれくらいしかない。農作業のようであった。」[27]

 

『夫のちんぽが入らない』はその題名にもかかわらず、性描写がほとんどない。せっかく挿入れないのだから、挿入れないセックス(レズビアン・セックス)の可能性を突き詰めればいいのに、と勝手に残念がっていた。実は、それを期待して購入したところがあるのだ。

というわけで、村田沙耶香にせよ、こだまにせよ、女性に支持される中年作家のセックス観は、二十歳も若い男性の私が言うのもなんだが、かなり貧困だ。

 私は違和感を表明せざるを得ない。

なぜか。

さて、ここからは私の経験になる。

私は高校生のとき、はじめて「彼女」ができた。

で、彼女の家にお邪魔して、さて、童貞を卒業しようか、というときに、彼女のほうから「妊娠が怖いから、大学生になるまで、挿入れないで」とお願いされた。私もまた、それを承諾した。

それがよかった。

気持ちよかったのだ。

一晩中、裸でイチャついたりキスしたり胸をいじったりアソコをなめてただけで、指も(いま思えば奥手)、ちんぽもチツのなかに入れなかった。なので、ずっと欲情しっぱなしで、あれほど欲情と激しく濃く結託したことはないと思うほどだ。終わることがない。だから、「釣った魚に餌をやらない」ということもない。釣れない、終わらない、挿入れれない、から。欲情が収斂することなくつづき、キスしたりまさぐったりしている。終わるのは、射精したときではなく、疲れたときだ。

これは控えめに言っても(私は)かなり気持ちよかった。挿入していないのに。

しかし、彼女は大学生になっても、まだ妊娠を恐れ挿入れさせてくれなかった。そして私は挿入れさせてくれない彼女に嫌気がさして別れてしまった。単純に言えば、童貞を卒業したかったし、挿入れたかったし、〈男〉になりたかった。

それが不幸の始まりだった。

大学生になり、数人彼女ができて、挿入れるセックスをしても、幸せになれない。いくら挿入しても「うーん、なんか違うな」という気分はぬぐえなかった(すいません……)。私から見れば、相手も気持ちよさそうではない。でも、私はセックスは気持ちのいいものだと教わっていたし、大人の〈男〉と〈女〉のセックスは挿入れるものだと思っていたし、挿入れると気持ちよくなるのだと信じていたのだ。

挿入れないセックスがあるとは思えなかった。

実際には経験していたにもかかわらず、それをセックスだと思っていなかったのだ。

それは自分にも相手にも不幸なことだったと思うし、申し訳ないと思う。

そんなこんなで、なんだかなーと思っていたら、先日、女の子同士のレズ・セックスの映像をみてびっくりした。責められている女の人が、ほんとうに気持ちよさそうだったからだ。

「ああ! これこれ! こういうの!」と一瞬で納得した。

なにに納得したかはわからないが、とりあえず納得した。

ああ、いいなーと思った。男と女にもこういうセックスの可能性は開かれていいと思った。しかし、その納得が正しいのかどうか、いまは恋人もいないし、できる予定もないので、わからない。いつか、相手ができれば、ヤってみたいと思う。

 

いま私は正直、セックスのときの「ちんぽ」の使い道がよくわかっていない。もし、「ちんぽ」の使い道がわかり、「ちんぽ」で互いに気持ちよくなれれば、それは私の思想観・人生観に大きな影響を与えるだろう。

みなさん、聞いてみたい。ちんぽとその使用法はどのようなものか?

連絡先はcococooperative@gmail.comです。よろしくお願いします。

では、ごきげんよう

そして、君と私のちんぽこ(まんぽこ)に幸あれ。

 

 

 

 

[1] 二村ヒトシ、『すべてはモテるためである』、イースト・プレス、2012、p.3

[2] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、pp.32-33

[3] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.163

[4] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.168

[5] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.167

[6] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.165

[7] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.165

[8] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.8

[9] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.10

[10] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.168

 

[11] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.167

[12] 村上春樹、『1Q84 BOOK1前編』、新潮社、2012、p.299

[13] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.10

[14] 杉田俊介、『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』、集英社、p.35

[15] 杉田俊介、『現代思想vol.47-2』「ラディカル・メンズリブのために」、青土社、2019、p.115

 

[16] 森岡正博、『感じない男』、筑摩書房、2005、p.145

[17] 杉田俊介、『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』、集英社、p.23

[18] 実践性科学研究会、『ONANIE MANUAL』、データハウス、2003、p.9

[19]  野坂昭如、『エロトピア』、文藝春秋、1977、p.23

[20] 金田淳子・澁谷知美『現代思想vol.47-2』「新たなる男性身体の〈開発〉のために」、青土社、2019、p.176

[21] 二村ヒトシ、『すべてはモテるためである』、イースト・プレス、2012、p.94

[22] 森岡正博、『草食系男子の恋愛学』、メディアファクトリー、2008、p.167

[23] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、p.277

[24] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、p.277

[25] ミシェル・フーコー、『知への意志』、1986、新潮社、p.13

[26] 村田沙耶香、『消滅世界』、河出書房、2018、pp.279-280

[27] こだま、『夫のちんぽが入らない』、講談社、p.57

 

 

小峰くん自身の『臨(サイド)』の宣伝記事はこちら

note.com

差別性を指摘するだけで終わらないことの意義、あるいは「第三者」になることの意義(「トーンポリシング」批判)

 (言及元は

【大炎上】note社が運営するcakesでホームレス差別をする投稿が受賞し内容の非道さから大炎上 - Togetter を参照)

 

 

 (言及元は

人生無理バー運営、発達障害男性(複数)が問題を起こしたため、「全ての発達障害男性」を出禁にしてしまう - Togetter を参照)

 

 

 

 

 といったツイートをした。しかし、この話には一つ問題点がある。それは、どこまでが「直接の被害者」であり、どこからが直接の被害者ではないのかという線引きが難しいという問題だ。それどころか、あらゆる者が被害者なのではないかとすら言える。

 実際、何気なく行われる差別的表現は、その差別が「当たり前」のものであるという規範を作り上げてしまう。その規範は原理的にはあらゆる人間に対して被害をもたらしうるのである。ゆえに、差別的表現についてはあらゆる者が「被害者」であると言えなくはない。

 よって、あらゆる人間がある種の当事者性を以って、差別的表現には疑義を呈するべきだ、といったこの考え方は一度は通るべきだとは思う。


 しかし、それでもなお僕が「直接被害を受けていない者」「第三者」と呼んでいるのは誰なのか? ということを以下で説明しよう。


 「トーンポリシング」という、告発における「言い方」の問題を云々することで、告発における感情をなかったことにしたり、告発の内容を無効化したりしてしまう問題を指した言葉がある。この言葉について考えるために、まず、告発における「言い方」を気にするという課題()と、告発における感情や内容を十全に表現するという課題()という2つの課題があるとしよう。

 このが同時に達成するだけの余裕がない人において、の課題が優先させられてしまうせいで、が遂行できなくなってしまうことがありうる。この限りにおいて、このトーンポリシングという言葉は正当だと思う。

 しかし、を余裕をもって同時に達成できるうえに、同時達成することによって社会の改善に寄与できる立場にある人間もいる。そういう立場にある人間がをサボるのはよろしくないんじゃないか、ということが僕の主張だ。

 をサボるせいで、結果的に加害行為の問題点を加害者自身に気づかせたり、差別的な規範を改善したりするためのチャンスを失ってしまいかねない。

 より具体的に言おう。加害者から謝罪の言質を引き出せたとして、加害者は「イヤイヤ、渋々」謝っているだけかもしれない。人間は非難を受けるとむしろ防衛的になってしまって、自分の考え方を柔軟に変化させることを拒んでしまう傾向にあるからだ。

 また、差別的な規範を改善するためには、マスメディアやネットメディアの環境下において、適切に情報が流通しなくてはならない。今までに行われてきた議論の蓄積を集めたり、問題を理解するために新しい視点を提供したり、問題点をまとめたりする必要があるだろう。ここでもまた、強い言葉による差別者への非難は、差別者の防衛的態度を招く可能性が高いように思われる。

 以上のような場合には、加害者に対する言葉遣いや、差別的規範を改善するための表現を「トーンポリシング」してもいいんじゃないかと思う。改めて繰り返せば、上記のの課題を余裕をもって同時達成できる人間はの課題をサボらずに遂行すべきだということだ。

 

※ただし、Twitterのような「アテンション(注意)の自由市場」において、注意を引きがちなのは差別的規範をストレートに改善するものよりも、「パワーワード」であるように思う。ここには、人間が「言い方」を工夫するだけではどうにもならない、Twitterの「アーキテクチャ」的な側面もありそうだ

 

 ツイートの中で僕は便宜上、加害者と優しく対話を試みたり、意識的に「第三者」の立場に立ったりしうるのは、「直接被害を受けていない人」であるという線引きをした。これはすなわち、直接被害を受けて「傷ついた」人に対して、加害者と対話したり「言い方」について努力したりするよう求めるのは酷であるし、求めるべきではないということを意味していた。

 しかし、むしろ本質的には、上記のの課題を同時達成できるような人、一般的に言えば、「加害者を傷つけないように加害者とやり取りしたり、世間から拒絶されたり情報流通を混乱させたりしないように差別的表現を批判したりを、できるだけの余裕がある人」こそが、加害者と優しく対話を試みたり、第三者の立場に立ったりできるのではないか、ということが言いたかった。

 

 この余裕の有無はどのように線引きできるのか? という問題は新たに生じるが、ここでは論じない。

 粗い表現でざっくり言ってしまえば、自分の行為の結果を冷静に比較考量できる人間は、「加害者叩き」に走って加害者の「更正」の道を絶つのではなく、加害者をも包摂しうるようなシステムを目指すべきだ、と僕は主張する。

 一方、「差別的な規範を改善するためにどう発信すべきか」に関しては、僕もはっきりとした答えがない。情報の正確性や整理された議論みたいなものを目指すのは一つだろうが、情報流通においては「分かりやすさ」や「キャッチーさ」も時には求められるかもしれない。しかし、「分かりやすさ」のせいでむしろ差別的規範が温存されてしまっては元も子もない。

草食系男子とホモソーシャルを超えて――ナンパとセックスをめぐる三人の対話

 

この文章は、webマガジン「高電寺」の創刊号「特集:フリーセックス」に寄稿したものです。

そのため、最終的にはフリーセックスについて考えています。

 

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登場人物

イド:精神分析が好き。無意識の衝動を大事にしている。

超自我ジェンダー論が好き。世の中の男性中心主義を憂いている。

わたし:イドさんと超自我さんが折衷できる点を探る。フリーセックスについて現実主義的に考えている。

 

AVを教材にセックスする時代の帰結

わたし インターネットで手軽にAV(アダルトビデオ)を目にする現代の私たちは、AVを観ることでセックスを学びます。そのままAVというフィクションが現実の――AVの多くは男性向けに作られているため、多くの場合男性の――セックスを規定することにもなります。そのセックスの実態はいかがなものでしょうか。

超自我 よく言われることですが、AVにおけるセックスは、性暴力が伴っていたり、男に都合が良いように女性が快楽を覚えていたり、ガシガシと手マンをしていたり、といった感じで、現実の性関係におけるセックスと深刻なズレをきたしかねないものが多いんですね。

イド たしかに、AVが性癖の型を決めちゃうみたいなところありますよね。私たちはオナニーのオカズを渉猟する中で、好みの女優やシチュエーション、性的嗜好フェティシズムを掘り下げ、開発していきます。それと同時に、その欲望のあり方はなんらかの形に収束し、画定され、閉じてもいく場合も多いでしょうね。

 たとえば私はマゾヒストです。女性優位のシチュエーションのオカズでないと抜く気が起きません。高校時代に催眠オナニー(「催眠音声」によって自身を催眠にかけながらするオナニー)を実践していたことによって、たまたま乳首が開発されたこともあり、基本的に自身の乳首を触りながら射精することにしています。このようなルーティーンは、長年の絶えざる反復によって培われてきたと言えるでしょう。

