父親が死んだことについて

二日前に父親が死んだ。兄から電話がきて、兄は嘘をつくような人間じゃないことは分かっていたから、とりあえず父親が死んだという事実を認識した。しかし、現実感のない話だった。とにかくその場で一気にいろんなことを考えた。

 

父親は一言で言えば、神経質でコスパ厨な人だった。マイペースな母親に対していつも文句を言っていて(それこそ食事のときは3回に2回ぐらい文句を言っていたように思う)、僕が何かしら失敗をするたびに口うるさく怒られた。僕は正直父親が恐いとも思っていたし、何か言いたいことがあっても言えなくなっていた。でも、母親は人の話を聞き流す能力の高い人だったから、精神的に不安定になることはなく、すごくバランスの取れた良い夫婦だなと思っていた。
コスパ厨に関して言えば、倹約家で、クーポンや無料券、割引、懸賞などの類が好きで、贅沢もあまりしなかった。パソコンが好きだったから、Windows95の時代からパソコンにはお金を使っていたし、家も建て替えてローンを組んでいたし、車も買っていたし、使うときには使う人ではあったのだが。タバコをよく吸う人で、酒飲みでもあるのだが、酒はそれこそ、昔は焼酎ばっかり飲んでいて、最近は安い赤ワインばかり飲んでいた。
いくつかエピソードを挙げよう。冷暖房の使用にはうるさかったし、僕があるときエアコンの暖房を使っていると、「室外機が凍っていてエネルギー効率が悪くて電気代が高くつくから、これを使え」という旨のことを言って石油ストーブを部屋に持ってきたことがある。そういえば、風呂に入れと言われて、「明日家出る前にシャワーするからいいよ」と言ったら、湯船にある湯の熱がもったいないという文句を言われたこともあった。
最近はテレビをよく録画して1.3倍速で観ていた。通常で観るのはコスパが悪いようだ。キーボードもかな入力だった。それはコスパ厨関係ないか。
極めつきはよく笑い話にしている「エクセル寿司」の話だ。家を出るのがしんどい祖父母と出前で回転寿司を食べることがよくあった。その際に父親はエクセルファイルをパソコンにメール送信してくる。エクセルファイルには横欄に家族の名前、縦欄に寿司ネタの名前があり、それぞれに例えばマグロ1 なっとう1 ……などと数字をつけると、合計何皿かが出るようになっている。そのファイルをまた添付して送り返す。それで父親は集計して注文し、印刷していた。このシステムによって家族みんなが好きなネタを好きな分だけ食べられるという寸法だ。あきんどスシローにおいてはセットの割引は本当に大したことがないので、この方法を取るのが合理的だった。そもそも、僕は三兄弟の末っ子なのだが、食べ物の量で不公平が生じるとケンカになるということが小さい頃は多少あったように思う。今にして思うとそこまでケンカは生じていないように思うが、神経質な父親は食べ物の量が均等になるように注意を払っていて、母親が割り切れない数の食べ物を出すと文句を言っていた。寿司に関して言えば、「エクセル寿司」が完璧なシステムだということだ。

 

そんな父親だったが、僕は父親に対して自分がやっていることを言えなかった。僕は今まで自分がやっていることに後ろめたさがずっとあったのだ。しかし、今や僕は自分の勉強していることや活動に自信を持ち始めているし、そろそろ両親にも話そうかと思っていた。あるいは、何らかの形で有名になることによって、立派な姿を両親に見せたいと思っていた。それが一種の親孝行になるとも思っていた。
しかし父親は死んだ。たとえ立派になってもその姿を見せるべき重要な相手である父親はもういない。僕はそれがたまらなく悲しかったし、なんで死んだのかと泣いた。そのとき近くに人がいたからすぐには泣けなかったけど、一人になったときに泣き叫んだ。
もちろん、物理的な支援がストップするであろうことも苦しい。残された母親や兄、祖父母などはどんな気持ちなのだろう。いろいろ想像するとまた悲しくなった。

 

とにかくその場をやり過ごし、次の日もやり過ごした。いくぶん気丈に振舞っていたが、どうもいろいろ考えてしまって身体が思うように動かなかった。プチ鬱みたいな状態だった。そして、今日の朝に実家に帰った。今日は葬式だった。

 

地元の駅に久々に帰って、けっこう長い間帰ってなかったことに気づく。元々1月3日はそれこそ「エクセル寿司」の予定だったので、帰る気だった。しかし、兄の電話を受けてそれはナシになったのだった。
実家に着くと母親が出迎えてくれた。母親はとてもつらそうだった。僕もすごくつらくなって涙が抑えられなかった。父親の死の原因を尋ねたが、不明だという。1月1日には父親からはメールがきていたのだ。2日の夜に腰が痛いと言って病院に運ばれ、痛み止め・点滴を打たれてもずっと痛みを訴え続けていたそうだ。「水が飲みたい!」と言ったそうだ。しかし、点滴中はもどしてしまうために飲ませることができず、脱脂綿を口に含ませるぐらいしかできなかったそうで、そして吐きそうになったかと思えば呼吸が停止したそうだ。人工呼吸をしても意識は戻らなかったとのことだ。
母親からその話を聞いて、兆候がなかったかどうかを聞いたが、耳鳴りがしていたり下痢があったりといったぐらいだったそうだ。本当に急死だった。初詣で階段をのぼったのが良くなかったのだろうか、もっと優しくしていたかったと母親は言った。母親のその調子がすごくつらかった。僕は実家に置いてある新聞を眺めてみたりしたけど、父親のことを考えるとどうしようもなくて泣くしかなかった。鼻水がすごく出てティッシュで鼻をかみまくった。父親は苦しんで死んだのだと思うと悲しい。僕自身も苦しくなる。せめて苦しまずに死んでほしかった。苦しんでいる父親を眺めていた母親はどんな気持ちだったのだろう。

 

久々に帰った家は父親の痕跡に満ちていた。最近の父親はよく家にいて、パソコンを触ったりテレビを録画で観たりしていた。父親は凝り性な人だったから、家の中で父親にしか分からないことはいっぱいあった。母親が「父親のやっていたことが自分には分からない」と言っていてつらかった。お父さんはなんでこんなに早く死んでしまったんだろう。

 

兄にはこれからのことを聞かれた。僕は家族とはできるだけ腹を割って話す覚悟で帰ってきたから、一応自分が今考えていることを述べた。僕は母や兄がいるところでも泣いてしまったし、まともに兄の顔が見れなかった。相手の気遣いに対して気遣いをしている/されているような、そんな感覚だった。

 

・兄の運転で葬儀場に向かったのだが、何か一つ一つの動作が神経症的に安全志向になっているように思えた。肉親の死はこれ以上見たくないという気持ちなのだろうか。

 

・葬儀場は山の上にあり、まさに俗世間から分離された聖なる空間という感じだった。葬儀自体もそのようだった。明確に日常世界から分離した作業が必要なのだと思ったし、僕は今まで葬儀をバカにしていたが、遺族のためには葬儀は必要なのだと肌で実感した。

 

・葬儀や告別式の儀式的順序はある意味神経症的でありながら、それほど神経質なわけでもないので、うまいこと神経症的な状態を解除する力があるように感じた。なるほど、葬式とはよくできている。

 

・父親の姉である叔母の家族がきていたが、いつものノリでうるさい感じだった。しかしそれが沈痛な雰囲気に対してはありがたかった。いくらか気分が和らいだ。しかし、そんな叔母や祖母も、葬式や告別式の場では感情を隠さずに泣いていた。なるほど、女性の方が感情を素直に出す傾向にあるのだなあと思った。感情を素直に出す人が場にいることはすごくありがたかった。僕も父親の死は本当につらいのだから、泣くことを抑圧したくはなかった。母親や兄は葬式を取りしきる責任感から少し抑圧していたように感じたが、父親の死の直後には既にけっこう泣いたのかもしれない。母や兄も明らかに疲弊していた。

 

・葬式で見た父親の顔は赤みがあり、普通に寝ているのと変わらなかった。死化粧の話を聞いたこともあるが、父親に対しては全然施されていない。ドライアイスだけだということだ。何も違わない。しかし、視覚情報には重みがある。僕は父親の顔や遺影を見て、やっぱり何回も泣いてしまった。

 

兄の父親に対する視点は僕とはけっこう違った。迷信的なこともけっこう言っていた。死んだ父親が今もそこにいるかのような話を叔母や母もしていた。母は父親のことを現在形で語っていたし、父親が生きている感覚で喋っていた。母親の中では父の死はまだ受け入れられていないのかもしれないなどと考えた。
僕は唯物論で考えるから、死んだら人の感覚や認識はなくなると考えてしまう。しかし、それはけっこうキツい考え方だ。葬儀は仏教式だったが、仏教的な世界観において、死者が旅立っていく。そんな風に考えた方が、死を受け入れるのはやりやすい。みんないろんな考え方をしている。

昔、友人が「誰かが死ぬと、死んだ人の周りの人たちが階層化されてしまう」というようなことを言っていた。図で表すとこんな感じだろう。

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人間はコミュニケーションをする上で、共感することがある。一方で、テレパシーのようなものはないのだから、他者の体験を完全にトレースすることはできない、すなわち本質的には分かりあえないということもある。そのような共感可能性という希望と、共感不可能性という絶望との狭間を揺れ動いている。人が死んだとき、共感不可能性という絶望は強調され、人々を断絶させるのだろう。僕には僕なりの父親の喪失体験があり、兄には兄なりの、母には母なりの喪失体験があるのだと思う。僕はこれからももうちょっとだけ腹を割ってその感覚を共有していきたいと思う。しかし一方で、相手の考えに口を出したり否定したりすることはなかなかできない。死者に対する思いというのはそういうものだと思う。

