『精神疾患言説の歴史社会学――「心の病」はなぜ流行するのか』(2013、佐藤雅浩)の簡単な感想

 

精神疾患言説の歴史社会学: 「心の病」はなぜ流行するのか

精神疾患言説の歴史社会学: 「心の病」はなぜ流行するのか

 

 

 情報量が多くて複雑な本だったので、要約はせずに自分が気になったところだけメモしておく。
 「神経衰弱」「ヒステリー」「ノイローゼ」などの「"流行"した心の病」が、新聞上でどのように使われているかの変遷を主に扱っていた。
 どういう条件があれば「心の病」がマスメディア上で流行し、どういう条件がなければ流行しないのかのパターンを分析していて、それは(方法論としては面白いが)メディア環境が変わりすぎるとちょっと無理があるなと感じた。むしろ共時的な言説の布置を丁寧に記述していく質的な分析の方が面白かった。


 一般的に言って、ある「時代」より前(例えば90年代以前、メディア環境で言えば「ネット」以前)に存在した歴史的なパターンみたいなものが、そのまま現代でも通用すると考えるのはちょっと難しいと思うし、現代でも通用すると言いたいのならば現代の状況に即した別の説明を加えることが必要なのだろうなと思った。

 

世間で使われる「病名」と医学的な「病名」のズレの問題

 読んでて強く思ったのは、同じ「病名」でもメディア上での人の名付けと臨床的な医者の診断は分けて考えなきゃヤバいなということ。とはいえ、医学の分野で当然論文や本を書く人はいるし、マスメディア上で医学的な用語を用いて発言する人は(医者や医学者に限らず)いる。有名人や犯罪の容疑者を新聞上で「診断」してしまう人すらいるぐらいだ。
 だから、広い意味での「病名の診断」を医学の側が独占することは不可能なんだろうなあと思った(通俗用語と専門用語がうまく区別されているのは感じるけど)。通俗的精神疾患用語(本で出てきたノイローゼもそうだし、最近で言えば、アダルト・チルドレンとかうつとか発達障害とか)でさえも「実在しない」とまで言うのは難しいと思う。その「心の病」は人々の実感としては「ある」のだから。
 ただ、医者にとってはその通俗的な用語を臨床的に使うには曖昧すぎるし、だから患者と齟齬が生じるんだろうなあ。本でも、新聞読者投稿欄の分析によって、患者側の自己診断の問題が議論されていた。
 その点で面白かったのがヒポコンドリー(心気症)の話で、「自分は病気なのではないか」みたいな過剰な心配やある種の自己診断が神経症的な気分や感覚を引き起こしてしまうという問題、つまり「病は気から」的な話。これがよくあることなのだとしたら、「病名」が流通すること自体とても危険なことになる。
 そう考えると、本の中で、「心の病」の流行の条件として「疾患の病因が不明確である」ということが析出されているのは興味深い。不明確であるがゆえに医者はその病名の扱いに困るのに、不明確であるがゆえに流行してしまうというジレンマがあるように思われる。