超自我 そういうオナニー等によって閉じていった理想のイメージがそのままセックスへと投影されることも多いわけです。その帰結は、「他人の身体を使ってオナニーをする」という事態です。これは、2人でセックスしている場合の双方に起こっていることもあるでしょう。

 そこで起こっているのはおそらく、「相手をモノのように扱う」ということです。オナニーにのみ習熟してきた人は、相手が意志を持った人間である、ということに堪えられず、罪悪感をおぼえたり、逆におぞましさを感じたりすることになるわけです。だからそこから逃げて相手をモノ扱いしてしまう。

 

幻想は本能を超える

わたし そんな「2人オナニー」とも呼べる事態において、それでもセックスがある程度成り立っているのは、セックスの「ゴール」が明確に定まっているからでしょうね。そのゴールとは陰茎の膣への挿入、そしてオーガズム(“イく”こと)です。挿入する前のやり取りを「前戯」と呼ぶように、それは「本番」と対置されています。この社会では多くの場合、男性の射精によって幕を閉じることになっています。

 このように――異性愛の男女がするものである、という前提も含め――セックスのイメージが固定されていることで、多くのセックスが齟齬なく成り立っています。たとえその内実は「2人オナニー」であったとしても。これは、祝福すべきことでしょうか。

イド なるほどたしかに、生殖を目的としているのであれば、そうなのかもしれません。

 しかし、「唯幻論」で知られる岸田秀も言うように、人間は本能の壊れた動物です。生殖行為をせずに一生を終えることも珍しいことではありませんし、自殺だってする生き物です。

 岸田の考えの元となったフロイトは、生殖へと至る、性器中心主義的な性欲の発達モデルを描いたために、フェミニズムの立場からは批判されてきました。しかし、むしろフロイトは「多形倒錯」という言葉で、幼児の性欲のあり方が未分化であり、どうとでも発達しうることを示唆した点にそのラディカルさがあるのです。

 たしかに、文化・社会的な学習の中で、人の欲望は①現実性愛中心主義、②異性愛中心主義、③二者関係中心主義、④性行為中心主義、⑤挿入中心主義、⑥オーガズム中心主義へと導かれる傾向があります。それぞれにおいて打ち捨てられているのは、①フィクションの性愛、②異性愛以外の性愛、③三者以上の性愛関係、④性行為以外の性愛、⑤⑥挿入・オーガズム以外の性行為です。

 とはいえ、もはや人間が生殖と性的欲望とを区別して、別々に享受しているということは世界の常識でしょう。

超自我 その背景には、避妊具の発明がありますね。生殖を目的としたセックスが、そうでないセックスよりもヒエラルキー的に上にある、ということはもはやないでしょう。

イド そのとおりです。となれば、先に述べた6つの「中心主義」は、今後の人類の歴史の中で解体されていく可能性もあるでしょう。

 このように考えると、そもそも私たちの「欲望」一般は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から、分化してきたものだと見ることもできるでしょう。もともと生殖=性欲として一つの結晶体だったものが、自身の出自を忘れて様々な欲望へと変化していったのではないでしょうか。フロイトはあらゆるものに性的な意味を見出そうとすることから「汎性欲説」であると批判されてきましたが、このような分化の過程を想定してみると、実はすべてが性から始まっている、と考えるのもゆえなきことではありません。

 人間の欲望がこのように分化していったのは、「幻想(ファンタジー)」の作用です。もはや人間には身体的・本能的基盤はなく、すべて幻である、という極論が生まれるのも理解できないことではありません。

 

分化する性欲

イド 現代が生殖中心の性愛を解体する過程にあるとすれば、その惰性として、「本当は生殖にまで至るつもりだったけど、途中で止まった性欲」を考えることができます。これもまたフロイトの卓見です。

 フロイトは、幼児の乳飲みやトイレトレーニング、性器いじりといった現象から、口唇期、肛門期、男根期といった発達段階をモデル化しました。幼児はこれらの期間に対して固着する(強いこだわりを持つような出来事がある)ことによって、自身の性的嗜好の基盤を作っていく、というのがフロイトの考え方です。大人になって、唇や肛門が性感帯になりやすい理由の一つはここにあります。

 フロイトはさらに、性格までもこの「固着」によって形成されると考えました。それはともかくとして、「生殖にまでは至らなかった」性欲がある、という発想は更なる考察を生みます。つまり、フェティシズムの問題です。

 フェティシズムはしばしば物質へと向かいます。人間を部分へと切り分け、はてはパンツや靴のような身体部位ではないものにまで興奮するようになります。ここには先ほど超自我さんが述べていた「相手をモノのように扱う」という機制が含まれていますね。

 とはいえ、生殖に至る性行為=人間扱い/生殖に至らない性行為=モノ扱いというわけではありません。生殖へと至る性行為にだってフェティシズムは含まれうるでしょうし、そもそも「モノ扱い」と対比される「人間扱い」とは何を意味しているのだろうか、という疑問が湧くでしょう。

超自我 その疑問については後に検討することにしましょう。確認しておきたいのは、現代の人間は決して生殖中心のセックスを営んでいるわけではないし、すでに挿入・オーガズムを中心としたセックスも相対化されつつある、ということです。そして、更に推し進めるならば、先にイドさんが述べた6つの「中心主義」にはすべて解体の可能性がありますね。

わたし 今回は④の性行為中心主義を解体する可能性について取り上げましょう。

 具体的な題材として、「ナンパ」という行為を扱います。日本の一部界隈で流行した「恋愛工学」と呼ばれるナンパ術と、それに対する批判的見解を取り上げて、最終的には「友だち主義」とも呼べる方向性を提示するという流れになります。

 

 小説『ぼくは愛を証明しようと思う。』

わたし 「ナンパ」という行為においては、習熟するための「マニュアル本」が出回っています。マニュアルではなく、小説の形式で多くの読者を生んだ作品が『ぼくは愛を証明しようと思う。』(2015)です。

 この小説は著者である藤沢数希(物理学のPh.Dで投資家とされている)がブログ「金融日記」やメールマガジンで連載していた「恋愛工学」が元となっています。そのため、この本は小説の形式で書かれているものの、実際には「ナンパマニュアル」として機能していると考えられます。

 社会学者の井上俊(2008)によれば、私たちの社会生活の経験はしばしば「物語」的に構成されているといいます。それは「人生は物語である」「人間関係はドラマである」といったことを単なるメタファーとして捉えるのではなくて、「物語」や「ドラマ」を実際に社会生活に織り込まれたものとして捉える視点です。つまり、文学における「物語」は、私たちの社会的経験や行為の様式を形成する側面がある、ということです。

 つまり、このマニュアルが「小説」という形式で書かれているのは、読者に新たな行為様式を根づかせる効果を狙ってのことだと言えるでしょう。

 それでは、ナンパマニュアルが読者に対してどのように機能することになるのかを検討するために、まずはこの小説のあらすじを紹介しましょう。

 

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プロローグ:恋愛工学に熟達した時点での渡辺と永沢(後述)のやりとりが描かれている。「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」「ああ、無料のな」という酷いセリフが印象的。

 

第一章:特許事務所に勤める主人公、渡辺正樹は二七歳の弁理士で、結婚まで考えていた恋人の麻衣子に手ひどく振られる。失意の中、友人と六本木ヒルズにあるバーで飲んでいると、突然現れた男がモデルのような美女三人と話し始め、15分もしないうちに一番の美女とキスし連絡先を交換する。その男は仕事のクライアントである永沢だった。渡辺はプライベートで永沢に接触し、モテるためのテクニックを伝授してもらおうとする。渡辺の今までの行動を永沢は恋愛工学独特の用語(非モテコミット※1、フレンドシップ戦略友だちフォルダ※2)で解説していく(いずれも本文中では太字ゴシック体)。そして、恋愛も勉強や仕事と同じで効率良くやるべきもので、「正しい方法論」があるのだと諭す。

 

※1:「非モテコミットというのは、お前みたいな欲求不満の男が、ちょっとやさしくしてくれた女を簡単に好きになり、もうこの女しかいないと思いつめて、その女のことばかり考え、その女に好かれようと必死にアプローチすることだ」(文庫版 58ページ)

 

※2:「フレンドシップ戦略というのはなんですか?」「お前みたいなモテない男が、非モテコミットした女にアプローチするときにやる、唯一の戦略だよ。まずはセックスしたいなんてことはおくびにも出さずに、親切にしたりして友だちになろうとする。それで友だちとしての親密度をどんどん深めていって、最後に告白したりして彼女になってもらい、セックスしようとする戦略のことだ」「確かに、そうやってきました。でも、それがふつうだと思うんですけど、ダメなんですか?」「まったく、ダメだ。なぜなら女は男と出会うとそいつが将来セックスしたり、恋人にするかもしれない男か、ただの友だちにする男かをすぐに仕分けてしまう。友だちフォルダだ。いったんこの友だちフォルダに入れられると、そこからまた男フォルダに移動するのは至難の業だ」(59ページ)

 

第二章:トライアスロン」と称された「週末の街コン→ストナン(ストリートナンパ)→クラナン(クラブナンパ)のサーキットで、1日50人以上の女にアタックする」という修行を、渡辺は永沢に助けられながら遂行していく。

 

第三章:渡辺はナンパによって連絡先を交換した女性たちとデートを繰り返した末、一人を家に誘ってセックスする。

 

第四章:渡辺はナンパによって知り合った一人の女性と交際するものの、一ヶ月も経たないうちに振られ、自らの「非モテコミット」を恥じる。なおも「恋愛工学」に則りナンパを続ける渡辺は複数人とセックスを重ねていく。しかし、「スランプ」に陥り一ヶ月半の間新しく女性と関係を持てなかったことで永沢に相談する。永沢は「お前、何を目的に、街にナンパしに行くんだ?」と渡辺に問い、「俺たちは、出会った女を喜ばせるためにナンパしないといけない」と告げる。

 

第五章:適宜「恋愛工学」の用語が紹介されつつ、本文中で「Aクラス」とランク付けされた女性に渡辺はターゲットを絞っていく。取引先の女性に対しても手を出したことが露見し、結果的にセクハラとして訴えられたことで、渡辺は会社を辞める。

 

第六章:失意の中、再就職もうまくいかず女性との関係を失った渡辺だったが、伊豆に旅行に行った際に女性と出会う。

 

エピローグ:交流を再会した永沢に対して、「いまはもう、たくさんの女と関係を持ちたいとは思わないんです。ひとりの女を愛することを学びたい」と告げる。しかし、最後のシーンで再度渡辺がナンパを始めていることが示唆されている。

 

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わたし あらすじは以上です。ここから、「非モテコミット」をしていたダメな自分が、ナンパを通じて「男」になっていくという過程は容易に読み取れるでしょう。

 「恋愛工学」に限らず、ナンパのマニュアル本にはしばしば「今までのダメな自分を変える」という「自己啓発」のノリがあります。しかし、「自分を変え」た先にどこに向かうのでしょうか。

 この小説のオチでは、ナンパを辞めて一人の人間を愛そうとする意志を主人公が語っています。しかし、再度ナンパを始めてしまうという「ナンパ依存症」のような側面が見られます。なので、ナンパにハマることの危険性を指摘しているようにも読めなくはないのですが……。

 

「恋愛工学」と女性蔑視

超自我 この小説を批判した論文が哲学者の森岡正博(2017)によって書かれています。森岡は集団性的暴行事件を起こした千葉大学の学生が「恋愛工学」に“私淑”していたということが書かれた『週間文春』の記事に言及するところから始め、この小説を分析しています。