 

この記事を書いている間にもやはり泣いていたが、兄は「生きよう」と言った。また、兄は父の死に強く意味を見出しても、見出さなくても良いのだと言ってくれた。僕もそう思う。僕は「死」や「喪失体験」について深く考えたいという気持ちが強まった一方で、父が死んだからといって自分の人生をねじ曲げるつもりはない。自分を強く持ちたいし、それこそが父への恩返しにもなると信じたい。つまるところ、父の死を経たからこそ、僕は前向きになれるよう努力するのが良いのだと思う。

 

これは、父のことに限らない。前に僕にとって大事な人が死んだことがあったが、その喪失体験は僕の人生に強く影響を与えた。僕の人生・進路は大きく変わったように思う。それを呪いのように感じることも少しはあるが、こう言うととても嫌な言い方になるが、その死に感謝してもいる。あの死のおかげで僕はいろんな方向に進めたし、いろんな仲間に出会えたのは事実だ。


「あの挫折があったからこそ今の自分がある」、そういう物語を紡いでいくしかない。それが僕のこれからです。

 

追記:

そういえば父親は僕のTwitterとかブログとかを見ていたそうです。言ってくれれば良かったのに。こういうとき、多くを語らない男性ジェンダーって損だなあとか思います。

あと父親はすごく勤勉な人でした。資格を取るためにいろいろ勉強していた父の姿を思い出します。それは誇っています。それも込みで、本当に良い父親でした。

「男根のメタファー」とは何か?――フロイト『精神分析入門』第10講の要約から

吹奏楽器が男根のメタファーだという論理から、『響け! ユーフォニアム』というアニメ、ひいては日本のオタクカルチャーを児童ポルノ的であるとして批判するツイートが話題になったらしい。

news.biglobe.ne.jp

 

本人のツイートが本人によってまとめられている↓

togetter.com

 

「男根のメタファー」という言葉のキャッチーさから、未だにネタとして拡散されているようだ。

この「○○は男根のメタファー」と、なんでもかんでも男根のメタファーにしてしまう論理を世に知らしめたのは、精神分析の創始者であるS・フロイトだと一般的にはされている。

しかし、はたして本当にそうだろうか。僕は学部時代精神分析を専攻していて、特にフロイトについては一家言ある。良い機会なので事実確認をしておきたい。

 

「○○は男根のメタファー」の初出は?

フロイトは人間の「無意識」について明らかにするために「夢」と「錯誤行為」と「神経症」を研究した。夢についてフロイトは、「夢判断は、人間の心の中にある無意識的なるものを知るための王道である」と『夢判断』(1900年)で述べている。

そして、この『夢判断』がおそらく「○○は男根のメタファー」の初出だ。内容は後に述べるが、目次には「夢における象徴的表現――続・類型夢 (一)男子(性器)の象徴としての帽子 (二)小さなものは性器である――車にひかれるのは性交の象徴である (三)」等々、とある。

ここからそのまま引いてもいいが、具体的な夢の実例も入ってくるので入り組んでいる。文庫版の高橋訳ので70ページぐらいある。しかも実例の検討に入る前に「これよりはるかに詳しい夢象徴の説明を私は『精神分析入門講義』(一九一六年―一九一七年)中に試みておいた」とフロイトは述べている。ということで、おそらくより分かりやすく詳しい形になっているであろう『精神分析入門』の方を当たる。

 

精神分析入門』第10講「夢の象徴」の要約

さて、本題。とりあえず夢の象徴について述べている『精神分析入門』の第10講を要約する。

 

連想と象徴

夢の分析とは、夢を見た人の連想を聞くことによって、夢の顕在的内容ではなく潜在的内容を明らかにすることである。

(夢の潜在的内容は無意識へと抑圧されているため、直接夢には出てこない。潜在的内容は一種の検閲を受けて内容を歪められ、顕在的内容となる。この顕在的内容について人は「夢を見たんです」と言うわけだ。
そのため、夢を解釈・翻訳することによって、夢の潜在的内容、すなわち「真の内容」を明らかにすることが夢分析の仕事になる)

 

しかし、夢を見た人は、夢の個々の要素について連想が浮かばなかったり、いくら強制しても分析家が予想しているものが得られなかったりすることがある。このとき、個人的な連想では明らかにならない、決まった「顕在的内容潜在的内容」の二項関係のパターンがあるのではないかということになる。この決まった関係を「象徴的」関係と呼ぶわけである。

 

「象徴」があれば、夢を見た人に質問をして、どういう連想が浮かぶかを掘り下げなくても夢を解釈できると思うかもしれない。これは「夢占い」をする人の一種の理想なわけだが、そこにフロイトは批判を加えている。以下引用。

このような技巧は、夢占い者を得意がらせ、夢を見た人の度肝を抜くに違いない。夢を見た人にいちいち質問を浴びせかけていくあの厄介な仕事に比べると、今度の仕事は何と気持ちがよいだろう。しかし、諸君は、このために堕落してはならない。芸当をするのが、私たちの目的ではない。すなわち象徴は自由連想の補助で、象徴からひき出された結果は自由連想と併用したときだけ有効になる。

つまり、「象徴」は自由連想による夢分析をした後になって初めて有効になる

これは強調しておくべきことだろう。というのも、このことから、少なくとも個人の無意識に対する分析においては、なんでもかんでも男根のメタファーにしてしまうのは、この「連想」のステップを飛ばしている以上、有効性が薄いということが分かるからだ)

 

象徴によるメタファーの性質

象徴関係の本質はメタファー(比喩)である。しかし、この比喩は何でも構わないわけではない。①ある物やある現象に比喩できるものが全部が全部夢の中に象徴として現れるのではない ②夢はすべてのものを象徴化せずに、夢の潜在観念のある要素だけを象徴化する という二方面からの制約があるという。

奇妙なことに、夢を見た人自身はそのメタファーに気づいていなくて、知らないクセにその象徴を利用している。しかも、何のメタファーになっているかを夢を見た人に提示すると、それを認めないことがある。

 

具体的に使われる象徴

フロイトは夢の中に象徴的に描写されるものはあまり多くないということを述べており、10個ほどしか挙げていない。象徴によって表現される夢の潜在的内容⇒顕在的内容のセットのリストを以下に挙げると、

①身体全体

⇒家。壁が滑らかな家は男性身体の象徴で、突き出ているところやバルコニーがあれば女性身体の象徴。

②両親

⇒皇帝、女王、王、王妃などの偉い人。敬虔な夢になる。

③子ども、兄弟姉妹

小さい動物や毒虫。優しく扱われない。

④分娩

⇒水。水に飛び込むとか、水中からはい上がるとか、水中から人を救うとか、水中から人に助けられるなどといった感じで象徴される。すなわち、母と子宮の中の子どもとの関係を象徴化している。

⑤死

⇒旅立ち、鉄道旅行。暗い、びくつくような暗示がある。

⑥裸体

⇒着物や制服。

⑦性生活、性器、生殖現象、性交の世界

フロイトは大量に列挙している。

狂ってるレベルに列挙されてるので、ブログの末に小さい文字で付録として、全部挙げておく。

 

象徴の源泉

とにかく、性の象徴はものすごく多い。それに関してフロイトはこう述べる。

 以上が夢の象徴を研究する上の材料だが、これだけでは決して十分でない。さらに深くし、拡げなくてはならない。しかし諸君にはこれだけでも十分だし、がっかりされたことと思う。諸君は「まるで性の象徴にかこまれて生活しているようですね。私をとりまいている物、私の着ている着物、手に持っている物、これらはみんな性の象徴にほかならないと言うんですね」と、質問されるだろう。諸君が不思議に思われるのももっともだ。そして諸君の疑問の第一はつぎのことだろう。すなわち「夢を見た人自身ぜんぜん知らないのに、先生は一体どこからそのような象徴の意味をお知りになったのですか」

(もっと根本的な疑問がある気がするが)ともかくフロイトは、それに対しておとぎ話、神話、冗談、しゃれ、民間伝承、風俗、慣習、言語、民謡、詩のことば、俗語を源泉としていると述べる。そして、実際にそれらの例をフロイトはいくつも挙げる。ドイツ語話者じゃない人の例も出して、母語に因らないことも示唆している。

このことから、作品解釈において、「象徴」の解釈をすることには一定の有効性があるとは言えるだろう。しかし、その解釈の妥当性を検討するのは難しいと思う。何をもって妥当とするかにもよるんだけど。

 

結論

フロイトは最後に4つの結論を述べる。

①夢を見る人は、起きているときには知らない象徴をその夢の中に表現する力を持っている。この象徴はすでにあるものであり、人種や言語が異なっても同じである。

②象徴関係は夢に固有のものではない。むしろ、夢に使われる象徴は、大きな象徴の世界の一部分に過ぎない。

③夢ではほとんどの象徴が性的な事物や関係を表すのに用いられている。

④夢の象徴は夢を歪ませる第二の因子である(第一はフロイトが「検閲官」という比喩を使って述べるものである。後期フロイトによればそれは「自我」である)。

 

