絶対結婚2026
この記事はサークラアドベントカレンダー2025の12日目の記事です。
(この記事で書く「想い人」に会いに行って遊んでいたら12月13日になってました。すみません)
ホリィ・センは5年前のアドベントカレンダー
と3年前のアドベントカレンダー
で、自分の恋愛についての総まとめのような文章を書いた。
様々な「冒険」を経て、一つの「答え」に辿り着いた。
そう思っていた。
しかし2年前の3月のこと。
僕は想い人に「振られる」ことになった。
数日間情緒がメチャクチャになったが、もう一度相手とキチンと話し合った。
すると、別れたからと言って別に会わないというわけではない、恋愛感情がなくなっただけだ、ということが徐々に分かってきた。
そこで僕は、1ヶ月に1度程度、彼女が住む東京に会いに行くことを決意した。
――そのあたりの詳しい顛末についてはサークラ会誌Vol.12に書いた「元カノ魔界転生(幕間)——太陽の女」を参照してほしい。
会誌が一時的に在庫切れしているので、マジで読みたい人は直接ご連絡いただけるとありがたい。
ところで、僕が「元カノについての喪の作業を遂行していく」というコンセプトの私小説もどき「元カノ魔界転生」シリーズは今回の会誌Vol.14でようやく完結した(Vol.10,Vol.12,Vol.14に掲載。だいたい2万字×3ぐらい)。そのうち一本化してどこかに出すかもしれないが、ホリィ・センガチ勢(?)はとにかくVol.14を読んで完結を見届けてほしい。
それはさておき、なぜ1ヶ月に1回程度も東京に行くのか。
僕が想い人に会いたいから。これがもちろん第一の答えだ。
しかし、それには打算的な理由もある。
僕は彼女と結婚するつもりでいる。
結婚……?
「そもそも「振られた」時点でもう会わない、あるいはせいぜい友だち関係になる、というのが普通なのではないか?」という疑問が湧くことだろう。
そして彼女との恋愛は諦め、スッパリと「次」へいくものなのではないのか、と。
そうではないのだ。
たしかに、彼女との恋愛は「振られる」ことで(認めたくないが)終わった。
だが、結婚はまだ終わっていない。
どういうことか。
――恋愛と結婚との関係について解説するところから、はじめよう。
恋愛と結婚とのねじれた関係

恋愛と結婚とは強固に結びついてきた。日本では1960年代にお見合い結婚と恋愛結婚の数が逆転し、1980年代頃には恋愛結婚が圧倒的主流となった。
しかし同時に、80年代の消費文化は、恋愛そのものを「遊び」として楽しむ態度を育んだ。雑誌文化における恋愛指南やトレンディドラマのブームが象徴的である。
そのため、90年代以後は、恋愛の末に、そのゴールに「結婚」がなければならない、という考え方は衰退していった。
しかし、谷本奈穂らがロマンティック・マリッジ・イデオロギーと呼ぶように、「結婚するには、恋愛感情がなくてはいけない」という考え方は衰退していない。特に50代以下の女性においてその考え方を支持する傾向が強いという。
(このあたりのデータについては、谷本奈穂、2008、『恋愛の社会学』や、
谷本奈穂・渡邉大輔、2016、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考」https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/31/1/31_55/_article/-char/ja/
を参照。
ただしこれらの文献で頻発される「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」なる和製用語の用法が誤りであろう点については、もぐら氏のnote
https://note.com/sagtmod/n/nf1b876592261
で詳しく解説されている)
しかし、山田昌弘が『近代家族のゆくえ』(1994)などで解説するように、恋愛という感情を基盤にしたものと、結婚という制度を基盤にしたものとの間の折り合いは決して良いわけではない。歴史的・世界的に見れば、恋愛と結婚を分離する戦略や、恋愛を抑制する戦略を採っている文化もしばしば存在するのである。
要するに、結婚ってことを考えると「生活」をすることになるわけで、特に日本では「子育て」と結婚が非常に強く結びついているわけで(日本は婚外子が非常に少ない国だ)、それらを共同でやっていこう、ってことになると「恋愛感情」とはまた全然違う話になってくるのだ。
恋愛/結婚の生理学的基盤?
敢えて生理学的な話に足を突っ込むなら、強くトキメキをおぼえるタイプの恋愛感情というものはせいぜい2~3年ぐらいしか続かないのが通常らしい(恋愛初期はフェニルエチルアミンという興奮を生む脳内物質が分泌されるが、それが2~3年後にはオピオイド(鎮静物質)に取って代わられるって『史上最強 よくわかる恋愛心理学』(2010)に書いてた)。
そのため、恋愛の延長線上で関係性を持続していくにあたって重要なのは、思いやりやスキンシップなどによって分泌されるという「オキシトシン」なのだ――と、ここまでの話は通俗的によく言われる話である。
しかし、比較的短期的な性的興奮や繁殖行動に対応する生理学的基盤(フェニルエチルアミンやドーパミン)が存在したとしても、長期的な共同生活を支えてくれる生理学的基盤があるのかと言われると……怪しいんじゃないか。
まあそもそも、恋愛と結婚とを一緒くたにしてしまっているのが不自然なのであって、むしろ「恋は3年で終わる」(ヘレン・フィッシャー)のが自然なのだろう。そりゃセックスレスにもなるというわけだ。
(元ネタ?の本)
とはいえ、セックスレスが「日本人特有の」傾向であることもまた事実である。「人間は本能の壊れた動物」(岸田秀)なのだから、文化の赴くままに、いけるところまでいこうじゃないか。
(3年前に出てた日本のセックスレス研究のこの本、けっこうおもろかった)
そう考えたときに、「恋愛が終わった」後になおも成せる関係とはいかなるものなのだろうか。
僕はこの2年、そのことを考え続けてきた。
その答えが、とにかく会いに行く、ということだったのだ。
僕が想い人にできること
「恋愛と結婚とは別ものだ」、そう言うのは簡単だ。
だが、現代日本において結婚の前提に恋愛感情があることを重視している人が多いのもまた事実である。
おそらく僕の想い人もそのようである(なによりこの僕自身が恋愛感情にドライブされながら突き進んでいっているのだ)。
このままだと彼女は、結婚できるだけの条件を備えた人、かつ恋愛感情の湧く誰かと「出会う」ことで結婚する、というルートにいくのが自然だろう。
恋愛と結婚とが「別もの」なのであれば、両取りすればいい、ということになってしまう。
となると、僕は彼女のまだ見ぬ「出会い」を超えていく存在でなければならない。
しかし、彼女はもはや僕に恋愛感情を持っていない。僕と「出会い」直すことは、彼女の記憶が喪失でもしない限りありえないのかもしれない*1。
――ここで発想は逆転される。僕にできることは、恋愛感情を、「出会い」を、結婚の基盤にすることの困難さ、その不可能性を突きつけることだ。
幸いにも(?)好奇心の旺盛な想い人は、熱しやすく、冷めやすいところがどうもあるようだ。彼女と僕とが付き合った3年間は最長期間だったようで、この点では僕に分がある。
僕は「振られ」てからも常に彼女のよき相談相手であり続けることで、疑似的にでも共同性を演出し続けている。
「疑似」どころか、月に一度東京に行くことで、実際に継続的に一緒にいるのである。好奇心の強い彼女のことだから、会ってないと忘れられそうだからね……。
さらに僕は想い人の周囲の人間とも仲良くしている。最初こそ、「振られた」人間が彼女の周囲の人間と仲良くするのには独特のハードルがあったが(「ストーカー」のように扱われるんじゃないかという不安があった)、その不安は1年ほどで払拭されたように思う。
今では彼女の周囲の人間も僕を結婚相手の候補として「推し」てくれているようだ。「外堀を埋める」を地でいっている。
このように彼女の友人関係の中に僕が埋め込まれていくことも、彼女との継続的な関係においては重要だろう(彼女にも新しく友だちができていくが、自然と共通の知り合いになっていく)。
ここまでやると、どうなるか。
いざ彼女が恋愛感情の湧く相手と結婚しようというときに、僕のことがチラつかざるを得ない、そういう状況まではもってこれているのではないか。「この人と本当に継続的に安心できる関係を築けるかは分からない。それならいっそ、ここまでの長い付き合いであるホリィ・センの方が……」と。
――そんなキモい妄想はともかく、僕が考えていることは、彼女が恋愛感情と、安定持続的な共同生活(+子育て)の可能性とを天秤にかけたときに、いずれ後者を選ぶだろう、ということだ。
都市生活は出会いが多い。出会いが多いだけに「選べない」し「選ばれない」、ゆえに結婚できない。それが厳しい現実なのかもしれない。
僕はそんな彼女の、究極の安定選択肢になりたい。彼女の恋愛感情がなかったとしても。
そこに賭けるのが最も確率が高い。そう踏んだ。
だからこそ、彼女の恋愛も大いに応援する。
それでもなお、最後に立っているのは僕だ、という余裕があるからだ。
(最初はそんな余裕はなかったが、もともと嫉妬心を感じにくいタイプなのもあり、最近は彼女の恋愛っぽい話を聞いても割と余裕を持って聞けるようになった。この1年で僕はさらに成長したのだ)
***
もちろん僕にも不利な点がいくつもある。恋愛感情の問題を除いても、遠距離であること、経済的に安定していないこと……。
そこは早急に解消しなければならない問題なので、いまさらになってケツに火がついている。
まあ僕は言うても博士課程の大学院生の物書きなので、大学に就職するのが良いんだろうなと思ってる。下手の横好きでいろんな分野に手を出してきたが、そろそろ筋の通しどきだろう。
「絶対結婚2026」のためには、「絶対博論2026(年度)」が現実的にきわめて重要だ。
博士取って大学に就職する。そんで結婚。これが答えだ!
