リゼロにおける「ゲーム的リアリズム」の乗り越え――Re: ゼロ年代から始める異世界生活

 『Re: ゼロから始める異世界生活』というアニメを毎週楽しく観ている。僕は原作は読んでいないのだが、33話まで放映されたアニメの範囲で、ある種の批評性を感じているのでそれについて試論する。「リゼロ」を読んでる/観てる人向けの記事です。

 

 

1.「ループもの」から「異世界もの」への連続性と断絶

 『Re: ゼロから始まる異世界生活』は小説投稿サイト「小説家になろう」の人気ジャンルである「異世界もの」である。それと同時に、主人公が死ぬと一定の「セーブポイント」に戻り、やり直す「死に戻り」というシステムがある。

 この「死に戻り」のシステムはオタク文化において「ループもの」として広く受け入れられてきた。批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』や、その続編にあたる『ゲーム的リアリズムの誕生』でこの「ループもの」について論じている。

 

 東の議論には様々な論点があるが、ここでは「キャラクターとプレイヤーの二層化」の話に絞ろう。

 ゲーム、とりわけ美少女ゲームにおいては、プレイヤーは選択肢を選ぶことによってゲームを進めていく。選択肢を間違えればゲームはバッドエンドになってしまうわけだが、プレイヤーはセーブしたところから(あるいは最初から)ゲームをやり直すことができる。そして、間違った選択肢Aを選ぶとキャラクターがどうなるのかを知っている立場から、プレイヤーは間違った選択肢Aを避けるわけである。

 つまり、未来の立場のプレイヤーは、キャラクターとしての過去をやり直すことができる。これが、「キャラクターとプレイヤーの二層化」である。この「ゲーム的」な構造はゲームに限らず様々なフィクションにおいて用いられ、「ループもの」というジャンルが流行したと考えられる。東は『動物化するポストモダン』のなかで、その二層構造を「解離」や「多重人格」と結びつけている。

 というのも、多くの美少女ゲームはマルチストーリー・マルチエンディングの形式を採用しており、個々のストーリーではヒロインとの「純愛」や「運命」が強調される一方で、プレイヤー視点に戻れば選択肢の分岐によって複数の恋愛を体験することができる、ご都合主義が存在するからである。このご都合主義を矛盾なくやり過ごすには、あるヒロインとの「運命」的恋愛のことを忘却したり、人格を分裂させたりする必要があるというのが東の見立てである。

 これはいくぶん比喩的ではあるが、実際に美少女ゲームは「記憶喪失」の構造に支えられている。美少女ゲームの主人公は「幼なじみ」と子ども時代を過ごしていたはずだが、そのときの記憶があまりないという設定が典型的である。そして、どのヒロインを攻略するかが選択されていくことによって、事後的に子ども時代の記憶が確定する(実はこの子とは幼い頃に会っていた! 運命だ!)という構造を持っている*1

 

 この「忘却」の構造が存在する点で、「ループもの」は「異世界もの」に繋がっている。「異世界もの」の一つの魅力は、その魅惑的な世界観によって、現実の世界を忘却させてくれるからだ。悪く言ってしまえば「現実逃避」の構造を持っているわけである。

 しかし、「ループもの」からは一方で、現実に向き合う「やり直し=思い出し」構造を抽出することもできる。過去の「間違った選択肢」をトラウマとして反復しながらも、それを乗り越えていく、そんな構造である。この構造が「異世界もの」では薄まってしまった、その点で「ループもの」と断絶がある、とひとまずは言えるだろう*2

 

*1

 なお、この記憶喪失構造はハーレム的な欲望を満たす。プレイヤー視点に立てば選択前に戻ることによって複数の運命を経験できる=複数のヒロインを攻略できるという点を東は指摘しているわけだが、そもそも子ども時代の記憶が曖昧であれば、「誰が運命の相手なのか」の答えを保留したままで複数のヒロインが登場させることができる。いわば、「運命の相手」という変数xにどの女の子でも代入できる状態を楽しむことができる。この構造は、美少女ゲーム以外でも例えば赤松健の『ラブひな』で指摘できる。「トーダイに一緒に行くこと」を約束した女の子が誰なのかをめぐって二人のヒロインが候補に挙がってくる、という話がソレである。

 この「なんでも選べる」という記憶喪失構造の全能性ゆえに、宇野常寛セカイ系美少女ゲームを「レイプ・ファンタジー」と名付けて批判している。

 

*2

 むしろ、忘却構造を強化するような、あるいは別世界に別の「現実」があると考えてしまうような、そんな構造が昨今流行りのジャンルからは読み取れる。元の生活からは切り離され、閉鎖された世界での勝利を目指す「デスゲームもの」。世界の破滅を"生々しく"描く「ポスト・アポカリプスもの」。あるいは、夾雑物が紛れ込んでこない純粋な世界を描いた「日常系」や「アイドルもの」もそうかもしれない。

 とはいえ、東の議論に沿って考えれば、リアルとフィクションとの間に境界線がはっきりと引かれ、フィクションにおける「現実逃避」の機能が強まる、というベクトルだけでもあるまい。むしろ、リアルがフィクションのレンズを通して再構成され、フィクションの傾向がリアルの文化に影響を受けて変化していく、そういうこともあるはずである。僕にそれらを細かく論じる知識はないので、ここではそのあたりのジャンルについては述べないでおく。

 

2.「リゼロ」における乗り越え

 前置きはこのくらいにして、それでは「リゼロ」がどのようにしてこの「忘却=現実逃避」構造を乗り越えていったのかをアニメを観て気づいた範囲で記そう。

 

痛みを忘れないループ

 真っ先に指摘できることとして、リゼロはループの仕方が特殊である。よくあるループものでは、ゲームをプレイしている人と一緒で試行回数を増やすことによって最適解を見つけていくのが定番である。

 しかし、リゼロにおいては、ちゃんと死の痛みが忘却されずにトラウマになってしまっている。主人公のスバルはそれにより精神に変調を来たしている(おまけに、ループするたびに「魔女の残り香」が強化されていくことで、周囲のキャラクターから信用されるための難易度も上がっていく)。

 

異世界転移なのに元の世界のことを思い出す(29話)

 主人公のスバルは引きこもり生活をしていたらふと異世界に転移したという設定である。この設定は単に読者/視聴者にとって感情移入しやすいからそうなっているのだ、と僕は素朴に考えていた。

 しかし、29話。聖域における試練において、スバルの過去が明かされる。スバルは自分が父と比較され、周囲からの期待に応えることがプレッシャーとなり、引きこもりとなったのである。アニメで描かれた、暑苦しくも優しさがイタい親子関係に対して、僕は共感性羞恥のようなものをおぼえた。「日常系」というジャンルではしばしば親が描かれないが、その真逆で、ここまでイタイタしく親子の関係を描くのには新しさを感じる。

 

 

  この回はゼロ年代の文化を意識している!という僕の推測に関しては後に詳しく。

 余談だが30話でガーフィールが「そもそも、過去なんて乗り越える必要あんのか?」というセリフを発しているのが印象的。この問いに対してどのような答えが出てくるのか気になる。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――ゼロ年代の象徴としてのレム

 リゼロでは、スバルが異世界転移してすぐに出会うエミリアがひとまずメインヒロインに見える。しかし、ピンチのエミリアを助ける過程をスバルと共にするレムもまた、圧倒的なヒロイン力を発揮している。

 18話では、打つ手がなく絶望してしまい、自己否定の言葉を繰り返すスバルに対して、レムはダメな部分も含めて優しく受け入れる。2人の会話劇だけでまるまる1話使うというものすごい回。「母性」という言葉をこれほど想起させるものはないだろうというぐらい。

 しかし、2期の最初にあたる26話で、魔女教大罪司教、『暴食』担当のライによって「名前」を喰われ、レムは忘れ去られてしまう。

 

 僕にはこの「忘却」が、どうも先ほど述べた美少女ゲーム的忘却構造のメタファーであるようにしか見えなかった。レムというヒロインは、美少女ゲームでヒット作が量産され、「セカイ系」が一世を風靡したあの時代、「ゼロ年代」の象徴なのではないかと(レムも「ここから始めましょう、イチから――いいえ、ゼロから!」って言ってるし!)。

 自分のダメさを吐露するスバルをレムが「母性」的に受け入れたのは、表面的にはスバルがレムを助けた英雄だったからなのだが、それ以上に、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」を思い出すのだ。

 これは、「セカイ系」の構造と類似している。「セカイ系」はエヴァンゲリオンから始まったとされているが、その意味でのエヴァンゲリオンの新しさは、アニメ上で「モノローグ」を多用したことである。

 社会から受け入れられない人間はどうしてもモノローグ的に自分の世界に引きこもってしまうことになる。しかし、社会から切り離された人間が一発逆転できるシステム、それが「恋愛」である。セカイ系では、「キミとボク」の関係が、中間にある「社会」をすっ飛ばして「セカイ」へと直結してしまう構造があるのだ(あるいは「キミとボク」こそが「セカイ」になるとも言える)。

 社会から虐げられたオタクくんからすれば、これには感情移入せざるを得ない。2005年頃の「電車男」以前では、オタクはまだまだ社会から虐げられた存在だった。社会から虐げられていたからこそ、恋愛という個別的関係にこそ超越性を見出せたのである。

 このように考えると、ダメなスバルを丸ごと受け止めるレムはまるで、セカイ系に出てくるヒロインである。

 

 しかし、スバルはレムに告げる。「エミリアが好きだ」と。これはどう解釈すべきか?

 一つの見方では、「エミリアが好き」でありながら、自分のダメさをレムに許される、といういいとこ取りのハーレム的構造を維持していると言える。その意味ではやはりゼロ年代美少女ゲーム構造とも言える。

 一方、スバルははっきりエミリアを選んでいる。それはレムを選ばないということであり、美少女ゲーム的構造を乗り越えているようにも見える。このあたりの解釈は、今後の展開次第でもあるだろう。

 

ヒロインたちが分け持つ機能――「プレイヤー」の立場に立つエキドナ

 最新の33話を観た時点ではまだ早漏かもしれないが、エキドナは三人目のヒロインだと思う。エキドナの優位性は、スバルの「死に戻り」を観察してきたことにある。エキドナはスバルの死に戻りの苦悩を知っている。だからこそスバルはエキドナに対して気持ちを吐露するのである。

 これは東浩紀が提起した「キャラクターとプレイヤーの二層化」において、エキドナが「プレイヤー」の側に立っていることを意味する。これまでスバル以外はスバルの死に戻りを知らなかったため、あくまで「キャラクター」の位置にいたのだ。

 「キャラクターとプレイヤーの二層化」は崩れた。ゆえに「忘却=現実逃避」の構造はない。現時点でのリゼロの可能性は、ここに見出されるように思う。

 ついでに言えば、エミリア、レム、エキドナはそれぞれ異なる機能を持っていることになる。美少女ゲーム的にリゼロを見れば、スバルは結局誰を「選ぶ」のか? そこにも注目したい。

 

3.ゼロ年代の止まった時計が動き出す

 まとめよう。「異世界もの」は一般的には「忘却=現実逃避」の構造があり、それはある意味で、ゼロ年代に流行った「ループもの」や美少女ゲームにおける文法を徹底したものだった。

 しかし、「リゼロ」には傷の痛みを忘却しない設定や、元の世界における親子関係の描写、ループ構造を観察するエキドナの存在などがある。これには「キャラクターとプレイヤーの二層化」を乗り越えようという意志を感じたのである。

 

 この「乗り越え」について、僕は今後、さらに議論を展開させたいので、最後に二つの展開の可能性を述べておく。

 一つは、哲学者の森岡正博が『意識通信』(1993)で提唱し、社会学者の加藤晴明が『メディア文化の社会学』(2001)などで取り上げている「二世界問題」と呼ばれる問題との接続である。「二世界問題」とはすなわち、「現実と虚構のどちらが『リアル』なのか」という問題である。

 ベタな「異世界もの」ではもはや元の世界と異世界との間のリアリティの強度は反転してしまっており、「異世界」の方が「リアル」だと感じられてしまっている、ということになろう。しかし、「リゼロ」においては、元の世界と異世界、(ループする)プレイヤー世界と(ループしない)キャラクター世界、それぞれの二世界が複雑な絡み合いを見せている。「リゼロ」が「二世界問題」に対していかなる答えを出すのか、注目していきたい。

 

 二つ目の展開可能性として、近年のリバイバルブームに象徴される、「思い出し」の可能性である。リバイバルブームやかつての作品の続編の制作について、90年代やゼロ年代のコンテンツがリサイクルされている、高齢化したオタクが介護されている、などと揶揄されることがある。しかし、僕はこのリバイバル=反復は祝福すべきことであるとかつて論じた(「人生の止まった時計が動き出す――「毒親」語りとリバイバルブーム」『メンヘラ批評Vol.1』所収)。

 ざっくり言ってしまえば、バブルが崩壊し、日本社会がデフレ不況と新自由主義に飲まれていく端緒となった、90年代/ゼロ年代というあのトラウマの時代を、大人になった視点から「語り直す」ことで乗り越えられる可能性がある、という話である。

