谷口一平「「マイナス内包」としての性自認の構成」&査読コメント を検証する

 

独立研究者・谷口一平氏日本大学哲学会『精神科学』への投稿論文がリジェクトされた。

そこで谷口氏は査読過程、及び匿名査読者2名の査読コメントに疑義を投げかける連投ツイートを昨年末にしていた。

谷口氏のツイートを見る限り、この疑義にはもっともな部分もありそうだが、谷口氏の論文本体が公開されているわけではないので、判断しかねる部分もある。

とりあえず、Twitter上の言説レベルで分かるのは、このツイートを火種として、トランスジェンダーの問題にまつわる党派的な争いが(いつものように)起きているということである。

 

トランスジェンダーにまつわる問題は、非常に複雑な側面があるように思うし、一個人としてどういう働きかけをすれば不幸の最小化に寄与できるのかもあまりよく分かっていない(ので、この問題について、僕は沈黙していることが多い)。

ただ、今回の騒動については自分の出る幕があるように思った。

 

というのは、

①谷口氏自身に論文を請求し、読んだうえで査読コメントの妥当性を検討している人がなぜかほとんどいない(まあそんなもんなのか……)

②自分は「ジェンダー論」が一つの専門であり、永井均の議論にも触れたことがないわけではないので、論文の内容/査読コメントの意図が少しは理解できそう(あと、個人的に読んでみたいテーマでもあるので、モチベーションは高い)

③(これは後から分かったことだが、)この論文には精神医学にまつわる科学哲学の議論も関わっている。僕はその議論にも比較的詳しいほうなので、その点もコメントできる

というところからである。

 

よって、ある程度多元的な視点からのコメントができそうなので、それを(主にTwitter上の)言説空間に放り込んでおくことで、この問題がごくわずかであっても良い方向に進むよう寄与できるかもしれないと思った(まあ、言説の行く末なんて予測不能なものだが)。

もちろん僕には僕で立場上の偏りがあり、それは避けられないし、いくら中立的な立場でコメントしようとしても、どうしても「党派的」なものとして回収されてしまうだろう。

自説に都合の良い部分だけを取りあげて溜飲を下げたい人はどうぞ溜飲を下げてくれ。人は意見・政治的構えに偏りがあって当然だと思う。そうして溜飲が下がっちゃうのは当然のことである。

ただし、溜飲が下がった後に「自説に都合の悪い」部分も含めて検討するべきだ、と僕は考えている。それが理性というものだろう。

だから僕は自分の目で谷口氏の論文を読んだうえで、査読コメントが妥当なのか妥当でないのかも含めて、自分の目で確かめてみたい。

個人的に論文データを送ってくれた谷口氏にまずは感謝したい。

 

 

査読①のコメントについて

まずは、査読コメントを検討する。

査読コメントには妥当でないと思われる部分と、妥当だと思われる部分の両方があるように思われるので、具体的に指摘していきたい。

しっかり文章として構成するのが面倒なので、ここからは基本、階層化された箇条書きで僕の考えを述べていく。なお、査読コメントの内容を太字で示す。

 

 

 

  • 2段落目:
  • 性自認」は「性同一性」と同じ意味の言葉であり、性自認は社会のうちで生きていくなかで、さまざまなジェンダー規範に対する反応を通じて形成されていくものだという理解が一般的だと考えられる
    • 谷口氏も言うようにこの話は根拠が曖昧
    • まあ、たとえば社会で「男性」だとみなされる人が、そうみなされるがゆえに自分を「男性」だと自認していく、みたいなそういうプロセスを指して言っているのだろうなと思う
      • なお、「「性自認」を「性同一性」と同じ意味だと考えるのが一般的ではないか」という視点については後で谷口論文の中身を検討するときに触れる
  • こうして形成された性自認はさまざまな振る舞いに現われるため、私秘的なものであるとも思えない
    • 「さまざまな振る舞いに現われる性自認」と「私秘的な性自認」の両方があり、谷口論文は後者を扱っているという理解でよいと思う
      • では、「さまざまな振る舞いに現われる性自認」を論文上ではどう処理するべきなのか、これについても後で触れる

 

