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「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて

【要約】

☆人を意味する差別的なバズワード「オタク」「ぼっち」「コミュ障」「アスペ」「メンヘラ」など)を使うと、その言葉によって他人を理解しやすくなるので、その他人に適切に接することができるようになる可能性がある。また、新たな言葉によってマイナスイメージの強かった人がプラスイメージに逆転する可能性がある。

一方で、その言葉によって他人の存在が可視化されてしまうので、見えなかったときよりもかえって差別が強まってしまう可能性がある。また、一つの言葉にいろんな人間を一緒くたに入れてしまうので、不適切な使用が広がる可能性がある。

だから、言葉は適切に理解しなきゃいけないし、その言葉の多義性を知っておいて、その中でも特に人の魅力を生かすような用法を積極的にしていくべき。

 

☆その言葉の当事者(例えば「コミュ障」当事者)はその言葉に甘えて弱者でいることに安住し、自助努力を怠ってしまうこと(例:「自分はコミュ障だから人とほとんど喋れなかったのはしょうがない」といった自己正当化)があるのは問題。

その言葉の当事者(例えば「メンヘラ」当事者)は、他人の目を気にして、その言葉通りの人間になろうと頑張ってしまう(「真のメンヘラ」になろうとする)ことがあるのも問題。

だから、そういう言葉を使うときは言葉に依存しすぎず、ほどほどに。

 

☆そもそも、あまりに益をもたらさず、害ばっかり成す言葉であれば、使わない方がいい。

 

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「メンヘラ展」があったと思ったら今度は「メンヘラ誌」なるものが出るようで、個人的にいろいろ思うところあるので書く。

話の前提

「メンヘラ」という言葉があるが、この言葉が持つ、以下4つの要素が重要となるので先に書いておく。

①(人の特性を表した)バズワードであるということ

バズワード、すなわち意味が曖昧で、いろんな意味で使われる言葉だということだ。語源としては「メンタルヘルスer」からきているので、言葉からぼんやりとしたイメージはできるだろう。しかし、ぼんやりとしているので、「精神疾患を持った人」とか、「精神的に不安定な人」とか、「構ってちゃんの女性」とか、言葉からいろんなイメージが喚起される。だがそれゆえに、明確に定義を定めることは難しい。というか、「メンヘラ」という言葉が世間で使われるたびに意味が変化していくので、その意味を捉えきり、「完全に正確な」理解をすることはできないだろう。

※全ての「使われ方」(用法)を挙げることは理論上可能かもしれないが、「よくある使われ方」や「レアな使われ方」があり、それらは使われる度に変化していく。そういう意味で、「完全に正確には」捉えきれないだろう。

視覚的に表現してみよう。

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それぞれの楕円は、「メンヘラ」という言葉が1回使われたときに、それが意味している範囲を示していて、意味をその中に含んだ「(数学的な意味での)集合」として表現している。
黒い楕円だけに注目すると、様々な意味で「メンヘラ」という言葉の使われ方があることが分かるが、真ん中に集まっている赤い部分があるだろう。これは「メンヘラ」という言葉に確実に含まれている意味を指している(例えば、「不安定」という意味かもしれない)。しかし、青い楕円に注目すると、誰かが従来とはかなり違った意味で「メンヘラ」という言葉を使っている。これは、赤い部分を含んでいない「とんでもない」使い方なのだが、これが簡単にまかり通ってしまうのがバズワードなのだ。
普通の言葉は、中心の赤いところに意味がだいたい収束している(言い換えれば、「よくある使われ方」が安定している)のだが、バズワードにおいては意味が縦横無尽に拡散していて、中心の赤いところに収束しきらない。「メンヘラ」のようなバズワードは、さまざまな使われ方をするたびに意味が拡散していく。
これが先ほどの「『よくある使われ方』や『レアな使われ方』があり、それらは使われる度に変化していく」ということの意味である。また、先ほどの話で言えば、それぞれの楕円に含まれる意味を全て拾いあげれば、全ての意味をカバーすることは理論上可能だということだ。
(なお、全ての楕円(集合)の重なってる部分を「内包」、全ての楕円が一回でも覆っている部分を「外延」と言ったりする。例えば、犬にもいろんな犬がいるが、いろんな犬の全体が外延であり、「犬は哺乳類」のように全てに共通する部分が内包である)

