対メンヘラ会話法~「ちゃんと話聞いてますよ感」の出し方~

0.はじめに

僕は不安定になっている人(おそらくメンヘラ的な人)とSkype通話や対面で会話するのが好きです。特に、会話によって相手の不安定さが解消されたと感じるとたまらなく気持ち良いです。脳内物質ドバドバです。僕はメサイアコンプレックス(救世主コンプレックス。他人を救うことによって、自分が救われたいみたいな人)なので、そういうのが大好きなんですね。

まあそういう快楽目的でもいいんですが、不安な人の不安が解消されるのは社会的に良いことです。たぶん。で、僕の周りに不安定になりがちな人(だいたいメンヘラ的な人)がどんどん増えてきているので、僕だけの手では回らなくなってきました。そこで、僕みたいなタイプの人がもっといっぱい増えて欲しいなぁと思い、僕のやってるコミュニケーションを公開しようと思った次第です。

みなさんもこのコミュニケーション技法を使って、相手は不安を解消、自分は気持ち良くなって、WIN-WINを目指しましょう(ムチャクチャだ)。

 

※メンヘラをバカにする記事ではありません。僕はメンヘラ的な人もそうでない人も一人の人間として尊重します。この記事を読む人にもそうあってほしいです。

あとこの記事は素人がカウンセリングをするのを勧める記事でもありません。精神に不調を感じた方は、ちゃんと心療内科なり精神科なりに行くのを勧めます。

 

1.目標

目標はズバリ、「相手をスッキリさせること」です。基本的にはこちらからは何も言いませんし、間違っても相手を自分の思い通りに支配してはいけません。つまり、アドバイスなどは基本しません。しかし、自分の意見を述べるぐらいは場合によってはアリなので、そのあたりは次に述べます。「何も言わないで会話が成り立つのか!?」と思う人もいるかもしれません。しかし、「相手をスッキリさせること」が目標なので、相手が喋りたいことを喋り終えたらそれで実はミッションクリアです。だから聞いてるだけでいいんです。

「聞いてるだけでいい?、それだったら壁にでも話しとけよ」と言う人もいるかもしれません。案外そうでもありません。人は誰かに話を聞いてもらいたい生き物です。壁に話すのと誰かに話すのでは「スッキリ度」が雲泥の差でしょう。例えば、ツイッターで構ってちゃんツイートや病んだツイートを繰り返している人も大体、話を聞いてほしいけど特定の相手がいないという人でしょう。

ということで話を聞くことが大事です。つまりはカウンセリング的なコミュニケーションが目指すところであり、カウンセリング用語で言うところの「受容と傾聴」ってやつをするわけですね。

 

2.具体的な技法

ここからは具体的な技法に入ります。「やっちゃいけないこと」は3で書くとして、ここではぜひやるべきことを書きます。ちなみに一対一の会話が前提です(念のため)。

 

2.0.思ってもいないことは言わない、思ったことだけを言う

最初に心構えとしてなんですけど、思ってもいないことは言わない、ということは基本的には大事です。お世辞とかはヘタな人はバレちゃいますからね。自然な嘘をつきとおせるという人ならいいかもしれませんけど、あんまりそういう人はいませんから。他のところで本音を言っちゃって、なぜか本人に伝わるみたいなこともよくあることです。長期的に見ると嘘をつくのは得策ではありません。

しかし、思ったこと全部言っていいかと言ったらそれは違います。誰だって悪口は言われたくありません。地雷を踏まれたくはありません。そういうのを避けるのはマナーでしょう。

 

2.1.質問の前の信頼形成

自分から勝手に自分の話を(しばしばマシンガントークで)してくれる不安定な人もいますが、半分ぐらいの人は自分からは話してくれないです。相手から言葉を引き出すためにはうまいこと質問しなきゃいけません。しかし、話題の切り出し、これが一番難しいんですよね。オーソドックスなコミュニケーションだと、誰にでも通じる話題から、徐々にお互いが知っている話題(共通の知人や共通の趣味など)へと入っていくのが良いと思います。

それでもまあいいんですが、今回は対メンヘラなので必殺技だけ教えましょう。それは「○○さん(相手)に興味があるんですけど」と直接言うことです。しかし、心構えでも言ったように、ちゃんと本当に興味があるときだけに言いましょう。嘘くさくなってはいけません。この後に「いろいろ質問していいですか?」と続いてもいいかもしれません。人はだいたい他人に興味持たれたいものなんで言っておいて損はないです。ただ問題はその興味が「下心」だと思われないようにすべきですね。下心だと思われないためには(キモいと思われないためには)スッと言えると理想です。

相手がインターネット上でアカウントを持っている人とか、共通の知人がいる人だったら事前に情報が仕入れられますので、そこから興味を持つことはできますね。そのあたりの情報を言った後に「~~さんから○○さんのことを聞いてて、○○さんに興味あるんです」みたいなことを言う感じですね。

 

2.2.質問&自己開示の返報性

さて、質問に入るわけですが、順番さえ変でなければ割とすぐに踏み込んで大丈夫です。ただ、一番最初が難しいんですよね。僕も趣味を聞いたり、普段何してるか聞いたり、といろいろするんですが、どうも具体的な答えが返ってこないので自分との共通点や自分の知ってる話が見いだせず、話が弾みません。「共通の知人」なんかは話題には便利ですが、それもあまりいないとしましょう。

最初のとっかかり(相手が何を好きかとか)が分からなくて漠然とした質問をしたら、相手も漠然とした答えしか返してこないという問題。相手が漠然とした答えしか返せないのには理由がいくつかあります。一つは何を返せばいいか分からないというパターン。二つ目に話したいことはあるけど、その話題を話していいのか迷っているパターン。三つ目にあまり自分の情報を出したくないパターン。他にもいろいろあるでしょうが、とりあえずこの三つだったら次の解決策が万能です。

それは、「自己開示の返報性」を使うことです。「自己開示の返報性」とは、簡単に言ったら、AさんとBさんとが会話してて、Aさんが自分の話をしたら、Bさんも自分の話をしたくなる現象のことです。そこで、相手が答えに窮していたら、すかさず、「例えば僕だったら、普段家ではインターネットしてますね。ツイッター見てます。あと漫画読んだりとか、本読んだりとか」という感じで僕なら返します。いや別にこれそんなに良い返しだとも思わないんですけど、大事なのは「自己開示」をしていることです。こうすることによって、相手の答え方のモデルを示すことができます。相手はこっちと同じような返し方をしてくるでしょう。また、こっちが自分の話をすれば、安心して相手も自分の話をしてくれるという話です。

また、うまく掘り下げましょう。例えば、僕のこの発言を見ても、漫画や本で何を読むかとか、ツイッターどんな使い方してるかとか(ちょっと変な質問だ)、ツイッター以外だったらインターネットで何するかとかいろいろ聞けるはずです。相手の言ったことを手掛かりに掘り下げていってみましょう。質問をするときは5W1Hが基本ですが、特にホワット(何)とホワイ(どうして)が便利ですね。

ある程度関係が深くなったら家族のことや過去のことを聞いても大丈夫です。相手がメンヘラ的な人ならば深い話を持っていることが多いです。ただ、そういう深いところに踏み込んで質問するときは相手に気遣いましょう。「答えたくなかったら答えなくても大丈夫なんですけど」と前置きするなど。まあだいたい答えてくれるはずです。答えてくれなかったらまだ信頼度が足りないんでしょう。