  • 3段落目:
  • 残る問題は「外的な基準を一切持たない自己についての認識はいかにして可能か」というごく一般的な問題のみ
    • 谷口論文はとりわけ「性自認」について問うているし、その理路も含めてオリジナリティはあると思う。なので、この言い方には疑問がある

 

  • 4段落目:
  • シスジェンダー性自認については自明視し、トランスジェンダー性自認のみを特別な説明や根拠が必要なこととみなすことを前提としている
    • 谷口論文はそんなことしていないだろう
  • 身体が性自認の究極的な根拠だ
    • 谷口論文はそんなこと言っていない(はず)

 

  • 5段落目は省略

 

  • 査読①の感想:
  • 言っていないことが言っていることになっているという点ではよろしくない査読
  • まあでも〝ふつうの査読〟として最低限は機能しているとは思う
    • というのも、2段落目で言われていた「性自認は社会のうちで生きていくなかで、さまざまなジェンダー規範に対する反応を通じて形成されていくものだという理解」や「(性自認は)私秘的なものであるとも思われない」、といった割とよくある議論を「先行研究」として位置づけたり、この論文上で議論する必要のないものとして扱うための処理をしたり、といった工夫がないので
    • これはたしかに問題で、〝ふつうの査読〟であれば、リジェクトされるには十分な理由だとは思う

 

査読②のコメントについて

 

同じく査読コメントは太字で示す。

  • 査読②の1,2段落目:
  • 谷口論文は身体基準とは無関係のところでなされる性自認を有意味なものとして解釈する理路を提示している
    • これはそう

 

  • 3段落目:
  • 自己論としての新奇性や妥当性があるのか?
    • この査読者は「自己論とジェンダー論」という「二つの主題」を分離したものとして捉えているっぽい
      • とはいえ、二つの主題が総合されたものとして見ることもふつうに可能だとは思うし、僕はそう見ている
      • 余談だが、(谷口氏的には不満だろうが、)この査読者の言ってることを押し進めるならば、「性自認」の議論はなしにして、4~6節の「自己論」的な側面だけを取り出し、余った文字数を「自己論」的な先行研究の整理と当該論文の位置づけに使えば、それはそれで論文が書けるだろうなとは思った

 

  • 4,5段落目:
  • 谷口論文によれば、自己の性性は「第〇次内包」とはなりえない
    • ここは谷口論文第三節の主張の根幹だなあ
  • この指摘はそのままトランスの人々やジェンダー論の論者への批判に繋がっている
  • 「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる」(谷口論文3ページ)
  • 本論文がジェンダー論への学術的な貢献をなしうるためには、上記の論述に関する典拠が必要
  • 言い換えるなら、トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張しているという証拠が必要 
    • 谷口論文の主題を「自己論/ジェンダー論」と分けて考えるという査読者②の見方に従うのであれば、自己論またはジェンダー論への学術的な貢献が必要、ということをこの査読者は言いたいのだろうなとまず思った。だからこそ「ジェンダー論への学術的な貢献」の話をしているのだろう
    • 査読②の言うとおりここの「典拠」、「証拠」が必要になってくるとは僕も思うのだが、それは査読②とは違う意味で必要だと思う(詳しくは谷口論文の中身の検討のところで述べる)
      • ちなみに、ここでの「言い換え」について谷口氏は「そんなこと私もひと言も言ってない」とツイートしていた。どうだろうか。
        該当部分を引用すると、「さて 20 世紀後半からのトランス権利運動の流れの中でトランスジェンダーの脱病理化・脱医療化が進められ、「性同一性」という概念の置かれる文脈も変容する。identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる。重要なのは、それが自己確証に基く「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになってきたということである。」(谷口論文3ページ)
      • これはすなわち、「性同一性という概念は、自分のことを女/男と思うこと(谷口の定義による「性自認」)に近づいている」ということを意味しているように思われる。そして、当事者やジェンダー論者たちの言説がそのように組織されているということなのだろう。
      • よって、基本的には査読者②が言っているとおり(トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張している)に僕には読めるが……
        • なお、査読者②が危惧しているのはおそらく、「自分が女/男だと思えば、その人は女/男である」という主張が簡単に成立しすぎてしまうと、トランスヘイト言説における〝陰謀論〟の資源になってしまうからである。「あいつらは好き勝手に自分の性別を名乗っている!」という風に。
    • なんにせよ、やはり先行研究からの流れにおいて谷口論文がどう位置づけられるのかが書かれていないと、〝ふつうの査読〟においては落ちそう
      • なお、ここで言われている「ジェンダー論」は割と広義に捉えられるし、哲学的問題も含まれるであろう。だから、別に「哲学」とは厳密に区別しなくてもいいと個人的には思う。谷口氏はここで書かれている「ジェンダー論」という言葉を「哲学」とは区別されたものとして捉えすぎなところがあるように思う
      • まあただ、谷口氏の怒りのポイントはまさに、「哲学」色の強い第3~6節がほとんど検討されなかったことにあるのだろう
  • このとき注意すべきなのは、筆者自身がこうした言明〔「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」〕を独自の形而上学的世界図式にもとづいて「私の身体は男であるが、私はもともと女であった」 という言明へと再解釈しているように、たとえ現実に「自分で女と思えば、その人は女なのだ」という発言が認められたとしても、それをただちに筆者の定義する「性自認」概念と同一視する必然性はないということです。それはあくまで省略的な物言いであり、別様に解釈することがつねに可能
    • こはちょっと意味が取りにくい……
    • たぶん、当事者の性自認を、谷口論文の4~6節の理路によって再解釈する必然性はない、という主張かと思われる
    • 結局のところ、当事者の性自認概念がどのように未整備なのかをもうちょっと説明してよ、ということなのだと受け取った

