「運命」を感じていた頃の話(『秒速を語るな、自分を語れ』より)

この文章は、2019年に発行された同人誌『秒速を語るな、自分を語れ』に寄稿したものです。新海誠の『秒速5センチメートル』の内容が前提になっていますのでご了承ください。

 

 

僕が『秒速5センチメートル』を観たのは中学3年生から高校1年生に上がる春休みのときだった。僕のいたオタクグループでは新海誠というクリエイターのことがたびたび話題になり、その新海の新作ということで5人の男たちで映画館に行った。

観終わった第一印象として、とにかく映像の綺麗さと、第三話の主人公の転落ぶりが印象的だった。新海誠の作品を初期から追っているオタク友人は言う。

「『雲のむこう』まではまだギリギリ共感できたけど、この作品はさすがにドン引き。だって、小学生のときに好きだった子のことを大人まで引きずってるヤツってキモいやろ。ストーカーかよ」

マジレスだった。僕はハッとした気分になった。危うく作品の綺麗さに騙されるところだったな、と。

 

あれから12年。今の僕は27歳で、大学院生をやっている。大学生は勉強・バイト・サークル・恋愛の4つの内2つしか選択できないなどという俗説があるが、既に大学に9年間も在籍している僕は、もはやすべてを経験したのだと思う。しかし、恋愛だけは一筋縄ではいかなかった。恋愛を通して人生が捻じ曲がるような経験を何度もした。どれだけ勉強して、メタ的な視点を獲得しようとも、恋愛においてはシッチャカメッチャカだった。僕は、恋愛の魔力に憑りつかれたジャンキーだった。僕の捻じくれた恋愛経験を振り返って総括する上で、『秒速5センチメートル』は有効な補助線となる。

 

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兄の影響で摂取していたオタク作品(漫画やエロゲなど)を通して漠然と恋愛に憧れを抱いていた僕は、女性を好きになるということに対して開かれていた。開かれすぎてガバガバだった。小学1年生のときから常に誰かしら好きな子がいたし、好きな子と仲良くなる妄想を日々していた。

しかし、あまりにも女性を意識してしまうのか、女性と話すのは苦手だった。話したくてもうまく話せなかった。緊張した。中学生になってオタク趣味が高じていくなかで、余計に女性とは何を話せばいいのか分からなくなっていった。唯一まともに女性と接点があったのはインターネットだった。インターネットを通じて何人かの女性を好きになったり、遠くに住んでいても会いに行ったりしたものだが、どうすればいいのか分からずに気持ちだけが先行して、そのまま関係は消滅していった。

 

大学1~3年生のとき、僕は悠木碧という声優を追っかけていた。最初はその演技に魅せられたのだが、時折見せるネガティヴさや自己否定に惹かれるものがあったのだと思う。僕は純粋な気持ちで「声優」を応援しているつもりだったが、後から振り返ってみればあれは疑似恋愛だった。そして、なぜ僕はネガティヴさに惹かれていたのか?

 

結局のところ、まともに女性と話せるようになっていったのは大学4年生になってからのことだった。僕はスカイプ掲示板というサービスを通じて、自分のようなオタクでも話せそうな趣味の合う子と一対一で喋っていたし、「サークルクラッシュ同好会」という恋愛トラブルを主題にしたサークルを作ったことによって、「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性と話す機会が圧倒的に増えた。僕は、そんな子たちを次々と好きになった。

当時の僕は女性に飢えていた、と言っていい。「話しかけてくれる人は好きになる」と言っても過言ではないような状態だった。そのことの自覚がないわけではなかったが、自覚していたところで好きになるものは好きになるんだからしょうがない、と開き直っていた。ただ、それにしても、僕はどうして「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性を好きになったのだろうか?