*1:彼女の僕への恋愛感情が取り戻されるルートもまだ諦めてないので、そういうルートを手助けしてくれる人もぜひ。
「『苦笑い』『自嘲』をしようとするがうまくできず『鼻で笑う』になってしまう」の当事者研究
僕は会話においてしばしば「これはマジで言ってるんじゃなくてネタで言っていますよ」ということを伝えたいので、セルフツッコミ的に「苦笑い」「自嘲」をしているつもりである。
でないと、「ブッ飛んだことも抑揚なく喋る人」みたいな感じになってしまう。「メタ視点のないサイコパス野郎」と言えばいいだろうか。僕はそうは見られたくない。
どうやら「苦笑い」をする際は、本来なら「発言→苦笑い」という順番で発声すべきなようだ(「苦笑い」で検索して出てきた動画とかいくつか観た感じ)。
しかし、どうも僕は「笑い」が先走りぎみになってしまう。そのため、「発言」と「笑い」が同時になってしまう。
そして、口で喋っていると同時に笑うがゆえに、「鼻で笑う」感じになってしまう。
すると、発声が聞き取りづらくなる上に、周囲からは「苦笑い」としても認識されない。「鼻で笑う」ために最悪、失礼な感じになってしまう。
分かりにくいだろうから例を挙げよう。「サークルクラッシュっていうんですけど(苦笑)」みたいに言いたいときに、「サークルクラッシュっていう」の時点で鼻で笑ってしまっている感じだ。
文字で表現すれば「サーwクルwクラッwシュっwてw言うんwですwけどw」みたいな感じ。過剰に鼻から息が漏れている。
僕の脳内イメージではこれは「自嘲気味に」笑っている。極端に言えば「初カキコ…ども…俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは。」の最後の「はは。」のイメージをやろうとしている。
しかし、オタク特有の、文字や映像で見たイメージを自分の身体で再現できないという問題に陥ってしまっている(極端に言えば、「拳で」「21歳!」の人がだいぶコミカルでおかしな動きをしてしまっている感じだ)。
(ところで、タイトルが面白すぎる本である『自閉症は津軽弁を話さない』によれば、自閉症者がしばしば方言でなく共通語を話す理由として、身近な大人ではなく映像から言語を学んでいるからだという仮説が有力だということが説明されていた。オタク特有というより自閉症特有なアレかもしれん)
結果、「苦笑いをしようとしているけどできていない」という変なクセがついてしまっているようだ。
クセとなってしまった動作はふとしたときにどんどん出てしまう。たとえば下の録画映像の冒頭(めちゃ緊張してた)とかを見てはっきり自覚したのだが、僕は緊張しているときに笑ってしまうのがクセになっている。
タチが悪いのは、自分では「苦笑い」しているつもりが、ひたすら「鼻で笑う」をやりながら喋ってしまっていることだ。
まあ自認はあくまで「自嘲」なので、他人の発言に対して「鼻で笑う」ようなマネは基本していないはず。それがまだ救いだ。
友人たちにこの問題について相談してみたら、どんどん考えが進んでいって、「自分についての研究」になってくれたので、ブログに書いた。けっこう似たようなことを思い当たる節がある人もいると思う。
このクセをなくすなり、ちゃんと「苦笑い」ができるなり、したいところ。自分の言葉に対してセルフツッコミ的に笑うときも、その前にまず言葉の発声をしっかり、を意識する感じかなあ。
似たような記事:
都会生まれよりも「おのぼりさん」の方が成功するかもよ――僕が「サークルクラッシュ同好会」を作れた理由
美術手帖の編集長が、イオンモールしかないような土地では「美術」というものには触れられない、という旨の話をしたことで、ちょっと炎上めいたことになっている。
昔から「上京」にはなんらかの夢が賭けられてきたわけだが、「美術」となるとだいぶカルチャーのド真ん中の一つなので、これは火力が高い話だなあと思う。
田舎disの是非はともかく、「上京」体験のある人はたくさんいるだろうから、この話にかこつけて自分語りをしている人もたくさんいる。
ご多分に漏れず僕もそういう話は大好きなので「隙あらば自分語り」させていただく(これ系のトピックで言えば、『まじめな会社員』という漫画が傑作だったのでみんな読もう!↓)。
ついでに、上京する人、すなわち「おのぼりさん」も、都会生まれに比べて実は成功するルートがあるんじゃね?ということを常々思ってきたのでその話もしたい。
カルチャーコンプレックスを抱えまくってた
僕は18歳で現役で京大に入学してというもの、そのまままともに就職活動することもなく、大学院進学後もダラダラと京大で過ごして京大歴15年ほどになる。
15年って長すぎだろというツッコみはともかく、京大に入ったときの話をしたい。
僕は一介のオタクとしてオタク的興味を深めようと思い、漫画を評論するサークルに入ったのだが(全国でも珍しいサークルだ)、そこにはめっちゃサブカルチャーに詳しい人たちがいて(同年代にも!)、萌えオタクに毛が生えた程度でしかなかった僕は強烈なカルチャーコンプレックスをおぼえたのだった。
そもそもちゃんと触れたことのなかった都市的なサブカルチャー(よく「サブカル」と呼ばれるようなやつも含む)やあるいは映画や音楽や文学などについてはもちろん格差があったのだが、自分がそれなりに触れていたオタクコンテンツ(アニメ、ゲーム、漫画)などについても僕よりも明らかに広く深くやり込んでいる人たちがゴロゴロいた。
自分は何をして生きてきたんだろう、とも思ったし、長らくコンプレックスをこじらせる内に、こんなの育ち次第じゃないか、と己の「文化資本」を恨みもした。そういやもう10年ぐらい前だけど、大学6年目にこんなブログを書いていたな。
「おぼのりさん」が「自分で選ぶ」ことの強み
遡れば京大入学以前、中学受験をしたときから周囲の人間の文化的教養レベルの高さに劣等感をおぼえ続けていたのだった。
しかし、コンプレックスに苛まれながらも、大学に入ってからはいろいろ読んだりネットで調べたり耳学問したりするうちに多少は固有名詞が頭に入るようになった(上には上がいるけども)。
そして、自分なりにもがき、なんとなくアイデンティティを確立していく内に「この分野は自分のライフワークだ!」と思えるものにいくつか出会うことができた。
重要なのは、全部「自分で選んだ感」があったことだ。そうか、この「自分で選んだ感」は物心ついたときからカルチャー教養を得てきた人たち、言わば「英才教育を受けて育ってきた人たち」にはなかなか得られないんだろうな、と気づいた。
物心ついたときに親などの影響で特定のカルチャーに触れたとして、その対象に必ずしも深くハマるとは限らない。
むしろ僕のように後追いで「自分で選ぶ」方が、ある種の必然性をもって対象に没入できる。ずっとコンプレックスに苛まれてきた僕だったが、これこそが自分の強みだなと思えるようになった。
そう考えると、純粋培養で東京生まれ東京育ちの人などよりも、途中から東京へと上京してきた人の方が、「自分で選ぶ」という点での強みがあるのではないか、ということが考えられる。
僕が「サークルクラッシュ同好会」を作れた理由
敢えて言うなら、僕は滋賀県の国道1号線近くの「郊外」で育った。そして京大という「都市」へとやってきた「おのぼりさん」だった。
何も知らないおのぼりさんだったからこそ、大学やネット上で誰かがやっている活動にどんどん飛び込むことができたし、様々な授業を楽しく聞くことができた。
そして、「サークルクラッシュ」というほぼ内輪ネタに過ぎなかった言葉になぜかピンときてしまった僕は、それをサークル名として用い、「サークルクラッシュ同好会」などという固有名が持つ文脈を無視したサークルを作りあげ、一点突破することができた。
「サークルクラッシュ」という言葉はそもそも批評家の宇野常寛さんが作った言葉であり、僕はその文脈を全然知らなかったし、東浩紀さんや宮台真司さんのような固有名詞や、彼らについての歴史をそれまでずっと知らないままだった。
もし変に最初から知識があったら、ナワバリや文脈を気にして踏み出せなかったかもしれない。若気の至りと言えば若気の至りなのだが、実際に活動をやっていく中で適切な文脈を知るようになっていった(そんなわけで、サークルクラッシュ同好会の会誌第一号だったか第二号だったかができた12年ほど前、宇野常寛さんには一度連絡してみたのだが、そのとき返信はなかった)。
ヘタな教養は初期衝動で突っ走るにあたっては邪魔になりかねないのだ。
まあ「生存者バイアス」ではあるんだけど
とはいえ僕は京大に15年もいるような人間なのでかなりの特殊例ではあると思う。「おのぼりさんの強み」理論がそんなに再現性のある理論なのかは心許ない。
僕は京大だったのもあって(そして末っ子なのもあって)きわめて自由でかつ時間があった。大学に入ってから急に選択肢が広がったことで、転学部したりサークル作ったりネットで人と出会いまくったり院進したりシェアハウスを作ったりなど様々なことがあった(大学では「サークル」「勉強」「恋愛」「バイト」の内2つぐらいしかまともにできない、的な話がある気がするが、さすがに15年もあると僕は4つともかなりやり込んだ)。