 

  • 6段落目:
  • トランスの人々がみずからを女性/男性として自認するとき、それは真空状態で生起するわけではなく(…)セックスから派生するジェンダーを割り振られることへの違和感を契機としている場合が多いように思われる
    • この点は査読①でも指摘されていたこと
    • そこでも書いたが、谷口論文は、この種の”社会的な”性自認の形成についての理解を乗り越えるような構成では書かれていない
    • つまり、先行研究としてこういった”社会的な”性自認形成についての主張を紹介した上で、それの不十分な点を指摘するかたちで書かないと、〝ふつうの査読〟ならばリジェクトされてもしょうがないとは思う
  • そうしたこと〔社会におけるジェンダー割り振り経験に基づいた性自認の獲得、という理路〕を捨象して、トランスの人々やジェンダー論の論者たちの「性自認」概念は概念的に未整備であり、筆者自身が哲学的にそれを整備するというスタンスで論文を書くというのは、学術的意義の捏造に近いものがある。それどころか、トランスの人々を非哲学的な存在として指定している点で、本論文は不要な攻撃性を孕んでいるとさえ言える
    • 繰り返しになるが、"社会的な"性自認の形成、という理路を捨象せずにちゃんと先行研究として扱ってよ、ということだろう
    • 「不要な攻撃性」については後で検討

 

  • 査読②の感想:
  • 査読①ほどの根本的な誤読はないと思う
  • ただまあ、言っていることの中心は査読①とはあまり変わらないという印象

 

