西一風『ソフトマシーン』の感想

連続ツイートで観劇の感想書くのが面倒くさいときはブログに書く。


静かな(視覚的にも聴覚的にも)演劇がそもそも苦手なんだけど、それでいて意味の追いにくい作品だったから疲れた。象徴解釈からぽつぽつ書いていく。

日常におけるあらゆる振る舞い、それも他者によって制約を受けるような振る舞いを「飲食」によって象徴してたのかなあと。
それでいて、主人公に随伴するお寿司は①食べるか食べないかという決断②放っておくと痛む③増えたりなくなったりする④(ペットのごとく)所有している⑤他者から干渉を受ける(羨ましがられたりする)、みたいな特徴があった。ということで、心の状態とかチャンスとか財産とか能力とかアイデンティティとか自分そのものを象徴してたんかなあと。
「他者からの干渉」という点は特に執拗で、家庭、職場、病院(あるいは寿司屋。板前服と白衣という二重性を持っていたと思う)の3つの場面が反復されるのが主だったんだけど、それぞれで主人公は異なった干渉を受ける。そこでは「食べないんですか?」と「食べるな(わきまえて)」との二つのメッセージのダブルバインドに主人公は拘束されている。
最初、病院(寿司屋)から始まるけど、カウンセリングみたいなものだと解釈してる。寿司を食べたいけどずっと食べられないままであるという神経症的な状態であり、自分を見つめなおす機会であり、という感じ。寿司をあぶるシーンは、カウンセリングというよりかはもっと暴力的な人格改造がおこなわれている感じ。現代で言えば、向精神薬だろうなと。寿司をあぶってもらった主人公は「くさくなくなった」と言われるわけで、見かけ上の社会適応が行われたということだろう。
家庭では父親(すなわち、超越的な命令を下す他者)がいないのが象徴的で、父親がいない主人公は決断ができないのだろう。そして、母親が「食べること」(あらゆる振る舞い)に対して干渉してくる。きょうだいたちがどういう象徴的な意味合いを持ってたのかはイマイチ分からなかったんだけど、とりあえずおのおのが勝手な感じだったなあと。次男がハマチをいとも簡単に食べてしまうのは、食べる決断ができない兄との対比がなされてたなとか。次男はあと、おにぎりを「ソフトマシーン」として「自分もそういうものがほしい」的なことを言っていて、それは兄とは違う意味でのアイデンティティなのかなと。
職場では食べることが上司の顔色を伺いながら行われている。寿司が「くさい」とか「くさくなくなった」とか言われることでいわゆる「社会の目」が象徴されていた。ティッシュで覆われる寿司、「食べていいか」と聞かれて「これは自分のだ」と所有権を強く主張するような寿司。いずれにせよ、「自分」を出しすぎても閉じすぎても社会ではうまくやっていけないんだなあとか思わせる象徴だった。

で、全体の流れ的なものを見ると、たくわんの工場も含めて、循環していくルーティーンが象徴されていたなあと。閉塞したルーティーンで決断せず(寿司を食べず)ただただ過ごしていくとチャンス(寿司)はいつの間にか失われているのだなと。そして、最後、主人公は舞台セットで頭を殴られるわけだけど、舞台セットは社会の枠組みを象徴してたのかなと。社会の枠組みから自由になってそれに頭をガツンとやられれば、何か救いはあるのかなあと。
最後、医者(板前)の「ヘイ」で終わったけど、あの「ヘイ」は、医者の患者に対する相槌「はい」であると同時に、寿司屋で無意味に繰り返されるルーティーンとしての掛け声なのかなぁとか。いずれにせよ、精神医療を含んだ広い社会のシステムに飼い慣らされていく過程をこの作品は批判していたのかなぁとか思った。
そういう意味で「ソフトマシーン」というタイトルを考えると、「ソフトになれ」(社会適応しろ)ということと、それの結果として「マシーン」(主体性を失った機械)に成り果てるということなのかなあと。回転を終えてしまったマシーンはすなわち、資本主義システムにおいて生産力を失ってしまった人間なのかなぁとか。

なんか長々と書いたけど、最初に書いたように、苦手なタイプの演劇だったので好きではなかった。さらに言えば、こういう抽象的な作品を観てて、頭の中にバラバラの考えが浮かんでくるのは好きではなくて、もっと一貫して分かりやすい象徴ばっかり使ってくれるんならば、そこまでしんどくないんだけどなぁとか。ルーティーン的な反復が短くなっていって、どんどん雑になっていって、最後、家族が職場に来るのとかは破綻としてのクライマックス感が出るし好きなんだけど、やるんならもっと露骨にやってくれた方が好きだなぁ。

あと、言葉の響きにこだわってたんだなというのは伝わってきたけど、なんでそうしてたのかはよく分かってない。「わきまえる」、「たずさえる」、「あぶる」、「くさい」、「すし」、「めし」、「ゆば」、「たくわん」、「はらす」、「たきけ」など。あとキャラ名。強いて言うなら繰り返し文字をあんまり使ってない気がする。普段あまり使わないけど面白い言葉の響きってあるよなあ。

人間とのコミュニケーション以外には興味がないことについて

僕のもはやアイデンティティとなってしまった「サークルクラッシュ同好会」だが、実は今年で4年目(まともな新歓は3年目)だ。そんなわけで、もうずいぶんと「新歓」なるものも(良い意味で)ルーティーン化されてきた。

そんなわけで、大体毎年、「こいつはヤバイ」みたいな人が何人かは来るのは分かりきっていたのだけれども、新歓初日に来た1回生(悪い意味で意欲的だ)の一人と話し、なぜサークラ同好会に来たのかを尋ねた。すると、「人間が、好きだからです」(要約)という答えが返ってきた。僕はその言葉にビビっときたものがあり、意気投合していろいろと濃密なコミュニケーションを取った(その人は今やサークラ同好会の一員だ)。

 

「人間が好き」について

「人間が好き」にビビっときたというのはけっこう根深い話で、ホリィ・センのプロフィールなんかにもそういうところは出ている。趣味の欄で「人間に直接関わってくる学問(心理学(特に精神分析)、社会学、哲学など)」と書いている。もはや社会学は専攻なので、「趣味」ではないだろうが。

で、プロフィールだけじゃない。僕が本質的に人間が好きなんだなというのは中学生のときから伺える。僕は中学生のときからホームページを作ったりブログを書いたりしていたのだけど、そのホームページやブログの名前は「(前略)人間と(ry」というものだった。