 

2.3.相槌の打ち方

まったく相槌打たないよりかは相槌打った方がいいんですけど、やりすぎるとわざとらしいです。対面ならば表情だけで相槌を打てるので「うんうん」みたいな音声は少なめでいいです。電話とかならちょっと多めでいいと思いますが。大事なのは相手の喋っている途中で自分の意見を挟まないことです。何か思ったことがあっても、言わずに最後まで聞きましょう。たまにめっちゃ長話する上に話が飛びまくる人がいて、結局何の話をしていたのか分からなくなる人とかもいるんで、あまりに長い人に対してはメモ取りながら聞いてもいいと思います(マジで)。しかし、どれだけ話が長くても途中で口を挟まないで根気良く聞く。これが大事です。

細かい相槌の打ち方で言えば、「うん」だけじゃなくて「あー」とか「そうだよね」とか「えー!(驚き)」とかいろいろ使い分けると聞いてる感が出ます。同じ話が出たら「言ってたね」みたいな相槌もいいでしょう(その話もう聞いたよ!みたいなのは言わなくていい)。共感できるときは「わかる」もいいですね。あんまり「わかる」を使いすぎるとお前本当に分かってんのかよってなるので、諸刃の剣ですが、共感力は大事です。共感していることをアピールするために、話が途切れた後に「~~って話すごい共感できます。僕もですね……」と共感エピソードを出すといいでしょう。

 

オウム返しテクニック

ただ一つだけ途中で言葉を挟んでもいいテクニックがあります。それが言葉の意味を聞くときです。話を聞いていて分からない言葉が出てきたら「○○?」と疑問形で言ってみて、意味を説明してもらいましょう。あるいは、声の聞き取りにくい人もいますので、聞こえなかったら、聞こえなかったと言って聞き返しましょう。これによって意味を説明してもらえる、もう一度言ってもらえるということは重要なのですが、それと同時に「ああ、この人はちゃんと聞いてくれてるんだな」という安心感を相手に与えます。これが重要です。たとえ意味がだいたい分かっていても、分かりにくいところがあったら「○○?」って感じでちょっと挟むのはアリかもしれません。それは意味を確認するためというより、「あなたの話を聞いてますよ感」を出すための戦略です。

 

2.4.身体動作

アイコンタクト

そして、聞いてるときの身体動作ですが、まずアイコンタクトについて。目を合わせすぎると人は緊張します。一方で目をそらしすぎる人のことは信用できません。聞いているときは目を合わせるぐらいでいいのですが、相手の喋りが途切れたときに適度に目をそらして考える動作をするなどして、喋っている相手を休ませてあげましょう。話が途切れているのにアイコンタクトで次を促すと、相手も緊張してしまいます。

 

ミラーリング

相手と同じ身体動作をすると相手は安心すると言われています。しかし、あまりやりすぎてもわざとらしいので、自然な範囲でやるといいと思います。自然な範囲、と書くと難しいのですが、例えば喋っているときにじっとしていられない、変な動きをする人とかたまにいますよね。そういう人だったら聞きながら、ちょっと試しに動きを真似てみる、ぐらいでいいのです。バカにしない程度に。ミラーリングはそこまで使いにくくて効果も実感しにくいので、まあオマケ程度でいいでしょう。

 

2.5.相手の話が途切れた後

やはりオウム返し

相槌を打ちながら聞いていて、相手の話が途切れたときにどうするか。まず、やるべきことはやはりオウム返しです。相手の言っていた言葉をそのまま繰り返します。「○○××△△なんです」と言われたら、「○○××△△なんですねぇ」と返すわけです。ただ、やりすぎると気持ち悪いので、ちょっとだけでいいです。

 

要約

また、オウム返しだけだとバリエーションが貧困なのでもう一つ。それが「要約」です。相手の話が長かったときなどに特に有効なのですが、相手の話を最初から最後まで過不足なく要約して「○○で××で△△なわけですね。それで、○○と△△がつながるわけですね」みたいな感じ。自分の勝手な解釈は入れてはいけませんが、ちゃんと要約すれば高評価です。「話ちゃんと聞いてますよ感」が一気に出せますし、話にまとまりがない人だったら、話が整理されてありがたく感じるはずです。というわけで、勝手な解釈を入れずに話全体を過不足なく要約するという、高校の現代文とかで使いそうな能力がここで役に立つわけですね。

 

2分間沈黙

そうして、オウム返しなり要約なりをした後に「どう思います!?」みたいに意見を聞かれたら意見を言ってもいいわけですが、あくまでこちら側から相手の話を引き出すことが大事です。そういう意味では相手が話すまで待つ、というのも大事になるときがあります。人は沈黙にはあまり耐えられないもので(電話なんかだと特に)、意図的に黙って待っていれば、相手から話し始めてくれることも多いです。その待つ時間ですが、シチュエーションにもよりますが対面なら2分までなら待っていいという目安があります。2分というと相当長いです。正直2分も待たなくていいと思うんですけど、まあそれぐらいの気持ちでじっくり待ちましょう、ということです。

 

話題変え質問

2分間沈黙も何回もやるとさすがに相手が疲れるでしょうから、こっちが何かしら喋った後に、別の違う話題の質問を振ってみてもいいでしょう。「話変わるんですけど、」とか「全然話違うんですけど、」とか言っておけばそこまで不自然でもありません。そうして相手が話し始めたらまた2.3.に戻ります。答えにくそうだったら自己開示をしてみます。自己開示はあくまで相手の答えを引き出すためにあると考えればいいでしょう。

 

共感エピソード

必ずしも自分の話をしてはいけないわけではありません。相手の話を受けて、共感したということを示すために自分の似たような体験を開示するという戦略があります。これをすると「この人なら分かってくれる」感が出ます。自分の体験じゃなくて他人の体験とかを出してきて「知り合いにもいたなあ」みたいな話をしてもOKです。

 

3.やってはいけないこと

あくまで対メンヘラですが、やってはいけないことを書いていきます。

 

3.1.高圧的な態度

これは相手が誰でもあんまやるべきではないと思いますが、対メンヘラだと特にそうです。恐がらせてはいけません。声のトーンとか言葉のスピードとか落としていきましょう。

 

3.2.下心を見せる

これは主に自分が男性、相手が女性を想定してのときの話です。下ネタOKな人も多いっちゃあ多いのですが、その性欲を相手に直接向けてはいけません。メンヘラ的な人はそういうのにうんざりしているパターンが多いものです。下心は実際にはあっても隠しましょう。

 

3.3.否定する

相手がやることをおかしいと感じても即座に否定するのはよくありません。たとえばリストカットをする人がいたとして「リストカットをするな」と言うと、信頼を失うことが多いです。肯定も否定もせず、相手の気持ちに寄り添うことが大事でしょう。具体的には、基本的に何もしなくていいわけです。場合によっては微妙なところもあるので、どうしても否定すべきだと思ったら、せめて「イエスバット」を使いましょう。相手の言うことをとりあえず「そうだね」と受け入れた上で「ただ、」とやんわり否定しましょう。