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さて、以上が要約だ。夢における象徴はほとんどが性的であるということをフロイトは述べているが、その根拠がそこでは必ずしも明確にはされていないことは驚く。

僕もそこまでフロイトをきっちり読み込んでるわけではないので、間違ってるかもしれないけど、フロイト精神分析学の体系において性が重視されるのには一応それなりの根拠がある。精神分析学の知見は、フロイトの医者としての臨床経験から導き出されたものであるというのがその根拠だ。

しかし、その臨床経験に代表性があるのかどうかという問題もあるし、また、解釈は多分にフロイトのバイアスがかかっているということ(それこそフロイト自身の「無意識」が働いているのではということ)はどうしようもない事実だろう。だから、フロイトの体系はフロイトの思弁によって生み出された「哲学」(科学ではない)の体系であると考えることも可能だと思う。

ただ、思弁だとしてもフロイトの議論には説得力があると思う。あらゆる現象を幼児期のエディプスコンプレックス(異性の親と結婚して、同性の親を殺したいという願望)と、その抑圧から捉えていくというスタイルは、強い説明力がある。それによって人間の欲望や精神、性格などはもちろん、倫理や文化、宗教にまで説明が及ぶ。

 

ところで、下の付録をよく見ていただくと書いてあるが、今回問題になった「楽器の演奏」は「自分の性器で満足を得ること」の象徴だとフロイトは述べていた。なるほど、楽器が男根のメタファーだというのも、象徴に限って言えばそのとおりだ。

また、楽器を口でくわえることがより男根の象徴としての条件を満たしていると述べられているが、これは、フロイトの性理論で言えば「口唇期」を思い出させる。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸って満足(快)を得るのだが、この時期にリビドーが固着すると、口唇期的なパーソナリティ(おしゃべり、タバコ好き、また、依存的など。)になるとフロイトは述べる。「リビドーが口唇期に固着する」というのは具体的に言えば、「口唇期に十分にリビドーが満足されなかったり、逆に過剰に満足させられたりすることによって、発達段階において口唇期が重要な位置を占めた」ぐらいの意味で捉えていただければよいだろう。

また、唇が主要な性感帯になる(キスが代表的)のもこれが理由である。口唇期の固着が強い人は、キスの好き嫌いが特徴的になる、などと言えるだろう。

 

もっと言えば、「男根のメタファー」っていうときに、「楽器が男根なわけないだろ」みたいな反応をしている人がいるけども、それは当たり前だ。

フロイトに対する精緻な解釈で知られるフロイトの後継者J・ラカンは、解剖学的な男根(ペニス)と象徴的な男根(ファルス)を明確に分けて解釈した。フロイトが「去勢コンプレックス」という概念を唱えた際に、必ずしもこのペニスとファルスを明確に分けられていなかったのに対して、「ファルス」についてのラカンの理論はフロイトの理論を守りつつ発展させる非常に強力なものだ。

「○○は男根のメタファー」と言ったときに、その男根を「ファルス」として考えれば、主張の妥当性はともかく、論理としては筋が通る。まあ、ラカンの理論はあんまりちゃんと分かってないのもあるし、今回は割愛で。

 

楽器は男根のメタファーか

最後に、これまでの議論を踏まえて今回の件に自分なりに決着をつけておく。今回の件は夢の解釈ではなく作品解釈の話なので、ちょっと勝手が異なる。個別の作品には個別の作者と個別の鑑賞者がいる以上、

①作者が「男根のメタファー」として「楽器」を用いたか。また、それは意識的にか無意識的にかという問題と、

②ある鑑賞者にとって楽器が男根のメタファーとして機能し、児童ポルノとして解釈できるかどうかという問題

がある。

 

①については、厳密には作者の無意識を分析してみないことには分からない。具体的には自由連想法を使わないことには分からない。

ただ、ありうるパターンは三つで、

A:たまたま「男根のメタファー」に見えるように作品が現れてきただけ

B:作者の無意識の働きによって男根のメタファーが使われてしまった

C:作者が象徴について知っていて、意識的に男根のメタファーを用いた

ということになるだろう。 

 

②については、鑑賞者が象徴について知っていて、その象徴による解釈を使う際には割と妥当するだろう。しかし、そのパターンはそこまでないと思われる(なぜなら、そんなアクロバティックな解釈をわざわざ普通の人はしないから)。

 

むしろ、メタファーが無意識に対して働きかける作用の方が重要だろう。鑑賞者が「これは児童ポルノ」だと意識していなくても、無意識下では児童ポルノとして「機能」し、「連想」として性的なものを感じる可能性はある。

そして、ラディカルフェミニズムなどが問題にするところの「女性に対する抑圧」の構造や、児童への暴力性が刷り込まれるという可能性もある。

その可能性を見抜いた西洋人が、「これは児童ポルノだ」と扱うのだと件の人は主張しているのだと思われる。

 

 

以下余談。

久美さんの主張を更に掘り下げてみる。

ユーフォニアム」に関しては西洋人は「児童ポルノ」とはみなさないと思う。一方で、問題にすべきなのはむしろ「無意識下への刷り込み」の方なんじゃなかろうかと、別の観点から擁護してみる。というのも、露骨なエロや児童ポルノだったら、規制がかかる上に鑑賞者の方も忌避するだろうから、そこまで発展はしない。

しかし、「ユーフォニアム」のように性的な要素が脱臭されていると、「別にエロ目的ではない」という言い訳(防衛機制の抑圧や否認にあたるだろう)をしながら視聴できる。言い訳によって、性的な要素が、ひいては問題のある暴力性が密輸入され再生産されうるということだ。

また、「たかが子ども文化じゃないか」と済ませられることで、大人の監視の目をすり抜けてオタク文化が隆盛したという久美さんの主張は多少は説得力を感じる。ただ、むしろ僕としてはこれも「子ども向け」なのをいいことに、生々しさのない安全なエロが志向されているという風に考えるのが妥当かなあと思う。「児童ポルノ」が志向されるのもそういうことだと思うし。

つまり、無垢ゆえに拒否もせず、抵抗の力もない児童は安全圏から手を出せるのでポルノの対象として好都合であるということと、フィクションゆえに裏切らず、生々しいエロを想起させない(特に「日常系」などの)萌えアニメの安全性は対応しているかもね、ということ。

まあ、だからと言って、アニメを規制しろという結論には僕はならんけどね。フロイトの知見からも分かるように、性的なものはそこかしこに遍在しているし、禁止することが欲望を生み出すという側面もあるわけだし。

 

 

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 【付録】

☆男性器

・数字の3(神聖な数字)

・長い突き出たもの:ステッキ、傘、棒、木、鉛筆、ペン軸、ハンマー、爪やすり

・身体の内に入ったり、身体を傷つけるもの:ナイフ、短刀、槍、サーベルのような武器。火器、大砲、ピストル、連発式拳銃(陰茎と形が似ている)

・水を出すもの:蛇口、じょうろ、噴水

・長くなることのできるもの:釣りランプ、シャーペン

・重力に対して立つ(勃起)ことができるもの:軽気球、飛行機、「飛行」そのもの

勃起を象徴した飛行の夢は、女性には陰核(小さい陰茎)があるから、女性にも成り立つ(夢は願望充足であるのだが、女性には男性になりたいという願望が意識的にも無意識的にもよくあることを思い出してほしい)

男性器の堂々たる仕掛けは、表現しにくいほど複雑な機械で象徴される

・爬虫類と魚類はよくわからないが男性器の象徴。特に蛇が有名

・帽子や外套

・手とか足とかも含めてもいいかも

 

☆女性器

・中に空洞があるものや中に何かを入れることができるもの:穴、くぼみ、洞窟、ビン、カン、箱、トランク、長持、ポケット、船、カタツムリ、貝、宝石箱、靴、スリッパ

・外陰部よりも子宮に関係していることが多い:たんす、かまど、部屋。部屋は家(身体の象徴)に結びつくが、戸や戸口は膣の象徴である。

・原料:木材、紙

・それらの原料から作られたもの:テーブル、本

・身体の部位のうち、口

・建物のうち、教会、礼拝堂

・女性の陰部の複雑な地形は岩、森、水のある「風景」として描写されることが多い

☆乳房⇒大きな半球:リンゴ、桃、一般に果物。

☆両性の陰毛⇒森、草むら

☆愛人⇒宝石や宝物

☆性の享楽⇒美食

☆自分の性器で満足を得ること⇒いろいろな種類の演奏、ピアノの演奏

☆自慰⇒滑る、木を引き抜く、歯が抜ける、歯を抜く(「抜く」という俗語表現はドイツ語にもある。また、自慰の刑罰としての去勢を意味してもいる)

☆性交

・リズミカルな活動:ダンス、乗馬、登山

・追い詰められるような暴行の経験

・手仕事

・武器(男性器)での脅迫

・のぼるもの:はしご、坂、階段(性交の律動とのぼるときの律動が対応。また、高くのぼるにつれて興奮が増し、呼吸が困難になることも共通している)

☆男性女性の区別のない性器一般

・小さい子ども、小さい息子、小さい娘

・「男性」が女性器の象徴に、「女性」が男性器の象徴に使われることがある

☆男性⇒頭にかぶるもの:帽子(女性を意味することもある)、オーバー(いつも性に関係があるわけではない)、ネクタイ(だらりと垂れていて、女性が身に付けない)