中学生らしい気取ったタイトルで、この「略す」というものに変な魅力を覚えていたのだろう。正式名称は、今見たところ「管理人ホリィ・センのハイクオリティでネガティブな主観と人間とキャラと萌えと燃えと妄想と夢と理想と名言と本当の幸せを追求するブログページ(の予定。理想は高く現実は虚しく」らしい。中二病だ。ちなみに「理想は高く現実は虚しく」の部分は『フルメタル・パニック!』シリーズの短編、「音程は哀しく、射程は遠く」から取ってる。普通の人からしたらいわゆる「黒歴史」なので、消してもいいんだけど、いかんせん自己同一性への固執が強いので、中学時代のブログは敢えて未だに残してある。閑話休題

この「人間と」の部分を残したのに端的に現れているように、僕は「人間」に、それこそ中学生のときから、強い興味が惹かれていたのだと思う。

 

興味がないものについて

「人間」に興味がある。では逆に、何に興味がないのだろうか。それも、ホリィ・センのプロフィールに書いている。コピペ。

インポ:
音楽
人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)
旅行
食べ物

タバコ
コーヒー
ペット
読書そのもの
ミステリ小説
小説等における風景描写

「インポ」、つまり男性器が反応しない程度に興味がないっていうまた気取った書き方で申し訳ないんだけど、ここに見られるように、やはり人間には関わってこないところなのだと思う。「人間が好き」、そのまさに反対として「人間以外に興味がない」ということが大体成り立っている。

ホリィ・センは自意識の強い人間なので、幾度となく自己分析を繰り返しているのだけど、改めて「人間が好き」という根本的な点が真っ先に口に出る人間と出会うと衝撃があった。そこで、僕は更に考えを深める。

 

「人間とのコミュニケーション」ということ

そうして、考えてみて気づいたのだけど、僕は本当は、

ということなんじゃないかということだ。このことには1ヶ月前にぐらいに気づいたんだけど、ふと耐え切れずツイートしてしまった(あまり考えずにツイートした)ので、せっかくだしもう少し整理してブログに書こうと思った。

そして、思ったことはこうだ。学問でも趣味でも何でもいいのだけど、「人間とのコミュニケーション」が含まれない行為は実際のところほとんどない。多少、「人間とのコミュニケーション」の要素は混じってくることは多い。

例えば、読書をするにしても「作者が書いた文字を読む」という点ではコミュニケーションだし、アニメを観ていても、作者の思考がそこに現れている。また、直接的には、声優がキャラクターの口を通じて視聴者に語りかけてくる。

つまり、人間とのコミュニケーションそのものを100%純粋な「人間とのコミュニケーション」だとすると、50%のものもあれば、20%のものもあり、2%のものもあれば、0%のものもあるだろうということだ。だから、「コミュニケーション純度」の高いものを僕は好きで、ほとんどコミュニケーションの含まれていないものにはなかなか興味が湧かない傾向にあるのだと思う。

その中でもやはり僕は100%純粋な人間とのコミュニケーションがとても好きだということに気づいた。僕は去年無職で、だいぶ暇な時間があったのだけど、思えば毎日のようにSkypeで誰かと喋っていた。そしてTwitterをしまくっていた。それほどにコミュニケーションばかりしていた。そこには、「恋愛」も含まれている。

院生となって忙しくなった今でも実はコミュニケーションから離れたわけではない。実家は出たものの一人暮らしは嫌で、シェアハウスに住み始めた。それも、外部から人の来るオープンシェアハウスだ。僕はどうにもこうにも、人とのコミュニケーションが好きすぎてしょうがないのだと思う。

逆に言えば、それ以外は何もかも根本的には苦痛なのだと思う。

そういうわけでごめんなさい、僕にとってはアニメを観るのも漫画を読むのも読書をするのもゲームをするのも、原理的には苦痛なんです。

 

その他細かい補足と蛇足

「ある選択した行為それ自体(「読書をする」とか「アニメを観る」とか「人とコミュニケーションをする」)にどれだけコミュニケーションが含まれているか」という尺度を先ほど挙げたが、ツイートでも示唆されていたように、「ある選択した行為がどれだけコミュニケーションの役に立つか」という尺度も自分の中では重要である。

さまざまな知識や経験を積み重ねることによって、コミュニケーションはかなり豊かになる。僕が(読書するのが苦手なのにもかかわらず)半ば強迫的に読書を重視するのは、そういうところに原因がある。

中学生のとき、名作アニメを観ることを「消化」などとよく言っていた。この「消化」という言葉にはネガティヴな響きがある。そのときそういう言葉遣いをしていたのは、今にして思えば、名作アニメを観ること自体に楽しみを覚えていたのではなく、その先にあるコミュニケーションがメインディッシュだったからではないか。つまり、アニメは単なる手段であって、コミュニケーションという至上目的のための道具でしかない、だから「消化」するものなのだということだ。

 

もう一つ、付け加えておこう。これは今回の話とは少しばかりズレるのかもしれないが、関係のある話のように思うので。それは「行為を始めることの面倒くささ」だ。誰しも経験があると思うが、学校に行ったり習い事に行ったりするのが億劫で、面倒くさいことは今までの人生で経験してきた。

僕は小中学校の頃に野球をやっていたのだが、その練習などは端的な例だった。僕は練習に行くのが億劫で、好きで始めたはずの野球も、練習が休みになると喜んでいた。

このパラドックスの答えは、『おおきく振りかぶって』という野球漫画にあった。その漫画においては、ご飯を食べる際に

①食べる前に「うまそう!」と言う

②食べてるときは「うまい」

③食べた後は「うまかった」と言う

ことが重要視されていた。これは、野球の練習のためだ。普段から何事に対しても「(やる前から)楽しそう→(やっているとき)楽しい→(やった後)楽しかった、またやりたい」というサイクルを作るのが重要で、野球の練習は単調になりがちだし、このサイクルが重要だという考え方だ。

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(意識的に「うまそう!」って言ってるシーン)

僕は正直言って何事も面倒くさい。「楽しそう!」という回路がどうも働かない。普段やってない勉強とかゲームとかも久々にやり始めてみるとめっちゃハマるものなのだが、どうも一歩目が踏み出せない。

そして、これはなんと「人間とのコミュニケーション」にも当てはまる。僕は人に話しかけるのがはっきり言って面倒くさい。いつもいつも、誰か話しかけてきてくれた人とコミュニケーションをとっている。