あと、メンヘラ的な人に多いのが身体醜形障害なんですが、具体的な返しをしない方がいいです。例えば客観的に見て太っていないのに自分が太っていると思い込んでしまっている人には、「ちょっと太ってるぐらいが健康的だよ」などと具体的な返しをしない方がいいです。悪く解釈されるかもしれないので。「そうかなあ」ぐらいの曖昧な返しがいいでしょう。

 

3.4.支配しようとする

メンヘラ的な人は依存的な人が多いわけですが、自分に依存させて楽しむみたいなことはしてはいけません。また、最初に書いたメサイアコンプレックスの人に多いのが「自分の思い通りにならないと逆ギレする」というやつです。逆ギレするぐらいなら最初からメンヘラ的な人と関わらないでおきましょう。相手は相手、自分は自分なわけで、相手を自分の力で変えようとすることがそもそもおこがましいのです。あくまで目標は「相手をスッキリさせること」です。

 

4.その他テクニック

対メンヘラじゃなくても通じると思うんですが、ホリィ・センが実践してるのを二つ。

 

4.1.ほめ方

ほめるって対人関係において全般的に重要ですね。ほめられた相手は大体悪い気しないし、こっちもコストは払わないんで褒めるのってすごくコスパがいいです。効用上がります。最大多数の最大幸福です。で、ほめ方なんですけど、お世辞はバレたら長期的に見て良くないです。本当に思っていることだけを言えば大丈夫です。その代わり良いと思ったことは恥ずかしがらずにできるだけ言うように努力することが大事です。できるようになってくると結構便利です。

また、具体的にほめるのって大事です。「○○さんはこういうところがこうだから良い」みたいなこと言うと人は嬉しいものです。ただ、あまり社会の価値基準と合ってないところをほめてもバカにしてると取られる可能性があるので、そのあたり客観的な良さとのすり合わせが必要ですが。「かわいい」と言われ慣れてる人に「かわいい」と言ってもあまり効果がないですが、あまり言われ慣れていないであろう長所をうまく見出してほめると効果バツグンです。特にメンヘラ的な人はほめられ慣れてない人も多いんで、困惑するでしょうが、うまくやると一気に信頼を勝ち得るでしょう。

 

4.2.共犯関係

これも自己開示系なんですが、自分の話をする際に社会に適応できない話などをするといいでしょう。要するに共感性を示すことが大事です。メンヘラ的な人は傷ついた経験を持つ人が多いですので、こちらも人の痛みを分かる人間だということをアピールしましょう。ということで傷ついたエピソードを出せばいいわけですね。なお、ホリィ・センは小学生のときに情緒不安定だった話をよく出します。対メンヘラの共通体験はおそらくそこにあると思っているので。対コミュニケーション苦手な人だったら、コミュニケーションがどう苦手だったかのエピソードを出すわけで、誰を相手にするにせよ共感はやっぱり大事ですね。

こうして、自分は決して潔白な存在ではないということを示して、一種の共犯関係になることは一つの戦略です。

 

5.おわりに

ここに載せたテクニックは別に対メンヘラじゃなくても使っちゃってます。もう身体化しちゃってますね。別にこれをそのままやれとは言いませんけど、何かの参考になれば幸いです。僕はだいたいこういう感じで不安定な人(やはりメンヘラ的な人)とSkype通話して傾聴するのが日々の楽しみですし、僕以外にも傾聴が日々の楽しみになる人が増えればいいなあ、と。

「メンヘラ」がファッション化してしまっている問題について

【要約】

ネットスラングで「メンヘラ」って言葉あるけど、②最近カジュアルに使われすぎで、③いろんな意味合いで使われてるし、④商品とか出てきて消費の対象にもなってるし、⑤着たり脱いだりできるファッションみたいに扱われてるし、⑥オワコンになりそうだよね でも、「メンヘラ」って本来「精神疾患」のことだし、着たり脱いだりできるもんじゃないよね。その人の「今ここ」の重大な問題として現れてくるよね。だから、オワコンにしちゃいけないよね。「メンヘラ」って言葉を使ってもっと何かできるんじゃない?

 

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「メンヘラ」という言葉が使われて久しいが、昨今、「メンヘラ」という大きな物語(?)が危機となる象徴的な事件が少しあったように思う。

一つは江崎びす子の作品『メンヘラチャン』とのコラボレーション商品「リスカバングル」だ。

togetter.com

このリスカバングルに対しては大きく4つの批判がありうる。以下に挙げる。

 

リスカバングルに対する批判4分類

①やむを得ずリストカットをしてしまっている人をバカにしているという点でリストカット当事者に失礼である

リスカバングルのせいで「メンヘラ」がファッションになってしまう

リスカバングルというファッションで済ませるのはヌルくて恥ずかしい(リスカバングルをつけるぐらいなら実際にリストカットをしろ)

④単純に気持ち悪い

 

①はいわゆる「不謹慎」で、「メンヘラのような弱者を差別するのは不謹慎だ」という話だろう。

②③は主にメンヘラ当事者から出てくる批判だ。

②では、自分が「メンヘラ」であるにもかかわらず、メンヘラがファッション化してしまうと困るだろう。それは、自分が実際に苦しんでいるにもかかわらず、ファッションのごとく扱われてしまうからだ。

③はいわゆる「誰が一番真のメンヘラか」競争だ(これの問題点は

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)。

④は説明不要だろうが、一つ補足しておくと、先ほどのtogetterには書いてあるのだが、リスカバングルをデザインした人の意向で傷が生々しいものになったそうだ。メンヘラチャンのポップなデザインと生々しい傷のデザインはどうもミスマッチに感じられる。

 

 

さて、togetterにもあったが、③のような反応をする人を問題視する人もいる。要するに「リストカットしていることを誇ってしまっている」、「リストカットをしてしまっていることを悪いことだと思っていない(リストカットを止めようとは思っていない)」といった反批判がありうるということだ。

しかし、今回はそれは本筋ではないのでおいといて、僕が今回問題にしたいのはむしろ②メンヘラのファッション化である。

 

メンヘラのファッション化

そもそもリスカバングルの前から江崎びす子の『メンヘラチャン』にはそういうものを感じていた。『メンヘラチャン』はリストカットによって魔法少女に変身するという設定で、明らかに精神疾患などの重大な問題には立ち入っていないし、おそらく深く考えてもいない。

ここではカジュアル化、ファッション化、ネットスラング化、シミュラークル化と書いているが、これにバズワード化も加える。それぞれに意味が異なるので、一つずつ書いていく。

まず、ネットスラングは初期の段階だろう。メンタルヘルスer(精神疾患を持った人)がメンヘラ(ー)と略されることによって定着した。

そして、これにカジュアル化が追随する。「精神疾患」と言うと重い感じがするが、「メンヘラ」と言うとなんとなく軽いものに感じる。

気軽に使われるという意味で、いろんな状態に対して「メンヘラ」という言葉が使われるようになっていく、すなわちバズワードしていく。

また、高度情報化資本主義社会において、メンヘラのオリジナル(つまりは精神疾患)は意味を失い、n次創作としてのコピーがどんどん氾濫し、消費されていくようになる(シミュラークル)。