査読①②総合しての感想

  • 谷口論文はほんとうにトランスジェンダーの人々に対して中立的ではなかったり、不要に攻撃的であったりするのか?
    • 査読①のコメントは単に誤読に基づいているので論外(たとえば「身体が性自認の究極的な根拠だ」などと谷口氏は主張していない)
    • 査読②のコメントでは「トランスの人々を非哲学的な存在と措定する」という点を問題視しているが、それほどかな? まあ、「先行研究への位置づけをしなさい」というコメントだと考えればそれに限っては妥当だとは思うが
    • 僕としては査読①②の言っていることよりもむしろ、「性同一性」と「性自認」との間の概念的区別の箇所の方がよっぽど問題があると思う(後に批判的に検討する)
  • 谷口氏は「哲学」の論文を「ジェンダー論」の人間に査読されたことを問題視しているが……
    • とはいえ、査読①②に共通している「社会的な性自認の形成」について谷口論文は考えるべきだ、という指摘は哲学論文へのコメントとしても妥当ではないだろうか
      • 分からないけど、2人の内1人ぐらいは哲学の人かもしれん
    • 先取りして言うならば、谷口論文がふつうの査読論文としての水準を満たすためには、たとえば「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認についての先行研究を乗り越えていくことが必要だと思う(この言い方が正確なのかはビミョーなのでそれも後で触れる)
  • 『精神科学』は日本大学における紀要的な位置づけの雑誌なので、リジェクトを聞いたことがないにもかかわらずリジェクトされたという話について
    • 紀要的な位置づけなんだとすると、たしかに政治的なリジェクトっぽい
    • ただまあ、上で述べてきたように、〝ふつうの査読雑誌〟であれば修正なりリジェクトなりになってしまうぐらいの瑕疵はあるのではとは思う
    • 問題は〝ふつうの査読雑誌〟レベルの厳しさをなぜ『精神科学』は課したのだろうかということ
      • 編集方針が気になるところ
    • 一つ考えられることとして、査読者の選定については実務的にはタイトルとか「はじめに」とかで選定されることになりそう。なので、さすがにキルケゴールの専門家は査読者に選ばれないのでは……
    • 「マイナス内包」という入不二の用語もあまり知られていない気がするので(永井均のいる大学なので、むしろ「マイナス内包」のことを知ってる人も多いかもしれないが)、そうなると「性自認」という用語に基づいて、現実的にはジェンダー論の学者が査読するのもやむを得ないかもしれない
    • 『精神科学』に投稿された論文のタイトルをザッとCiNiiで見てみたが、基本的には哲学、倫理学、美学あたりの論文が多い感じ。なので、基本的には哲学の人が査読をすると考えても良さそうだが、「性自認」がキーワードになったことで今回はジェンダー論者を査読者に据えたってことなんだろうか
    • その結果、ジェンダー論的観点から見て厳しい基準での査読が行われた?
      • 余談だが、僕は「ジェンダー論」が一つの専門であるので、「ジェンダー論」の論文を某社会学雑誌に出したことがある。すると、タイトルとキーワードにジェンダー要素が薄かったせいか、「ぜんぜんジェンダー論を分かってないだろ」という人たちに査読をされ、リジェクトされ、嫌な思いをしたことがある
      • ところで、学会発表や学会誌を軽視する社会学者への警鐘を慣らしている太郎丸氏のブログは有名だが、

        阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望 | Theoretical Sociology

      • その太郎丸氏が「査読結果への不満」の話をかなり具体的に書いている論文がある 

        投稿論文の査読をめぐる不満とコンセンサスの不在

      • 最終的には太郎丸氏は査読制度をよりよいものにしていく方策を考えるべきだという話をしている
      • 査読制度は公正であるべきだろう。だが、どうしても限界はあるというか、ある種の偏りを伴うものであるし、投稿者視点では「査読を通すためのゲーム」になってしまう側面もある。とはいえさすがに「ないよりはマシ」だろう。アカデミアの専門性を担保するための代替案が思いつかない以上、現行の査読制度をより「マシ」なものにしていくしかないのではないだろうか
      • 以上余談

 

 

谷口論文「「マイナス内包」としての性自認の構成」の中身の検討

では、さきほどの査読コメントも踏まえた上で、論文の中身を検討する。やはり本文の内容を太字で書く。

  • 谷口論文の1節:
  • 谷口の「性自認」の定義は「自分のことを女性(男性)だと思っている」ということ
  • 論文が書かれたキッカケは、永井均の発言
    • この節は特に問題を感じないが、永井の発言は谷口論文の3~6節を理解するうえで、助けになったので一応部分的に書いておく↓
    • 永井:たとえ第〇次内包の側からの逆襲が起こりえなくとも、マイナス内包からの逆襲(?)は起こりうる(いつもすでに起こっていうる)のではないか。なぜならジェンダーは実は社会的構築物ではないから(という筋)。ジェンダーをマイナス内包として(すなわち第一次および第〇次内包化不可能なものとして)捉えるという発想は現代思想っぽくて、かつ精神分析を超えている

 