 森岡はこの小説に対して、「セックスを最終目標とし、女性を「股を開く」メスとして捉える「女性蔑視」の思想」があると述べています。また、「女性に喜びを与える、幸せにするとの言辞も書かれているが、それは「恋愛工学」の「女性蔑視」を糊塗するための言い訳」であるとも述べています。森岡の読みに従うなら、第六章とエピローグの内容は、社会から糾弾された際の言い訳として取ってつけた内容だということになるでしょう。

 森岡は元のメルマガである「週刊金融日記」の言説やそれに対する読者の反応まで分析しており、説得的な議論を展開していると言えるでしょう。

 森岡がそうまで「恋愛工学」にこだわり、批判をする理由は「私もまた、恋愛に奥手で女性にどう迫っていけばいいか分からない若い男性たちに恋愛と性愛のアドバイスをしたい気持ちがあるし、またいろんな女性たちとセックスの冒険を重ねていきたいという彼らの気持ちが理解できるから」だといいます。しかし、「恋愛工学」によって女性蔑視に染まってしまえば、女性の尊厳を毀損してしまい、好きな人との関係を結局は壊してしまう、というのが森岡の主張です。

わたし なるほど。森岡の立場は女性への性暴力やハラスメントを防止し、性別に関わりなく人々が対等な関係を作っていくべきであるという観点からすれば一理あるでしょうね。しかし、地に足がついていないというか、現代日本社会における男性性の現実に立脚できていないところがあるようにも思います。

 

「草食系男子」という夢想

わたし 森岡は哲学者でありながら、『草食系男子の恋愛学』(2008)という男性向けの指南本と、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(2009)という「草食系男子」の魅力を紹介した女性向けの本を書いています。「草食系男子」という言葉を広めるのに大きな役割を果たした人物ななんですね。

 森岡は草食系男子を 「心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」(森岡 2009: 7)と定義しています。そして、「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護するという意味での『男らしさ』を窮屈に感じ、その呪縛から自分で降りようとしている男性たち」(森岡 2011: 26)でもあるといいます。森岡はインタビューによってその存在を確認したうえで、殺人検挙数の低下から「草食系男子の増加」の傍証を試みています。しかし、はたして、「草食系男子」がスタンダードになる兆しはあるのでしょうか。

 実際のところ、高橋征仁(2013)によると、「日本性教育協会」の青少年への調査から「草食化」の4つのトレンドである①性的欲望の縮小、②性行動の不活発化、③性別分業意識の低下、④性別隔離の解消はおおむね支持できるものの、この4つは男性だけでなく女性にも起こっている現象なのです。

 そして何より、その4つのトレンドに全体としての一貫性があるわけではないのが問題です。具体的には、④の性別隔離の解消は「異性の友人がいる」という回答が増加したという点で見られるものの、①~③とは逆向きの関連があるのです。つまり、「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンは比較的少ないのです。

 高橋は、この4つのトレンドが「草食系男子」としてひとかたまりのものとして扱われてしまう理由の解釈を次のように述べています。「性経験が豊富なために『がつがつしない』という因果的推論を行うことで、性行動の分極化という全体像や消極化の原因を見誤っている」、「かつての『肉食系』の男性像――異性との接触機会があれば、それを恋愛やセックスのチャンスととらえて積極的にアタックする――を前提にしている。そして接触機会が増えたにもかかわらず消極化する男子という理論的構成をとっている」(高橋 2013: 55)。しかし、実際には、男性は異性との接触機会がある者とない者とで単に二極化しているだけなんですね。

 にもかかわらず、森岡(2009: 61-143)のインタビューに登場する草食系男子は「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンのものです。つまり、先ほどの高橋のデータにおいては少ない類型のものが取り上げられているわけです。

 森岡の言う「草食系男子」はある種の「理想」であって、現実のトレンドを反映しているとは言い難いんですね。

超自我 ただ、森岡のインタビューは4人とも三十歳前後のものですので、大学生以下である高橋のデータとは単純に比較できない側面はあると思いますけどね。

「男らしさ」から始めよ?

わたし 敷衍して考えるならば、日本社会には未だに「男らしさ」のヒエラルキーが厳然として存在していると言えるのではないでしょうか。つまり、「性的関心の強さ」と「異性との接触機会」というワンセットの基準において、「男であるもの」と「男でないもの」が二極化、すなわち序列化しているということです。

超自我 「男らしさ」一般について考えるために参考になるのは「男性学」という分野の蓄積です。日本の男性学の第一人者と言える伊藤公雄(1996)は、優越志向、権力志向、所有志向で定義される「男らしさ」の「鎧(よろい)」を脱いで、「自分らしさ」を志向することを勧める、いわゆる「脱鎧論」を提唱しました。

わたし たしかに、脱鎧論は男性性を相対化するにあたって一定の役割を果たしたと言えるでしょうね。しかし、これもまた草食系男子同様のある種の「理想」なのではないでしょうか。

 宮台真司ほか(2009)の『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』では伊藤の脱鎧論に対する批判的な検討が行われています。そこでは、これまでの男性性研究の対象が職場や家庭の性別役割分業といった限定された空間に偏っていたことが指摘されています。それゆえ、「男性性にはそもそも暴力性や抑圧性が内在するものである」とひとくくりに論じられることが多かったんじゃないかという疑問が呈されています。

 同著の結論部分では、ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)から定義される「ホモソーシャリティ」が旧来的な「男らしさ」を再強化してしまう(暴力に繋がってしまう)可能性を指摘してはいます。しかし、ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することの難しさから現実的な「とりあえずの連帯」としてホモソーシャリティから出発するべきだということが述べられています。

 すなわち、「自分らしさ」に「空回り」を続けるよりも、「男らしさ」をある程度基盤にして「群れ」つつ「男らしさ」を内部からずらすような「処方箋」こそが(関係性の構築において)現実的だという主張です。

 「男らしさ」を内部からずらす、というのはいまひとつイメージしにくい言い方だと思います。そこで次は、『「男らしさ」の快楽』の編者の一人でもある宮台真司のナンパ論から、その内実を探っていきましょう。これは、先に挙げた「恋愛工学」が旧来的な「男らしさ」を温存しようとすることへの批判にもなっています。

 

宮台真司のナンパ論

イド それについては私が説明しましょう。宮台がナンパを主題として取り扱ったおそらく最新の本である『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(2013)に基づいて、宮台のナンパ論を整理します。

 一言で言えば、宮台は「スゴイ人」が持っている〈感染力〉によって、身体の内から湧き上がってくる〈内発性〉が駆動することを重視しています。ただし、それは個人の意志力や、損得勘定に基づいた「自発性」ではありません。「スゴイ人」は利他的行動を取るのにいちいち理由を考えません。「我々」や「共同体」と呼べるような〈ホームベース〉がしっかり構築されているので、理由をスキップできるのです。逆に〈ホームベース〉がなければ、利他的行動を取る際に、いちいち「見返り」を計算することになります。これは「セコイ人」がやることです。

 そして、〈内発性〉に基づいて行動することで〈ホームベース〉は構築されます。〈内発性〉に基づいた行動と〈ホームベース〉とは相互規定的であるということですね。

 「スゴイ人」は人を巻き込むカリスマ的な力を持っています。〈今ここ〉を生きている人間を〈ここではないどこか〉へと連れていき、ある種のトランス=〈変性意識状態〉(めまいや酩酊)を引き起こします。そうして、その人においてもまた、〈内発性〉が駆動し始めるわけです。これは言わば〈感染〉の過程ですね。

 現代は「我々」「共同体」のような生活世界が、システムによって植民地化された時代です。それゆえ〈感染〉が困難になっています。しかし、ナンパはそのような〈感染〉を引き起こし、自身と他者の〈内発性〉を駆動するものでなければなりません。

 しかし、宮台によれば世のナンパマニュアルはそのようにはなっていません。決まり文句(ルーティーン)を設定し、他者からの承認を目指すものになっているのです。そこで、宮台はマニュアルの問題を「硬さ」と「細かさ」という言葉でまとめています。

 一方で、マニュアルに書かれているような文字通りのテキストにこだわることは、「変わらないコンテクスト」「他者が発しているオーラ」への感度をなくしてしまいます。一つ一つの言葉にいちいち「硬く」反応するのではなく、「言葉なき言葉(オーラ)」に反応できる〈敏感さ〉を持とうということです。

 他方、マニュアルに書かれていることで「これがいいのか、あれがいいのか」といちいち比較することは、相手の反応に一喜一憂してしまう「細かさ」を生んでしまいます。むしろ、他者からの承認の可能性にいちいち頓着しないという意味での〈愚鈍さ〉を持つべきなのです。

 結果として、ナンパマニュアルは〈変性意識状態〉を生まず、ナンパにおける〈踏み出し〉という前半プロセスは可能になったとしても、そのまま袋小路に入ってしまい、その後の〈深入り〉という後半プロセスは実現しません。その状態で行なわれるナンパでは、他人がモノ扱いされることになります。宮台はこれを人格化ならぬ「物格化」と呼んでいます。

 大まかには、以上が宮台のナンパ論です。

超自我 最後におっしゃった「物格化」は、「恋愛工学」においても見出せるナンパマニュアルの問題点ですね。

イド はい。それに対して、この宮台のナンパ論には「男らしさ」をずらしていく実践も含まれています。それは、「今までの自己を破壊する」という、精神分析的な視点によって達成されます。ここからは私なりの説明をつけ加えましょう。

 

自己を破壊せよ

イド そもそも、他者を自分のファンタジーの中に押し込めて「物格化」し、自意識に留まっているうちは、殻を破れません。自身の「男らしさ」をずらしていく上では、相手に対して〈深入り〉していくことが重要です。

 というのは、ナンパを通じて〈深入り〉した人間関係になっているときには、お互いが〈変性意識状態〉に入ることができるからです。その際、自分と相手は、自己の核となる部分同士でコミュニケートすることになります。すると、自己の基底にあった「男らしさ」もどんどん変形していくことになります。

超自我 なるほど。たしかに実際、男性学者の多賀太が、青年期の男性のアイデンティティ形成についてのインタビューで、恋人との交際を通じて「伝統的」な男女観が相対化された事例を提示していますね(多賀 2006: 56-62)。

 その理由として多賀は、元々の価値観が相対化されるためには、対抗的価値観を強く「内面化」する必要があると述べています。そして、価値の内面化において情動的なコミュニケーションが重要である、というパーソンズの説を引いています(多賀 2006: 70-71)。

イド そういうことはあるでしょうね。ここからはさらに精神分析的な説明をします。まず、フロイトは、人間が興奮したり緊張したりして高まったエネルギーを解放し、低めることで快楽を得ることを「涅槃原則」と呼びました。そこから、エネルギーがゼロになった状態=死を人間は求めているのではないかという仮説を見出し、フロイトは「死の欲動」と呼んでいます。

 「死の欲動」は無意識から湧き出てくるわけですが、逆に、意識や自我と呼ばれるものは、「無意識」のカオスな力に対して防衛、すなわち「フタ」をしてしまいます。しかし、このような防衛的態度では現在の自己はひたすら固定され、「男らしさ」への神経症的なこだわりを解消することができません。だからこそ、自己を破壊する「死の欲動」の力を使うわけです。

 ところで冒頭で、私たちの欲望は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から分化してきたものではないか、ということを述べました。しかし、その元となっている生殖欲=性欲は種のレベルで見れば自己保存的ですが、個人のレベルで見れば自己破壊的な側面があります。というのはまず、女性にとっては妊娠や出産が大きな健康リスクです。何より、生殖を導くオーガズム(“イく”こと)は、「今ここ」の自己から離れる、エクスタシーの感覚を伴うというところが、自己破壊的なんですね。

 このように、生殖を導くオーガズムが最初から自己破壊的な側面を持っていることは、フロイトの「死の欲動」説の傍証となっているでしょう。そして、そこから私たちの持っている欲望が分化してきたものだとするならば、その欲望にも自己破壊的な側面がある、と考えるのは自然なことです。

 しかし、その欲望が他者の「物格化」へと閉じてしまうならば、せっかくの自己破壊的側面も失われてしまいます。

わたし あ、つまり、その逆の事態である〈人格化〉は自己を破壊するということですか?