☆女性⇒白いシャツ、リンネル

 風景が外陰部の描写であることはすでに述べたが、は陰茎の象徴であり、はしばしば外陰部の象徴である。果物は子どもを意味しないで、乳房を意味する。野獣は肉欲にもだえる人間とか、さらに悪しき本能や情熱を意味する。は女性器を示し、とくに処女性をあらわしている。諸君は花が実際植物の性器であることを忘れていられないだろう。

 すでにお話したように、部屋は象徴である。この象徴はもっと拡大できる。たとえば窓、部屋の入り口、出口は体孔を意味している。部屋を閉めること部屋を開けることも象徴で、部屋を開ける鍵はたしかに男性の象徴である。

 なんでもアリやんけ。

 

[引用文献]

『夢判断』については新潮文庫の高橋義考訳(1969)を参照しており、筆者が一部改訳している。

精神分析入門』については角川文庫の安田徳太郎・安田一郎訳(1970)を参照しており、筆者が一部改訳している。

ライブで初めて"ノる"ことができた話

家でダラダラ過ごしてたら同居人が

「ライブ行こう」

と言いだした。僕は「ライブ」というものが苦手だった。それは率直に言えば"ノる"ことができないからだ。

今まで、たまたま声優のライブに行ったことが何回かあったが、"ノっている"人たちや「一体感」や「共振」みたいなものが目の前につきつけられて、どうも引いてしまう。第三者的な視点になって、その光景を外から見つめてしまい、没入ができないのだ。

 

「面白いよ」と言われたので渋々行くことに同意し、そして、大阪にあるライブハウスに着いた。いわゆる「ハコ」だけど、どれくらいの大きさが相場なのかは知らないし、大きい方だったのか小さい方だったのかはよく分からない。とにかく、今までに行ったものに比べると小さい場所だった。ワンドリンクつきで2000円。

しかし、そこに向かう途中で運悪くサンダルを踏まれてしまい、サンダルの鼻緒(?)が切れてしまっていた。だから、ライブが始まる前は裸足になってみた。地面の振動がじかに感じられるし、音を聴く姿勢としてはアリかもしれない。

 

そして、ライブが始まった。3つぐらいのバンドが出てくるだけだと聞いていたが、実際には4つだった。パンクバンドのライブと聞いていたが、1つ目に出てきたバンドは明らかにパンクバンドという感じだった。僕もそういうのは詳しく知らないが、漠然とイメージするパンクバンド像にぴったり入ってくるようなパンクバンドだ。

裸の上半身に文字を書いたボーカルがステージ上を縦横無尽に走り回りながら歌う。時にはステージ上から降りたり壁にぶつかったり懸垂をしたりとなんでもアリな感じだ。一応曲名を紙で全部出してくれていて、曲名は分かったが、それもまさにパンクっぽい感じだった。例えば、『人が集まるとロクなことがない』みたいな曲名で、露骨すぎたり直球すぎたり。4つバンドがあったけど、どれも味があって良かった。こういう世界があるのだなあと感じられたのは良いことだと思う。

 

さて、僕は"ノる"ことができないからライブが苦手という話だった。しかし、今回は初めて"ノる"ことができたように思う。

というのも、今まで行ってきたライブと違う部分が今回は3つあった。

①アルコールを多めに摂取していたこと(始まる前に1杯飲み、途中でもう1杯飲んで多少酔っていた)

②音がうるさかったこと(耳の聞こえ方がしばらく変になるぐらい音量がデカかった。歌詞もほぼ聞こえないし)

③ノりすぎている観客がいなかったこと(オタクのライブに行くとオタ芸してる奴らとかいるわけだけど、そういうのとは全然違ってだいたいみんな体や頭を揺らしているだけだ)

 

この3つの条件がうまく作用してくれて僕は"ノる"ことができた。ここからは具体的にどういう手法で"ノる"ことができたかを説明する。これはライブでどうも第三者的になってしまって"ノる"ことができない人や、もっと一般的に「外から物事を見つめてしまって、没入できない」という人にも参考になるように思うし、有益な情報っぽい。

 

どうやって"ノる"ことができたか

"ノる"ことのできていない状態の大きなものとして、「余計な考えがどんどん浮かんでくる」、「自分がハタから見て今どんな状態かに意識がいってしまう」といったものがあるだろう。つまり、「余計な考え」や「自意識」にどう対処すればいいのかという問題だ。

これに対して、まず①酔っていたことがあったので、ある程度「自意識」(自分が他人から見て今どんな状態かが気になる)は吹っ飛んでいた。

更に②音がうるさかったことのおかげで、歌詞が聞こえなかったし、演奏の音だけに集中できた。歌詞は言語情報なので、どうも「感じる」ではなく「考える」の方向に向かいがちだ。それが、聞こえないのは逆に"ノる"分にはありがたかった。

そして③ノりすぎている観客がいなかったことも挙げられる。これは微妙なのだが、「ノりすぎている」人がいたら温度差についていけなくなるし、逆にノっている人が誰もいなかったら、自分だけノるのが恥ずかしいみたいな自意識の問題が生じる。だから、適度にノってる人もいたぐらいで、観客のバランスがちょうど良かったのがありがたかった。

 

このような条件が揃っていたために、かなりノりやすかった。そして、たまたま思いつきで、僕なりの工夫が4つあって、それもぴったりハマった。これらも便利なので、ぜひ読者にも機会があればやってみてほしい。では、工夫の1つ目↓

一、誰か1人に感情移入する

バンドというのはだいたい3人とか4人とかいたりするものだ。それら全体が作り出す音楽に"ノる"というのが僕にはどういうことなのかよく分からない。

しかし、僕は誰か1人にであれば感情移入することができる。今、この人に感情移入しよう!というのを1人定めて、そこに入り込んでいくのだ。

これによって「第三者視点」を払拭することができる。言わば「第一者」になれる。三人称の「彼ら」から一人称の「私」になれるのだ。

具体的な話を更に下で展開していこう。

 

二、動きごと真似る

感情移入って言っても何すりゃいいんだ、ということもあるだろうが、それは端的に言えば「その人になる」ということだ。では感情移入相手として誰を選べばいいかということだが、オススメはドラムだ。普通はボーカルかもしれんけど、僕はドラムをオススメする。なぜか?

それは、ドラムが一番大きく動いているからだ。ドラムは常にスティックで叩いて脚で踏んでいる。それを動きごと真似るのだ。自分も手や脚を動かして、架空のドラムを叩いてみよう。膝の関節なども含めて、全身を動かしてみよう。

すると、動いていることによって集中が高まっていく。まさに"ノる"状態になっていく。"ノっている"状態にある人の身体は常に動いているものなのだ。

そしてこの「真似」はもっと徹底できる。次の工夫。

 

三、声を出す

よくあるライブでは「ハイハイハイハイ」みたいな掛け声が入ることがよくある。僕はそれも苦手だ。リズムに上手く合わせなきゃいけないし、何故か知らないが掛け声のルールが暗黙に決まっている感じがある。

しかし、先ほどの感情移入の方向でいけば、ボーカルに感情移入する場合を考えてみよう。ボーカルは歌っている。その声の出し方も想像してそのままやればいいのだ。そして何より音のうるさいライブハウスだった。声を出していたところで周りに聞こえはしない。僕はボーカルに感情移入するのもあったが、「ウーーーーーーーーーーーー」とか「アーーーーーーーーーーー」みたいな声を出したいときに出していた。身体の動きを徹底するのであれば、声を出すこともアリなのだ。これで更に没入度が高まる。

 

四、浮かんでくる考えに身を委ねる

それでも「余計な考え」はどうしても生まれてくるのだ。ドラムに没入していたとしても、ギターの方が気になったりする。観客の方が気になったりする。動いている自分の動きが変じゃないかと思ったりする。自分の着ている服や自分の髪型が気になったりする。喉が渇いたりする。トイレに行きたくなったりする。演奏している人の見た目、今何を考えているかなんかが気になったりもする。

しかし、それはそれで良いのだ。そういった考えを抑圧して「音楽に集中しなきゃ」となってしまうと余計に考えが浮かんできて、没入できなくなる。

だから、僕は浮かんでくる考えをそのまま受け入れた。ギターが気になったらギターの方に感情移入の対象を変えてみる。観客が気になったら観客の方にも感情移入してみる。自分のメガネがうっとうしくて外したり、視界がボヤけるのがうっとうしくてまたかけたりみたいなことを抑圧せずにやる。ふと熱が冷めたと思ったらそのまま受け入れて後ろに下がって椅子に座る。また自分の中で盛り上がってきたら立ち上がって動く。

僕に限らず、注意が持続せずいろんなものにすぐ気を散らされてしまうタイプの人間はけっこういるだろう。そういう人こそ、この浮かんでくる考えに身を委ねるをやってみてほしい。動きに連続性は必要ない。その場で思ったことをその場でやって、また違うことが浮かんだらそのとおりにやったらいい。

 

***

 

演奏している人たち、観客の人たち、そして自分を見ていて思ったのは、それぞれの人にそれぞれの「自己陶酔」があるということだ。

「一体感」や「共振」なんてものはいらない。人は本質的には分かり合えない。だからこそ、開き直って自分なりの自己陶酔をしてしまえばいいのだ。そうすることで"ノる"ことができた。

