満足することが嫌いです

「『足るを知る』という生き方は正しいのかどうか」ということを、だいぶ前からずっと考えていた。

例えば、高校生のとき現国の時間に森鴎外の『高瀬舟』を読んだ。弟殺しの罪を着せられた喜助を
「不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである」
と庄兵衞は評した。

また、ある日ブータン王国の国王が提唱した「国民総幸福量」という概念を知った。それによると発展途上国であるブータンの国民の97%は幸福だということだ。
(これには統計上の偏りがあるので、実際には国民の97%が幸福だと感じているわけではないと後で知ったんだけど。
詳しくは
幸福度は役に立つか? | コラム | 大和総研グループ | 市川 正樹
を参照)

また、ある日『CLANNAD』のアニメを観た。渚の死に絶望した朋也が
「出会わなければ良かったんだ。このまま別々の道を歩いていれば良かった。俺は渚を付き合わず、渚と結婚もしない。そして汐も生まれない。そうすれば、こんな悲しみは生まれなかったのに。出会わなければ、良かった」
と言った。

また、大学受験の現国で出てくる論説文の多くは「近代合理主義批判」の文章であるということを高校の現国の先生から聞いた。現国の文章において多いのが科学技術の進歩によって便利になった反面、その「便利さ」への依存から抜けられなくなるといったものだ。エコロジー的な観点、伝統文化の衰退、ある種の感覚が鈍くなることや、あるいはSFチックな「主体性の喪失」を批判するものがある。そして、もう一つあるタイプの批判が「際限なき欲望の加熱」だ。ムラ社会ではかえって「足るを知る」ことができたかもしれないが、今はマスメディアが際限なく「ブランド」や「消費」といった人々の欲望を掻き立ててしまっている。マスメディアがある以上、その羨望や嫉妬をしないことができない、「目をそらすことのできない」社会なのだ。そこでは「知らぬが仏」ということわざが実感をもって響いてくる。

と、このように、これまで様々な場面において「『足るを知る』という生き方は正しいのかどうか」ということを考えざるをえなくなっている。

本論?

これは、精神分析で言えば「満足」(ラカン曰くは「享楽」)と「欲望」との対立に当たる。「欲望」は「欠如」と似ている。言わば「欠如を埋めたい」のが欲望である。そして、欠如を埋めた状態が「満足」である。精神分析の知見によれば、ヒステリーや強迫神経症のような「神経症」は、満足を遠ざけ、「欲望」を「欲望」のままにする戦略だという。
……って話を展開していこうかと思ったけど、精神分析について詳しいこと忘れたからまあこの話はいいや。

 

言いたいのは、「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方が良い。満足した馬鹿であるよりも、不満足なソクラテスである方が良い」J・S・ミル)みたいな話。
前提として、「人間の一番の目的は幸福である」ということを僕は否定しないけども、その幸福には様々な「質」があると思っている。それは例えば、マズロー欲求段階説で述べたような「低次の欲求」、「高次の欲求」に対応していて、「自己実現」なんかは高い質の幸福なんじゃないかなあと漠然と思う。そして、その場その場で享楽的に日々を楽しむことの「幸福」は、貧しいんじゃないのかなあとも思うこともある。


しかし、更に一歩進んで、幸福に「上下」はあまりないようにも最近は思っている。だから、いろんなタイプの幸福を味わってみる(つまりはいろんな体験をしてみる)のが良いのかなぁとかも思っている。享楽は享楽として、持続性の高い幸福は持続性の高い幸福として、みたいな。

(※「幸福の質」はいろいろ異なるけど、それに「上下」はあるかもしれないし、ないかもしれないなあと、ホリィ・センは決めかねてます。ここからの議論で「幸福の質」に「上下」があるとして語っているところが多いですが、決めかねてるということはご理解ください)

 

「満足」に関する言説への疑い

そんな中で、①「足るを知る」だとか、あるいは②「求めなければ苦しむこともない」だとか、③「一時的でエゴイスティックな快楽はやめて、持続的で利他的な快楽を求めろ」みたいな言説に触れることがまた最近増えた。疑うことが性分になっている自分としては「本当か?」と思ってしまう。それでこのブログを書いている。