イド そのとおりです。えっと、説明するとですね、「人に対して一人の人間として接する」とき、私たちは自我の境界を揺らがせ、他者の中に深く入り込むことなるわけです。そこでは、剥き出しの他者の欲望も自己に流れ込んできて、自己は破壊を余儀なくされる、ということです。

 こう考えると、冒頭で述べた人間扱い/モノ扱いの区別は、自己破壊/自己防衛という区別に対応すると言えます。

 結局のところ、ナンパというのは自己を変えるためにやっているわけですから、自己が破壊されることを恐れることはないんです。むしろ、凝り固まった「男らしさ」をずらしていく契機になるという点でも、祝福すべきことなのです。

超自我 ふむふむ。まだ咀嚼しきれていないですが、なんとなく分かったような気がします。しかし、その話もやはり、精神分析的な説明を理想化してしまっているんじゃないですかね。本当に「男らしさ」はずらされているのか、疑問があります。

 

師匠と弟子――排除された女性

超自我 『「絶望の時代」の希望の恋愛学』で、宮台は理由なき利他性:〈内発性〉を育むために「妥当に方向づけられた性愛実践」を提唱しています。しかし、ここで「妥当に方向づける」のは宮台自身や経験を積んだナンパ師たちですよね。これってすごくホモソーシャル的な状況なんじゃないでしょうか。

わたし 実際、宮台は『「男らしさ」の快楽』の「脱鎧論」批判としてホモソーシャリティを肯定的に評価していますからね。ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することは難しいのだと。

イド たしかに、宮台自身、ある社会学者が実践していたナンパを見て、その「グルーヴ」の中でナンパを始めたのだと電子書籍版のあとがきで書いています。これは、「スゴイ人」が弟子にあたる人物を〈感染〉させていく過程なんでしょうね。

 弟子にあたる人物は「スゴイ人」を理想化していて、認識のうえでは〈変性意識状態〉が生じているんでしょう。これは精神分析で言うところの「陽性転移」ですし、先ほど述べた「自己の破壊」にも繋がる、ということなんじゃないですかね。

超自我 しかし、そこには女性がいない。「師匠と弟子」という形で脈々と受け継がれてきた継承線は、圧倒的に男性に偏っていますよね。

 それがまさにホモソーシャルなんですよ。ナンパのような実践では、女性が性的な対象として外部化され、そのことによって、「女性でないもの」である男性たちが自らの「男らしさ」を確立していくことになります。

 のみならず、「恋愛工学」への森岡の批判でも述べられていたように、ナンパは現実問題として女性に対する性暴力の温床になってもいます。

わたし なるほど。全てのナンパが悪いとまでは私は思いませんが、そこには構造的な問題がありますね。

「依存症」におけるメタ的な自己保存

超自我 はい。加えて、もう一つ問題があります。性愛関係が〈変性意識状態〉を生み、非日常の〈ここではないどこか〉へと旅立つ手助けになりうる、ということが宮台のナンパ論だったわけですが、逆向きの可能性もありえます。それは「依存症」です。

 アルコール依存症をはじめとして、そもそも依存症の対象は強い刺激によって〈変性意識状態〉を誘発することが多いですよね。これはまさに自己を破壊するわけですが、その自己の破壊が「クセ」になってしまっては元も子もないんじゃないでしょうか。つまり、自己を破壊する、ということがルーティーンになってしまったら、メタ的な意味では「自己を破壊することを習慣としている自己」が保存されることになるんじゃないかと。

 依存症の対象は、ある意味では、自己を苦しみから解き放ってくれるものです。人は依存することによって「自己治療」をおこなっていると言います。しかしそれゆえに依存は強まり、量が増えるなどして、身体にも耐性がついてきます。非日常だった依存の対象は日常化し、より強い刺激を求めることでしか非日常は得られなくなるわけです。言ってしまえば、バカになってしまうんですね。

イド 「男らしさ」をずらす、という課題においては、〈変性意識状態〉を生んでくれる依存の対象はある意味重要だと思うんですけどねぇ。

超自我 しかし、それが日常化してしまい、「アルコールをどれだけ飲めるか」や「何人の女とヤったか」を競うゲームになってしまったら、それは旧来的な男らしさに回収されてしまいますよね。それは結果的に人間関係も破壊して、男性の場合、女性への暴力にも向かう傾向が強いわけです。

よいナンパとわるいナンパ

わたし なるほど。ナンパには女性を排除しているという問題や、依存症的な自己保存を帰結してしまいかねないという問題があることは分かりました。私たちは、そのような問題を避けつつ、自己を破壊することで「男らしさ」をずらしていく、という価値をナンパから救い出さなければならないんじゃないでしょうか。

 つまり、もっと「よいナンパ」がありうるはずだと。

 そもそもナンパとは何かを定義するのは難しいですよね。見知らぬ人に話しかける、という意味であれば、僕らは多かれ少なかれナンパを普段やっていることになります。

超自我 ただ、その中でも、対象を〈物格化〉し、凝り固まった自己を保存してしまうようなナンパは問題ですよね。

イド 宮台のナンパ論から言ってもそうですね。ナンパが目指すべきものは、むしろ対象の〈人格化〉であり、相手の視点に深く入り込むことで、自己が破壊されていくということです。

わたし しかし、相手の視点に深く入り込むということには必ずしも性愛関係が伴うわけじゃないですよね。自他の境界が曖昧になる〈変性意識状態〉の中で、お互いの無意識が発露し、自己が破壊されていく、と。これが起こることが重要なのであって、性愛関係が必要条件だというわけではない。

 むしろ、現実的に考えればまだまだ現代日本社会では、性愛関係においては一対一の関係がスタンダードですよね。フリーセックスのような形でスタンダードが破られると、精神的に傷つく人は多いでしょう。

超自我 昨今はMeTooブームもあり、セクハラや性暴力に対する意識も高まっています。今の世の中で、セックスを至上目的としたナンパを持続していくのは無理だと思いますね。

わたし なるほど。やはり、地に足のついた「よいナンパ」のあり方を提示しなきゃいけないようですね。最後に私なりの意見を述べたいと思います。

恋愛の魔力

わたし 自分の話になりますが、私は「付き合う」という契約をして一対一の恋愛関係をやっていくことに非常に息苦しさを感じるようになりました。

 自分で言うのもなんなのですが、僕には友だちが多い。とりわけ女友だちとは、一対一で「深い話」をしがちです。

 それに対して付き合っている人が嫉妬してしまうのに困っていました。顔も知らない女性に対して、激しい怒りを覚えたりする。逆に、よく知っている女性と私が話していてもあまり怒りはしない、ということすらありました。

 この恋人の怒りは「付き合う」という契約によって正当化されているのだと思います。顔すら知らない女性に対しても彼女は怒ることができてしまう。言うならば、恋愛というものが持っている魔力なのだと思います。

 だから私は「付き合う」ということに対しては慎重になりました。実質的には恋愛関係にある人との関係を「付き合ってはいない」と定めることにどれだけ効果があるのかと言われると微妙なんですが……少なくとも私は「付き合う」ことに疲れてしまいました。

 

女友だちと〈セックス〉するために

イド しかし、あなたはどうしようもなく異性愛者で、女性に対して恋愛感情を抱いてしまいますよね。その感情自体を完全に抑えることはできないし、精神分析的に言えば、抑圧されたものは回帰してしまうと思います。

わたし そうですね。だからむしろ、私は女性への恋愛感情は徹底的に自覚したいと思います。

超自我 自覚するおかげで、行動化しないで済むという面はあるでしょうね。行動化しなければ、暴力や関係の破壊に繋がりやすい性行為は、制限することができる。

イド それでも女性に対して強い感情を抱くこと自体は自由です。フロイトに言わせれば、人間のコミュニケーションへの欲求は「目標(性行為)を制止されたもの」です。つまり、性欲が分化し、文化的に意味づけられたものとしてコミュニケーションがある、と考えればいいでしょう。

わたし たしかに、人と深い話をしているとき、「まるで〈セックス〉をしているみたいだった」と感じることがあります。冗談めかして「完全に〈セックス〉していた」と言っている人もいましたね。実際文字通りそのとおりなのではなんじゃないでしょうか。

イド ディープな会話は、自他の境界を揺らがせ、〈変性意識状態〉を誘発します。そして、深いコミュニケートの中で、ゆっくりと自己は破壊され、再構築されていきます。それはいわゆる性行為ではなくとも、〈セックス〉なのではないか、ということですね。

 

ナンパとフリーセックス

 はこれまで様々な場所に飛び込んで友だちを作ってきました。それはナンパと変わらないものだと思います。意気投合して深く話し込んできました。それはセックスと変わらないものだと思います。

 世界には様々な人間がいます。様々な人間と様々に交歓します。そのセックスを一人の相手としかしないなんてもったいない。しかし、社会の性規範は、どうしようもなくフリーセックスを否定し、現に人々は傷つき、その豊かな可能性は毀損されてしまっています。

 傷つくこと自体も、必ずしも悪いことではありません。「草食系男子」は「傷つけることも傷つくことも恐れている」といいますが、傷つきのない人間関係なんて、多くの場合嘘っぱちなんじゃないでしょうか。それはただ、リスクから自分を防衛しているに過ぎず、「傷つき」がなければ、古い自己をずっと大事に保存してしまうでしょう。

 しかし、非対称な権力関係によって、「傷つける男」と「傷つけられる女」が固定されてしまっているという構造はあります。そして、傷つきを受け入れ、乗り越える仕組みもまた、十分には整備されていないでしょう。それこそが問題なのです。

 性行為中心主義的ナンパから友だち主義的ナンパへ。フリーセックスから〈フリーセックス〉へ。これが現代の性愛に対してが打ち出せる方向性です。

 

【文献】

藤沢数希、2015、『ぼくは愛を証明しようと思う。』幻冬舎

井上俊、2008、「社会学と文学」『社会学評論』59(1): 2-14。(再録:2019、『文化社会学界隈』世界思想社、2-23。)

伊藤公雄、1996、『男性学入門』作品社。

宮台真司編、2013、『「絶望の時代」の希望の恋愛学』KADOKAWA/中経出版

宮台真司・辻泉・岡井崇之編、2009、『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』勁草書房

森岡正博、2008、『草食系男子の恋愛学メディアファクトリー

――――、2009、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』マガジンハウス。

――――、2011、「『草食系男子』の現象学的考察」『The Review of Life Studies』Life Studies Press、1: 13-28。

――――、2017、「『恋愛工学』はなぜ危険なのか――女性蔑視と愛の砂漠」The Review of Life Studies Vol.8 (February 2017): 1-14。

多賀太、2006、『男らしさの社会学――揺らぐ男のライフコース』世界思想社

高橋征仁、2013、「欲望の時代からリスクの時代へ――性の自己決定をめぐるパラドクス」日本性教育協会編『「若者の性」白書――第7回 青少年の性行動全国調査報告』小学館: 43-61。

リゼロにおける「ゲーム的リアリズム」の乗り越え――Re: ゼロ年代から始める異世界生活

 『Re: ゼロから始める異世界生活』というアニメを毎週楽しく観ている。僕は原作は読んでいないのだが、33話まで放映されたアニメの範囲で、ある種の批評性を感じているのでそれについて試論する。「リゼロ」を読んでる/観てる人向けの記事です。

 

 

1.「ループもの」から「異世界もの」への連続性と断絶

 『Re: ゼロから始まる異世界生活』は小説投稿サイト「小説家になろう」の人気ジャンルである「異世界もの」である。それと同時に、主人公が死ぬと一定の「セーブポイント」に戻り、やり直す「死に戻り」というシステムがある。