 「リゼロ」の著者の長月達平は現在33歳。リゼロを書き始めたのは25歳からのようだ。彼は多感な子ども時代、思春期を90年代/ゼロ年代で過ごした。そして、同時代のコンテンツに触れてきたことだろう。あの時代の乗り越えは、まったく新しいものによってではなく、あの時代を反復することを経た先に到達されるものだと僕は考えている。

 

 18話でレムは言った。「レムの止まっていた時間をスバルくんが動かしてくれたみたいに、スバルくんが止まっていると思っていた時間を、今、動かすんです」

 レムとはゼロ年代のことであり、スバルとはまさに今の時代のことなのだ。

『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』(知念渉)のレビュー記事

 大学に提出するレポートで、質的調査に基づいた本をレビューするというものがあったので、知念渉の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』をレビューしました。せっかくなのでブログに載せておきます(8000字ぐらいです)。

 

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1.本の要約

 この本は、2000年代後半以後における「ヤンキー」言説の盛り上がりにもかかわらず、「ヤンキー」についての学術的な調査研究が十分に行われていないという背景のもとで書かれた、エスノグラフィーの研究成果である。まずは、本の要約をする。

 日本の「ヤンキー」にまつわる先行研究は次の三つの立場に整理される。

 

①若者文化としてのヤンキー:

 佐藤郁哉の『暴走族のエスノグラフィー』(1984)に代表される。「少年期→青年期→成人期」という安定したライフスタイルにおいて「ヤンキー」という若者時代を位置づけ、分析の焦点となっているのはヤンキーが共有するシンボル(単車、特攻服など)である。また、2000年代以降は「オタク」論と対置されるかたちで「ヤンキー」が論じられているが、当事者に深くコミットして内側からその文化を描くという試みはほとんどなされていない。

 

②生徒文化としてのヤンキー:

 この立場では学校が求める規範や価値との関係においてヤンキーの学校経験が分析されてきた。70-80年代は「学歴社会」「競争社会」論を背景に、「学校のなかで低い地位を与えられた者が、その地位に対する不満を募らせた結果」(43ページ)として人々がヤンキーになるという「地位欲求不満説」が支配的だったという。しかし、90年代になるとそのモデルの説明力が低下したことが明らかになり、また、教育社会学においてジェンダー概念が本格導入されたことから、男性だけを想定したモデルも再考を迫られるようになった。

 

③階層分化としてのヤンキー:

 イギリスの労働者階級の少年たち〈野郎どもlads〉の学校経験を描いたポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(1977=1996)は、90年代前半頃までは②の立場において受容され、イギリスと日本の文化の違いが強調されてきた。しかし、90年代後半頃からは「格差社会」論、「フリーター」「ニート」に象徴される若者の雇用問題、「子どもの貧困」といったものが社会問題化されるなかで、「学校内でのメリトクラティックな競争に乗らない/乗れない生徒」という共通点が見出され、『ハマータウンの野郎ども』は再評価されることとなった。そこで分析の焦点となったのは、ヤンキーの出自(家庭背景・出身階層)と労働であった。

 

 これら三つの立場はそれぞれが相互に批判し合う関係にあり、補完し合っているとも言える。しかし「ヤンキー文化」を三つの立場のいずれかに還元して解釈される傾向があったために、「ヤンキー文化」の同質性を強調し、その内部にある多様性が看過されてきたのではないかと著者は指摘する。

 そこでこの本では、若者文化、生徒文化、階層文化を生み出す場として、それぞれメディア・ストリート空間、学校空間、社会空間という場を想定し、それぞれの場においてはたらく三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査する。なお、この本における「社会空間」という言葉は、先行研究の知見から「階級・階層」と「ジェンダー」の作用が交差した場を意味している。

 

フィールドと方法

 著者は大阪にある社会経済的に厳しい状況に置かれた人々が集住する地域のX高校をフィールドとして選択肢、2009年から2012年までの間、2年半の参与観察をおこなった。X高校では600人程度の生徒数のなかでも、ひとり親家庭率50%以上、生活保護世帯率約30%で、およそ三分の一の生徒が中退する、家庭背景的にも学力的にも厳しい生徒たちが多数入学してくるのだという。また、X高校は同和教育運動の影響を強く受けており、様々な困難を抱えた生徒たちに対して正面から取り組む教育実践に特徴があるという。

 著者は一年生の〈ヤンチャな子ら〉と呼ばれる男子生徒たちに注目し、インタビューをしたり、より深く話を聞いたりすることができた14人を対象に分析を展開している。第3章で詳しく展開されているように、研究者の側が生徒たちを類型化してその特徴を描く「類型論的アプローチ」とは異なり、〈ヤンチャな子ら〉という境界が曖昧な集団を対象としていることによって、彼らのカテゴリー実践に基づいて集団の境界の維持や変動、集団内部の階層性を描き出すことを可能にしている。

 また、三つの力学の重層性から〈ヤンチャな子ら〉について調査していくという先に述べた方針ゆえに、家庭の文化とフォーマルな学校文化との間の関係性が、教師とのやりとりのなかでどのように現れているか(第2章)、〈ヤンチャな子ら〉が著者との相互行為のなかで「貧困家族であること」をどのように記述するのか(第4章)、高校中退/卒業後の仕事への移行経路はどのような要素によって規定されているのか(第5章)といった問いが設定され、それぞれの章でそれぞれの先行研究の文脈に乗せながら分析されていく。

 

調査結果

 調査の結果、調査当初に一様の集団と著者自身捉えていた〈ヤンチャな子ら〉が、一見まとまりをもった一つの集団のように見えるものの、そこには「社会的亀裂」が生じていて、二つの経路を生きる若者が見出されるということが明らかになった。そして、その亀裂は(階層とジェンダーの作用が交差する)社会空間の力学によって生じている。

 また、〈ヤンチャの子ら〉と教師の関係性が必ずしも対立的ではないということ(第2章)、家族の語りの流動性・相対性・多元性に着目することの重要性(第4章)なども明らかになった知見である。

 

考察

 ヤンキーを重層的な三つの力学のなかに位置づけ、〈ヤンチャな子ら〉という現場の言葉を出発点に対象にアプローチした意義について著者は述べる。その意義は、メディア・ストリート空間の力学が特有のスタイルを供給し、彼らを統合しつつも、社会空間の力学、すなわち育ってきた経緯によって集団内部に社会的亀裂を生じさせているということを明らかにしたことである。

 そして、これらの力学が具体的に出会う場として学校を位置づければ、X高校の教師たちの教育実践が〈ヤンチャな子ら〉の家庭の文化とフォーマルな学校文化の葛藤を緩和させていたからこそ、〈ヤンチャな子ら〉が一つの集団としてある程度の期間学校に留まって過ごせていたと言える。

 また、〈インキャラ〉と呼ばれていたような生徒たちは、〈ヤンチャな子ら〉と社会空間上の位置は近いにもかかわらず、メディア・ストリート空間上の位置が異なるがゆえに〈インキャラ〉とカテゴライズをされていたと言える。この説明もまた、重層的アプローチを採用しているがゆえに可能となっている。

 さらに、〈ヤンチャな子ら〉のなかでも劣位の立場に置かれた者が暴力を振るう際に、自らの「男らしさ」を暴力によって証明するという社会的文脈があったことが示されている。ここでもまた、重層的アプローチによって集団内部の二面性を明らかになったおかげで、男性性の原理が具体的な文脈においてどのように現れるのかが精緻に分析されたと言える。

 より広い社会的文脈においては、貧困の世代的な再生産は「貧困層に特有の考え方や生活様式がある」という〈貧困の文化〉概念によって先行研究では説明されることが多かったのに対し、〈ヤンチャな子ら〉の内部にある二つの層の差異の発生には、「地域や学校、家族で安定した社会関係を築けていない」がゆえに厳しい状況に置かれるという社会関係の次元の方が大きく関わっていることが明らかになった。よって、当研究の成果は、社会関係の次元に着目することの重要性の発見であり、著者による実践的・政策的な提案もそこから導きだされている。

 

結論

 社会関係の次元に注目することによって導き出された著者の実践的・政策的提案は社会的な合意がなければ実現しないことから、〈ヤンチャな子ら〉が抱える問題は、私たちの問題でもあると著者は述べる。

 それに対し、「ヤンキー」は、「暴走族」や学歴社会における「落ちこぼれ」、「子ども・若者の貧困」を生きる存在など、私たちの社会を映す鏡のように語られてきた。それゆえに、「ヤンキー論」はいつの間にか「自分語り」にスライドし、ヤンキーと呼ばれる人々のリアリティを捉え損ねてしまう危険性がある。だからこそ著者は、〈ヤンチャな子ら〉のリアリティをきちんと描き出し、他者への想像力を喚起することを目指した。

 

2.自分がこの本をどう読んだか

 次に、この本を自分がどう読んだかについて、エスノグラフィー、ポスト構造主義ジェンダー研究、構築主義的家族研究、子ども・若者の貧困研究の4つの観点から述べた後、この本に通底する「カテゴリーへのこだわり」という観点から全体について述べ、自分の研究にも接続する。

 

2-1.エスノグラフィーとして

 2年半のねばり強い参与観察が行われているだけあって、〈ヤンチャな子ら〉一人ひとりの個性や個々の状況のリアリティがフィールドノーツの引用やインタビューのスクリプトから生き生きと描き出されている。

 このことが特に効いているのは第2章に描かれている〈ヤンチャな子ら〉と教師たちの相互交渉の部分だと思う。もし、教師たちがどのような教育実践をしているかを知るだけであればそこまで長い参与観察を必要としないように思われる。

 しかし、〈ヤンチャな子ら〉の家庭と学校との間にあるジレンマに対処する戦略を教師たちに繰り出すのに対して、教師たちもまた対処戦略を無化したり流用したりしながら教育活動を遂行していく、そして、結果として〈ヤンチャな子ら〉は教師たちを肯定的に評価している、などといったきめ細かい分析にあたっては、〈ヤンチャな子ら〉への深いインタビューはもちろんのこと、教師と〈ヤンチャな子ら〉との間の相互作用場面の描写は不可欠だろう。

 終章で述べられているような、X高校の教師たちが状況に応じて〈しつける教員〉と〈つながる教員〉を使い分けていたことの意義は、第2章の精緻なフィールドワークがあったからこそ説得力がある。

 

2-2.ポスト構造主義ジェンダー研究として

 第3章では、〈ヤンチャな子ら〉が自分たちの集団の境界を維持したり変容させたりする実践において、〈インキャラ〉というカテゴリーに注目している。そして、アクロバティックなことに、その分析戦略をポスト構造主義ジェンダー研究の観点から「男性性」というジェンダーに注目するためにも用いている。

 ポスト構造主義に基づいた日本の「ジェンダーと教育」研究では、研究者の側から二分法的な性別カテゴリーをアプリオリに想定することや、ジェンダーの社会化-内面化図式が否定されてきた。しかし、その方針を貫徹すると、児童や生徒が「男子」や「女子」といった性別カテゴリーを明言するという、かなり限定された場面でしかジェンダーの作用を見出せなくなってしまう。

 だからこそ著者は敢えて「男性性」をデータに照らして自分で定義し、そして〈インキャラ〉というカテゴリーの適用においてどのように「男性性」が組み込まれているのかを分析するという方針を採っている。

 そして、コンネルやホーソンの「男性性」の定義、江原由美子の「からかい」論をもとに〈インキャラ〉という言葉がどのように機能しているのかを整理している。となると、データに照らして、なぜその「男性性」の定義を採用するのか(すべきなのか)が正当化される必要があるとは思うが、残念ながらそのような記述は見られない。

 とはいえ、どのような文脈のもとで〈インキャラ〉というカテゴリーが用いられ、そのことがどのような構造を規定しているのかについての厚い記述は見事としか言いようがない。それにより、男性学において重視されている「男性内でのヘゲモニー闘争」がしっかりと描かれており、第3章は男性学の文脈においても重要な位置づけを持った研究であることは間違いないと私は思った。

 

2-3.構築主義的家族研究として

 共働き夫婦の増加や、子どもを持たないカップルの増加、離婚の増加等、近年の家族をめぐる変容は日本の家族社会学において、「家族の多様化」論として論じられてきた。そこでは、パーソンズの構造機能主義の影響を受けた「標準的家族」像を批判し、乗り越えることが企図されている。

 その研究の流れに「構築主義的家族研究」と呼ばれるものがある。この研究においては、研究者の側が制度や形態、機能の面から家族を定義するのではなく、「家族」という概念が語りや言説においてどのように用いられているのかに注目する研究である。

 この研究の意義は、構築主義的家族研究を批判的に検討した久保田裕之(2010: 10)によれば、従来の血縁や婚姻に基づく家族研究が取り上げてこなかった、家族に関する個人のリアリティ構築という、新しい研究の平面を開拓したことに求められるべきだという。