さらに、京大が「研究」的なノリで時間をかけて取り組むことを評価してくれる環境であったのも大きかった。僕のようにニッチな分野を選ぶことができれば、本などを読み込み「研究」していくと、1年ぐらいやり込めばかなりの「上位ランカー」になれてしまうところがある。
まあ、そんな自分の生存者バイアス(?)はあるんだけども、実際、東京に上京した上でクリエイティブというかカルチャー的な活動を長年やっている人だったら、いま書いたような感じでうまくニッチを見つけて成功している人はいるんじゃなかろうか。
特に消費社会トーキョーでは、人々はつねづね「差異化のゲーム」に勤しんでいるだろうから、うまいこと卓越化できる差異さえ見つけてしまえば、それなりのポジションには立てるだろう。
と、言うととてもくだらないことを言っているようにも見えるかもしれない。しかし、都市生まれで都市からほとんど出たことがないような人には「流行りモノ」しか視界に入ってこず、視野狭窄になってしまうのではないか。
これはうまくニッチを見つけられず自分を差異化できない――何者にもなれない――という差異化ゲームにおける敗北の話に留まらず、自分にとっての使命、ライフワークを見つけられない、というある種の不幸へと帰結するのではないか。
むろん、誰もが「ライフワーク」を持たなければならないとは思わないし、それがクリエイティブなものでなければならないとはなおさら思わない。
しかし、あなたが「何者か」になりたい人(ワナビー)であるならば、過剰な情報を押しつけ、過剰にコンプレックスを煽ってくる都市からはどこかで一度距離を置けるようにしておいた方が良いのかもしれない。僕にとっては大学がコンプレックスを刺激してくる場であったと同時に、大学が自分をコンプレックスから守る防波堤でもあった。
2020年代、ウシジマくん的な「社会の闇」コンテンツ流行りすぎ問題(とその帰結について)
スマホとTwitterが普及した2010年代半ば頃、「毒親」モノのエッセイ漫画が隆盛した。
個人的に深く読んだもので言えば、田房永子『母がしんどい』、原わた『ゆがみちゃん』あたりがパッと浮かぶ。
誰もが自分のことを発信することが可能なインフラが整い、うまくいけば「自分語り」がバズりうるようになった時代。「毒親」的な体験談は、プロの描き手(書き手)に限らずアマチュアの人々も様々に発信し、(負の)共感を集めてきた。
このような環境が「毒親」体験談に限らず、優れた表現を生んでもいた。たとえば永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』などはそのような環境で生まれた「生きづらい系自分語りエッセイ漫画」の金字塔の一つだと思う。
しかし、2020年代頃になり、あまりにも「負の共感」や「社会の闇」がポルノ的に消費されすぎている。敢えて言うなら「ウシジマくん」的なコンテンツがすごく増えた。
流行ったもので言えば、歌舞伎町にデカデカと広告されているをのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』(明日カノ)とか、修羅の国すぎる地元を描いたusagi『地元最高!』とか、最近アニメ化したタイザン5『タコピーの原罪』とかあたりだろうか。知的に障害がありそうな感じのキャバクラ嬢を描いた亜月ねね『みいちゃんと山田さん』とかも最近流行ってるっぽいね。
漫画に限らず、YouTubeの街録chとかノンフィクションライターの草下シンヤとかもそういうのに含まれる感じだと思う。
このあたりの文化の一つの中心はおそらく歌舞伎町だろう。トー横キッズだとかホス狂だとか頂き女子だとか立ちんぼだとか、そのあたりが2020年代にホットトピックになった。
おそらく背景には2012年の暴対法の強化などもあり、いわゆる「半グレ」(暴力団に加入せずに犯罪を行う集団)やら「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)やらが裏社会的なものの主流になっていることで資金の流れもあるのだろう(知らんけど)。
ただこういう「社会の闇」は歌舞伎町的なものだけに限定されていないように思う。
タコピーのブームに象徴されるように、家庭環境の問題やいじめの問題などもゴチャマゼにされながら「社会の闇ポルノ」はもっと大きなジャンルとして成立しているんじゃないだろうか。
2010年代を席巻したウシジマくんや毒親エッセイなどがきわめて「ノンフィクション」的に描かれていたのに対して、近年の「社会の闇ポルノ」はどうも「怖いもの見たさ」的な要素が前面に出すぎているようにも思われる。アンダーグラウンドだったはずのカルチャーがある種分かりやすく消費できるようになった。
すると、「ファッションメンヘラ」と「ガチメンヘラ」の境界線が曖昧なのと一緒で、最初はちょっとした憧れだったぐらいのところから、ゲートウェイ的にガチな「闇へと吸引されていく、という事態が起きているんじゃないだろうか。
であるならば、少し前に『NEEDY GIRL OVERDOSE』(ニディガ)というゲームが自傷行為やオーバードーズを助長しているみたいな話もあったが、別にニディガに限った話というわけではないだろう。
もっと大きなレベルで「メンヘラ」的な若い子たちが吸引されていく、ある種魅力的な「社会の闇」カルチャーが薄く広がって浸透してきているように思われる。それこそ「推し」という言葉が単なるアイドルから、メンズコンカフェのキャスト、そしてホストにまで地続きで用いられているように。
僕が心配なのは今10代とかの子である。統計上類を見ないほど10代の自殺が増加し、オーバードーズが流行り、不登校が増加し、通信制高校が隆盛する今の時代において(詳しくは検索してください)、ある種の子たちにとっては「社会の闇」的なものが最も魅力的な居場所になってしまうという逆説が起きているのではないか。
そうなると、トー横のように閉鎖しただけでは、若い子らはより孤立を深めていくだけだろうし、また別の「トー横」的な場所を求めてさまようことになるだろう。
そこで僕としては提案したいのが、そういう子らを包摂できるような自助グループ的なコミュニティを作ることである。冒頭で触れたような「毒親」の問題について垣根なく語り合えるような、自分語りコミュニティが形成されている方が孤立はだいぶ解消されるんじゃないかと思う。
つまり、「闇」へと突き進んでいった子たちを、自助グループ的な共同性によって包摂し直す方向性を考えていく必要があるんじゃないかなあと。
2020年代のメンヘラ問題についての僕の雑感でした。
恋愛において男女二元論は不可避なのか――ゼロ年代恋愛塾(全3回)を終えて
しかし常々おもうけど、ジェンダーを否定したら恋愛はできんわな。恋愛ってのはジェンダーを誇張して演じ合うプロレスみたいなもんだからな。奢らない男はモテないし、化粧しない女もモテない。私は男女平等主義者なので、そこに対するジレンマはいつも感じている。
— たにし (@Tanishi_tw) 2025年3月17日
たにしさんは僕の開催してきたゼロ年代恋愛塾(全3回)に毎回熱心に参加してくれていた。これはおそらく、それを踏まえたうえでのツイートだろう。
そこで、ゼロ年代恋愛塾の内容を振り返りつつ、僕からもこの問題について応答しておきたい。
現代にゼロ年代を〝実践〟するための一大企画を始めます。その名も「ゼロ年代恋愛塾」。はっきり言って現代の主流の恋愛観はクソなので、ゼロ年代に存在していた恋愛観の、その最良の部分を最大限引き出す講座です。… pic.twitter.com/9eYMXl7dfu
— ホリィ・セン (@holysen) 2024年12月2日
ゼロ年代恋愛塾(全3回)は異性愛男性向けを念頭に、毎回数時間にわたって僕が講義をして質疑応答をする感じだった。
一言で言えば、ゼロ年代的な精神性(近代的な男性としての成熟の困難と葛藤、要するにエヴァのシンジくん)の延長線上に、「暴力的な男」ではなくある種の「紳士的な男」としての恋愛戦略がありうるのではないか、という話だった。
この可能性を追求していたのが、2005年の『電車男』のブームの裏で、オタク男性との恋愛ノンフィクションエッセイ『59番目のプロポーズ』を書いていたアルテイシアさんの『モタク』や『ゼロから始めるオクテ男子愛され講座』なのではないか、という読みだった(第2回)。
そしてそのさらなる延長線上で、現代において盛り上がってきているリベラルでジェンダー平等な規範を体現したような、清田隆之(桃山商事)さんの『よかれと思ってやったのに』を読み直せるのではないか、というコンセプトだった(第3回)。