 この「死に戻り」のシステムはオタク文化において「ループもの」として広く受け入れられてきた。批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』や、その続編にあたる『ゲーム的リアリズムの誕生』でこの「ループもの」について論じている。

 

 東の議論には様々な論点があるが、ここでは「キャラクターとプレイヤーの二層化」の話に絞ろう。

 ゲーム、とりわけ美少女ゲームにおいては、プレイヤーは選択肢を選ぶことによってゲームを進めていく。選択肢を間違えればゲームはバッドエンドになってしまうわけだが、プレイヤーはセーブしたところから(あるいは最初から)ゲームをやり直すことができる。そして、間違った選択肢Aを選ぶとキャラクターがどうなるのかを知っている立場から、プレイヤーは間違った選択肢Aを避けるわけである。

 つまり、未来の立場のプレイヤーは、キャラクターとしての過去をやり直すことができる。これが、「キャラクターとプレイヤーの二層化」である。この「ゲーム的」な構造はゲームに限らず様々なフィクションにおいて用いられ、「ループもの」というジャンルが流行したと考えられる。東は『動物化するポストモダン』のなかで、その二層構造を「解離」や「多重人格」と結びつけている。

 というのも、多くの美少女ゲームはマルチストーリー・マルチエンディングの形式を採用しており、個々のストーリーではヒロインとの「純愛」や「運命」が強調される一方で、プレイヤー視点に戻れば選択肢の分岐によって複数の恋愛を体験することができる、ご都合主義が存在するからである。このご都合主義を矛盾なくやり過ごすには、あるヒロインとの「運命」的恋愛のことを忘却したり、人格を分裂させたりする必要があるというのが東の見立てである。

 これはいくぶん比喩的ではあるが、実際に美少女ゲームは「記憶喪失」の構造に支えられている。美少女ゲームの主人公は「幼なじみ」と子ども時代を過ごしていたはずだが、そのときの記憶があまりないという設定が典型的である。そして、どのヒロインを攻略するかが選択されていくことによって、事後的に子ども時代の記憶が確定する(実はこの子とは幼い頃に会っていた! 運命だ!)という構造を持っている*1

 

 この「忘却」の構造が存在する点で、「ループもの」は「異世界もの」に繋がっている。「異世界もの」の一つの魅力は、その魅惑的な世界観によって、現実の世界を忘却させてくれるからだ。悪く言ってしまえば「現実逃避」の構造を持っているわけである。

 しかし、「ループもの」からは一方で、現実に向き合う「やり直し=思い出し」構造を抽出することもできる。過去の「間違った選択肢」をトラウマとして反復しながらも、それを乗り越えていく、そんな構造である。この構造が「異世界もの」では薄まってしまった、その点で「ループもの」と断絶がある、とひとまずは言えるだろう*2

 

*1

 なお、この記憶喪失構造はハーレム的な欲望を満たす。プレイヤー視点に立てば選択前に戻ることによって複数の運命を経験できる=複数のヒロインを攻略できるという点を東は指摘しているわけだが、そもそも子ども時代の記憶が曖昧であれば、「誰が運命の相手なのか」の答えを保留したままで複数のヒロインが登場させることができる。いわば、「運命の相手」という変数xにどの女の子でも代入できる状態を楽しむことができる。この構造は、美少女ゲーム以外でも例えば赤松健の『ラブひな』で指摘できる。「トーダイに一緒に行くこと」を約束した女の子が誰なのかをめぐって二人のヒロインが候補に挙がってくる、という話がソレである。

 この「なんでも選べる」という記憶喪失構造の全能性ゆえに、宇野常寛セカイ系美少女ゲームを「レイプ・ファンタジー」と名付けて批判している。

 

*2

 むしろ、忘却構造を強化するような、あるいは別世界に別の「現実」があると考えてしまうような、そんな構造が昨今流行りのジャンルからは読み取れる。元の生活からは切り離され、閉鎖された世界での勝利を目指す「デスゲームもの」。世界の破滅を"生々しく"描く「ポスト・アポカリプスもの」。あるいは、夾雑物が紛れ込んでこない純粋な世界を描いた「日常系」や「アイドルもの」もそうかもしれない。

 とはいえ、東の議論に沿って考えれば、リアルとフィクションとの間に境界線がはっきりと引かれ、フィクションにおける「現実逃避」の機能が強まる、というベクトルだけでもあるまい。むしろ、リアルがフィクションのレンズを通して再構成され、フィクションの傾向がリアルの文化に影響を受けて変化していく、そういうこともあるはずである。僕にそれらを細かく論じる知識はないので、ここではそのあたりのジャンルについては述べないでおく。

 

2.「リゼロ」における乗り越え

 前置きはこのくらいにして、それでは「リゼロ」がどのようにしてこの「忘却=現実逃避」構造を乗り越えていったのかをアニメを観て気づいた範囲で記そう。

 

痛みを忘れないループ

 真っ先に指摘できることとして、リゼロはループの仕方が特殊である。よくあるループものでは、ゲームをプレイしている人と一緒で試行回数を増やすことによって最適解を見つけていくのが定番である。

 しかし、リゼロにおいては、ちゃんと死の痛みが忘却されずにトラウマになってしまっている。主人公のスバルはそれにより精神に変調を来たしている(おまけに、ループするたびに「魔女の残り香」が強化されていくことで、周囲のキャラクターから信用されるための難易度も上がっていく)。

 

異世界転移なのに元の世界のことを思い出す(29話)

 主人公のスバルは引きこもり生活をしていたらふと異世界に転移したという設定である。この設定は単に読者/視聴者にとって感情移入しやすいからそうなっているのだ、と僕は素朴に考えていた。

 しかし、29話。聖域における試練において、スバルの過去が明かされる。スバルは自分が父と比較され、周囲からの期待に応えることがプレッシャーとなり、引きこもりとなったのである。アニメで描かれた、暑苦しくも優しさがイタい親子関係に対して、僕は共感性羞恥のようなものをおぼえた。「日常系」というジャンルではしばしば親が描かれないが、その真逆で、ここまでイタイタしく親子の関係を描くのには新しさを感じる。

 

 

  この回はゼロ年代の文化を意識している!という僕の推測に関しては後に詳しく。

 余談だが30話でガーフィールが「そもそも、過去なんて乗り越える必要あんのか?」というセリフを発しているのが印象的。この問いに対してどのような答えが出てくるのか気になる。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――ゼロ年代の象徴としてのレム

 リゼロでは、スバルが異世界転移してすぐに出会うエミリアがひとまずメインヒロインに見える。しかし、ピンチのエミリアを助ける過程をスバルと共にするレムもまた、圧倒的なヒロイン力を発揮している。

 18話では、打つ手がなく絶望してしまい、自己否定の言葉を繰り返すスバルに対して、レムはダメな部分も含めて優しく受け入れる。2人の会話劇だけでまるまる1話使うというものすごい回。「母性」という言葉をこれほど想起させるものはないだろうというぐらい。

 しかし、2期の最初にあたる26話で、魔女教大罪司教、『暴食』担当のライによって「名前」を喰われ、レムは忘れ去られてしまう。

 

 僕にはこの「忘却」が、どうも先ほど述べた美少女ゲーム的忘却構造のメタファーであるようにしか見えなかった。レムというヒロインは、美少女ゲームでヒット作が量産され、「セカイ系」が一世を風靡したあの時代、「ゼロ年代」の象徴なのではないかと(レムも「ここから始めましょう、イチから――いいえ、ゼロから!」って言ってるし!)。

 自分のダメさを吐露するスバルをレムが「母性」的に受け入れたのは、表面的にはスバルがレムを助けた英雄だったからなのだが、それ以上に、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」を思い出すのだ。

 これは、「セカイ系」の構造と類似している。「セカイ系」はエヴァンゲリオンから始まったとされているが、その意味でのエヴァンゲリオンの新しさは、アニメ上で「モノローグ」を多用したことである。

 社会から受け入れられない人間はどうしてもモノローグ的に自分の世界に引きこもってしまうことになる。しかし、社会から切り離された人間が一発逆転できるシステム、それが「恋愛」である。セカイ系では、「キミとボク」の関係が、中間にある「社会」をすっ飛ばして「セカイ」へと直結してしまう構造があるのだ(あるいは「キミとボク」こそが「セカイ」になるとも言える)。

 社会から虐げられたオタクくんからすれば、これには感情移入せざるを得ない。2005年頃の「電車男」以前では、オタクはまだまだ社会から虐げられた存在だった。社会から虐げられていたからこそ、恋愛という個別的関係にこそ超越性を見出せたのである。

 このように考えると、ダメなスバルを丸ごと受け止めるレムはまるで、セカイ系に出てくるヒロインである。

 

 しかし、スバルはレムに告げる。「エミリアが好きだ」と。これはどう解釈すべきか?

 一つの見方では、「エミリアが好き」でありながら、自分のダメさをレムに許される、といういいとこ取りのハーレム的構造を維持していると言える。その意味ではやはりゼロ年代美少女ゲーム構造とも言える。

 一方、スバルははっきりエミリアを選んでいる。それはレムを選ばないということであり、美少女ゲーム的構造を乗り越えているようにも見える。このあたりの解釈は、今後の展開次第でもあるだろう。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――「プレイヤー」の立場に立つエキドナ

 最新の33話を観た時点ではまだ早漏かもしれないが、エキドナは三人目のヒロインだと思う。エキドナの優位性は、スバルの「死に戻り」を観察してきたことにある。エキドナはスバルの死に戻りの苦悩を知っている。だからこそスバルはエキドナに対して気持ちを吐露するのである。

 これは東浩紀が提起した「キャラクターとプレイヤーの二層化」において、エキドナが「プレイヤー」の側に立っていることを意味する。これまでスバル以外はスバルの死に戻りを知らなかったため、あくまで「キャラクター」の位置にいたのだ。

 「キャラクターとプレイヤーの二層化」は崩れた。ゆえに「忘却=現実逃避」の構造はない。現時点でのリゼロの可能性は、ここに見出されるように思う。

 ついでに言えば、エミリア、レム、エキドナはそれぞれ異なる機能を持っていることになる。美少女ゲーム的にリゼロを見れば、スバルは結局誰を「選ぶ」のか? そこにも注目したい。

 

3.ゼロ年代の止まった時計が動き出す

 まとめよう。「異世界もの」は一般的には「忘却=現実逃避」の構造があり、それはある意味で、ゼロ年代に流行った「ループもの」や美少女ゲームにおける文法を徹底したものだった。

 しかし、「リゼロ」には傷の痛みを忘却しない設定や、元の世界における親子関係の描写、ループ構造を観察するエキドナの存在などがある。これには「キャラクターとプレイヤーの二層化」を乗り越えようという意志を感じたのである。

 

 この「乗り越え」について、僕は今後、さらに議論を展開させたいので、最後に二つの展開の可能性を述べておく。

 一つは、哲学者の森岡正博が『意識通信』(1993)で提唱し、社会学者の加藤晴明が『メディア文化の社会学』(2001)などで取り上げている「二世界問題」と呼ばれる問題との接続である。「二世界問題」とはすなわち、「現実と虚構のどちらが『リアル』なのか」という問題である。

 ベタな「異世界もの」ではもはや元の世界と異世界との間のリアリティの強度は反転してしまっており、「異世界」の方が「リアル」だと感じられてしまっている、ということになろう。しかし、「リゼロ」においては、元の世界と異世界、(ループする)プレイヤー世界と(ループしない)キャラクター世界、それぞれの二世界が複雑な絡み合いを見せている。「リゼロ」が「二世界問題」に対していかなる答えを出すのか、注目していきたい。

 