  • 2節:
  • 「性同一性」と訳される意味でのgender identityは外形的に判断されうるし、操作的定義を試みることも可能。精神医学的実在論を取るならば、科学的探究の結果として脳内にその本質が発見されることもありうる。ゆえに、それを「性自認」と訳すのは誤訳である。(谷口的には)性自認は性同一性の一部である
  • そうでなきゃ、self-identified gender identity: SIGIという言葉が訳せなくなる、ということも脚注7で主張されている
  • 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
  • 脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
  •  
  • この2節の議論には大きく以下2点の問題があるように思う
    • ①「性同一性」概念の取り扱いの問題
    • 性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるのではないか、という議論がすっ飛ばされている
    • 以下で順に書いていく
  •  
  • ①:脚注9で指示されている動画https://youtu.be/b5vnpTwt0cs?si=Qm9PXP2sp8Pn3RXvも含めて、「性同一性」は医学的な概念であることから、「性同一性」は科学的探究の対象であり、科学的探究の末にその本質が発見されうるような概念であると規定されている
  • しかしそもそも、精神医学的カテゴリーが(たとえば脳内に)実在するという「精神医学的実在論」はかなり偏った立場であると言わざるを得ない
  • 精神疾患を原因別に分類する、よく知られた分類としてたとえば外因性/心因性/内因性というものがある
    • 精神以外の疾患であれば、概ね外因性(すなわち、身体や脳の実質的変化に基づくもの)だと考えられる
    • それに対して、精神疾患においては、ストレスや葛藤への心的反応として生じていると想定される心因性のカテゴリーがたくさんある
    • たとえば、統合失調症の陽性症状においてはドーパミンの放出が過剰だとされている「ドーパミン仮説」などがあり、たしかに科学的探求は行われるものの、そこから「統合失調症の本質的定義」へと至るメドが立っているなどとは到底言えない
  • ましてや、DSMにおける「適応障害」や「PTSD」といったカテゴリーは、「ストレス因」や「外傷となった出来事」が関わってくるため、脳には還元しきれないカテゴリーである(仮に脳が同じ状態になったとしても、明確な「ストレス因」や「外傷となった出来事」がなければ、そのようには診断されないだろう)
    • 精神医学ではこのような社会的なものの関わってくるカテゴリーも念頭に置きながら診断するため、バイオ-サイコ-ソーシャルモデル(生物-心理-社会モデル)に基づく診断が行われている
  • 以上より、「性同一性障害」に本質主義的定義を与える(たとえば、脳内の状態がこれこれであれば「性同一性障害」であると定義する)ことが果たして可能なのかと言われると、かなり疑わしい
  • また、谷口論文や動画において、DSMでは操作的定義が採用されているということが言われている
    • すなわち、客観的に定義が可能な概念であるということが言いたいのだろう
  • しかし、アメリカ精神医学会(APA)も認めているように、DSMにおける精神疾患カテゴリー間の境界は曖昧であり、実際、医師ごとの診断にも揺れがある(心理検査の用語で言えば信頼性がない)
  • 動画を観た限り、谷口氏は「「性同一性障害」という堅固なカテゴリーであればアイデンティティ・ポリティクスが成立し、それに対して「性自認」という科学探求的内包を持たない・家族的類似でしかないカテゴリーではアイデンティティ・ポリティクスは成立しない」という旨の対比によって「性自認」の概念上の不備を指摘しているが、以上の議論を踏まえれば対比として成立しているかは怪しい
  • 医学のカテゴリーであるとはいえ、「性同一性」も「性自認」と同じぐらい本質主義的には定義し難く、運用し難いカテゴリーである
    • 実際、現状のDSM-5の「性別違和」の診断基準を抜粋してみると、
      • A その人が体験し、または表出するジェンダーと指定されたジェンダーとの間の著しい不一致が少なくとも6か月、以下のうち2つ以上によって示される。

      • 1.その人が体験し、または表出するジェンダーと、第一次および/または第二次性徴(または若年青年においては予想される第二次性徴)との間の著しい不一致。

      • 2.その人が体験し、または表出するジェンダーとの間の著しい不一致のために、第一次および/または第二次性徴から解放されたい(または若年青年においては予想される第二次性徴の発達をくい止めたい)という強い欲求。

      • 3.反対のジェンダーの第一次および/または第二次性徴を強く望む。

      • 4.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)になりたいという強い欲求。

      • 5.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)として扱われたい強い欲求。

      • 6.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)に定型的な感情や反応を持っているという強い確信。