とはいえ、そもそも何のために恋愛すべきなのか? という点において、現代はある種のアノミー状態に陥っているように思われる。そちらの方がまず根本的な問題に思われたので、第1回では、40年前のバブル時代の恋愛をまさに経験してきた世代である、宮台真司さん・二村ヒトシさんの『どうすれば愛しあえるの』を読むことでまず基本的なスタンスを示すところから始めたのであった。
一言で言うなら、現代の恋愛はマッチングアプリに象徴されるような、スペック志向、コスパ/タイパ志向、リスク回避志向があるように思われる。より性的な側面で言っても「コントロール」や「フェチ」に志向しすぎてしまうことの問題を宮台さんは喝破している。
第1回の宮台・二村本と、第2回のアルテイシア本、第3回の清田本はそれぞれ全然テイストが違うように見えるのだが、性愛における「女性の」見方を重視する点では実は共通している。
A. ギデンズは後期近代において「純粋な関係性」への志向が高まっていることを指摘しているが、その中では感情の共有や自己開示の志向が強調されていることが特徴的である。これをD. チェンバースは「女性の友情」が理想として掲げられている(しかし、実態としてはその理想はまだまだ達成されておらず、ジェンダー非対称性がある)、という風に読解しており、その点は僕も同意するところである。
宮台さんはナンパについて語り、二村さんはAV監督であるというところから、一見きわめて「男性的」な人のようであるが、『どうすれば愛しあえるの』を読めば分かるように、そこで重視されているのは相手の心や身体へとダイヴし、フュージョンしていくような発想であり、その能力はむしろ女性の方にこそあるのだと。
このような宮台・二村本の語り口とはだいぶ距離があるものの、アルテイシア本や清田本に見られる、自他の傷つきに配慮するあり方や、感情の共有を重視するあり方は、宮台・二村本で掲げられているような理想と響き合う部分がある(と僕は読んでいる)。
さて、ゼロ年代恋愛塾で「女性性」の重要さを語ってきたことからも分かるように、よりよい恋愛のあり方を考えていく際に男女二元論を避けることはきわめて難しいように思われる(感情の共有などを「女性性」と呼ばなければよいのかもしれないが、それにもいろいろ問題はつきまとってくるだろう)。
実際、男女二元論を完全になくしてしまえば恋愛における「型」が喪失し、きわめてハードルが高いものになってしまう。ただ現代においては「女性の友情」が理想視されているという話にもあったように、「暴力的な男らしさ」は女性にとっても、男性にとっても魅力を減じつつあるだろう(根強い魅力はあるだろうが)。
しかし「暴力的な男らしさ」を抜きにして、異性愛男性はどのように恋愛ができるだろうか。これについて、アルテイシア本には重要なことが書かれている。それは、「友だちどまり」になってしまうという問題についても書かれていることだ。
つまり、「女性的」とも言われる自己開示や感情の共有が重要なのはそうなのだが、それだけでは「男らしさ」が発揮できず、意中の女性に対する関係が「友だち以上・恋愛未満」から脱せないという問題だ。その状態でアプローチをしたところで「ぬいぐるみペニスショック」と言われるような「恋愛対象だと思っていない相手に突然恋愛対象として見られる」悲劇が起きることになるだろう。
アルテイシアさんはナンパ的な恋愛マニュアルを批判しつつ「いつ何時も紳士たれ」と言う。アルテイシアさんが提示する男性のイメージは、なんと『ジョジョの奇妙な冒険』のジョナサン・ジョースターである。

そもそもアルテイシアさんは漫画アニメの比喩を多用しているので、ジョナサンの比喩を100%本気で受け取る必要はないだろう。しかし、「友だち以上・恋人未満」を脱出する、すなわち女性が男性に対して恋愛的魅力を感じるための要素として、「守られてる」「いざという時に頼りになる」「女の苦手分野が得意」「尊敬できる」を挙げており、ジョナサンからそれほど遠いイメージではない。
僕はこれについて「暴力的な男らしさから紳士的な男らしさへ」とまとめた。というのも、「男性の加害性」について叫ばれる昨今において、「加害する」リスクを減じたうえで、なおも恋愛的魅力を感じさせるという方向性が重要であるように思うからだ。
そうは言っても「紳士的な男らしさ」よりも「暴力的な男らしさ」の方がやっぱり恋愛においては有利じゃないのか? その方が簡単じゃないのか?という声もあるだろうが、そこにはいくつか反論しておこう。
まず、「紳士的」だからと言って「積極性や主体性がない」という意味ではない。上記の「守られてる」「いざという時に頼りになる」などの要素においては、相手が困っていたりピンチになっていたりするときに助ける、という程度の主体性は前提されている。そして、恋愛関係へと移行していくための「アプローチ」の仕方についても、アルテイシア本では詳しく書かれている。
そしてそもそも、恋愛経験に乏しい「非モテ」男性が「暴力的男らしさ」を目指すのはハードルが高いところがある。自己イメージに強く反しない範囲で恋愛へと乗り出す際には、「紳士的な男らしさ」という方が目指しやすいイメージなのではないだろうか。
また、恋愛は1対1でやるもののように思われるが、アルテイシアさんが論じている恋愛においては「第三者からの評価」も重視されている。アルテイシアさんが言う「いつ何時も紳士たれ」というのは、周囲から信頼されることが重要であることも意味している。なぜならそのことが相手からの高評価に繋がったり、「良い相手」の紹介に繋がったりするからだ。
そんな「紳士的な男らしさ」のメリットはともかくとして、もう一度結論を言おう。恋愛においてなんらかの男女二元論が必要である場合がきわめて多い、ということだ。たとえば同性愛を考えてみても、しばしば「男性役」「女性役」が再演されているように、なんらかのかたちで男女二元論は活用されているだろう。
恋愛的なコミュニケーションを積み重ねていく中で男女二元論を相対化していく可能性は十分にありうるだろうが、少なくとも特定の相手も見つかっていないような段階でいきなり男女二元論を回避したところで、なかなか恋愛にアクセスできないのではないだろうか。
「恋愛をしたくてもできない」ということに困っている層がそれなりの割合いる以上、男女二元論なき恋愛を強調しすぎるのはやや欺瞞的なように僕には思われる。ただ、「男性性」「女性性」が意味する内容や、どんな男性性、どんな女性性が評価されるのかといったことは時代や文化によって変わるし、状況ごとでケースバイケースでもあるだろう。
だからこそ、現代の恋愛において、より使いやすく個人の自由を抑圧しない「男性性」「女性性」を提示するべきだと僕は考える。その「男性性」「女性性」のヒントは実はゼロ年代にあった、というのが僕の考えてきたことである。
追記:
そんなわけで、ゼロ年代恋愛塾は結局のところ「リベラルな恋愛」を目指していたことになるわけだが、その点ではたにしさんとはやや意見が異なるところもあった。たにしさんのツイートを貼っておく(ツイートのツリー欄も参照)。
終了。この会の趣旨として「リベラルな恋愛」があるという話を聞いたんだけど、それはなかなか難しいように思った。宮台真司の言葉でいうならリベラルは法内だけど恋愛は法外の存在だから。リベラルがいくら「正しい」言葉で感情を言語化しても「だって好きなんだもん」という恋愛の本質は捉えられない https://t.co/VXNQB5upfM
— たにし (@Tanishi_tw) 2025年3月16日
なお、肝心の内容が気になる人は、動画アーカイブもあるんでこのフォームで登録して料金を払ってくれればお送りします(宣伝)。
「サークルクラッシュ」入門講義(「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1より)
この文章は「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1(実質的にはサークルクラッシュ同好会会誌Vol.11)に寄稿したものです。在庫が切れてきたのでネット上に公開します。
こんにちは。初めまして。サークルクラッシュ同好会改め、「サークルクラッシュ」研究所の所長を務めています、ホリィ・センこと堀内翔平と申します。
このたびは、恋愛で人間関係が壊れてしまう「サークルクラッシュ」という現象について、講義の形式でみなさんに解説したいと思います。
「サークルクラッシュ」は大学生の間で実際に起きていることです。特に大学1回生の間で起きやすいものです。大学1回生というのは人間関係の流動性が最も高くなる時期だからです。「大学デビュー」的な勢いでサークルに入ったものの馴染めずにすぐ辞めてしまったり、サークル内で急速に恋愛の熱が高まったもののすぐに冷めてしまったり、勢いで告白したら振られてしまったりといった感じで起きてしまうものです。
そんなゴシップ的な興味を掻き立てる「サークルクラッシュ」ですが、言葉の定義が難しく、かつ割と取り扱い注意の概念ですので、言葉としての「サークルクラッシュ」についてまずは解説しておきましょう。
1.そもそも「サークルクラッシュ」って言葉はなんなの?