人間とのコミュニケーションはさっきも書いたようにやっているときは楽しい。でも、話しかけるのが面倒なのだ。もっと言えば、話題がないと話しかけられない。僕は実のところ、話題なんてなくても人と話したい、それ自体が楽しいといつも思っているのだけど、話題がないとどうにもこうにも話しかけられない。

僕はけっこう「何もないけど、話したい」と思っているのだけれども、気がついたら自分からは誰にも話しかけることなく一日は終わっているなんてことは、よくある。話したい人ともっと話したいなあ。

僕の好きな「人間くささ」について

僕は人間が好きです。人間が好きな反面、そっちに興味のリソースが割かれすぎているのか、人間と直接関わってこないものには食指が動かないことが多いです。

それこそツイッターの詳細プロフィールにも書いたのですが、人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)に対して興味が湧きません。ついでに言えば、食べ物とか音楽とか嗜好品(酒・タバコ・コーヒー)もどうも興味がないです(それらはけっこう人間と直接関わってくる気もするけど)。

 

そして、僕が「人間が好き」と言う時、「人間くさい」のが好きだと言うこともあります。

例えば、女性少数男性多数のサークルクラッシュを想定して、僕は

「サークルクラッシュの何が面白いって、女性なんて星の数ほどいるのに、わざわざ狭いコミュニティの1人に対して恋愛をしてしまう、その”視野の狭さ”なんですよね。自分の接する女性が母親とその1人の女性ぐらいしかいないから、その女性が”女神”みたいになってしまうわけですよ。しかもそれを同時に複数の男がやる。その女性も大して魅力的でもないのに、チヤホヤされて調子に乗る、みたいな。この集団の異様さ、醜さって、すごく人間くさいからサークルクラッシュが好きなんですよね」

といった具合のことを言います。

でも「人間くさい」ってなんなんでしょうね? 僕自身、「人間くさい」という言葉を使いながら、その言葉が指す意味内容をなかなか具体的には言語化できません。かなり感覚的なものです。

 

しかし、その感覚はこうなんじゃないか、という言語化のヒントを最近得たので書いていきます。

 

人狼における判断

それはある日、人狼というゲームをやっていたときのことです。人狼というゲームは簡単に言えば、ウソをついている人狼を探し、処刑するゲームで処刑されなければ人狼の勝ち、処刑できれば人間側の勝ちというもので、僕は人間側でした。

最終日、僕は人間側で、残り2人のどちらかが狼という状況でした。僕は戦略的に「Aさんが怪しい」ということを主張し続けていました。しかし、実際のところ僕は本当に怪しいと思っていたかは微妙で、「Aさんが怪しい」という主張に対して他の人の反応を見ていました。しかし、それらの反応を見ても決定的な判断材料は得られませんでした。

最終的にAさんではなくBさんを処刑先に選んだところ、Bさんは人間側で、人間側は敗北しました。

人狼においては、それまで考えていたことが最終日になって突然翻ることがままあります(「最終日の魔力」などとも言う)。ヘタをすれば、人狼側がそれまでの主張とは違う(あるいは論理的に矛盾した)ことを言っていても、人間側はそれに気づかないことがあります。

 

それほどまでに人間の判断は脆弱です。僕は人狼というゲームは大好きなのですが、人狼がウソをつくゲームであり、人を騙すゲームであり、会話によって成り立つゲームである、すなわち人間同士のコミュニケーションを重視したゲームであるということは僕が人狼を好きな理由の1つのはずです。

しかし、どうやら僕はそれと同等に、人間の判断の脆弱さが好きなのかもしれません。これを僕は「人間くささ」と言っているような気がします。

別の例を挙げましょう。

 

未来日記』のユッキーのクズさ

僕は2011・2012年にやっていたアニメ『未来日記』(元は漫画)が大好きでした。話自体が好きとか、声優が好きとかそういう側面もあるでしょうが、何より惹かれたのはキャラクターでした。

特に、主人公の天野雪輝ことユッキーと、そのユッキーに異常な好意を示す(いわゆるヤンデレの)由乃が好きでした。

未来日記はいわゆる「デスゲーム」系の作品で、個々のキャラクターが自身の特殊能力を以て、生き残りを賭けて戦います。そんな中では裏切りの場面や、自己保身のために人を見捨てる場面もけっこうあります。主人公のユッキーはその代表格で、視聴者のコメントでは「クズ」扱いされまくってました。

仲間を守るかのようなまともな決心をしたかと思えば、すぐに切り捨てるクズっぷりは見てて爽快です。しかし、かといって完全にクズというわけでもなく、その判断に罪悪感も見てとれます。そして、最後には主人公らしい決断を見せてくれて、まるっきりクズでもなかった、「カッコイイ!」ってなりました。

また、由乃に関しても、ネタバレになるので言えませんが、一筋縄ではない感じで視聴者を裏切ってくれます。

 

そこに僕はやはり「人間くささ」を感じているようです。これはつまり、「一貫性のなさ」に対して魅力を感じています。簡単に揺らいでしまう決心。それこそが人間くささなのだと。

あるいは、クズだと思っていたら決めるところは決めるというところ。プラスからマイナスへの変化は一般的にはネガティヴな感じですが、マイナスからプラスへの変化はいわゆる「ギャップ」に対する魅力とも近いでしょう。あるいはそこに僕は「成長」を見いだしているのかもしれません。これは「一貫性のなさ」と区別がつけにくいので難しいところです。

 

もっと一般化して言えば

人間の判断の脆弱さ、あるいは一貫性のなさ。そのあたりを鍵に僕のこれまで好んできたものを想起してみました。

必ずしも関係があるかは微妙なのですが、僕はキャラクターが成長する作品が好きです。新しい能力を身に付けるバトル漫画やスポーツ漫画、また弱いながらに工夫して強敵を倒すのなんかは昔から大好きです(バトル漫画ではドラゴンボールの「ヤムチャ」とダイの大冒険の「ポップ」の対比が語られることがありますが、両方とも好きなキャラです)。

サークルクラッシュの場合もそうでしょう。硬派なオタクだったはずの人間が、目の前に恋愛の機会が訪れただけでフラッとそっちにいってしまう。そこに悲劇と同時に喜劇を感じているわけです。

そこにあるのは、人間が状況に左右されやすいということ、その「変化」だと一つには思います。

あるいは、これとは違う考え方なのですが、人間が「クズであると同時にクズでない」というような「複雑さ」(複数の異なるものが同居しているという意味でcomplexityと言うべきものでしょう)に対して人間くささを感じているのだとも思います。

 