    • ……という感じで、「欲求」や「確信」に基づいている
    • これらは、実務的には精神科医臨床心理士などがその人の生育歴を聴取することや「振る舞い」から診断することになるだろう
    • ついでに言えば、性同一性障害の人が実際に性別再割り当て手術を受ける際には高いハードルがある。イギリスにおいて専門の医師が「門番」の役割を果たしてきた(今でも果たしている)ことがよく知られている。どれぐらい「門番」が機能するのかは恣意的な基準が適用されてきた(たとえば、「パス度」を医師が勝手に判断することで、手術を拒否するなど)
    • 以上より、「性同一性」は科学的探究の末に本質主義的な定義が可能なカテゴリーとは到底考えられない
  • 以上の議論に基づけば、gender identityが「性同一性」とも「性自認」とも訳されうるのは、その二つの概念の間に本質的な差異を設けることが不適切だからだとも解釈しうるし、査読①による「性自認」が「性同一性」と同じ意味の言葉である、という理解もそれほど無理のあることではない
    • ついでに、知らない読者もいるだろうから一応触れておくが、gender identityを「性同一性」と訳すのか「性自認」と訳すのかはそれ自体狭い意味での政治的な問題を孕んでいる
    • 具体的には、昨年成立した「LGBT理解増進法」では法案の段階で、右派から「性自認」概念を用いることへの(シスジェンダー女性の安全への配慮を根拠とした)批判があり、法案の中の文言が右派への配慮から「性自認」→「性同一性」→「ジェンダーアイデンティティ」と変化していった経緯がある
    • よって、「性自認」概念と「性同一性」概念とを対比させて、前者を不備のあるものと考えるのは、右派による「性自認」バッシングの主張と重なるものである
      • いやまあ、別に谷口氏の主張が右派の主張と重なってようが、左派の主張と重なってようが、究極的にはどっちでもよいとは思うのだが(重要なのは内在的な検討だと思うので)
      • ただし、2節での事態を「社会的混乱」と言うのであれば、「トランス権利運動」だけでなく右派側のバックラッシュにも触れるべきだろうから、歴史的経緯の整理としては不十分だろう
      • むしろ純粋に哲学的な問題についてのみ考えたいのであれば「トランス権利運動」に触れる必要も、「性自認」という用語を使う必要もないのでは?
        • それこそ敢えて挑発的に既存の文脈に位置づけることで「逆ソーカル事件」を起こしたということなのかもだが……

 

