恋愛をめぐる「許可主義」について(サークルクラッシュ同好会会誌第六号『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』より)

ホリィ・センです。

サークルクラッシュ同好会の会誌最新号(第六号)を二つの場所で売ります↓

コミックマーケット93(東京ビッグサイト)の三日目(12月31日(日)10~16時)の東6-ニ-19bにて

②第二回文学フリマ京都(京都市勧業館みやこめっせ」1F 第二展示場C・D、2018年1月21日(日)11~16時)にて

 

第六号は特集「こじらせ男子の自分語り」っていうことで僕も相変わらず自分語りしてます。

今回はせっかくなので、一部公開して販促しようかなと思いました。内容は冒頭の主に”恋愛をめぐる「許可主義」について”の部分です(ちょっと自分語りも入っちゃってますが)。

以下です(読むのにかかる時間:7分ぐらい)。

 

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『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』

 

先に言っとく。この文章は露悪的で差別的。

 

「ヤれそうでヤれない女」とは

 まずはサークルクラッシュの話から始めよう。(女性の)クラッシャーだとされる人は往々にして「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」があるのだと言われている(主に僕が言っている)。恋愛経験に乏しいがゆえにクラッシャられになってしまう男たちは、圧倒的な高嶺の花には手を出せない。共通の趣味を持っていたり、下ネタに付き合ってくれたりといった「自分と同じ目線で喋ってくれる」人を好きになるのだ。それどころか「わざわざ俺の趣味に付き合ってくれるこの子は」、あるいは「運命的にも俺と嗜好やノリが一致しているこの子は」、「「俺のことが好きなのかもしれない」」というわけだ。とんだ勘違いなのだが、そのような恋愛感情を錯覚させてしまうのが「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」ということにしておいてほしい。

 さて、時計の針を進めてサークルクラッシュまでいったとすると、実際には恋愛感情などありはしない。クラッシャられ男からの好意を集めることに快楽をおぼえていたかもしれないが、性的な関係にまで辿り着くことはあまりない。あったとしてもせいぜい一回きりとかだろう。それと似た話で、「ヤれそうでヤれない女がいる。そういう女が一番タチが悪いんだ」という言説をたまにネット上で観測することがある。いわゆるミソジニー女性嫌悪)だ。はい、サークルクラッシュの話はもう終わりです。

 

「レイプ」を巡る男女のディスコミュニケーション

 なるほどそういう「ヤれそうでヤれない女」は、イイカンジの男女(のように見える)関係になっておきながら、実際にはセックスができないわけだ。そこで、もし強引に性行為を迫り、断れない状況に追い込んだならば「レイプ」とみなされかねないだろう。これはなかなか難しい問題だ。男性側の立場に立てば「たとえ合意があったとしても、女が「レイプだ」と言い張ればそれはレイプになってしまう。イケメンだったら無罪なんだろ? 女のお気持ち一つでその判定は覆されてしまう」という感じだ。一方で女性側の立場に立てば、そういう被害に遭ったことを誰かに言うこと自体がうまくできずにトラウマ化する。誰かに言えたとしても「アンタが無防備だったんだ」と非難されかねない。そもそも、レイプがあったことを(裁判等で)立証する段階で自身の被害経験を語らざるを得ないという困難さがある。結局のところ訴訟などはせずに泣き寝入り、ということがほとんどだろう。レイプやセクハラといった問題についてはこのように男女の間で埋めがたいミゾがある。

 

セックス同意書が明らかにする「許可主義」の倫理

 他にも「男性のレイプ被害は訴え自体受け入れてもらえない」などの問題はあるが、そこまでは踏み込まない。ともかく以上のような状況から一部では「許可主義」とも言える言説が流行している。「嫌よ嫌よも好きのうち」なんてことはなく、Yes means yes、No means no。つまり性行為をするには事前に許可が必要だという考え方だ(ちなみにこの言葉は、ブロガーの三沢文也氏の「童貞こじらせbarに行ってきたよ…はぁ~」(2017年4月1日)という記事にある「許可の理論」という言葉を参考にしている)。

 この許可主義についてはサークラ会誌の第四号でひでシス氏が「セックス同意書」として(その問題点も含めて)象徴的に描き出した。露悪的なロマンチストなのを承知で敢えて言えば、恋愛は「察し」の文化に支えられている部分がある。言外のメッセージを読み取り合い、発し合うことによって快楽を高めていくのだ(少なくともそういうコミュニケーションをやっているカップルは多いように思う)。この領域ではアサーション、すなわち「相手の意見を聞きつつ、こちらの意見もちゃんと主張する」といったことは成り立ちにくい。もちろん、言葉によって合意形成をしながら仲を深めていくカップルがいるのは否定しないし、男女双方に「許可主義」を支持する人達はいる。言外のメッセージを発するのも読み取るのも著しく苦手だという人は、リスクを冒すぐらいなら「恋愛的コミュニケーション」を断念するだろう。

 

「許可主義」では自由恋愛社会から排除される

 しかし、問題なのはこの社会が自由恋愛社会であることである。近年、恋愛の機会は飛躍的に向上し、様々な異性と出会えるようになった(簡単のため、ここではヘテロセクシャルを前提としておく)。にもかかわらず、交際経験も性経験も結婚も割合的には低下してきている。未婚の理由を聞けば「出会いがない」が最も多い(気になる人は「出生動向基本調査」でググろう)。これはなぜか。実のところ「自由恋愛」は一見自由に恋愛できるように見えて、不自由を強いられているからだ。「恋愛市場」という言葉もあるとおり、恋愛は市場競争なのだ。美貌や経済力、コミュニケーション能力(?)のある人間が勝ち上がっていく。もちろんそれぞれの人間の好みにはバラつきはあるのだが、結婚相手の選び方は慎重にならざるを得ない。みんなが「魅力のある」人間を選ぼうとする結果、「選ばれない人間」が多数出てくる。たとえ選べたとしても「もっといい人がいるかもしれない」と、結婚は躊躇しがちなのである。