 

②興味を喚起するということ

①で述べた「言葉からぼんやりとしたイメージができる」一方で、「言葉からいろんなイメージが喚起される」と密接に関わっていることであるが、まず、「メンヘラ」という言葉やそれが意味する人物像は面白い。また、「あるあるネタ」として消費されたりもする。
これらの理由から「メンヘラ」という言葉は興味を喚起しやすいし、もっと言えば注目を集めやすい。

 

③マイナスイメージがあるということ

A.「メンヘラ」という言葉は「メンタルヘルスer」が由来であるということから、実際に精神疾患を抱えている人が「メンヘラ」にカテゴライズされることは多い。人によっては、実際に精神疾患を抱えている人のみをメンヘラと呼び、そうでない"メンヘラ的"な人をファッションメンヘラと呼ぶようなこともある。
精神疾患のあるなしはともかく、メンヘラの周りでは対人関係において問題が起こりやすいイメージがあるので、マイナスイメージに繋がっている。(実際に問題を起こしたせいで、メンヘラと呼ばれ始める人もいるだろう)

B.「メンヘラ」という言葉はもっぱら「女性」を指すことが多い。この理由は省略するが、ネットでよくあるミソジニー言説、つまり「女叩き」とセットでメンヘラが攻撃されることがある。女性に対するマイナスイメージがそのまま「メンヘラ」にも反映されているということだ。

C.「憎まれっ子世にはばかる」のことわざにあるように、人はマイナスイメージに対する印象が強いように思われる。人はバズワードには選択的にマイナスイメージを付与しているのではないだろうか。

 

これらABCより、「メンヘラ」という言葉にはマイナスイメージがあり、侮蔑的なニュアンスで使われることや、自虐として使われることが多い。

 

④マイノリティであるということ

③で述べたマイナスイメージもあり、自ら「メンヘラ」になりたがる人は少ない。「メンヘラ」は基本的にはマイノリティ(少数派)なのである。
そして、マイナスイメージがある上でかつマイノリティの人は社会に抑圧されて苦しんでいることが多い。こういった人を解放するためのアプローチは3つ考えられる。

1つ目はマジョリティとマイノリティの差異を強調した上で、マイノリティの側の良さを強調するアプローチである。例としては、男女差別を解消する際に「女性固有の」良さを強調したり、病気の人間を「シャーマン」として崇めたりといったものである。なお、このようなマイノリティ固有の力を発揮させるアプローチを福祉等の分野で「エンパワーメント」と言うことがある。

2つ目はマジョリティとマイノリティの同一性を強調するアプローチである。マイノリティであっても同じ人間なのだから、特別扱いせずに同じように扱い、同じ権利を保障するということである。例としては、男女差別を解消する際に女性にも選挙権を認めたり、『五体不満足』で有名な乙武さんが五体満足の人と同じように扱われたりといったものである。

3つ目はそもそもマイノリティがマジョリティと同じ土俵に立たないというアプローチである。例えば、新宿二丁目ではセクシャルマイノリティがシスジェンダーへテロセクシャルの社会とは隔離されて生きていたり、「べてるの家」という精神病等の人たちの当事者団体では病気の治療を目的とせずに生きていたりといったものである。

 

なお、ネットでよく使われる他のバズワードで、人の特性を表すものには「リア充」「イケメン」「意識が高い」「ウェイ」「オタク」「DQN」「ぼっち」「コミュ障」「アスペ」などがある。(個人的なバイアスがかかってる気もする。)前者2つは上記の①②を満たし、それ以外はだいたい①②③を満たし、④については満たすものと満たさないものがある。
だから、これから述べる問題は、「メンヘラ」に限らず、このようなバズワード全般に多かれ少なかれ当てはまる問題である。

 

メンヘラ展に続き、メンヘラ誌

Twitter上のメンヘラ界隈(?)のようなものの拡大は後を絶たない。数が増えてくると徒党を組むのもよくある話で、一部で話題になったメンヘラ展に続き、メンヘラ誌なるものが出るようで気になった。(メンヘラ展とメンヘラ誌には直接的に関係はない。しかし、横のつながりなしで乱立するあたり、「メンヘラ」に興味を持つ人たちや「メンヘラ」という自己認識のある人たちが増えている何よりの証拠であろう。かのメンヘラリティ・スカイも同じ文脈で捉えることが可能かもしれない)

 

真のメンヘラ?