  • 次に、「②性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるという議論がすっ飛ばされている」について。まずは谷口論文の該当部分をもう一度貼る
  • 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
  • +脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
    • これらの話については論文としては文献を示すぐらいでもよいので、(査読者②も言ってるけど)典拠が必要だろう。典拠を示さずとも、もう少し議論が必要だろう
    • というのも、トランスジェンダーが第二次内包を持たない「雑多な状態像の寄せ集め」である〔これは、「家族的類似」に基づいたものであると言い換えてもよいだろう〕と脚注9で言っているんだから、何に基づいて性自認が成立しているのかを考えると、まずは社会における経験が累積していくことで成立していくと考えるのが普通では?
    • しかし、その議論はすっ飛ばされ、性自認は自己確証に基づく「一人称特権」を伴うものとして、すなわち私秘的なものとして(第〇次内包またはマイナス内包として構成されるものとして)扱われるというスジで議論が展開されていく
    • 3節では(背理法的な理路で)性自認は第〇次内包としては構成できないという話になり、そこから4節~6節では性自認はマイナス内包として構成できるという主張に辿りつくように議論は進んでいく
    • けどそもそも、「性自認は社会的経験の累積の結果として構成される」という話がすっ飛ばされているし、2節の議論だけでは不十分だろう
    • これは永井や入不二の用語法でいくなら、 「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」説と考えることもできるかもしれない
      • だがこれに対しては、第二次内包(科学探求的内包)による逆襲も、第〇次内包(文脈独立的な内包ないし、内面孤立的な内包)による逆襲もあり得ないと考えられる(2節・3節参照)。それを「第一次内包」と呼んでよいのか?
      • 谷口氏が3節で「性を自認するとはどういうことなのか、わからない」という問題に触れているように、「感じ」を伴わないものは定義上「第一次内包」と呼んではいけないのではないか?(そのへん、チャーマーズ=永井用語の使い方を僕は厳密には分かってない)
      • ということで、以下は「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」という言葉遣いはやめて、「社会的経験の累積の結果としての性自認」という言葉遣いにする
    • 査読論文としては、2節で先行研究レビューをして、査読①②で指摘されていた「社会的経験の累積の結果としての性自認」説を乗り越えておくべきだと思われる
      • 性自認は社会的経験の累積の結果として構成できる」という主張では説明しきれない事態もきっとあるだろうからそれを指摘すればよい(筋が良いかは分からないが、たとえば、社会的な経験が同定できない状況でなんとなく「私は男性である」と思う、ということもありうるだろう)
      • 1節の永井の発言も踏まえると、谷口的には「社会的経験の累積の結果としての性自認」は「ジェンダー論」の話であり、「哲学」の話ではないのかもしれないけど……
        • ちなみに余談だが、「社会的経験の累積の結果としての性自認」も脱病理化・脱医療化運動の流れで捉えることが可能である。専門知から離れた当事者主導で作られていくカテゴリーがむしろ、アイデンティティ・ポリティクスとして有用でありうる事例はいくらでもある(アダルトチルドレン概念やニューロダイバーシティ運動、当事者研究など)
        • また、専門知を利用するかたちで当事者の概念運用が活性化するパターンもある(cf.前田・西村 2018 『遺伝学の知識と病いの語り』)
        • 必ずしも「当事者」に同一化するのではなく、「当事者」カテゴリーに対して交渉的な立場を持つという概念運用の方法もありうる(cf.貴戸理恵 2022『「生きづらさ」を聴く』)
        • なので、個人的には家族的類似に基づくカテゴリーによってある種のアイデンティティ・ポリティクスをやってもいいし、成功しうるでしょとは思ってる
        • 以上、余談

 

  • 3節:
  • 4ページ5行目「というのも、素朴な仕方で立てられた「性自認」は、哲学的に構成不可能だからである」
    • その後の「性自認は第〇次内包として構成できない」という主張のことを指しているっぽい
    • 指示されている三浦俊彦の文章も読んでみたが、「ジェンダーは個人ではなく社会の属性である」となる理路が僕には理解不能で、読むのをやめた
  • ウィトゲンシュタインの言う「私的言語」としての性自認永井均の言う第〇次内包(観察可能な兆候なしで当人に、「通時的他者としての自分」と記憶によって繋がっているがゆえに、判別可能なもの)としての性自認
  • 「女性(男性)」は内観における感覚的対象を名指す語ではないので、第〇次内包がないという主張。例として、子供が「男性」という概念を習得する場面が挙げられている
    • これはなるほど。「女性(男性)」が感覚語ではなく、すなわち第〇次内包がないことを示す例としてよく分かるし説得される
  • 心を自由に入れ替えることができる(複数の身体を渡り歩ける)と仮定して、「女」の身体になったときにだけ感じる特異な感覚や体験を同定できれば、それが「女」であると言えるかもしれない
  • しかし、実際には心を自由に入れ替えることはできないので、特異な体験があったとしてもそれを「女」としては同定することが権利上不可能。つまり、ここでの「性自認」は有意味な信念として言語運用できない

 