 まあ結婚の話まではする必要はなかったが、いずれにせよそんな状況なので、恋愛や結婚は「めんどくさい」、「コスパが悪い」ものとして扱われてきている。娯楽が多様化したり、相変わらず労働時間が長かったりする中では恋愛や結婚をしているリソースはないのだ。もし恋愛や結婚をするとしたら(みんなの恋愛相手への要求水準が高い限り)それなりのリソースは割く必要が出てくる。そこで「許可主義」は負けてしまうのだ。なんでもかんでも言葉にして確認してしまうがゆえに、相手の求めているものを読み取ろうという努力が(あるいは才能が)ない人間は恋愛市場からは淘汰されてしまう。許可主義的恋愛を良しとする共同体でも新たにできれば状況は変わるかもしれないが、それには原理的な不可能性がある。というのはやはり「許可」なのであって、これは女性から男性に対して与える「許可」なのだ。許可主義によって男性が恋愛市場に参入できても、女性の状況は変わらない。許可主義などなくとも女性は今までどおり恋愛をやっていけるのだ(許可主義によって「魅力的な」男性が発掘される可能性がないとは言えないが、それも少数だろう)。おそらくこの方向性で必要なのは「合意主義」であって、しかも恋愛・結婚市場から相当に淘汰されることによって要求水準が下がっている女性が多数発掘されねばならない。しかし、おそらくそういう女性は「恋愛から降りている」ように僕には見える。

 勢いでマクロな話を語ってしまった。恋愛・結婚市場についてはかなり大ざっぱな見立てなので間違っているところもある気がする。反論があればぜひ頂戴したい。

 

僕は「イチャイチャ」がしたい(でもできない)

 それはさておき、そろそろ自分の話をしよう。僕自身も「許可主義」に少なからず影響を受けてきた。具体的には、恋愛において「告白」をある程度重視してきたのである。告白という儀礼、はたまた「付き合う」とはどういうことか。これについてはサークラ会誌第四号ですりっぱ氏の考察があるのだが、僕の場合「性的な行為をしていいのかどうか?」を「告白」に仮託してきた。何なら口が滑って告白時に「君とはセックスとかもしたいと思っている」みたいなことを口走った記憶もある(許可主義の立場から見た「誠意」なのだが、クソ)。この自分の経験に依拠すると、許可主義が何のために必要なのかがはっきりする。自分の性的な行為がレイプになってほしくない、はたまた相手を傷つけたくないというのももちろんあるのだが、何より「嫌われたくない」という理由からだ。しかしまあ、行為の意図せざる結果として、告白によって気まずくなってしまうわけだが(「嫌われる」は回避できてるよ!)。

 ところで僕の言う「性的な行為」はいわゆる狭義の性行為、性器の挿入を意味するわけではない。それも含まれるのだが、僕が特にしたいのは「イチャイチャ」なのだ。僕は恋愛のあの雰囲気がたまらなく好きだ。好きがゆえにハードルが高い。(相手からすれば大したことないのもしれないが)僕からすればそれは性行為である。僕は犬や猫、あるいは子どもを、我を忘れて可愛がれる人が信じられない。自意識はないのだろうか。そんな無防備な感情を僕も出したい。僕が唯一そういう感情を出せる形式、それが「付き合っている」ということなのだ。

 僕は「手を繋ぐのとセックスは一緒だ」と思っている。というのも、「手を繋ぐ」は恋愛の「あの雰囲気」を近似的に表現してくれているからだ。下品にも僕が手を繋いだだけで勃起してしまう理由はそういうところにある。そんな危険な(?)行為を、とても「許可」なくしてできたもんじゃあない。

 まあそれでも僕は幸い、勝率は高くないもののバカの一念で告白を成功させてきたことはある。というのもサークラ会誌第五号でSkype掲示板を駆使してきたを述べたが、Skypeによって作り出される「ふたりの空間」においては、わざわざ告白をせずともそれなりの「イチャイチャ」ができたからだ。

 一方で僕は、三人以上の空間においては親密な女性に対して氷のように冷たくなってしまうところがある。親密な女性Aさんを(好意があるからこそ)過剰に意識してしまって、イチャイチャできないどころかちょっと打ち解けたコミュニケーションすらできなくなってしまうのだ。プライベートな好意を他の人間に悟られるのは恥ずかしいし、Aさんは僕と親密な関係であることを第三者に見られるのは困るのではないか? と考えすぎてしまうからだ。そこではやっぱり「許可」がほしい。僕とAさんは公認のカップル、そういう契約がみんなにも知られていれば、まだ多少は気兼ねなく親密でいれるかもしれないのに。まあ実際よくあるパターンとしては、Aさんとは単にある程度親密だというだけで、付き合っているわけでもなんでもないのだが。しかし「親密でいるための許可」を取ることは難しい。「付き合うための許可」としての告白ではなく、「親密でいるための許可」としての50%告白みたいなものがあればいいのだが、という思考実験をしてしまう。こう考えると、人間関係が苦手な人が「友だちだよね?」という確認をするのは、「友だちであることを許可してください」ということなのだろうと思う。

 

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いかがでしたでしょうか。これで全体の1/4ぐらいです。

僕の文章以外にもいろいろと面白い文章や漫画があるのでぜひぜひ買っていただけると幸いです。詳しい目次はこちらに載ってます。それでは。