しかし、メンヘラ展のときもそうだったが、今回もメンヘラ誌が始まってもいないのに批判が出ている。その一つは「真のメンヘラ」問題だ。
それは何かと言うと、メンヘラと自称する人が増えるにつれて、そこまで苦しんでいない人と特に苦しんでいる人との区別がなくなり、特に苦しんでいる人をないがしろにしてしまうという問題である。言い換えれば「ファッションメンヘラ」を容認していいかどうかという問題なのだが、それに対して、Twitterのフォロワーのえりみそ氏がこういった反応をしていた。


つまり、「本当のメンヘラはもっと苦しいんだ!」と主張する人がいるのも分かるが、その主張自体にも問題があるのではないかという話である。
なお、この話はメンヘラに限らず、上記に挙げたバズワードなど、マイナスイメージを持ったいろんな言葉において起こる現象である。
このことに興味を持った自分は、最終的に「メンヘラという言葉を使って大々的に活動をする際に注意すべきこと」という問題意識で整理してみることにした。

 

抑圧について

最初に②で述べたように、「メンヘラ」という言葉はHOTで、興味を持つ人が多いので、注目を集めるには持ってこいだ。メンヘラ展が注目を集めたのは、その理由からだろう。(主催者自身そのようなことを言っていた)
問題は、その言葉を使うことによって抑圧される人間がいるかもしれないということだ。
抑圧とはおそらく1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びること2.偏見から不適切な接し方をされること3.新たなマイナスイメージが生成されること、の3つだろう。

 

1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」という言葉の認知度は高まる。元々、最初の③で述べたように、「メンヘラ」にはマイナスイメージがあるのだが、全ての人がそのマイナスイメージを持っているわけではない。元々「メンヘラ」についてよく知らない人が、「メンヘラ」について知ることによって、マイナスイメージを持つ人が増えたり、元々マイナスイメージを持っていた人のマイナスイメージが更に強化されたりすることがありうる。これによって「メンヘラ」当事者は非難を浴びる可能性が高まるので、「抑圧」と言えるだろう。
これは部落差別問題の文脈などで使われる「寝た子を起こすな論」に近い。「メンヘラ」について知らない「寝た子」を起こさなければ、わざわざ非難するような事態は起きなかったという理論だ。

 

2.偏見から不適切な接し方をされることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」に対する偏見が強化されることがある。偏見とは具体的には、最初の③で述べたようなマイナスイメージも含まれる。③Aで述べたような「メンヘラ」の対人関係に関するマイナスイメージは常に実際のメンヘラに当てはまるわけではないし、③Bに関してはそもそも女性蔑視であり、③Cも認知バイアスの一種なので、それぞれ「偏見」の名に値するだろう。

また、最初の①で述べたように、「メンヘラ」はバズワードである。よって、一口に「メンヘラ」と言っても様々なメンヘラがいることは既に述べた。ここで更に議論を整理するために、「どれくらい重篤なメンヘラか」という軸を導入する。

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図に示したように、一口に「メンヘラ」と言っても様々なカテゴリーが存在し、精神疾患を持っていない人を「メンヘラ」と呼ぶこともあれば、精神疾患を持った「メンヘラ」の中でも、症状などによって様々なカテゴリーに分けられる。
先ほど述べた「偏見」の具体的な例のもう一つは、このカテゴリーから外れた理解をすることである。説明しよう。
最初の①のバズワードの話で述べたように、このカテゴリー=バズワードの意味は絶えず変化し、様々な意味が付与されていく。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動をすることによって、メンヘラという言葉自体が広まって誰しもが「メンヘラ」とみなされてしまったり、多くの人がメンヘラを自称するようになったりもするだろう。そのように「メンヘラ」の意味は絶えず変化していくのだが、一時的にはカテゴリーについてのある程度の合意はなされるはずである。
しかし、「偏見」が原因で、その合意されたカテゴリーとは違うカテゴライズをする人間もいるということである。例えば、