  • 4節:
  • キルケゴールの(言語哲学的)解釈に基づき、性自認の発生について考えていく
    • 面白い。脚注14でも言われているが、僕も真っ先にラカンを思い出した。バトラーもジェンダー・メランコリー論で同じ問題を違った角度から論じていると僕は理解している
    • 僕はキルケゴールを読んだことないので、残念ながら内在的なコメントはできない
    • とりあえず脚注14で指示されている上野論文は読んでみたが、これは(上野は無内包の話に繋げているが)マイナス内包の話に繋げる方がしっくりくるかも? その意味でも谷口氏が6節でマイナス内包を導入するのも分かるなあと
    • というのも、マイナス内包は認識論(意味論)が成立する以前の存在論として構成されているものなわけだが、これ自体非常に精神分析的な議論だと思う。フロイトのトラウマ論では、幼少期に何かしらの一撃(ラカンが言うところの原初のシニフィアン)があり、それは当初は意味づけられていないわけだけど、後から言語的に解釈されることで症状が現われてしまうというスジだから(これはフロイトの用語では「事後性」という)。
  • 「ここでいきなり読みを入れておけば、これは各人が「私である」という極めて特殊なありかたをした類例のない存在であると同時に、それが客観的世界へ錨泊する実在として「谷口 一平という人物である」といった仕方で人類史に登場してきもする、という二重性をもったありかたをして在るという事実の、キルケゴールによる言い表わしである、と筆者は解釈する」(6ページ)
    • キルケゴールの話を、永井均的に読んでいる感
    • 「私は世界であると同時に、世界の中で発見される性的身体としても、世界へ二重定位している」(9ページ)も含めて、いわゆる独在性の話なんだろうなこれ
  •  
  • 5節:
  • 原罪前性自認成立説と原罪後性自認成立説
    • 不可逆な一撃として言語世界への参入を捉える図式はやはりラカンを思い出す
    • 永井的な話では、そもそもは現象的な〈私〉しかないのに、「自分」がそれぞれの人間にあるものとして一般化して(人称化して)語れてしまうようになることが、言語による作用だという話なので、その理路が5節の展開においても活かされているのだと思われる
  • 原罪(言語世界への参入)後であれば、言語が使えるので、性的主体の自己規定(性自認)は可能である
    • というスジで合ってるよね?
  • ただし、それは認識論的な話であり、存在論的には「原罪前からもともとそうであったもの」として性自認は成立したと谷口は言う
    • 「しかし原罪後も、「私」が依然として「世界」でもあることに注意しよう。それならば、性的身体として規定された谷口一平は、世界全体を内包とする概念としても「男」を獲得している、と考えることはできないか?」(11ページ)の意味が分からなかったので、ここの理路が僕には追えない
  • この事態を考える際に「マイナス内包」という見方が適切

 

  • 6節:
  • 「マイナス内包」としての性自認の構成
  • ①現代科学において物神化された超越論的統覚としての、すなわち世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」に注目
    • 「脳」を召喚する理由は、「性自認」という語りの体制それ自体が現代科学の産物なのではないかという解釈ゆえ
      • これ自体、かなり面白い仮説だと思う
  • ②「中心化された可能世界」というコンセプト
    • 世界の内容的事実はそのままで、その世界が「男」から開かれている可能世界であると考える場合と「女」から開かれている可能世界であると考える場合とを区別する
    • これは言語(に組み込まれた様相化装置)が可能にしている事態
  • ①②を使って、性自認はマイナス内包として構成される
    • ここ以降の議論は正直難しくてよく分からなかった

 

  • 論文全体の構成についての感想:
  • 最後の方がムズカしかったのでコメントに窮しているが、最後に世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」が召喚される以上、2節では精神医学的実在論の立場に立たざるを得ない感じなのかもなあとは思った
    • とはいえ、精神医学の科学哲学を踏まえたうえで、僕はやはり「性同一性」を科学的なカテゴリーとして擁護するスジは厳しいと思っている
  • 「マイナス内包」を用いて議論を展開することについて一般的なコメントをするならば、これ自体一時代前の現代思想的な議論と相性いいんだろうなと思った
    • というのも、「マイナス内包」は意味論的に成立している事態に対し、遡行的な形でその存在論を擁護する議論だから。これは、現在視点からの構築主義反実在論)に対する、過去視点からの本質主義実在論)の逆襲と考えることができるわけだが、これって、東浩紀が言うところの「否定神学」に近いのでは。否定神学的に「原初」の存在が擁護されているわけで
    • 精神分析における「無意識」を脳科学的なシナプスとして捉える議論も一部で流行ってるらしいので(詳しくないけど)、「マイナス内包」による実在論の擁護として「脳」が出てくるのもその潮流に近いものを感じる
  • ただまあやはり、構築主義なり「社会的経験の累積の結果としての性自認」と多少なりとも対決しないことには、この論文の射程が分かりにくく、もったいないなとは少し思った
    • この考え方自体、アカデミアに毒されすぎなのかもしれんが