そんなわけで、僕は一貫性なんてものはあんまり好きじゃありません。むしろ、状況次第で簡単に手の平を返してしまうそんなところに「人間くささ」を感じるし、人間のそういうところが好き/そういうところを持った人間が好き なのだと思います。

 

もっと社会に沿った価値観で付言しておけば、一貫性は「意固地」ということでもあると思います。僕は他人の話を聞かない人間は好きじゃありません。変化しうるということは他人の話をちゃんと聞いて、柔軟に対応できる(それを受け入れるか受け入れないかを判断し、選択できる)ということだと思います。そういう意味でも、僕は一貫性のない人間;人間くさい人間が好きです。

外山恒一さん主催『学生向け「教養強化合宿」』のレポートと個人的感想

外山恒一さんの主催する第2回・学生向け「教養強化合宿」に参加した。

この記事にもあるように、毎日"9時5時"で3冊の本を読み進めていくというものだったが、参加して良かったのでレポートしたい。
要約して言うと、
①合宿の環境がサイコー!
②人文系学問を学ぶ上で、左翼運動史から入るのは正しい!
③有機的にいろいろ関連づけて歴史を学ぶのは楽しい!
④外山さんはすごい!
って感じ。

 

場所について

福岡にある一軒家は隠れ家のような感じで、本が大量にあった。既に何かしらの運動を展開している人の著作が並んでいるのもさることながら、普通に大学生が読むような思想書、教養書の類が大量にあった。

また、ある程度体系化されており、本棚ごとに左翼系本棚、右翼系本棚、教養系本棚、インターネット系本棚、演劇系本棚等々、漫画や雑誌なども含めてかゆいところに手が届きまくるラインナップだった。いくつか読んだけど、もっと読みたかったぐらいだ。
また、大量のVHSやCDが並んだ「視聴覚室」もあった。そこには昔にヒットした映画や音楽がジャンル問わず並んでいて、外山さんの文化的な教養を伺わせる。
この「ジャンル問わず」というのは視野を広くするために、つまりは思想的なバランス感覚のために重要だというのは一つあるだろう。しかしそれだけではなく、外山さん流の歴史理解においてもこれは重要なのだと後で分かった。それは後に述べる。

 

勉強の環境について

"9時5時"を銘打つだけあって、読書自体は緊張感を以っておこなわれていた。1節分を全員一斉に黙読して、全員が終わったら外山さんによる解説と、分からない部分に関する質問。そしてまた1節分を全員一斉に黙読……をひたすら繰り返すというものだ。外山さんのお話は分かりやすく、背景知識と予備知識の解説がとても丁寧だった。ホワイトボードを使って年号を書きながら歴史的な流れを追ってくれるのは分かりやすかった。

 

僕以外にも学生の参加者が2人いたけど、2人とも読むの早いなあって思った。外山さんの界隈からもう1人参加されていて、その方と僕の読む速度が同じぐらいで律速になってる感じだった。まあその分、集中して読めたので良かったというか、あそこまで毎日集中して読書をするのは正直初めてだったので、単純に勉強として良い経験になった。環境を整えるのって大事なんだなあと、個人的感想。
"9時5時"もけっこう疲れるけど、グダグダになりすぎないちょうど良い強度だったように思う。周りに特に遊ぶ場所もなく、ずっと合宿所に篭ってるのがかえって良い刺激になった(まあコンビニとかはあるんでちょいちょい行ってたけど)。ご飯も用意していただいて、こちらが負担するのが交通費だけだったというのもメチャクチャありがたかった。

 

読んだ本について

合宿で読む本の内容については、夏のときの体験記に詳しく書いた方がいるようなので、


僕はもう少し簡潔に書きます。


まず1日目に読んだのは「マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ)」というイラストを中心としたマルクス理論の入門書。特に50年代後半~70年代ぐらいまでの新左翼運動史において用いられたマルクス-レーニン主義についての解説がまとまっている。歴史的な背景も合わせて理解すれば「マルクス主義」の左翼運動における「使い方」がひとまず分かる。

 

2日目、3日目に読んだのは『中核VS革マル』というジャーナリストの立花隆さんが書いた新左翼運動史についての本の上巻。主に革共同革命的共産主義者同盟)という党派がいかにしてできて、いかにして分裂していったかの「内ゲバ」の歴史を描いているのだが、1冊目の理解を元に読めば、各党派が何を目的に運動しているかなどがクリアーになる。この本だけでも十分に面白いのだが、外山さんが登場人物の背景や、他で起こっていた運動、その後の運動史などについても詳しく解説してくれたのでとても面白く理解できた。
一般的なマスメディアでは東大での全共闘運動が学生運動のピークで、「連合赤軍事件」と「あさま山荘事件」をもって象徴的に左翼運動は衰退したと思われがちなのだが、実際のところはそんな単純な話ではないというのがよくよく分かった。今までの無知を恥じる。

 

4日目、5日目に『ユートピアの冒険』というマルクス以後のポストモダン思想についての解説書。2冊目で新左翼運動史を理解した上で読むことで、いかにしてマルクスは批判できるかがよく分かる。構造主義やポスト構造主義の思想(主にフランス現代思想と呼ばれるものと重なることが多い)は難しくて分かりにくいことで有名なんだけど、左翼運動という具体的な実践や、当時の日米の経済状況と絡めて理解することでかなりスッキリ理解できるし、理論でガチガチな「思想」をどのように「使う」ことができるかが分かる。著者の笠井潔さんが出す比喩も分かりやすくて、これはとても面白かった。
(余談だけど、80年代初頭のニューアカデミズムブームと、それに影響して出たもろもろの本は、2015年の今でも全然価値を失っていないと思う。原書・翻訳はやっぱ読みにくいのも多いし、せっかく日本人がいろいろ書いているんだから日本人のものから入っていく方が分かりやすくて効率が良いことが多い。ということで、2015年の今でさえ、思想を学ぶのであればニューアカブームの本から入っていくのは正しいんじゃないか、とすら思った。「新しいからより洗練されてより分かりやすくなっている」ということはあまりないように思う)

 

6日目は『1968年』というちくま新書の本をちょっと読んだ。外山さんはスガ秀実さんをいろんなことを根拠に語ることがけっこう多かったんだけど、その人の本。5日間でやってきた新左翼運動史についての復習にもなったし、綿密な取材・研究に裏付けられた戦後思想についての本だった。現代思想を考える上で、「1968年」(そして1970年の華青闘告発)がいかに重要な歴史的転換点だったかがよく分かる。