「サークルクラッシュ」とは「男女比が大きく不均衡なサークルや職場などに少数の異性が参加した際、その異性をめぐる恋愛トラブルで人間関係が悪化し、サークルが崩壊に向かう現象」(宇野・更科 2009:167)と定義されています。これは、評論家の宇野常寛さんが2005年ごろから「サークルクラッシャー」という言葉を使い始めたことによって、ネット上で広まったとされている言葉です。
この定義とはやや異なりますが、個人的には「複数人が関与する恋愛トラブルによって人が集団から辞めたり、精神的に傷ついたりする現象」ぐらいに定義しておいた方が分かりやすいと思います。サークル自体が「クラッシュ」してしまうというよりも、失恋した人のメンタルが「クラッシュ」してしまうという意味合いで語られることも多いからです。
さて、言葉の使い方として気をつけるべきなのは、「サークルクラッシャー」が多くの場合、女性を指して用いられがちな概念であることです。そしてこの概念には、恋愛トラブルの責任を女性に帰する含意があります。ここにはおそらく、恋愛関係や性的関係を持つことへの厳しい規範を女性にのみ課す「性規範のダブル・スタンダード」が背景にあります。
むしろ「クラッシュ」を引き起こしているのは男性の方であろうということを強調するため、「クラッシャられ」という言葉が、サークルクラッシュ同好会の初期メンバーであるぶたおさんによって発明されました。クラッシャられ。まるで「赤坂サカス」みたいな響きですね。クラッシャられる、と動詞化することもできます。
結局のところ「サークルクラッシュ」は男女がマッチングすることで起きる現象ですから、これもぶたおさんの言っていた比喩を借りれば、「ガソリンちゃんとライターくん」です。ガソリンちゃん単体、ライターくん単体では特に問題はないのですが、二人が出会ってしまうことで爆発してしまうわけです。
まあ、そもそもとして「サークルクラッシャー」という〝人物〟ではなく、「サークルクラッシュ」という〝現象〟に注目する方が丸くおさまるでしょう。その方が、不当に個人に責任を帰属させてしまう誤った推論を避けることもできます。そのため、僕は基本的には「サークルクラッシュ」という言葉しか使わないようにしています。
それでもなお、「サークルクラッシュ」という言葉自体が女性差別的な価値観に基づいている言葉なのだから使うべきでない、という立場もあるかもしれません。ですが、言葉遣いに問題があるかどうかはさすがに文脈によるでしょう。ステレオタイプを無批判に肯定することに注意して使用すればよいと僕は考えています。
これはたとえば、黒人の研究をしている人が「黒人」という言葉を使うからと言って、「黒人」というカテゴリーの使用を無批判に肯定しているわけではないのと同様です。
2.「サークルクラッシュ」のメカニズム
さて、「クラッシャー」という言葉を使うことには慎重であるべきとはいえ、典型的な「サークルクラッシュ」のメカニズムを説明するにあたっては
A.「サークルクラッシュ」が起こる集団の特殊性
B.「クラッシャー」とみなされる女性の特徴
C.「クラッシャられ」とみなされる男性の特徴
をある程度一般化して見ていく方がイメージしやすいでしょう。ちなみに、男女逆のパターンや非異性愛のパターンは「典型」を見出せるほどには集まっていません。
ここでは、僕が修士論文で調査したインターネット上での言説を紹介し、それと実際に見聞きした「サークルクラッシュ」の事例とを照合することで「サークルクラッシュ」のパターンを把握し、そこから「サークルクラッシュ」のメカニズムを考察します。
A.「サークルクラッシュ」が起こる集団について
まず、ネット上の言説を分析したところ、集団に関わる次の6つが見出されました。
①女性経験に乏しい男性ばかりの文化系・理系・オタク系の集団
②集団内の人間や恋愛関係に関する情報共有ができていない
③公私を混同し,集団自体の目的(公)よりもコミュニケーションや恋愛(私)を重視
④男女の友情が成立しにくく,恋愛に発展してしまう
⑤男同士の絆が弱く,形式だけのホモソーシャリティが維持されている
⑥「サークルクラッシュ」によって集団がなくなることは少ない
はたしてこれらの言説は事実なのでしょうか。僕が見聞きした事例と照合してみますと、⑥については、「サークルクラッシュ」を経験したという人に実際にインタビューしてみたところ、インターネット上の「オフ会」のような、構造化されていない集団ならば、なくなる場合も割とあるようです。このような集団ではそもそも定期的な集まりがないわけですから、集団がなくなるというよりも「会わなくなる」という感じでしょう。
次に、⑤についてもパターン分けができます。まず「ホモソーシャリティ」という言葉の定義を確認しておきましょう。ホモソーシャリティとは、男性同士の「ホモセクシュアリティhomosexuality」を抑圧しながら、男性が女性を性的欲望の対象として扱うことで周縁的な領域へと排除することによって成立する、男性同士の絆を意味します。図式化すれば,「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)と「ミソジニー」(女性嫌悪)を合成した概念です。
イメージとしては「下ネタを言い合う男たち」「男らしさや権力を追求して競争し合う男たち」などが想像がつきやすいでしょうか。とはいえ、「ホモソーシャリティ」という言葉は実はとても曖昧な概念です。たとえば、男性同士は競争しているのか仲が良いのかどっちなのでしょうか? 女性は集団から排除されるのか集団内の性的対象として取り込まれるのかどっちなのでしょうか? また、俗に「ホモソ」と言われている事例においては「同性愛嫌悪」が明示的に見られない場合も多いわけです。
これについても「サークルクラッシュ」経験者に調査したところ、「同性愛嫌悪」が明示的に見られる場合はほぼなかったですが、男性から女性への性的対象化の視線が集団内で強く共有されている際には――これはホモソーシャリティが〝強い〟と言えるでしょう――「サークルクラッシュ」が起きたときに、女性の方が悪者とみなされ、排除されるというパターンがよく見られます。
それ以外のパターンでは――ホモソーシャリティが〝弱い〟際には――男性が勝手に失恋して集団に居づらくなって辞める、といった帰結を辿ります。
B.「サークルクラッシャー」とみなされる女性について
「サークルクラッシャー」とみなされる女性は、言説上では「サークルクラッシャー」は「意図的なクラッシャー/非意図的なクラッシャー」で分類されることが多いようです。
しかし、「意図的に自分からサークルを破壊する」なんて人はほとんどいないはずです。そのことを考慮してか、「承認欲求型/無意識型」という分類もよく見られます。前者は承認欲求が「暴走」することで、複数人から恋愛的な好意を向けられるような態度を取ってしまうというイメージです。どちらかと言えばこのパターンでは女性が非難される傾向にあります。一方、後者は、無意識に他者との距離感が近くなってしまい、結果的に意図しないかたちで恋愛的な好意を向けられてしまうというパターンであり、この場合はしばしば「勘違いする男に問題がある」と評価されがちです。
また、「承認欲求」という言葉は意味合いが曖昧であり、また、実情に即していない場合もあるように思います。そこで元々の「意図的」という要素を残すのであれば、「操作型/無意識型」という分類にした方がより適切かもしれない場合もあると思います。ここでの「操作」には「他者からの自分に対する印象を操作する」という意味と「関係を操作する」という意味の両方を含みますが、いずれにせよ「無意識型」には見られない傾向ですので、分類としては成立するのではないでしょうか。
「承認欲求」にせよ「操作」にせよ、ある種の〝病理性〟がそこには読み取られています。そのため、「サークルクラッシャー」とみなされる女性の恋愛に関する行為の動機としては、「自己肯定感の低さ」が語られがちです。そして自己肯定感はしばしば「家庭環境の問題」とも結びつけられて語られます。これらの「病理的な恋愛」「自己肯定感」「家庭環境」といった概念セットは、それぞれが意味的な連関を持っており、「家庭環境に問題がある→自己肯定感が低い→病理的な恋愛をする」といった、ステレオタイプな因果関係がしばしば語られますし、そのステレオタイプは「メンヘラ」と呼ばれるカテゴリーによって語られることで戯画化されています。
このような戯画化によって「メンヘラ」カテゴリーはスティグマとして機能してしまい、他者から差別や非難を受けるだけでなく、自分で自分に対してマイナスイメージを付与してしまい、社会からの疎外を強めてしまう場合があります。おそらく、精神疾患カテゴリー(ここではたとえば「発達障害」、「境界性パーソナリティ障害」などがイメージしやすいでしょう)を用いるときと同様の慎重さが必要になるように思います。
しばしば女性を指して用いられる「サークルクラッシャー」というカテゴリーに関しても同様です。ひょっとすると、女性を「サークルクラッシャー」として名づけたくなる欲望自体、男性同士の絆を強める「ホモソーシャリティ」の構造から発生しているのではないか、ということも考えられるように思います。
C.「クラッシャられ」とみなされる男性について
最後に、「クラッシャられ」について。言説の分析から見出された「クラッシャられ」の特徴は主に二つです。一つは「ロマンティックな恋愛規範の内面化」です。アニメや漫画などのフィクションで描かれがちな「ボーイ・ミーツ・ガール」、極端に言えば、「空から少女が降ってくる」ような〝運命的〟な出会いのストーリーをどこか内面化している、ということです。
そしてもう一つは、「非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階(グラデーション)のなさ」です。これについては次の図解を元に説明しましょう。

異性愛の男女の関係が「知り合い→友だち→恋人」という風に〝進展〟していくという単純化された図式で考えることになりますが、図式的に言うならばまず、「サークルクラッシャー」とみなされる女性は「知り合い」という関係性をスキップし、最初からまるで友だちに接するかのように接してしまっているということになるでしょう。いわゆる「距離感がバグってる」というやつです。
次に「クラッシャられ」とみなされる男性は、非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階にある「友だち」という関係性をスキップしてしまっているということになります。言うならば、「グラデーション」がなく、「すぐ女性を好きになってしまう」ような男性だということです。