 

そうして僕は2013年以降、何人かの女性と付き合ったり、ある程度仲良くなったところで告白して振られたり、ということを幾度も繰り返してきた。今も僕の記憶の中には、様々な女性との関係の履歴が、屍のように横たわっている。

「そんなにたくさんの女性と……?」と怪訝に思われるかもしれないが、そもそも恋愛関係に移行しようとするとたちまちにして関係が壊れていくということが多かったのだ。なぜ僕はそんなにもすぐに愛想を尽かされるのか(仮に付き合っても1~3ヶ月でフられてばかりだった)。それはそれでまた大事な部分だが、ここで掘り下げたいのはむしろ僕の意識や心境の変化の方である。

僕はそれらの女性の内の何人かに対して、「この人こそ運命の人だ」、「この人以上に魅力的な人はもう現れないだろう」と本気で思ったものだ。付き合っていて振られたときには嗚咽を漏らしながら泣き、「僕はこれから何を指針に生きればいいんだ!」、「彼女にもう一度認めてもらえるまでは、恋愛しない!」などと自分に言い聞かせるようにモノローグ(独り言)した。

にもかかわらず、僕は何人もの女性に心移りしていった。寂しさを埋めるように「次の女性」を探していったのだ。

「運命」を確信したあの純粋な気持ちはどこにいってしまったのだろう。人間は忘れる生き物なのだろうか。失恋の傷を癒してくれるのはやはり「時間」なのだろうか?

 

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秒速5センチメートル』の貴樹にとっては違った。彼は小中学校の頃の思い出を引きずり、引きずったまま大人になった。やや踏み込んで解釈するならば、彼は子どもの頃の「神秘体験」の呪縛に囚われ、他の女性と本当の意味で親密になることを恐れてしまったのだ。

彼も心のどこかでは過去の呪縛から自分を救い出してほしい部分があったのだろう。高校時代の花苗からの好意を表面的には拒否しなかった。しかし花苗も、大人になってから3年間付き合ったリサも、彼の堅牢な心の鎖を解くことはできなかった。

「そして、ある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた」

このモノローグから、希望を見出すことも可能である。「秒速」の漫画版では、会社を辞めた貴樹は宇宙関連の会社に就職する。思い出の踏切では小学生の明里が笑顔で大人になった貴樹を送り出すシーンが描かれ、貴樹は歩き出す。

しかし、普通に理解するならば、このモノローグはただただ絶望を表現している。映画視聴者は、僕が抱いたような「転落」の印象を受けることだろう。新たな生活を歩んでいる明里との対比で、一人だけ前に進めずにうじうじ過去を引きずっている男にしか見えない。「会社を辞めた」というのも、現代であれば「うつ」の描写ということになるだろう。

それではなぜ、貴樹はこんなにも明里のことを引きずってしまったのだろうか?

 

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フロイト曰く、幼児期の母への欲望は父が介入することで断念され、抑圧される。しかし、抑圧されたものは回帰する。光源氏が桐壺更衣の面影を追い求めたのが象徴的なように、抑圧された欲望はどこかで反復されているのである。

僕自身、「次の女性」を追い求めて、そのたびに複数の女性たちに何度も「運命」を感じてしまったという点で貴樹と違う立場ではある。しかし、そこで僕が何を「運命」だと感じたのか、その要素を取り出してみれば、根本的には貴樹と同じものを追い求めて反復していたのだと思う。

 

内面の共有、あるいは傷の舐め合い

恋愛に限らず、人間関係において趣味嗜好が似ていることは距離が近づくキッカケになるだろう。現に僕はオタク的な趣味を深めていったせいで、女性と何を話せばいいか分からなくなったということを述べた。しかし、インターネット上には僕と同様のオタク的な趣味を持っている人がいた。漫画やアニメの話で盛り上がれる、そのことによって距離が近づいたのはごく普通のことであった。

しかし、それ以上に恋愛という文脈が絡んでくると、深い内面的な傷つきを共有することが重要になってくることが多い。「秒速」において、貴樹と明里はお互いに転校してきた関係で、お互いに体が弱く、お互いに図書館の本を読んだ。そして、クラスの人間からは冷やかされた。虐げられた者同士がお互いに惹かれ合うのは必然だった。

一方、僕はと言うと、あるときから「メンヘラ(と呼ばれるような女性)が好き」だと自覚し、公言するようになった。僕自身が精神的に不安定かというと必ずしもそうではないが、「普通」からズレて生きてきたという自覚はある。少なくとも小学生のときは情緒不安定で、暴力事件を引き起こしたこともあった。中学以降も、電車男が流行っていた当時のスクールカースト状況において、「オタク」としてのアイデンティティを持っていた。そのくせ、現実の恋愛やコミュニケーションに対してコンプレックスを抱き、「リア充」から虐げられた存在だという気持ちを本気で抱いていた。