X.図の青色の人を、緑色の人のごとく扱ってしまった際に、問題が生じうる。なぜなら、青色の人と緑色の人は質的に異なる「メンヘラ」であり、適切な接し方も異なることがあるからだ。

Y.またそういった質的な違いだけでなく、この問題は「重篤なメンヘラ」を「軽度なメンヘラ」として扱ってしまう場合に更に問題になりやすい。先ほどの図で言えば、重い精神疾患を抱えている人(図の青いところ)を軽い精神疾患を抱えている人(図の赤いところ)のごとく扱ってしまい、その当事者が傷つくという問題がありうる。

Z.上二つのような「『メンヘラ』という言葉内の境界」を超えたカテゴライズのミスも問題だが、「『メンヘラ』か『メンヘラ』でないかという境界」を超えたカテゴライズのミスによる問題もありうる。それはつまり、実際に精神疾患を抱えている人を、精神疾患を抱えてない「ファッションメンヘラ」≒「健常者」のごとく扱ってしまい、その当事者が傷つくという問題だ。

(これは『真のメンヘラ』を「ファッションメンヘラ」≒「健常者」として扱われてしまうことによって生じる「真のメンヘラ」問題にも通ずる。それとは逆に「健常者」が「メンヘラ」を名乗ることによって、「真のメンヘラ」と区別がつかなくなる場合もある。

いずれにせよ、「真のメンヘラ」問題とは、個々人の中にある 健常者/ファッションメンヘラ/軽度のメンヘラ/重度のメンヘラ といった区別がいい加減になり、実際に存在する「真のメンヘラ」が苦しむという問題である。
この「真のメンヘラ」問題については後にも述べる。)

ともかく結論として、最初の③で述べたようなマイナスイメージの強化にせよ、①のバズワード性から生じがちなカテゴライズのミスにせよ、「偏見から不適切な接し方をされる」という抑圧に当たるだろう。

 

3.新たなマイナスイメージが生成されることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」に新たなマイナスイメージが付与される可能性がある。最初の①で述べたようにバズワードである「メンヘラ」は新たなイメージが付与されやすい。
とは言え、最初の③で述べたように既にマイナスイメージがあるので、これ以上新たなマイナスイメージが付与される可能性は低いのだが。もし、新たなマイナスイメージが付与された場合には「抑圧」と言えるだろう。

 


ともあれ、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動することで、「メンヘラ」の「抑圧」に繋がりうるということがこれら3つの説明から分かる。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動することには責任が伴うということははっきりしているだろう。

この責任の大きさは、使う言葉によって違う。たとえば、「オタク」が偏見から心無い非難を浴びるのであれば、それに対して怒ったり、悲しんだりで話は済むだろう(それはそれで問題だが)。しかし、「メンヘラ」の場合は、実際に精神疾患を抱える人もいる問題なだけにデリケートだ。民族差別においては戦争が起こってしまうレベルであることを考えれば、抑圧が起こることによってより大きな問題に発展しやすければ、それだけいっそう責任も重大であるということだ。


解放について

勘違いしてほしくないのは、これは「『メンヘラ』という言葉を使って大々的な活動をするな」という脅しではないということだ。「抑圧される人間がいるかもしれない」と言ったけど、逆に「解放」される人間もいるかもしれない。
解放とはおそらく、Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされることⅡ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなることⅢ「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになること、の3つだろう。

 

Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされることに関して

抑圧の1.の裏返しなのだが、メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、「メンヘラ」という言葉の認知度は高まる。それによって元々メンヘラのことをよく知らなかった人や、偏見を持っていた人が「メンヘラ」に対してより正確な理解をするようになる。*1