少しは「ライブ」が好きになりました。

対メンヘラ会話法~「ちゃんと話聞いてますよ感」の出し方~

0.はじめに

僕は不安定になっている人(おそらくメンヘラ的な人)とSkype通話や対面で会話するのが好きです。特に、会話によって相手の不安定さが解消されたと感じるとたまらなく気持ち良いです。脳内物質ドバドバです。僕はメサイアコンプレックス(救世主コンプレックス。他人を救うことによって、自分が救われたいみたいな人)なので、そういうのが大好きなんですね。

まあそういう快楽目的でもいいんですが、不安な人の不安が解消されるのは社会的に良いことです。たぶん。で、僕の周りに不安定になりがちな人(だいたいメンヘラ的な人)がどんどん増えてきているので、僕だけの手では回らなくなってきました。そこで、僕みたいなタイプの人がもっといっぱい増えて欲しいなぁと思い、僕のやってるコミュニケーションを公開しようと思った次第です。

みなさんもこのコミュニケーション技法を使って、相手は不安を解消、自分は気持ち良くなって、WIN-WINを目指しましょう(ムチャクチャだ)。

 

※メンヘラをバカにする記事ではありません。僕はメンヘラ的な人もそうでない人も一人の人間として尊重します。この記事を読む人にもそうあってほしいです。

あとこの記事は素人がカウンセリングをするのを勧める記事でもありません。精神に不調を感じた方は、ちゃんと心療内科なり精神科なりに行くのを勧めます。

 

1.目標

目標はズバリ、「相手をスッキリさせること」です。基本的にはこちらからは何も言いませんし、間違っても相手を自分の思い通りに支配してはいけません。つまり、アドバイスなどは基本しません。しかし、自分の意見を述べるぐらいは場合によってはアリなので、そのあたりは次に述べます。「何も言わないで会話が成り立つのか!?」と思う人もいるかもしれません。しかし、「相手をスッキリさせること」が目標なので、相手が喋りたいことを喋り終えたらそれで実はミッションクリアです。だから聞いてるだけでいいんです。

「聞いてるだけでいい?、それだったら壁にでも話しとけよ」と言う人もいるかもしれません。案外そうでもありません。人は誰かに話を聞いてもらいたい生き物です。壁に話すのと誰かに話すのでは「スッキリ度」が雲泥の差でしょう。例えば、ツイッターで構ってちゃんツイートや病んだツイートを繰り返している人も大体、話を聞いてほしいけど特定の相手がいないという人でしょう。

ということで話を聞くことが大事です。つまりはカウンセリング的なコミュニケーションが目指すところであり、カウンセリング用語で言うところの「受容と傾聴」ってやつをするわけですね。

 

2.具体的な技法

ここからは具体的な技法に入ります。「やっちゃいけないこと」は3で書くとして、ここではぜひやるべきことを書きます。ちなみに一対一の会話が前提です(念のため)。

 

2.0.思ってもいないことは言わない、思ったことだけを言う

最初に心構えとしてなんですけど、思ってもいないことは言わない、ということは基本的には大事です。お世辞とかはヘタな人はバレちゃいますからね。自然な嘘をつきとおせるという人ならいいかもしれませんけど、あんまりそういう人はいませんから。他のところで本音を言っちゃって、なぜか本人に伝わるみたいなこともよくあることです。長期的に見ると嘘をつくのは得策ではありません。

しかし、思ったこと全部言っていいかと言ったらそれは違います。誰だって悪口は言われたくありません。地雷を踏まれたくはありません。そういうのを避けるのはマナーでしょう。

 

2.1.質問の前の信頼形成

自分から勝手に自分の話を(しばしばマシンガントークで)してくれる不安定な人もいますが、半分ぐらいの人は自分からは話してくれないです。相手から言葉を引き出すためにはうまいこと質問しなきゃいけません。しかし、話題の切り出し、これが一番難しいんですよね。オーソドックスなコミュニケーションだと、誰にでも通じる話題から、徐々にお互いが知っている話題(共通の知人や共通の趣味など)へと入っていくのが良いと思います。

それでもまあいいんですが、今回は対メンヘラなので必殺技だけ教えましょう。それは「○○さん(相手)に興味があるんですけど」と直接言うことです。しかし、心構えでも言ったように、ちゃんと本当に興味があるときだけに言いましょう。嘘くさくなってはいけません。この後に「いろいろ質問していいですか?」と続いてもいいかもしれません。人はだいたい他人に興味持たれたいものなんで言っておいて損はないです。ただ問題はその興味が「下心」だと思われないようにすべきですね。下心だと思われないためには(キモいと思われないためには)スッと言えると理想です。

相手がインターネット上でアカウントを持っている人とか、共通の知人がいる人だったら事前に情報が仕入れられますので、そこから興味を持つことはできますね。そのあたりの情報を言った後に「~~さんから○○さんのことを聞いてて、○○さんに興味あるんです」みたいなことを言う感じですね。

 

2.2.質問&自己開示の返報性

さて、質問に入るわけですが、順番さえ変でなければ割とすぐに踏み込んで大丈夫です。ただ、一番最初が難しいんですよね。僕も趣味を聞いたり、普段何してるか聞いたり、といろいろするんですが、どうも具体的な答えが返ってこないので自分との共通点や自分の知ってる話が見いだせず、話が弾みません。「共通の知人」なんかは話題には便利ですが、それもあまりいないとしましょう。

最初のとっかかり(相手が何を好きかとか)が分からなくて漠然とした質問をしたら、相手も漠然とした答えしか返してこないという問題。相手が漠然とした答えしか返せないのには理由がいくつかあります。一つは何を返せばいいか分からないというパターン。二つ目に話したいことはあるけど、その話題を話していいのか迷っているパターン。三つ目にあまり自分の情報を出したくないパターン。他にもいろいろあるでしょうが、とりあえずこの三つだったら次の解決策が万能です。

それは、「自己開示の返報性」を使うことです。「自己開示の返報性」とは、簡単に言ったら、AさんとBさんとが会話してて、Aさんが自分の話をしたら、Bさんも自分の話をしたくなる現象のことです。そこで、相手が答えに窮していたら、すかさず、「例えば僕だったら、普段家ではインターネットしてますね。ツイッター見てます。あと漫画読んだりとか、本読んだりとか」という感じで僕なら返します。いや別にこれそんなに良い返しだとも思わないんですけど、大事なのは「自己開示」をしていることです。こうすることによって、相手の答え方のモデルを示すことができます。相手はこっちと同じような返し方をしてくるでしょう。また、こっちが自分の話をすれば、安心して相手も自分の話をしてくれるという話です。

また、うまく掘り下げましょう。例えば、僕のこの発言を見ても、漫画や本で何を読むかとか、ツイッターどんな使い方してるかとか(ちょっと変な質問だ)、ツイッター以外だったらインターネットで何するかとかいろいろ聞けるはずです。相手の言ったことを手掛かりに掘り下げていってみましょう。質問をするときは5W1Hが基本ですが、特にホワット(何)とホワイ(どうして)が便利ですね。

ある程度関係が深くなったら家族のことや過去のことを聞いても大丈夫です。相手がメンヘラ的な人ならば深い話を持っていることが多いです。ただ、そういう深いところに踏み込んで質問するときは相手に気遣いましょう。「答えたくなかったら答えなくても大丈夫なんですけど」と前置きするなど。まあだいたい答えてくれるはずです。答えてくれなかったらまだ信頼度が足りないんでしょう。

 

2.3.相槌の打ち方

まったく相槌打たないよりかは相槌打った方がいいんですけど、やりすぎるとわざとらしいです。対面ならば表情だけで相槌を打てるので「うんうん」みたいな音声は少なめでいいです。電話とかならちょっと多めでいいと思いますが。大事なのは相手の喋っている途中で自分の意見を挟まないことです。何か思ったことがあっても、言わずに最後まで聞きましょう。たまにめっちゃ長話する上に話が飛びまくる人がいて、結局何の話をしていたのか分からなくなる人とかもいるんで、あまりに長い人に対してはメモ取りながら聞いてもいいと思います(マジで)。しかし、どれだけ話が長くても途中で口を挟まないで根気良く聞く。これが大事です。

細かい相槌の打ち方で言えば、「うん」だけじゃなくて「あー」とか「そうだよね」とか「えー!(驚き)」とかいろいろ使い分けると聞いてる感が出ます。同じ話が出たら「言ってたね」みたいな相槌もいいでしょう(その話もう聞いたよ!みたいなのは言わなくていい)。共感できるときは「わかる」もいいですね。あんまり「わかる」を使いすぎるとお前本当に分かってんのかよってなるので、諸刃の剣ですが、共感力は大事です。共感していることをアピールするために、話が途切れた後に「~~って話すごい共感できます。僕もですね……」と共感エピソードを出すといいでしょう。

 