更にまた、ファッション化する。メンヘラが消費の対象である「流行」になると同時に、ファッションとは「着脱可能」であることを含意している。ここが今回の記事で重要な論点である。

 

着脱可能な流行としてのメンヘラ / 着脱不可能な実存としてのメンヘラ

「メンヘラ」は本来は精神疾患の意味なので、簡単に着けたり外したりできるものではなかった、ある個人に特有の性質だったはずである。しかし、「メンヘラ」という言葉が「今日はメンヘラだ」などといった用法のように一時的な状態を指すものとして扱われる昨今、メンヘラは「着脱可能」なものとして扱われることも増えてきている。「ファッションメンヘラ」という言葉がまさにそれだ。

しかし一方で、「自分からメンヘラになろうとする人はそもそもメンヘラだ」という話もある。実際に、メンヘラになろうとするための行為が、精神に悪影響を与え、実際に(精神疾患という意味での)メンヘラになってしまうことはありうる話である。

すなわち、メンヘラは一方では着脱可能なファッションになってきているが、本来は特定の個人にそなわった、着脱不可能なものである。違う言い方をすれば、メンヘラは本来、身体に埋め込まれた、強く実存に関わる問題/物語である。

 

にもかかわらず、ファッション化している。そこでは、「メンヘラ」という言葉が持っているはずの固有の価値は失われ、ただただいい加減に消費の対象としてコピーが氾濫していく。そして、ファッション(流行)という言葉には「一時的」という含意がある。すなわち、最後にはオワコン化が待っている(注:オワコンとは「終わったコンテンツ」のこと)。

 

もちろん、「メンヘラ」という言葉を使うことの弊害もいくらでもある(これも

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)

しかし、「メンヘラ」が強く実存に関わる問題なだけに、このまま一時的流行の言葉として廃れていってしまうのは実に惜しいと個人的には思っている。

そこには、「メンヘラ」という言葉の一般化によって医療へのアクセスがしやすくなること、「メンヘラ」という言葉に価値を付与するエンパワメント、「メンヘラ」という言葉で人同士が繋がる連帯の可能性(最近では「メンヘラ展」が顕著な例だ)、そして医学的病名としての精神疾患では捉えきれない「あいまいな生きづらさ」を可視化できる力など、プラスの側面があるように思われる。

西一風『ソフトマシーン』の感想

連続ツイートで観劇の感想書くのが面倒くさいときはブログに書く。


静かな(視覚的にも聴覚的にも)演劇がそもそも苦手なんだけど、それでいて意味の追いにくい作品だったから疲れた。象徴解釈からぽつぽつ書いていく。

日常におけるあらゆる振る舞い、それも他者によって制約を受けるような振る舞いを「飲食」によって象徴してたのかなあと。
それでいて、主人公に随伴するお寿司は①食べるか食べないかという決断②放っておくと痛む③増えたりなくなったりする④(ペットのごとく)所有している⑤他者から干渉を受ける(羨ましがられたりする)、みたいな特徴があった。ということで、心の状態とかチャンスとか財産とか能力とかアイデンティティとか自分そのものを象徴してたんかなあと。
「他者からの干渉」という点は特に執拗で、家庭、職場、病院(あるいは寿司屋。板前服と白衣という二重性を持っていたと思う)の3つの場面が反復されるのが主だったんだけど、それぞれで主人公は異なった干渉を受ける。そこでは「食べないんですか?」と「食べるな(わきまえて)」との二つのメッセージのダブルバインドに主人公は拘束されている。
最初、病院(寿司屋)から始まるけど、カウンセリングみたいなものだと解釈してる。寿司を食べたいけどずっと食べられないままであるという神経症的な状態であり、自分を見つめなおす機会であり、という感じ。寿司をあぶるシーンは、カウンセリングというよりかはもっと暴力的な人格改造がおこなわれている感じ。現代で言えば、向精神薬だろうなと。寿司をあぶってもらった主人公は「くさくなくなった」と言われるわけで、見かけ上の社会適応が行われたということだろう。
家庭では父親(すなわち、超越的な命令を下す他者)がいないのが象徴的で、父親がいない主人公は決断ができないのだろう。そして、母親が「食べること」(あらゆる振る舞い)に対して干渉してくる。きょうだいたちがどういう象徴的な意味合いを持ってたのかはイマイチ分からなかったんだけど、とりあえずおのおのが勝手な感じだったなあと。次男がハマチをいとも簡単に食べてしまうのは、食べる決断ができない兄との対比がなされてたなとか。次男はあと、おにぎりを「ソフトマシーン」として「自分もそういうものがほしい」的なことを言っていて、それは兄とは違う意味でのアイデンティティなのかなと。
職場では食べることが上司の顔色を伺いながら行われている。寿司が「くさい」とか「くさくなくなった」とか言われることでいわゆる「社会の目」が象徴されていた。ティッシュで覆われる寿司、「食べていいか」と聞かれて「これは自分のだ」と所有権を強く主張するような寿司。いずれにせよ、「自分」を出しすぎても閉じすぎても社会ではうまくやっていけないんだなあとか思わせる象徴だった。

で、全体の流れ的なものを見ると、たくわんの工場も含めて、循環していくルーティーンが象徴されていたなあと。閉塞したルーティーンで決断せず(寿司を食べず)ただただ過ごしていくとチャンス(寿司)はいつの間にか失われているのだなと。そして、最後、主人公は舞台セットで頭を殴られるわけだけど、舞台セットは社会の枠組みを象徴してたのかなと。社会の枠組みから自由になってそれに頭をガツンとやられれば、何か救いはあるのかなあと。
最後、医者(板前)の「ヘイ」で終わったけど、あの「ヘイ」は、医者の患者に対する相槌「はい」であると同時に、寿司屋で無意味に繰り返されるルーティーンとしての掛け声なのかなぁとか。いずれにせよ、精神医療を含んだ広い社会のシステムに飼い慣らされていく過程をこの作品は批判していたのかなぁとか思った。
そういう意味で「ソフトマシーン」というタイトルを考えると、「ソフトになれ」(社会適応しろ)ということと、それの結果として「マシーン」(主体性を失った機械)に成り果てるということなのかなあと。回転を終えてしまったマシーンはすなわち、資本主義システムにおいて生産力を失ってしまった人間なのかなぁとか。

なんか長々と書いたけど、最初に書いたように、苦手なタイプの演劇だったので好きではなかった。さらに言えば、こういう抽象的な作品を観てて、頭の中にバラバラの考えが浮かんでくるのは好きではなくて、もっと一貫して分かりやすい象徴ばっかり使ってくれるんならば、そこまでしんどくないんだけどなぁとか。ルーティーン的な反復が短くなっていって、どんどん雑になっていって、最後、家族が職場に来るのとかは破綻としてのクライマックス感が出るし好きなんだけど、やるんならもっと露骨にやってくれた方が好きだなぁ。

あと、言葉の響きにこだわってたんだなというのは伝わってきたけど、なんでそうしてたのかはよく分かってない。「わきまえる」、「たずさえる」、「あぶる」、「くさい」、「すし」、「めし」、「ゆば」、「たくわん」、「はらす」、「たきけ」など。あとキャラ名。強いて言うなら繰り返し文字をあんまり使ってない気がする。普段あまり使わないけど面白い言葉の響きってあるよなあ。