 二つ目の展開可能性として、近年のリバイバルブームに象徴される、「思い出し」の可能性である。リバイバルブームやかつての作品の続編の制作について、90年代やゼロ年代のコンテンツがリサイクルされている、高齢化したオタクが介護されている、などと揶揄されることがある。しかし、僕はこのリバイバル=反復は祝福すべきことであるとかつて論じた(「人生の止まった時計が動き出す――「毒親」語りとリバイバルブーム」『メンヘラ批評Vol.1』所収)。

 ざっくり言ってしまえば、バブルが崩壊し、日本社会がデフレ不況と新自由主義に飲まれていく端緒となった、90年代/ゼロ年代というあのトラウマの時代を、大人になった視点から「語り直す」ことで乗り越えられる可能性がある、という話である。

 「リゼロ」の著者の長月達平は現在33歳。リゼロを書き始めたのは25歳からのようだ。彼は多感な子ども時代、思春期を90年代/ゼロ年代で過ごした。そして、同時代のコンテンツに触れてきたことだろう。あの時代の乗り越えは、まったく新しいものによってではなく、あの時代を反復することを経た先に到達されるものだと僕は考えている。

 

 18話でレムは言った。「レムの止まっていた時間をスバルくんが動かしてくれたみたいに、スバルくんが止まっていると思っていた時間を、今、動かすんです」

 レムとはゼロ年代のことであり、スバルとはまさに今の時代のことなのだ。

『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』(知念渉)のレビュー記事

 大学に提出するレポートで、質的調査に基づいた本をレビューするというものがあったので、知念渉の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』をレビューしました。せっかくなのでブログに載せておきます(8000字ぐらいです)。

 

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1.本の要約

 この本は、2000年代後半以後における「ヤンキー」言説の盛り上がりにもかかわらず、「ヤンキー」についての学術的な調査研究が十分に行われていないという背景のもとで書かれた、エスノグラフィーの研究成果である。まずは、本の要約をする。

 日本の「ヤンキー」にまつわる先行研究は次の三つの立場に整理される。

 

①若者文化としてのヤンキー:

 佐藤郁哉の『暴走族のエスノグラフィー』(1984)に代表される。「少年期→青年期→成人期」という安定したライフスタイルにおいて「ヤンキー」という若者時代を位置づけ、分析の焦点となっているのはヤンキーが共有するシンボル(単車、特攻服など)である。また、2000年代以降は「オタク」論と対置されるかたちで「ヤンキー」が論じられているが、当事者に深くコミットして内側からその文化を描くという試みはほとんどなされていない。

 

②生徒文化としてのヤンキー:

 この立場では学校が求める規範や価値との関係においてヤンキーの学校経験が分析されてきた。70-80年代は「学歴社会」「競争社会」論を背景に、「学校のなかで低い地位を与えられた者が、その地位に対する不満を募らせた結果」(43ページ)として人々がヤンキーになるという「地位欲求不満説」が支配的だったという。しかし、90年代になるとそのモデルの説明力が低下したことが明らかになり、また、教育社会学においてジェンダー概念が本格導入されたことから、男性だけを想定したモデルも再考を迫られるようになった。

 

③階層分化としてのヤンキー:

 イギリスの労働者階級の少年たち〈野郎どもlads〉の学校経験を描いたポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(1977=1996)は、90年代前半頃までは②の立場において受容され、イギリスと日本の文化の違いが強調されてきた。しかし、90年代後半頃からは「格差社会」論、「フリーター」「ニート」に象徴される若者の雇用問題、「子どもの貧困」といったものが社会問題化されるなかで、「学校内でのメリトクラティックな競争に乗らない/乗れない生徒」という共通点が見出され、『ハマータウンの野郎ども』は再評価されることとなった。そこで分析の焦点となったのは、ヤンキーの出自(家庭背景・出身階層)と労働であった。

 

 これら三つの立場はそれぞれが相互に批判し合う関係にあり、補完し合っているとも言える。しかし「ヤンキー文化」を三つの立場のいずれかに還元して解釈される傾向があったために、「ヤンキー文化」の同質性を強調し、その内部にある多様性が看過されてきたのではないかと著者は指摘する。

 そこでこの本では、若者文化、生徒文化、階層文化を生み出す場として、それぞれメディア・ストリート空間、学校空間、社会空間という場を想定し、それぞれの場においてはたらく三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査する。なお、この本における「社会空間」という言葉は、先行研究の知見から「階級・階層」と「ジェンダー」の作用が交差した場を意味している。

 

フィールドと方法

 著者は大阪にある社会経済的に厳しい状況に置かれた人々が集住する地域のX高校をフィールドとして選択肢、2009年から2012年までの間、2年半の参与観察をおこなった。X高校では600人程度の生徒数のなかでも、ひとり親家庭率50%以上、生活保護世帯率約30%で、およそ三分の一の生徒が中退する、家庭背景的にも学力的にも厳しい生徒たちが多数入学してくるのだという。また、X高校は同和教育運動の影響を強く受けており、様々な困難を抱えた生徒たちに対して正面から取り組む教育実践に特徴があるという。

 著者は一年生の〈ヤンチャな子ら〉と呼ばれる男子生徒たちに注目し、インタビューをしたり、より深く話を聞いたりすることができた14人を対象に分析を展開している。第3章で詳しく展開されているように、研究者の側が生徒たちを類型化してその特徴を描く「類型論的アプローチ」とは異なり、〈ヤンチャな子ら〉という境界が曖昧な集団を対象としていることによって、彼らのカテゴリー実践に基づいて集団の境界の維持や変動、集団内部の階層性を描き出すことを可能にしている。

 また、三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査していくという先に述べた方針ゆえに、家庭の文化とフォーマルな学校文化との間の関係性が、教師とのやりとりのなかでどのように現れているか(第2章)、〈ヤンチャな子ら〉が著者との相互行為のなかで「貧困家族であること」をどのように記述するのか(第4章)、高校中退/卒業後の仕事への移行経路はどのような要素によって規定されているのか(第5章)といった問いが設定され、それぞれの章でそれぞれの先行研究の文脈に乗せながら分析されていく。

 

調査結果

 調査の結果、調査当初に一様の集団と著者自身捉えていた〈ヤンチャな子ら〉が、一見まとまりをもった一つの集団のように見えるものの、そこには「社会的亀裂」が生じていて、二つの経路を生きる若者が見出されるということが明らかになった。そして、その亀裂は(階層とジェンダーの作用が交差する)社会空間の力学によって生じている。

 また、〈ヤンチャの子ら〉と教師の関係性が必ずしも対立的ではないということ(第2章)、家族の語りの流動性・相対性・多元性に着目することの重要性(第4章)なども明らかになった知見である。

 

考察

 ヤンキーを重層的な三つの力学のなかに位置づけ、〈ヤンチャな子ら〉という現場の言葉を出発点に対象にアプローチした意義について著者は述べる。その意義は、メディア・ストリート空間の力学が特有のスタイルを供給し、彼らを統合しつつも、社会空間の力学、すなわち育ってきた経緯によって集団内部に社会的亀裂を生じさせているということを明らかにしたことである。

 そして、これらの力学が具体的に出会う場として学校を位置づければ、X高校の教師たちの教育実践が〈ヤンチャな子ら〉の家庭の文化とフォーマルな学校文化の葛藤を緩和させていたからこそ、〈ヤンチャな子ら〉が一つの集団としてある程度の期間学校に留まって過ごせていたと言える。

 また、〈インキャラ〉と呼ばれていたような生徒たちは、〈ヤンチャな子ら〉と社会空間上の位置は近いにもかかわらず、メディア・ストリート空間上の位置が異なるがゆえに〈インキャラ〉とカテゴライズをされていたと言える。この説明もまた、重層的アプローチを採用しているがゆえに可能となっている。

 さらに、〈ヤンチャな子ら〉のなかでも劣位の立場に置かれた者が暴力を振るう際に、自らの「男らしさ」を暴力によって証明するという社会的文脈があったことが示されている。ここでもまた、重層的アプローチによって集団内部の二面性を明らかになったおかげで、男性性の原理が具体的な文脈においてどのように現れるのかが精緻に分析されたと言える。

 より広い社会的文脈においては、貧困の世代的な再生産は「貧困層に特有の考え方や生活様式がある」という〈貧困の文化〉概念によって先行研究では説明されることが多かったのに対し、〈ヤンチャな子ら〉の内部にある二つの層の差異の発生には、「地域や学校、家族で安定した社会関係を築けていない」がゆえに厳しい状況に置かれるという社会関係の次元の方が大きく関わっていることが明らかになった。よって、当研究の成果は、社会関係の次元に着目することの重要性の発見であり、著者による実践的・政策的な提案もそこから導きだされている。

 

結論

 社会関係の次元に注目することによって導き出された著者の実践的・政策的提案は社会的な合意がなければ実現しないことから、〈ヤンチャな子ら〉が抱える問題は、私たちの問題でもあると著者は述べる。

 それに対し、「ヤンキー」は、「暴走族」や学歴社会における「落ちこぼれ」、「子ども・若者の貧困」を生きる存在など、私たちの社会を映す鏡のように語られてきた。それゆえに、「ヤンキー論」はいつの間にか「自分語り」にスライドし、ヤンキーと呼ばれる人々のリアリティを捉え損ねてしまう危険性がある。だからこそ著者は、〈ヤンチャな子ら〉のリアリティをきちんと描き出し、他者への想像力を喚起することを目指した。

 

2.自分がこの本をどう読んだか

 次に、この本を自分がどう読んだかについて、エスノグラフィー、ポスト構造主義ジェンダー研究、構築主義的家族研究、子ども・若者の貧困研究の4つの観点から述べた後、この本に通底する「カテゴリーへのこだわり」という観点から全体について述べ、自分の研究にも接続する。

 

2-1.エスノグラフィーとして

 2年半のねばり強い参与観察が行われているだけあって、〈ヤンチャな子ら〉一人ひとりの個性や個々の状況のリアリティがフィールドノーツの引用やインタビューのスクリプトから生き生きと描き出されている。

 このことが特に効いているのは第2章に描かれている〈ヤンチャな子ら〉と教師たちの相互交渉の部分だと思う。もし、教師たちがどのような教育実践をしているかを知るだけであればそこまで長い参与観察を必要としないように思われる。

 しかし、〈ヤンチャな子ら〉の家庭と学校との間にあるジレンマに対処する戦略を教師たちに繰り出すのに対して、教師たちもまた対処戦略を無化したり流用したりしながら教育活動を遂行していく、そして、結果として〈ヤンチャな子ら〉は教師たちを肯定的に評価している、などといったきめ細かい分析にあたっては、〈ヤンチャな子ら〉への深いインタビューはもちろんのこと、教師と〈ヤンチャな子ら〉との間の相互作用場面の描写は不可欠だろう。

 終章で述べられているような、X高校の教師たちが状況に応じて〈しつける教員〉と〈つながる教員〉を使い分けていたことの意義は、第2章の精緻なフィールドワークがあったからこそ説得力がある。

 

2-2.ポスト構造主義ジェンダー研究として

 第3章では、〈ヤンチャな子ら〉が自分たちの集団の境界を維持したり変容させたりする実践において、〈インキャラ〉というカテゴリーに注目している。そして、アクロバティックなことに、その分析戦略をポスト構造主義ジェンダー研究の観点から「男性性」というジェンダーに注目するためにも用いている。

 ポスト構造主義に基づいた日本の「ジェンダーと教育」研究では、研究者の側から二分法的な性別カテゴリーをアプリオリに想定することや、ジェンダーの社会化-内面化図式が否定されてきた。しかし、その方針を貫徹すると、児童や生徒が「男子」や「女子」といった性別カテゴリーを明言するという、かなり限定された場面でしかジェンダーの作用を見出せなくなってしまう。

 だからこそ著者は敢えて「男性性」をデータに照らして自分で定義し、そして〈インキャラ〉というカテゴリーの適用においてどのように「男性性」が組み込まれているのかを分析するという方針を採っている。