言わば、抑圧の2.の図で示したカテゴリー通りの接し方ができるようになるということである。赤色の人には赤色の人固有の、青色の人には青色の人固有の、緑色の人には緑色の人固有の、ファッションメンヘラにはファッションメンヘラ固有の、適切な接し方がおそらくあるだろう。例えば、「うつの人に『頑張れ』と言ってはいけない」とはよく言われるが、これは、抑圧の2.で述べたような、「メンヘラ」を「ファッションメンヘラ」のごとく扱ってしまうカテゴライズのミスから生じる不適切な接し方である。
逆に「メンヘラ」に対して、偏見のない、より正確な理解が広まれば、こういったカテゴライズのミスがなくなり、より適切な接し方がされるようになるだろう。これは「解放」だろう。
抑圧の1.で述べたことを繰り返せば、これは「寝た子を起こす」ことを良しとするアプローチである。
なお、この「正確な理解」という議論は次の「特別扱い」の議論に繋がってくる。

 

Ⅱ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなることに関して

メンヘラという言葉を使って大々的に活動をすることによって、多くの人にとって「メンヘラ」が身近なものになる可能性がある。それにより、「メンヘラ」に対する特別扱いがなくなる可能性がある。
特別扱いがなくなることには良い面も悪い面もあるので、細かく見ていこう。

まず、「特別扱い」とは具体的にはなんだろうか。一つにはそれは当事者も「してくれてありがたい」と感じる、正当な配慮・気遣いだろう。これがなくなってしまえば、抑圧の2.で述べたカテゴライズのミスという事態が生じる。

一方で、ありがた迷惑大きなお世話のような特別扱いや、自分から異質のものを遠ざけてしまって、気まずさを感じさせる特別扱いはむしろ問題だ。これはなくなった方が良いのではないだろうか。
メンヘラの話で言えば、「真のメンヘラ」とそれ以外との間にある明確な境界を超えて、ボーダーレスに、健常者と同じように扱われることは、むしろ当事者にとって気楽なのではないだろうか。これは最初の④の2つ目で述べた、マジョリティとマイノリティの同一性を強調するアプローチである。
そして、「特別扱い」をされなくなれば、当事者自身が「特別性」の"檻"から解放される。もちろん、病気の人が特別扱いをされなくなったからといってその病気が治るわけではないが、自ら特別性を獲得するために自分から「メンヘラ」として振舞うことはなくなるのではないだろうか。別の言い方をすれば、「疾病利得に甘える」ことはなくなるのではないだろうか。このことは、後に述べる「特別性への依存」の話と真逆の問題である。
また、似た議論ではあるが、特別扱いをされなくなれば、「メンヘラ」という"弱者の座"に甘えることもできなくなる。"弱者の座"に甘えるとは一言で言えば、自虐によって自分の立場の正当性を主張することである。言い換えれば、「頑張らなくていい理由」を周囲に説明できるということである。これについては、べとりん氏東大「Twitterサークル」研究会のブログに詳しい↓

 

ねじれた階級闘争 ―「弱者」の座を巡ってー(全5回)


弱者の座に甘えることが良いのか悪いのかは微妙な問題である。べとりん氏が挙げる例にある「劣等感」のようなものは、改善可能性が高いだけに、弱者の座に甘えていてはいけないかもしれない。一方で、重篤な精神疾患などのように、改善可能性が低ければ、甘えるもとい、休むことも必要だろう。(「うつは甘え」という言葉があるが、これは精神疾患への無理解からくる偏見だろう)
ただ、「ファッションメンヘラ」に関して言えば、「メンヘラ」を自称して「メンヘラ」になろうとすることで本当に「メンヘラ」になってしまうこともあるので、"弱者の座"に甘えることの問題は更に根深い。だからこそ、「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなるという「解放」はより重要であるように思われる。

まとめると、「正当な配慮・気遣い」をしてもらいながら(良い意味での特別扱い)、健常者と同じように扱うべきところは同じように扱われる(良い意味でのボーダーレス化)という状態が理想である。

「『正当な配慮・気遣い』をしてもらいながら、健常者と同じように扱うべきところは同じように扱われる」……そんなムシの良いことが実現するかと言われれば難しいだろうが、解放のⅠで述べたように「『メンヘラ』に対する偏見が弱まって、より正確な理解をされること」でしか、その理想に近づくことはできないのではないだろうか。
というのは、おそらく「正当な配慮・気遣い」は偏見のない、より正確な理解があってこそのものだからだ。「メンヘラ」に対する正確な理解がないまま、「何かよく分からない異質なもの」を特別扱いするのは、「正当な配慮・気遣い」ではなく、「腫れ物を触る」という言葉がふさわしいだろう。