歴史の学び方とその意義について

と、まあ読んだ本についてはこんな感じだが、ずっと読んでいたわけでもなく、外山さんがこれらの本にはない運動史や当時の文化・経済・社会状況について解説してくれることも多かった。外山さんは政治情勢や国際情勢だけでなく当時流行った文化について、それこそサブカルも含めてたくさん語っていたのだが、それにはとても意味があった。
外山さんによれば、年号ごとに当時のできごとや、流行ったものをひたすら並べて書いてみると、それらに通底する思想や背景が浮かび上がってくるようだ。当時の社会情勢は音楽漫画小説演劇映画などのサブカルチャーにも影響を与えているわけで、そのあたりを丹念に追うことで逆に社会が浮かび上がってくるということだ。
外山さんの『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』はおそらくそういうコンセプトで書かれている。 

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

 

 

個人的な話になるが、僕は中学校高校で受けていた世界史や日本史の授業が嫌いだった。とても無味乾燥で興味を持てず、面白さが分からなかった。そのまままともに世界史・日本史をやらずに大学生になったはいいが、人文系の分野に進むにあたって、割と基本的なことも分かっていないことがコンプレックスだった。人文系学問において、基本的な世界史・日本史は共有された前提みたいになっているように思う。だから学ぶ必要があったのだけど、どうしても興味が持てず悩んでいた。
そんな中で、この外山さんの合宿に行ったことで、誇張ではなく初めて「歴史が面白い」と思った。一般的に言って、何事も有機的に関連付けてワンセットで勉強した方が楽しい。今回の合宿では「政治運動」と「思想」と「文化・社会」を有機的に関連づけて勉強し、それを肌で実感した。
「哲学オタク」や「クイズ王」などに対する批判はその意味で有効であろう。それはつまり、実際の社会・文化から遊離した思想や知識は無味乾燥になりがちで、それらの思想・知識を用いて何かしらのムーブメントを起こしたくても「使えない」ということだ。
ということで、合宿では正しく「使える知識」を学べたと思う。これは学校教育では得られないものだ(だって、学校では社会で流行ったサブカルチャーとか個別具体的な運動についてこんなに詳しく教えてくれないもん)。

 

外山さんについて

外山さんはファシストを名乗っていて、世間の人らはいかにも政治的に偏った「イメージ」を抱きがちだと思うのだけど、それは一面的な見方だと思う。まあ特異な人ではあると思うんだけど、考えていることは至極まっとうで真面目で、とても視野が広い。それは合宿所の蔵書や映画、CDなどを見るだけでも分かるのだが、外山さん界隈(我々団界隈)にいろんな面白い人たちがいたことからも言える。(それこそ外山恒一と我々団のいくつかの文章を読めば、外山さんがいかにまっとうに考えているかがよく分かる)

偏りのある人もそこそこいるように思ったけど、だからこそいろんな人と接していて外山さんは達観しているんだなあと思った。外山さんが語った「活動家列伝」のようなものは、むしろ外山さん自身の度量の大きさを伺わせるものだった。

 

最後に、このような合宿の場を設けていただいたことに本当に外山さんには感謝しています。
今後も僕は僕なりに活動していきます。サークルクラッシュ同好会とか。

サークルクラッシュするシェアハウス――「サークラハウス」やります

2015年4月より京大の院生になります。ホリィ・センです。

ということで、4月より23年間住んだ実家の滋賀を出て、京都の京大近くに住むことにしました。
ただ住むだけじゃつまらないということで、「住み開き」やら「コミュニティスペース」やらと言われるタイプの、外部の人間がいつでも入ってきていいオープンシェアハウスをやろうというわけです。

 

ですが、ただのシェアハウスと侮ることなかれ。この「サークラハウス」は二つの独自性があります。
一つにはそれは「大学サークルと直結したシェアハウスである」ということです。
ただし、これはまあ先例がないわけではありません。京大でもボヘミアンというサークルは既にそれをやっていますし、サークルではないシェアハウスが大学内でビラを貼っていることも珍しくはありません。

 

本質的に重要なのは次に述べる独自性です。それこそが、サークルクラッシュするシェアハウスであるということです。
ここでのサークルクラッシュとは恋愛を原因とした人間関係の悪化のことを言っているのですが、サークルクラッシュが起こることの利点は大きく4つあります。

 

1.危機(クラッシュ)を乗り越えることで深まる絆

サークルクラッシュは人間関係崩壊の危機です。最悪の場合は集団が解散にまで追い込まれます。
しかし、その危機をどのように乗り越えるかがポイントです。うまく自浄作用が働き、自然淘汰された後に残った人間はそれはもう強い団結力を見せます。
そして脆かった集団はより強固に、言わば免疫力・再生力がつくわけです。
サークラハウスはサークルクラッシュするたびに何度でも蘇ります。

きたるべき新たなサークルクラッシュも何度でも乗り越えます。

 

2.創造のための破壊(クラッシュ)

集団は固定化してしまうと柔軟性を失います。すると、時代の変化に対応できず取り残されてしまいますし、新たな発想もできなくなってしまいます。
そこで、集団を固定するのではなく、人の入れ替えにおいて流動性を確保します。
すなわち、サークラハウスは創造のためにクラッシュします。
そうしてサークルクラッシュによって人間の新陳代謝が行われ続けることで、目まぐるしく変化する時代に対し、新たな価値を創造します。

 

3.試行錯誤(クラッシュ)によって得られる最適解

「学校では勉強は教えてくれるのに、なんで人間関係や恋愛は教えてくれないの?」と疑問を持ったことはありませんか?
これはつまり、日本の教育システムにおいては、基本的に人間関係や恋愛は家庭や実践で学ぶようになっているということです。
しかし、ちょっとした違いで他者から排除され、イジメられたり、輪から外されたりする人がいます。こういった人たちは恋愛はおろか、コミュニケーションを練習する機会も与えられません。
そんな人が大人になったとき、早いうちに人間関係の失敗を経験して学べるならまだマシです。その人は反省して、次に繋がるわけですから。
問題なのは、過去の排除から人間関係を恐れ、受け身になり、なかなか人間関係を作れない人です。この人たちは「失敗すらできない」のです。
失敗は成功の母。サークラハウスは人間関係の失敗が最大限許容される場です。
サークルクラッシュによるトライアル&エラーを繰り返す中で、人間関係における自分なりの最適解が見つかるはずです。

 