まあ、そもそも「疑う」こと自体が不幸に繋がるという話もある。ポジティブ心理学の知見によれば、「考えること→疑うこと→ネガティブ→不幸」という繋がりがあり、「考えないこと→信じること→ポジティブ→幸福」という繋がりがあるっぽい(ちゃんと勉強したわけじゃないから知らんけど)。
だから、そもそもこうやって疑って考えてること自体、不幸に繋がってるんじゃないかとも思うけど、一度考え始めた人間は、考えるのをそう簡単にやめることはできないと思うし、それなら、「考え抜いた」上での幸福を目指そうというのが最近のスタンスだ。その方が先ほど挙げた「質の高い」幸福にも至れるんじゃないかとも思う。(何をもって「質が高い」のか?、「上下」とかないのでは?ってさっき疑ったばっかりだけどさ)

 

欲動はどこへ行くのか?

①「足るを知る」に関してはまあミル先生が反論してくれたとして、②「求めなければ苦しむこともない」の話に移ろう。「求めなければ」ということは、「求めない」という態度を取れということであり、これには一定の正しさもあるように思う。
例えば、「『悲しいから泣く』のではなく、『泣くから悲しい』のだ」(ジェームズ・ランゲ仮説)っていうのがあるんだけど、感情によって行為や態度が規定されるだけでなく、行為や態度によって感情が規定される部分も少なからずある。
学習心理学的な「条件付け」の理論で考えても、例えば「Aという条件があると怒る」を繰り返していると、怒りやすくなってしまう。それはAという条件が「汎化」していく――Aという条件に近い条件になっただけで怒ることになるからだ。つまり、「怒りっぽく」なるわけだ。それを防ぐために、そもそも「怒らない」という態度を努力して身に付けることは一定の正しさがあると思う。

 

しかし、この「求めない」という態度は精神分析的には「抑圧」するということである。
例えば、罵られたときに怒るのはごく普通のことだと思うが、ここでグッとこらえて「怒りを表明しない」という選択をするとき、これは「抑圧」が働いている。精神分析によれば、「抑圧」されたものは回帰してくる。それは症状となって現れるかもしれないし、もっと社会的にまともなものに「昇華」される可能性がある。ただ、リスキーなことには変わりはない。それぐらいなら「怒る」という選択をした方がいいのではないかとも考える。僕にとっては「抑圧」することは無意識下においては何が起こるか分からないという点で恐怖なのだ。
だから、たとえ対人関係的なことを考えて、その場で怒ることはしないにしても、せめてもの「ガス抜き」は必要なんじゃないかと考えている。怒りを怒りのまま、何にも変換せずに溜め込んでしまえば、そのグツグツ煮え立った釜は、いつの日か爆発するんじゃないか、そういう恐れがあるからだ。まあ、怒りではないものに「昇華」できるのが一番いいんだろうけども。

 

「怒り」で考えたけど、これは「性欲」にも言える話かな。フロイトは欲動(Trieb)の種類を「生の欲動」と「死の欲動」に分けたけど、怒りのような攻撃性は「死の欲動」の典型的な表現であり、欲動であるという点では性欲と類似した運命を辿る(抑圧されたり、昇華されたり、みたいな)。

「抑圧されたものの回帰」も一種の幸福に繋がるんであれば、「抑圧」もアリかなとは思うんだけども。なかなかまだ分からないところだ。

 

エゴイズムは悪いのか?