オウム返しテクニック

ただ一つだけ途中で言葉を挟んでもいいテクニックがあります。それが言葉の意味を聞くときです。話を聞いていて分からない言葉が出てきたら「○○?」と疑問形で言ってみて、意味を説明してもらいましょう。あるいは、声の聞き取りにくい人もいますので、聞こえなかったら、聞こえなかったと言って聞き返しましょう。これによって意味を説明してもらえる、もう一度言ってもらえるということは重要なのですが、それと同時に「ああ、この人はちゃんと聞いてくれてるんだな」という安心感を相手に与えます。これが重要です。たとえ意味がだいたい分かっていても、分かりにくいところがあったら「○○?」って感じでちょっと挟むのはアリかもしれません。それは意味を確認するためというより、「あなたの話を聞いてますよ感」を出すための戦略です。

 

2.4.身体動作

アイコンタクト

そして、聞いてるときの身体動作ですが、まずアイコンタクトについて。目を合わせすぎると人は緊張します。一方で目をそらしすぎる人のことは信用できません。聞いているときは目を合わせるぐらいでいいのですが、相手の喋りが途切れたときに適度に目をそらして考える動作をするなどして、喋っている相手を休ませてあげましょう。話が途切れているのにアイコンタクトで次を促すと、相手も緊張してしまいます。

 

ミラーリング

相手と同じ身体動作をすると相手は安心すると言われています。しかし、あまりやりすぎてもわざとらしいので、自然な範囲でやるといいと思います。自然な範囲、と書くと難しいのですが、例えば喋っているときにじっとしていられない、変な動きをする人とかたまにいますよね。そういう人だったら聞きながら、ちょっと試しに動きを真似てみる、ぐらいでいいのです。バカにしない程度に。ミラーリングはそこまで使いにくくて効果も実感しにくいので、まあオマケ程度でいいでしょう。

 

2.5.相手の話が途切れた後

やはりオウム返し

相槌を打ちながら聞いていて、相手の話が途切れたときにどうするか。まず、やるべきことはやはりオウム返しです。相手の言っていた言葉をそのまま繰り返します。「○○××△△なんです」と言われたら、「○○××△△なんですねぇ」と返すわけです。ただ、やりすぎると気持ち悪いので、ちょっとだけでいいです。

 

要約

また、オウム返しだけだとバリエーションが貧困なのでもう一つ。それが「要約」です。相手の話が長かったときなどに特に有効なのですが、相手の話を最初から最後まで過不足なく要約して「○○で××で△△なわけですね。それで、○○と△△がつながるわけですね」みたいな感じ。自分の勝手な解釈は入れてはいけませんが、ちゃんと要約すれば高評価です。「話ちゃんと聞いてますよ感」が一気に出せますし、話にまとまりがない人だったら、話が整理されてありがたく感じるはずです。というわけで、勝手な解釈を入れずに話全体を過不足なく要約するという、高校の現代文とかで使いそうな能力がここで役に立つわけですね。

 

2分間沈黙

そうして、オウム返しなり要約なりをした後に「どう思います!?」みたいに意見を聞かれたら意見を言ってもいいわけですが、あくまでこちら側から相手の話を引き出すことが大事です。そういう意味では相手が話すまで待つ、というのも大事になるときがあります。人は沈黙にはあまり耐えられないもので(電話なんかだと特に)、意図的に黙って待っていれば、相手から話し始めてくれることも多いです。その待つ時間ですが、シチュエーションにもよりますが対面なら2分までなら待っていいという目安があります。2分というと相当長いです。正直2分も待たなくていいと思うんですけど、まあそれぐらいの気持ちでじっくり待ちましょう、ということです。

 

話題変え質問

2分間沈黙も何回もやるとさすがに相手が疲れるでしょうから、こっちが何かしら喋った後に、別の違う話題の質問を振ってみてもいいでしょう。「話変わるんですけど、」とか「全然話違うんですけど、」とか言っておけばそこまで不自然でもありません。そうして相手が話し始めたらまた2.3.に戻ります。答えにくそうだったら自己開示をしてみます。自己開示はあくまで相手の答えを引き出すためにあると考えればいいでしょう。

 

共感エピソード

必ずしも自分の話をしてはいけないわけではありません。相手の話を受けて、共感したということを示すために自分の似たような体験を開示するという戦略があります。これをすると「この人なら分かってくれる」感が出ます。自分の体験じゃなくて他人の体験とかを出してきて「知り合いにもいたなあ」みたいな話をしてもOKです。

 

3.やってはいけないこと

あくまで対メンヘラですが、やってはいけないことを書いていきます。

 

3.1.高圧的な態度

これは相手が誰でもあんまやるべきではないと思いますが、対メンヘラだと特にそうです。恐がらせてはいけません。声のトーンとか言葉のスピードとか落としていきましょう。

 

3.2.下心を見せる

これは主に自分が男性、相手が女性を想定してのときの話です。下ネタOKな人も多いっちゃあ多いのですが、その性欲を相手に直接向けてはいけません。メンヘラ的な人はそういうのにうんざりしているパターンが多いものです。下心は実際にはあっても隠しましょう。

 

3.3.否定する

相手がやることをおかしいと感じても即座に否定するのはよくありません。たとえばリストカットをする人がいたとして「リストカットをするな」と言うと、信頼を失うことが多いです。肯定も否定もせず、相手の気持ちに寄り添うことが大事でしょう。具体的には、基本的に何もしなくていいわけです。場合によっては微妙なところもあるので、どうしても否定すべきだと思ったら、せめて「イエスバット」を使いましょう。相手の言うことをとりあえず「そうだね」と受け入れた上で「ただ、」とやんわり否定しましょう。

あと、メンヘラ的な人に多いのが身体醜形障害なんですが、具体的な返しをしない方がいいです。例えば客観的に見て太っていないのに自分が太っていると思い込んでしまっている人には、「ちょっと太ってるぐらいが健康的だよ」などと具体的な返しをしない方がいいです。悪く解釈されるかもしれないので。「そうかなあ」ぐらいの曖昧な返しがいいでしょう。

 

3.4.支配しようとする

メンヘラ的な人は依存的な人が多いわけですが、自分に依存させて楽しむみたいなことはしてはいけません。また、最初に書いたメサイアコンプレックスの人に多いのが「自分の思い通りにならないと逆ギレする」というやつです。逆ギレするぐらいなら最初からメンヘラ的な人と関わらないでおきましょう。相手は相手、自分は自分なわけで、相手を自分の力で変えようとすることがそもそもおこがましいのです。あくまで目標は「相手をスッキリさせること」です。

 

4.その他テクニック

対メンヘラじゃなくても通じると思うんですが、ホリィ・センが実践してるのを二つ。

 

4.1.ほめ方

ほめるって対人関係において全般的に重要ですね。ほめられた相手は大体悪い気しないし、こっちもコストは払わないんで褒めるのってすごくコスパがいいです。効用上がります。最大多数の最大幸福です。で、ほめ方なんですけど、お世辞はバレたら長期的に見て良くないです。本当に思っていることだけを言えば大丈夫です。その代わり良いと思ったことは恥ずかしがらずにできるだけ言うように努力することが大事です。できるようになってくると結構便利です。

また、具体的にほめるのって大事です。「○○さんはこういうところがこうだから良い」みたいなこと言うと人は嬉しいものです。ただ、あまり社会の価値基準と合ってないところをほめてもバカにしてると取られる可能性があるので、そのあたり客観的な良さとのすり合わせが必要ですが。「かわいい」と言われ慣れてる人に「かわいい」と言ってもあまり効果がないですが、あまり言われ慣れていないであろう長所をうまく見出してほめると効果バツグンです。特にメンヘラ的な人はほめられ慣れてない人も多いんで、困惑するでしょうが、うまくやると一気に信頼を勝ち得るでしょう。

 

4.2.共犯関係

これも自己開示系なんですが、自分の話をする際に社会に適応できない話などをするといいでしょう。要するに共感性を示すことが大事です。メンヘラ的な人は傷ついた経験を持つ人が多いですので、こちらも人の痛みを分かる人間だということをアピールしましょう。ということで傷ついたエピソードを出せばいいわけですね。なお、ホリィ・センは小学生のときに情緒不安定だった話をよく出します。対メンヘラの共通体験はおそらくそこにあると思っているので。対コミュニケーション苦手な人だったら、コミュニケーションがどう苦手だったかのエピソードを出すわけで、誰を相手にするにせよ共感はやっぱり大事ですね。

こうして、自分は決して潔白な存在ではないということを示して、一種の共犯関係になることは一つの戦略です。

 

5.おわりに

ここに載せたテクニックは別に対メンヘラじゃなくても使っちゃってます。もう身体化しちゃってますね。別にこれをそのままやれとは言いませんけど、何かの参考になれば幸いです。僕はだいたいこういう感じで不安定な人(やはりメンヘラ的な人)とSkype通話して傾聴するのが日々の楽しみですし、僕以外にも傾聴が日々の楽しみになる人が増えればいいなあ、と。

「メンヘラ」がファッション化してしまっている問題について

【要約】

ネットスラングで「メンヘラ」って言葉あるけど、②最近カジュアルに使われすぎで、③いろんな意味合いで使われてるし、④商品とか出てきて消費の対象にもなってるし、⑤着たり脱いだりできるファッションみたいに扱われてるし、⑥オワコンになりそうだよね でも、「メンヘラ」って本来「精神疾患」のことだし、着たり脱いだりできるもんじゃないよね。その人の「今ここ」の重大な問題として現れてくるよね。だから、オワコンにしちゃいけないよね。「メンヘラ」って言葉を使ってもっと何かできるんじゃない?