 以上のような研究の文脈を踏まえた上で、著者は松木洋人の子育て支援の研究において、「子どもへのケア提供は引き受けるが、『親であること』は引き受けないという実践」が行われていることによって、家族が子どもへのケア提供を外部化しつつ「親であること」は放棄しないということを実現していることを参照している。そして、山田昌弘による、家族関係は「機能的欲求」だけでなく、自分の存在意義を確認する「アイデンティティ欲求」をも満たす関係になっているという整理を参照し、「家族であること」に配慮した支援を「アイデンティティ欲求」に配慮した支援として解釈している。

 そして、第4章のデータでは「貧困家族」についての記述の実践が相互行為のなかで描かれており、「正常な家族/逸脱的な家族」という区別の揺らぎ(あるいは家族経験の多元性)がどのように起こっているかを明らかにしている。

 これは構築主義的なインタビュー解釈の方法論として優れているだけでなく、構築主義的家族研究とアイデンティティ欲求を接続するという山田の方針を応用することで、見事に〈ヤンチャな子ら〉の語りのデータから「当事者たちの『家族であること』を担保しながら、家族以外の者がケアを提供していくこと」(231ページ)という実践的な提言を導き出している。

 ともすれば単なる記述で終わりかねない「構築主義的家族研究」の方法論によって、データから実践的な提言を導き出すところまで持っていっていることに感心した。

 

2-4.子ども・若者の貧困研究として

 私がこの本を読む前の素朴な印象として「ヤンキー」というのは階層的には困難な状態にあっても社会関係資本や精神的健康においては恵まれている場合が多いのではないかと思っていた。しかしそんなことはなく、著者は厳しい状況に置かれた人々が集まるX高校を戦略的にフィールドに選ぶことで〈ヤンチャな子ら〉のなかの二面性を描き出せている。

 私の素朴な印象は打ち破られ、「『その立場にいたら自分もそういう行動をしたかもしれない、そういう選択をしたかもしれない』という、人々の他者への想像力」(239ページ)を喚起されたように思う。

 そして、階層再生産や支援において、文化の次元よりも社会関係の次元が強く効いているのではないかという知見も面白い。北田暁大・解体研(2017)ではブルデュー文化資本による象徴闘争が界によっては成立していないのではないかということが実証的に検討されているが、その知見を参考にするなら、階層再生産や支援においても経済資本が強く効いてくる場合、文化資本が強く効いてくる場合、社会関係資本が強く効いてくる場合などを分ける基準があるのではないかと考えられる。

 ざっくり言えば、お金があれば幸せになれる人、文化的に豊かであれば幸せになれる人、サポートネットワークがあれば幸せになれる人、といったものを分けるなんらかの基準があるのではないかと思う。

 

2-5.「カテゴリーへのこだわり」について

 この本は人々のカテゴリー実践に対するこだわりが全体を通して強いように感じた。「ヤンキー」という言葉は敢えて現場の〈ヤンチャな子ら〉という言葉に置き換えられ、第3章でも第4章でもジェンダーや家族に関するカテゴリー実践が主題になっていることで、分析が豊かなものとなっている。

 再帰的近代化論に則って現代社会のことを考えるならば、研究者が固定的なカテゴリーに固執するのではなく、社会における多様な成員の解釈的なカテゴリー実践に依拠しながら調査研究をすることはますます重要になっているように思う。

 「(マイルド)ヤンキー」という言葉に典型的なように、語義が曖昧なまま使用が拡散していく言葉(いわゆる「バズワード」)はこれからますます増えていくことだろう。その意味では「家族」のような既存の概念の用法も変化していかざるを得ないだろう。

 そこで、著者のようなカテゴリーの使用にこだわった分析戦略を採用することは、経験的研究のリアリティを担保するうえで重要なことだと思う。

 ただ、その意味では第5章の「見通しをもてる仕事/見通しのもてない仕事」という分類は、正規/非正規という区別が不適切であったにせよ、〈ヤンチャな子ら〉の仕事経験に必ずしも寄り添いきれていない分類のようにも思われる。著者が見出した〈ヤンチャな子ら〉の中にある社会的亀裂そのものが、このような分類によって固定的なものになってしまっている側面もあるのではないだろうか。

 

2-6.私の研究において

 私は修士論文においてコンネルの理論を用いながら、文化系サークルの男性内における力学を描いたという点でこの本の第3章の議論に通ずる分析を行っている。ただし、そこではあくまでインタビューから得られた情報から集団内の力学を再構成したに過ぎないため、この本のように参与観察に基づいて男性性実践を精緻に分析したものは非常に参考になった。

 また、私は博士課程においてはシェア居住の研究を通じて、そのようなジェンダーの観点からの分析に加え、「家族」をめぐる記述の実践を分析するつもりである。「家族」をめぐる記述の実践が描かれたエスノグラフィーが読めたのはその意味で幸運だった。

 ただ、私はシェア居住の研究においては「ライフストーリー」の観点を重視したいと考えている。この本に書かれた「若者文化としてのヤンキー」の立場にある先行研究の整理によれば、こんにちの日本の状況では、少年期→青年期→成人期という安定したライフサイクルを前提にできないために、2000年代以降のヤンキーを描くためには「一定の年齢期に活動し卒業していくといったパターンを前提」(40ページ)にすることはできないのだという。

 それに対して、著者は幼少期→学齢期→移行期の軌道を想定し、三つの力学と高校入学までにたどってきた軌道が高校入学以後の生活実践を規定するとしながら〈ヤンチャな子ら〉を記述している。

 そして第4章では〈ヤンチャな子ら〉からライフストーリーを聞きつつも、「記述の実践としての家族」という視点の有効性を引き出すために、「調査で得られた語りのなかに対象者の家族に関する出来事や経験を見つけ出すというよりも、特定の文脈や状況で私との相互行為のなかで対象者がどのように家族を記述していたのか、それ自体を分析する」(150ページ)という鶴田幸恵・小宮友根(2007)による桜井厚の「対話的構築主義」への批判を受けての方針を採用している。

 この方針はデータに応じて設定されており、正当なものと言える。ただし、私が修論でおこなった「ライフストーリーにおける失敗経験」の分析のように、「転機」を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析したい場合は、前者の桜井の方針も採用しうるように思う。

 私が今後予定しているシェア居住についての調査でも、家族にまつわる記述の実践を分析するための「人生のなかの語り」という方針と、転機を媒介とした再帰的なアイデンティティ構築を分析するための「語りのなかの人生」という方針とを使い分けることになると思われる。

 

【文献】

知念渉、2018、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー――ヤンキーの生活世界を描き出す』青弓社

北田暁大・解体研、2017、『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房。

鶴田幸恵・小宮友根、2007、「人びとの人生を記述する――『相互行為としてのインタビュー』について」『ソシオロジ』52(1),21-36,159。

久保田裕之、2010、「家族定義の可能性と妥当性――非家族研究の系譜を手がかりに」『ソシオロジ』55(1): 3-19,136。

シェアハウスに「非日常」はいらない?――ポスト・テラスハウス時代のシェアハウス

「オープンシェアハウス サクラ荘」を運営していますホリィ・センです。

この記事はブログリレー「 #新型コロナ時代のシェアハウス」の8日目の記事です。

d-t-v.com

 

 プロレスラーの木村花さんが亡くなったことを受け、木村さんが出演していたリアリティ番組の「テラスハウス」の現シリーズが打ち切られることが決まった。

 木村さんが亡くなった背景には木村さんに対するSNS上での誹謗中傷が原因にあるとされている。しかし、テラスハウス上での木村さんの描かれ方には過剰な演出(要するにヤラセ)があったという指摘も当然あり、世間では「SNS上での誹謗中傷」の問題や、「リアリティショー出演者の安全」の問題などとして今後人々には記憶されていくことだろう。

 

***

 

 ただ、この記事で問題としたいのはそれらではなく、「『シェアハウス』なるもののイメージダウン」の問題である。人々がシェアハウスを選択肢として選ぶかどうかは、このシェアハウスなるもののイメージが、大きく関わってくるだろう。

 言い換えれば、メディアにおいて「シェアハウス」がどのように表象されているかは、人々が実際にシェアハウスに住む、という選択に対して影響を与えることになる。実際、シェアハウスを運営するある知人は「『テラスハウス』を見てシェアハウスに憧れた」と言っていたほどである。シェアハウスについてなんら具体的なイメージを持っていない人が「テラスハウス」を通じてシェアハウスのイメージを形成するということは大いにありうることだろう。

 「テラスハウス」の打ち切りに至る一連の流れを通じて、もし「シェアハウス」がイメージダウンの危機に晒されているとするならば、「シェアハウス」側としてはどのようなイメージ戦略を展開すればよいのだろうか。

 

シェアハウスに「非日常」や「出会い」が求められる理由

 結論から言えば、シェアハウスは「非日常」や「出会い」をコンセプトにするのではなく、もっと「当たり前の日常生活」をコンセプトにすべきだと僕は思う。現状、「シェアハウス」は良くも悪くもコンセプチュアルなものが目立ちすぎている。

 その結果生じてくる問題については後に述べるとして、まず、シェアハウスはなぜ「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまうのかを考えよう。思いつく理由は三つある。

 

 一つ目は先ほど述べたメディアでどのように表象されるかの問題である。「テラスハウス」もそうなのだが、シェアハウスは現実の少なさとは裏腹に、ドラマではしばしば見かける題材である。ある種の「憧れの生活」としてシェアハウスは描かれやすいがゆえに、それが現実にも影響を与えて「非日常」的なコンセプトが打ち出されるのだろう。

 

 二つ目に、シェアハウスの社会的機能の問題がある。僕の主観では、シェアハウスというのはモラトリアム期の若者が経験として住む「留学」のようなものとして扱われている側面があるように思う。あるいはあまりお金のない20代ぐらいの人が、それなりの水準の暮らしを実現する/お金をあまり使わずに暮らすためのものとしてシェアハウスは扱われる。

 つまり、お金ができたらシェアハウスからは出ていくし、あくまでも一時的な住まいとしてのシェアハウス、ということなのだろう。そうなると、人生の中で「シェアハウスに住む」経験を位置づけるならば、その経験には「成長」や「出会い」の機能がある、と捉えたくなってしまうのではないだろうか。

 いや、たしかにシェアハウスは「家族のオルタナティブ」として、すなわち「結婚ではないもう一つの選択肢」としてイメージされている側面もあるだろう。しかし、やはりあくまでも「オルタナティブ」であって、二級品として扱われているのが現状だろう。シェアハウスには「家族」のような、幸福な人生を約束してくれる強固な物語はない(もちろん、実際には家族を作ったからといって幸福な人生を送れるとは限らないのだが、「結婚して家族を作ることによって幸せになる」という「物語」は未だに多くの人に信じられているものであろう)。

 

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまう三つ目の理由は、ミもフタもないことなのだが、そうでないと人が集まらないからだろう。上で述べた二つの理由とも関わっているが、シェアハウス生活に対して人々が持っているイメージは意外にも貧困なのではないか。「出会い」があり、修学旅行のごとく夜がな夜っぴて語り合う、などといったイメージ通りのことも場合によってはないわけではないのだが、実際にはもっともっと特筆すべきところのない“低温な”日常生活が待っている(と少なくとも僕は感じる)。そんな当たり前の日常生活にも大事なところもある、というのが今回言いたいことなのだが、なかなか言語化するのが難しい。

 

 考えてみれば、これは異性愛規範にどっぷり浸かりながら生活している人にとって、同居しているゲイカップルの生活があまり想像しにくい傾向があるのに似ているかもしれない。

 メディアで描かれる「恋愛」には非日常的なイメージばかりが先行しているとはいえ、異性愛カップルが送る日常生活はまだしも想像できる。それに対し、ゲイカップルの日常生活について想像すると、性的なことばかりがイメージされる、というのがよくある偏見ではないだろうか。

 そんなイメージの貧困さを払拭する意図もあってのことだろう、『ゲイカップルのワークライフバランス――男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活』という社会学の研究書がある。シェアハウスについてもこういう研究は必要だろう。

 

ゲイカップルのワークライフバランス―同性愛者のパートナー関係・親密性・生活
 

 

 ということで、世間の人々にとっては、当たり前の日常生活を肯定的にイメージすることが難しいからこそ、入居者を集めたいシェアハウスの事業者や運営者は、やや過剰に非日常的なものをコンセプトにしてしまう側面があるのではないだろうか(とはいえ僕はイメージで語っているので、シェアハウスの「広報戦略」については、実証的な調査をする必要があるだろう)。

 

 

「持続するシェアハウス」を作ろう

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトとしてしまうことの問題はなんなのか。それは、持続しないということである。実際、周囲の多くのシェアハウスは5年も生き残っていないように思う。

 たしかに、平田朋義さん(10年以上シェアハウスに住んでいるベテラン!)が言うように、「シェアハウスが崩壊する数よりも多くシェアハウスを作っていく」というメソッドでいけば理論上シェアハウスは増え続けるだろう。それは一理ある。ただ、それでは世間の(なにより大家さんの)シェアハウスに対するイメージは悪くなる一方なのではないか、という懸念がある。

 シェアハウスが崩壊する理由は住民が出ていくからなのだが、そもそも僕の経験からすると、今のところ一つのシェアハウスに長く住み続ける人は珍しいように思う。トラブルが起きることですぐに出ていってしまう人もいるのだが、明示的なトラブルがなかったとしても1年や2年で出ていくという人も多い(そこには恋人との関係や仕事などの、ライフコース上の理由が関係している)。