4.閉じこもっていた殻を破る(クラッシュする)解放


受け身なコミュニケーションを身に付けてしまった人は、なかなか人に話しかけられません。そして、「話すべき話題がない」、「なんで自分はあそこで話しかけられないんだ」と自分を責めます。
しかし、自分を責めたところで何も変わりません。変えるべきはまず環境です。受け身のままでいいからまずサークラハウスでクラッシャーに出会いましょう。
クラッシャーはフレンドリーです。受け身の人にも壁を作らず、分け隔てなく接してくれます。そうして、受け身の人が閉じこもっていた殻を破り、能動的なコミュニケーションの契機が得られます。
つまり、サークルクラッシュは受け身コミュニケーションの人が解放されるのに必要な過程です。恋愛弱者の一発逆転の場です。人生の敗者復活戦です。
サークルクラッシャーが「一発逆転」の「救世主」であるということについては

サークルクラッシャーという名の救世主 - 三本目の裏通り

を参照)

 

 

以上4点より、サークルクラッシュは起こすべきです。サークラハウスはサークルクラッシュします。

サークラハウス」はサークルクラッシュすること、すなわち失敗することを前提とした次世代型コミュニティというわけです。

 

もっと細かい理念やルールは追って決めていきますが、
サークラハウスに賛同していただける入居者や出資者を募集します。よろしくお願いします。

興味がある、入居したいなどの方の連絡先は
circlecrush☆gmail.com(☆を@に)
または、@holysen@circlecrushTwitterアカウントまで。
ちなみに京大近くで家賃7~10万円の一軒家を5人ぐらいで住む予定です。

 

(完全にテキストサイト調の煽り文章だ)

青春18ストーカーきっぷ

新年早々、青春18きっぷで東京から関西の実家まで帰っていたわけなのだが、そこで僕は神秘的な体験をしてしまった。

読書をしたり寝たり乗り換えたりしながら、ぼんやりと長い長い静岡県を抜けていき、愛知県の豊橋で乗り換えた。気がついたら寝てしまっていて、電車は大垣で停車していた。

寝ぼけた感覚でアナウンスを聞いていたが、その電車はそのまま米原に行くということで、乗り換える必要はないようだ。と、ふと気がつくと左斜め後ろにいかにも清楚な格好をした美少女が座っていた。

 

***

その美少女は携帯も触らず、ぼんやりと虚空を見つめたり、お茶を飲んだり、持ってる荷物を整理したり、上着を椅子の後ろにかけたりしていた。ちょうどその美少女の前に座って携帯を触っている女性とは大違いだ(まあ、現代では電車内で一人という人は、携帯を触っているのが一般的だ)。

僕は本を取り出して読みながらも横目でチラチラとその美少女を見ていた。すると、その美少女が本を取り出す……ん?この装丁は、「岩波文庫」じゃないか!?

 

いかにも清楚系な美少女が電車内で岩波文庫を読み始める。もうそれだけで僕は動悸が止まらなくなっていた。電車が発車し、僕は本を読んでいたが、心ここにあらずという感じで、美少女のことばかりが気になっていた。

美少女がトイレに立つ。美少女が戻ってくる。美少女が岩波をほっぽりだしてどこか虚空を見つめる。

と、気がつくと美少女は靴を脱ぎ捨てて椅子の上で正座をしながら(もしかしたらあぐらとかだったかもしれんけど、正座ということにしておいてくれ)、やはり岩波を読む(岩波が何の本なのかもすげー気になる)。おいおい、この足癖の悪さも含めてまたなんとも魅力的ではないか。

 

僕はあまりにも魅力的なその美少女に声をかけようと思った。しかし、これまで培ってきた人見知りがそれを阻む。見知らぬ人間が突然話しかけるのってどうなんだ? そもそも、さっきからこっちが挙動不審になりながら見ているのに気付いているんじゃないか? ……そんなことを考えていると、米原に着いてしまった。

 

よし、米原から更に同じルートであれば声をかけよう。……そう決心した僕はさりげなく美少女を追いかけるようにして次の電車に乗り換える。キャリーバッグを棚の上に置く。

……と、美少女が突然立ち上がり、前の方の車両に行った。どういうことだ。もしかして、ストーキングされてることがバレてしまったのか。やばいやばい。

……冷静に考えてみたが、さすがにそこまではないだろう。おそらく、外の自動販売機になにか飲み物を買いに行ったのだ、そうだそうに違いない。

そして、僕は彼女の後を追うようにして、まだ発車しない電車の外に出る。わざわざキャリーバッグを下に降ろしてだ。買いたくもない飲み物を自動販売機で購入し(僕は自動販売機で飲み物を買うために外に出たのであって、決して美少女を追いかけるために外に出たのではないというアピール!!)、自動販売機のすぐ横の車両に入る(横目でその車両に美少女が座っていることを確認済みだ!!)。

 

美少女がよく見える真横のポジションに座った僕はとりあえず本を取り出して読書のフリをする。電車が出発する。

実際少しは読書は進んだものの、読みかけだった本が読み終わったところで美少女が気になりすぎて新しい本は読めなかった。

美少女は携帯を取り出してちょっと見ていた。携帯を持っていないわけではなくて、携帯を持っているのにもかかわらず岩波を読むという選択をしているわけだ。So good!(?)

よし、話しかけるぞ。話しかけるぞ、話しかけるぞ……と思いつつ、やっぱり僕は挙動不審になることしかできない。

 

(「どこまで行くんですか?」と聞くべきか。いや、これだと会話が次に進まないな。実際僕が興味あることを聞くべきか。

じゃあ、「何の本読んでるんですか?」という質問か? うーん、これはアリかも。いやでも少し堅すぎるような気も。

「あの」とか、「すいません」とかの呼びかけを最初にある程度入れた方がスムーズじゃないだろうか、それともフランクにタメ口で話しかけるとかはどうだろう。歳も近そうだし。いや、さすがに失礼か。うーん。)

 

……そんなことを考えながら僕は立ち上がったり座ったり、服を脱いだり着たり、自分のかばんをのぞいたり、メガネをかけたり外したり。ハタから見ると完全に不審者だったと思う。しかし、僕は声をかけることができなかった。

美少女も声をかけてほしいと思っているのではないかという淡い期待も抱いたが(妄想)、結局声をかけることはできなかった。ちょっと覗き込むようにして何を読んでいるかはギリギリ把握することができた(さすがにあれだけジロジロ見てたら相手も見られていることに気づいてただろう)。