この二者――まさに、「ガソリンちゃんとライターくん」――が出会うとどうなってしまうのか。図解を見てください。
①の段階では、「クラッシャられ」とみなされる男性はしばしば消極的で、むしろ「サークルクラッシャー」とみなされる女性の方が「友だち」として「積極的」に接することになります。まあ、女性からすると積極的に接しているつもりはなく、意図せず距離感が近くなっているということもしばしばあるのですが、男性視点からすると積極的に見えるわけです。
このことで、男性はグラデーションなしに一気に「恋人関係になれる」と勘違いしてしまいます。あるいは実感としては、「ワンチャンいけるかもしれないからいってみよう」という感じでしょうか。暴走しちゃうわけですね。ここでフェイズは図解の②に移行し、男性の方ばかりが恋愛モードになってしまって盛り上がり、友だちだとしか思っていない女性からすると男性からのアプローチに困ってしまうわけです。
このような男性が複数人いれば「サークルクラッシュ」の危険性は高まっていきます。あるいは、男性Aからのアプローチに困った女性は、別の男性Bに相談する、ということもあります。男性Bが「クラッシャられ」でなければよいのですが、どういうわけか「クラッシャられ」である男性Bに対して相談してしまった場合、見事に三角関係の成立です。このような「困ったアプローチ→他の男性への相談」が連鎖していくことで「サークルクラッシュ」に繋がっていくのは一つの黄金パターンとして、しばしば観察されています。
この「クラッシャられ」と呼ばれる男性は、モテない人を指す「非モテ」というカテゴリーと近いように思います。そもそも「サークルクラッシャー」という言葉がインターネット、とりわけ株式会社はてなにまつわるサービス(はてなダイアリーなど)を通じて盛り上がり始めた2005年頃、「非モテ」という言葉を通じたコミュニケーションも盛り上がっており、はてな界隈では「非モテ論壇」と呼ばれるような人たちが存在したほどです。
その後、「非モテ」についての言説はいったんあまり盛り上がらなくなるのですが、近年「インセル」という言葉が出てきたこともあり、「弱者男性論」の一環でよく語られるようになりました。インセルとはInvoluntary Celibateの略で、直訳すると「不本意な禁欲主義者」です。恋愛やセックスを欲しているが、それが女性のせいで叶わないと考えている、女性蔑視(ミソジニー)を基盤とした男性たちを指すと考えればよいでしょうか。
インセルについての言説では、女性蔑視や男性の加害性が問題として語られることが多いですが、「非モテ」については価値判断から離れて、どのように「非モテ」という生きづらさを経験しているかという文脈で語られることも増えてきました。この文脈で言えば、「非モテ研究会」という面白い団体があります。
非モテ研ではたとえば、当事者たちが展開する「非モテ研究」によって、「非モテ」という状況にありがちなパターンを「非モテ用語辞典」としてまとめています。恋愛に関わるもので言えば、自分を救ってくれる女神のように女性を扱ってしまう「女神化」、急激に恋愛のスイッチが入ってしまう「ロマンススイッチ」、振られることが分かっていて告白してしまう「自爆型告白」などの用語が発明されています(ぼくらの非モテ研究会編、2020)。これは「クラッシャられ」が経験している困難を当事者視点からうまく記述したものと言えるでしょう。
「クラッシャられ」はこの他にも、近年話題になっている現象との結びつきがあります。たとえば、「スクールカースト」問題が挙げられます。またもや、「クラッシャられ」という言葉の発明者であるぶたおさんの言葉を借りますが、「オタクになりたくてオタクになった奴ではなく、オタクサークルに入るしかなかった奴がクラッシャられる」のだそうです。これは言い得て妙です。今の時代では何かに熱中できる「オタク」が羨ましい存在として語られることもあります。「オタクになりたくてオタクになった」という人はむしろ人生を謳歌している人だと言えるかもしれません。
それに対して、学校のクラスで周縁的な存在であり、かといって熱中できる趣味もないような人。こういった人こそ「スクールカースト」の犠牲者であるように思われます。居場所のない彼らは、大学生になった際に、オタク的な趣味に熱中しているわけではないもののしぶしぶ居場所を求めてオタクサークルに入ることがあります。それでなんらかの趣味に熱中できるようになればまだよいのですが、目の前に「恋愛」のチャンスが転がりこんでくると、コロッとそちらに転んでしまうわけです。戯画的に言えば、「こんなオタクサークル、二人で抜け出そうよ」というわけです。しかし、それは彼の勘違いなわけです。
「恋愛によって青春を取り戻すチャンスがきた」という勘違いから発生するトラブルを通じて、彼がサークル活動や友情よりも恋愛の方を優先する人間だったということが周囲に露呈してしまうわけです。ぶたおさんは「クラッシャられは友だち甲斐のないやつだ」ということをあるときに言っていましたが、それはこういったプロセスを辿るときでしょう。
このようなクラッシャられの人物像は特殊なものかもしれませんが、ある意味で現代の「草食化」した若者像を象徴しているとも言えるかもしれません。自身が「サークルクラッシャー」であったと著書で語っている鶉まどかさんは、「クラッシャられ」は「上げ膳据え膳を希望」であり「リスク回避・コスパ志向」であるという特徴づけをしています。
鶉さんはそのような「クラッシャられ」に対してデートプランをこちらで考えるなどの「お膳立て」をすることでどんどん男性たちを攻略していったそうです(鶉 2015)。「クラッシャられ」は自分からは恋愛に対して積極的に行動はせずに「リスク」を回避するものの、いざ恋愛のチャンスが巡ってきたらそれはいただきます、という戦略を採っているわけです。「恋人のおいしいところだけが欲しいんです」というのは2016年に流行したドラマ「逃げ恥」のセリフですが、恋愛のおいしいところだけがほしい「クラッシャられ」はまさに現代的な恋愛を象徴している側面があるのではないでしょうか。
3.「サークルクラッシュ」現象の社会学的意義
さて、既に「クラッシャられ」というものを通じて、非モテ、スクールカースト、草食化のような現代的な現象との接合性を紹介しているわけですが、ここからはさらに一般化し、現代社会において「サークルクラッシュ」現象とはどういうものなのかということを考えていきましょう。
社会学者のアンソニー・ギデンズ(1992=1995)いわく、社会が近代化していく中で「純粋な関係」というものがよく見られるようになりました。「純粋な関係」とは、関係を結びたいというそれだけの目的のために結ばれる関係であり、その関係から得られる満足がある限り関係を続けていくような関係を指します。要は外的な拘束によっては左右されないような関係のことです。
とはいえ、現代においても、完全に「純粋な関係」はまずありえません。たとえば、僕たちはなんだかんだ学校や企業などの場所があって初めて人と出会うわけです。結婚相手の選択などにおいても、性別はもちろん、収入、学歴、人種などでフィルターがかかることは現代でもよくあることです。しかし、昔に比べればそれらの友人関係や恋愛関係は「純粋化」しているとは言えそうです。たとえば現代は、同じ地域や身分の人としか友人関係や恋愛関係を築けない、みたいな時代ではないわけです。
また、社会学者の石田光規(2018)の言い方を借りるならば、人間関係は近代化によって「共同体的関係」から「選択的関係」へシフトしているとも言えます。共同体的な「そこにある」関係ではなく、自分の選択によって選びとっていく関係が主流になってきているとは言えるでしょう。
このように考えると、伝統的に機能してきた中間集団、たとえば親戚や地域、学校、職場における出会いはどんどん衰退していると考えられるでしょう。それに対して、自発的な選択に基づく関係が盛り上がっています。その意味で、「サークル」的なものが台頭しているのが現代なのです。そして、インターネットやSNSの存在がこの「選択的関係」が主流になる傾向を加速させています。サークルについても大学のサークルに限らず、インターネットを経由して作られた「サークル」(あるいは「コミュニティ」)は数多く存在しています。
ところで、個人の選択に基づいて関係が作られるようになったということは、個人の「コミュニケーション能力」がモノを言う時代になったということでもあります。というのは、選択的に関係が作られるということは、自分の力で相手との関係を取り結ぶことが重要になってきますし、「人から選ばれる」能力も重要になってくるからです。
言い換えるならば、人間関係は「自由市場」に近づいていくことになります。すると、「選ばれる」人が生き残り、「選ばれない」人が淘汰されていくという傾向が強まります。これは「スクールカースト」や「陽キャ/陰キャ」の二極化の問題にもおそらくつながっていることでしょう。これまた石田の言い方を借りれば「つながり格差」が生じる社会なわけです。
このような現代の人間関係の状況が、実は「サークルクラッシュ」の発生に繋がります。まず、中間集団が衰退したことで、家庭や地域に居場所がなかったり、学級の「スクールカースト」からはじき出されたりする人がそれなりの数出てくるわけです。そういう人たちが、いざ大学やネットで人間関係を作ろうと思うと、コミュニケーションの不得手な人たちだけが「生物濃縮」(あるいは濾過)された「サークル」ができあがってしまうわけです。典型的にはオタクサークルですね。
言うならば「排除された人たちが流れ着く、受け皿としてのサークル」が生じるわけです。そのサークルの内部で起きる、更なる排除の問題が「サークルクラッシュ」であると言えるでしょう。
実際、そのような「受け皿サークル」で起きる恋愛はリスクが高いわけです。具体的に言いましょう。たとえば中学高校などで規範的な男性性に馴染めずに疎外されてきた男の子が、大学に入って、自分の男性性をワンチャン取り戻せる手段として恋愛が立ち現われてきてしまうわけです。非モテ研用語で言えば、「彼女ができれば全て救われる」という「一発逆転幻想」ですね。
また、親などの重要な他者から愛を受けずに育ってきた女の子が、自身の寂しさを埋める手段として恋愛してしまうなんてこともあります。