 

 そうなってくると、住民入れ替えや引越しは日常茶飯事である(そして新入居者がうまく確保できないと、崩壊してしまう)。住民自身がシェアハウスを運営している自主運営型のシェアハウスの場合、住民入れ替えのたびに大家さんに報告する必要が出てくるだろう。

 その際に、もしその都度めんどうな契約変更などをすることになってしまうと、コストが高いのが問題である(お金的な意味でも、「再契約」などということになれば礼金や不動産への手数料を払うことになってしまう)。住民と大家さんとの間の取引コストを下げるためには、大家さんのシェアハウス住民に対する「信頼」が必要になってくるだろう。となるとやはり、今後の日本社会において、大家さんの「シェアハウス」に対する信頼を勝ち取るためにも、世間のシェアハウスイメージの向上は重要な課題なのだと思う。

 

 そして何より、今後シェアハウスに住む人の立場に立ってみれば、1年や2年でシェアハウスを出ていく人だけでなく、もっと長い期間シェアハウスに住みたいという人は増えていくだろう(「結婚して家族を作る」という物語がどんどん機能不全になっている昨今においては、増えていけばよいと僕は思う)。長く住みたい人のニーズに応えるためには、短命で終わるシェアハウスをホッピングしていくという方針だけでは心もとない。もっと長命のシェアハウスもあってよいだろう。家の寿命は人の寿命よりも長いのだ。

 

都市的・躁鬱的コミュニケーションは疲れる

 「非日常」や「出会い」をコンセプトとしたシェアハウスは、シェアハウスに長く住みたいという人にとっては不向きである。疲れるからだ。二つに分けて説明しよう。

 

 第一に、コミュニケーションに疲れる。僕が前に住んでいたシェアハウスでは、1ヶ月半に1回ほどパーティを開き、頻繁に人が出入りする状態だったが、ずっとコミュニケーションをし続けるのは正直言って無理である。疲れるとスッと自分の部屋に帰るし、人がいてもなにかとTwitterを見ていた。そういえば、フロントラインというシェアハウスをやっている今井ホツマくんは、このようにリビングでコミュニケーションし続けると疲れきってしまう現象を「リビング病」と呼んでいた。

 

 このコミュニケーションへの疲れは、どこか都市的な人間関係を思わせる。都市の人ごみ、匿名的な雑踏の中で、人々は浮遊している。そして、人口が多い分多様な人間たちの中から、「この人」という人に狙いを定めて、一気に距離を詰める。

 都市ではそんな極限まで「遠い」ところから、極限まで「近い」ところまで一気にジャンプするようなコミュニケーションが横行しているように思う。それは、比喩的に言えば躁鬱的なコミュニケーションと言えるかもしれない。なんら無関係で文脈を共有していない状態の人に対して、一気に近づこうとするコミュニケーション。言わばナンパのようなものだ。そして、強いエネルギーを割いてコミュニケーションを取っていると、そのうち疲れ切ってしまう。たまに「人間関係リセット癖」があるという人に出会うが、それはおそらくそのようなコミュニケーションを取る人なのだろう。これでは関係は持続しない。

 

 

 シェアハウスにおいても同様だろう。シェアハウス(やゲストハウス)が東京にばかり存在しており、「都市」の論理で動いているのは、シェアハウスがあくまでも一時的な住居でしかないということを象徴しているように思う。

 

シェアハウスの中の大人の論理と子どもの論理

 第二に、人目を気にすることに疲れる。朝井リョウという作家の『何者』という小説は、「何者かになりたいが何者にもなれない」若者たちの自意識を描いた作品だが、描かれる舞台は実はシェアハウスである。就職活動を共にする仲間がシェアハウスをしているという設定なのだが、一緒に住みながらお互いの目を気にしているという、印象深い描写がある。

 

宅飲みなのに、きれいな食器しか出てこない。どうして割り箸や紙皿が出てこないのか。あのふたりはきっと、お互いに格好つけたまま一緒に暮らしてしまっている。男の方は部屋着のくせにチノパンにきれいなシャツ。格好悪いところをお互いに見せることができていない。一緒に暮らすって、そういうことじゃないと思う

 

 『何者』の終盤では、結局のところダサくてもカッコ悪くてもやっていくしかない、という方向性が提示される。それは、夢を追う東京の若者たちの気持ちをまさに代弁した内容なのだと思う。だが、僕としてはその「ダサい」「カッコ悪い」人間に対して「夢」へと駆り立てるのではなく、シェアハウスの中では肩肘張らずに「ダサい」ままで、「カッコ悪い」ままでいいんだということを肯定したいと思う。

 

何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 

朝井リョウ「何者」 2つのセリフが伝える若者の在るべき姿 | DO THE LION も参考にしました)

 

 広告に出てくるシェアハウスはしばしば「オシャレ」で洗練されている。SNS映えするような、見られていることを意識した空間。まさにここまで述べてきた「非日常」な演出だ。しかし、僕は「日常性」を、ハレとケで言うところのケを肯定したい。公の論理が私の論理を覆ってしまえば、心は休まらないだろう。僕はもっと「ズボラ」でいいと思う。家の中なのだから、誰にも見られていないところでほどほどに気が抜けないと困る。

 だからといって、全く人目を気にしなくていいかと言われたら、これもまた違うだろう。シェアハウスの中にもマナーはある。親しき仲にも礼儀あり。たとえば家事掃除。「大人同士」が住むものであるということは前提なのである。

 

 言うならば僕が思う(一つの)理想のシェアハウスは、半分は「大人」の論理で、残り半分は「子ども」の論理で回っているのだと思う。一緒に住んでいる人のため、みんなのために「大人」としてやるべきことはやる。相互扶助の精神だ。その場合おそらく、相手が何をしていようと、何を考えていようとあまり口出ししない、「信頼」してやっていくことが大事なのではないかと思う。

 しかし、すべての面で「大人」になってしまうと疲れるしどこかよそよそしい。だから残り半分、「子ども」になって外の目を気にせずに自分をオープンにする。その場合おそらく、自己開示をしながら自分の気持ちを語り、相手の気持ちも聞くことで、「安心」が得られることが大事なのではないかと思う。

 とはいえ、基本的にシェアハウスのメンバーは親や恋人やカウンセラーなどではない。(役割が明確には定まっていない)一人の人間である。だから、すべての面で「子ども」として依存してしまうのもまた破綻を招くだろう。生まれた家族との関係がうまくいかなかったからこそ、メンタルサポートの機能を期待してシェアハウスにやってくる人もいるように思う。それ自体は理解できることなのだが、半面にある「大人」としての関係がうまくいかないことで、その期待は裏切られる傾向にあるように思う(個人的には非常に歯がゆい思いである)。

 

新型コロナ時代のシェアハウスとは

 以上の話を踏まえたうえで最後に、「コロナ時代のシェアハウス」のあり方について考えを述べてこの記事を終わりにしよう。

 僕はコロナウィルスによって、まず不安を喚起された。統計データを見た今となってはそこまで不安ではないのだが、当初は不安もあった。また、コロナウィルスへの「(補償の不十分な)自粛要請」に対して苛立ちも覚えた。少なくとも精神に悪影響だったわけである。

 そんななかで、住民とはほんの少しではあるが、コロナウィルスの話をした。ふとした日常の他愛もない話である。しかし、どういうわけか気持ちが和らいでいくのを感じた。これはどういうことだろうか。

 

 思うにシェアハウスの良いところは、物理的に近い、ということである。共在co-existenceしているということである。それが、コミュニケーションのコストを劇的に下げるのである。

 「オンライン飲み会」や「ZOOM飲み会」などといったものが世間では語られるが、いったいどれほどの人がそれに参加できているのだろうか。普段からオンライン上で仲良く喋れる人がいる、恵まれた人ならば良いだろう。しかし、そうでない人は、あの匿名的な、都市的なコミュニケーションに、自分を奮い立たせて飛び込んでいくことになる。それはやっぱり疲れるのだ。自分がどう見られているかを気にしなければならないことも含めて。

 そして、飛び込んだら飛び込んだで、距離が近づきすぎてしまう危険性もある。SNSの発達によって、見なくていい側面まで見てしまい、見せなくていい側面まで見せてしまうという事態は起こりやすくなったように思う。このことは冒頭で述べたテラスハウスの悲劇と繋がっている。

 それに対して(日常生活を重視する)シェアハウスならば、半分は「大人」の論理で回っているがゆえに低温なままで、半分は「子ども」の論理で回っているがゆえに適切に甘えられる、というわけだ。

 新型コロナ時代の、そしてポスト・テラスハウス時代のシェアハウスにおいて、非日常=ハレではなく、当たり前の日常生活=ケを肯定する論理を紡いでいかなければならない理由はここにある。

『ネットは社会を分断しない』(角川新書)まとめ

面白かったので雑に要約しました。Twitterとか使う人はぜひ読んでほしい。

 

 

ネットは社会を分断しない (角川新書)

ネットは社会を分断しない (角川新書)

 

 

1章:ネットにみんな希望抱いていたけど、幻滅してきてる
→保守派/リベラル派の分断が起こってるっぽい。分断が強まりすぎると相互の対話ができなくなるので、民主主義の危機である

 

2章:「社会の分断の原因はネット」説の紹介
①情報を見る側は、「選択的接触」をする(見たいものだけを見て、見たくないものは見ない)
特に、ネットではそれが強くなる(フィルターバブル、エコーチェンバー)

②情報を発信する側が増えた(パーソナルメディア化)
世間の意見は中道が多い山型の分布をしているので、情報発信者が少ない場合は、顧客獲得のために中道にならざるを得ない。マスメディアは寡占状態で、参入する者が少なかった。
→しかし、ネットの発達により個人が発信できるようになり、メディアが増えた(メディアのパーソナル化)。パーソナルメディアでは参入コストが低いので、少数な過激な人を顧客(ターゲット)にしても十分やっていける。
→よって、過激なメディアが発達する。

以上より、「ネットは社会を分断する」というのが定説。
実際、ネット利用と意見の分極化(保守に強く偏っているorリベラルに強く偏っている)には相関がある。

 

3章:ネットを使わないはずの高齢者の方が過激
10万人規模の調査をしたところ、
①若者より高齢者(60代以上とか)の方が過激(リベラルまたは保守への意見の偏りが大きい)。
②女性よりも男性の方が過激。

若者の方がネットをよく使うので、①は2章までの議論と矛盾している。なぜか。
→因果関係が逆だからでは。
「ネット利用が意見を過激化させる」のではなく、「過激な意見を持った人、すなわちなんらかの発信をしたい人がネットメディアを利用するのを好む」という因果関係ではないか。

 

4章:2時点調査で、ネットの利用を開始した人を調査
①全体としては過激化していない
②若い人や女性はむしろ、ネット利用(ブログを見る)を通じて穏健化している
③最初からとても過激な人(端にいる2割の人たち)はTwitterを利用すると、より過激化する傾向は一応見られる

 

5章:保守派の人がリベラルな発信者に触れる/リベラル派の人が保守派の発信者に触れる割合(クロス接触率)は意外と高い
TwitterFacebookではクロス接触率4割。マスメディアとか紙媒体とかと比べてもこれはむしろ高いぐらい
・(当たり前だが)過激になればなるほど、クロス接触率は下がる
・両方の意見に触れると穏健化するという実験結果もある

2章の話と逆の結果になっている理由は何か?
①ネットでは「選択的接触」が起こるということだったが、(マスメディアと比べて)複数のメディアに触れるコストも低くなるために、多様なメディアに触れていると考えられる
②ネットでは一部の人の声がデカく見えるから、それをそのまま受け取ると2章のような話になってしまう

 

6章:ネットは罵倒と中傷ばかりに見えるのはなぜか
「人々の政治的態度」ベースでは偏っていない。むしろ中央に多く分布している。
しかし、ネット上の「書き込み総数」ベースで見ると偏っている。
なぜなら、ネットでは発信したい意見を持っているごく一部の人が何度も書き込むということが起こっているから(ヘビーライター)。
例えば、憲法9条の問題について、総書き込み数の半分は0.23%の人が書き込んだもの。

閲覧頻度から言っても、よく書き込む人のものがよく読まれる。

しかも、両極端の強い意見が目立っていることで、穏健派は書き込みを萎縮するようになる。

よって、ネットの書き込みは、真ん中の方にいるサイレントマジョリティたちの声を代表していない。

「下ネタ好きの女性」の困難

はじめに――友人関係と性的被害

 昨年、第8回 青少年の性行動全国調査報告をまとめた『「若者の性」白書』が発売された。

 

 

 僕は第7章の性的被害について書かれた箇所に興味を惹かれた。その中でも、性的被害と友人関係に関するデータが興味深い。

 それによれば、高校生と大学生において、

 

 

  • 「現在の友人関係のイメージ」を「楽しくない」としている者ほど「恋人以外からの性的被害」を受けている傾向にある(ただし大学生男子にはそのような傾向はない)

