僕がシェアハウスに住むのをやめて彼女と同棲するに至った理由、今後の戦略

 ホリィ・センです。

 突然ですが、僕は今、恋人と同棲しています。僕は2015年の4月から今年のある時期まではシェアハウス「サクラ荘」に住み続けていました。だから「いつの間に」と思う方もいるかと思います。10/27(土)17時~の「ポスト・コミュニティスペース」についてのトークイベント

ホリィ・セン×松山孝法×植田元気「『ポスト・コミュニティスペース』を考える」

に先立ち、その経緯を今回は説明したいと思います。

 

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 なんで彼女と同棲しているのか、って聞かれたらそりゃ彼女のこと好きだから。

 「じゃあ今までシェアハウスやってきたのはなんだったの」という人もいるとは思う。

 あるいは、ある意味で好意的に解釈して「ホリィ・センだって一人の人間なんだし、"大人"になって"家族"を作り、"父"になろうとしているんだ」と言ってくれる人もいる。

 それは半分正解なんだけど、だからといって僕は別に「シェアハウス」を捨てたわけじゃない。それどころかむしろ、僕がこれから更に「シェアハウスの人」として邁進していくために必要なステップなのである。

 どういうことか、もうちょっと詳しく言おう。

 

 

サクラ荘での最初の1年で気づいたこと

  僕は2015年にシェアハウスに住み始めた当初、とにかく手探りでやってきた。何しろ、それまで僕は実家暮らしだった。勝手が分からなくていろいろと面倒だし、とりあえず大学の寮に入るとかもほんの少しだけ考えた。でもやっぱ、僕は自分でサークル(サークルクラッシュ同好会)を作った実績もあるわけだし、拠点もやっぱり自分で作ってみたかった。

 

 んで、実際しばらくは僕も右往左往した。家のリビングを外に開きながらも、個々人のプライベートというものは存在する。世間には「一人の時間を大切にしたい」という人もいるが、日々生きてたらそういう時間はけっこうあるものだし、無理に「一人の時間」を作る必要はないと僕は当時思っていた。でも、住人にとっては外から来た人間が深夜にワチャワチャやってるのはやはり迷惑だったような気もする。

 そして、何を目的にシェアハウスに住んでるのかもいまひとつはっきりしていなかった。とはいえ、外から人が来て、何かしら喋って、仲間が増えていく。そんな過程は楽しかった。一緒に住んでる(住んでた)人とはなんとなく絆ができていくし、そういうのも擬似家族感があって楽しかった。

 とりあえず1年住んでみて、考えた末にようやく方針が固まってきた。僕の出した結論としては、「シェアハウスに住むこと」、それそのものが重要だということだ。シェアハウスを拠点に何らかの活動をする団体は今までいくつも見てきた。でも、よく考えるとこの社会で問題なのは、「核家族」と「一人暮らし」という、形態そのものなんじゃないか、と。

 

核家族と一人暮らしの問題点、シェアハウスの重要性

  家庭環境の問題が原因で生きづらい、という人は僕は何人も見てきた。とりわけ、「毒親」と呼ばれる問題が目につくようになった。「毒親」という言葉を見ると、親の人格に問題があるように思えるし、実際そういうパターンもあるのかもしれないが、「毒親」という言葉で家庭環境の問題を片づけてしまうのは思考停止だとも思った。問題はやはり、環境にあるのではないか。

 考えてみれば、日本の子育ては母親に責任が押し付けられすぎである。核家族化が進行して以降、「ワンオペ育児」はますます進行している。共働き化が進む中で時間もなくなっていることだろう。離婚率は増加し、一人親も増えているという。そんな中で、まともに子育てができるのだろうか? 母親は「孤独」だからこそ、「毒親」になってしまうのではないか。