このような恋愛は、誤解を恐れずに言えば、幼稚で未熟なものになるでしょう。青年心理学者の大野久(1995)は、思春期特有の自己愛が先行する身勝手な恋愛を「アイデンティティのための恋愛」と呼んでいますが、まさにそのような恋愛が「受け皿サークル」では生じやすいわけです。
結果として、「受け皿」からも排除されてしまうわけですので、外から見れば笑い話かもしれませんが、当事者から見れば深刻な問題なわけです。現代の「選択的関係」から生じる「つながり格差」は、自己責任の問題として片付けられない「社会問題」だと僕は考えています。
この他にも、「サークルクラッシュ」現象と深い関わりがあるのはたとえば「若さ=女性性に固執してしまう問題」――これは「パパ活」や美容整形ブームなどとも関連が深いでしょう。
「距離感がバグってる問題」――これは流行している「発達障害」という言葉とも関連づけて語られがちでしょう。
「恋愛ではない関係を築きたいのに恋愛的な好意を持たれてしまう問題」――これはネットミームでは「ぬいぐるみペニスショック」や「雑魚モテ」、ミームでない言葉では「アロマンティック」などと関わりが深いと思われます。
いずれにせよ、「サークルクラッシュ」は現代的な社会問題を発見するための1つのスコープ(照準器)だということが僕の言いたいことです。
ですが、「サークルクラッシュ」を社会問題と結びつけすぎるのも、ちょっとまじめすぎるかもしれません。「サークルクラッシュ」がゴシップとして語られてきたことを振り返れば、起きてしまった「サークルクラッシュ」を楽しく味わえることもまた重要だと考えています。
現代の選択的関係は「排除型社会」、つまり「失敗を許さない」社会を助長しています。選ばれなかった人が再度「社会復帰」できる方が公正な社会であると僕は思います。どうしても「サークルクラッシュ」は起きてしまう、しょうがないんだという側面もあるわけです。むしろ起きてからのアフターケアが大事です。長い目で見れば失敗したことを笑って語り合えるような、そんな場があってこそ、過去の失敗を受容できる。そして、その後の人生のまだ見ぬ誰かと、より良い関係性を築いていける。そういうものなのではないでしょうか。
【文献】
ぼくらの非モテ研究会編 2020 『モテないけど生きてます――苦悩する男たちの当事者研究』青弓社。
Giddens, A. 1992 The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroricism in Modern Societies, Cambridge: Polity Press.(松尾精文・松川昭子訳 1995 『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房)。
石田光規 2018 『孤立不安社会――つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖』勁草書房。
大野久 1995 「青年期の自己意識と生き方」落合良行・楠見孝編『講座生涯発達心理学4 自己への問い直し』金子書房:89‐123。
Sedgwick, E. K. 1985 Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire, New York: Columbia University Press.(上原早苗・亀澤美由紀共訳 2001 『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出版会)。
宇野常寛・更科修一郎 2009 『批評のジェノサイズ――サブカルチャー最終審判』サイゾー。
鶉まどか 2015 『岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私――サークルクラッシャーの恋愛論』コアマガジン。
「運命」を感じていた頃の話(『秒速を語るな、自分を語れ』より)
この文章は、2019年に発行された同人誌『秒速を語るな、自分を語れ』に寄稿したものです。新海誠の『秒速5センチメートル』の内容が前提になっていますのでご了承ください。
僕が『秒速5センチメートル』を観たのは中学3年生から高校1年生に上がる春休みのときだった。僕のいたオタクグループでは新海誠というクリエイターのことがたびたび話題になり、その新海の新作ということで5人の男たちで映画館に行った。
観終わった第一印象として、とにかく映像の綺麗さと、第三話の主人公の転落ぶりが印象的だった。新海誠の作品を初期から追っているオタク友人は言う。
「『雲のむこう』まではまだギリギリ共感できたけど、この作品はさすがにドン引き。だって、小学生のときに好きだった子のことを大人まで引きずってるヤツってキモいやろ。ストーカーかよ」
マジレスだった。僕はハッとした気分になった。危うく作品の綺麗さに騙されるところだったな、と。
あれから12年。今の僕は27歳で、大学院生をやっている。大学生は勉強・バイト・サークル・恋愛の4つの内2つしか選択できないなどという俗説があるが、既に大学に9年間も在籍している僕は、もはやすべてを経験したのだと思う。しかし、恋愛だけは一筋縄ではいかなかった。恋愛を通して人生が捻じ曲がるような経験を何度もした。どれだけ勉強して、メタ的な視点を獲得しようとも、恋愛においてはシッチャカメッチャカだった。僕は、恋愛の魔力に憑りつかれたジャンキーだった。僕の捻じくれた恋愛経験を振り返って総括する上で、『秒速5センチメートル』は有効な補助線となる。
***
兄の影響で摂取していたオタク作品(漫画やエロゲなど)を通して漠然と恋愛に憧れを抱いていた僕は、女性を好きになるということに対して開かれていた。開かれすぎてガバガバだった。小学1年生のときから常に誰かしら好きな子がいたし、好きな子と仲良くなる妄想を日々していた。
しかし、あまりにも女性を意識してしまうのか、女性と話すのは苦手だった。話したくてもうまく話せなかった。緊張した。中学生になってオタク趣味が高じていくなかで、余計に女性とは何を話せばいいのか分からなくなっていった。唯一まともに女性と接点があったのはインターネットだった。インターネットを通じて何人かの女性を好きになったり、遠くに住んでいても会いに行ったりしたものだが、どうすればいいのか分からずに気持ちだけが先行して、そのまま関係は消滅していった。
大学1~3年生のとき、僕は悠木碧という声優を追っかけていた。最初はその演技に魅せられたのだが、時折見せるネガティヴさや自己否定に惹かれるものがあったのだと思う。僕は純粋な気持ちで「声優」を応援しているつもりだったが、後から振り返ってみればあれは疑似恋愛だった。そして、なぜ僕はネガティヴさに惹かれていたのか?
結局のところ、まともに女性と話せるようになっていったのは大学4年生になってからのことだった。僕はスカイプ掲示板というサービスを通じて、自分のようなオタクでも話せそうな趣味の合う子と一対一で喋っていたし、「サークルクラッシュ同好会」という恋愛トラブルを主題にしたサークルを作ったことによって、「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性と話す機会が圧倒的に増えた。僕は、そんな子たちを次々と好きになった。
当時の僕は女性に飢えていた、と言っていい。「話しかけてくれる人は好きになる」と言っても過言ではないような状態だった。そのことの自覚がないわけではなかったが、自覚していたところで好きになるものは好きになるんだからしょうがない、と開き直っていた。ただ、それにしても、僕はどうして「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性を好きになったのだろうか?
そうして僕は2013年以降、何人かの女性と付き合ったり、ある程度仲良くなったところで告白して振られたり、ということを幾度も繰り返してきた。今も僕の記憶の中には、様々な女性との関係の履歴が、屍のように横たわっている。
「そんなにたくさんの女性と……?」と怪訝に思われるかもしれないが、そもそも恋愛関係に移行しようとするとたちまちにして関係が壊れていくということが多かったのだ。なぜ僕はそんなにもすぐに愛想を尽かされるのか(仮に付き合っても1~3ヶ月でフられてばかりだった)。それはそれでまた大事な部分だが、ここで掘り下げたいのはむしろ僕の意識や心境の変化の方である。
僕はそれらの女性の内の何人かに対して、「この人こそ運命の人だ」、「この人以上に魅力的な人はもう現れないだろう」と本気で思ったものだ。付き合っていて振られたときには嗚咽を漏らしながら泣き、「僕はこれから何を指針に生きればいいんだ!」、「彼女にもう一度認めてもらえるまでは、恋愛しない!」などと自分に言い聞かせるようにモノローグ(独り言)した。
にもかかわらず、僕は何人もの女性に心移りしていった。寂しさを埋めるように「次の女性」を探していったのだ。
「運命」を確信したあの純粋な気持ちはどこにいってしまったのだろう。人間は忘れる生き物なのだろうか。失恋の傷を癒してくれるのはやはり「時間」なのだろうか?
***
『秒速5センチメートル』の貴樹にとっては違った。彼は小中学校の頃の思い出を引きずり、引きずったまま大人になった。やや踏み込んで解釈するならば、彼は子どもの頃の「神秘体験」の呪縛に囚われ、他の女性と本当の意味で親密になることを恐れてしまったのだ。
彼も心のどこかでは過去の呪縛から自分を救い出してほしい部分があったのだろう。高校時代の花苗からの好意を表面的には拒否しなかった。しかし花苗も、大人になってから3年間付き合ったリサも、彼の堅牢な心の鎖を解くことはできなかった。
「そして、ある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた」
このモノローグから、希望を見出すことも可能である。「秒速」の漫画版では、会社を辞めた貴樹は宇宙関連の会社に就職する。思い出の踏切では小学生の明里が笑顔で大人になった貴樹を送り出すシーンが描かれ、貴樹は歩き出す。
しかし、普通に理解するならば、このモノローグはただただ絶望を表現している。映画視聴者は、僕が抱いたような「転落」の印象を受けることだろう。新たな生活を歩んでいる明里との対比で、一人だけ前に進めずにうじうじ過去を引きずっている男にしか見えない。「会社を辞めた」というのも、現代であれば「うつ」の描写ということになるだろう。
それではなぜ、貴樹はこんなにも明里のことを引きずってしまったのだろうか?