  •  「あなたは、友人と、性の問題についてどのくらい話しますか」という設問に「よく話す」としている者ほど「恋人以外からの性的被害」・「恋人からの性的被害」を受けている傾向にある

     

という。

 これについて羽渕は「青少年は、既存の友人関係のイメージが悪いことから、性的被害にあう可能性を高めるのだが、ケアを求める先もまた友人であると推測できる」(羽渕 2019: 161)という解釈を述べている*1

 そこで羽渕の解釈を否定するわけではないが、敢えて女性に関してのみ、逆向きの因果の方向を考えてみたい。すなわち、「友人と性の問題について会話している」女性が、そのことによって性的被害に遭いやすくなっているという因果関係について考える。

 

*1:その一方で羽渕は、「性的被害にあったことによって、友人と性の問題について会話しているのか、友人と性の問題について会話している層が被害にあいやすいのか、データのみで解釈することはできない」(羽渕 2019: 162)と、因果関係についてはペンディングしている。

 よって、因果関係がない可能性すらある。例えば、「性行動が活発であるがゆえに、友人と性の問題について会話する頻度が高い」、「性行動が活発であるがゆえに、性的被害に遭いやすい」という二つの因果関係が特定できれば、「性の問題について会話する頻度が高い」と「性的被害に遭いやすい」は擬似相関ということになる。

 

「下ネタ好きの女性」がタゲられる理由

 ここからがこの記事の本題。ありていに言って、「下ネタ」を話すことを好む女性は、男性から性的なターゲットにされやすい傾向があるのではないか、と僕は考えている*2

 その理由を以下、三点挙げよう。

 一つ目の理由は、下ネタを話すことを好むがゆえに、「性に対してオープン」であることを期待されてしまうからである。それにより女性は、男性から「ワンチャンありそう」「自分でもいけそう」(性的関係になれそう)と思われてしまうリスクがある*3

 二つ目の理由は、もっと動物的・下半身的な反応として、女性が性の話題について話しているのに対して目の前の男性が興奮する可能性があるからである。とりわけ密室的状況やアルコールが入った状況において、性的被害に発展するケースはあるだろう*4

 三つ目の理由は、女性と話すのが苦手な男性にとって、「下ネタ」を話す女性は話しやすいからである。というのも、「下ネタ」は男性的なコードを持った話題だからだ。すると、女性と話すのが苦手な男性にとってその女性は、まともに会話ができる希少な存在となる。希少であるがゆえに恋愛的関心を向けてしまうということはありうるだろう。

 

 

 以上三つの理由から、下ネタを話すことを好む女性は男性から性的なターゲットにされやすい傾向がある、と僕は考える。

 そして、この社会では男性の性行動に寛容であるのに対して、女性の性行動には非寛容である傾向が未だに根強い(「性規範のダブル・スタンダード」と呼ばれる)。そのため、性のことを頻繁に話題にする女性は、男性からは(恋人からにせよ、恋人以外からにせよ)性的な蔑視の対象になってしまう傾向があるのではないだろうか。

 その結果、男性から性的なターゲットにされることは、性的被害にまで発展してしまうと推測できる。……というのが冒頭の統計データに対する僕なりの解釈である。

 

*2:設問では「性の問題についてどのくらい話しますか」というワーディングがなされているため、これを「下ネタ」と特定することには飛躍があるかもしれないが、大まかには同一視できると仮定している。 

*3:ちなみに、性暴力の加害者はしばしば「彼女は本当は性的な関係になることを望んでいた」というような「暗黙理論」の下で、性暴力をはたらいている。その場合、加害者の更正においては、(被害者に責任を押しつけるのではなく)加害者が依拠してきた暗黙理論を可視化していくことが重要になる(中村 2016)。

 ここでは、下ネタを話すことを好む女性に対して「ワンチャンありそう」と考える傾向を、男性側の一種の暗黙理論として把握することができるだろう。

*4:とはいえ、アルコールは人の人格や性格を変えるのではなく、その人が元々持っている道徳観を暴くだけだとされている。

「酔った勢い」はなく、元々の道徳観が出るだけ 実験で判明か - ライブドアニュース

 また、女性に対して男性が動物的に反応してしまう、すなわち「性欲には抗えない」というのもある種の神話であり、上で述べた「暗黙理論」の一種と考えるのが妥当だろう。加害者が「性欲に逆らえずに」「魔が差した」という旨の説明をしたとしても、それは男性を免責する理由にはならない。ただし、「神話」だからといって簡単に抗えるというわけでもないだろう。

 

「下ネタ好きの女性」の性嫌悪と困難

 そして、ここからが重要なのだが、下ネタを話すことを好む女性は、実は性に対して防衛的であることも(世間で思われている以上に)少なくないのである。

 なぜ、性に対して防衛的であるのにもかかわらず、下ネタを話すことを好む人がいるのだろうか。考えられるパターンを二つ挙げておこう。

 

 一つ目は、無意識レベルでの性嫌悪があるパターンである。下ネタを話すことを好む女性が、実際に男性と性的関係を持つことは忌避しているというのは直観的には理解しがたいかもしれないが、精神分析的な解釈によって説明が可能になると僕は考える。

 すなわち、自身の性への嫌悪感を意識したくないがゆえに、その防衛機制として下ネタを話す、ということだ。「好きな子に(好きであるということを意識したくないがゆえに)いじわるをしてしまう」というのが、「反動形成」のわかりやすい例であるが、そのような裏腹なかたちでの下ネタによって自身を防衛していることがありうる*5

 しかし、上で述べたように、下ネタを話すことを好む女性は性的なターゲットとされやすい傾向があるために、性に対して防衛的であるのとは裏腹の結果を招いてしまう。

 

 二つ目のパターンは、「見る側」、ある種の「オヤジ」になることによって、自身が「女性身体」として見られることを回避しようとするパターンである。アダルトビデオの9割以上が男性向けであることからも分かるように、この社会では男性に「見る側」、女性に「見られる側」の役割が偏って割り振られている。その偏りに反して、女性側が「見る側」のポジションに立つということである。

 これには二つの方法がある。一つは「腐女子」である。男性同士の同性愛(BL)をまなざすポジションに立つことで、性的コンテンツにアクセスしながらも「見られるもの」としての女性身体から逃れることができる。

 もう一つは男性優位の(≒ホモソーシャルな)集団において、「名誉男性」(男性と同等であると認められた存在)になることである。男性と一緒になって下ネタを言うことで、自身を男性化する(女性であることを忘れる)ことができる。

 しかし、後者においては問題が生じる。多くの場合、ホモソーシャリティが強い集団に継続的に居続けられる女性というのは、男性のセクハラ的な接し方に対して許容的・鈍感で居られる女性である。というのも、ホモソーシャリティが強い集団においては、しばしば女性蔑視的に女性を性的に対象化する話題が語られ、その場にいる女性に対してもセクハラ的な接し方がなされるからである*6

 よって、女性自身は「名誉男性」になることを選び、「女性」として対象化されることを避けているつもりなのだが、結果的には男性から性的なターゲットにされてしまい、性的からかい等の被害を受けることになる可能性が高いであろう。

 

*5:「フィクションでの性愛を好むが、現実での性愛を忌避している」といった風に、単純に性愛の対象のレイヤーが異なるというパターンももちろんあるだろう。その場合にはことさらに精神分析的な解釈をする必要はないかもしれない。

*6:吉川康夫ら(2005)の調査によれば、体育系女子学生(スポーツの場)は体育系以外の女子学生(スポーツ以外の場)よりもセクシュアル・ハラスメントになりうる行為に対して許容的であり、マッサージを含む身体接触的行為がセクハラであるという認識も低かったという。

 ここから、ホモソーシャリティが強い集団に継続的に居続けられる女性は、セクハラ的な接し方に対して許容的・鈍感で居られる傾向が相対的に強い女性であると推測できる。

 

「下ネタ好きの女性」と「サークルクラッシュ」的問題系

 実は性に対して防衛的であるにもかかわらず、性的なターゲットにされてしまう。このような困難は、僕が専門としている「サークルクラッシュ(恋愛関係のこじれによって集団の人間関係が壊れること)」の問題系で捉えることができる。

 どういうことかというと、女性が周囲の男性たちと(非-性的な)友人関係でいたいにもかかわらず、「下ネタ」が一つの原因となって、性的・恋愛的対象として見られてしまいかねないということである。

 

 はてな匿名ダイアリーに「自戒」として書かれたという「サークラにならないために」と題された文章がある。そこには、男性が多い趣味集団において、男性に好意を抱かれないための注意が書かれている。「ここまで気をつけなきゃいけないの!?」と思わせるようなことがたくさん書かれている中で、こんな記述がある。

 

猥談では自分の話はしない

深夜になるとどうしても話が猥談になる。

自分のバスト、生理、オナニーの話はしてはならない。

酒が入った時は特に注意。

  

 つまり、「猥談」において「自分の話」をすることによって、男性からの性的なターゲットになってしまいかねないと注意が促されているのである。「下ネタ好きの女性」が意図せず性的なターゲットになってしまうという問題は、サークルクラッシュ問題に繋がってくる、ということがお分かりいただけただろうか。

 性的被害にあきたらず、周囲との関係が壊れてしまったり、集団に居づらくなって離脱せざるを得なくなったりするリスク。これは深刻である。

 

 そして、この問題は、「非モテ」や「インセル(自身に性的な経験がない原因は対象である相手の側にあると考える人)」と呼ばれるような問題系にも繋がってくる。

 「下ネタ好きの女性」が性的なターゲットになりやすい理由として、「女性と話すのが苦手な男性にとって、下ネタを話す女性は話しやすいから」ということを先に述べた。この男性がその女性に好意を持ったときに、そのまま成就すればよいのだが、女性がその男性の好意を拒否することは大いにありうる*7

 

 男性視点で見て、ただ単に拒否されるだけならまだしも、男性の側のアプローチがまずければ、女性や周囲から「セクハラ」や「被害」として認識される恐れがある。その一方で、女性は別の男性からの好意を受け入れることはよくある話である。このとき、男性は次のように主張するかもしれない。「同じようにアプローチをしているのに、自分のはセクハラで、あいつのは受け入れられるのはなんでなんだ! イケメンは無罪ってことかよ!」と。

 しかし、この主張のおかしさは、「家宅侵入」の比喩で考えてみれば分かりやすい。ある家に対して、Aさんは家主に許可されているために入ることができる。それに対して、Bさんは許可がないために、Bさんが家に勝手に入れば家宅侵入罪ということになってしまう。元の話に戻せば、女性がある男性の好意を受け入れながらも、別の男性の好意を拒む権利は当然にある、ということである。

 にもかかわらず、女性に好意を受け入れられない男性が女性に対して「恨み」を抱いてしまうのは、性的・恋愛的アプローチを拒絶されることで自分の人格を否定されたような感覚をおぼえるからではないだろうか。また、「イケメン無罪」という言い回しにも現れているように、性・恋愛を享受する女性・男性たちにルサンチマン(嫉妬による憎悪)を抱いてしまうからではないだろうか。

 これにより、女性が性的なターゲットになった際に生じてくる加害-被害の問題は後景に退き、「非モテ男性の受難」的な問題に回収されてしまう。すると、「下ネタ好きの女性」はなおも困難を抱える傾向が続くことだろう。

 

*7:このように、女性が好意を持たれたくない男性に好意を持たれてしまう現象を、女性視点で「雑魚モテ」と呼ぶ(峰・犬山 2012)。

 

おわりに――「性にオープン」であったとしても……

 ところで、そもそも下ネタを話すことを好む女性には「性に対してオープン」な人もいる。しかし、そうであってもやはり「対象外」の男性からアプローチされるのにはしばしば恐怖が伴うことだろう。

 「オープン」であると同時に、「拒否する」というコミュニケーションが苦手な人もいることだろう。そういう人が性的被害を受けては泣き寝入りをしている、という状況は想像に難くない。

 そして、性規範のダブル・スタンダードがあるために、女性が多くの男性と親密な関係を持つことに対するバッシングは激しい。多くの男性と親密な関係を持つ中で、結果的に友人関係から孤立していく女性には僕も覚えがある。

 

 冒頭に引用した羽渕の解釈によれば「既存の友人関係のイメージが悪いことから、性的被害にあう可能性を高めるのだが、ケアを求める先もまた友人である」という。また、同じデータによれば、「恋人からの性的被害」においても「携帯電話のチェックなどで、友達づきあいに干渉された」という項目が上位を占めている。

 これらを合わせて考えれば、女性が「下ネタ好き」である結果生じかねない性的被害の問題は、性的関係から独立した友人関係を「希少」化すると言えるのではないだろうか。サークルクラッシュで集団に居づらくなって辞めたらなおさら友人はいなくなることだし。

 

【参考文献】

羽渕一代、2019、「性的被害と親密性からの/への逃避」日本性教育協会編『「若者の性」白書――第8回 青少年の性行動全国調査報告』小学館: 147-63。

峰なゆか・犬山紙子、2012、『邪道モテ!――オンナの王道をゆけない女子のための新・モテ論』宝島社。

中村正、2016、「暴力臨床論の展開のために――暴力の実践を導く暗黙理論への着目」『立命館文學 = The journal of cultural sciences』646: 100-14。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/646/646PDF/nakamura.pdf

