『屍鬼』上映会 個人的まとめ

 サクラ荘で『屍鬼』のアニメ上映会がありました。僕は2クール目だけ参加したんですけど、6年前に観たことあってWikipediaで復習したら思い出しました。
屍鬼』は僕の好きな声優である悠木碧さんが出てるアニメというのもあるんですけど、普通にすごく面白いアニメだったという記憶があります。おそらく今まで観てきたアニメの中でもベスト10に入るぐらいだろうと。

 

 んで、6年ぶりに観てみると「やっぱりいいアニメだな」と思ったのもあるんですけど、「こういうアニメだったのか」という新鮮な発見もありました。やっぱ作品って一回観たぐらいでは評価しきれないもんですね。
 評価が変わった背景には、僕が大学生になってから人文社会科学系の勉強をしたというのがあると思います。詳しくは以下に述べます。

 

6年前の感想

 6年前に僕が評価していた点は、沙子というなんとも切ない人外キャラクターを演じる悠木碧ちゃんが素晴らしいというのもあるんですけど、それはともかくとして。
 大きく評価していた点は4点だと思います。その4点は微妙に重なり合うんですけど、パニックホラーっぽさと、シュールな笑いと、群像劇っぽさと、主張のぶつかり合いです。

 

 1点目にパニックホラーっぽさ。この作品はそもそも人間と「屍鬼」との戦いを描く作品でもあるのですが、終盤に向かうにつれてモラル・ハザードが起こってきます。「屍鬼」も元は人間なのにもかかわらず、人間側は躊躇なく「屍鬼」を殺せるようになっていきます。それどころか人間側は「屍鬼」に加担する"人間"すらも殺せるようになります。作品のキャラクターである尾崎が「それはただの殺人だ」と言っているんですけど、まさにただの殺人を犯しちゃうわけです。
極限状態だからこそ起こるモラル・ハザード(災害時に万引きやレイプが横行するみたいな)でもあるんだけど、村社会の全体主義っぽさも活きています。躊躇していた人間が平然と人を殺せるようになっていく様の描き方が見事です。

 

 2点目にシュールな笑い。そもそもホラーとシュールな笑いは相性がいいのかもしれません。キャラクターがTPOに合致しないファッション、言動を平然とやってのけていくので、どうも笑いが込み上げてきます。あとキャラクターの顔がいちいち面白いです。実のところすごく笑える作品です。

 

 3点目が群像劇っぽさ。この作品には明確な主人公がいないように思います。キャラクターが出てくるたびに字幕で名前と立場が表示され、おのおののキャラクターがおのおのの思いを抱えて勝手に動きます。彼らはストーリーを展開させるための装置ではなく、リアリティを持った人間なのだなあという感じを受けます。「勝手に動く」という点は1点目のパニックホラーっぽさにうまいこと接続しているなあとも感じます。

 

 4点目は3点目と近いですが、主張のぶつかり合いです。人間側と屍鬼側それぞれにキャラクターがいることによって、様々な主張がぶつかり合います。人間側や屍鬼側も一枚岩ではありませんので、いろんな葛藤も起こります。それが「戦い」として解決されていくのはディベート好きの僕としてはたまりません。それぞれのキャラクターがある種の記号として戯画的に描かれているのはさきほどの「リアリティを持った人間」とは矛盾するのかもしれませんが、「ストーリー展開のための装置」ではなくて、「作品全体のバランスを取るための装置」としてキャラクターは機能しているのだと思います(だからこそ、キャラクターはTPOと合わない動きをするので2点目のシュールな笑いが生じてくるんですけれども)。

 

 とまあ、6年前から抱いていた感想を出したとしても十分に面白いなと思える作品なわけですが、6年経って僕にもいろいろなものさしが追加されたわけで、今回の上映会で感じたものを新たにまとめなおしてみます。

 

屍鬼とかいう「現代思想」に忠実な作品

 一言で言えば、屍鬼優等生なのだと思います。『屍鬼』の中には、実存主義マルクス主義における社会運動論のような「主体主義」のテーマと同時に、現代思想の「反主体主義」的なテーマが含まれています(なんのこっちゃ)。また先ほどの全体主義の話や、田舎/都会という二項対立に顕著な「近代化」のようなテーマも含まれています。

 まあつまりは、読みようによっちゃあ、モロに「現代思想」っぽい作品だということです。こう解釈しちゃうのは僕が現代思想かぶれの人間だからというのもあるでしょうけど、あながち間違ってない気がします。間違っていないという説明をするために、まず『屍鬼』に見られる複数の二項対立のモチーフを書きだすところから始めます。

 

二項対立について

人間/屍鬼(われわれ/他者)
理性/本能
生/死
田舎/都会

 

 ザッとこんなもんでしょう。まず「人間/屍鬼」という二項対立。これはそのまま「われわれ/他者」と言い換えられると思います。どういうことか。設定上「屍鬼」という吸血鬼たちは元々人間です。でも、屍鬼は人間を食らう存在だから、人間からは排除されます。一言で言えば「他者」なわけです。

 これは世界史的にもよく見られる話です。ナチスによるユダヤ人の虐殺(同じ人間なのに)。「狂人」はみんなと一緒に生活していたのに、「医療の対象」として精神病院に閉じ込めたこと。西洋中心主義から見た「未開」の地域(西洋が「発展」していてそれ以外が「未開」というのはどういうことか!)、などなど。自分と差異のある存在を「他者」として排除してきた歴史があるわけです。しかし、その「他者」は実は「われわれ」と同根であり、連続性がある。そういう批判ができるわけです。