そんな僕は「メンヘラ」という存在に自らの幻想を投影してしまった。僕たちは世界から虐げられてきた者同士、分かり合えるはずだ、と。「サークルクラッシュ」の研究を進める中で、「クラッシャー」の当事者がしばしば「メンヘラ」性を持っていることを知るようになった僕は、「メンヘラ」に対する「聞き上手」というコミュニケーションスタイルを自然と身につけていった。

そして、「メンヘラ」との関係が恋愛という形を取ったとき、僕の中にある心の穴が埋まるのを感じた。「ホリィさんって聞くの上手いですね」、「ホリィさんはすごく喋りやすいです」と、女性から承認を受けたのである。恋愛にコンプレックスを抱いていた僕は、初めて女性に承認された気がした。

貴樹が明里を「守る」という立場を取ったように、僕もメンヘラを「守る」ためのスタイルを構築していった。「メンヘラ」相手ならば、僕でも会話が成立するし、相手にとって大切な役割を果たすことができる。女性全体のなかで唯一僕がアクセスできる存在として「メンヘラ」が立ち上がってきたのだ。

そして、現実にコミュニケーションを取り、関係を深める中で「庇護欲」という形で僕の心の穴が埋まっていくのを感じた。運良く付き合う関係になり、セックスをする中でも、それぞれの女性が持つ個性的なエロティシズムに僕は魅せられ、「自分が性的に受け入れられる」ということに喜びを覚えた。「聞き上手」的コミュニケーションによって関係がうまくいくということを、積極的に恋愛の文脈に読み替えてしまったのだ(勝手に勘違いして恋愛的な片思いをしてしまうこともあった)。そこには自分の「男性」としての自己不全感があったのだと思う。

しかし、そのような醜い欲望を女性との関係に投影してしまうと、当然ズレが出てくるものである。貴樹は「手紙から想像する明里は、なぜかいつも独りだった」とモノローグしていた。これは結局のところ、孤独を感じている貴樹自身の自己投影でしかない側面もあるだろう。ひょっとすると中学時代から既に、貴樹と明里との間の「孤独」観、そのすれ違いは始まっていたのだと思われる。

相手のために作り上げたコミュニケーションスタイルだったはずが、いつの間にか僕は自分本位になっていた。醜い性的欲望を彼女たちに押しつけた。結局のところ女性たちを傷つけてきたのだと思う。あるいはそのような欲望のキモチワルさに呆れられたのだろう。関係はすぐに切れていった。

 

神秘体験とストーカー

貴樹と明里はすれ違っていた。そうなのだとしたら、なぜ貴樹は明里のことを諦めずに、ずっと引きずってしまったのだろうか。

中学1年生の貴樹が明里に会うために栃木に行き、そこで大雪に見舞われたにもかかわらず明里に会えてしまった。このことの偶然性=運命性が、根本的な不幸の始まりだったのではないか、と僕は思う。

僕自身、女性に対して運命的なものを感じるとき、多かれ少なかれ「神秘体験」と呼んでもいいような体験をしていた。数時間にわたるディープなスカイプ通話で相手の生育環境を聞いたこと、僕の「言語化」へのこだわりが情念のような非言語的な部分までを分節しようとしていることを見出してくれたこと、自転車で帰ろうとしていた僕を引き留めて荷台のところに飛び乗ってきてくれたこと。そして彼女は言う。「あなたと話しているときが一番楽しい」と。

貴樹も栃木で明里と会えてしまったのである。それだけに飽き足らず、作ってきてくれた弁当を食べ、桜の木の下でキスをした。帰れなくなった2人は小さな納屋の中で身体を寄せ合いながら一晩を過ごした。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした」。「あのキスの前と後では、世界が変わってしまった」。

ここには「呪い」の作用がある。付き合っていた彼女たちと別れるとき、あるいは好きだと告白した女性に振られるとき、いつも感じることがあった。「あんなに好きだと言ってくれたのに、どうして」。そして、僕ははっきりとは振ってくれない女性たちに業を煮やして、ストーカー的な行為をはたらいてしまった。今では反省しているが、僕がストーカーになってしまったのは「あなたと話しているときが一番楽しい」という言葉を、あたかも永遠の契約のように勘違いしてしまうからだった。「あのときああ言っていたじゃないか」と僕は詰め寄った、僕たちは相性抜群で、運命的な体験を共有した仲だったはずだった、と。でもそんな風に感じているのは僕だけだったのだ。貴樹もまた明里との体験を反芻していたが、大人になった明里は手紙を見つけるまですっかり貴樹のことを忘れていたのである。