吉川康夫・熊安貴美江・飯田貴子・井谷惠子太田あや子・高峰修、2005、「スポーツにおいて女子学生が経験するセクシュアル・ハラスメントの現状とその特殊性」平成14~16年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(C)14594013)研究成果報告書。

http://players-first.jp/domestic/reports.html

サークルクラッシュ同好会とは何か? その戦略の全貌

 この記事はサークルクラッシュ同好会リレーブログ2020の15日目の記事です。14日目はゆーれいさんの記事のはずですが、この記事の投稿の時点ではまだ更新されていません。

 テーマは「あなたにとってサークルクラッシュ(同好会)とは?」とのことです。

 思い返せば、2016年11月発行のサークラ同好会会誌第5号に「サークルクラッシュ同好会運営マニュアル」という文章を書き、最近ブログにもアップロードしました。

holysen.hatenablog.com

 しかし、この記事はサークルを立ち上げて活動するための技術的な側面が強く、サークラ同好会そのものの明確な理念などについては書けていません。

 サークラ同好会を2012年に立ち上げて既に9年目になりますが、その間に様々な会員と出会いましたし、様々な活動を展開し、試行錯誤してきました。その経験を経て、僕の中で考えたことはたくさんあります。

 そこで、せっかくなのでこの機会にサークラ同好会の活動が何を目指しているのか/実際に何をしているのか、その戦略の全貌を書こうと思います。

 

目次:

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 ①「サークルクラッシュ」から見えてくる人間関係の生きづらさ

 ②ダークツーリズム戦略

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 ①社会における「ダーク」な人たち

 ②「所属」が苦手な人たち

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(ダークな人たち編)

 A:ダークサイドの語りの場

 B:「理論」の学習

 C:「実践」的な活動

 参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(所属が苦手編)

 所属なき活動

 参考:「一見さん」の機能

 所属しないということは一枚岩にならないということ

 

まとめ

 

なぜ「サークルクラッシュ」にこだわるのか

 「サークルクラッシュ」はもともと2005年に作られた言葉であり、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。

 この言葉を用いることが、「特定の個人(特に女性)に責任を押し付ける」という機能を持つことは当初から問題視されてきました。そこで僕は「サークルクラッシャー」という“”に焦点をあてた言葉ではなく、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを重視してきました。

 「そんな問題のある言葉はそもそも使わなければいい」という議論もあることでしょう。それでも「サークルクラッシュ」という言葉にこだわる第一の理由は、隠れている生きづらさの問題を可視化できるからです。

 

①「サークルクラッシュ」から見えてくる生きづらさ

 具体的には、集団において恋愛関係のトラブルが起きた際に、そのトラブルがどのように起きたのかを理解するための補助線となります。どんな恋愛トラブルが「サークルクラッシュ」と呼ばれるのでしょうか。

 例えば、「集団内の二人が付き合っていたが、結局は別れた」というだけでは、ただのよくあることで、「クラッシュ」とは呼べません。彼ら二人に何か問題があるとも考えないでしょう。

 その一方、「サークル内で恋愛をする気のないAさんはサークル内の人に友達として接しているつもりである。にもかかわらず、同じサークル内のBさんやCさんやDさんは、Aさんと恋愛関係になれると勘違いしてしまい、関係がこじれていく」などといったパターンはまさに「サークルクラッシュ」と呼ばれるような事態です。

 

 これは、抽象化して言えば、「関係に対して一方が抱いている期待ともう片方が抱いている期待とがあらかじめズレてしまっている」がゆえに生じてしまうトラブルです。そこには、自分が望む関係を相手に伝えることができない、相手が自分に望む関係を読み取ることができない、友だち関係/恋愛関係になりたいのになれない、などといったある種の「未熟な」人々が関わっている可能性が高いです。そのような「未熟な」人々のなかで生じる恋愛トラブルは「サークルクラッシュ」という言葉と(連想的に)結びつきます。

 そして、「自分が相手に望む関係」や「相手が自分に望む関係」といった期待は、しばしば「男性らしさ」「女性らしさ」というジェンダー規範に則って形成されます。特に恋愛関係においては、しばしば社会に流通している「男性らしさ」「女性らしさ」が再演されることになります(「ナイトと姫」の関係、「奢り・奢られる」関係などを想像すれば分かりやすいでしょう)

 しかし、そのような「男性らしさ」「女性らしさ」にうまくノれない(ひいては社会の「主流」にも馴染めない)人々もいるのです。そこで、「サークルクラッシュ」というレンズを通すことによって、そのような人々に生じたトラブルの具体的な困難が見えてきます。

 要するに、「サークルクラッシュ」という言葉は、社会の「主流」に馴染めない人々が抱える様々な困難を連想するための補助線です。「サークルクラッシュ同好会」に、(主に人間関係における)ある種の生きづらさ、上手くいかなさを抱えた人たちが集まってくるのは、この名前のおかげでもあるのです。

 

②ダークツーリズム戦略

 第二に、「サークルクラッシュ」は、人々のゴシップに対する欲望を掻き立てる「あるあるネタ」であると言えます。

 上で述べた「生きづらさ」を直接テーマにした(たとえば「居場所」や「支援」のような看板を掲げた、わかりやすく「正義」にかなった)団体をやっていくことも確かに可能ですし、そういった団体には意義があると思います。

 しかし、そのような「まとも」に見える団体ではリーチしにくい層もいます。例えば「差別」や「生きづらさ」のような問題に対して強い関心を持っていない層もいるでしょう。そういう人たちに対してはむしろ、やや扇情的な表現によって暗い好奇心、ある種の「偏見」を利用して「裏口から」誘導するという方法がありうると思います。

 「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるそのゴシップ性を用いることで、「生きづらさ」からやや遠いところにいる人も惹きつけることが可能になります。

 そして、最初は好奇心をキッカケにサークルクラッシュ同好会に参加した人も、最終的にはふだんなかなか語りにくい生きづらさや性愛、ジェンダーといった「まじめな」問題について考え、語り合える場に辿り着くことを狙っています。

 ここで期待しているのは、アウシュヴィッツ強制収容所チェルノブイリ原発などへの暗い好奇心を利用して観光させてその場所の現実を教える、「ダークツーリズム」と同様の効果です。

 

 以上の①②のいずれにせよ、サークルクラッシュ」という言葉をうまく用いることで、他の概念や視点ではリーチしにくい層にリーチできるということが、「サークルクラッシュ」にこだわる理由です。

 

サークルクラッシュ同好会にはどういう人が来ているのか

 では、サークルクラッシュ同好会には、「まとも」に見える活動ではリーチしにくい層が実際に来ているのでしょうか。以下、二つの側面から見ていきましょう。

 

①社会における「ダーク」な人たち

 サークラ同好会に来る人にはさまざまな人がいます。「生きづらさ」という面で言えば、例えば社会の「普通」の規範にノれない人々。いわゆる「男らしさ」「女らしさ」のようなジェンダー規範にノれない人、自身の恋愛の上手くいかなさに対してコンプレックスを抱いている人、無意識に人との距離感が近くなってしまう人、同性と仲良くするのが苦手な人、メンタルヘルスの問題を抱える人などが来ています。このような人が集まってくる理由は、「サークルクラッシュ」という言葉からこれらの困難が連想されるからでしょう。

 その中には、サークラ同好会が「ちょっと怪しい団体」であるがゆえに来た人もいるはずです。というのは、「まとも」であることや世間の「建前」に対して相性が悪い人もいるからです。

 具体的に述べましょう。例えば、「自傷行為や処方薬の過量服用(OD:オーバードーズ)は人に言えない恥ずかしいことだ」と思っている人がいたとしましょう。その人にとって、自身の自傷行為やODについて「まとも」そうな人に対して語ることは難しいかもしれません。「怒られるんじゃないか」「『やめた方がいい』という正論を言われるんじゃないか」といった恐れを持つからです。

 他にも、恋人からハラスメントや暴力を受けている人や、複数人と性的な関係を持っている人、逆に自身が性的に承認されないことを悩んでいる人なども同様の恥ずかしさや恐れを持っているかもしれません。一般的に言えば、「誰かに聞いてもらいたいけど、人に話すのは恥ずかしい/恐い」ことを抱えている、言わば「ダーク」な人たちがいるわけです。

 一方、サークラ同好会は「ちょっと怪しい団体」です。そこに集まる人々も「ちょっと怪しい」ことでしょう。「ちょっと怪しい」がゆえに、「ダーク」な人たちは自分の「まとも」ではない(社会における主流の価値観からは逸脱した)部分についても話を聞いてくれるのではないか、と。そのように期待し、自身の「ダークサイド」について語ってくれます。そして、サークルクラッシュ同好会の人々が、(「やめた方がいい」「間違っている」などと言うことなく)興味を持ってその語りに耳を傾けることで、サークラ同好会は安心して「ダークサイド」について語ることができる場になっていきます。

 確かに、自傷行為や暴力などは実際に深刻な害をもたらす場合があります。しかし、大事なのはその「害」をできる限り減らすことです。そう考えると、「よくないからやめた方がいい」という「正論」は役に立たないかもしれません(「やめた方がいい」と言うこと自体が人を孤立させていく可能性すらあります)。

 むしろ、被害を軽減するためには「ダークサイド」について語り合うことが効果的な場合がしばしばあります。社会的に良くないとされていることを安心して語れて、孤立しない。そういう場をサークラ同好会は目指していると言えます。

 また、先ほど述べた「ダークツーリズム」の戦略を採っていることから、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、最初から強い関心を持っていたわけではなかったりする人もサークラ同好会には来ます。そういう人たちにとっては、以上のような「ダークサイド」について触れ、学ぶ機会は重要でしょう。

 

②「所属」が苦手な人たち

 もう一つの特徴として、「所属の論理」が苦手な人がサークルクラッシュ同好会にはよく来ます。

 所属の論理とは、体育会系の組織などをイメージすれば分かりやすいかもしれません。先輩-後輩や上司-部下といった上下関係がはっきりとあり、タテの関係を継承していくような組織です。そこでは、一人ひとりが組織のためになんらかの役割(仕事)をこなす必要があるでしょう。

 そして、人間関係も往々にしてベタベタしたものになってきます。こういった「所属」に縛られたくなかったり、馴染めなかったりといった人もいるものです。そういう人たちがサークルクラッシュ同好会には来ます。

 具体的には、二パターンです。たくさんのサークルに入ったうえで、サークラ同好会にも来るという人と、普段居る場所に居場所がないからこそサークラ同好会に来るという人とがいるように思います。

 いずれにおいても、①で述べた「ダーク」な人たちは一定数います。しかし、「生きづらさ」のような問題に対して明確な当事者ではなかったり、強い関心を持ってはいなかったりするにもかかわらず同好会に来る人もまた、「所属」を苦手としている人がほとんどです。

 おそらく、「所属が苦手」という特徴は、サークルクラッシュ同好会会員の本質的な特徴の一つと言ってもいいでしょう。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「ダーク」な人たち編)

 それではサークルクラッシュ同好会ではどのような活動が行われているのでしょうか。先ほどの①「ダーク」な人たち、②「所属」が苦手な人たち、という分類に即して、まずは「ダーク」な人たちが集まるがゆえの活動について書きましょう。

 

A:ダークサイドの語りの場

 サークラ同好会はダークサイドの語りの場です。具体的には「当事者研究」という、誰もがなんらかの「生きづらさ」の当事者であるという立場から、テーマを決めて話し合い、自分のことについて研究するという会をよくやっています。

 また、ブログ上において「自分語り」をするという慣習があり、そこでも社会に対する疑問や生育環境などが語られ、しばしば「ダーク」な内容が含まれます(そういうことを語ろうという空気があるのです)。

 年に一、二回発行される会誌においても、「自分語り」を含んだエッセイは多くを占めています。口で語るだけでなく文章によって語るということも奨励されているということです。

 

B:「理論」の学習

 読書会などもよく開かれています。読書会に選ばれてきた本としては、抽象的な理論について書かれた本から、具体的な実践について書かれた本まで幅広いです。

 言うならば、学術的なジェンダー論について学ぶと共に、俗ないわゆる「男女論」などについても学ぶ、というイメージです。

 先ほどの当事者研究のことを考えるならば、専門知の学習と当事者としての研究を両方ともやっていると言えるでしょう。普段の会話や会誌においても学術的に言われていることと、具体的な経験とを往来するような語りが見られる気がします。

 サークラ同好会では言わば、人間関係やジェンダーにおける「理論」と「実践」と行き来していると言えるでしょう。

 

C:「実践」的な活動

 ここでいう「実践」的な活動のなかには、次のような活動が含まれます。「インプロ」と呼ばれる身体や発声を用いた即興劇的なコミュニケーションのゲーム。服を自分ではあまり買いに行かない人のための「服を買う会」。ここ数年は行われていませんが、旅行やバーベキューなどの「リア充擬態活動」みたいなものもありました。