 

 というわけで、作品内では人間でありながら「屍鬼」に味方する者や、「屍鬼」になりながら人間を殺さないよう我慢する者(ここでは「飢え」という本能に負けず、理性を振り絞り、人間であろうとしている)、「屍鬼」と化しても実の親だからと、自分の血を分け与えることで殺さずに生かそうとする者などが出てくるわけです。元々から屍鬼だった者もまた、人間を殺すことの罪について真剣に考えるシーンがあります。それどころか、夏野のように「人間の味方をするわけでも屍鬼の味方をするわけでもない」と主張する第三項さえも出てきます。

 

 「生/死」という二項対立にも触れましょう。自然の摂理からすると死んだ者は生き返りません。しかし、作品の設定上、死んだ者は生き返って「屍鬼」になっています。そこで、「屍鬼」を死人として殺してやるのが正しいのか、「屍鬼」も生きている者だとして共存するのが正しいのかといった微妙な問いが生まれてくるわけです。

 

 これらに加えて、「田舎/都会」という二項対立が重ね合わされるのも面白い。主人公っぽいキャラクターである夏野は「よそ者」として都会からやってきます。また、屍鬼である桐敷家も「よそ者」です。そして、都会に憧れる少女である恵も作品におけるキーパーソンです。都会側が「よそ者」すなわち「他者」として扱われる一方で、田舎の内部にも都会側(他者側)への接近が見られるわけです。
(なお、いちいち指摘するまでもないかもしれませんが、「田舎特有の閉塞感」というテーマだけでも十分に価値のあるテーマだと僕は思います)

 

 このように、『屍鬼』の中には常に重層低音として「われわれ/他者」の二項対立があり、その二項対立は内在的に(「われわれ=人間」や「他者=屍鬼」の側から)批判されていきます。むしろ、屍鬼の社会では業績を挙げた者が幹部になれるという企業のタテ社会のようなものができていて、それはもはや「他者」とは呼びがたい。明るいタッチで描かれる屍鬼の社会は(夜にしか存在できないとはいえ)、むしろ人間=われわれの社会そのものです。


尾崎の「革命」

 この作品の主人公の一人である尾崎は、いち早く「屍鬼」の存在に気づき、「屍鬼」を打倒するために対策を練ります。しかし、味方になってくれると思われた村の人々は尾崎の話を信じようとはしません。その象徴的なセリフが次のものです。

 

 「俺たちは近代合理主義の洗礼を受けている。洗脳と言ってもいい。この世に化け物や魔法は存在しない。それが俺たちの世界に対する認識なんだ。これは伝染病なんだろう? そのうち外の誰かが怪しむはずだ。そうなればすべてが公になり事態は収まるだろう」

 

 これはまさにマルクス主義が言うところの「イデオロギー」(訂正されるべきなんだけど支配的な観念)です。屍鬼に侵食されていると気づけない村の人間は(=資本主義によって搾取されていると気づけない労働者は)「日和見主義」になるわけです。ここに僕は『屍鬼』における「主体主義」的なテーマを読み取るわけです。

 これに対し、尾崎の取る行動もまたマルクス主義的なところがあります。それは「機が熟すのを待つ」ということです。屍鬼に侵食されていることに気づきながらもじっくりと耐え、いざ、屍鬼が油断して公の場所に現れたところを尾崎はひっ捕らえます。油断して尻尾を出した屍鬼を、イデオローグ尾崎はうまいこと大衆煽動の道具に使ったわけです。そして大衆(村民)は決起します。一度動き出すと、大衆は留まるところを知りません。そういう意味ではむしろ尾崎はヒトラー的なのかもしれません。人間の中で内ゲバが起こるのも面白いですね。村社会における屍鬼との戦いが、そのまま「社会運動」の縮図になっているわけです。

 

まとめと不満

 『屍鬼』について僕が評価していることは以上のようなことです。6年間のブランクがあり、現代思想的なものさしがインストールされたことでまた新鮮な見方をすることができました。その見方がはたして良いのかは知りませんけども、現代思想のものさしで見てみるならば『屍鬼』は強度のある作品なんだなあということを感じました。もちろん、単に現代思想的なテーマがただ触れられているというだけではなくて、うまいこと料理されて作品として昇華されているなあ、という印象です。ホラーとしての王道も満たしているし、完成度の高い名作でしょう。

 ただまあ、「目新しさがある」作品というわけではないでしょう。あくまで優等生的な作品なのだなあと感じます。
 そして、僕個人の不満を言うならば、吸血鬼を扱うのであれば、もうちょっとエロくてもよかったなあと。噛まれた人間は屍鬼からの命令に従うという設定があるわけですが、そこからはマゾヒズム的なエロスも感じられます。
 実際、屍鬼に出てくる女性キャラはセックスアピールが強くて、屍鬼側のキャラである千鶴はその筆頭です。時代錯誤的なファッションがむしろかわいらしいところもありますが、「美食家」として尾崎を噛むシーンはやっぱエロいです。もっとやってほしかった。
 あと、人間から屍鬼になってすぐは強烈な「飢え」からどうしても人間を噛んでしまうという設定もあります。この理性と本能との葛藤からはやっぱり、エロさを求めてしまうのですけれども、ダメですかね。