 そして、コンネルやホーソンの「男性性」の定義、江原由美子の「からかい」論をもとに〈インキャラ〉という言葉がどのように機能しているのかを整理している。となると、データに照らして、なぜその「男性性」の定義を採用するのか(すべきなのか)が正当化される必要があるとは思うが、残念ながらそのような記述は見られない。

 とはいえ、どのような文脈のもとで〈インキャラ〉というカテゴリーが用いられ、そのことがどのような構造を規定しているのかについての厚い記述は見事としか言いようがない。それにより、男性学において重視されている「男性内でのヘゲモニー闘争」がしっかりと描かれており、第3章は男性学の文脈においても重要な位置づけを持った研究であることは間違いないと私は思った。

 

2-3.構築主義的家族研究として

 共働き夫婦の増加や、子どもを持たないカップルの増加、離婚の増加等、近年の家族をめぐる変容は日本の家族社会学において、「家族の多様化」論として論じられてきた。そこでは、パーソンズの構造機能主義の影響を受けた「標準的家族」像を批判し、乗り越えることが企図されている。

 その研究の流れに「構築主義的家族研究」と呼ばれるものがある。この研究においては、研究者の側が制度や形態、機能の面から家族を定義するのではなく、「家族」という概念が語りや言説においてどのように用いられているのかに注目する研究である。

 この研究の意義は、構築主義的家族研究を批判的に検討した久保田裕之(2010: 10)によれば、従来の血縁や婚姻に基づく家族研究が取り上げてこなかった、家族に関する個人のリアリティ構築という、新しい研究の平面を開拓したことに求められるべきだという。

 以上のような研究の文脈を踏まえた上で、著者は松木洋人の子育て支援の研究において、「子どもへのケア提供は引き受けるが、『親であること』は引き受けないという実践」が行われていることによって、家族が子どもへのケア提供を外部化しつつ「親であること」は放棄しないということを実現していることを参照している。そして、山田昌弘による、家族関係は「機能的欲求」だけでなく、自分の存在意義を確認する「アイデンティティ欲求」をも満たす関係になっているという整理を参照し、「家族であること」に配慮した支援を「アイデンティティ欲求」に配慮した支援として解釈している。

 そして、第4章のデータでは「貧困家族」についての記述の実践が相互行為のなかで描かれており、「正常な家族/逸脱的な家族」という区別の揺らぎ(あるいは家族経験の多元性)がどのように起こっているかを明らかにしている。

 これは構築主義的なインタビュー解釈の方法論として優れているだけでなく、構築主義的家族研究とアイデンティティ欲求を接続するという山田の方針を応用することで、見事に〈ヤンチャな子ら〉の語りのデータから「当事者たちの『家族であること』を担保しながら、家族以外の者がケアを提供していくこと」(231ページ)という実践的な提言を導き出している。

 ともすれば単なる記述で終わりかねない「構築主義的家族研究」の方法論によって、データから実践的な提言を導き出すところまで持っていっていることに感心した。

 

2-4.子ども・若者の貧困研究として

 私がこの本を読む前の素朴な印象として「ヤンキー」というのは階層的には困難な状態にあっても社会関係資本や精神的健康においては恵まれている場合が多いのではないかと思っていた。しかしそんなことはなく、著者は厳しい状況に置かれた人々が集まるX高校を戦略的にフィールドに選ぶことで〈ヤンチャな子ら〉のなかの二面性を描き出せている。

 私の素朴な印象は打ち破られ、「『その立場にいたら自分もそういう行動をしたかもしれない、そういう選択をしたかもしれない』という、人々の他者への想像力」(239ページ)を喚起されたように思う。

 そして、階層再生産や支援において、文化の次元よりも社会関係の次元が強く効いているのではないかという知見も面白い。北田暁大・解体研(2017)ではブルデュー文化資本による象徴闘争が界によっては成立していないのではないかということが実証的に検討されているが、その知見を参考にするなら、階層再生産や支援においても経済資本が強く効いてくる場合、文化資本が強く効いてくる場合、社会関係資本が強く効いてくる場合などを分ける基準があるのではないかと考えられる。

 ざっくり言えば、お金があれば幸せになれる人、文化的に豊かであれば幸せになれる人、サポートネットワークがあれば幸せになれる人、といったものを分けるなんらかの基準があるのではないかと思う。

 

2-5.「カテゴリーへのこだわり」について

 この本は人々のカテゴリー実践に対するこだわりが全体を通して強いように感じた。「ヤンキー」という言葉は敢えて現場の〈ヤンチャな子ら〉という言葉に置き換えられ、第3章でも第4章でもジェンダーや家族に関するカテゴリー実践が主題になっていることで、分析が豊かなものとなっている。

 再帰的近代化論に則って現代社会のことを考えるならば、研究者が固定的なカテゴリーに固執するのではなく、社会における多様な成員の解釈的なカテゴリー実践に依拠しながら調査研究をすることはますます重要になっているように思う。

 「(マイルド)ヤンキー」という言葉に典型的なように、語義が曖昧なまま使用が拡散していく言葉(いわゆる「バズワード」)はこれからますます増えていくことだろう。その意味では「家族」のような既存の概念の用法も変化していかざるを得ないだろう。

 そこで、著者のようなカテゴリーの使用にこだわった分析戦略を採用することは、経験的研究のリアリティを担保するうえで重要なことだと思う。

 ただ、その意味では第5章の「見通しをもてる仕事/見通しのもてない仕事」という分類は、正規/非正規という区別が不適切であったにせよ、〈ヤンチャな子ら〉の仕事経験に必ずしも寄り添いきれていない分類のようにも思われる。著者が見出した〈ヤンチャな子ら〉の中にある社会的亀裂そのものが、このような分類によって固定的なものになってしまっている側面もあるのではないだろうか。

 

2-6.私の研究において

 私は修士論文においてコンネルの理論を用いながら、文化系サークルの男性内における力学を描いたという点でこの本の第3章の議論に通ずる分析を行っている。ただし、そこではあくまでインタビューから得られた情報から集団内の力学を再構成したに過ぎないため、この本のように参与観察に基づいて男性性実践を精緻に分析したものは非常に参考になった。

 また、私は博士課程においてはシェア居住の研究を通じて、そのようなジェンダーの観点からの分析に加え、「家族」をめぐる記述の実践を分析するつもりである。「家族」をめぐる記述の実践が描かれたエスノグラフィーが読めたのはその意味で幸運だった。

 ただ、私はシェア居住の研究においては「ライフストーリー」の観点を重視したいと考えている。この本に書かれた「若者文化としてのヤンキー」の立場にある先行研究の整理によれば、こんにちの日本の状況では、少年期→青年期→成人期という安定したライフサイクルを前提にできないために、2000年代以降のヤンキーを描くためには「一定の年齢期に活動し卒業していくといったパターンを前提」(40ページ)にすることはできないのだという。

 それに対して、著者は幼少期→学齢期→移行期の軌道を想定し、三つの力学と高校入学までにたどってきた軌道が高校入学以後の生活実践を規定するとしながら〈ヤンチャな子ら〉を記述している。

 そして第4章では〈ヤンチャな子ら〉からライフストーリーを聞きつつも、「記述の実践としての家族」という視点の有効性を引き出すために、「調査で得られた語りのなかに対象者の家族に関する出来事や経験を見つけ出すというよりも、特定の文脈や状況で私との相互行為のなかで対象者がどのように家族を記述していたのか、それ自体を分析する」(150ページ)という鶴田幸恵・小宮友根(2007)による桜井厚の「対話的構築主義」への批判を受けての方針を採用している。

 この方針はデータに応じて設定されており、正当なものと言える。ただし、私が修論でおこなった「ライフストーリーにおける失敗経験」の分析のように、「転機」を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析したい場合は、前者の桜井の方針も採用しうるように思う。

 私が今後予定しているシェア居住についての調査でも、家族にまつわる記述の実践を分析するための「人生のなかの語り」という方針と、転機を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析するための「語りのなかの人生」という方針とを使い分けることになると思われる。

 

【文献】

知念渉、2018、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー――ヤンキーの生活世界を描き出す』青弓社

北田暁大・解体研、2017、『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房。

鶴田幸恵・小宮友根、2007、「人びとの人生を記述する――『相互行為としてのインタビュー』について」『ソシオロジ』52(1),21-36,159。

久保田裕之、2010、「家族定義の可能性と妥当性――非家族研究の系譜を手がかりに」『ソシオロジ』55(1): 3-19,136。

シェアハウスに「非日常」はいらない?――ポスト・テラスハウス時代のシェアハウス

「オープンシェアハウス サクラ荘」を運営していますホリィ・センです。

この記事はブログリレー「 #新型コロナ時代のシェアハウス」の8日目の記事です。

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 プロレスラーの木村花さんが亡くなったことを受け、木村さんが出演していたリアリティ番組の「テラスハウス」の現シリーズが打ち切られることが決まった。

 木村さんが亡くなった背景には木村さんに対するSNS上での誹謗中傷が原因にあるとされている。しかし、テラスハウス上での木村さんの描かれ方には過剰な演出(要するにヤラセ)があったという指摘も当然あり、世間では「SNS上での誹謗中傷」の問題や、「リアリティショー出演者の安全」の問題などとして今後人々には記憶されていくことだろう。

 

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 ただ、この記事で問題としたいのはそれらではなく、「『シェアハウス』なるもののイメージダウン」の問題である。人々がシェアハウスを選択肢として選ぶかどうかは、このシェアハウスなるもののイメージが、大きく関わってくるだろう。

 言い換えれば、メディアにおいて「シェアハウス」がどのように表象されているかは、人々が実際にシェアハウスに住む、という選択に対して影響を与えることになる。実際、シェアハウスを運営するある知人は「『テラスハウス』を見てシェアハウスに憧れた」と言っていたほどである。シェアハウスについてなんら具体的なイメージを持っていない人が「テラスハウス」を通じてシェアハウスのイメージを形成するということは大いにありうることだろう。

 「テラスハウス」の打ち切りに至る一連の流れを通じて、もし「シェアハウス」がイメージダウンの危機に晒されているとするならば、「シェアハウス」側としてはどのようなイメージ戦略を展開すればよいのだろうか。

 

シェアハウスに「非日常」や「出会い」が求められる理由

 結論から言えば、シェアハウスは「非日常」や「出会い」をコンセプトにするのではなく、もっと「当たり前の日常生活」をコンセプトにすべきだと僕は思う。現状、「シェアハウス」は良くも悪くもコンセプチュアルなものが目立ちすぎている。

 その結果生じてくる問題については後に述べるとして、まず、シェアハウスはなぜ「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまうのかを考えよう。思いつく理由は三つある。

 

 一つ目は先ほど述べたメディアでどのように表象されるかの問題である。「テラスハウス」もそうなのだが、シェアハウスは現実の少なさとは裏腹に、ドラマではしばしば見かける題材である。ある種の「憧れの生活」としてシェアハウスは描かれやすいがゆえに、それが現実にも影響を与えて「非日常」的なコンセプトが打ち出されるのだろう。

 

 二つ目に、シェアハウスの社会的機能の問題がある。僕の主観では、シェアハウスというのはモラトリアム期の若者が経験として住む「留学」のようなものとして扱われている側面があるように思う。あるいはあまりお金のない20代ぐらいの人が、それなりの水準の暮らしを実現する/お金をあまり使わずに暮らすためのものとしてシェアハウスは扱われる。

 つまり、お金ができたらシェアハウスからは出ていくし、あくまでも一時的な住まいとしてのシェアハウス、ということなのだろう。そうなると、人生の中で「シェアハウスに住む」経験を位置づけるならば、その経験には「成長」や「出会い」の機能がある、と捉えたくなってしまうのではないだろうか。