 「ダーク」な人たちにとっては、Bで述べた「理論」と同時に、「実践」的な活動も重要になってきます。というのも、社会の「光」の側面、「ライトサイド」にいる人は社会の中で壁にぶち当たることが相対的に少なく、いちいち立ち止まって考える必要がないのに対し、ダークサイドにいる人たちはいちいち立ち止まるからです。社会への不適合を前にして、立ち止まらざるを得ないのです。

 立ち止まった人は、まず言葉を使って現実を「理論」的に捉えます。多くの言葉を尽くして、現実を把握し直します。それによって、自身と現実との距離を埋めていくのです。しかし、理論だけでは実際の行動にはなかなか結びつきません。言語化されたものは「実践」に応用されなければなりません。そこで、ある程度実践的な活動が必要になってくるわけです。

 

 このように考えると、サークラ同好会ではAで述べたような「語り」が行なわれると同時に、日常生活の具体的な「経験」も重視していますサークルクラッシュ「研究」会ではなく同好会という名前をつけたのも理由のないことではありません)

 また、理論的に現実を「相対化」することを重視していると同時に、とりあえず今生きている社会に「適応」するというベクトルも持っていると言えるでしょう。

 「理論」と「実践」、「語り」と「経験」、「相対化」と「適応」。それらは、ダークな人たちがこの生きづらい社会をサバイブしていくための、車の両輪と言えます。一見相反する活動ですが、それらは両方とも必要になってきます。理論だけでは社会の「外側」にしか居られず、実践だけでは社会の内側で居づらい思いをすることになるからです。

 

参考:ネタサークル、メタサークル、ベタサークル

 以上のことをもっと別の、図式的な視点からも説明しましょう。僕は「サークラ同好会って何をやっているサークルなんですか?」という質問に対して、かつてこのような説明を好んでいました。「サークラ同好会はネタサークルであり、メタサークルであり、ベタサークルである」という説明です。

 「ネタサークル」とは「他のサークルをクラッシュする」だとか、「サークルクラッシャーを養成して他の団体に送り込む」だとか、そういった「ネタ」性を活かして目立つ活動をするサークルです。

 「メタサークル」とは一歩引いた目線からサークル、人間関係、コミュニケーションといったものを「研究」することで、具体的には自分語りや会誌作成のような活動をするサークルです。

 「ベタサークル」とは普通の(ベタな)サークルがやるような、新歓や定例会や交流などの活動をするサークルです。

 これを先ほどの「理論と実践」、「語りと経験」、「相対化と適応」の二項対立の話に当てはめれば、サークラ同好会では「メタとベタ」の往還運動をやっていることになります。「ダーク」な人たちの場合、立ちはだかる現実をまず「メタ」化したうえで、ゆっくりていねいに「ベタ」な社会と関わりを持っていくことになるでしょう。言わば、「メタ」の「頭でっかち性」を「ベタ」が補完していることになります。

 それでは、「ネタ」とはどのような機能を果たしているのでしょうか。いくら「メタとベタ」の往還運動の重要性を訴えても、それがきわめて内輪の、タコツボ化した活動となってしまっては意味がないでしょう。

 そこで先ほどの「ダークツーリズム」の発想が出てきます。「サークルクラッシュ」という言葉から連想されるゴシップ性、すなわちネタ性を活かして外部の人を惹きつけるわけです。

 すなわち、ここで言う「ネタ」とは「内輪ネタ」のネタではありません。むしろ、「話題性やゴシップ性があり、ミームとして拡散する力がある」というニュアンスの「あるあるネタ」であるがゆえに、「外部の目」をサークラ同好会に持ち込むことができるのです。

 なお、「ダーク」な人たちをネタ性によって引きつける場合、先ほど述べたように現実のメタ化から入り、その後にベタに戻ってくることになりますが(ネタ→【メタ→ベタ】)、「ダークツーリズム」の場合はまず第一に、ベタな「生きづらさ」の“現実”を知ってもらった上で、その後でメタ化していく(広い視野から物事を捉える)活動が始まるように思います(ネタ→【ベタ→メタ】)。

 いずれにせよ、「ネタ」性によってサークルを外部に開くことで、サークルのタコツボ化を回避する狙いがあります。

 更に、「ネタ」という言葉は「話題にできる」というニュアンス、すなわち「話のネタ」という意味でも使っています。サークラ同好会では「コミュニケーション」や「自己」を話題とすることによって、誰でもある意味「専門家」として語りに参加することができます。基本的に、誰にでも「コミュニケーション」の経験は蓄積されており、「自分」について思うことはあるからです。

 この意味での「ネタ性」のおかげで、サークラ同好会が拠点としている京都大学のような場所には必然的に生じてしまう「メタサークル」の特権性、すなわちエリート主義(卓越主義)やオタク性(タコツボ性)が中和されます。要するに「カシコそうな人が集まってて恐い」「話題についていけないのではないか」という感覚を緩和しているのです。

 そして、このようなネタ性を介した「外部への開放性」は「所属なき活動」へと直結しています。

 

サークルクラッシュ同好会はどういう活動をしているのか(「所属」が苦手編)

 サークルクラッシュ同好会に集まる人たちの本質的な特徴の一つとして、「所属が苦手」という特徴がある、と先ほど書きました。それゆえに、サークラ同好会では「所属なき活動」という活動形態を編み出しました。

 

所属なき活動

 サークラ同好会の定例会は月に2回開催していますが、毎回はじめに「自己紹介」をするようにしています。「例会には自由参加」と明言しているためか、ある程度レギュラー化している会員たちですら毎回来るという人は少なく、初めて会うという人も多いのです。

 毎回の自己紹介においては、毎回その場で2,3個のトークテーマ(夏休みに何をしていたか、最近ハマっていること、など)を決めて律儀に一人ひとり話していきます。これにより、初めての人でも自動的に一定のコミュニケーションの機会を担保できるので、スムーズにその場に入っていけるようにするという狙いがあります(とはいえ、話すことを強制するわけではないので、パスもOKです)。

 例会には自由参加というだけでなく、会費はありませんし、京大生や大学生でなくともLINEグループに入会すれば会員、という方式にしています。これは、会員であるための条件や義務をできるだけ排除するためです。

 もちろん、代表を始め、イベントの企画や例会の招集、司会、新歓のビラ貼りなどといった役割を誰かがやらざるを得ないのですが、それらを義務にはしていません。これにより、会員でありながら来たいときに来る、「所属」のしがらみをなくしているのです。

 

 会員だけど「所属」している感がない、ということは、裏を返せば非会員でも活動に参加できるということです。そのため、活動を積極的に外部に開いてもいます。上で述べた当事者研究やインプロ、読書会、ボードゲームのような交流活動も含めて、初見の人を歓迎し、できる限りTwitterアカウントでも活動を告知するようにしています。

 他にも、例会ではない突発的な企画として「普段一人では行けない場所に行く」というコンセプトの活動を外部の人を巻き込みながら展開しています。「服を買う会」や「リア充擬態活動」がそれです。最近では、外部の特殊なコミュニティに行ってみたり、特殊なイベントに参加してみたりといったある種の「社会科見学」もおこなっています(このような活動を指して、僕はサークラ同好会を「陰キャのイベサー」と呼ぶこともあります)

 よって、サークラ同好会会員は「所属が苦手」ゆえに、会の活動としても「所属なき活動」を展開しています。つまり、会員/非会員の境界を曖昧にすることによって、体育会系の組織などにありがちな「所属の論理」を無効化しているのです。

 

参考:「一見さん」の機能

 かつて、僕の友人であるダブル手帳氏がサークルクラッシュ同好会の例会の感想として、こんな記事を書いてくれました。

double-techou.hatenablog.com

 ダブル手帳氏は、サークラ同好会の例会の「居心地の良い雰囲気」を成立させている構造は「一見さん」にあるのだと指摘しています。

 以下、ダブル手帳氏による、サークラ同好会の例会に来る人の三分類です。

 

①中心メンバーを含めた常連の会員。例会に頻繁に参加。

 〔……〕

②コミットが中程度のシンパ層。ごくたまにしか例会に参加しない人、あるいは①のうち幾人かと個人的な結び付きが元々あるものの例会には初めて来たという人など。

 〔……〕

③今まで何らコミットが無く会員との個人的面識も殆ど無い状態で初めて例会に参加する層。いわゆる「一見さん」。

 

 ダブル手帳氏によれば、③の「一見さん」に配慮せざるを得ないがゆえに、「内輪ノリ」が避けられ、内部でのカースト(序列)が無効化される側面があるようです。

 実際にダブル手帳氏が述べているほどのことができているかと言われると自信がないですが、僕自身、高校までのクラスのようなノリ・空気感に嫌気が差していました。それゆえに、自然ともっと「ゆるやかな」集団を形成できたのかもしれません。

 すなわち、上で述べてきた「所属の論理」を解きほぐすようにサークラ同好会はデザインされていると言っても過言ではないでしょう。

 

所属しないということは一枚岩にならないということ

 「所属の論理」を避けた結果、おそらくサークラ同好会の会員には多様性が保たれており(半分以上は非京大生です)、同好会内の一部の権力が暴走してしまうリスクに対しても歯止めが効いているのではないでしょうか。

 1月に書いた謝罪記事 にあるように、少なくとも2012~14年頃の僕は、浅い理解で性差別について考えていましたし、男性である自分自身の立場性にも無自覚的でした(もちろん現在においても、自身の性差別についての認識を実際の社会に照らし合わせて更新していく必要があると感じています)。

 そんな僕に対しても、同好会内には多様な立場があり、かつ語りの場が豊富なおかげで建設的な内部批判がなされてきました(単なるヤバい不和もあったかもしれませんが……)。この8年間、サークラ同好会は相互批判の中で成長してきたとは言えると思います。

 要するに、サークルクラッシュ同好会では「所属」という感覚が希薄だからこそ、「一枚岩」の組織ではないのです。内と外の間にある境界の曖昧さはこれからも保っていきたいですし、もっと外部にも「ダークサイド」についての語り合いの輪を広げていきたいと思っています。

 

まとめ

 「サークルクラッシュ」という言葉は、この社会における様々な生きづらさを連想するための補助線として用いています。そして、その言葉がゴシップ性を持つ「あるあるネタ」であることによって、「生きづらさ」についてあまり深く考えたことがない人にも届くことを狙っています。

 サークラ同好会には、この社会に対して生きづらさを感じている「ダーク」な人たちがやってきます。そして、そのような「ダークサイド」について様々な人が楽しく語り合い、学び合う場であることを目指しています。そのために、「理論」と「実践」、言い換えれば「メタ」と「ベタ」を往復する活動を重視しています。

 また、サークラ同好会は体育会系の組織のような「所属の論理」を苦手とする人が集まってきます。だからこそ、義務をできるだけなくし、例会には自由参加とし、会員/非会員の境界が曖昧で外部に開かれた「所属なき活動」を展開しているのです。

 

 サークラ同好会はTwitter上でこれからも活動日を告知していきますので、この記事を読んでいただいた方にはぜひ、一度サークルクラッシュ同好会にお越しいただければと思います。お話できるのを楽しみにしています。

 

 リレーブログの次の16日目の記事はこじらせ神さんの記事です。よろしくお願いします。

サークルクラッシュ同好会へのご指摘について

 サークルクラッシュ同好会が2013~16年頃までの間に京都大学の中で配布しておりましたビラ、ならびにホームページやTwitter上での表現に不適切な内容があることをご指摘いただきました。

 これらのビラや表現は直接的には2012~14年に作られたものであり、当会の現役会員で製作に関わった人間は(この記事の文責である)ホリィ・センを除き、存在しません。

 サークルクラッシュ同好会には様々な思想やスタンスを持った人が入ってきます。実際、(末尾の***で具体的に述べますが)当会の例会は様々な立場から開かれ、毎年発行している会誌は様々な立場から書かれています。

 そのような相互批判的な対話の土壌が築かれていったからこそ、過去の会員やホリィ・センが製作したビラや表現に不適切な内容があるという声も上がりました。その結果、サークルクラッシュ同好会としては2017年頃からはそのようなビラの配布を停止しておりました。

 

 しかし、2020年1月現在、なおも大学内の一部に不適切な内容のビラが残存していたり、不適切な内容の表現がインターネット上にアップロードされたままであったりしたために、正当にも外部の方からご指摘をいただきました。

 この問題が放置されていたのは、ビラの配布や、ホームページ・Twitterアカウントなどの運営のほとんどの部分をホリィ・センが独占していたことが一つの大きな原因です。

 また、本来ならばビラの配布を停止したその時点で、ビラや表現の作成に責任のある者(主にホリィ・セン)が謝罪をすべきでしたが、この記事以前には謝罪はなされてきませんでした。

 まずは僕が問題を放置していたことを謝罪します。申し訳ございませんでした。

 

 不適切なビラや表現の有害な効果を鑑みて、

  1. 京都大学内に残存している不適切なビラの撤去
  2. Twitter上・ホームページ上に残存している不適切な表現の削除
  3. ホームページ上に残存している一部文章における、差別的だと受け取られかねない表現に対する注釈
  4. ビラや表現によって精神的な苦痛を負った方への個別の謝罪