つまり最初に述べた「正当な配慮・気遣い」=「良い意味での特別扱い」≒解放のⅠ(「メンヘラ」に対するより正確な理解から生じる「適切な接し方」)ということである。この点で言えば、たとえ「メンヘラ」が多くの人にとって身近なものになったとしても、その分「正確な理解」があれば、「良い意味での特別扱い」は残るだろう。また、「メンヘラ」が身近になれば「変な特別扱い」の方こそがなくなっていき、「メンヘラ」当事者は気楽
に生活できるようになるだろうし、"特別性の檻"に縛られたり、"弱者の座"に甘えるということはなくなっていくだろうというのがこの「解放」である。


Ⅲ「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになることに関して

メンヘラの魅力に関しては、個人的にはそれこそいくらでも書けることがある(東大ダメ人間の会会長であるべとりん氏も「メンヘラの魅力考察」をしていて、B5用紙36ページに渡る大作だった)のだが、そこは議論が分かれるところでもあるので箇条書きするに留めておく。

・一つの物事に対する想いの強さ
・共感力の高さ
・特有のコミュニケーション形式(特に他人との距離感が独特)
・特有の思考形式(芸術などに昇華されることが多い)
……などだろう

代わりに、「オタク」という言葉のイメージを巡る変遷から類推してみよう。「オタク」という言葉にはマイナスイメージが強かった。それはマスメディアでの、宮崎勤の事件に対するコメントをはじめとするネガティヴキャンペーンが影響している。しかし近年では、「オタキング」を自称する岡田斗司夫を筆頭とするオタク側の頑張りもあって、肯定的なイメージも広がっている。これと同様に、「メンヘラ」にも肯定的なイメージを付与することは可能ではないだろうか。なお、これは最初の④の1つ目で述べた、マジョリティとマイノリティの差異を強調するアプローチである。

しかし、大きな問題もある。メンヘラが肯定的に評価されると、個々人の不安定な行動(言わばメンヘラ性)をエスカレートさせてしまうという問題(誰が一番メンヘラか競争みたいな)がある。私見では他者からの承認に依存しやすい傾向にあるメンヘラは多いので、もしそうならばこの問題は起こりやすい。えりみそ氏も似たようなことを述べていた。

 


これは、メンヘラが肯定的に評価されることで、かえってその特別性が強調され、特別性に依存してしまうという問題である。解放のⅡのところで述べた、ボーダーレス化によって「特別性」の"檻"から解放されることとは真逆の事態である。
この問題に関してはフォロワーのオマテキ氏のブログに詳しい↓ 正直、あまり配慮のない文章だと思うが、その分問題意識がはっきりしている。

 

メンヘラをネタにインターネットで人気者になることについて : 戦争だ、90年代に戻してやる



この問題に関しては当座のところ、個人的には「何事にも限度があるよね」としか言えない。周囲も限度を超えることを煽ってはいけない。「メンヘラ」を「肯定」するという言葉が良くないかもしれない。せいぜい「受容」するぐらいが適切かもしれない。今後考えていくべき問題だと思っている。

こういう問題があるので、一概には言えないところなのだが、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には「抑圧」と共に「解放」の要素がある。
ここまで述べてお気づきの方もいるかもしれないが、抑圧の1.、2.、3.、は、それぞれ解放のⅠ、Ⅱ、Ⅲと裏表の関係にある。そのことをまとめて表にして提示しておこう。

 

既存の「メンヘラ」という言葉の意味について正確に理解することによって:

抑圧1.従来のマイナスイメージが強化されて非難を浴びる

解放Ⅰ偏見が弱まって今よりも適切な接し方をされる

 

既存の「メンヘラ」という言葉が作る意味のカテゴリーとは違う意味づけをすることによって:

抑圧2.偏見から不適切な接し方をされる

解放Ⅱ「メンヘラ」が変な特別扱いをされなくなる

 

「メンヘラ」という言葉に新たな意味を付与することによって:

抑圧3.新たなマイナスイメージが生成される

解放Ⅲ 「メンヘラ」が肯定的に評価されるようになる

 