 いや、たしかにシェアハウスは「家族のオルタナティブ」として、すなわち「結婚ではないもう一つの選択肢」としてイメージされている側面もあるだろう。しかし、やはりあくまでも「オルタナティブ」であって、二級品として扱われているのが現状だろう。シェアハウスには「家族」のような、幸福な人生を約束してくれる強固な物語はない(もちろん、実際には家族を作ったからといって幸福な人生を送れるとは限らないのだが、「結婚して家族を作ることによって幸せになる」という「物語」は未だに多くの人に信じられているものであろう)。

 

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまう三つ目の理由は、ミもフタもないことなのだが、そうでないと人が集まらないからだろう。上で述べた二つの理由とも関わっているが、シェアハウス生活に対して人々が持っているイメージは意外にも貧困なのではないか。「出会い」があり、修学旅行のごとく夜がな夜っぴて語り合う、などといったイメージ通りのことも場合によってはないわけではないのだが、実際にはもっともっと特筆すべきところのない“低温な”日常生活が待っている(と少なくとも僕は感じる)。そんな当たり前の日常生活にも大事なところもある、というのが今回言いたいことなのだが、なかなか言語化するのが難しい。

 

 考えてみれば、これは異性愛規範にどっぷり浸かりながら生活している人にとって、同居しているゲイカップルの生活があまり想像しにくい傾向があるのに似ているかもしれない。

 メディアで描かれる「恋愛」には非日常的なイメージばかりが先行しているとはいえ、異性愛カップルが送る日常生活はまだしも想像できる。それに対し、ゲイカップルの日常生活について想像すると、性的なことばかりがイメージされる、というのがよくある偏見ではないだろうか。

 そんなイメージの貧困さを払拭する意図もあってのことだろう、『ゲイカップルのワークライフバランス――男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活』という社会学の研究書がある。シェアハウスについてもこういう研究は必要だろう。

 

ゲイカップルのワークライフバランス―同性愛者のパートナー関係・親密性・生活
 

 

 ということで、世間の人々にとっては、当たり前の日常生活を肯定的にイメージすることが難しいからこそ、入居者を集めたいシェアハウスの事業者や運営者は、やや過剰に非日常的なものをコンセプトにしてしまう側面があるのではないだろうか(とはいえ僕はイメージで語っているので、シェアハウスの「広報戦略」については、実証的な調査をする必要があるだろう)。

 

 

「持続するシェアハウス」を作ろう

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトとしてしまうことの問題はなんなのか。それは、持続しないということである。実際、周囲の多くのシェアハウスは5年も生き残っていないように思う。

 たしかに、平田朋義さん(10年以上シェアハウスに住んでいるベテラン!)が言うように、「シェアハウスが崩壊する数よりも多くシェアハウスを作っていく」というメソッドでいけば理論上シェアハウスは増え続けるだろう。それは一理ある。ただ、それでは世間の(なにより大家さんの)シェアハウスに対するイメージは悪くなる一方なのではないか、という懸念がある。

 シェアハウスが崩壊する理由は住民が出ていくからなのだが、そもそも僕の経験からすると、今のところ一つのシェアハウスに長く住み続ける人は珍しいように思う。トラブルが起きることですぐに出ていってしまう人もいるのだが、明示的なトラブルがなかったとしても1年や2年で出ていくという人も多い(そこには恋人との関係や仕事などの、ライフコース上の理由が関係している)。

 

 そうなってくると、住民入れ替えや引越しは日常茶飯事である(そして新入居者がうまく確保できないと、崩壊してしまう)。住民自身がシェアハウスを運営している自主運営型のシェアハウスの場合、住民入れ替えのたびに大家さんに報告する必要が出てくるだろう。

 その際に、もしその都度めんどうな契約変更などをすることになってしまうと、コストが高いのが問題である(お金的な意味でも、「再契約」などということになれば礼金や不動産への手数料を払うことになってしまう)。住民と大家さんとの間の取引コストを下げるためには、大家さんのシェアハウス住民に対する「信頼」が必要になってくるだろう。となるとやはり、今後の日本社会において、大家さんの「シェアハウス」に対する信頼を勝ち取るためにも、世間のシェアハウスイメージの向上は重要な課題なのだと思う。

 

 そして何より、今後シェアハウスに住む人の立場に立ってみれば、1年や2年でシェアハウスを出ていく人だけでなく、もっと長い期間シェアハウスに住みたいという人は増えていくだろう(「結婚して家族を作る」という物語がどんどん機能不全になっている昨今においては、増えていけばよいと僕は思う)。長く住みたい人のニーズに応えるためには、短命で終わるシェアハウスをホッピングしていくという方針だけでは心もとない。もっと長命のシェアハウスもあってよいだろう。家の寿命は人の寿命よりも長いのだ。

 

都市的・躁鬱的コミュニケーションは疲れる

 「非日常」や「出会い」をコンセプトとしたシェアハウスは、シェアハウスに長く住みたいという人にとっては不向きである。疲れるからだ。二つに分けて説明しよう。

 

 第一に、コミュニケーションに疲れる。僕が前に住んでいたシェアハウスでは、1ヶ月半に1回ほどパーティを開き、頻繁に人が出入りする状態だったが、ずっとコミュニケーションをし続けるのは正直言って無理である。疲れるとスッと自分の部屋に帰るし、人がいてもなにかとTwitterを見ていた。そういえば、フロントラインというシェアハウスをやっている今井ホツマくんは、このようにリビングでコミュニケーションし続けると疲れきってしまう現象を「リビング病」と呼んでいた。

 

 このコミュニケーションへの疲れは、どこか都市的な人間関係を思わせる。都市の人ごみ、匿名的な雑踏の中で、人々は浮遊している。そして、人口が多い分多様な人間たちの中から、「この人」という人に狙いを定めて、一気に距離を詰める。

 都市ではそんな極限まで「遠い」ところから、極限まで「近い」ところまで一気にジャンプするようなコミュニケーションが横行しているように思う。それは、比喩的に言えば躁鬱的なコミュニケーションと言えるかもしれない。なんら無関係で文脈を共有していない状態の人に対して、一気に近づこうとするコミュニケーション。言わばナンパのようなものだ。そして、強いエネルギーを割いてコミュニケーションを取っていると、そのうち疲れ切ってしまう。たまに「人間関係リセット癖」があるという人に出会うが、それはおそらくそのようなコミュニケーションを取る人なのだろう。これでは関係は持続しない。

 

 

 シェアハウスにおいても同様だろう。シェアハウス(やゲストハウス)が東京にばかり存在しており、「都市」の論理で動いているのは、シェアハウスがあくまでも一時的な住居でしかないということを象徴しているように思う。

 

シェアハウスの中の大人の論理と子どもの論理

 第二に、人目を気にすることに疲れる。朝井リョウという作家の『何者』という小説は、「何者かになりたいが何者にもなれない」若者たちの自意識を描いた作品だが、描かれる舞台は実はシェアハウスである。就職活動を共にする仲間がシェアハウスをしているという設定なのだが、一緒に住みながらお互いの目を気にしているという、印象深い描写がある。

 

宅飲みなのに、きれいな食器しか出てこない。どうして割り箸や紙皿が出てこないのか。あのふたりはきっと、お互いに格好つけたまま一緒に暮らしてしまっている。男の方は部屋着のくせにチノパンにきれいなシャツ。格好悪いところをお互いに見せることができていない。一緒に暮らすって、そういうことじゃないと思う

 

 『何者』の終盤では、結局のところダサくてもカッコ悪くてもやっていくしかない、という方向性が提示される。それは、夢を追う東京の若者たちの気持ちをまさに代弁した内容なのだと思う。だが、僕としてはその「ダサい」「カッコ悪い」人間に対して「夢」へと駆り立てるのではなく、シェアハウスの中では肩肘張らずに「ダサい」ままで、「カッコ悪い」ままでいいんだということを肯定したいと思う。

 

何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 

朝井リョウ「何者」 2つのセリフが伝える若者の在るべき姿 | DO THE LION も参考にしました)

 

 広告に出てくるシェアハウスはしばしば「オシャレ」で洗練されている。SNS映えするような、見られていることを意識した空間。まさにここまで述べてきた「非日常」な演出だ。しかし、僕は「日常性」を、ハレとケで言うところのケを肯定したい。公の論理が私の論理を覆ってしまえば、心は休まらないだろう。僕はもっと「ズボラ」でいいと思う。家の中なのだから、誰にも見られていないところでほどほどに気が抜けないと困る。

 だからといって、全く人目を気にしなくていいかと言われたら、これもまた違うだろう。シェアハウスの中にもマナーはある。親しき仲にも礼儀あり。たとえば家事掃除。「大人同士」が住むものであるということは前提なのである。

 

 言うならば僕が思う(一つの)理想のシェアハウスは、半分は「大人」の論理で、残り半分は「子ども」の論理で回っているのだと思う。一緒に住んでいる人のため、みんなのために「大人」としてやるべきことはやる。相互扶助の精神だ。その場合おそらく、相手が何をしていようと、何を考えていようとあまり口出ししない、「信頼」してやっていくことが大事なのではないかと思う。

 しかし、すべての面で「大人」になってしまうと疲れるしどこかよそよそしい。だから残り半分、「子ども」になって外の目を気にせずに自分をオープンにする。その場合おそらく、自己開示をしながら自分の気持ちを語り、相手の気持ちも聞くことで、「安心」が得られることが大事なのではないかと思う。

 とはいえ、基本的にシェアハウスのメンバーは親や恋人やカウンセラーなどではない。(役割が明確には定まっていない)一人の人間である。だから、すべての面で「子ども」として依存してしまうのもまた破綻を招くだろう。生まれた家族との関係がうまくいかなかったからこそ、メンタルサポートの機能を期待してシェアハウスにやってくる人もいるように思う。それ自体は理解できることなのだが、半面にある「大人」としての関係がうまくいかないことで、その期待は裏切られる傾向にあるように思う(個人的には非常に歯がゆい思いである)。

 

新型コロナ時代のシェアハウスとは

 以上の話を踏まえたうえで最後に、「コロナ時代のシェアハウス」のあり方について考えを述べてこの記事を終わりにしよう。

 僕はコロナウィルスによって、まず不安を喚起された。統計データを見た今となってはそこまで不安ではないのだが、当初は不安もあった。また、コロナウィルスへの「(補償の不十分な)自粛要請」に対して苛立ちも覚えた。少なくとも精神に悪影響だったわけである。

 そんななかで、住民とはほんの少しではあるが、コロナウィルスの話をした。ふとした日常の他愛もない話である。しかし、どういうわけか気持ちが和らいでいくのを感じた。これはどういうことだろうか。

 

 思うにシェアハウスの良いところは、物理的に近い、ということである。共在co-existenceしているということである。それが、コミュニケーションのコストを劇的に下げるのである。

 「オンライン飲み会」や「ZOOM飲み会」などといったものが世間では語られるが、いったいどれほどの人がそれに参加できているのだろうか。普段からオンライン上で仲良く喋れる人がいる、恵まれた人ならば良いだろう。しかし、そうでない人は、あの匿名的な、都市的なコミュニケーションに、自分を奮い立たせて飛び込んでいくことになる。それはやっぱり疲れるのだ。自分がどう見られているかを気にしなければならないことも含めて。

 そして、飛び込んだら飛び込んだで、距離が近づきすぎてしまう危険性もある。SNSの発達によって、見なくていい側面まで見てしまい、見せなくていい側面まで見せてしまうという事態は起こりやすくなったように思う。このことは冒頭で述べたテラスハウスの悲劇と繋がっている。

 それに対して(日常生活を重視する)シェアハウスならば、半分は「大人」の論理で回っているがゆえに低温なままで、半分は「子ども」の論理で回っているがゆえに適切に甘えられる、というわけだ。

 新型コロナ時代の、そしてポスト・テラスハウス時代のシェアハウスにおいて、非日常=ハレではなく、当たり前の日常生活=ケを肯定する論理を紡いでいかなければならない理由はここにある。