人間とのコミュニケーション以外には興味がないことについて

僕のもはやアイデンティティとなってしまった「サークルクラッシュ同好会」だが、実は今年で4年目(まともな新歓は3年目)だ。そんなわけで、もうずいぶんと「新歓」なるものも(良い意味で)ルーティーン化されてきた。

そんなわけで、大体毎年、「こいつはヤバイ」みたいな人が何人かは来るのは分かりきっていたのだけれども、新歓初日に来た1回生(悪い意味で意欲的だ)の一人と話し、なぜサークラ同好会に来たのかを尋ねた。すると、「人間が、好きだからです」(要約)という答えが返ってきた。僕はその言葉にビビっときたものがあり、意気投合していろいろと濃密なコミュニケーションを取った(その人は今やサークラ同好会の一員だ)。

 

「人間が好き」について

「人間が好き」にビビっときたというのはけっこう根深い話で、ホリィ・センのプロフィールなんかにもそういうところは出ている。趣味の欄で「人間に直接関わってくる学問(心理学(特に精神分析)、社会学、哲学など)」と書いている。もはや社会学は専攻なので、「趣味」ではないだろうが。

で、プロフィールだけじゃない。僕が本質的に人間が好きなんだなというのは中学生のときから伺える。僕は中学生のときからホームページを作ったりブログを書いたりしていたのだけど、そのホームページやブログの名前は「(前略)人間と(ry」というものだった。

中学生らしい気取ったタイトルで、この「略す」というものに変な魅力を覚えていたのだろう。正式名称は、今見たところ「管理人ホリィ・センのハイクオリティでネガティブな主観と人間とキャラと萌えと燃えと妄想と夢と理想と名言と本当の幸せを追求するブログページ(の予定。理想は高く現実は虚しく」らしい。中二病だ。ちなみに「理想は高く現実は虚しく」の部分は『フルメタル・パニック!』シリーズの短編、「音程は哀しく、射程は遠く」から取ってる。普通の人からしたらいわゆる「黒歴史」なので、消してもいいんだけど、いかんせん自己同一性への固執が強いので、中学時代のブログは敢えて未だに残してある。閑話休題

この「人間と」の部分を残したのに端的に現れているように、僕は「人間」に、それこそ中学生のときから、強い興味が惹かれていたのだと思う。

 

興味がないものについて

「人間」に興味がある。では逆に、何に興味がないのだろうか。それも、ホリィ・センのプロフィールに書いている。コピペ。

インポ:
音楽
人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)
旅行
食べ物

タバコ
コーヒー
ペット
読書そのもの
ミステリ小説
小説等における風景描写

「インポ」、つまり男性器が反応しない程度に興味がないっていうまた気取った書き方で申し訳ないんだけど、ここに見られるように、やはり人間には関わってこないところなのだと思う。「人間が好き」、そのまさに反対として「人間以外に興味がない」ということが大体成り立っている。

ホリィ・センは自意識の強い人間なので、幾度となく自己分析を繰り返しているのだけど、改めて「人間が好き」という根本的な点が真っ先に口に出る人間と出会うと衝撃があった。そこで、僕は更に考えを深める。

 

「人間とのコミュニケーション」ということ

そうして、考えてみて気づいたのだけど、僕は本当は、

ということなんじゃないかということだ。このことには1ヶ月前にぐらいに気づいたんだけど、ふと耐え切れずツイートしてしまった(あまり考えずにツイートした)ので、せっかくだしもう少し整理してブログに書こうと思った。

そして、思ったことはこうだ。学問でも趣味でも何でもいいのだけど、「人間とのコミュニケーション」が含まれない行為は実際のところほとんどない。多少、「人間とのコミュニケーション」の要素は混じってくることは多い。

例えば、読書をするにしても「作者が書いた文字を読む」という点ではコミュニケーションだし、アニメを観ていても、作者の思考がそこに現れている。また、直接的には、声優がキャラクターの口を通じて視聴者に語りかけてくる。

つまり、人間とのコミュニケーションそのものを100%純粋な「人間とのコミュニケーション」だとすると、50%のものもあれば、20%のものもあり、2%のものもあれば、0%のものもあるだろうということだ。だから、「コミュニケーション純度」の高いものを僕は好きで、ほとんどコミュニケーションの含まれていないものにはなかなか興味が湧かない傾向にあるのだと思う。

その中でもやはり僕は100%純粋な人間とのコミュニケーションがとても好きだということに気づいた。僕は去年無職で、だいぶ暇な時間があったのだけど、思えば毎日のようにSkypeで誰かと喋っていた。そしてTwitterをしまくっていた。それほどにコミュニケーションばかりしていた。そこには、「恋愛」も含まれている。

院生となって忙しくなった今でも実はコミュニケーションから離れたわけではない。実家は出たものの一人暮らしは嫌で、シェアハウスに住み始めた。それも、外部から人の来るオープンシェアハウスだ。僕はどうにもこうにも、人とのコミュニケーションが好きすぎてしょうがないのだと思う。

逆に言えば、それ以外は何もかも根本的には苦痛なのだと思う。

そういうわけでごめんなさい、僕にとってはアニメを観るのも漫画を読むのも読書をするのもゲームをするのも、原理的には苦痛なんです。

 

その他細かい補足と蛇足

「ある選択した行為それ自体(「読書をする」とか「アニメを観る」とか「人とコミュニケーションをする」)にどれだけコミュニケーションが含まれているか」という尺度を先ほど挙げたが、ツイートでも示唆されていたように、「ある選択した行為がどれだけコミュニケーションの役に立つか」という尺度も自分の中では重要である。

さまざまな知識や経験を積み重ねることによって、コミュニケーションはかなり豊かになる。僕が(読書するのが苦手なのにもかかわらず)半ば強迫的に読書を重視するのは、そういうところに原因がある。

中学生のとき、名作アニメを観ることを「消化」などとよく言っていた。この「消化」という言葉にはネガティヴな響きがある。そのときそういう言葉遣いをしていたのは、今にして思えば、名作アニメを観ること自体に楽しみを覚えていたのではなく、その先にあるコミュニケーションがメインディッシュだったからではないか。つまり、アニメは単なる手段であって、コミュニケーションという至上目的のための道具でしかない、だから「消化」するものなのだということだ。

 

もう一つ、付け加えておこう。これは今回の話とは少しばかりズレるのかもしれないが、関係のある話のように思うので。それは「行為を始めることの面倒くささ」だ。誰しも経験があると思うが、学校に行ったり習い事に行ったりするのが億劫で、面倒くさいことは今までの人生で経験してきた。

僕は小中学校の頃に野球をやっていたのだが、その練習などは端的な例だった。僕は練習に行くのが億劫で、好きで始めたはずの野球も、練習が休みになると喜んでいた。

このパラドックスの答えは、『おおきく振りかぶって』という野球漫画にあった。その漫画においては、ご飯を食べる際に

①食べる前に「うまそう!」と言う

②食べてるときは「うまい」

③食べた後は「うまかった」と言う

ことが重要視されていた。これは、野球の練習のためだ。普段から何事に対しても「(やる前から)楽しそう→(やっているとき)楽しい→(やった後)楽しかった、またやりたい」というサイクルを作るのが重要で、野球の練習は単調になりがちだし、このサイクルが重要だという考え方だ。