 

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「メンヘラ」という言葉が使われて久しいが、昨今、「メンヘラ」という大きな物語(?)が危機となる象徴的な事件が少しあったように思う。

一つは江崎びす子の作品『メンヘラチャン』とのコラボレーション商品「リスカバングル」だ。

togetter.com

このリスカバングルに対しては大きく4つの批判がありうる。以下に挙げる。

 

リスカバングルに対する批判4分類

①やむを得ずリストカットをしてしまっている人をバカにしているという点でリストカット当事者に失礼である

リスカバングルのせいで「メンヘラ」がファッションになってしまう

リスカバングルというファッションで済ませるのはヌルくて恥ずかしい(リスカバングルをつけるぐらいなら実際にリストカットをしろ)

④単純に気持ち悪い

 

①はいわゆる「不謹慎」で、「メンヘラのような弱者を差別するのは不謹慎だ」という話だろう。

②③は主にメンヘラ当事者から出てくる批判だ。

②では、自分が「メンヘラ」であるにもかかわらず、メンヘラがファッション化してしまうと困るだろう。それは、自分が実際に苦しんでいるにもかかわらず、ファッションのごとく扱われてしまうからだ。

③はいわゆる「誰が一番真のメンヘラか」競争だ(これの問題点は

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)。

④は説明不要だろうが、一つ補足しておくと、先ほどのtogetterには書いてあるのだが、リスカバングルをデザインした人の意向で傷が生々しいものになったそうだ。メンヘラチャンのポップなデザインと生々しい傷のデザインはどうもミスマッチに感じられる。

 

 

さて、togetterにもあったが、③のような反応をする人を問題視する人もいる。要するに「リストカットしていることを誇ってしまっている」、「リストカットをしてしまっていることを悪いことだと思っていない(リストカットを止めようとは思っていない)」といった反批判がありうるということだ。

しかし、今回はそれは本筋ではないのでおいといて、僕が今回問題にしたいのはむしろ②メンヘラのファッション化である。

 

メンヘラのファッション化

そもそもリスカバングルの前から江崎びす子の『メンヘラチャン』にはそういうものを感じていた。『メンヘラチャン』はリストカットによって魔法少女に変身するという設定で、明らかに精神疾患などの重大な問題には立ち入っていないし、おそらく深く考えてもいない。

ここではカジュアル化、ファッション化、ネットスラング化、シミュラークル化と書いているが、これにバズワード化も加える。それぞれに意味が異なるので、一つずつ書いていく。

まず、ネットスラングは初期の段階だろう。メンタルヘルスer(精神疾患を持った人)がメンヘラ(ー)と略されることによって定着した。

そして、これにカジュアル化が追随する。「精神疾患」と言うと重い感じがするが、「メンヘラ」と言うとなんとなく軽いものに感じる。

気軽に使われるという意味で、いろんな状態に対して「メンヘラ」という言葉が使われるようになっていく、すなわちバズワードしていく。

また、高度情報化資本主義社会において、メンヘラのオリジナル(つまりは精神疾患)は意味を失い、n次創作としてのコピーがどんどん氾濫し、消費されていくようになる(シミュラークル)。

更にまた、ファッション化する。メンヘラが消費の対象である「流行」になると同時に、ファッションとは「着脱可能」であることを含意している。ここが今回の記事で重要な論点である。

 

着脱可能な流行としてのメンヘラ / 着脱不可能な実存としてのメンヘラ

「メンヘラ」は本来は精神疾患の意味なので、簡単に着けたり外したりできるものではなかった、ある個人に特有の性質だったはずである。しかし、「メンヘラ」という言葉が「今日はメンヘラだ」などといった用法のように一時的な状態を指すものとして扱われる昨今、メンヘラは「着脱可能」なものとして扱われることも増えてきている。「ファッションメンヘラ」という言葉がまさにそれだ。

しかし一方で、「自分からメンヘラになろうとする人はそもそもメンヘラだ」という話もある。実際に、メンヘラになろうとするための行為が、精神に悪影響を与え、実際に(精神疾患という意味での)メンヘラになってしまうことはありうる話である。

すなわち、メンヘラは一方では着脱可能なファッションになってきているが、本来は特定の個人にそなわった、着脱不可能なものである。違う言い方をすれば、メンヘラは本来、身体に埋め込まれた、強く実存に関わる問題/物語である。

 

にもかかわらず、ファッション化している。そこでは、「メンヘラ」という言葉が持っているはずの固有の価値は失われ、ただただいい加減に消費の対象としてコピーが氾濫していく。そして、ファッション(流行)という言葉には「一時的」という含意がある。すなわち、最後にはオワコン化が待っている(注:オワコンとは「終わったコンテンツ」のこと)。

 

もちろん、「メンヘラ」という言葉を使うことの弊害もいくらでもある(これも

「メンヘラ」という言葉を使って活動するときに注意すべきこと――差別的バズワードについて - 落ち着けMONOLOG

で述べた)

しかし、「メンヘラ」が強く実存に関わる問題なだけに、このまま一時的流行の言葉として廃れていってしまうのは実に惜しいと個人的には思っている。

そこには、「メンヘラ」という言葉の一般化によって医療へのアクセスがしやすくなること、「メンヘラ」という言葉に価値を付与するエンパワメント、「メンヘラ」という言葉で人同士が繋がる連帯の可能性(最近では「メンヘラ展」が顕著な例だ)、そして医学的病名としての精神疾患では捉えきれない「あいまいな生きづらさ」を可視化できる力など、プラスの側面があるように思われる。

西一風『ソフトマシーン』の感想

連続ツイートで観劇の感想書くのが面倒くさいときはブログに書く。


静かな(視覚的にも聴覚的にも)演劇がそもそも苦手なんだけど、それでいて意味の追いにくい作品だったから疲れた。象徴解釈からぽつぽつ書いていく。

日常におけるあらゆる振る舞い、それも他者によって制約を受けるような振る舞いを「飲食」によって象徴してたのかなあと。
それでいて、主人公に随伴するお寿司は①食べるか食べないかという決断②放っておくと痛む③増えたりなくなったりする④(ペットのごとく)所有している⑤他者から干渉を受ける(羨ましがられたりする)、みたいな特徴があった。ということで、心の状態とかチャンスとか財産とか能力とかアイデンティティとか自分そのものを象徴してたんかなあと。
「他者からの干渉」という点は特に執拗で、家庭、職場、病院(あるいは寿司屋。板前服と白衣という二重性を持っていたと思う)の3つの場面が反復されるのが主だったんだけど、それぞれで主人公は異なった干渉を受ける。そこでは「食べないんですか?」と「食べるな(わきまえて)」との二つのメッセージのダブルバインドに主人公は拘束されている。
最初、病院(寿司屋)から始まるけど、カウンセリングみたいなものだと解釈してる。寿司を食べたいけどずっと食べられないままであるという神経症的な状態であり、自分を見つめなおす機会であり、という感じ。寿司をあぶるシーンは、カウンセリングというよりかはもっと暴力的な人格改造がおこなわれている感じ。現代で言えば、向精神薬だろうなと。寿司をあぶってもらった主人公は「くさくなくなった」と言われるわけで、見かけ上の社会適応が行われたということだろう。
家庭では父親(すなわち、超越的な命令を下す他者)がいないのが象徴的で、父親がいない主人公は決断ができないのだろう。そして、母親が「食べること」(あらゆる振る舞い)に対して干渉してくる。きょうだいたちがどういう象徴的な意味合いを持ってたのかはイマイチ分からなかったんだけど、とりあえずおのおのが勝手な感じだったなあと。次男がハマチをいとも簡単に食べてしまうのは、食べる決断ができない兄との対比がなされてたなとか。次男はあと、おにぎりを「ソフトマシーン」として「自分もそういうものがほしい」的なことを言っていて、それは兄とは違う意味でのアイデンティティなのかなと。
職場では食べることが上司の顔色を伺いながら行われている。寿司が「くさい」とか「くさくなくなった」とか言われることでいわゆる「社会の目」が象徴されていた。ティッシュで覆われる寿司、「食べていいか」と聞かれて「これは自分のだ」と所有権を強く主張するような寿司。いずれにせよ、「自分」を出しすぎても閉じすぎても社会ではうまくやっていけないんだなあとか思わせる象徴だった。

で、全体の流れ的なものを見ると、たくわんの工場も含めて、循環していくルーティーンが象徴されていたなあと。閉塞したルーティーンで決断せず(寿司を食べず)ただただ過ごしていくとチャンス(寿司)はいつの間にか失われているのだなと。そして、最後、主人公は舞台セットで頭を殴られるわけだけど、舞台セットは社会の枠組みを象徴してたのかなと。社会の枠組みから自由になってそれに頭をガツンとやられれば、何か救いはあるのかなあと。
最後、医者(板前)の「ヘイ」で終わったけど、あの「ヘイ」は、医者の患者に対する相槌「はい」であると同時に、寿司屋で無意味に繰り返されるルーティーンとしての掛け声なのかなぁとか。いずれにせよ、精神医療を含んだ広い社会のシステムに飼い慣らされていく過程をこの作品は批判していたのかなぁとか思った。
そういう意味で「ソフトマシーン」というタイトルを考えると、「ソフトになれ」(社会適応しろ)ということと、それの結果として「マシーン」(主体性を失った機械)に成り果てるということなのかなあと。回転を終えてしまったマシーンはすなわち、資本主義システムにおいて生産力を失ってしまった人間なのかなぁとか。