 もちろん、一人親の人間を否定する気はないし、一人親の子育てによって元気に育ってきた子どももたくさんいることだろう。しかし、子育ての負担の重さを考えれば、その負担は一人よりも二人、二人よりも三人、できれば多くの人が分担する方がリスクは小さい、と僕は考えている。もちろん、最終的な責任については、現実的には親などの誰かが背負うことになるべきであろう。

 

 核家族の問題が目につくようになって、一人暮らしにも問題があると思い始めた。僕は大学生をやっている間に、生活が荒廃していく一人暮らしの人間を何人も見てきた。実際、途中で大学に来なくなる人間というのも確実に一定割合存在する。無理もない、高校までの実家暮らしから「解放」され、突然一人暮らしに移行したのだから。羽を伸ばすはずが、気がつけば取返しのつかないところまできていた、ということもあるだろう。

 とはいえ、大学生はまだ親に守られている側面がある。家賃を親が払い、ある種「子ども部屋の延長」として大学生の一人暮らしが行われていることはよくあることだ。それは、「大学生」の期間が通常4年や6年で終わるからということもあるだろう。

 しかし、大学生以外にも目を向けてみれば、「一人暮らし」の問題は思ったより根深いのかもしれない。僕が気になったのはむしろ高齢者の孤独死の問題である。「無縁社会」という言葉が一時期流行し、NHKでも取材がなされたが、どうやら孤独死には男女差があるらしい。ある夫婦において、パートナーに先立たれた場合、妻はけっこう生き残るのに対して、夫はすぐ死んでしまうようだ。この「高齢者の」問題は僕らの未来の姿を表しているんじゃないか? 結婚をする人間が減り、離婚率も上昇している中で、どんどん「孤独」になっていく人間は増えていくだろう。「一人でも生きていける」という人間も確かにいるかもしれない。しかしおそらく、高齢者で起こっている「孤独死」のような問題が(とりわけ男性において)これから増えていくのではないか。

 

 核家族、一人暮らし。いずれにせよ、問題となるのは「孤独」である。そして、「結婚」という物語がどんどん機能しなくなってきていることがこの問題に拍車をかけている。だからこそ僕は「結婚によらない同居」としての、「シェアハウス」をもっと当たり前にしなきゃいけない、そういう使命を抱くようになった(論理的には「シェアハウス」以外にも孤独を解消する手段は考えられるが、今のところ最も賭けるに値する、と僕は考えている)。

 

2年目以降はシェアハウス増殖・後身育成へ

  話は長くなったが、そんなわけで、僕は「ただ単にシェアハウスをやる」というだけではダメだと思った。もちろん、主流の場所に馴染めない人が逃げ込んでくる「駆け込み寺」としてのコミュニティを作ることは大事なことだ。「駆け込み寺」はできるだけいっぱいあった方が社会としては健全だろう。しかし、どうやら「核家族と一人暮らし」、すなわち「家族」の問題は「駆け込み寺」だけではどうにもならない。

 だからこそ、僕はシェアハウスを増やす。とにかく「増やす」。そういう方針を立てた。しかし、これは僕一人ではできないことだ。また、周囲の人間を仲間にしてもまだまだ不十分だ。直接の仲間じゃない人間も勝手にシェアハウスを始めてくれる、そういうところまでいかなくては、日本における核家族と一人暮らしの圧倒的な支配を打ち崩すことはできない。

 こうして、1年住んだ後の僕は、後身を育成することを大事にし始めた。後輩たちが新たにシェアハウスを始めることは歓迎した。新たに家を借りるようにどんどん焚きつけた。しかし、そのシェアハウスを「自治」できるように、不用意に口出しはしなかった(トラブルの解決や空き部屋の補充には積極的に介入したが)。

 拡大路線を敷いたサクラ荘は徐々に増え、2年目には2軒目ができ、3年目には5軒になり、4年目の現在は7軒である。そこそこの成果だが、それでも僕はまだまだ足りないと思っている。今のところすべて京都にしかないというのも不満である。では、これからも数を増やしていくにはどうしたらいいのだろうか?