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(意識的に「うまそう!」って言ってるシーン)

僕は正直言って何事も面倒くさい。「楽しそう!」という回路がどうも働かない。普段やってない勉強とかゲームとかも久々にやり始めてみるとめっちゃハマるものなのだが、どうも一歩目が踏み出せない。

そして、これはなんと「人間とのコミュニケーション」にも当てはまる。僕は人に話しかけるのがはっきり言って面倒くさい。いつもいつも、誰か話しかけてきてくれた人とコミュニケーションをとっている。

人間とのコミュニケーションはさっきも書いたようにやっているときは楽しい。でも、話しかけるのが面倒なのだ。もっと言えば、話題がないと話しかけられない。僕は実のところ、話題なんてなくても人と話したい、それ自体が楽しいといつも思っているのだけど、話題がないとどうにもこうにも話しかけられない。

僕はけっこう「何もないけど、話したい」と思っているのだけれども、気がついたら自分からは誰にも話しかけることなく一日は終わっているなんてことは、よくある。話したい人ともっと話したいなあ。

僕の好きな「人間くささ」について

僕は人間が好きです。人間が好きな反面、そっちに興味のリソースが割かれすぎているのか、人間と直接関わってこないものには食指が動かないことが多いです。

それこそツイッターの詳細プロフィールにも書いたのですが、人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)に対して興味が湧きません。ついでに言えば、食べ物とか音楽とか嗜好品(酒・タバコ・コーヒー)もどうも興味がないです(それらはけっこう人間と直接関わってくる気もするけど)。

 

そして、僕が「人間が好き」と言う時、「人間くさい」のが好きだと言うこともあります。

例えば、女性少数男性多数のサークルクラッシュを想定して、僕は

「サークルクラッシュの何が面白いって、女性なんて星の数ほどいるのに、わざわざ狭いコミュニティの1人に対して恋愛をしてしまう、その”視野の狭さ”なんですよね。自分の接する女性が母親とその1人の女性ぐらいしかいないから、その女性が”女神”みたいになってしまうわけですよ。しかもそれを同時に複数の男がやる。その女性も大して魅力的でもないのに、チヤホヤされて調子に乗る、みたいな。この集団の異様さ、醜さって、すごく人間くさいからサークルクラッシュが好きなんですよね」

といった具合のことを言います。

でも「人間くさい」ってなんなんでしょうね? 僕自身、「人間くさい」という言葉を使いながら、その言葉が指す意味内容をなかなか具体的には言語化できません。かなり感覚的なものです。

 

しかし、その感覚はこうなんじゃないか、という言語化のヒントを最近得たので書いていきます。

 

人狼における判断

それはある日、人狼というゲームをやっていたときのことです。人狼というゲームは簡単に言えば、ウソをついている人狼を探し、処刑するゲームで処刑されなければ人狼の勝ち、処刑できれば人間側の勝ちというもので、僕は人間側でした。

最終日、僕は人間側で、残り2人のどちらかが狼という状況でした。僕は戦略的に「Aさんが怪しい」ということを主張し続けていました。しかし、実際のところ僕は本当に怪しいと思っていたかは微妙で、「Aさんが怪しい」という主張に対して他の人の反応を見ていました。しかし、それらの反応を見ても決定的な判断材料は得られませんでした。

最終的にAさんではなくBさんを処刑先に選んだところ、Bさんは人間側で、人間側は敗北しました。

人狼においては、それまで考えていたことが最終日になって突然翻ることがままあります(「最終日の魔力」などとも言う)。ヘタをすれば、人狼側がそれまでの主張とは違う(あるいは論理的に矛盾した)ことを言っていても、人間側はそれに気づかないことがあります。

 

それほどまでに人間の判断は脆弱です。僕は人狼というゲームは大好きなのですが、人狼がウソをつくゲームであり、人を騙すゲームであり、会話によって成り立つゲームである、すなわち人間同士のコミュニケーションを重視したゲームであるということは僕が人狼を好きな理由の1つのはずです。

しかし、どうやら僕はそれと同等に、人間の判断の脆弱さが好きなのかもしれません。これを僕は「人間くささ」と言っているような気がします。

別の例を挙げましょう。

 

未来日記』のユッキーのクズさ

僕は2011・2012年にやっていたアニメ『未来日記』(元は漫画)が大好きでした。話自体が好きとか、声優が好きとかそういう側面もあるでしょうが、何より惹かれたのはキャラクターでした。

特に、主人公の天野雪輝ことユッキーと、そのユッキーに異常な好意を示す(いわゆるヤンデレの)由乃が好きでした。

未来日記はいわゆる「デスゲーム」系の作品で、個々のキャラクターが自身の特殊能力を以て、生き残りを賭けて戦います。そんな中では裏切りの場面や、自己保身のために人を見捨てる場面もけっこうあります。主人公のユッキーはその代表格で、視聴者のコメントでは「クズ」扱いされまくってました。

仲間を守るかのようなまともな決心をしたかと思えば、すぐに切り捨てるクズっぷりは見てて爽快です。しかし、かといって完全にクズというわけでもなく、その判断に罪悪感も見てとれます。そして、最後には主人公らしい決断を見せてくれて、まるっきりクズでもなかった、「カッコイイ!」ってなりました。

また、由乃に関しても、ネタバレになるので言えませんが、一筋縄ではない感じで視聴者を裏切ってくれます。

 

そこに僕はやはり「人間くささ」を感じているようです。これはつまり、「一貫性のなさ」に対して魅力を感じています。簡単に揺らいでしまう決心。それこそが人間くささなのだと。

あるいは、クズだと思っていたら決めるところは決めるというところ。プラスからマイナスへの変化は一般的にはネガティヴな感じですが、マイナスからプラスへの変化はいわゆる「ギャップ」に対する魅力とも近いでしょう。あるいはそこに僕は「成長」を見いだしているのかもしれません。これは「一貫性のなさ」と区別がつけにくいので難しいところです。

 

もっと一般化して言えば

人間の判断の脆弱さ、あるいは一貫性のなさ。そのあたりを鍵に僕のこれまで好んできたものを想起してみました。

必ずしも関係があるかは微妙なのですが、僕はキャラクターが成長する作品が好きです。新しい能力を身に付けるバトル漫画やスポーツ漫画、また弱いながらに工夫して強敵を倒すのなんかは昔から大好きです(バトル漫画ではドラゴンボールの「ヤムチャ」とダイの大冒険の「ポップ」の対比が語られることがありますが、両方とも好きなキャラです)。

サークルクラッシュの場合もそうでしょう。硬派なオタクだったはずの人間が、目の前に恋愛の機会が訪れただけでフラッとそっちにいってしまう。そこに悲劇と同時に喜劇を感じているわけです。

そこにあるのは、人間が状況に左右されやすいということ、その「変化」だと一つには思います。

あるいは、これとは違う考え方なのですが、人間が「クズであると同時にクズでない」というような「複雑さ」(複数の異なるものが同居しているという意味でcomplexityと言うべきものでしょう)に対して人間くささを感じているのだとも思います。

 