最後に、③「一時的でエゴイスティックな快楽はやめて、持続的で利他的な快楽を求めろ」について。この話に触れたのは性愛についての言説を見たときだ。曰く、「他者をモノのように扱うことで自分の快楽だけを追求するのはやめて、持続的なリレーションシップを築け」みたいな話。
実際に他者を傷つけるか否かということが現実的に絡んでくるのであればまあ分かる話でもあるんだけど、例えば自慰に関してこれを言われたとしたら相当に疑問だ。
自慰においては、僕は「他者を傷つけてもいい」気がしている。なぜなら、そこでは「他者は自分の中にしかいない」からだ。自慰においてまで他者に配慮する必要が果たしてあるのか、いやない。それは他者と接するときにのみに意識すればいいだけの話だ。(普段から自慰で他者を傷つけている人間は、いざ生身の他者に接したときに、傷つけないようにするのは難しい、とは言えるかもしれないけども)
そして、自慰に持続可能性がないかと言われたら、そうでもないんじゃないかとも思う。人は一人では生きられないかもしれない、さりとて人間関係に消極的であっても幸福になることは可能なんじゃないか、と考えるわけだ。
(でもまあ、それも強い個人だけなのかな。寂しく孤独死している人間は実際にいっぱいいるわけだし。(その「寂しい孤独死」の原因に、エゴイズムがある場合もそれなりに多いだろう。)だから、「自慰に持続可能性はない」が主流かもね。)

 

もっと広げて考えよう。同様の問題で僕が気になっている問題は「その場にいない人間の悪口を言っていいかどうか」だ。「その場」においての幸福を追求するために、「その場」にいない人間の悪口を言うわけだが、これが良いのか悪いのかだ。

 

まず先に「悪口を言ってはいけない」という仮想敵の側の主張を確認しておこう。

A.「共通の敵」を作ることによって人は仲良くなれるという理論はあるものの、その「仲良さ」はかりそめのものではないか。いつ自分が「敵」になるか分からない恐怖におびえる、持続可能性のない「幸福」ではないか。というのが僕の仮想敵の主張だ。
B.そして、悪口を言うこと自体も幸福だと僕は主張するわけだが、仮想敵曰く、それは単なるガス抜きに過ぎず、誰かに怒りを向けるという点ではおそらく「質の低い」幸福だという。それを目指すぐらいだったら、もっと寛容な精神を持って、まともな関係による、普遍的な幸福を目指せと奴らは言ってくる。
C.そして、更に実際の問題として考えれば、悪口を言われた人間が傷つくわけではないが、ふとした拍子にその悪口がその人間に伝わってしまう可能性はある。そういう意味でも持続可能性が低いと奴らは主張してくる(奴らとは誰なんだろう)。


うんうん、なるほど。奴らの言うことももっともだ。

しかし、「共通の敵」を作ることが他者と仲良くなるための有効な手段であることはやはり間違いないわけで、そうでもしないと「居場所」が作れない人間にとってはどうなんだろうか。

そして、「ガス抜き」についての議論は先ほどの「抑圧」の話に戻る。「ガス抜き」も大事じゃない?、やっぱり。

微妙な反論しかできてない気がするけど、時には「いない人の悪口を言う」も最適解なんじゃないだろうか。僕の中ではこのあたりが対立している。

 

「持続する幸福」は素晴らしいのか?

最後の最後に、「持続性」というもの自体にも反論しておこう。「持続性」はやっぱり"量"的な概念だ。再度ミルの言葉を引くが「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方が良い。満足した馬鹿であるよりも、不満足なソクラテスである方が良い」において問題にしているのは幸福の"質"である。
粗悪な幸福をいくら持続的に積み重ねたところで、やはり粗悪でしかない。(例えば、ご飯をいっぱい食べるのを永遠にできたとしても、それでは「豚」にしかなれない。これは量的な軸を脱せていない。)
それならば、たとえ一瞬であっても質的な輝きを求める方が良いのではないか、ということだ。

 

あとがき

主張に一貫性がなくてアッチコッチに議論が飛ぶために読みにくい文章で申し訳ないです。
というのは、僕はより良い説明原理を求めているだけなので、どちらか一方の主張だけをするみたいなことはゲームでもない限りはできない性分なんです。Aの立場とBの立場とがあるとすれば、Aの立場の良いところ悪いところ、Bの立場の良いところ悪いところ、それぞれを見ないと気が済まないし、最終的な「解」は往々にして中庸、つまりは「折衷案」だと思うわけです。個人的な感情としては「満足することが嫌い」なわけですが、それはあくまで個人的な感情だったということです。