 

 そもそもサクラ荘は、単に友人をシェアハウスに誘うだけでなく、月1回程度のパーティなどによって外部の人間を積極的に巻き込むようにしている。そうして、気がついたら住人になっているという人がいる。それはこれからも続けていくべきだろう。しかし、「家」は外部に開くことができると同時に、個々人の住居でもある。必然的にプライベートが脅かされることの負担を背負うものがいることになる。2015年4月に始まったサクラ荘1号館もコミュニティとしてはそろそろすり減ってきてしまっていたのだ(実際、パーティが開かれても住人で参加する人は少ない、という状態が続いていた)。

 僕自身も、シェアハウスはどんどん増えるべきだと思うが何も全部が「オープン」になる必要はないと思っている。サクラ荘1号館は人を呼ぶために半ば無理に「オープン」を続けてきたが、今やその役目を終えつつあるのかもしれない。言わば普通のシェアハウスになりつつあるのだ。それはそれで、喜ばしいことである。

 一方、サクラ荘8号館にあたる「フロントライン」は最近、パーティを開き続けている(さっきからパーティパーティと言っていて、どんだけパーティピーポーなんだよと思われるむきもあるかもしれないが、実際のところはダラダラと飲み食いしながら喋っているだけがほとんどである。実態としては「交流会」や「懇親会」がせいぜいだろう)。

 フロントラインはとても広くてきれいで、良い家である。京都では最近民泊についての法律が改正(改悪?)され、ゲストハウスを運営していくことが厳しくなった。外国人向けの民泊として使われていた家が、このたびシェアハウス物件としてまわってきたのだ。10/27(土)の「ポスト・コミュニティスペース」についてのトークイベントの会場はこのフロントラインを選んだ。フロントラインが新たな時代のコミュニティを担っていく、その幕開けを象徴するイベントになれば幸いだ

 ともあれ、僕が3年間蒔いてきた種はどうやら実ったようだ。もちろん、これからも後進育成が必要だとは思っている。だが、ようやく僕は次に進むときがきたのだ。

 

住むのをやめたからこそできること

  確かに僕はサクラ荘の創始者だ。しかし、僕はいつまでも現場でリーダーをやるわけにはいかない。これから新たにリーダーになる人間が発掘されれば、僕は喜んで支援しよう。僕がやるべきことは人に直接指示を出すことではなくて、「場」を作ることである。言うならばプラットフォーマーである。

 そして、これから必要なのは、"サクラ荘以外のシェアハウス"を知ることだ。なぜなら、僕は社会学の研究者だからだ。一つの現場に留まるだけじゃなく、いろんな現場を比較する必要がある。そして、「シェアハウス」とは何なのか、「シェアハウス」はどのように人々の生活を変えるのか、そういったものを探求し、体型的に言語化する必要がある。理論として誰にでも活用できる「言葉」を僕はこれから作らねばならない。「サクラ荘」というローカルなものに留まらない、普遍的な言葉を。

 

 それは、今シェアハウスに住んでいない人にも「わかる」言葉のはずである。僕は今同棲している彼女とは、シェアハウスではないところで出会った。それゆえに、いわゆるシェアハウス的なものにそれほど「理解がある」というわけではない。そんな彼女にも「わかる」言葉でなくてはならないだろう。最後に、彼女の話をしてこの話を閉じようと思う。

 

:補足すると、彼女は社会における核家族の問題点やシェアハウスの重要性などを十分に理解している。ただ、彼女自身は「プライベートは大事だし、シェアハウスに住むのはちょっと……」という感覚を持っている、ということである。なお、この記事は彼女にも事前に読んでもらって掲載の承認を得ている。

 

 

彼女とのこと、これからのこと

  彼女とは、文学フリマ京都で出会った。急いでつけ加えると、彼女は文学フリマの常連、というわけではない。たまたま彼女の友人が文学フリマの主催者側だったために、誘われたということだったようだ。