そんなわけで、僕は一貫性なんてものはあんまり好きじゃありません。むしろ、状況次第で簡単に手の平を返してしまうそんなところに「人間くささ」を感じるし、人間のそういうところが好き/そういうところを持った人間が好き なのだと思います。

 

もっと社会に沿った価値観で付言しておけば、一貫性は「意固地」ということでもあると思います。僕は他人の話を聞かない人間は好きじゃありません。変化しうるということは他人の話をちゃんと聞いて、柔軟に対応できる(それを受け入れるか受け入れないかを判断し、選択できる)ということだと思います。そういう意味でも、僕は一貫性のない人間;人間くさい人間が好きです。

外山恒一さん主催『学生向け「教養強化合宿」』のレポートと個人的感想

外山恒一さんの主催する第2回・学生向け「教養強化合宿」に参加した。

この記事にもあるように、毎日"9時5時"で3冊の本を読み進めていくというものだったが、参加して良かったのでレポートしたい。
要約して言うと、
①合宿の環境がサイコー!
②人文系学問を学ぶ上で、左翼運動史から入るのは正しい!
③有機的にいろいろ関連づけて歴史を学ぶのは楽しい!
④外山さんはすごい!
って感じ。

 

場所について

福岡にある一軒家は隠れ家のような感じで、本が大量にあった。既に何かしらの運動を展開している人の著作が並んでいるのもさることながら、普通に大学生が読むような思想書、教養書の類が大量にあった。

また、ある程度体系化されており、本棚ごとに左翼系本棚、右翼系本棚、教養系本棚、インターネット系本棚、演劇系本棚等々、漫画や雑誌なども含めてかゆいところに手が届きまくるラインナップだった。いくつか読んだけど、もっと読みたかったぐらいだ。
また、大量のVHSやCDが並んだ「視聴覚室」もあった。そこには昔にヒットした映画や音楽がジャンル問わず並んでいて、外山さんの文化的な教養を伺わせる。
この「ジャンル問わず」というのは視野を広くするために、つまりは思想的なバランス感覚のために重要だというのは一つあるだろう。しかしそれだけではなく、外山さん流の歴史理解においてもこれは重要なのだと後で分かった。それは後に述べる。

 

勉強の環境について

"9時5時"を銘打つだけあって、読書自体は緊張感を以っておこなわれていた。1節分を全員一斉に黙読して、全員が終わったら外山さんによる解説と、分からない部分に関する質問。そしてまた1節分を全員一斉に黙読……をひたすら繰り返すというものだ。外山さんのお話は分かりやすく、背景知識と予備知識の解説がとても丁寧だった。ホワイトボードを使って年号を書きながら歴史的な流れを追ってくれるのは分かりやすかった。

 

僕以外にも学生の参加者が2人いたけど、2人とも読むの早いなあって思った。外山さんの界隈からもう1人参加されていて、その方と僕の読む速度が同じぐらいで律速になってる感じだった。まあその分、集中して読めたので良かったというか、あそこまで毎日集中して読書をするのは正直初めてだったので、単純に勉強として良い経験になった。環境を整えるのって大事なんだなあと、個人的感想。
"9時5時"もけっこう疲れるけど、グダグダになりすぎないちょうど良い強度だったように思う。周りに特に遊ぶ場所もなく、ずっと合宿所に篭ってるのがかえって良い刺激になった(まあコンビニとかはあるんでちょいちょい行ってたけど)。ご飯も用意していただいて、こちらが負担するのが交通費だけだったというのもメチャクチャありがたかった。

 

読んだ本について

合宿で読む本の内容については、夏のときの体験記に詳しく書いた方がいるようなので、


僕はもう少し簡潔に書きます。


まず1日目に読んだのは「マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ)」というイラストを中心としたマルクス理論の入門書。特に50年代後半~70年代ぐらいまでの新左翼運動史において用いられたマルクス-レーニン主義についての解説がまとまっている。歴史的な背景も合わせて理解すれば「マルクス主義」の左翼運動における「使い方」がひとまず分かる。

 

2日目、3日目に読んだのは『中核VS革マル』というジャーナリストの立花隆さんが書いた新左翼運動史についての本の上巻。主に革共同革命的共産主義者同盟)という党派がいかにしてできて、いかにして分裂していったかの「内ゲバ」の歴史を描いているのだが、1冊目の理解を元に読めば、各党派が何を目的に運動しているかなどがクリアーになる。この本だけでも十分に面白いのだが、外山さんが登場人物の背景や、他で起こっていた運動、その後の運動史などについても詳しく解説してくれたのでとても面白く理解できた。
一般的なマスメディアでは東大での全共闘運動が学生運動のピークで、「連合赤軍事件」と「あさま山荘事件」をもって象徴的に左翼運動は衰退したと思われがちなのだが、実際のところはそんな単純な話ではないというのがよくよく分かった。今までの無知を恥じる。

 

4日目、5日目に『ユートピアの冒険』というマルクス以後のポストモダン思想についての解説書。2冊目で新左翼運動史を理解した上で読むことで、いかにしてマルクスは批判できるかがよく分かる。構造主義やポスト構造主義の思想(主にフランス現代思想と呼ばれるものと重なることが多い)は難しくて分かりにくいことで有名なんだけど、左翼運動という具体的な実践や、当時の日米の経済状況と絡めて理解することでかなりスッキリ理解できるし、理論でガチガチな「思想」をどのように「使う」ことができるかが分かる。著者の笠井潔さんが出す比喩も分かりやすくて、これはとても面白かった。
(余談だけど、80年代初頭のニューアカデミズムブームと、それに影響して出たもろもろの本は、2015年の今でも全然価値を失っていないと思う。原書・翻訳はやっぱ読みにくいのも多いし、せっかく日本人がいろいろ書いているんだから日本人のものから入っていく方が分かりやすくて効率が良いことが多い。ということで、2015年の今でさえ、思想を学ぶのであればニューアカブームの本から入っていくのは正しいんじゃないか、とすら思った。「新しいからより洗練されてより分かりやすくなっている」ということはあまりないように思う)

 

6日目は『1968年』というちくま新書の本をちょっと読んだ。外山さんはスガ秀実さんをいろんなことを根拠に語ることがけっこう多かったんだけど、その人の本。5日間でやってきた新左翼運動史についての復習にもなったし、綿密な取材・研究に裏付けられた戦後思想についての本だった。現代思想を考える上で、「1968年」(そして1970年の華青闘告発)がいかに重要な歴史的転換点だったかがよく分かる。


歴史の学び方とその意義について

と、まあ読んだ本についてはこんな感じだが、ずっと読んでいたわけでもなく、外山さんがこれらの本にはない運動史や当時の文化・経済・社会状況について解説してくれることも多かった。外山さんは政治情勢や国際情勢だけでなく当時流行った文化について、それこそサブカルも含めてたくさん語っていたのだが、それにはとても意味があった。
外山さんによれば、年号ごとに当時のできごとや、流行ったものをひたすら並べて書いてみると、それらに通底する思想や背景が浮かび上がってくるようだ。当時の社会情勢は音楽漫画小説演劇映画などのサブカルチャーにも影響を与えているわけで、そのあたりを丹念に追うことで逆に社会が浮かび上がってくるということだ。
外山さんの『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』はおそらくそういうコンセプトで書かれている。 