そして、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には「抑圧」ではなく「解放」を志向してほしいというのが私の主張である。ⅡとⅢについては微妙な問題もあるのだが、少なくともⅠについて、偏見をなくして「メンヘラ」についてより正確な理解をすることは重要だろう。

 

 

抑圧するのか解放するのか

では、メンヘラという言葉を使った活動が「抑圧」に寄与するのか「解放」に寄与するのか、それを分けるものはなんだろう。これはかなり難しい問題だと思うので、またもや一概には言えない。それは先ほどの錯綜した議論に現れている。「偏見をなくし、正確な理解をすることが重要だ」と解放のⅠで言ったものの、そもそも「メンヘラ」という言葉がバズワードである時点で、「メンヘラ」という言葉の意味はどんどん変化していくし、偏見もクソもないんじゃないかという問題もある。
また、「プラスイメージ」は偏見ではなく、「マイナスイメージ」は偏見であるという、誤った前提で考えていたかのように見えるかもしれない(そんなことはないのだが)。

しかし、難しい問題であることを承知の上で、これまでの議論を踏まえて3つほど提言する。

言葉への適切な理解

まず、「メンヘラ」という言葉を使って「メンヘラ」当事者を傷つけてはいけない。また、直接傷つけることはなくとも、不適切な言葉遣いによって「メンヘラ」当事者が傷つくような社会構造を再生産し、間接的に「メンヘラ」当事者を傷つけることがある。
これらを避けるためには、まず言葉の正確な理解が必要である。「メンヘラ」に密接に関わる領域として、精神疾患の知識はあった方が良いし、「メンヘラ」が「女性」と結びつきやすいことから男女差別に関するジェンダー論的な知識もあった方が良いし、言葉による差別がどういう構造で生まれるのかという知識(例えば「ポリティカルコレクトネス」に関する知識)などもあった方が良いだろう。
そして、正確な知識を持った上で、それらを適切に運用していく必要がある。「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動をする人たちの、少なくとも一部はこういう知識に精通している必要があるだろう。そして、その知識を適切に運用できるよう活動参加者に周知しておくべきだと私は思う。

多様性への配慮

最初の①で述べたように、また抑圧の2.の図で述べたように、「メンヘラ」という言葉の意味は曖昧で多義的で、様々な意味のカテゴリーを形成している。
だから、一口に「メンヘラ」と言ってもいろんな「メンヘラ」がいる。これらの内の特定の部分だけを強調するようなことは避けるべきだろう。でなければ、抑圧の2.で述べたようなカテゴライズのミスによって、「メンヘラ」に対して不適切な接し方をする人が増えてしまいかねないからだ。
この多様性に配慮している点において、私は「メンヘラ展」を高く評価している。
(詳しくは拙ブログ

メンヘラ展2について考えたこと - 落ち着けMONOLOG

を参照)

魅力の強調(ただし、取り返しのつかないことは避ける)

最初の③④で述べたように、「メンヘラ」という言葉にはマイナスイメージがあり、「メンヘラ」当事者はおそらくマイノリティである。だからこそ、解放のⅢで述べたように、その魅力を、肯定的な部分を強調することによって解放していくべきだと私は思う。
「メンヘラの魅力」は人によって様々であるので、どれを強調するのが良いとまでは私には言えないが、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には、「どういった魅力を強調するか」についてある程度あたりをつけておいても良いのではないだろうか。
ただし、解放のⅢで述べたように、個々人のメンヘラ性をエスカレートさせてしまう問題はあるので、そのあたりへの配慮、「やっちゃいけない限度」は必要だろう。

以上3つを挙げたが、誤解を恐れずに端的に言えば、「どうせ『メンヘラ』という言葉を使って活動するんだったらクオリティの高いことやってほしい」ということになる。

そして、この話が「真のメンヘラ」問題にも繋がってくる。「メンヘラ」当事者への適切な理解をしつつ、その多様な「メンヘラ」像を"多様なまま"表現する。そうすれば、「真のメンヘラ」当事者の納得度は高まるのではないだろうか。

 