 たまたまサークルクラッシュ同好会の出していた同人誌を手に取ってくれて、僕の文章を気に入ってくれたそうだ。彼女は「バックナンバーを購入したい」という連絡を僕によこしてくれて、たまたま近くに住んでいたので喫茶店で待ち合わせし、話してみたら意気投合した。ロマンティックで運命的な出会いだった。

 彼女はすごく賢い人だ。社会に流通している言葉を鵜呑みにすることなく、「あるあるネタ」としてメタ化する(なんと学部時代は社会学を専攻していたとのことだ)。人の振る舞いや世間のできごとの可笑しさを指摘し、皮肉ってみせる。「自覚」のない人間にはどこか辛辣でもある。

 彼女はすごく可愛い人だ。気丈な振る舞いで人に合わせることもできる中で、とても神経質なところがある。彼女は(僕の前では特に?)感情豊かで、コロコロと表情が変わる。笑った顔も可愛いが、困っている表情を見てもとても愛おしくなる。

 彼女はすごく面白い人だ。interestingだけでなくfunnyでもあると思う。おそらくサービス精神もあるのだろう、抜群の瞬発力で、メーターの振り切れたようなアクションをしてくれる。持ち前の皮肉さもあって、僕をとても自由な気持ちにしてくれる。僕が生きてきた中で、笑いのツボの合う人は本当に1人2人しかいなかったと思う。それも女性では1人もいなかった。彼女は僕にとって唯一の存在である。不謹慎なことでも笑い合える、そんな共犯関係を、死ぬまで続けたいと思う。

 

 そんな彼女と話し合ううちに、同棲しようということになった。考えてみれば、これはごくふつうのことだ。確かに、左翼の界隈には、恋人同士でシェアハウスに住み、シェアハウスで子どもを産み、シェアハウスで子どもを育てる、みたいな人もいる。

 しかし、子どもを産み育てるという人の中で、そんな共同体主義者はマイノリティであろう。僕が「研究者」として普遍的な言葉で語るということは、「他者」にも通じる言葉で語るということである。そんな僕が、「最初からシェアハウスで生活してくれる人としか付き合わない」という態度でどうする。恋人だから誰にも邪魔されず二人で一緒にいたい。自分の子どもだから知らない人には預けられない。何度も言うがこれは「ふつうのこと」だし、この「ふつう」を簡単に否定することはできないはずだ。もちろん、シェアハウス内での恋人関係を否定する気もない。

 

 彼女はある意味で「ふつう」の人間だと思う。おそらく僕にもどこか「ふつう」なところがあると思う。しかし、シェアハウスにとって「ふつう」は一種の「他者」であろう。もっと具体的に言うならば、多くの人にとって、「プライベート」であるということが「所有」するということが、恋愛や子育てにおいては不可欠に感じられるところがあるのである。それも、深く根差した感情のレベルで、である。

 僕はプライベートの感覚や所有の感覚をぶっ壊してやろうなんて思っちゃいない。彼女は物を共有しないし、プライベートを大切にする。それはそういうものだし、とても多くの人が共有している感覚だと思う。だからこそ、僕はそういう人から逃げるのではなく、対話しながら未来を作り上げていきたい。

 

結論

  僕が「シェアハウスに住むのをやめた」のはプラットフォーマーになり、研究者になるからである。

 僕が「彼女と同棲し始めた」のは彼女が好きだからであり、彼女という他者との未来を考えるためである。

 僕は彼女と結婚しようと思っている。未来のことはまだ分からないけど、もし彼女との間に子どもができたなら、僕は「子育て」を軸に新たな共同性を構築したいと考えている。なぜなら、子育ての負担を分担しなければ、また新たな悲劇を生むことになってしまうからだ。しかし、その具体的な形態は彼女抜きに決められることではない。

 僕は今、そういうことを考えている。