『死せる魂』という本だった。一瞬『死に至る病』かなと思った。キルケゴールなら知っているから、それをネタに話しかけるのもアリかと思ったが、『死せる魂』だと分かって、完全に意気消沈した。

 

話しかけるのはやめにして、僕は美少女を眺めていた。

本に集中している。手帳を取り出して、岩波を見ながら何かメモを取る。本に集中しすぎているのか、姿勢が変わる。隣の空いている椅子も使って横向きに体育座りするようなスタイルで本を読み始める。無邪気で、なんとも可憐だ。

 

……そして、タイムアップだ。地元の駅に着き、僕は泣く泣く電車を降りた。

こうやって話しかけたいけど話しかけられなくてウジウジしている人間は、相手から見たら完全に「ストーカー」として映るんだろうなあとしみじみ思ったわけです。完。

(同じような機会に自然に声をかけられるようにしたいし、ナンパの練習とかした方がいいんですかねやっぱり。僕は何を目指しているのだろう。

満足することが嫌いです

「『足るを知る』という生き方は正しいのかどうか」ということを、だいぶ前からずっと考えていた。

例えば、高校生のとき現国の時間に森鴎外の『高瀬舟』を読んだ。弟殺しの罪を着せられた喜助を
「不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである」
と庄兵衞は評した。

また、ある日ブータン王国の国王が提唱した「国民総幸福量」という概念を知った。それによると発展途上国であるブータンの国民の97%は幸福だということだ。
(これには統計上の偏りがあるので、実際には国民の97%が幸福だと感じているわけではないと後で知ったんだけど。
詳しくは
幸福度は役に立つか? | コラム | 大和総研グループ | 市川 正樹
を参照)

また、ある日『CLANNAD』のアニメを観た。渚の死に絶望した朋也が
「出会わなければ良かったんだ。このまま別々の道を歩いていれば良かった。俺は渚を付き合わず、渚と結婚もしない。そして汐も生まれない。そうすれば、こんな悲しみは生まれなかったのに。出会わなければ、良かった」
と言った。

また、大学受験の現国で出てくる論説文の多くは「近代合理主義批判」の文章であるということを高校の現国の先生から聞いた。現国の文章において多いのが科学技術の進歩によって便利になった反面、その「便利さ」への依存から抜けられなくなるといったものだ。エコロジー的な観点、伝統文化の衰退、ある種の感覚が鈍くなることや、あるいはSFチックな「主体性の喪失」を批判するものがある。そして、もう一つあるタイプの批判が「際限なき欲望の加熱」だ。ムラ社会ではかえって「足るを知る」ことができたかもしれないが、今はマスメディアが際限なく「ブランド」や「消費」といった人々の欲望を掻き立ててしまっている。マスメディアがある以上、その羨望や嫉妬をしないことができない、「目をそらすことのできない」社会なのだ。そこでは「知らぬが仏」ということわざが実感をもって響いてくる。

と、このように、これまで様々な場面において「『足るを知る』という生き方は正しいのかどうか」ということを考えざるをえなくなっている。

本論?

これは、精神分析で言えば「満足」(ラカン曰くは「享楽」)と「欲望」との対立に当たる。「欲望」は「欠如」と似ている。言わば「欠如を埋めたい」のが欲望である。そして、欠如を埋めた状態が「満足」である。精神分析の知見によれば、ヒステリーや強迫神経症のような「神経症」は、満足を遠ざけ、「欲望」を「欲望」のままにする戦略だという。
……って話を展開していこうかと思ったけど、精神分析について詳しいこと忘れたからまあこの話はいいや。

 

言いたいのは、「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方が良い。満足した馬鹿であるよりも、不満足なソクラテスである方が良い」J・S・ミル)みたいな話。
前提として、「人間の一番の目的は幸福である」ということを僕は否定しないけども、その幸福には様々な「質」があると思っている。それは例えば、マズロー欲求段階説で述べたような「低次の欲求」、「高次の欲求」に対応していて、「自己実現」なんかは高い質の幸福なんじゃないかなあと漠然と思う。そして、その場その場で享楽的に日々を楽しむことの「幸福」は、貧しいんじゃないのかなあとも思うこともある。


しかし、更に一歩進んで、幸福に「上下」はあまりないようにも最近は思っている。だから、いろんなタイプの幸福を味わってみる(つまりはいろんな体験をしてみる)のが良いのかなぁとかも思っている。享楽は享楽として、持続性の高い幸福は持続性の高い幸福として、みたいな。

(※「幸福の質」はいろいろ異なるけど、それに「上下」はあるかもしれないし、ないかもしれないなあと、ホリィ・センは決めかねてます。ここからの議論で「幸福の質」に「上下」があるとして語っているところが多いですが、決めかねてるということはご理解ください)

 

「満足」に関する言説への疑い

そんな中で、①「足るを知る」だとか、あるいは②「求めなければ苦しむこともない」だとか、③「一時的でエゴイスティックな快楽はやめて、持続的で利他的な快楽を求めろ」みたいな言説に触れることがまた最近増えた。疑うことが性分になっている自分としては「本当か?」と思ってしまう。それでこのブログを書いている。

まあ、そもそも「疑う」こと自体が不幸に繋がるという話もある。ポジティブ心理学の知見によれば、「考えること→疑うこと→ネガティブ→不幸」という繋がりがあり、「考えないこと→信じること→ポジティブ→幸福」という繋がりがあるっぽい(ちゃんと勉強したわけじゃないから知らんけど)。
だから、そもそもこうやって疑って考えてること自体、不幸に繋がってるんじゃないかとも思うけど、一度考え始めた人間は、考えるのをそう簡単にやめることはできないと思うし、それなら、「考え抜いた」上での幸福を目指そうというのが最近のスタンスだ。その方が先ほど挙げた「質の高い」幸福にも至れるんじゃないかとも思う。(何をもって「質が高い」のか?、「上下」とかないのでは?ってさっき疑ったばっかりだけどさ)

 

欲動はどこへ行くのか?