「真のメンヘラ」問題について

はじめの方で述べた「真のメンヘラ」問題について、これまでの議論を使って決着をつけよう。この問題の解決へのアプローチは3つだ。

1つ目は、抑圧の2.で述べた「メンヘラ」の意味カテゴリー図を参考に考えていく。図では「軽度なメンヘラか重篤なメンヘラか」という軸を導入したが、このような"量的な"違いを理解することは一面では重要だが、それが全てではない。
カテゴリー図を縦に見れば分かるように、一口に「メンヘラ」と言っても"質的な"違いがあるのだ。うつにせよ
、パーソナリティ障害にせよ、解離にせよ、統合失調症にせよ、「みんなちがってみんな苦しい」という側面はあるだろう。自分が「真のメンヘラ」当事者であるからと言って、それらの違いを無視して「自分や、自分と同じ苦しみを抱えた人間だけが苦しいんだ」と主張するのは間違いだろう。

2つ目は、解放のⅡで述べた"弱者の座"の問題だ。「真のメンヘラ」が自分のメンヘラ性に甘えて、治療可能性を放棄することは問題だろう。また、メンヘラというものの性質上、「自分がメンヘラであるということを主張することが更にメンヘラを悪化させる」という側面が強い(例えば、自分の悩みを特別なものだと思い込んで思い悩むことが悩みを加速させることや、リストカットを実行することでリストカットへの依存を強めることなど)。
だから、自分は「真のメンヘラ」であると主張して"弱者の座"に甘える、または"特別性の檻"に閉じこもることには問題がある。かと言って、「うつは甘え」などと言った不適切な言説によって、「正当な配慮・気遣い」をしなくなることは問題なので、一概には言えないのだが。

3つ目は、「真のメンヘラ」当事者に対してではなく、他の人たちに対するアプローチである。先ほど、「メンヘラ」という言葉を使って大々的に活動する際には、「メンヘラ」当事者への適切な理解と「メンヘラ」の多様性への配慮が必要だと述べた。そうすれば、「真のメンヘラ」当事者の納得度も高まるのではないかと。
そして、それは活動者に限った話ではない。社会全体のより多くの人間が「メンヘラ」当事者への適切な理解と配慮をすることで、「真のメンヘラ」当事者も多少は納得していくことだろう。


述べた3つのことは重要であるものの、「真のメンヘラ」問題の決定的な解決とは言いがたい。依然として、「真のメンヘラ」が「自分のような真のメンヘラがいるのだから、ファッションメンヘラはメンヘラを名乗るな」と主張するのも正しいのかもしれない。


最後に~そもそも「メンヘラ」という言葉を使わなければいいのでは?~

メンヘラという言葉自体にマイナスイメージがあることから、そもそもその言葉を使うこと自体が差別的だと感じる人もいる。
だから、そもそも「メンヘラ」という言葉を使わない方が社会のために良いのではないかという主張もでてくるだろう。例えば「かたわ」や「白痴」などの言葉はもはや見かけること自体が少ないし、使う必要性がないと私も思う。
(参考:差別用語 - Wikipedia

一方で、最初の②で述べたように「メンヘラ」という言葉は興味を喚起しやすい。精神疾患のような堅い言葉では共有されにくいイメージも瞬時に共有されることが多い。
この「イメージしやすさ」は"武器"に転化しうる。「メンヘラ」という言葉が、またその他様々なバズワードが、差別の文脈を離れて様々な意味に変化しうる以上、逆にマイノリティが戦うための"武器"としてうまく利用していくのもアリなのではないだろうか。
もちろん、全てのバズワードが積極的に利用できるわけではないと思うので、そのあたりの線引きは熟慮していかなければならないだろうが。

*1:「正確な」という言葉と「適切な」という言葉を意図的に使い分けている。最初の①で述べたバズワードの話と、抑圧の2.で述べた意味カテゴリーの話を参照してほしいのだが、「正確な理解」という言葉遣いをするときは「現在における『メンヘラ』という言葉の意味をそのまま理解している」ぐらいの意味で取ってほしい。しかし、最初の①で述べたように「完全に正確な」理解はとてもできないので、「より正確な」という表現を使っていることが多い。
「適切な」という言葉遣いをするときは一歩進んで、「『メンヘラ』当事者が傷つかなかったり、社会全体にとってより良い結果をもたらしたりするような接し方になるような」ぐらいの意味で取ってほしい。