***
フロイト曰く、幼児期の母への欲望は父が介入することで断念され、抑圧される。しかし、抑圧されたものは回帰する。光源氏が桐壺更衣の面影を追い求めたのが象徴的なように、抑圧された欲望はどこかで反復されているのである。
僕自身、「次の女性」を追い求めて、そのたびに複数の女性たちに何度も「運命」を感じてしまったという点で貴樹と違う立場ではある。しかし、そこで僕が何を「運命」だと感じたのか、その要素を取り出してみれば、根本的には貴樹と同じものを追い求めて反復していたのだと思う。
内面の共有、あるいは傷の舐め合い
恋愛に限らず、人間関係において趣味嗜好が似ていることは距離が近づくキッカケになるだろう。現に僕はオタク的な趣味を深めていったせいで、女性と何を話せばいいか分からなくなったということを述べた。しかし、インターネット上には僕と同様のオタク的な趣味を持っている人がいた。漫画やアニメの話で盛り上がれる、そのことによって距離が近づいたのはごく普通のことであった。
しかし、それ以上に恋愛という文脈が絡んでくると、深い内面的な傷つきを共有することが重要になってくることが多い。「秒速」において、貴樹と明里はお互いに転校してきた関係で、お互いに体が弱く、お互いに図書館の本を読んだ。そして、クラスの人間からは冷やかされた。虐げられた者同士がお互いに惹かれ合うのは必然だった。
一方、僕はと言うと、あるときから「メンヘラ(と呼ばれるような女性)が好き」だと自覚し、公言するようになった。僕自身が精神的に不安定かというと必ずしもそうではないが、「普通」からズレて生きてきたという自覚はある。少なくとも小学生のときは情緒不安定で、暴力事件を引き起こしたこともあった。中学以降も、電車男が流行っていた当時のスクールカースト状況において、「オタク」としてのアイデンティティを持っていた。そのくせ、現実の恋愛やコミュニケーションに対してコンプレックスを抱き、「リア充」から虐げられた存在だという気持ちを本気で抱いていた。
そんな僕は「メンヘラ」という存在に自らの幻想を投影してしまった。僕たちは世界から虐げられてきた者同士、分かり合えるはずだ、と。「サークルクラッシュ」の研究を進める中で、「クラッシャー」の当事者がしばしば「メンヘラ」性を持っていることを知るようになった僕は、「メンヘラ」に対する「聞き上手」というコミュニケーションスタイルを自然と身につけていった。
そして、「メンヘラ」との関係が恋愛という形を取ったとき、僕の中にある心の穴が埋まるのを感じた。「ホリィさんって聞くの上手いですね」、「ホリィさんはすごく喋りやすいです」と、女性から承認を受けたのである。恋愛にコンプレックスを抱いていた僕は、初めて女性に承認された気がした。
貴樹が明里を「守る」という立場を取ったように、僕もメンヘラを「守る」ためのスタイルを構築していった。「メンヘラ」相手ならば、僕でも会話が成立するし、相手にとって大切な役割を果たすことができる。女性全体のなかで唯一僕がアクセスできる存在として「メンヘラ」が立ち上がってきたのだ。
そして、現実にコミュニケーションを取り、関係を深める中で「庇護欲」という形で僕の心の穴が埋まっていくのを感じた。運良く付き合う関係になり、セックスをする中でも、それぞれの女性が持つ個性的なエロティシズムに僕は魅せられ、「自分が性的に受け入れられる」ということに喜びを覚えた。「聞き上手」的コミュニケーションによって関係がうまくいくということを、積極的に恋愛の文脈に読み替えてしまったのだ(勝手に勘違いして恋愛的な片思いをしてしまうこともあった)。そこには自分の「男性」としての自己不全感があったのだと思う。
しかし、そのような醜い欲望を女性との関係に投影してしまうと、当然ズレが出てくるものである。貴樹は「手紙から想像する明里は、なぜかいつも独りだった」とモノローグしていた。これは結局のところ、孤独を感じている貴樹自身の自己投影でしかない側面もあるだろう。ひょっとすると中学時代から既に、貴樹と明里との間の「孤独」観、そのすれ違いは始まっていたのだと思われる。
相手のために作り上げたコミュニケーションスタイルだったはずが、いつの間にか僕は自分本位になっていた。醜い性的欲望を彼女たちに押しつけた。結局のところ女性たちを傷つけてきたのだと思う。あるいはそのような欲望のキモチワルさに呆れられたのだろう。関係はすぐに切れていった。
神秘体験とストーカー
貴樹と明里はすれ違っていた。そうなのだとしたら、なぜ貴樹は明里のことを諦めずに、ずっと引きずってしまったのだろうか。
中学1年生の貴樹が明里に会うために栃木に行き、そこで大雪に見舞われたにもかかわらず明里に会えてしまった。このことの偶然性=運命性が、根本的な不幸の始まりだったのではないか、と僕は思う。
僕自身、女性に対して運命的なものを感じるとき、多かれ少なかれ「神秘体験」と呼んでもいいような体験をしていた。数時間にわたるディープなスカイプ通話で相手の生育環境を聞いたこと、僕の「言語化」へのこだわりが情念のような非言語的な部分までを分節しようとしていることを見出してくれたこと、自転車で帰ろうとしていた僕を引き留めて荷台のところに飛び乗ってきてくれたこと。そして彼女は言う。「あなたと話しているときが一番楽しい」と。
貴樹も栃木で明里と会えてしまったのである。それだけに飽き足らず、作ってきてくれた弁当を食べ、桜の木の下でキスをした。帰れなくなった2人は小さな納屋の中で身体を寄せ合いながら一晩を過ごした。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした」。「あのキスの前と後では、世界が変わってしまった」。
ここには「呪い」の作用がある。付き合っていた彼女たちと別れるとき、あるいは好きだと告白した女性に振られるとき、いつも感じることがあった。「あんなに好きだと言ってくれたのに、どうして」。そして、僕ははっきりとは振ってくれない女性たちに業を煮やして、ストーカー的な行為をはたらいてしまった。今では反省しているが、僕がストーカーになってしまったのは「あなたと話しているときが一番楽しい」という言葉を、あたかも永遠の契約のように勘違いしてしまうからだった。「あのときああ言っていたじゃないか」と僕は詰め寄った、僕たちは相性抜群で、運命的な体験を共有した仲だったはずだった、と。でもそんな風に感じているのは僕だけだったのだ。貴樹もまた明里との体験を反芻していたが、大人になった明里は手紙を見つけるまですっかり貴樹のことを忘れていたのである。
「今ここ」の向こう側、東京という街
僕が彼女たちに投影していた幻想はもう一つある。それは、美的・文化的なセンス、言ってしまえば「東京」への憧れである。僕が好きになる人は「マシンガントークで、絵を描いている人」が多かった。マシンガントークの方は、僕が「聞き上手」というポジションを得られるがゆえに価値があった。そして、「絵を描いている人」は僕から見れば「遠くにいる」人で、自分が持っていないものを持っている人だったと言える。
僕は大学に入ってから、自分の文化的な教養のなさを思い知った。毎クール放映されているアニメを観て育った僕には、映画を観る習慣や小説を読む習慣がなかった。美術館に行ったこともなかったし、音楽もアニソンぐらいしか聞かなかった。もちろん、もっとディープなサブカル的教養などあるはずもなかった。「オタク」と対比されるところの「サブカル」に対して、僕は「憧れ」と「劣等感」を持ってしまった。
結果的に、東京に住んでいる(あるいは住んでいた)女性を好きになることが多かった。少なくとも、文化的な教養のある人を好きになることが多かった。「僕の持っていないものを持っている」がゆえに好きだった。そういう人と付き合えば、僕もその趣味に染まって、別の世界に行くことができるんじゃないか、そんな期待を抱いてしまった。
文化の象徴としての「東京」への憧れは、新海誠作品に出てくるモチーフだ。種子島在住の花苗が東京からやってきた貴樹に惚れてしまったように、『君の名は。』の三葉が東京のイケメン男子に憧れたように、僕は(性別は逆であるが)彼女たちに憧れた。雑然としていて息苦しいはずの東京を、新海は非常に綺麗なものとして描く。長野出身の新海にとって、距離を隔てた東京という街は「向こう側」にあるものだったのだろう。新海の作品は、地球と宇宙、本州とエゾ、地方と東京、この世界とあの世界、年齢、時間などといった様々な断絶の「向こう側」にあるユートピアを常に夢想している。そしてその「向こう側」に恋愛が重ね合わされてしまう。渡せなかった手紙、送れなかったメール、言えなかった「好き」という言葉、「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」。「秒速」では「手が届かない」ということのフェティシズムが追求されていた。それに対して、僕は手を伸ばしてしまったのだ。
僕は、彼女との間にある断絶を、目の前にいるにもかかわらず埋められない無限の距離を、感じざるを得なかった。彼女に追いつこうと、音楽を聴いたり、映画を観たりするのにはどうしても苦痛を伴った。そもそも僕にはそういう習慣がなかったから。重い腰を上げて彼女が絶賛する映画を観てみても、僕はつまらないと感じた。僕がもっと映画を観ていれば、その良さが分かったのだろうか。あるいはもっと積むべき人生経験があるのだろうか。
美少女ばかりが出てくる漫画が本棚にあることのセンスを彼女に貶され、自分のこれまでの(オタクとしての)人生を否定された気分になった。その一方で、僕は典型的なオタクがハマるような美少女系作品にハマれるわけでもない。彼女に対する劣等感が強まり、それでも彼女のことは好きだったから、僕は変わらなければならないと思った。「今ここ」にいる僕には価値がないんだ、と本気で思った。
これは文化以前の問題だった。僕は美醜の感覚や嫌悪感が麻痺してしまっている。身体性が欠如しているのだ。姿勢も、生活も、衣食住も、部屋の片付けさえもままならない。興味が湧かない。僕はたびたび彼女との感覚のズレに苦しんだ。
彼女が景色を見ているとき、僕が見ているものは文字だった。
僕はこの鈍感さを補うかのように、「言葉」によって感覚を分節する能力を身につけた。
カオスを切り取る言葉。言葉が構成する意味の世界。
僕=貴樹=新海誠は、その過剰なまでの言葉に乗って、どこまでいくのだろう。どこまでいけるのだろう。