 

「今ここ」の向こう側、東京という街

僕が彼女たちに投影していた幻想はもう一つある。それは、美的・文化的なセンス、言ってしまえば「東京」への憧れである。僕が好きになる人は「マシンガントークで、絵を描いている人」が多かった。マシンガントークの方は、僕が「聞き上手」というポジションを得られるがゆえに価値があった。そして、「絵を描いている人」は僕から見れば「遠くにいる」人で、自分が持っていないものを持っている人だったと言える。

僕は大学に入ってから、自分の文化的な教養のなさを思い知った。毎クール放映されているアニメを観て育った僕には、映画を観る習慣や小説を読む習慣がなかった。美術館に行ったこともなかったし、音楽もアニソンぐらいしか聞かなかった。もちろん、もっとディープなサブカル的教養などあるはずもなかった。「オタク」と対比されるところの「サブカル」に対して、僕は「憧れ」と「劣等感」を持ってしまった。

結果的に、東京に住んでいる(あるいは住んでいた)女性を好きになることが多かった。少なくとも、文化的な教養のある人を好きになることが多かった。「僕の持っていないものを持っている」がゆえに好きだった。そういう人と付き合えば、僕もその趣味に染まって、別の世界に行くことができるんじゃないか、そんな期待を抱いてしまった。

文化の象徴としての「東京」への憧れは、新海誠作品に出てくるモチーフだ。種子島在住の花苗が東京からやってきた貴樹に惚れてしまったように、『君の名は。』の三葉が東京のイケメン男子に憧れたように、僕は(性別は逆であるが)彼女たちに憧れた。雑然としていて息苦しいはずの東京を、新海は非常に綺麗なものとして描く。長野出身の新海にとって、距離を隔てた東京という街は「向こう側」にあるものだったのだろう。新海の作品は、地球と宇宙、本州とエゾ、地方と東京、この世界とあの世界、年齢、時間などといった様々な断絶の「向こう側」にあるユートピアを常に夢想している。そしてその「向こう側」に恋愛が重ね合わされてしまう。渡せなかった手紙、送れなかったメール、言えなかった「好き」という言葉、「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」。「秒速」では「手が届かない」ということのフェティシズムが追求されていた。それに対して、僕は手を伸ばしてしまったのだ。

僕は、彼女との間にある断絶を、目の前にいるにもかかわらず埋められない無限の距離を、感じざるを得なかった。彼女に追いつこうと、音楽を聴いたり、映画を観たりするのにはどうしても苦痛を伴った。そもそも僕にはそういう習慣がなかったから。重い腰を上げて彼女が絶賛する映画を観てみても、僕はつまらないと感じた。僕がもっと映画を観ていれば、その良さが分かったのだろうか。あるいはもっと積むべき人生経験があるのだろうか。

美少女ばかりが出てくる漫画が本棚にあることのセンスを彼女に貶され、自分のこれまでの(オタクとしての)人生を否定された気分になった。その一方で、僕は典型的なオタクがハマるような美少女系作品にハマれるわけでもない。彼女に対する劣等感が強まり、それでも彼女のことは好きだったから、僕は変わらなければならないと思った。「今ここ」にいる僕には価値がないんだ、と本気で思った。

これは文化以前の問題だった。僕は美醜の感覚や嫌悪感が麻痺してしまっている。身体性が欠如しているのだ。姿勢も、生活も、衣食住も、部屋の片付けさえもままならない。興味が湧かない。僕はたびたび彼女との感覚のズレに苦しんだ。

彼女が景色を見ているとき、僕が見ているものは文字だった。

僕はこの鈍感さを補うかのように、「言葉」によって感覚を分節する能力を身につけた。

カオスを切り取る言葉。言葉が構成する意味の世界。

僕=貴樹=新海誠は、その過剰なまでの言葉に乗って、どこまでいくのだろう。どこまでいけるのだろう。