①「足るを知る」に関してはまあミル先生が反論してくれたとして、②「求めなければ苦しむこともない」の話に移ろう。「求めなければ」ということは、「求めない」という態度を取れということであり、これには一定の正しさもあるように思う。
例えば、「『悲しいから泣く』のではなく、『泣くから悲しい』のだ」(ジェームズ・ランゲ仮説)っていうのがあるんだけど、感情によって行為や態度が規定されるだけでなく、行為や態度によって感情が規定される部分も少なからずある。
学習心理学的な「条件付け」の理論で考えても、例えば「Aという条件があると怒る」を繰り返していると、怒りやすくなってしまう。それはAという条件が「汎化」していく――Aという条件に近い条件になっただけで怒ることになるからだ。つまり、「怒りっぽく」なるわけだ。それを防ぐために、そもそも「怒らない」という態度を努力して身に付けることは一定の正しさがあると思う。

 

しかし、この「求めない」という態度は精神分析的には「抑圧」するということである。
例えば、罵られたときに怒るのはごく普通のことだと思うが、ここでグッとこらえて「怒りを表明しない」という選択をするとき、これは「抑圧」が働いている。精神分析によれば、「抑圧」されたものは回帰してくる。それは症状となって現れるかもしれないし、もっと社会的にまともなものに「昇華」される可能性がある。ただ、リスキーなことには変わりはない。それぐらいなら「怒る」という選択をした方がいいのではないかとも考える。僕にとっては「抑圧」することは無意識下においては何が起こるか分からないという点で恐怖なのだ。
だから、たとえ対人関係的なことを考えて、その場で怒ることはしないにしても、せめてもの「ガス抜き」は必要なんじゃないかと考えている。怒りを怒りのまま、何にも変換せずに溜め込んでしまえば、そのグツグツ煮え立った釜は、いつの日か爆発するんじゃないか、そういう恐れがあるからだ。まあ、怒りではないものに「昇華」できるのが一番いいんだろうけども。

 

「怒り」で考えたけど、これは「性欲」にも言える話かな。フロイトは欲動(Trieb)の種類を「生の欲動」と「死の欲動」に分けたけど、怒りのような攻撃性は「死の欲動」の典型的な表現であり、欲動であるという点では性欲と類似した運命を辿る(抑圧されたり、昇華されたり、みたいな)。

「抑圧されたものの回帰」も一種の幸福に繋がるんであれば、「抑圧」もアリかなとは思うんだけども。なかなかまだ分からないところだ。

 

エゴイズムは悪いのか?

最後に、③「一時的でエゴイスティックな快楽はやめて、持続的で利他的な快楽を求めろ」について。この話に触れたのは性愛についての言説を見たときだ。曰く、「他者をモノのように扱うことで自分の快楽だけを追求するのはやめて、持続的なリレーションシップを築け」みたいな話。
実際に他者を傷つけるか否かということが現実的に絡んでくるのであればまあ分かる話でもあるんだけど、例えば自慰に関してこれを言われたとしたら相当に疑問だ。
自慰においては、僕は「他者を傷つけてもいい」気がしている。なぜなら、そこでは「他者は自分の中にしかいない」からだ。自慰においてまで他者に配慮する必要が果たしてあるのか、いやない。それは他者と接するときにのみに意識すればいいだけの話だ。(普段から自慰で他者を傷つけている人間は、いざ生身の他者に接したときに、傷つけないようにするのは難しい、とは言えるかもしれないけども)
そして、自慰に持続可能性がないかと言われたら、そうでもないんじゃないかとも思う。人は一人では生きられないかもしれない、さりとて人間関係に消極的であっても幸福になることは可能なんじゃないか、と考えるわけだ。
(でもまあ、それも強い個人だけなのかな。寂しく孤独死している人間は実際にいっぱいいるわけだし。(その「寂しい孤独死」の原因に、エゴイズムがある場合もそれなりに多いだろう。)だから、「自慰に持続可能性はない」が主流かもね。)

 

もっと広げて考えよう。同様の問題で僕が気になっている問題は「その場にいない人間の悪口を言っていいかどうか」だ。「その場」においての幸福を追求するために、「その場」にいない人間の悪口を言うわけだが、これが良いのか悪いのかだ。

 

まず先に「悪口を言ってはいけない」という仮想敵の側の主張を確認しておこう。

A.「共通の敵」を作ることによって人は仲良くなれるという理論はあるものの、その「仲良さ」はかりそめのものではないか。いつ自分が「敵」になるか分からない恐怖におびえる、持続可能性のない「幸福」ではないか。というのが僕の仮想敵の主張だ。
B.そして、悪口を言うこと自体も幸福だと僕は主張するわけだが、仮想敵曰く、それは単なるガス抜きに過ぎず、誰かに怒りを向けるという点ではおそらく「質の低い」幸福だという。それを目指すぐらいだったら、もっと寛容な精神を持って、まともな関係による、普遍的な幸福を目指せと奴らは言ってくる。
C.そして、更に実際の問題として考えれば、悪口を言われた人間が傷つくわけではないが、ふとした拍子にその悪口がその人間に伝わってしまう可能性はある。そういう意味でも持続可能性が低いと奴らは主張してくる(奴らとは誰なんだろう)。


うんうん、なるほど。奴らの言うことももっともだ。

しかし、「共通の敵」を作ることが他者と仲良くなるための有効な手段であることはやはり間違いないわけで、そうでもしないと「居場所」が作れない人間にとってはどうなんだろうか。

そして、「ガス抜き」についての議論は先ほどの「抑圧」の話に戻る。「ガス抜き」も大事じゃない?、やっぱり。

微妙な反論しかできてない気がするけど、時には「いない人の悪口を言う」も最適解なんじゃないだろうか。僕の中ではこのあたりが対立している。

 

「持続する幸福」は素晴らしいのか?

最後の最後に、「持続性」というもの自体にも反論しておこう。「持続性」はやっぱり"量"的な概念だ。再度ミルの言葉を引くが「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方が良い。満足した馬鹿であるよりも、不満足なソクラテスである方が良い」において問題にしているのは幸福の"質"である。
粗悪な幸福をいくら持続的に積み重ねたところで、やはり粗悪でしかない。(例えば、ご飯をいっぱい食べるのを永遠にできたとしても、それでは「豚」にしかなれない。これは量的な軸を脱せていない。)
それならば、たとえ一瞬であっても質的な輝きを求める方が良いのではないか、ということだ。

 

あとがき

主張に一貫性がなくてアッチコッチに議論が飛ぶために読みにくい文章で申し訳ないです。
というのは、僕はより良い説明原理を求めているだけなので、どちらか一方の主張だけをするみたいなことはゲームでもない限りはできない性分なんです。Aの立場とBの立場とがあるとすれば、Aの立場の良いところ悪いところ、Bの立場の良いところ悪いところ、それぞれを見ないと気が済まないし、最終的な「解」は往々にして中庸、つまりは「折衷案」だと思うわけです。個人的な感情としては「満足することが嫌い」なわけですが、それはあくまで個人的な感情だったということです。