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

 

 

個人的な話になるが、僕は中学校高校で受けていた世界史や日本史の授業が嫌いだった。とても無味乾燥で興味を持てず、面白さが分からなかった。そのまままともに世界史・日本史をやらずに大学生になったはいいが、人文系の分野に進むにあたって、割と基本的なことも分かっていないことがコンプレックスだった。人文系学問において、基本的な世界史・日本史は共有された前提みたいになっているように思う。だから学ぶ必要があったのだけど、どうしても興味が持てず悩んでいた。
そんな中で、この外山さんの合宿に行ったことで、誇張ではなく初めて「歴史が面白い」と思った。一般的に言って、何事も有機的に関連付けてワンセットで勉強した方が楽しい。今回の合宿では「政治運動」と「思想」と「文化・社会」を有機的に関連づけて勉強し、それを肌で実感した。
「哲学オタク」や「クイズ王」などに対する批判はその意味で有効であろう。それはつまり、実際の社会・文化から遊離した思想や知識は無味乾燥になりがちで、それらの思想・知識を用いて何かしらのムーブメントを起こしたくても「使えない」ということだ。
ということで、合宿では正しく「使える知識」を学べたと思う。これは学校教育では得られないものだ(だって、学校では社会で流行ったサブカルチャーとか個別具体的な運動についてこんなに詳しく教えてくれないもん)。

 

外山さんについて

外山さんはファシストを名乗っていて、世間の人らはいかにも政治的に偏った「イメージ」を抱きがちだと思うのだけど、それは一面的な見方だと思う。まあ特異な人ではあると思うんだけど、考えていることは至極まっとうで真面目で、とても視野が広い。それは合宿所の蔵書や映画、CDなどを見るだけでも分かるのだが、外山さん界隈(我々団界隈)にいろんな面白い人たちがいたことからも言える。(それこそ外山恒一と我々団のいくつかの文章を読めば、外山さんがいかにまっとうに考えているかがよく分かる)

偏りのある人もそこそこいるように思ったけど、だからこそいろんな人と接していて外山さんは達観しているんだなあと思った。外山さんが語った「活動家列伝」のようなものは、むしろ外山さん自身の度量の大きさを伺わせるものだった。

 

最後に、このような合宿の場を設けていただいたことに本当に外山さんには感謝しています。
今後も僕は僕なりに活動していきます。サークルクラッシュ同好会とか。

サークルクラッシュするシェアハウス――「サークラハウス」やります

2015年4月より京大の院生になります。ホリィ・センです。

ということで、4月より23年間住んだ実家の滋賀を出て、京都の京大近くに住むことにしました。
ただ住むだけじゃつまらないということで、「住み開き」やら「コミュニティスペース」やらと言われるタイプの、外部の人間がいつでも入ってきていいオープンシェアハウスをやろうというわけです。

 

ですが、ただのシェアハウスと侮ることなかれ。この「サークラハウス」は二つの独自性があります。
一つにはそれは「大学サークルと直結したシェアハウスである」ということです。
ただし、これはまあ先例がないわけではありません。京大でもボヘミアンというサークルは既にそれをやっていますし、サークルではないシェアハウスが大学内でビラを貼っていることも珍しくはありません。

 

本質的に重要なのは次に述べる独自性です。それこそが、サークルクラッシュするシェアハウスであるということです。
ここでのサークルクラッシュとは恋愛を原因とした人間関係の悪化のことを言っているのですが、サークルクラッシュが起こることの利点は大きく4つあります。

 

1.危機(クラッシュ)を乗り越えることで深まる絆

サークルクラッシュは人間関係崩壊の危機です。最悪の場合は集団が解散にまで追い込まれます。
しかし、その危機をどのように乗り越えるかがポイントです。うまく自浄作用が働き、自然淘汰された後に残った人間はそれはもう強い団結力を見せます。
そして脆かった集団はより強固に、言わば免疫力・再生力がつくわけです。
サークラハウスはサークルクラッシュするたびに何度でも蘇ります。

きたるべき新たなサークルクラッシュも何度でも乗り越えます。

 

2.創造のための破壊(クラッシュ)

集団は固定化してしまうと柔軟性を失います。すると、時代の変化に対応できず取り残されてしまいますし、新たな発想もできなくなってしまいます。
そこで、集団を固定するのではなく、人の入れ替えにおいて流動性を確保します。
すなわち、サークラハウスは創造のためにクラッシュします。
そうしてサークルクラッシュによって人間の新陳代謝が行われ続けることで、目まぐるしく変化する時代に対し、新たな価値を創造します。

 

3.試行錯誤(クラッシュ)によって得られる最適解

「学校では勉強は教えてくれるのに、なんで人間関係や恋愛は教えてくれないの?」と疑問を持ったことはありませんか?
これはつまり、日本の教育システムにおいては、基本的に人間関係や恋愛は家庭や実践で学ぶようになっているということです。
しかし、ちょっとした違いで他者から排除され、イジメられたり、輪から外されたりする人がいます。こういった人たちは恋愛はおろか、コミュニケーションを練習する機会も与えられません。
そんな人が大人になったとき、早いうちに人間関係の失敗を経験して学べるならまだマシです。その人は反省して、次に繋がるわけですから。
問題なのは、過去の排除から人間関係を恐れ、受け身になり、なかなか人間関係を作れない人です。この人たちは「失敗すらできない」のです。
失敗は成功の母。サークラハウスは人間関係の失敗が最大限許容される場です。
サークルクラッシュによるトライアル&エラーを繰り返す中で、人間関係における自分なりの最適解が見つかるはずです。

 

4.閉じこもっていた殻を破る(クラッシュする)解放


受け身なコミュニケーションを身に付けてしまった人は、なかなか人に話しかけられません。そして、「話すべき話題がない」、「なんで自分はあそこで話しかけられないんだ」と自分を責めます。
しかし、自分を責めたところで何も変わりません。変えるべきはまず環境です。受け身のままでいいからまずサークラハウスでクラッシャーに出会いましょう。
クラッシャーはフレンドリーです。受け身の人にも壁を作らず、分け隔てなく接してくれます。そうして、受け身の人が閉じこもっていた殻を破り、能動的なコミュニケーションの契機が得られます。
つまり、サークルクラッシュは受け身コミュニケーションの人が解放されるのに必要な過程です。恋愛弱者の一発逆転の場です。人生の敗者復活戦です。
サークルクラッシャーが「一発逆転」の「救世主」であるということについては

サークルクラッシャーという名の救世主 - 三本目の裏通り

を参照)

 

 

以上4点より、サークルクラッシュは起こすべきです。サークラハウスはサークルクラッシュします。

サークラハウス」はサークルクラッシュすること、すなわち失敗することを前提とした次世代型コミュニティというわけです。

 

もっと細かい理念やルールは追って決めていきますが、
サークラハウスに賛同していただける入居者や出資者を募集します。よろしくお願いします。

興味がある、入居したいなどの方の連絡先は
circlecrush☆gmail.com(☆を@に)
または、@holysen@circlecrushTwitterアカウントまで。
ちなみに京大近くで家賃7~10万円の一軒家を5人ぐらいで住む予定です。

 

(完全にテキストサイト調の煽り文章だ)