 に、ホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志で、できるかぎり取り組んでいきたいと思います。

 また、今後作成するビラについては、作成前と配布前に不適切な表現がないか、会内でのチェックをおこなうこととします。

 

 :ここで、「一部有志」としている理由を書いておきます。上で述べたように、会内には様々な立場の人がいる上に、過去のビラや表現について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけです。そのため、同好会全体の立場を代表するような対応(比喩的に言えば、企業や政党のような対応)はしたくてもできないからです(また、代表すべきでもないと思います)。

 よって、本記事の内容もまた、サークルクラッシュ同好会全体を代表するものではなく、文責のホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志によるものだということをあらかじめご了承願います。

 

 今回の件を受けて、サークルクラッシュ同好会の例会ならびにLINEグループ上において話し合いを行いました。話し合いにおいてビラ等の問題性を確認した上で、今回の記事を書くことに決定しました。

 ここからは、過去の過ちを繰り返さないためにも、当会の過去のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べた上で、個別の観点ごとに謝罪していきたいと思います。

 

 ただ、謝罪に入る前に、申し上げておきたいことがあります。

 今回、ビラや表現の不適切性についてご指摘いただいた方々はこの社会や大学における性差別的な構造に対する問題意識を持っている方々だとお見受けしております。

 サークルクラッシュ同好会も同じく、観点や意見は異なるかもしれませんが、性差別的な構造に対して問題意識を持っているつもりです。

 そのため、共通する問題意識について、今後、可能な限り対話していけたらと考えております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。

 

 そして、この記事を読んでいる方にお願いがあります。

 当会に対してご指摘いただいた内容を以下で引用していきますが、それらのご指摘をされた方々やそれに類する方々に対する誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をお控えいただきたいです。

 そのようなコメント・書き込み等によって、共通の問題意識を持っている方々とのせっかくの対話の機会が失われ、溝ができてしまうことを強く危惧しております。たとえ当会を擁護しているような内容であっても、結果的に分断を生むようなコメント・書き込み等は望んでおりません。

 ただ、攻撃的ではない範囲での感想・意見等をいただくのは構いませんし、歓迎します。

 

 さて、それでは、当会のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べてそれぞれ謝罪したうえで、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪していきたいと思います。

 

ビラその1について

f:id:holysen:20200119215005p:plain

  このビラは2013年に初めて配布・掲示し、同様の内容のビラを2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラの上部には「狭いコミュニティでその気はなくとも次々と男を喰い荒し そのコミュニティの人間関係を壊滅させる系女子の特徴」と白抜き文字かつ扇情的なフォントで書かれています。真ん中には女性として描かれた絵と、その絵についての特徴やセリフが書かれています。そして、下部にはサークルクラッシュ同好会の活動と説明会についての情報が書かれています。

 以上の内容を見た上で、3点の問題点を指摘できると思います。

 

個人レベルの問題点

 ビラの絵や記述に自分が当てはまると認識し、このビラによって告発されているとその人自身が感じることで、精神的な苦痛を負ってしまう点。

 

関係レベルの問題点

 ビラの絵や記述に当てはまると周囲から認識された人が、ビラの絵や記述に基づいて不適切なレッテル貼りを受けることで、精神的な苦痛を負ったり関係性に困難をおぼえたりしてしまう点。

 

規範レベルの問題点

 直接的にはこのビラに基づいた被害が発生しなかったとしても、「ビラに描かれているような人物については非難してよい」という規範(価値観)の形成に(累積的に)寄与してしまう可能性がある。そしてそのことが間接的なかたちでビラに描かれているような人物への被害に繋がりうる点。

 

 以上三つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 また、後にも触れますが、実際に京大の中でこのビラによって傷ついた方がいるということを伺っております。本当に申し訳ありません。

 可能であれば個別にも謝罪したいと思いますので、個別で謝罪を受けたいという方がいらっしゃいましたらご連絡いただけると幸いです。

 

 

ビラその2について

f:id:holysen:20200119215033p:plain
  このビラは2014年から 2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラには「卒業後日本を背負って立つ君たちが女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という文言があります。

 この文言には大きく二つの問題点があると思います。「男女はこうあるべき」という男女観といわゆる「恋愛至上主義」のような価値観を再生産してしまうことです。

 

「男女はこうあるべき」という男女観について

 「女の尻を追いかけ」るという表現は「男性は性的主体/女性は性的客体」という古典的な異性愛主義に基づいていると言えます。よって、そのような価値観を息苦しく感じる人にとっては不快でしょう。また、欲望される男性、欲望する女性、非異性愛者、男性でも女性でもない人、などの存在が排除されてしまっていることも問題です。

 また、「女の尻」という表現から女性を特定の身体部位に切り詰め、その人格性を否定していることになります。

 更に、「女の尻を追いかけ」る主語が「卒業後日本を背負って立つ君たち」であることから、京大生はエリートであるという価値観に基づきながら、その主体が男性に限定されてしまっています。つまり、女性は出世しなくていいという価値観が前提されています。

 以上のような不適切な価値観を再生産してしまうことは問題です。

 

恋愛至上主義」について

 「女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という表現は(その後の「学部生のうちに死ぬほど振られろ」なども含めて)、恋愛を「早いうちにしなければならないもの」として規定していると言えます。

 これは、物事をなんでもかんでも恋愛に結びつけられたくない(すぐ恋愛の話をする社会が嫌いな)人や、アセクシャルなどのような恋愛感情を持たない人にとっては息苦しい価値観だと思います。よってこのような価値観を再生産することも問題です。

 

 以上二つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

ビラその3について

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 このビラは2014~15年頃に掲示しておりました。目線が隠された女性の写真と、その左に「おねえさんと、ランチしよ♡」と書かれています。また、最下部には小さく「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言が書かれています。

 これも「ビラその2」と同様に、女性の目線が隠されていることから、広告にありがちな「顔のない女性」として、女性の人格性を否定しているものです。また、「女性は性的客体」という価値観を再生産しています。

 そして、丸文字のフォントと、最下部の「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言と、目線の隠された女性のセットから、このビラが性風俗広告のパロディであることが読み取れます。そのようなパロディが行われているこのビラを見て、セックスワークの従事者の中には不快に思う人がいることと思います。

 

 以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

サークルクラッシャー」にまつわる表現について

 サークルクラッシュ同好会という名前にもある「サークルクラッシュ」は、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。しかし、「サークルクラッシャー」という“人”に焦点をあてた言葉を用いると、特定の個人に責任を押し付けてしまうという問題に繋がりやすいため、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを当会では推奨してきました。

 しかし、ホームページ上に残っていた2012~3年の文章では、集団内の恋愛トラブルの責任を「サークルクラッシャー」と名指された女性に押し付けるような表現や、悪意が読み取れるかたちでそのような女性の特徴を挙げている箇所がありました。

 そのため、「ビラその1」と同様に、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点があると考えられます。

 ホームページ上に残っていた文章に、以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 ここまでビラや表現がどのように不適切であるかを述べてきました。

 そして、これらのビラや文章の作成も、男性である僕が中心となっておこなってきたものです。

 つまり、ジェンダーにおいて優位な立場にある僕が劣位な立場に置かれてしまっている女性を貶めていることがより問題です。社会や集団における自らの立場性を自覚できるよう努めていきたいと思います。申し訳ありません。

 次に、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪します。

 

 

ファリードやす様のご指摘

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 ファリードやす様は「サークルクラッシャー」という言葉を不用意に使うことの問題と、サークルクラッシュ同好会が性差別的な文化に寄与しているということの問題を「ビラその1」の画像と共に指摘されています。

 上で述べましたように、ホームページ上には「サークルクラッシャー」という語を女性に責任を押し付けるかたちで用いてしまっている文章が残っていました。また、ビラの内容には、「ビラその1」で述べた規範レベルの問題、「ビラその2」で述べた「男女はこうあるべき」という男女観の再生産の問題などがありました。

 そのため、文章やビラに関してはおっしゃるとおりだと思いますし、これからもこのような問題が起こらないように努めていきたいと思います。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、サークルクラッシュ同好会が「インセル**の思想」を持ったサークルである、ということについては申し上げたいことがあります。ビラの内容などからそのように判断されたのかもしれませんが、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そのことははっきりと否定しておきたいと思います。

 

 **:「インセル」とは恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は相手の側にあると考える人のことを意味し、典型的には異性愛者の男性を指します。詳しくはWikipediaの「インセル」を参照。

 

 

ひびのまこと様のご指摘

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 ひびのまこと様は

①ビラの内容の性差別性

②実際に京大女子が「紅一点」として有徴化され、ラベルを貼られる・少数派として説明役割を負わされているという状況において、「サークルクラッシャー」という言葉が暴力として機能している点

サークルクラッシュ同好会がジェンダー的に中立であることを装いながら男性中心主義を実践することによって、女性差別を不可視化している点(ひいては、ジェンダー概念の盗用)

 の三つの内容を指摘されているように思います。

 

 ①について、上で述べたように、おっしゃるとおり差別的と言える表現が含まれております。

 ②について、「サークルクラッシャー」にまつわる表現について のところで述べたように、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点がありますので、おっしゃるとおりだと思います。

 2012~14年頃に作られたビラや表現に、①②のようなご指摘は当てはまります。これからもこのような問題が起きないよう努めます。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、③については申し上げたいことがあります。

 確かに、当会のかつてのビラや表現を「男性中心主義の実践」と言うことが可能なことについては同意します。

 しかし、サークルクラッシュ同好会は、メンバーの多様性や日々の活動の中で、相互批判的な対話が行われているからこそ、過去のビラや表現の問題も会内で指摘され、配布が停止されました。

 よって、「サークルクラッシュ同好会が男性中心主義を実践しつつ、ジェンダー的に中立であることを装っている」ということについては、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そうとは言いきれないと言っておきます。

 

 

ななみん様のご指摘

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 ななみん様は上記のお二人と同様の指摘に加えて、「ビラを見て実際に傷ついた人がいる」ということを指摘していらっしゃいます。

 これは、「ビラその1」のところで確認しましたように、個人レベル・関係レベルでの問題が実際に起きたのだと思います。

 しかも、僕は数年にわたって問題を放置してきました。僕がもっと早く対処していれば、傷つかないで済んだ人がもっといたことと思います。ビラや表現の撤去・削除については迅速におこないます。申し訳ありませんでした。

 そして、傷ついたという方におかれましては、個別に謝罪したいと考えています。ななみん様から見て、ご友人に連絡されるのが適切であればご連絡いただくか、そのご友人の連絡先をお教えいただければ幸いです(センシティブな問題ですので、「連絡はできない」ということでしたらそれでも大丈夫です)。

 

 

まとめ

 サークルクラッシュ同好会で2012~14年に作られたビラや表現は不適切なものでした。そのため、同好会内でも批判の声があがり、配布は停止されていました。

 しかし、問題への対処が不十分でしたので、ビラや表現は残っていました。今回、ご指摘いただいたことによって問題は表面化しました。

 当時のビラや文章の作成について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけですので、不適切なビラや表現によって生じた問題の補償となる対応(削除や謝罪など)はホリィ・センをはじめとした一部有志で行いたいと思います。

 また、今後同じ過ちを繰り返さないためにも、ビラや表現の問題性を確認しました。

 そして、今回、ビラや表現の不適切性をご指摘いただいた方々は、性差別的な構造に対する問題意識を(観点や意見は違うかもしれませんが)持っているという点で「共闘」できる可能性があると信じています。だからこそ、個別に応答させていただきました。(紙幅の都合上この記事上で応答できなかった方についても可能な限り、対話していけたらと思っております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。)

 

 最後にもう一度、僕個人の気持ちを書いておきます。当同好会のビラ等にご指摘をされた方々やそれに類する方々に対して、誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をするのはお控えください。

 意見を封殺したいのではありません。感想・意見等、お待ちしております。僕はただ、Twitter上で日々感じる分断に、嫌気が差しているのです。

 

 

 ***:最初に書きましたように、サークルクラッシュ同好会の中には様々な思想やスタンスがあります。その中で、旧来のジェンダー規範を批判するような活動は連綿と存在しております。

 具体的に書きます。近年の会誌で言えば、

6.5号の「「女の腐ったような奴」の当事者研究」(雪原まりも)は異性装を主題とすることでジェンダー規範に対する自身のあり方を脱構築/再構築していく試みと言えます。

7号「すぐ恋愛の話をする社会が嫌い」(複素数太郎)は、性愛中心主義の押し付けについて疑義を呈しています。

8号の「「サークラ女子会」名称批判 座談会」(無花果)では同好会内での周縁的な立場の人々の座談会を通じて、男女の性役割の問題への言及や、同好会の運営体制が男性中心主義的ではないかという疑問が呈されています。

 

 例会の活動でもフェミニズムジェンダーを明確に主題とした勉強会も何度か開かれています。一例として2017年に開かれた会のレジュメの一部を貼っておきましょう。

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 その他、会員有志による読書会でも『セックス神話解体新書』(小倉千加子)や『ジェンダー・トラブル』(ジュディス・バトラー)のような、既存のジェンダー規範を問い直す内容のものが選ばれています。