なんか長々と書いたけど、最初に書いたように、苦手なタイプの演劇だったので好きではなかった。さらに言えば、こういう抽象的な作品を観てて、頭の中にバラバラの考えが浮かんでくるのは好きではなくて、もっと一貫して分かりやすい象徴ばっかり使ってくれるんならば、そこまでしんどくないんだけどなぁとか。ルーティーン的な反復が短くなっていって、どんどん雑になっていって、最後、家族が職場に来るのとかは破綻としてのクライマックス感が出るし好きなんだけど、やるんならもっと露骨にやってくれた方が好きだなぁ。

あと、言葉の響きにこだわってたんだなというのは伝わってきたけど、なんでそうしてたのかはよく分かってない。「わきまえる」、「たずさえる」、「あぶる」、「くさい」、「すし」、「めし」、「ゆば」、「たくわん」、「はらす」、「たきけ」など。あとキャラ名。強いて言うなら繰り返し文字をあんまり使ってない気がする。普段あまり使わないけど面白い言葉の響きってあるよなあ。

人間とのコミュニケーション以外には興味がないことについて

僕のもはやアイデンティティとなってしまった「サークルクラッシュ同好会」だが、実は今年で4年目(まともな新歓は3年目)だ。そんなわけで、もうずいぶんと「新歓」なるものも(良い意味で)ルーティーン化されてきた。

そんなわけで、大体毎年、「こいつはヤバイ」みたいな人が何人かは来るのは分かりきっていたのだけれども、新歓初日に来た1回生(悪い意味で意欲的だ)の一人と話し、なぜサークラ同好会に来たのかを尋ねた。すると、「人間が、好きだからです」(要約)という答えが返ってきた。僕はその言葉にビビっときたものがあり、意気投合していろいろと濃密なコミュニケーションを取った(その人は今やサークラ同好会の一員だ)。

 

「人間が好き」について

「人間が好き」にビビっときたというのはけっこう根深い話で、ホリィ・センのプロフィールなんかにもそういうところは出ている。趣味の欄で「人間に直接関わってくる学問(心理学(特に精神分析)、社会学、哲学など)」と書いている。もはや社会学は専攻なので、「趣味」ではないだろうが。

で、プロフィールだけじゃない。僕が本質的に人間が好きなんだなというのは中学生のときから伺える。僕は中学生のときからホームページを作ったりブログを書いたりしていたのだけど、そのホームページやブログの名前は「(前略)人間と(ry」というものだった。

中学生らしい気取ったタイトルで、この「略す」というものに変な魅力を覚えていたのだろう。正式名称は、今見たところ「管理人ホリィ・センのハイクオリティでネガティブな主観と人間とキャラと萌えと燃えと妄想と夢と理想と名言と本当の幸せを追求するブログページ(の予定。理想は高く現実は虚しく」らしい。中二病だ。ちなみに「理想は高く現実は虚しく」の部分は『フルメタル・パニック!』シリーズの短編、「音程は哀しく、射程は遠く」から取ってる。普通の人からしたらいわゆる「黒歴史」なので、消してもいいんだけど、いかんせん自己同一性への固執が強いので、中学時代のブログは敢えて未だに残してある。閑話休題

この「人間と」の部分を残したのに端的に現れているように、僕は「人間」に、それこそ中学生のときから、強い興味が惹かれていたのだと思う。

 

興味がないものについて

「人間」に興味がある。では逆に、何に興味がないのだろうか。それも、ホリィ・センのプロフィールに書いている。コピペ。

インポ:
音楽
人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)
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「インポ」、つまり男性器が反応しない程度に興味がないっていうまた気取った書き方で申し訳ないんだけど、ここに見られるように、やはり人間には関わってこないところなのだと思う。「人間が好き」、そのまさに反対として「人間以外に興味がない」ということが大体成り立っている。

ホリィ・センは自意識の強い人間なので、幾度となく自己分析を繰り返しているのだけど、改めて「人間が好き」という根本的な点が真っ先に口に出る人間と出会うと衝撃があった。そこで、僕は更に考えを深める。

 

「人間とのコミュニケーション」ということ

そうして、考えてみて気づいたのだけど、僕は本当は、

ということなんじゃないかということだ。このことには1ヶ月前にぐらいに気づいたんだけど、ふと耐え切れずツイートしてしまった(あまり考えずにツイートした)ので、せっかくだしもう少し整理してブログに書こうと思った。

そして、思ったことはこうだ。学問でも趣味でも何でもいいのだけど、「人間とのコミュニケーション」が含まれない行為は実際のところほとんどない。多少、「人間とのコミュニケーション」の要素は混じってくることは多い。

例えば、読書をするにしても「作者が書いた文字を読む」という点ではコミュニケーションだし、アニメを観ていても、作者の思考がそこに現れている。また、直接的には、声優がキャラクターの口を通じて視聴者に語りかけてくる。

つまり、人間とのコミュニケーションそのものを100%純粋な「人間とのコミュニケーション」だとすると、50%のものもあれば、20%のものもあり、2%のものもあれば、0%のものもあるだろうということだ。だから、「コミュニケーション純度」の高いものを僕は好きで、ほとんどコミュニケーションの含まれていないものにはなかなか興味が湧かない傾向にあるのだと思う。

その中でもやはり僕は100%純粋な人間とのコミュニケーションがとても好きだということに気づいた。僕は去年無職で、だいぶ暇な時間があったのだけど、思えば毎日のようにSkypeで誰かと喋っていた。そしてTwitterをしまくっていた。それほどにコミュニケーションばかりしていた。そこには、「恋愛」も含まれている。

院生となって忙しくなった今でも実はコミュニケーションから離れたわけではない。実家は出たものの一人暮らしは嫌で、シェアハウスに住み始めた。それも、外部から人の来るオープンシェアハウスだ。僕はどうにもこうにも、人とのコミュニケーションが好きすぎてしょうがないのだと思う。

逆に言えば、それ以外は何もかも根本的には苦痛なのだと思う。

そういうわけでごめんなさい、僕にとってはアニメを観るのも漫画を読むのも読書をするのもゲームをするのも、原理的には苦痛なんです。

 

その他細かい補足と蛇足

「ある選択した行為それ自体(「読書をする」とか「アニメを観る」とか「人とコミュニケーションをする」)にどれだけコミュニケーションが含まれているか」という尺度を先ほど挙げたが、ツイートでも示唆されていたように、「ある選択した行為がどれだけコミュニケーションの役に立つか」という尺度も自分の中では重要である。

さまざまな知識や経験を積み重ねることによって、コミュニケーションはかなり豊かになる。僕が(読書するのが苦手なのにもかかわらず)半ば強迫的に読書を重視するのは、そういうところに原因がある。

中学生のとき、名作アニメを観ることを「消化」などとよく言っていた。この「消化」という言葉にはネガティヴな響きがある。そのときそういう言葉遣いをしていたのは、今にして思えば、名作アニメを観ること自体に楽しみを覚えていたのではなく、その先にあるコミュニケーションがメインディッシュだったからではないか。つまり、アニメは単なる手段であって、コミュニケーションという至上目的のための道具でしかない、だから「消化」するものなのだということだ。

 

もう一つ、付け加えておこう。これは今回の話とは少しばかりズレるのかもしれないが、関係のある話のように思うので。それは「行為を始めることの面倒くささ」だ。誰しも経験があると思うが、学校に行ったり習い事に行ったりするのが億劫で、面倒くさいことは今までの人生で経験してきた。

僕は小中学校の頃に野球をやっていたのだが、その練習などは端的な例だった。僕は練習に行くのが億劫で、好きで始めたはずの野球も、練習が休みになると喜んでいた。

このパラドックスの答えは、『おおきく振りかぶって』という野球漫画にあった。その漫画においては、ご飯を食べる際に

①食べる前に「うまそう!」と言う

②食べてるときは「うまい」

③食べた後は「うまかった」と言う

ことが重要視されていた。これは、野球の練習のためだ。普段から何事に対しても「(やる前から)楽しそう→(やっているとき)楽しい→(やった後)楽しかった、またやりたい」というサイクルを作るのが重要で、野球の練習は単調になりがちだし、このサイクルが重要だという考え方だ。

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(意識的に「うまそう!」って言ってるシーン)

僕は正直言って何事も面倒くさい。「楽しそう!」という回路がどうも働かない。普段やってない勉強とかゲームとかも久々にやり始めてみるとめっちゃハマるものなのだが、どうも一歩目が踏み出せない。

そして、これはなんと「人間とのコミュニケーション」にも当てはまる。僕は人に話しかけるのがはっきり言って面倒くさい。いつもいつも、誰か話しかけてきてくれた人とコミュニケーションをとっている。

人間とのコミュニケーションはさっきも書いたようにやっているときは楽しい。でも、話しかけるのが面倒なのだ。もっと言えば、話題がないと話しかけられない。僕は実のところ、話題なんてなくても人と話したい、それ自体が楽しいといつも思っているのだけど、話題がないとどうにもこうにも話しかけられない。

僕はけっこう「何もないけど、話したい」と思っているのだけれども、気がついたら自分からは誰にも話しかけることなく一日は終わっているなんてことは、よくある。話したい人ともっと話したいなあ。